COLUMN
あの子が故郷に帰るとき
是恒さくら

31歳

作家、会社員

第5話 『冬子と元・冬子』

初めまして。是恒さくらと言います。

私は1986年の2月25日に広島で生まれました。私が生まれた日、広島は数十年振りの歴史的な寒波に襲われたらしく、大雪の中、父が母を車に乗せて病院まで連れて行ったそうです。「病院に着いた時ちょうどラジオからはアリスの『冬の稲妻』が流れていたんだ」という話を父から何度も聞かされました。生まれた時の私の体温は異常に低かったそうです。

私の名前を決める際に父は、冬に生まれているし歴史的寒波の日だし「冬の稲妻」が流れていたし体温も低かったので、『冬子』とつけたがったそうですが、それは親戚一同の猛反対にあって却下されたそうです。母が春に咲く桜のように明るく花やかな子になってほしいという意味を込めて、『さくら』とつけてくれました。

今の話でもわかると思いますが、父は悪く言えば適当、良く言えば自由な人でした。父の性格は年を取った親戚からは理解され難かったらしく、父がいない席ではよく父の悪口を耳にしました。母も父には色々と苦労させられていたようでしたが、「国際結婚してるつもりでいる」とよく言っていました。なんだかんだ仲は良かったんだと思います。

8歳の頃、父親の仕事の関係で埼玉県の熊谷市に引越しました。熊谷で過ごした十数年間は決して忘れられないものになりました。

小学校6年生の頃、母が病気で他界しました。涙ってこんなに出るんだと思うくらい泣きました。いつもTシャツにズボンにサンダルのだらしない格好をした父しか見たことがなかったので、喪服姿で髪をセットした父を見て、母が好きになった気持ちが初めて理解できました。

お葬式の夜、私は一人で寝るのが嫌でした。でも父と寝るのもなんだか恥ずかしかったので、我慢して一人で寝ようとしていたら、父が枕を持って私の部屋を訪ねてきました。私は一瞬むすっとしたふりをしましたが、本当はとても嬉しかったんです。その夜何年か振りに父と一緒に寝ました。母なしで2人きりで寝たのはその時が初めてだったかもしれません。父は私の横で私より泣きました。大泣きする父を見て、私も泣きました。

父は仕事で忙しく私と過ごす時間はあまりありませんでした。仕事を沢山することで母がいない寂しさを紛らわせようとしてるのが私はわかっていたので、一人でいることの寂しさは我慢できました。

中学2年の冬、私の誕生日に父は突然子犬を連れて帰ってきました。私が一人でいるのが可哀想に思ったのでしょう。私は新しい家族ができて嬉しかったのですが、来年受験を控えた私にこのタイミングで犬をプレゼントする父の無神経さが少しひっかかりました。確かに今は子犬です。でも犬にあまり詳しくない私でも、この子はとても大きくなる犬だ、というのは見た目でなんとなくわかりました。父は私に子犬を渡す時に「冬子だ、可愛がってな。」と言いました。一番の楽しみである名付けを既に済ませていたことも私には信じられませんでした。しかも私につける予定だった名前をつけていたんです。

私と冬子の生活が始まりました。

冬子は雄のシベリアン・ハスキーでした。そうです、雄だったんです。冬子はどんどん大きくなり、町でも有名な暴れん坊になりました。名前が雌なので近所で何か問題を起こしても、おてんばな子だねぇ、で皆さん済ませてくれました。もし雄だということがばれたらきっとお役所様に訴えらるんじゃないかと私はビクビクしていました。なるべく人に見られないようにお散歩は早朝か深夜にするようにし、冬子がおしっこをするときは雄だということがばれないように、片足を上げる様をなんとか隠そうと必死でした。

初めての夏に事件が起きました。熊谷の猛暑に冬子がダウンしたのです。私も元・冬子ですし、生まれつき夏は本当に苦手でした。寒いのは全く苦じゃないのです。生まれたときの季節、状況とかもその人に何かしら影響を与えるのかもしれませんね。

私と冬子は似ていました。2人とも毎年夏になると暑さで動けなくなり、冬は元気に走り回ります。父が「冬子!」と呼ぶと、元・冬子だからなのか、私も振り向いてしまうことも何度かありました。

冬子が4歳くらいからだったと思います。5月になると遠くを見つめるんです。この先に夏が待っているのがわかるらしく、うんざりした感じで遠くを見つめるんです。私もその横に座って一緒に遠くを見つめるんです。

夏場は冬子にできるだけのことをしてあげました。毛を冬子が嫌がるぎりぎりまで短く刈ってあげたり、休み時間の度にバケツ水をかけに帰ってあげたり。それでも冬子の夏嫌いは治りませんでした。

