特集 聞く人

体にたくわえられた物語を、ひとつでも多く聞き出したかった。あいたくて、ききたくて、旅にでる。/小野和子さん(民話採訪者)

宮城県仙台市。民話採訪者で、採訪の様子を編んだ書籍『あいたくて ききたくて 旅にでる』の著者である小野和子さんのご自宅にうかがうと、こちらの緊張を一瞬で解きほぐすような、柔らかな笑顔で迎えてくれた。そして、ふと想像する。約束もなく、“お話”を探して家々を訪ねていたときの、小野さんの心細さと、膨らむ期待を。

今から50年以上前、35歳で3児の母であった小野さんは民話を聞かせてもらうために、ひとり、歩き始めた。初めて訪れた村で、知らない家の戸を叩き、「昔話を聞かせてください」とお願いをする。無駄足になるほうが圧倒的に多かっただろうが、語り手と聞き手として生涯続くような出会いも生まれた。

親から子へ、祖父母から孫へひっそりと語り継がれてきた民話は、同じような内容でも地域によって形を変えることもあれば、語り手によっても微妙に変化していく。「それが面白いんですよ」と小野さんは言う。語り手の人生と呼応しながら紡ぎ出される、たったひとつの民話を求めて、小野さんが歩き、聞いてきた時間が、私たちに教えてくれること。

文:兵藤育子 写真:阿部 健

自分で出かけて戸を叩いて聞かせてもらう方法しか、私にはわからなかった。

「民話の集まりっていうと、お年寄りの女の人が多いんですけど、先日の会はなぜか若い人、しかも男の人がたくさん来てくださって、驚いたの。みなさん、いい質問をされてね。これも私の魅力かしら(笑)」

小野和子さんは肩をすくめて、茶目っ気たっぷりに言った。せんだいメディアテークで1月に開催された「民話 ゆうわ座」は、日本の民話を題材にして自由に語り合う会だ。2013年に始まり、8回目となった今回のテーマは、「あの日から10年が経って ~災害について考える~」。小野さんが“民話の芽”と呼ぶ東日本大震災に関する語りや記録のほか、災害について触れられた古い民話などを取り上げ、定員70名をゆうに超える人が集まった。

もちろん冗談のつもりで「私の魅力かしら」と言ったのだが、一方で、その通りだとも思う。というのも、著書『あいたくて ききたくて 旅にでる』で、小野さんが50年にわたってやってきたことを知り、雷が落ちたような衝撃を受けた“若い人”は、おそらくたくさんいるだろうから。

現在87歳の小野さんは、宮城県を中心に東北の集落をひとりで訪れ、その土地に暮らす人に民話を語ってもらう「民話採訪」を、1969年、35歳のときから行ってきた。事前にアポイントを取ることもなく、誰かに紹介してもらった人のところへ行くわけでもなく、訪れる場所も、聞かせてくれる人を探すのも、行き当たりばったりだった。

「村に行ったら、端のほうにある駄菓子屋さんみたいなところで、『話好きのおばあちゃん、おじいちゃんはいませんか?』と聞いてみるんです。言われた通りのところへ行って、『昔話を聞かせてください』って言うんですけど、当然、相手はびっくりしますよね。わざわざ仙台から交通費をかけて昔の話を聞きに来るなんて、奇妙な人がいると思われたでしょう。物売りと間違われて、追い出されることもしょっちゅうでした」

運よく用件を聞いてもらえたとしても、こんなやり取りが待っていた。

「なんだ昔話って、おれの子どもの頃の話か?」

「そうじゃなくて、昔々って始まるような……」

「なら、“むがすこ”って言え!」

 

「私は岐阜の出身で、東京で学生時代を送って、そのまま結婚して仙台に来たものですから、東北の言葉を知らないんですよ。だから村の人との会話も、最初からずれてしまってね。それでもとにかく自分で出かけて、知らない家の戸を叩いて、聞かせてもらう方法しか、私にはわからなかったのです」

しかしのちに小野さんは、それ以外の方法を知ることになる。地元の放送局のスタッフと一緒に「取材」として行くと、物売りと疑われることはもちろんなく、歓待されて、一定の収穫を得ることができた。ひとりで歩くときも、放送局の名前を使ってもいいと提案されたが、一見遠回りともいえる自分のやり方を変えようとはしなかった。

