特集 生きる感覚を取り戻す 熊野紀行

これからは、実態のある「私」が主語になる時代。生きづらさを感じる若者を20年間無償で受け入れてきた、心の奥底を訪ねる。

「まあ、若いときに乞食をやってみたらいいよ。最低でも一年、できれば三年くらい」

社会に馴染めない数多くの若者に指南してきた三枝孝之さんは、本気とも冗談ともつかぬ眼差しを私に投げかけた。思わず心の中で、その言葉の意味するところを真剣に考え込んでしまう。

生きるということには、一体どういう意味があるのか。そして、自分はどう生きたいのだろうか。そんな問いは、誰しも必ず心のどこかに抱いて生きているもの。だが、生きる気力が失われる程に徹底的に向き合った経験のある人は、おそらくほとんどいまい。だからこそ、たった一人で己自身の心と向き合い続けた経験のある三枝さんの言葉には、本質的な説得力がある。

当たり前だった価値観が崩壊し、大きな変わり目とも言えるこの時代。現代の「駆け込み寺」として若者に手を差し伸べ、一人ひとりの個性を見守り続けてきた、その広くて深い心の真意について話を窺った。

文:吉澤裕紀 写真:熊谷直子

この世に生まれてきて、
親心に触れられた人は幸せですね

熊野本宮大社から程近いところに、湯ノ峰温泉という小さな温泉街がある。江戸時代に流布していた「温泉番付」なる格付表では常に別格扱いされるほど、古くから温泉の効能が高いことで知られる。お詣りを済ませた後、辺りが薄暗くなる頃に湯ノ峰温泉へと到着した。小さな河川のあちこちから湯けむりが上がり、心地よい硫黄の香りが辺りを漂う。私は、その一角に佇む「民宿わだま」という宿を訪ねた。

「ああ、いらっしゃい。まあ、どうぞ」

玄関の戸を開けると、気の抜けた声で男性が奥から顔を覗かせた。宿主である三枝孝之さんは、以前に営業していた方から引き継ぐ形で民宿わだまを経営している。建物の一部は増改築がなされているが、基本的には昔ながらの温泉宿の雰囲気を残す。ガラス戸で囲われた二階の寝室は、眺めがよく気持ちがいい。お風呂は独自で源泉を引いているので、24時間いつでも入れるという贅沢さ。取材のことなど忘れて、ついゆっくりとしていたくなる。

「大した観光地ではないので、静かでいいですよ。忙しく働いてる人も、一年のうちにせめて一週間くらいは温泉に浸かるだけの休暇を取ってもいいんじゃないかな。二週間浸かっていれば大抵の不調は治るもので。そういう湯治場のような場所にしていきたいですね」

食事は自炊も可能だが、今回は三枝さんに作ってもらうことにした。「まあ、なんてことない料理ですけど」そう謙遜しながらも、いつの間にやら食卓は賑やかに。三枝さんも同じ食卓を囲み、晩酌が始まった。

三枝さんの来歴は実に奇天烈だ。幼少期から学校教育に馴染めず、高校を何とか卒業した後は進学もせず、働きもせず、いわゆる「引きこもり」として暮らしていた。

「農家の長男として生まれたので、『寝てる間に何度首を絞めようと思ったことか』と両親に言われましたよ。そんな幼少期でも鮮明に覚えているのは、爺さんと戦争の話をしたときのこと。日本は戦争に負けて良かったと学校で教わったのだ話したら、『そんなこと言うもんじゃない!』と一喝されてね。父が命がけで戦地に行っていたので当然なんだけども、その瞬間、子どもながらにハッと気づくわけですよ。理屈を抜きにして、とても大事な何かに。それからだね、自分で考えるようになったのは。考えるようになったら、学校なんか行けないですよ」

三枝さんは、笑いながら盃を手に取った。

「最近は、そんな親心っていうものに触れる機会が格段に減ってしまったよね。父親は朝から晩まで会社勤め、母親はパートに働きにいくわけだから、同じ時間を過ごすことがほどんどない。私も結局30代までは、親のことなんて考えたこともなかったんだけども、40歳になる手前くらいだったかな。はたと親心を切に感じる瞬間があって。そこが人間として生きていく出発点だったのだと、今では思います。生きているうちに親心に触れられた人は、それだけで幸せだよね。当時はその気づきに確信が持てなかった。果たして自分の内から出たものなのか、外の情報の受け売りなのか。それを確かめるために、家族とも社会とも縁を切って、一人で暮らすことにしたんです」

