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あの子が故郷に帰るとき

第1話 『私と一輪車』

1984年5月8日。私は福島県の小さな町で産まれました。3歳の頃に山形の鶴岡市に引っ越しました。両親は小さな美容院を営んでいて、美容院の隣には祖父が経営する整骨院がありました。週に1回は母が散髪をしてくれて、祖父のところに遊びに行けばその都度体のメンテナンスをしてくれました。そのおかげで、髪が伸びてきて目に入って邪魔だなぁと思ったことは一度もないし、首や肩に違和感を抱えたことのない幼少期を過ごせました。

小学校時代は一輪車に没頭しました。一輪車に捧げたと言っても過言ではないかも。一輪車にどれだけ乗れるか、乗りこなせるかが学校での自分の存在意義に直結していたのです。一輪車に『直立不動』という技があります。その名の通り、一輪車に乗ったまま直立不動を維持するんです。もちろん何もせずに直立でいるのは不可能なので、前に、後ろに、こまめにペダルを漕いで一見直立を維持するんです。私はこの、前に、後ろに、こまめにペダルを漕ぐことに関しては町内で神童と呼ばれていました。本当にこまめにミリ単位で前後する程度なので、少し遠目から見たら一輪車に乗ったまま本当に直立しているように見えるのです。

こんな思い出があります。中学2年生の春、いつものようにお店が閉まった後に母に髪を切ってもらっていたら誰かがお店のドアを叩くのです。母が出るとそこには外国人の男性が一人。言葉はわかりませんでしたが、髪を切ってもらえないか、と言わんとしているのはジェスチャーでわかりました。相当焦っているようでした。優しい母は素性もわからない外国人を招き入れ、私の髪を先に切り「終わるまで待ってて」と、伝わるはずのない日本語で伝えました。彼は理解したらしく、母が私の髪を切る様をずっと見ていました。

髪を切り終わり母が私のケープを取ると、彼は「ワオ!」と大声をあげて立ち上がりました。首から下がケープに隠されていて見えなかった私が、一輪車に乗っていたことに驚いたようでした。私は髪を切ってもらう時はいつも一輪車に乗っていました。そう、『直立不動』をやりながら。彼は、君は素晴らしい、というニュアンスのことを恐らく私に外国語で言い、チケットを2枚くれました。彼は日本を巡業中のロシアのサーカス団員でした。

翌日彼からもらったチケットを片手に初めてサーカスを見に行きました。そこには私が見たことがない世界が広がっていました。地上から10メートルくらい上に張られたロープを一輪車で渡っているのは紛れもなく彼でした。
遥か上空で華麗に一輪車を乗りこなし、観客を見下ろす彼は美しすぎてこの世のものとは思えませんでした。ロープの中腹で彼は『直立不動』を披露し、場内は私が今まで耳にしたことのない歓声と拍手が沸き起こりました。そして私に気付いた彼はあろうことか、私に向かって投げキッスをしてくれたのです。投げキッスをファーストキスにカウントしていいなら、私のファーストキスはこの時でした。あの時、確実に彼の唇と触れ合った感覚がありました。彼の想いに応えたいと思った私は名前を叫ぼうと思ったのですが彼の名前を知りませんでした。でも何かを彼に伝えたいと思ったのでしょう。

私は「ロシア〜」と叫んでいました。お腹の底から国名を叫んだのは後にも先にもこの時だけだったと思います。

天井の照明と彼がちょうど重なって見えたのもあったのかもしれませんが、彼は本当に格好よくて、とてもきれいで艶がある髪をしていました。ああ、あの綺麗で整った髪は、昨日私のお母さんが切ったんだなぁ。彼は今日この本番に臨むためにどうしても昨日のうちに散髪しておきたかったのでしょう。このとき私は決意したのです。

私も美容師になろう。

今思えばあのロシア人に会わなければ今の私はなかったのかもしれません。
高校卒業と同時に私は一輪車を置き、上京して美容師の専門学校へ通い始めました。東京では田町に住みました。田舎で育った私には田と町の組み合わせでできた地名は東京1年目に住むにはぴったりのように思えました。下井草、にも惹かれましたがお米が好きだったので、田、が付く田町を選びました。
住んでみて3日でその決断は後悔へと変わりました。田町は地名のイメージとは全く真逆の町でした。多魔血、だったのです。

