特集 生きる感覚を取り戻す 熊野紀行

受け継がれる、先人たちの知恵。昔と変わらず地を這って、熊野の大地を耕し続ける、二組の夫婦を訪ねる。

「熊野は貧しかった」そういう話を、旅の途中に幾度も聞いた。

険しい道のりと霧に包まれた幽玄な雰囲気を醸し出す熊野は、裏を返せば、山がちで、獣が多く、日照が少なく、農耕には不向きの条件が揃っている。そんな土地でも人々は集落をつくり、田畑を耕し続けてきたのだから頭が下がる。

少子高齢化に伴い、熊野の各地でも山や農地が荒れ、廃村の危機が押し寄せている。一方で、那智勝浦町の一部では、先人の農民たちの生き様に習い、その知恵を受け継ごうと奮闘する移住者が増えつつあるという。良くも悪くも田舎暮らしが「ファッション」となりつつある今、昔と変わらず泥臭く、地を這って、熊野の大地を耕し続ける二組の夫婦に話を窺った。

文:吉澤裕紀 写真:熊谷直子

一軒の空き家に灯りがともるだけで、
有難いことやなぁ。

熊野本宮周辺での滞在を終えた私たちは、熊野古道の中でも難所と言われる大雲取越(おおくもとりごえ)に沿うように走る険しい峠道を経て、那智勝浦町へと入った。本宮町に比べ、空は一段と青く、心なしか海の近さが感じられる。暫く走ると、ふと目の前に、急峻な斜面に張り付くように広がる見事な棚田が現れた。

 

ここは、色川地区。山々に囲まれ、決して暮らしやすいとは言えないこの集落には、千年以上も前に人々が住みつき、ひっそりと暮らしを営んできた。40年以上も前のこと、そんな色川に入植希望者がやって来た。高度経済成長期を経て、環境問題をはじめする様々な歪みに対して社会運動が盛り上がりを見せていたこの時代。農薬や機械に頼らない有機農業を中心とした新しい暮らしのあり方を追求するため、数件の若い家族がそれこそ命懸けで色川に移り住んだ。初めはよそ者というだけで地元の人たちから警戒され、農薬を使わない農業は反発された。それでも、その志に理解を示す地元の方の助力もあり、彼らは住み続け、畑を耕し続けた。研修生という形で少しずつ仲間も加わり、「よそ者」はいつしか「移住者」として地域に認められるようになったという。

現在では、村の人口の半数以上が移住者の家族で占められる。そんな色川地区の話を少し耳にしていた私は、かねてより訪ねてみたいと思っていた。できることならば、近年移住した若い方から暮らしのお話を窺いたい。そう思い、初期の頃に研修生として入植し、地域の活動に長らく尽力されてきた原和男さんにお尋ねしたところ、一組の家族を紹介してもらうことになった。

これからお時間をいただけるか、教えてもらった番号に恐る恐る電話をかけると、朗らかな女性の声が返って来た。

「どうぞどうぞ、うちでよければ。卵の配達で今出掛けてるんですけど、すぐ戻るんで先に家にあがっててください。何ならお昼も一緒にどうですか?朝ご飯がたくさん残ってるので」

お言葉に甘え、私たちはすぐさまお宅を訪問した。平屋の古民家の玄関先には暖簾が掛けられ、物干しに色とりどりの野菜や穀物が干されている。その奥から、額に汗を湛えたご主人の外山哲也さんが現れた。突然の訪問にも関わらず、にこにこと余裕のある笑顔で私たちを居間へと引き入れる。程なくして、奥さまの麻子さんが駆け足で帰宅し、すぐさま昼食の支度を整えてくれた。

「残り物ですんませんけど。これ、ほとんどうちで獲れた野菜たちです。米も去年のですが、うちはこうして毎日羽釜で炊いてます」

トマトにトウモロコシ、ナス……。決して大きくはないけれど、どれも味が濃くて本当に美味しい。「うちに飯食うために来たんやろ?」と哲也さんに冗談を言われるほど、思わず箸が進んでしまう。

外山哲也さん、麻子さんご夫婦。私たちを家族の一員であるかのように、ごく自然に食卓へと迎え入れてくれた。

ご主人の哲也さんが田舎で暮らし始めたのは、30年以上前にも遡る。

「田舎へ移住したいと思ったのは、環境問題に対する意識というのが一番やったな。自然に負荷のない暮らしを考えたとき、自分で作ったものを自分で食う百姓を真っ先に思いつく訳で。当時は家や土地も簡単には借りられんから、それこそ命がけで移り住む気持ちやった」

化石燃料を一切使いたくなかった哲也さん。当初は草刈りも薪作りも機械を使わず、全て人力でやっていたという。

「でも現実はそんなに甘いもんやなかった。草刈機を使わないと草の生える勢いに追いつかないし、チェーンソーも軽トラも使わずに薪を作ってたら仕事にならない。能力の限界とか時間の制約で機械を使わざるをえない現実に直面したんですわ」

色川には地元の方がいて、原さんのように入植当時から住む方がいて、そして年々新しい移住者がやってくる……。それぞれの想いや期待、不満が交錯する中で、哲也さんはどうにかうまくやっていけないかと模索し続けていると言う。