こうして三枝さんは、歩いているうちに偶然辿り着いた伊豆の土地で、隠遁生活を始めることになる。ほったらかしのみかん畑を借り、自ら小屋を建て、電気やガスなど一切なしに、最低限のものだけを食べて暮らした。何をするわけでもなく、近所の人ともほとんど交流を持たず、ただただ生きるのみの毎日。そんな生活を10年も続けたのだという。

三枝孝之さんの口癖は、真剣な話の最後に付け加えられる、「まあ、それだけのことですよ」。自分の考えや生き方に対して、過信も卑下もない。

「初めの三日は楽しいですよ。それから、本を読みたいだとか、人に会いたいだとか、色んな欲が出てくるんだけども、我慢比べだよね。一年くらいはそんな思いを行ったり来たり。それで2、3年が経つと、いよいよ身に沁みる寂しさがやって来るわけですよ。心の底から、寂しいなあって。気が狂ったらどんなにか楽なのになあって」

田舎暮らしをする人、自給的な暮らしをする人は確実に増えているけれども、競争社会の中で育ってきた私たちの思考は案外変わらないもの。場所が田舎に移ろうとも、田畑を大きくしたい、暮らしを豊かにしたい、仲間を増やしたいと、つい成長への欲が出てきてしまう。当時の三枝さんの生き方は、そんな次元の話ではないのだ。

「でも、どうにかこうにかどん底の時期を乗り越えてみると、何だこんなことに気がつかなかったのか、という感じでね。例えば、波ってのは、大きく寄せたら大きく引いていく。暫くしたらまた寄せて、同じように引いていく。ただその繰り返し。寂しさだって、ずっと続くわけじゃない。寂しいときは寂しくていい。何とかしようと思わなくていいわけですよね。そう思えた瞬間に、ふっと楽になって。人間は何事にも一喜一憂して、自分の意思で物事を変えようとするわけだけども、そんな必要は一切ない。だから、人との縁を敢えて絶って暮らす必要すらもうないのだなと、これからは縁に従って生きればいいじゃないかと。そう思って、10年間の隠遁生活に終止符を打ったんです」

 

生身の大人に育まれた子どもには、
人間の生きた声が備わっている

民宿わだまに宿泊した後、三枝さんが住居兼活動場所にしている「共育学舎」という施設を訪れた。廃校になった木造校舎を活用して、社会で生きづらさを感じる若者たちを受け入れ、衣食住を無償で提供している。

「伊豆での生活を終えて、所帯を持つことになって、いつの間にやら熊野に流れ着いて。20年くらい前に、この校舎を町から借り受けて共育学舎を始めたんです。滞在者は、多かったときには10人くらい。最長で5年間住んでた人もいたかな。来たいって人は、みんな受け入れてきた。お金のことは心配せずにしっかり自分のことを考えたらいいよって、そう言える場所であることが大事なんだよね」

 

台所を訪ねると、奥さまの由紀さんが懸命にパンをこねている。訪ねてくる若者を笑顔で迎え入れ、共同生活の細かい切り盛りをしてきたのは、紛れもない由紀さんだ。

「ここに来る人はみんな個性的ですね。来ては去り、来ては去り、その繰り返し。去った人がどうなったかなんてわからないし、敢えて追わないようにしてます。もちろん、めでたく去った人ばかりではなくて、怒って出ていく人や暗い顔で帰っていく人もいるわけで。初めは一々気にしていたけれど、今はそれも人生なのだと受け入れられるようになりました」

自分たちで栽培した小麦でパンを焼き、毎週郵送で販売している。パン屋の営業も、かれこれもう15年以上になるという。

共育学舎に滞在する人は、同じ時間に食事をとること以外、日中に何をしようが全て自由。決められた仕事があるわけでなく、自分がやりたいと思ったことだけをすればいい。この国で育った私たちには、それが案外難しい。

「学校教育というものの弊害は、本当に大きいよね。協議や規則に従って生きればいいという癖が、染みついてしまっているから。『責任』なんて言葉も当たり前のように使われて、自分のことは責任もってやりなさいと生まれたときからそう教えられる。『あなたは責任感がある』なんて言われると嬉しくなったりね。でも、本当の意味で責任を取ってる大人なんか見たことがない。私のやっていることだって、まあ無責任なもんですよ」と、三枝さんは笑う。