歩道を自転車が猛スピードで駆け抜け、鼓膜を破らんばかりにベルの音が鳴り響き、不用意に車道へ降りようものなら容赦なくクラクションの音が私の心臓を突き刺し、駅前では区長を名乗る老人が常にベンチで横になりながら演説をしているのです。
母に毎晩泣きながら電話をしました。何度帰りたいと言ったことでしょう。でも母は感情的になる私に、「帰っておいで」と言うことは一度もありませんでした。うん、うん、と話を聞き、優しく私を諭すのです。本当に母には感謝しています。母は私が東京でこうなることが、予めわかっていたのかもしれません。

母は泣きじゃくって言葉に詰まる私にいつも、「俺ら東京さ行ぐだ」(作詞・作曲/吉幾三)を歌ってくれました。

この歌を2人で歌うと自然と笑い合えて幸せな気持ちになれました。母はこの歌が持つ効果もわかっていたんだと思います。今でも仕事がうまくいかなかった時や、何かに悩んだ時、必ずこの歌を歌います。

無事専門学校を卒業して私は代々木の美容院に就職しました。20歳でした。朝8時から夕過ぎまで働き、夜は誰もいない真っ暗な美容院で24時までカットの練習。24時には絶対にお店を閉めないといけないので、練習が足りない時は、道端で酔いつぶれているサラリーマンの髪をカットしたりもしました。もちろんお代は頂いていません。日々の努力の成果もあって、私はみるみる力を付けて、同期入店の子達の中で一番早くスタイリストとしてデビューできることになりました。23歳でした。デビューの前の日は眠れませんでした。いてもたってもいられず、酔いつぶれているサラリーマンを探して夜の街を徘徊したことは今でも鮮明に覚えています。不安で不安で仕方なかったのですが、ハサミを持って夜の街を徘徊していると、自然と自信が湧いてきました。今まで自分がやってきたことを信じよう。私がこの多魔血で、いえ、田町で吸収したこと、経験したことを全部ぶつけよう、そう思えたのです。多魔血は田町になったのです。そしてとうとうデビューの日、あの事件は起きました。

私の記念すべき初めてのお客様は菅原さんという方でした。42歳で田町で工務店を経営していて、私が深夜の徘徊カットをしている時に知り合ったおじさんでした。山形の方で、山形育ちの私をとても可愛がってくれて、私がデビューする時は1番に切って欲しい、と2年前から約束をしていました。その日は開店の10時にお店に来てくれて、なんだか私の為にお店が開いたような、そんな幸せな気持ちになりました。菅原さんを席に案内し、髪を洗い、さぁスタイリストとしての記念すべき初カットをしようとしたその時です、自分のハサミがないのです。美容院に就職した時に母がプレゼントしてくれたハサミでした。昨夜手入れをして、自分のポーチに入れたのをはっきりと覚えています。前日の夜中に徘徊した時に持っていたハサミは父がくれたものだったので間違いはありません。自分のロッカーをいくら探しても出て来ません。信じたくありませんでしたが、誰かに隠されたとしか考えられませんでした。トントン拍子でデビューが決まった私を良く思っていない同期がいる、という噂は聞いたことがありました。東京に出て来て5年、やっと自分の夢が叶うこの日に、まさかこんな仕打ちが待ってるとは思いませんでした。

「どすた?」

菅原さんが優しく、東北訛りで声をかけてくれた瞬間私の中で堪えていたものが一気に崩壊しました。一目も憚らずその場にしゃがみ込み泣いてしまいました。

「どすたのさ綾ちゃん。おれのあだまくさがったが?」

この言葉を最後まで聞いていたか記憶ははっきりしていません。言い終わる前にお店を飛び出していたような気もします。でも菅原さんの言葉は耳の奥に温かく残っていたのは覚えています。

無我夢中で走った私は歩いたことのない街にいました。住宅街の中にある小さな公園が目に止まりました。ベンチに腰掛け携帯を見たらお店からの着信が36件。かけ直す気も戻る気も起きなくなる件数。これからどうしようか呆然としていると、公園の片隅に乗り捨てられた一輪車が目に飛びこんできました。迷い込んだ霧に覆われた森の中に射す一筋の陽の光とでも言いましょうか、あの時の私にはあの一輪車がそんな風に見えたんです。光に導かれるかのように私は一輪車の前に立っていました。私の周りには一輪車を大事にする人しかいなかったので、こんなにひどく汚れた一輪車を見たのは初めてでした。そっと立てて、何年か振りに一輪車に股がりました。

――田舎に帰ろう。

霧が晴れてひとつの答えが見つかったのです。そう、直立不動をしながら。

気がついた時には私は一輪車に股がり東北自動車道の入り口にいました。ゲートの係員のおじいさんは私に気付いていません。一瞬の目を盗んで私は東北自動車道へ飛び込みました。

