特集 見えない体

見えないものが、見える世界を支えている。
料理家・高山なおみさんが語る、
体の言葉。記憶の話。

高山なおみさんが生み出すものを、言葉にするのは難しい。

彼女のレシピは、近くのスーパーで手に入る材料を使って、気張らずにつくれる素朴さがある。なのに、 一度食べると、家庭料理とも違う “らしさ”のとりこになって、繰り返し食卓にのぼることになる。

高山さんは言葉も綴る。『日々ごはん』などの日記やエッセイ、最近は絵本の文章も書いている。気取りのない日々のことなのに、気がつくと夢中になって読んでいる。

どちらも、高山さんの体からそのまんまでてきたような感じがある。それは、どこまでも嘘のない“正直さ”を感じるからなのかもしれない。

彼女が、目に見えない体の感覚とどんな風につきあっているのか知りたくて、蝉が盛大に鳴き始めた夏の盛りの神戸に、高山なおみさんを訪ねた。

文:小谷実知世 写真:田所瑞穂

見えないものの向こう側

ぐーんと角度をつけて、長い坂道を車が登る。神戸の街や港を見渡せる高台に立つ建物の一室。チャイムを押すと、高山なおみさんが柔らかな声で出迎えてくださった。玄関から廊下の先に見えるお部屋のつきあたりには、大きな窓があり、レースのカーテンがパタパタとなびいている。外の強く明るい夏の日差しで火照る顔に、吹き抜ける風が気持ちいい。
「あぁ、ここですね」、窓辺で思わず声をあげた。

高山なおみさんと、画家で絵本作家の中野真典さんによる絵本『それから それから』の一場面そのままの風景が広がっているのだ。

『それから それから』には、日常の風景にも、災禍の只中にも、祝祭の宴にも、確かに息づいている人や生き物の営みが描かれている。

この絵本は、高山さんが見た、ある夢から生まれた。

 

「夢の中で、私はラジオから流れる歌に耳をすましていたんです。それは、かすれた女性の歌声で、聞き覚えのある昔の流行歌のようでした。

サビって言うんでしょうか、『それから それから』と歌詞を、繰り返し歌っていました。『あぁいい歌ねぇ』、そんな風に思いながら耳を傾けているうちに、気がついたんです。これは、受胎の物語を歌っているんだって。女の人の体に生命が宿るその瞬間、その人はぐるぅと、海に重なったり、空に重なったり、地に重なったりしながら、それそのものになっていくんです。海や空や地の粒のひとつになるみたいに。そしてここに戻ってくる。そういう歌だったんです」

「夢の話ですから、何でもありですよね」高山さんはそう微笑みながら、「でも私、昔から夢をよく見るし、夢のことを大切にしているんですよ」と付け加える。そして、夢の中の歌は、現実にある歌ではないけれど、その歌声は耳に残り、目覚めた後も口ずさむことができたという。

2年前、印象的だったこの夢の話を、高山さんは中野真典さんに話した。

「七夕の頃だったと思います。雨が降り続いて、関西空港が水浸しになったことが大きなニュースになった、そういう時があったんです。この部屋から窓の外を見ても、大雨で霧が立ち込めたように真っ白で、目の前の建物も何も見えないような日でした。私の家にいらしていた中野さんが、長い間2階から降りて来ない。見に行くと、正座をして、そこにあった束見本(*)に絵を描いてらしたんです。お茶でもどうですか?と声を掛けても、今は結構ですって」

(*本をつくる際、大きさや紙の厚み、形状がわかるようにつくるサンプル冊子。何も書かれていないためノートのようでもある)

 

その時、中野さんが描いた絵が『それから それから』の元となった。

雨のせいで帰れなくなった中野さんは翌日も、次の場面、また次の場面を描き続け、描き上がった絵を見て、高山さんは言葉をつけた。

そこから絵本として『それから それから』が生まれるまでの間、言葉はさまざまに変わっていった。中野さんの絵に呼応して言葉が変わり、言葉に呼応して絵も変わっていった。そうして、変化を繰り返す中で、最後まで入れるかどうか、迷った一文があるという。