息子の玄祈くんと、妻の由紀さんと。食事はみんなで食べるのが、共育学舎唯一のルール。鐘を鳴らすと、それぞれが箸やお皿を持って食卓に集まってくる。

夕食の時間になって、初めて息子の玄祈(げんき)君が姿を現した。初対面の人にも全く取り繕わない、その表情や喋り方から、彼がここで伸び伸びと成長していることが窺い知れる。

「うちの子も12歳になるんだけど、本当に色んな人に面倒を見てもらってね。不思議なことに、成長に応じてこういう人がいてくれたらいいなという人が集まってきてくれるもので。小学校には3日行ったっきり不登校になったけども、四六時中大人に囲まれて、包み隠さぬ話を耳にして育った彼の中には、人間の生の声が入っている。良いも悪いも、きっと本質的なことがわかっているんでしょう。あとは勝手に育ってくれればいいですよ」

この日は、滞在しているみんなで、草刈り機で刈ったあとの草取り作業。子どもたちはぶつぶつ言いながらもせっせっと集めていた。

足し算は、いつまで経っても答えが出ないんだよ

「ちょっと私の隠居に行ってみませんか?」と、三枝さんは共育学舎から車で数分の、とある古民家へと案内してくれた。元々庄屋の家だったという建物は、熊野の中ではとりわけ立派だ。高台にあるので、南側に大きく開けた縁側の向こうに、陽の光を受けて輝く熊野川が悠々と流れるのが見える。

「この家も、どうしても貰って欲しいと言われたので譲り受けて、じゃあ隠居にでもするかと。自分でリフォームもして、もう住める状態ではあるんだけど、肝心の私自身がまだ一向に隠居なんかしそうもないんだよね」と、小さく笑みを浮かべた。

床には譲り受けた廃材を使用。障子などの建具も、取り壊される家から持ってきたものを使用しているるため、閉まりきらない戸もある。居間には囲炉裏、台所には三連式の竈がある。

「実は最近も、知人から子どもを対象とした福祉事業をやってくれないかという依頼を受けて。頼まれると断れない性格だから、ついつい引き受けてしまったんですよ。共育学舎でも、既にフリースクールという形で子どもを受け入れているわけだけど、まず教える側の環境に多様性が生まれることで、子どもたちも自分に合った学びの場に巡り合うことができる。いかにお金を国から、そして家庭から貰わずにやれるか。今ではお金を払って学校に通うことが当たり前になってしまっているけど、明治以前はむしろお金を出して人を育てたんだよね、子どもは社会全体にとって財産そのものだから。当時は、教える人間も教え方も、本当に多様だったはずで。それでこそ、子どもが自分のペースで学ぶことのできる環境が生まれる。とりあえず東大と甲子園を目指させる、そんな一辺倒の学校教育に一矢報いるような取り組みをしたいね」

こちらは、共育学舎の第2の場所として2014年から開拓をはじめた約1200坪の土地、通称「スラム」。誰もが集うことができて、自由に小屋を建てて暮らせるようなイメージをしているという。写真は、三枝さんが自ら盛土・整地し、その上に建てた小屋の中。

南伊豆に暮らす私の周りでも、現在の学校の対抗馬としてのフリースクールを求める声は多い。現に私も、そういう場を作ってくれないかと不登校の子どもの親に声をかけられることもしばしば。それに対して、「ならば、やってみればいいじゃないですか」と、三枝さんは簡単そうに言う。考えてみれば、共育学舎だって元々大きいビジョンがあったわけでなく、身近な切実な声を拾うことから始めて、20年以上も続いているのだ。

「今はまさに歴史の過渡期。これまでの時代は、誰かが決めたことを信じて従っていれば生きて来られた。でもその結果として生み出されたのが、戦争や公害、格差であり、病気で……。それにいち早く本能的に気づいたのが、不登校や引きこもりの人たちなんだよね。彼らは声をあげて周りを説得することができないだけで、実は先頭に立って静かに違う道を模索してきた。そして今やっと、自分は自分でしかない、人と違っていいんだって、自信を持って言える時代に入ったんだ。これまでもそういう生き方の人はいたけれども、社会の中ではほんのわずかで。でも、そのわずかな水が辛うじて伝わってきたからこそ、今がある。そこに希望がある。社会も個人も、積み上げてきたものを一度壊して更地にし、一から自分だけの家を建てるべき。これからは間違いなく、実態のある『私』が主語になる時代ですよ」