「私の意地っ張りなところなのでしょうけど、本能的にそうはしたくなかったですね。私は肩書きもない主婦でしたから、怪しまれないほうが不思議ですよ。突然話を求められて、真面目に扱っていいかどうかさえ、みなさん迷われたと思うのです。だけどそうやって戸惑ったり、疑ったり、怒ったりしながらできてくる関係っていうのは、ものすごく純粋にならざるを得ないんですよね」

語る人と聞く人。それ以上でも以下でもない関係性から生まれる話にこそ、価値を感じた。そう簡単にもらえるものではないからこそ、喜びも大きかった。

「ひとつふたつと思い出してくださるような感じですから、辿り着くまでに時間がかかりますし、ひとつも思い出されない方もいます。たとえ途切れ途切れの話だとしても、そっちのほうに私は惹かれました」

ただただ、聞きたかっただけなんです。

「それにしてもなぜ」と多くの人は思うだろう。なぜ、たったひとりで村々を歩いたのか。その行動に駆り立てたものはなんだったのか。小野さん自身、幾度となく投げかけられた質問だが、そのたびに答えに困ってしまうのだという。そして申し訳なさそうに、こう付け加える。

「ただただ、聞きたかっただけなんです」

簡単には理解の及ばないような物事に出会ったとき、私たちは理由や因果関係を見出すことで安心してしまいがちだ。だから性懲りもなく、小野さんに「歩き、聞く理由」を問いただしてしまうのだが、やりたいこと、行動せずにはいられないことに、そもそも理由なんているだろうか。それでも小野さんは多くの人に問われたことで、人生を振り返り、もしかしたらと思うことがある。

「私が小学5年生のときに戦争が終わったのですが、教科書に墨を塗った世代なんです。昨日まで必死に暗唱していた大事な言葉に、先生から墨を塗って消せと言われてしまう。幼心にショックっていうのかしら、疑わしさというほど明確なものではないのだけど、戸惑っていたとは思うんですよ」

さらに自宅を、“自分たちの手で”失ってもいた。空襲に備えて道路を拡張するため、家屋疎開を命じられ、その期日に定められていたのが8月15日。家族が自分たちの手で家を取り壊した直後、玉音放送を聞いた。

「こうした出来事は、やっぱり自分の根にあるような気がします。本に書いてあることや、どこかの偉い人が言ったようなことではなく、自分の目で見て、聞いて、獲得してきたものを信じたいっていう気持ちが、民話を求めて歩くときもあったのではないかなと思うのです」

1970年頃の採訪の様子。地面に置いている当時のレコーダーは携帯用だが、肩にかけて持ち運ぶほど大きかった。

子どもの頃、児童書、ましてや外国の本など読める環境になかった小野さんは、東京女子大学文学部に進学し、『ピノキオ』『クオーレ』『不思議の国のアリス』のような海外児童文学の豊かな物語世界に初めて触れて、読みふける。卒論では、日本の代表的な童話作家である小川未明をテーマにし、願わくば児童文学に関わる仕事をしたいと思っていた。24歳で結婚して仙台へ移住し、「民話絵本を作る会」の存在を知ったのは、3人の子育ての真っ最中だった。

「最初はその会の“民話”のところではなく、”絵本”の部分に惹かれたの。『私も混ぜていただけないでしょうか』って、下の子をおんぶして行ったのを覚えています。だけど民話絵本を作ろうにも、宮城県の民話のみならず、民話について何も知らない。とにかく聞きに行ってみなくちゃというのが始まりだったんです」

連れて行ってもらったのは、のちに270話以上もの民話を聞くことになる、有名な語り手、永浦誠喜さんのところだった。

「永浦さんの民話を聞いたとき、何も知らないで絵本を作ろうとしていたなんて、とんでもないことだと思ったの。そして結局その会を辞めて、自分で民話を聞いて歩こうと心に決めたのです」

ひとりで歩き、初めて民話を聞かせてもらったヤチヨさんは、家族を戦争や病気で亡くし、親戚の家に身を寄せていた。「ヤチヨさんとの出会いがなければ、こんなに歩かなかったかもしれない」と小野さんは振り返る。