「『みえないものたちが みえるせかいを ささえている』っていう言葉を入れようとしていました。『それから それから』はそういう物語なんです」

そして、高山さんの子どもの頃の話に移っていく。

脳みそから出てくる言葉でなく、
“体の言葉”を使いたい

「私には、“見えているものだけで、この世界ができているわけではない”って思いが、小さい頃からあったんです。学校の先生って、ハンカチを忘れたら怒ったり、表面的なことばかり気にするでしょ。どうしてそれしか見ないのかなって。

そんなことよりも、この世界は、もっといろんなものでできているのにと、思ってました。言葉にはなっていなかったけれど、私の中には、木や風やそういうものと友だちだと感じたり、猫と会話はしなくても通じ合っているという実感があって、そういう“見えないものを見ること”、“見ているものの向こう側を感じること”が得意でした」

 

だから、誰かに「早くおいで」と呼ばれても、道端にいる虫を見たり、草を味見したり、なかなか動かない子だったという。

「じーっと見ていると、わかるものがあるでしょ。雨が降ると、葉っぱの色が濃くなるなとか、匂いがするなとか。そういうことって、おもしろいし、どこか自分の体に近いと感じるんです」

 

でもその思いは、言葉にしようとすると、言葉には収まりきらない。

「だから、言葉が遅かったんだと思います。私には双子の兄がいるのですが、兄は3歳の頃にはすっかりおしゃべりになっていたのに、私はなかなか言葉を話さなかった。話す必要がなかったくらい、じーっと見ていたんじゃないかな、この世界のことを」

感じていることを伝えるのに、ちょうどいい言葉がないと、口が止まってしまうのは今も同じだと高山さん。

 

「どこか別のところから持ってきた言葉ではなく、自分の体に近い感覚の言葉を使いたい。私にとっては、体と言葉とがぴったりであることは、とても大切なことなんです。話をするとき、自分の“感じ”にぴったりの言葉がないと、咄嗟にごまかしてしまうようなこともあって。それが時々すごくもどかしくなります。私が、日記や絵本を書くのはそのせいかもしれません。
体の感覚にぴったりだと感じる言葉を、探して、探して、書くことができるから。それに、そういう“体の言葉”は、普遍的なものと近づくのではないかと思うんです。体は誰もが持っているから、同じ感覚を共有することができる。だから、脳みそから出てくる言葉ではなく、体の言葉を探すのだと思います」

大好きなものがあると、
そのものになりたくなる

じーっと見る。そして、見ているものの向こう側を感じること。そのことは、高山さんの言葉と同様に、料理にもしっかりと繋がっている。

 

「野菜って、同じ野菜でもみんなそれぞれ違いますよね。だから、きゅうりにしても、茄子にしても、買ってきたものをじーっと見て、触ります。それで、水分がどういうふうに入っているかなとか、どうやったらおいしいかなと、イメージする。それも、見ているものの向こう側を感じるってことなんだと思います。

例えば、おいしい茄子はこういう茄子だって、料理本に書いてあったりしますよね。それを頭に叩き込んだって全然だめだと思うんです。茄子が目の前に並んでいても、それらは全部同じ“ただの茄子”とはならない。一つひとつ違うから、よく見て、触って。それから、匂いを嗅いで、味をみて、感じることです」

そうして、見ているものの向こう側を感じようとすることを、高山さんは「自分を手放す」と言う。

「自分を透明にして、ゼロにする。自我のようなものから離れて、そのものに身を委ねる。そうすると、見えてくるものがあるんです」

 

時として人は、物事を自分の見たいように見る、感じたいように感じるということがあるように思う。でも、目の前にあるものを本当に感じたいと願う時には、自分の考えや先入観、自我さえも差し挟むことなく、感じて、まっすぐに捉える。その先に見えてくるものがあるのだなと、改めて高山さんの言う“見ているものの向こう側を感じる”という言葉の意味を味わった。