「痛っ!」

ゲートが上がるはずはありませんでした。私の一輪車にETCは搭載されていないのですから。東京が私を山形に帰すまいとしているように思えました。道路に這いつくばりながら、ああ私はこのまま車に轢かれて死ぬんだ。どうせ轢かれるなら東北ナンバーの車がいい。この体勢で轢かれたら子供の頃よく見かけた干涸びた蛙みたいになっちゃうんだろうな。そんなことを考えていると一台の車が私の足下に停車しました。バタンとドアが閉まり、車から下りる足音が聞こえました。足の着地音の大きさから、なかなかの高さから降りたのがわかりました。トラックだろうなぁ、と顔の前面でアスファルトの生暖かさを感じながら思いました。

「大丈夫が?」

聞き覚えのある東北訛りの声が私の体を起こしました。誰なのか確認する前に両方の目と鼻から涙が溢れてきました。菅原さんだ。

顔を上げて振り返ると全く知らないおじさんでした。菅原さんだと勘違いしたことへのショックと、見ず知らずの東北訛りのおじさんの優しさのせいで私の感情はもう手がつけられない状態になっていました。

「どごまで行きたいの?」
「山形に帰りたい・・・」
「乗せでぐよ」
そう言うと、おじさんは私と一輪車をトラックの荷台に乗せてくれました。乗り込む際、ナンバープレートが山形ナンバーなのを見てまた涙が溢れてきました。

私と一輪車を乗せたトラックは東北自動車道を走り出しました。
ここで私の東京の生活は終わりを迎えました。不思議と寂しさがこみ上げてきました。

「さよなら。そしてありがとう。東京」

そう心の中でつぶやきました。直立不動をしながら……。

荷台で揺られること数時間、鶴岡で降りたいと言い出せなかった私は酒田市に着きました。しばらくおじさんが勤める運送会社でお世話になりました。肉体労働は初めてでしたが、あそこで過ごした5日間は東京で傷ついた私の心を癒してくれるのに充分でした。飛び交う山形弁、一日三食出るいも煮、休憩時間の玉こんにゃく投げ。今でも昨日のことのように思い出せます。いつまでもここのお世話になる訳にはいかないなぁ、と思ったタイミングで母から電話がかかってきました。美容院の店長から事情を聞いた母は、東京の部屋を引き払ってくれていました。そして早く帰っておいで、とだけ言ってくれました。私は5年振りに鶴岡に帰ることにしました。

鶴岡に帰ってから私は実家の美容院を手伝いながら、亡くなった祖父がやっていた整骨院を改築し、そこで町の子供達に一輪車を教えることにしました。この町と一輪車に何か恩返しがしたい、そう思ったんです。始めた当初は生徒は4,5人でしたが、10年経った今では常時50人はいます。延べ1,684人の子達に一輪車を教えてきました。今ではすっかり鶴岡は一輪車の町になりました。2年前には、WSW(世界一輪車機構)から一輪姉妹都市にも認定されました。年に一度の鶴岡祭りでは、首から下がケープに隠された子供達が一輪車でパレードをするのが名物になり、毎年沢山の観光客の方が訪れます。

今年の2月、私宛に小さな小包が届きました。差出人は不明。開けてみると、中身はハサミでした。そうです、スタイリストデビューのあの日、なくなった私のハサミです。手紙もメッセージも添えられていませんでしたが、この10年間丁寧に手入れされていたのは手にした瞬間わかりました。それだけで充分相手の気持ちは伝わりました。

母は今年で67歳になりますが、今でも現役でお店に立っています。私も10年振りに返ってきた母からのプレゼントのハサミを片手にお店を手伝っています。今年の10月には念願だった自分のお店も完成します。一輪車に乗りながらお客さんの散髪をするお店にしようと思っています。

お店の名前はもちろん、『直立不動』です。

 

おわり

あの子が故郷に帰るとき
じろう

青森県弘前市出身。2006年4月に結成したシソンヌのボケ担当。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。東京NSC11期生。2014年第7回キングオブコント王者。演技力の高いコントを得意とする。著書に“川嶋佳子”名義で自身初の日記小説として書籍化した『甘いお酒でうがい』(KADOKAWA)がある。また7月からTBSドラマ『カンナさーん!』にレギュラー出演、11~12月には舞台『スマートモテリーマン講座』の出演も決定。2018年8/1~26まで赤坂RED/THEATERでシソンヌライブの一カ月公演も決定している。
http://sissonne.jp/

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