体にたくわえられた物語を聞いたとき、本当に宝だと思ったの。

書籍『あいたくて ききたくて 旅にでる』は、小野さんが各地を歩くなかでどんな人と出会い、どんな民話が語られたのかを綴った採訪の記録であり、民話集でもあり、心の移ろいを記したエッセイでもある。語り手が生涯大事にしていた絵本を手渡されることもあれば、晩年、病院のベッドで民話を語ってもらうこともあり、語る人と聞く人が民話という磁石で引き合わされたような、偶然とは信じられないくらいかけがえのない出会いが、いくつも紹介されている。

「ひとりで歩くようになってしばらくは、聞いたことを誰かに伝えようとか、本にまとめようという気持ちはまったくありませんでした。そういう人たちに出会って民話や人生を語ってもらうことは、価値観をひっくり返されるような体験で、ある意味では自分が持っていたものを捨てる必要もあったのです」

 

やがて「みやぎ民話の会」を設立し、会報や叢書として残す活動にも注力していくのだが、民話だけでなく、その周辺や語ってくれた人のことを「あとがたり」としてまとめることにもこだわった。

「わらべ歌を教えてくださったおばあさんが、歌詞の意味を教えてくださるじゃないですか。ゴムまりがなかったから、ぜんまいの綿を集めて芯にして、ボロ布を巻いて作ったら、よく弾んだっていう話も面白いでしょ。大抵のわらべ歌の本は、歌詞と楽譜くらいしか書いていないですけど、こういったお話は、私のような採訪者じゃないと聞けない言葉なんですよね」

民話を聞いて歩く自身の活動は、「採集」でも「採話」でもなく、「採訪」という言葉がしっくりくると感じている。

「採集っていうと、昆虫みたいに珍しい話をもぎ取ってくるようなところがあるでしょう? 私はそんな話を集める力もなかったし、そうやって集めることにウエイトを置かなかったのだと思います。会って聞かなくてはわからないことがたくさんあるし、話だけをもぎ取るようにして聞いて、活字にしていくことは、今でも間違いではないかと思うときがあるんですね。語った人の生涯と暮らしを背景にして、言葉が生き生きと蘇る時間を私も体験させてもらってきたので、なんとかそこも一緒に表現したいと思うようになったんです」

『長者原老媼夜話(ちょうじゃはらのばばさのむかし) 山形県飯豊山麓の民話』(評論社/1992年)は、「残さなければ」という強い思いで出版した本だ。山形県、福島県、新潟県にまたがる飯豊山。その山形県側のふもとにある戸数14戸の小さな集落に暮らす、佐藤とよいさんが語った民話をまとめている。

長者原の佐藤とよいさん。晩年、佐藤さんは「おれな、ブユ(アブ)になって、あんたのこと守るから」と小野さんに告げたそう。「だからアブを見るとね、おばあちゃんが来てるのかなって追い払えないんです(笑)」

仕事場に貼ってあった言葉。民話を採訪する上で、絶えず死者と対面する小野さんは、気落ちしたときにこの言葉を声に出して読んで、元気をもらうのだという。

「おばあさんは小学校しか出ていなくて、字も自由に読み書きができませんでしたけど、素晴らしい物語を体にたくわえていたんです。私はそれを聞いたとき、本当に宝だと思ったの。だってね、おばあさんの口から『影射すように美しいおなごがいてな』という言葉が、ぽろっと出てくるんですよ。美しさは光ではなく影にあるっていう古代の日本人の美意識が、おばあさんのなかに密かに息づいていたのです」

佐藤さんの体から物語を引き出すことができたのは、とても幸運なことだったと小野さんは思っている。と同時に、体に物語をたくわえたまま、いなくなった人たちにも思いを馳せる。

「こういうところに密かに息づいているものこそを、私は文化と呼ぶべきだと思うのです。それはほとんど形に現れてこないものかもしれませんが、誰にも知られず消えていった、無数の屍みたいな文化の上に、私たちはようやく成り立っている。そのことを忘れてはいけないと、いつも思っています」