同時に、誰もが“感じる”ことはできるはずなのに、自分の感覚よりも本に書いてあることを手がかりにしてしまうのはなぜだろうという疑問が湧く。そのことを高山さんに尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「体で感じて捉えたものは、自分の “記憶”となります。その記憶を信じることができるか、できないかということかもしれません。信じることができないから、本に書かれていることや、ニュースや人の言葉ばかりが頭に入ってくるんじゃないでしょうか」

じーっと見る。触る。匂いを嗅ぐ。味をみる。自分を透明にして、身を委ねる。

そうやって高山さんが、 見ているものの向こう側を感じることは、「一体になりたい」という思いとも、繋がっているという。

「ある編集者の方に、『食べるように本を読みますね』って言われたことがあるんです。その言葉を聞いて『本当だ、言葉を食べるように入れている』って思いました。本も、映画も、歌でもなんでも。何かを本当に好きになったときは、体に入れる感覚がある。武田百合子さんの文章が大好きで、『富士日記』は、何回も、何回も読みました。読むと『この文になりたい』って思うんです。文ですよ。おかしいんだけど、好きで、好きで、仕方なくなると、そのものになりたくなる。一体になりたいんです。

母に聞くと、子どものころは大好きな絵本があると、紙を本当に食べてたみたい。『ちびくろサンボ』の話が大好きで、体ごとその世界に入りたい、記憶に留めたいって思ってたんですね。だから、じーっと見るんだけど、それでは間に合わなくて、紙を口に入れてしまう。食べないと“留まらない”、そんな感じがあったんでしょうね」

 

 

母との別離から考えた、
死と、記憶のこと

そこからお話は、昨年の夏に亡くなった、大好きなお母さまのお話になっていった。

「亡くなる前、姉と交代しながら母の病室を訪れていたんですが、行くとずーっと母のことを見てました、ずーっと。おもしろいなんていうと、すごく変なんだけど、どうやって人はこの世から離れていくのか、それを見ているのは、おもしろいことでした。

90歳ですから、自分の体を使い切って、だんだん世間的なことから離れていく。毎日見ていた大好きな朝ドラも見なくなって、聖書も読まなくなって。人は、最後は食べることと排泄だけになっていくんだな、そういうことも母を見ていてわかりました。食べられなくなると、流動食を食べようとして、それも食べなくなると、アイスクリームになって、水になってーー。そうすると、体がどんどん透明になっていく。食べ物を食べているときは、体に生々しさがあるんだけど、だんだん透けるようになって、目もきらきらとしてきて、赤ちゃんみたいになっていくんです」

 

それまで、人が死ぬということはどういうことなのか、わからなかったと高山さん。でも、お母さまとの時間は、死を「自分のこと」としてくれたという。

「息をひきとったとき、母はとってもかっこいい顔をしていました。看護婦さんが体をきれいに拭いてくれて、お化粧をしてくれて。実家に連れて帰って布団に寝かせてからも、何度も触りに行きました。本当は横で一緒に過ごしたかったんだけど、クーラーがガンガンに効いているから、寒くていられないんです。それでも、時折触りに行くと、だんだん体は固くなっていく。でもね、燃やすまでの3日間、耳たぶだけはずっと柔らかかった。

体って、母の魂が入っていたものだから、体も母だと思うんだろうか? それとも魂が抜けたら母じゃないって思うのかな?ってそういうことがわからなかったんだけど。亡くなってしばらくは、まだ母だなって思いました。動かないし、びくともしないし、顔もだんだん変わってきているんだけれど、血は通ってなくても細胞は生きている。そういうことが触るとわかる。でも、ある時から、もう母じゃないって思ったんです。体が入れ物のように感じて。それで、放っておくと腐っていくんだから、燃やしてお別れをするのは、当然だなって思いました。もちろん泣きます。けれど、それは悲しい涙じゃない。納得をしてお別れをするという感じがありました」

 

