特集 生きる感覚を取り戻す 熊野紀行
目・手・口から発せられる、言葉と時間の重み。約70年間手を動かし続ける、2人の伝統工芸士を訪ねる。
このままでは、職人による手仕事の文化が完全に失われてしまうのではないか。
深刻な声でそう叫ばれるようになって、いよいよ久しい。長い年月をかけて積み上げてきた繊細な技術が、重たい歴史が、跡形もなく失われてしまうのは、誰しも直感的に虚しさを感じるものだ。
しかし、実際に自ら安くはないお金を出してそのような品を購入し、生活の中で使い続けている人はどれだけいるだろう。その根本的な問題が解決しない限り、古来の技術を残すことなどできないのかもしれない。
熊野という、山深くて決して豊かではないその地でも、人々は限られた資源を活用し、手に職を付けて生きてきた。今回の取材では、熊野に生きる100歳の笠職人と87歳の桶職人の元へと伺った。
そこで目にしたもの、感じたことは、遠く離れて頭の中で考えを巡らせているだけでは決して辿り着かないような、生身の人間から発せられる言葉の重み、時間の重みであった。
文:吉澤裕紀 写真:熊谷直子
縁を辿り、運に恵まれ、熊野の地へ
お盆も過ぎ、鈴虫が鳴き出した頃、「雛形」編集部から一本の電話が入った。「熊野へ取材に行きませんか?」
新型コロナウイルス感染の影響で床に伏し、終わりの見えない倦怠感に苛まれていた私にとって、それは文字通り「寝耳に水」だった。
大学を中退し、伊豆半島の最南端へ移住して早5年。電気、水道、ガスを契約せず、一時は車やスマホも保持せずに、私は生活に必要なものは極力自分で作り、いわゆる「自給的な」暮らしを営んできた。社会の枠組みから一度離れてゼロから自然の仕組みと向き合うことで、自分はなぜ生きているのか、どう生きていきたいのかが自ずと見えてくる、そう思ってきた。もちろん、その選択は間違っていなかったのだと思う。だが、それと同時に、何かが根本的に違うのだというもどかしさを感じてきたのも事実。
結局、地域に何の由縁も責任もないよそ者が、先人の築いた家屋と田畑とを拝借し、「田舎暮らし」というおままごとをしているだけなのではないか? 端的に言うならば、「生きる」ことへの必死さ、切実さをずっと渇望していたのかもしれない。そんな最中に舞い込んだ今回の企画。寝床で天井を見上げながら、私は二つ返事でOKした。熊野に行くと思った瞬間、起き上がることさえ億劫だった私の胸の中に、沸々と生きる気力が湧いてきた。
台風の影響で出発が危ぶまれたが、幸運にも飛行機は飛び立った。熊野での取材にあたり、私たちはまず熊野本宮大社へお詣りしようと決めていた。宿泊先の湯ノ峰温泉に荷物を置き、「大日越」という古道を歩くこと1時間半。薄暗い杉木立を抜けたその先に、鮮やかに青く澄み渡った熊野川が悠々と流れていた。あまりの美しさに、暫く声も出ず立ち尽す。徒歩で熊野路を歩き通した先人たちは、さぞ感極まって涙を流したことだろう。明治22年の大水害で流される以前、熊野本宮大社は熊野川と音無川とが合流する中洲に位置していた。その旧社地は「大斎原」(おおゆのはら)と呼ばれ、ひとたび足を踏み入れると、途端に清々しい空気が身体を包み込む。何百年も昔より多くの人が歩き目指し、祈りを捧げてきた場所。私たちは、鳥居に向かって深々とお辞儀をした。
熊野本宮大社にもお詣りした後、何気なく一件の土産物屋に立ち寄った。そこで私は、壁に飾られた一枚の円錐形の笠に目を奪われた。笠というと一般には菅(すげ)や竹で作られることが多いが、その傘は薄く割いた檜(ひのき)が編み込まれている。手にとってみると、木とは思えぬほど軽く、檜ならではの芳香が漂う。
「それは皆地(みなち)笠て言うてな、平安時代から熊野詣に来る人々に使われてきたんや。今はもう100歳になる職人さん一人しか作っておらへん。その方も最近は身体が動かんちゅうて、よう出してけえへんのよ」
土産物屋のご主人曰く、現在は在庫がないらしい。私が諦めて帰ろうとしたとき、念のためと別のお店へ電話してくれた。すると、そこには今年納品された笠が幾つかあるというではないか。私は流れるままに紹介先の店を訪れて皆地笠を購入した。そしてその足で、美しい作品を生み出す職人の元へと向かった。
「長生きしてきたから、
こうして皆さんにも出逢えたんですわ」