「やっぱり田舎には田舎の良さがあってね。例えば地元の人には、どんだけ不満があろうとも人間関係を維持していかなきゃいかんという覚悟がある。それに比べ移住者は、楽しく付き合える範囲で地域と関わりを持ちたいと思っていることが多い。背景から生じるその辺の違いが何とも難しい。まあ何はともあれ、一軒の空き家に灯りがともるっちゅうだけで、ほんまに有難いことなのは確かやなあ」

食べるだけ食べて帰るわけにはいかないので、何かしらのお手伝いをするために畑へと案内してもらった。急峻な段々畑には多種多様な野菜が作付けされ、見るからに青々と生い茂っている。私たちは、麻子さんと共に小豆の収穫と人参の草取り作業をした。

「色川には農家が十数軒あるんですが、不耕起栽培でやってるのはうちくらいです。そこはもう、哲っちゃんが耕運機を使わずに頑張ってくれてます。私は子育ての合間に豆を収穫したり、自分の植えたい野菜を隙間にちょっぴり植えさせてもらったりしてるだけでね」と、麻子さんは謙遜して笑う。哲也さんと麻子さんは、24歳もの年の差夫婦。だからなのか、けれどもなのか、お二人は本当に仲が良く、互いが互いを尊重し合っているのを感じる。

「私と哲ちゃんの共通点は、二人とも環境問題への意識が入口だったことですね。私も幼少期から横浜のマンションに暮らしてきて、子どもながらにずっと違和感を感じてて。大学生のときに、過去にリオで開かれた地球サミットでのセヴァン=スズキさんのスピーチを初めて聞いて、同じ年頃に同じような考えを持った人がいたことを嬉しく思った覚えがあります。自分が生きているだけで自然環境や遠い国の誰かを搾取しているという罪悪感を少しでも払拭するために、いつかは田舎で暮らそうと思ってきましたね」

50年前まで行われていたという牛耕を復活させるべく、牛を飼っている。大事にしていた母牛を出産に際して失い、今は仔牛のきくなちゃんに想いを託す。

表向きは修士論文を書くために、でも本当は自ら移り住みたくて色川に二年間通った麻子さんは、大学院を卒業すると同時に色川へやってきた。

「色川に通って爺ちゃん婆ちゃんに話を聞いているうちに、昔の暮らしこそが究極に環境負荷のない暮らしやん!って感動したのを覚えてます。それをまた次の世代に引き継ぐのが自分のやりたいこと。実は家の納屋にこつこつと古い道具を集めてましてね。子どもが巣立つ10年後くらいに、昔の暮らしを体験してもらえる場所にできたらいいなという計画なんです」

入植者が地域の人に受け入れられ、地元の人と移住者の融合が進む色川。その特異な歴史が外山さんご夫妻を惹きつける一つの要因になったのは疑いない。けれども、地域を守ることを目的に彼らがここに生きているわけでもない。集落というのは、人が住み、家族が増え、そこに引き寄せられるように隣人がやってきて、初めて生まれる。地球環境のことを大切にするお二人の人生観と、その朗らかな人柄こそが、これからの色川を益々彩っていくのだろうと思った。

外山さん家族が営む「そこそこ農園」では、野良仕事、薪炭での調理、鶏の世話・卵集め、牛の世話、薪風呂など、タイミングがあえば、保存食作り、山菜採り、茶摘み・製茶などの体験をすることができる。電話:090-5049-9643(外山)

 

人間を内包する形で自然界が存在することを、謙虚に受け入れなくてはいけない

共育学舎での滞在中、那智勝浦町内に素敵なご夫婦がいるから是非訪ねてみてはというお話を窺った。私たちは色川の集落を後にし、川沿いを下っていった。山深かった景色が一転、視界にはあっと言う間に大きな田畑が広がる。待ち合わせの場所へ向かうと、持田さん(仮名)ご夫妻が道路端で律儀に待っていてくださった。小綺麗なシャツにサスペンダを着用したご主人は、紳士的な出で立ちと顔立ちが目を引く。奥さまも野良着に身を包み、その表情からは毎日田畑で仕事をされているのが見て取れた。

「私たちは、夫婦二人で五反半余りの田畑を耕作しています。今はちょうど米の収穫が終わったところですね。うるち米のコシヒカリは脱穀まで終わりましたが、餅用のモチ米はまだ干しているところで。今年は10月に入ってから天気が良いので、大助かりですよ」

雨の多いことで知られる熊野。例年だと、米を収穫するこの時期に雨が続くこともよくあるという。お日様を全身に浴びて、干されている稲藁が気持ち良さそうだ。それにしても、ハサ(稲を干すための支柱)がとても美しく並んでいる。

 

「ハサのことをこの辺りではサガリと呼ぶのですが、稲藁に満遍なく太陽が当たるよう、サガリの向きは必ず南北方向にします。そして三本足の支柱の中一本は、サガリが風で倒れぬように風上に向けるのがミソですね」