お母さまと過ごした最後の日々のことは、高山さんの当時の日記『日々ごはん』にも記されている。それらを読んだ時、お母さまへの目線の率直さ、包み隠さない描写に驚いた。そう高山さんに伝えると、高山さんは即座にこう言った。

「残酷なんだと思います。でも“じーっと見る”“感じる”ってそういうことだと思う。見逃さず、観察する。それはさっきの大好きな本の文を、“自分の体に入れたい”と感じることと同じことだと思うんです。母の目つきとか、ふとした時の表情とか、現実とそうでないことの間で混乱する様子とか、全部覚えています。そして、その記憶は私の血肉になっている。そんな感じがするんです」

 

わからなかった「死」に対する、気持ちは少し変わったりしましたか? そう質問すると、高山さんは今もちゃんとわかっているわけではないけれどと言いながら、こう話してくれた。

「本当にいなくなるんだなって。それは、想像していたよりも、“もっといなかった”です。よく亡くなっても、まだここにいると言ったりしますよね? でも私は、今もここにいるとは思っていない。母は、完全にこの世からいなくなったってことがわかりました。でも、だから私は記憶に向かって、毎日話しかけてるんです。よぉく残っている、記憶に向けて」

高山さんの話を伺っていると、まるで高山さんは、そとの世界と体で“交信”しているような人だと感じた。体を受信機のようにして、感じ、取り入れ、体を介して発信する。料理も、言葉も、そうした“体の記憶”から生まれているようだ。

神戸に引っ越して来なければ、絵本『それから それから』はできなかったと、高山さんはいう。そして、神戸に引っ越してきたことで、使ってもいいと感じる言葉の語彙が増えたとも話してくれた。それは、もしかしたら新しい街で、たくさんの新しい記憶を蓄えているからだろうか。

絵本は、高山さんの部屋の窓の景色とそっくり同じ神戸の街の絵とともに、「わたしは ここに」「おはよう」という言葉で結ばれている。

「ここ」にきた「わたし」は、これからどんな1日を始め、何を生み出していくのだろう。高山さんと、絵本の言葉とを重ね合わせて、そんなことを思った。

 

書籍『それから それから』(リトル・モア)
:中野真典 文:高山なおみ (1800円+税)

迫力を持ちながらのびやかに広がる絵と音となって胸のうちに響く言葉。
日常と災禍を行き来しながら紡がれるものがたりが、
かすかな、だけど確かにそこにある一筋の光を感じさせてくれる絵本。
―― 世界がゆらぐような日々の中でも、いつもの「日常」はここに。

見えないものが、見える世界を支えている。料理家・高山なおみさんが語る、体の言葉。記憶の話。
見えないものが、見える世界を支えている。料理家・高山なおみさんが語る、体の言葉。記憶の話。
高山なおみさん

1958年、静岡県生まれ。レストランのシェフを経て、料理家に。文章への評価も高い。主な著書に、日記をまとめた『日々ごはん』『帰ってきた 日々ごはん』シリーズ、レシピ集『おかずとご飯の本』、絵本『アンドゥ』(絵・渡邉良重)、幼い頃の記憶を綴った『押し入れの虫干し』、『料理=高山なおみ』『今日もいち日、ぶじ日記』『気ぬけごはん』ほか多数。中野真典氏との絵本は『どもるどだっく』『たべたあい』『ほんとだもん』『くんじくんのぞう』。近著には『おにぎりをつくる(写真・長野陽一)』『ふたごのかがみ ピカルとヒカラ(絵・つよしゆうこ)』、最新刊に『本と体』、10月末には5年ぶりの料理本『自炊。』が刊行予定。神戸に暮らして5年目となる。
HP:http://www.fukuu.com/

(更新日:2020.10.02)
特集 ー 見えない体

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見えない体
目に見えない脅威により思い知らされたのは、私たちがいかに“視覚”に依存していたかということでした。置き去りにしてきた自分の体とどうやったらうまくつきあえるのか。目にみえない体の世界を探ります。
見えないものが、見える世界を支えている。料理家・高山なおみさんが語る、体の言葉。記憶の話。

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