皆地笠。その名は、田辺市本宮町の皆地という集落で継承されてきたことから名付けられた。国道から少し入った山合いの地に、皆地集落は存在する。購入したての笠を意気揚々と被り、私が玄関から大声で挨拶をすると、とても100歳とは思えぬ愛くるしい顔をくしゃくしゃにした芝安雄さんが出迎えてくれた。
「わしはねえ、100歳と7ヶ月生きさしてもろてるんや。70年ほどこの道一筋でやってきたんですよ。わしも若いとき、50年くらい前は、お茶やお花の籠作りが忙しかったんですわ。最近になって、熊野古道を歩く人が多くなったさかい、今はもうこれ一本でやっとるんですよ」
100年生きて、70年は檜細工に向き合ってきて、50歳の頃を若かりし頃として回想する。その時間の感覚が、まだ30過ぎの自分には到底わからない。
「これ1枚仕上げるのにねえ、8つくらい工程があるんですわ。今作っているのが縁の部分やね。それから、これが三本骨っちゅうて、墨を塗った竹が傘全体の芯になる。てっぺんには、こうして桜の皮をつこうとるんや。これは一説には雷を避けるという言われがあるらしいな。あとは頭の当たる部分を付けて、ミシンがけしたら完成や。1日で作れてせいぜい2枚やね」
聞いているだけで気が遠くなりそうな工程の数。「ひよ」と呼ばれる、檜を薄く割いた材料を作る肝心の工程は、話から省かれている。さらに遡れば、山に生えている檜の原木を見極めるところから仕事が始まると思うと、簡単に身につけられる技ではないことを痛感する。
そんな芝さんでも、歳を経るにつれて身体の衰えは感じているという。
「わしも手を動かせんようになったら人生も終わりですわ。その覚悟で頑張っとるんやけど、やっぱり病気には勝てませんなあ。長く座りよったら腰も痛くて。もう、限界ですわ。そやかて辞めるんはねえ、やっぱし名残惜しいですよ。手仕事が先逝くか、わしが先逝くか、どっちやろかねえ」
弱音を吐いている最中でも、芝さんは縁を編む手を動かし続けている。身体が本調子になったときのために、楽に作れる材料を余分に拵えているのだ。芝さんにとって、生きることと手を動かすことは同じことなのだろう。
芝さんがふと、私の持っていた笠を手に取り、何やらおもむろに後ろから道具を取り出した。
「個人で訪問してくれた人にはこうして判子を押しとるんや。あなたもここへ住所を書いてくれるかいね?遠いとこからよう来てくれましたなあ。こうして長生きしよったから、皆さんにも出逢えたんや。ほんまに幸せなことですわ」
芝さんは、私たちのような一介の訪問客に対してさえ、一人の人間として接してくれた。部屋には、出会った人と撮った写真や、後日郵送されてきたであろう、笠を被った写真が所狭しと飾られている。一人ひとりとの出会いに感謝し、日々製作してこられた芝さんのお人柄がそこにも立ち現れていた。
お話を窺っているうちに、あっという間に小一時間ほど経過していた。話続けてきた芝さんが、ふうっと一息ついて、窓の外を眺める。100歳でも現役で続けている芝さんに、私は当初聞いてみたいことがたくさんあると思っていた。笠作りを始めたきっかけや、ものづくりという営みに対する考え方、皆地笠の存続のこと……。だが、実際にお会いしてみると、そんなことはどうでもいいような気がしてしまった。70年間作り続けているということ、そして今この瞬間も手を動かしているということ。一人の人間の生き様として、こんなにも感動的なこと、尊敬すべきことはない。
「撮ってくれた写真、送ってくれるん楽しみにしとるからねえ」
集落のてっぺんにある家の庭から、車が見えなくなる最後の最後まで懸命に手を振ってくれた。
「とにかく、何でもまずはやってみたらええ」
南紀白浜空港から本宮町へ移動する道すがら、私は「おけ屋」という大きな看板があるのを目にしていた。初日は時間がなくそのまま通り過ぎてしまったが、どうしても気にかかっていた上に、笠職人の世界に触れることができたので、勢いそのままに桶職人の世界へと訪問してみることになった。
私たちがお店を訪ねると、「桶濱」のご主人、松本濱次さんが、桶に嵌める竹のタガを製作しているところであった。
「まあまあ、どうぞ中へ入らっしぇえ。ここがうちのお店です」