聞くっていうことは、力がないとできないことが、次第にわかってくるんです。

「私は長いこと聞いてきたのに、自分がどんな聞き手なのかとか、聞くとはどういうことなのか、深く考えたことがなかったんです」

その気づきを与えたのは、民話採訪のドキュメンタリー『うたうひと』を撮った映画監督の濱口竜介さんや酒井耕さん、『あいたくて ききたくて 旅にでる』を編集した清水チナツさんなど、東日本大震災後に出会った若い世代だった。あのとき、被災地に足を運んだ多くの人に突きつけられたのは、傷つき、打ちのめされた被災者の声をどう聞くか、ということだった。そんななか小野さんたち「みやぎ民話の会」は、2011年8月、被害の激しかった南三陸町の海を臨むホテルを会場に「民話の学校」を開催。沿岸部で被災した旧知の語り手たち6名を招き、あの日の体験を語ってもらったのだ。

本や資料に囲まれた書斎。「パソコンもメールも必死に習ったんですよ」。小野さんはこれから、自身より若いふたりの語り手の話を聞きたいと話す。

「とても無謀な計画だったと思いますし、批判もたくさんありました。でも私は一人ひとりの語り手のところへ行って、お願いをしたんです。みなさん、久しぶりに会うものですから、最初は言葉もなく、抱き合って泣くしかなかったの。その営みを支えているのは、民話を語ることと聞くこと、それだけだったわけですが、人と人がこんなふうに深く結びつくのはどういうことなのだろうって、同行していた濱口さんたちは驚いたそうなんです」

民話を語ってもらい聞く、そのやり取りは常に真剣勝負だった。それを言葉にせずとも全身全霊で理解し、語り手と向き合っていた。

「聞くっていうことは、力がないとできないのが次第にわかってくるんです。語ることと相対関係にあるものですから、聞く人によって出てくる言葉もあるし、閉ざされてしまう言葉もある。私は語ってもらうことに一生懸命で、なるべくたくさん聞きたい一心だったとしか言えないのですが、それが私にとっての聞くこと、だったのでしょうね」

「聞く人」である小野さんは今、こうやって自身が経験してきたことを聞かせてほしいと請われ、「語る人」に回ることも少なくない。

「私はいわゆる民話の語り手ではないですけど、みなさんにお話をするときは、語ってくれた人たちの顔が必ず浮かんでいるんです。ありがたいことにね」

語り手から受け取った言葉を、小野さんは今もずっと聞き続けている。

書籍『あいたくて ききたくて 旅にでる』(PUMPQUAKES)/2970円
東北の村々を訪ね歩くたびにつけてきた採訪日記を軸に、聞かせてもらった民話、語り手とのやり取り、民話の考察などを綴った、全18編。小野さんは80歳の記念に、本作のミニチュア版といえるホチキスで綴じた手製本を40冊のみ作成。それを受け取ったインディペンデント・キュレーターの清水チナツさんが編者となり、書籍化が実現。震災後、小野さんと出会い、その姿勢に共鳴してきた映画監督・濱口竜介さん、アーティスト・瀬尾夏美さん、写真家・志賀理江子さんの寄稿も収録。美しい装丁は、デザイナーの大西正一さん。






体にたくわえられた物語を、ひとつでも多く聞き出したかった。あいたくて、ききたくて、旅にでる。/小野和子さん(民話採訪者)
小野和子さん

おのかずこ/民話採訪者。1934年岐阜県生まれ、宮城県在住。1969年から、宮城県を中心に東北の村々へ民話を求めて訪ね歩く民話採訪をひとりで始める。1975年に「みやぎ民話の会」を設立し、現在は同会顧問。民話に関する主な編著書に『長者原老媼夜話 山形県飯豊山麓の民話』、『みちのく民話まんだらー民話のなかの女たち』、『あいたくて ききたくて 旅にでる』など。現在、『あいたくて ききたくて 旅にでる』の第2弾にあたる新作『忘れられない日本人ー民話を語る人たち』(仮)を執筆中。

(更新日:2022.03.14)
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上手に「書く」「話す」など、発信することに重きが置かれるなか、能動的にひとりの声を「聞く」人たちがいる。歴史に埋もれそうな泡のような話や、声にならない声に、耳をすます人たち。技術としてではなく、その在り方について、話を聞いた。
体にたくわえられた物語を、ひとつでも多く聞き出したかった。あいたくて、ききたくて、旅にでる。/小野和子さん(民話採訪者)

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