私が19歳、冬子が5歳の時です。冬子がとうとう狂ってしまいました。

5月から落ち着きがなくなり、家の物を蹴散らすようになりました。6月には犬用のバリカンをくわえて突然失踪し、数日後ほぼ丸刈りで帰ってきました。刈って下さった方には感謝の気持ちしかありません。突然目の前に謎の大型犬がバリカンをくわえて現れたんです。さぞ怖かったことと思います。

7月には地元の小学校のプールに勝手に忍び込み、狼が出た、とニュースになりました。そして8月、冬子は倒れて動かなくなりました。

私は病院へ冬子を連れて行きました。お医者様が「熊谷で育てるのは限界なんじゃないですか?」と言いました。冬子を生まれ故郷に帰してあげたい、そう思いました。

「シベリアだったら元気に生活できるんですか?」

私は聞きました。すると、

「この子シベリアン・ハスキーじゃないですよ」

とお医者様は言ったのです。私は耳を疑いました。

「え?」

「この子、アラスカン・マラミュートです」

「アラスカン・マラミュート……。アラスカン・マラミュート………アラスカン・マラミュート……?」

3回聞き返したのは覚えています。それくらい耳慣れない言葉でした。冬子を手にしたあの日からてっきりシベリアン・ハスキーだと決め込んでいたので、あなたは日本人じゃありません、と言われたのと同じくらいの衝撃を受けました。冬子の故郷はアラスカだったのです。帰り際お医者様は言いました。

「冬子ちゃん、雄ですよ」

「知ってます」

 

家に帰り父に冬子のことを恐る恐る相談すると、父はアラスカに行くのが当たり前のように話を進めてくれました。

私は父の力も借りて、冬子をアラスカに連れて行けるだけのお金を貯めました。

冬子が憂鬱な気持ちになり始める5月の前までには!と、目標を定めて必死にバイトをしました。そして2006年の1月22日、ついに冬子をアラスカに連れて行く日がやってきました。それはつまり父と冬子がお別れをする日ということです。お手、おすわり、ドア止め、など定番の芸は私が大体教えたのですが父が唯一冬子に教えた芸がありました。それは冬子と向かい合って四つん這いになると、冬子が父のおでこに右手を置く、という謎の芸でした。ほぼ、お手なのですが、父はその芸を『洗礼』と呼んでいました。いつもは5秒くらいやるとじゃれ合う2人なのですが、別れの日は10分くらいそのまま停止していました。きっと冬子の右手を通じて父と冬子は会話をしていたんだと思います。

空港までは父が車で送ってくれました。成田から飛び立ち、カナダを経由して私達はついにアラスカに上陸しました。

空港で冬子を受け取り、ゲージから出すと冬子は私に飛びついてきました。見る人が見たら襲われているようにしか見えないくらいの勢いでした。

町に出ると冬子は、辺り一面に広がる雪を見て跳ね回りました。喜ぶ、というよりは、狂喜乱舞に近い感じでした。日本では冬子を興味の目で見る人は沢山いましたが触りにくる人はほとんどいませんでした。ですが、アラスカでは跳ね回る冬子を見て子どもたちが集まってきて、大人たちもそれを見て笑っているのです。一瞬、無茶をする子どもに本当に腹が立って襲っているようにも見えましたが、親が笑っていたので私もやり過ごしました。

アラスカに連れて来て本当に良かったと思いました。ここがこの子のいるべき場所なんだなぁって。

私は越谷で働いているエスキモー(自称)の知り合いの女性を頼ってメアリーズイグルーに向かいました。

冬子と最後の何日かを過ごしたら私は日本に帰る気でいました。しかし離れられないのです。冬子を置いていくことができないのです。

当初2週間でお願いしていたホームステイ期間はどんどん伸びていきました。12日目には町の人が大勢集まってお別れパーティまでしてもらったので滞在1カ月を過ぎた時は本当に気まずかったです。ホストファミリーも、初めのうちは「好きなだけいなさい」と言ってくれていたのですが。1カ月経った頃にはいつまでいるんだろう、という顔をしていました。

迷惑をかけたくないから帰りたい。でも冬子と離れたくないから帰りたくない。

そんな生活が2週間くらい続きました。部屋から出る時間も減り、いよいよどうすればいいかわからなくなっていた時です、ホストファミリーのおじいちゃんが私を手招きして呼ぶのです。おじいちゃんは私の名前がわからないのか、手招きしかしません。私は私でおいじちゃんの名前は聞いていないので、ホストファミリーのおじいちゃん、としか呼びようがありませんでした。