そう案内されたのは、ご自宅の中にある6畳程の和室。壁際に沿って、風呂桶や味噌樽、お櫃などが所狭しと積まれている。和室に商品が陳列されている光景は、私たちには不思議な感じがする。そもそも桶屋というのは、近所の人から直接頼まれて修理をしたり新調したりしてきたわけで、店舗を持つ必要がまるでなかった。旅人がこうしてのこのこと桶屋を訪ねることの方が、却って異様なのである。
杉の爽やかな香りに誘われるままに、つい片っ端から桶を手にとってみたくなる。そんな私たちにも、松本さんは嫌な顔一つせずに丁寧に説明をしてくれた。
「今使うてる木いは、隣の龍神村てとこで取れた120年の杉でな。細いのにそれだけ年輪があるっちゅうことは、目が混んでる証拠や。こういう木がいつまで手に入るんかねえ」
皆地笠も同じだが、木を材料として扱う工芸は、何より木そのものの質が命。山林を殆ど活用しなくなった近年は、古くて質の良い木がだんだん少なくなってきているという。一つの工芸に留まらず、これは日本の生活様式全体の問題なのである。
そんな中でも、松本さん曰く、桶に対する需要はここ最近少しずつ回復しているという。
「味噌樽なんかは特に注文が多いのう。都会に住んどっても自分で味噌を作ろうという人が増えとるみたいやな。そんでわしもこの間初めて5キロ用の味噌桶を作ったわ。お櫃なんてのも、最近は2合や3合用の小さいものをこしらえとる。お櫃は、半日ご飯を入れとくだけで全然甘みがちゃうからのう」
伝統工芸を残そうという取り組みは全国各地に存在するが、私たち一人ひとりの暮らし方を見直すことほど大切なことないのだ。
「17歳のときに弟子入りしたのが最初で、今87やから、70年になるなあ。当時は田辺地区でも何十人と職人がおったから、最初はただひたすら同じ作業を、一日200枚も300枚もやらされたもんや。90過ぎてもやろうって気持ちは持ったんねんけどな。4月から孫が帰ってきとるから、少し手間をやらせとる。継ぐっちゅうとこまではいかんやろけどな。なんでもやってみることが大事や」
私は数年前から竹細工を始めた。自分の生活に必要だから作り、身近な人から頼まれるから作っている。しかし実際は、作るたびにやめようとも思う。材料は一つとて同じ物はないし、作る籠によってコツも違ってくるので、面倒臭さが先立ってくる。かと言って、毎日同じ物を作るのも飽きてくるので、つい新しいことに手を出してしまう。松本さんが言うには、桶を製作する技術を身につけるのはそんなに時間のかかることではないらしい。それは竹細工も同じだと思う。それよりも、同じものづくりを何十年も続けていく根気があるかどうかが肝心なのだ。果たして私に、それができるだろうか?
帰り際、私が少し竹細工の話をすると、松本さんは目尻に深い皺を寄せて、思い切りニッと笑った。
「これから籠屋さんになるんはええと思う。竹籠欲しいっちゅう人、ようけおるからな。そらあ、ええのう。続けてみたらええと思うわ」
正直、87歳の職人さんの前で自分がものづくりをしているなんて言うのはとてもおこがましい。実際、ご年配の籠屋さんに「そんな軽々しくできるもんやない」と怒られたこともある。だが、松本さんは新しい挑戦、生き方を素直に喜んでくれた。背中を押されるように、私は桶濱を後にした。
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文:吉澤裕紀
1990年生まれ、東京都国立市育ち。大学在学中に、国際協力活動や震災ボランティアに携わる。お金で動く社会に疑問を持ち、物物交換所を開く。その後大学を中退して、静岡県南伊豆町へ移住。古民家を修繕し、最低限の食べ物を作りながら、暇さえあれば物づくりをしている。左官や竹細工、茅葺きなどが特に好き。現在、茶室を建設中。
特集
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- 目・手・口から発せられる、言葉と時間の重み。約70年間手を動かし続ける、熊野に生きる2人の伝統工芸士を訪ねる。
- 芝安雄さん(笠職人/100歳)、松本濱次さん(桶職人/87歳)
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- 受け継がれる、先人たちの知恵。昔と変わらず地を這って、熊野の大地を耕し続ける、二組の夫婦を訪ねる。
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