特集 佐渡島へ向かう人々

能への情熱と、生々しい文化が残る佐渡を歩く 文・坂本大三郎(山伏)

自然、文化、歴史…… 可能性を秘めた佐渡島と、 そこにかかわる人々。
第3回山伏・坂本大三郎さんが巡る、能文化が残る佐渡島探訪記。

千葉県で生まれ、東京を経由して山形の山で暮らしている僕にとって、はじめて訪れる佐渡への旅。淡い水色の空と、深い青の海、フェリーの行く先の遠くから、だんだんと大きくなってくる島の岩肌や樹木の緑が6月の光の中で揺らめいて、海上を通り過ぎていく風が心地よかったです。

フェリーから見えた佐渡島

フェリーから見えた佐渡島。

今回僕が佐渡を訪れたきっかけは、編集者でライターの上條桂子さんに「佐渡に伝わる能を観に行かない?」と誘っていただいたことでした。同行者は美術家の泉イネさんと料理家のyoyoさん。また写真家の梶井照陰さんに佐渡を案内していただけるということで、なんだか贅沢な旅です。有名な佐渡金山もあり、鉱脈を探し出して金属を作り出すことは山伏の重要な職能だったので、島に古い山伏文化の痕跡があるのではないかと僕はワクワクしていました。

佐渡金山跡。

佐渡金山跡。

遠い場所だと思い込んでいたけれど、山形から新潟まで車で3時間弱、フェリーに乗って2時間半。佐渡に到着してみると「こんなに近いんだ」と意外でした。時間感覚には個人差があるのでしょうけれど、そういえば佐渡は新潟県。僕が暮らしている山形の隣です。天気の良い日には月山の山頂から佐渡が見えることもあるくらいなのです。

船着場に到着しての第一印象は「意外と街なんだな」でした。港の周りは漁村というより小さな繁華街と住宅街が混在しているようでした。僕はもっと鬱蒼とした森に包まれた土地を想像していたのでした。

カタカナの「エ」のような形をした島で、フェリーが到着した両津があるのが「エ」の中央、東側の部分。そのあたりに街が集中して、南部と北部は森と山になっている印象です。

また車で走ってみると、思っていた以上に佐渡が巨大な島であることがわかってきました。佐渡の周囲は262キロもあるそうです。東京から名古屋まで263キロなので、そこから想像すると距離感がつかみやすいでしょうか。後に佐渡の人たちと話をしていた中でも「佐渡が思っていたよりデカい」は佐渡あるあるとして、観光客によく言われるのだそうです。

03_佐渡を歩く
04_どこか懐かしい街の景色05_佐渡の畑で咲いていた植物

街並みは東京などの都心と比べると30年、40年前の風景のようにも見えてきます。シャッターの降りた店も多く、少し寂しげです。でも古い建物が残っていたりしてどことなく心地よい風景のように僕の目には映りました。こういった外界とは地理的な意味でも遮断された島特有の文化に関して、民俗学者の赤坂憲雄さんが「島は閉じることによって開かれている」と述べていましたが、佐渡の閉じ方、開き方が気になってきました。

今回は島の南に位置する草苅神社でおこなわれる能を観ることが目的のひとつでした。佐渡には全国の能舞台の1/3があると言われ、能が盛んな土地だそうです。また世阿弥が島流しにされた土地としても知られ、江戸時代に入ると金山を管理する奉行として大久保長安という人物が佐渡にやってきて能を広めたと伝えられています。

山伏修行場の跡。砂金も採れたという

山伏修行場の跡。砂金も採れたという。

この“大久保長安”が個人的にはかなり興味を惹かれる人物でした。世阿弥の婿である金春禅竹を中興の祖として持つ金春流の猿楽師を祖父に持ち、父も甲斐に流れ武田信玄のお抱えになった芸能者である大久保長安は、金山の開発などを担う家臣として取り立てられます。山伏は鉱山開発を職能とし、また芸能を各地に伝え祭を行った人たちでした。この大久保長安自身が、山伏的な性格をもって、山伏たちを使っていたのではないだろうか、かなり奇怪な側面のある人だったのではないかと、そんな想像が浮かびます。時間があるときにじっくり調べてみたいと強く思いました。

07_祭りの日

この日は各地で祭りがあり華やかな雰囲気だった

この日は各地で祭りがあり華やかな雰囲気だった。

そしていよいよ能を観るために草苅神社を訪れました。神社周辺ははじめに想像していたような鬱蒼とした森を背後に持つ場所で、集落を横切る川を中心に、視界が開けた広々とした空間で、そこには地方でよく目にする誘致されたという精密機械をつくる工場もあり、森のはずれに神社と、能舞台が建てられていました。曇り空の下、緑の青臭さが空気に重みを与えているように感じられました。