「………」

「なに?ホストファミリーのおじいちゃん」

「……………」

「どこに連れて行くの?ホストファミリーのおじいちゃん」

「……………」

「ホストファミリーのおじいちゃんってば!!」

おじいちゃんは私を森に入ってすぐのところにある小屋に連れていきました。飾りだけの豆電球が1つぶら下がっているだけで中はほぼ真っ暗。私のキック一撃で壊れそうなくらい古い小屋でした。ホストファミリーのおじいちゃんは何も言わず私を中に招き入れ、そして、小屋の奥に立てかかった古い木箱のようなものの中から、銃を取り出したのです。

――追い出されるときが来たんだ

そう思いました。映画では何度も見たことがある、銃をカチャッ、とする音を初めて生で聞きました。ホストファミリーのおじいちゃんは私を山奥に連れて行きました。にこにこしていたので、危険な目に遭わせるつもりはないんだろうなと思っていましたが、次第に猟奇的な微笑みにも見えて来て生きた心地がしませんでした。

山道を歩いて20分くらい経った時だったと思います。ホストファミリーのおじいちゃんは突然口を閉じて身を屈めるよう指示をしてきました。とても嫌な予感がしました。映画では何度も見たことがある、シー!です。普段何かから身を隠すことなんて滅多にありません。何かいたんだろうな、と直感でわかりました。

 

熊でした。

 

「熊だ……!」と認識した瞬間、ものすごい爆音が私の鼓膜を突き破りました。何が起こったのか、理解するのに少し時間がかかりました。ホストファミリーのおじいちゃんのほうを見ると、私ににこりと微笑みました。熊のほうに目を戻すと、熊はもう倒れていました。

まるで映画でした。テレビを通してしか見たことがない、非現実的な世界が突然私の目の前に現実として起きたのです。

あの日から私は変わりました。

それまで本当になんとなく、人生を過ごしていたんだと思います。初めて目標ができたのです。銃を撃ってみたい。

ここからの私の行動力は今思い返しても自分とは思えません。目標は人を変えるんです!

まず父に電話をしました。「銃を撃ってみたい」と伝えると父は、「いーね!」とだけ言い快諾してくれました。そして私は銃を撃つ資格を得るためにワシントンへと向かいました。ワシントンで銃の講習を受けました。数カ月は受ける覚悟でいたのですが、講習は短期間で終了。銃を撃てる資格を得た喜びと共に、こんなに簡単に銃が撃てるのか、とアメリカに深く根付く銃社会の恐ろしさを身近に感じました。

私はホストファミリーのおじいちゃんの銃を早く撃ちたくてアラスカにすぐ戻りました。ホストファミリーのおじいちゃんに、銃のライセンスを見せると型の古そうな短銃を私にくれました。そのタイミングで失礼は承知で思い切ってホストファミリーのおじいちゃんの名前を聞いてみました。

「Host family no ojichan.What’s your name?」

おじいちゃんは答えました。

「#$%#&%”」

声が渋すぎるのと、発音がネイティブ過ぎて一切聞き取れませんでした。私は一瞬の間のあと、愛想笑いをし、「OK Let’s go host family no ojichan!」としか言うことができませんでした。割と長めの名前だということだけはわかりました。

私の銃生活が始まりました。朝から晩まで撃ちまくりました。木々、看板、人が住んでいなそうな古民家、乗り捨てられた自転車、人じゃなさそうな動くもの、とにかく撃ちまくりました。

あの音、あの衝撃、あの匂い、銃は人を狂わせるんです。

毎日、数百発は撃つので町のタバコ屋さんに毎日銃弾を買いに行きました。これは後に聞いた話なのですが、当時町で私は『Bullet Girl』(弾丸娘)と呼ばれていたそうです。

アラスカでの滞在期間をフルに過ごして帰国して、またアラスカに行ってフルに過ごして帰国して、という生活が始まりました。銃を撃つためだけに生活をしていました。日本にいても銃のことばかり考えていました。銃声を聞くためだけに自衛隊の公開訓練を見に行ったり、耳を突き破るような爆音だけを求めてクラブに行ったりもしました。

銃を撃つ資格がある、というのが私の日本での生活を大きく変えてしまっていました。街で気に入らない人を見ると頭の中でバン!というようになりました。人に道も譲らなくなりました。ぶつかりそうになる人には頭の中でバン!自転車のベルを必要以上に鳴らす人にもバン!割り込みにもバン!お店で店員さんにため口の人にもバン!やる気のない店員にもバン!