4日間、お坊さんのお説教のように淡々と私に語り続けてくれた三枝さん。その声に、心なしか熱がこもってくる。

「私たちはずっと足し算の仕方を教えられてきた。ああすればお金持ちになれますよ、こうすれば幸せになりますよと。でも、足し算ではいつまでたっても答えが出ないんだよ。人間の欲望ってのはキリがないから。でも、引き算は答えが出る。生きてくのに、あれはなくていいな、これはなくていいな。そう減らしていくうちに、自分にとって必要なものだけが残るわけだから。まあ、あなたも若いうちに乞食をやってみたらいいよ。最低一年、できれば三年くらい。お金でも、自分の力でもなく、人の情けに頼って生きてみることで、見えてくるものがたくさんあるから。せっかく熊野に来たんだから、乞食になって帰ったらいいじゃないか」

三枝さんは、ハッハッと声をあげて笑った。思わず私もつられて笑いはしたが、南伊豆での自給的な暮らしにどこかもどかしさを抱いてきた私には、心の奥底をわさわさと揺すぶられるような感覚があった。水も野菜も建材も、結局は自然の恵みをいただいているに過ぎない。「自給」という概念自体が余計なものなのではないかと思っていたなかで、三枝さんの口から唐突に放たれた、乞食という言葉。自分でつくるという意識までも引き算をしたその先には、私が求めている生きる切実さがあるのかもしれない。三枝さんの本気とも冗談ともつかぬ提案が、時間をかけて少しずつ自分の胃に消化されていくのを感じた。

これだけ精力的に動き、語り続けているのでつい忘れてしまうが、三枝さんのお歳はもう70代も半ばに差し掛かる。昨年は心臓病を患い、少し遅ければ命にも関わったという。

「なんだかんだで楽しいんだろうね、こうやって動いていることが。この歳になって、やっと生きることの楽しさを心の底から感じられる、そんな境地に近づいてきましたよ。なんのためにとか、誰のためにとか、考えなくていい。ただ生きてりゃいい。年老いることに対する不安なんかは私にもあるけど、不安も不安のままほっとけばいい。生きてるうちはどうにかなるもので、どうにもならなくなったらそれが死ぬとき。ただそれだけのことでしょう」

共育学舎
廃校になった木造校舎を活用し、有機農業と自家産小麦のパン屋を営みながら、若者を対象に無償で滞在場所と食事を提供している。技術や仕事等の積極的な支援やカリキュラムなどはなく、過ごし方は滞在する人自身が決めていく。

住所:和歌山県新宮市熊野川町西敷屋1022
電話:090-6607-3474
https://kyouikugakusyaw.wixsite.com/kyouikugakusya
Facebook:https://www.facebook.com/kyouikugakusha

パン工房木造校舎
自家製の小麦(農薬・化学肥料不使用)で作ったパンを、宅配で販売している。小麦以外の生地原料は、あこ天然酵母、天然塩、水のみで、副材料も自家製の野菜を使用。
https://mokuzokosha.stores.jp/

民宿わだま
熊野本宮大社からほど近い湯ノ峰温泉の一角に佇む、1日1組限定の民宿。
和歌山県田辺市本宮町湯峯156
https://www.facebook.com/wadama.onsen/

これからは、実態のある「私」が主語になる時代。生きづらさを感じる若者を20年無償で受け入れてきた、心の奥底を訪ねる。
三枝孝之さん 1947年、静岡県三島市生まれ。40歳になる頃、親心にはたと気づき、西伊豆で約10年間の隠遁生活。その後、インド旅や四国お遍路を経て、熊野に移住。新宮市熊野川町にある旧町立敷屋小学校を活用して、20年間に渡り「共育学舎」を主宰。自給的な暮らしをする傍ら、社会に馴染めない若者を無償で受け入れ続けている。

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文:吉澤 裕紀
1990年生まれ、東京都国立市育ち。大学在学中のカンボジアへの渡航を機に、国際協力活動や震災ボランティアに没頭。お金で回る社会から一度離れるため、古い家を修繕しながら物物交換所を運営。その後大学を中退して、静岡県南伊豆町に移住。電気・水道・ガスを契約せず、衣食住に必要なものは極力自分で作る生活を送っている。

(更新日:2021.12.07)
特集 ー 生きる感覚を取り戻す 熊野紀行

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生きる感覚を取り戻す 熊野紀行
死と再生の地、熊野。外界と隔てられた奥山へ、遥か昔より多くの人が足を運んできた。先行きの見えない今こそ、改めて「生きる」という感覚を見直したい。熊野の大地で自然と社会、己自身と真摯に向き合い続ける人たちを訪ねた。
これからは、実態のある「私」が主語になる時代。生きづらさを感じる若者を20年無償で受け入れてきた、心の奥底を訪ねる。

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