能舞台の前の芝生の上にはすでにおおよそ100人ほどの観客が座って待っていました。みんな能を心待ちにしている様子です。草苅神社では1863年から能の上演がおこなわれていたと記録にあるとのことで、思っていたよりは新しいもののようです。

09_能舞台

佐渡各地に廃墟のようにな朽ちかけた能舞台が多くあり、定期的に能がおこなわれているのは8棟のみとのことでしたので、佐渡の能は古くから何事もなく続けられてきたものではなく紆余曲折を経ておこなわれているものなのかもしれません。各地で伝統芸能が消滅していく時代に、いまでも能をおこなっている人たちには様々な苦労があるんだろうなと想像しました。

いたんだ能舞台

傷んだ能舞台。

実際に能がはじまってみると「上手だ」と思いました。民間に伝わっているいくつかの能を見学したことがありましたが、それらは普段別の仕事を持っている人が時間を見つけておこなっているもので、荒々しく雑なものが多く、僕はどちらかといえばそういった民間の芸能に惹かれてしまうところがありますが、草苅神社の能は綺麗で、それだけ佐渡の人たちが情熱を持っておこなっているんだと、それは島の大きな財産だと感じました。

11_大野亀2

12_大野亀を行く

それから梶井さんには島の北部の、海岸線にある見晴らしの良い大きな岩や修験者が修行した洞窟などに連れて行ってもらいました。

北部の方はより辺境感があり、心が躍りました。なかでも大野亀とよばれる海に突き出た小高い丘……というか小山が興味深く、その名前の「オオノカメ」の「カメ」はアイヌ語の「カムイ=神」からきているという説があると梶井さんから教えてもらいました。佐渡には縄文期の遺跡もあるし、縄文文化との関連が深いと考えられるアイヌの言葉と佐渡の地名に共通点があることが、とても面白いことに思えました。

佐渡の縄文遺跡。現在は畑になっている。

佐渡の縄文遺跡。現在は畑になっている。

また佐渡を巡ってくる中で目についたのは、明治時代におこなわれた廃仏毀釈運動の痕跡がかなり雑な状態で放置されていることでした。

廃仏毀釈とは明治政府がおこなった、天皇を頂点とした神道で国を治めるために、それまで信仰されてきた寺院や宮廷の書物にのっていない土着の神や精霊の祠を破壊した運動のことです。

14_廃仏毀釈

廃仏毀釈運動がおこなわれた場所では、その地域の大きな神社に道々の神や精霊の祠がまとめて運び込まれ、そのほかの仏像は焼かれたり捨てられてしまうことが多いのですが、佐渡では集落の端にある、草でぼうぼうの古びたボロ小屋などに雑多に仏像が放置され、明治時代の出来事がつい数年前のことのような生々しさで残されていました。

15_首

良いとか悪いとかを簡単に決めつけてしまうのは避けたいですが、このことは僕にとってかなり興味深いことでした。島が「閉じることによって開かれる」のなら、ここには時間が閉じ込められていて、隠されてしまいがちなものが意図せずに開かれていると、僕にはそう感じられました。

多くの能舞台が残され、能や伝統を愛する人たちが存在しつつも、他の地域では隠されている文化の傷跡が生々しく開いている土地。それが数日という短い時間の中で僕が佐渡対して持った感想でした。その文化的な凸凹感というか、両義性に僕は惹かれます。きっと近いうちに再び佐渡を訪れたい。

佐渡という土地がひそやかに何かを語りかけてきてくれている。そんな風に思える旅でした。

 

 


profile
さかもと・だいざぶろう山伏。千葉県出身。山伏と関連が考えられる芸術や芸能の発生や民間信仰、生活技術に感心を持ち祭りや芸能、宗教思想の調査研究を行う。現在は山形・東北を拠点にし、自然と人との関わりをテーマに執筆・制作活動をしている。2016年にはこでまでに出会ったモノや本を扱う店「十三時」を山形市にオープン。著書に『山伏と僕』、『山伏ノート』など。

 

(更新日:2016.08.17)
特集 ー 佐渡島へ向かう人々

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佐渡島へ向かう人々
日本海側最大の島といわれる新潟県・佐渡島。美しい自然と縄文から息づく土着の文化・歴史を享受しながら、この地で生きる人々に出会いました。
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