私の頭の中の銃を日々撃ちまくりました。

私は冬子のことを忘れてしまっていました。

2015年の2月19日、朝4時頃家の電話が鳴りました。普段なら目が覚めることがないのにその日に限って目が覚めました。まず電話に向かってバン!と言いました。この頃はもう頭の中では満足できず、実際に口に出してバン!というようになっていました。

電話に出ると聞き覚えのある声でした。

「Hi this is host family no ojichan.」

この頃にはホストファミリーのおじいちゃんは、『host family no ojichan』 と名乗るようになっていました。低く渋い声で何か話しているのですが何を言ってるのかわからないのです。一言だけ聞き取れた言葉がありました。

『Fuyuko』でした。

冬子、死んじゃったんだ。

すぐにそう思いました。

アラスカに行けたのは5月の頭頃でした。

空港に着くと私を見かけた人はみんな口々に、「おかえり弾丸娘!」というようなことを言ってくれました。ここ数年定期的にアラスカに来ては銃を撃ちまくって帰る日本人、を知らない人はいませんでした。

そうですよね。本当にどうかしてたんです。

ホストファミリーのおじいちゃんの家に着くとホストファミリーのおじいちゃんは私を抱きしめてくれました。

山の中に冬子のお墓はありました。周りの木が切り倒されていて、日中はずっと陽が射すようにされていました。

泣き崩れました。お母さんが死んだときと同じくらいか、それ以上に泣いたかもしれません。何時間もその場から離れられませんでした。この何年かは銃のことばかりで、冬子がどんな顔で私を見ていたか、私がアラスカにいない間どんな風に過ごしていたか、考えるだけで胸が締めつけられました。

陽が落ちはじめて気温もだいぶ下がってきた頃、ホストファミリーのおじいちゃんは私の肩に上着をかけてくれました。私が顔を上げ振り向くと、いつものように優しい笑顔で微笑んでくれて、ごつごつした手で涙を拭ってくれました。

ホストハウスに戻り、鏡の前を通った時、違和感を覚えました。

 

冬子の気配を感じたのです。

 

家の中をきょろきょろと見回しました。元々飼っていた犬が冬子に見えたのかな、と合点がいったので、正面に鏡のあるソファーに腰をかけました。

キャー!!!!!!!!

私はホストファミリーのおじいちゃんがかけてくれた上着を脱ぎ捨てました。

冬子だったのです。

明らかに毛皮が冬子なのです。

脱ぎ捨てたあとすぐ拾い上げて抱き締めました。投げ捨てて抱き締め、投げ捨てて抱き締めを2度3度繰り返しました。

信じられませんでした。

私は軽蔑の目をホストファミリーとホストファミリーのおじいちゃんに向けました。

 

「バン!バン!!バン!バン!バン!バンバン!!」

 

ホストファミリー全員撃ちました。取り乱していたのです。

ですが、もう会えないと思っていた冬子とずっと一緒にいられる、そんな喜びも心のどこかにあったような気がします。もう目にすることができないと思っていた冬子の毛皮を抱き締め、また泣き崩れてしまいました。

聞いた話では、この辺りの町では、犬は家族と同等で亡くなったら魂は成仏するから肉体である毛皮は矧ぎ、家族の守り神として上着として着ることは普通のことなんだそうです。

次の日、私は冬子と父のいる山形へ帰ることにしました。

熊谷に帰ろうとも思ったのですが、暑いところは冬子が嫌がるし、ちょうどこのタイミングで父が雪国である山形に転勤になったのことにも運命めいたものを感じていました。

帰るとき、ホストファミリーのおじいちゃんが銃を私に差し出してくれました。撃たないのか?そんなことを言っていたと思います。でも私が銃を手に取ることはもうありませんでした。

その時あらためて気付いたんです。銃に狂わされていたんだな、と。

帰国して父は私が着ていた上着を見て冬子みたいだな!と言い笑っていました。

父には事実は伝えませんでした。

今は父と、そして冬子と山形で暮らしています。

皆さんにこの場を借りてお伝えしたいことがあります。

銃は人を狂わせます。絶対に軽い気持ちで手にしてはいけません。

では、今日もこれから銃依存のセラピーに行ってきます。私は私で戦っています。冬子のコートを着て。

 

バン!!!

 

 

あの子が故郷に帰るとき
じろう

青森県弘前市出身。2006年4月に結成したシソンヌのボケ担当。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。東京NSC11期生。2014年第7回キングオブコント王者。演技力の高いコントを得意とする。著書に“川嶋佳子”名義で自身初の日記小説として書籍化した『甘いお酒でうがい』(KADOKAWA)がある。また7月からTBSドラマ『カンナさーん!』にレギュラー出演、11~12月には舞台『スマートモテリーマン講座』の出演も決定。2018年8/1~26まで赤坂RED/THEATERでシソンヌライブの一カ月公演も決定している。
http://sissonne.jp/

LATEST ENTRIES
COLUMN

RECOMMEND

TAG

INSTAGRAM

地域で出会ったユニークなアニマルたち