持田さんは、田植えの時期には苗代をこしらえ、一つひとつ手で植え付けている。昔ならば当たり前にやっていた手作業での米作り。その営みを今でも淡々と続けていることに感嘆してしまう。だが、そんなお話も驚くにはまだ序の口であった……。

「何より大変なのは、獣害なんですよ。柵を張ってはいるのですが、穂が出始めると毎晩のように猪が侵入しようとする。なので、8月からの3ヵ月間は一晩中田んぼの側で見回りをしていなきゃいけないんです」

私は思わず、えっ?と耳を疑ってしまった。

「眠るのは、朝方に3時間くらいですかね。ちゃんと熟睡すれば、疲れは取れるもので。まるでナポレオンの気分ですね、あっはっは。ここは空が開けているので、星空を見上げながら過ごす夜は気持ちがいいものです」

昔の人が獣を追い払うために夜通し番をしたという話はよく耳にする。私の脳裏に、ふと有名な和歌が浮かんできた。

秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露に濡れつつ

持田さんは、そんな獣の行動に対して独自の見解を持っている。

「人間をその内側に包み込む形で自然界が存在することを、彼らには教えてもらったと思っています。その自然界は、植物を中心に、ウイルスからライオン、鯨まで含む大きな世界。私たちが直面している様々な問題は、人間が勝手な振る舞いをしてきたことにほとんど起因しています。だから、獣害を受けるのも一面当然のこと。自然界に税金を支払うような気持ちで謙虚に受け入れなければならないと思うのです。今はまさに、人間中心の世界観を見直す時代に入っていると、私は考えています」

大きな視点で自然の摂理を理解しつつも、一年分の作物を守るためにできる限りのことはする。その姿勢は、古来より里山で生き繋いできた農民たちの生き様と何ら変わりない。

持田さんは、野菜の植わった畝の草刈りは頻繁に行う。理由は、植物が緑色の光線を嫌うから。緑色をした(それはつまり、緑色光線を反射する)植物が近くにあると、それだけで生育が妨げられるという。

持田さんご夫妻は、ご主人が四国で数年間有機農業の研修をしたのち、38年前に那智勝浦町へ移住された。先人たちの様々な農法を見聞きし、自分なりに研究して野菜作りに取り組んできたという。

「何と言っても、有機農法の経験と思い込みをご破算にしたことが私たちの出発点でした。それは、一緒に農作業に勤しんだ無名の名人、達人たちの教えと支えがあったればこそです。自然農の先輩や専業兼業農家の方々、農家の婦人からも多くのことを学びました。例えば、ちょうど今収穫しているラッカセイ。その発芽に失敗しない知恵を授けてくれたのも、ベテラン農家の婦人でした。種を蒔いた後にアリなどの食害を受けやすいのですが、ほんの少しの工夫でうまく発芽してくれるようになったんです。そのラッカセイが現在の私たちの生活を支えてくれています」

冬野菜の苗の生育具合をチェックする。培養土も、畑の土に灰を混ぜて作っているとのこと。苗にも持田さんのような逞しさを感じる。

田畑から道路へ戻ると、自転車がガードレールに立てかけてあるのを見つけた。持田さんご夫妻は、当初から車を所有せずに暮らしてきたのだと言う。

「自転車をこいでいる私たちを、近所の人たちが毎日見ているわけですよ。そうすると、困ったことがあればすぐに助けに来てくれてね。子育てをしていた折にはオムツをくれたり、おかずを持たせてくれたり。私たちの場合は地元の人しかいない環境が却って良かったですね」

農家の日常遣い仕様に改良された自転車。雨の日も風の日も、持田さんはこぎ続けている。

持田さんにお会いした当初から、私たちはご本人の写真を撮ることを断られていた。帰り際、一枚だけでも撮らせてもらえないかと再度お願いをしてみた。

「いやあ、本当に申し訳ないのですが、それだけは勘弁してください。私はそんな大層な人間じゃないんです。生涯に渡って無名でいたいというのが、せめてもの私の希望ですので」

世界には「有名」な人がたくさん存在する。私たちは、目立っている彼らについつい憧れたり、羨んだりする。でも本当に偉大な人は、歴史に名が残らず、「無名」で生涯を終える一農民なのかもしれない。

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文:吉澤 裕紀
1990年生まれ、東京都国立市育ち。大学在学中のカンボジアへの渡航を機に、国際協力活動や震災ボランティアに没頭。お金で回る社会から一度離れるため、ボロ家を修繕しながら物物交換所を運営。その後大学を中退して、静岡県南伊豆町に移住。電気・水道・ガスを契約せず、衣食住に必要なものは極力自分で作る生活を送っている。

(更新日:2021.12.10)
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死と再生の地、熊野。外界と隔てられた奥山へ、遥か昔より多くの人が足を運んできた。先行きの見えない今こそ、改めて「生きる」という感覚を見直したい。熊野の大地で自然と社会、己自身と真摯に向き合い続ける人たちを訪ねた。
受け継がれる、先人たちの知恵。昔と変わらず地を這って、熊野の大地を耕し続ける、二組の夫婦を訪ねる。

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