特集 見えない体

心と体で見えないものを
「さわって、探る」想像力を。
医師・稲葉俊郎さんインタビュー

稲葉俊郎さんのお名前を知ったのは、「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ」総合プロデューサーの中山ダイスケさん(東北芸術工科大学学長)とお話したときのことだった。「2020年の山形ビエンナーレは、お医者さんに芸術監督をお願いするんです」。気になってさらに聞いてみると、稲葉さんが多様な医療現場の最前線で活躍する現役医師であり、芸術にも造詣が深い人であることを知った。

一方でこの抜擢は、単なる異領域のかけあわせによる新味を期待したものでないこともわかってきた。むしろその逆で、「医療と芸術は根幹でつながっている」という稲葉さんの信念と、「からだに効く芸術(祭)を」という中山さんの想いが引き付けあったようだ。医療と芸術はどちらも、この世界のみえる部分・みえない部分を扱いながら、私たち一人ひとりの「いのち」に大きく関わる。その接点から見えてくる景色に惹かれ、稲葉氏にお話を伺うことになった。

文・内田伸一 写真・志鎌康平(写真提供/山形ビエンナーレ 2020)

「違和感」からはじまった医の探求の旅

稲葉さんは循環器系を専門とする医師として、「からだ」だけでなく、「こころ」や「いのち」をめぐる思考を続けてきた人だ。医療とは本来、病と闘うだけのものではない。しかし、ともすれば目に見える症状を治すことのみが、いま私たちの「健康」を考える基準になっていないだろうか。稲葉さんはそこで、「そもそも健康とはどういうことか」に立ち戻った結果、必然「こころ」や「いのち」が思考のキーワードに加わった。そのきっかけとなった出来事はあったのだろうか。

photo:Kohei Yamamoto

「常に大切にしてきたのは〈違和感〉ですね。たとえば、医者を目指して医学部で授業を受けていたときから『これは自分がなりたいと思う医者のイメージとは全く違うことをやっているのでは』と思うことが、少なからずありました。私は自然やいのちというのは本来すごく多様で、広く深いものだと思っています。しかし医大ではその一部だけを取り出して学ぶことで、完結しているように思えたのです。

たとえば食の問題ひとつとっても、東洋医学にも食に深く関わる領域があり、マクロビ、玄米、断食などもからだやこころと奥深い関係があります。でもそこは学校で質問しても明確な答えはもらえず、または自分たちの尺度で『エビデンスがないよね』と片付けられてしまう。しかし私は本来、医者ならば自分で調べ、考えた上で『あなたにはこの選択が向いているはず』と相手に伝えたいと思ったのです」

  

そこで稲葉さんは、医師国家試験に合格し、現代医療の場で働き始めてからも、様々な領域を学び続ける。西洋医学を礎としながら、東洋医学や民間療法、代替医療などにも目を向けてきた。それは、与えられた資格とはまた違う、自分が目指す医者としての「資格」を問い続ける日々でもあったようだ。「でも、それを本気でやったら一体どれほどの時間がかかるのか……と不安にはなりませんでしたか」と聞くと、稲葉さんは微笑みながらこう答える。

「私の場合、そこは不安より〈もっと知りたい気持ち〉が勝ってしまう感じです。将来のためだけでなく、やっぱり、新しいことを知った時の感動や、そうした発見を通じて自分が更新されていく感じが好きなのでしょうね。そして、それらは結果的に、だんだんとつながってもいく。私は『医療と芸術はどちらも、人間が〈全体性〉を取り戻すための営みである』と考えます。それぞれが歩んできた人生のプロセスにおいて、一見すると関係や意味がないものも、ライフサイクルを通じて何らかの形で統合されていく。全体性とは、そうしたことも含むお話です。そして、自分自身でこの星座を読み解き、人生のなかで解釈していくのはとても面白い作業ですよ」

自分の中の、
こころとからだの星座を読み解く

自分の中でもまだ見えていない、あるいはばらばらなものを「星座」として読み解く。そこでは「科学か芸術か」を超えて、人間の想像力が活かされるというのが稲葉さんの考えなのだろう。

「見えないものを補い、自分の中で統合していくのは、やはり人間に与えられたイマジネーションという能力でしょう。私は多くの物事について、正面からさわって手を延ばしていくと、裏側とつながっていると思える感覚があるんです。そうして『さわって、探る』想像力も使いながら、全体性をつかんでいく。たとえば、病院勤務と同時に続けてきた訪問医療などでもそうですが、表面上はとにかく怒っている人がいて、でも色々探っていくと、裏では深く悲しんでいたことがわかる。または、ある人がなぜ不整脈や過呼吸を起こしたのか謎だったのが、実はとても理にかなった〈からだ側の理由〉があったケースもしばしば見られます。その意味では、言葉だけを信用してはいません。

野山で植物の葉の付き方などをじっくり見ると、そこに真理の表現を感じることができます。光の当たる方向や水のとり方、土のありかたなど、複雑な関係性の中で最適化がなされている。さらに周囲では皆がある意味平等に、各々の場所で最大限の生き方をしていて、かつ全体として調和している。同じように、からだのさまざまな反応には、何かしら理由があるものです。そしてこのことは、私が〈いのち〉に抱くある種の信頼感につながっています」

 

ただ、医療の場を訪れる人の多くが心身の困りごとの解決を求めるのに対し、芸術を求める人々は、体調管理や治療のためというより、表現にふれる体験自体を愛する人々も多いのではないか。こう考えると、芸術と医療はやはり違うような気もするが、稲葉さんの中ではどうつながってくるのだろう。

「そこがまさに、私が学生時代に感じた〈違和感〉の先にあったものだと思っています。現代医学は、いわば〈病気学〉であり、病気の治療についての研究や勉強をひたすら行ってきました。でも私はずっと、『人間が健康である』とは本来どういうことかを学び、活かしたかったのだと思います。『病気がなくなったから健康になる』ではなく『健康になったから病気がなくなる、または気にならなくなる』ということもあるのではないか。

これは、ただ現象をひっくり返しただけのようで、方向性は全く違います。病気を治すことだけを第一に考えると、症状は消えたのに体調がすぐれない、というような人たちに応える術がない。でも私はそこにも応えることが大切だと思うし、だからこそ『健康になるとは、調和とはどういうことか』を考えたいのです。もしかしたら、病気と健康が両立し得る領域さえあるかもしれません。こう考えると、芸術がただ困っているから求めるものではないのと同様、医療にも病と闘うだけでなく、本来の健康や調和を求めて人々が集う場が必要だと思います」

稲葉さんはこうした考えを、著書『からだとこころの健康学』(NHK出版、2019年)に綴っている。とてもわかりやすく読める本だが、実は20年ほど考えて続けていたことが、最近ようやく自分の言葉になったと話してくれた。論旨明快、頭脳明晰な印象の稲葉さんでもそこまで時間がかかるのかと意外に感じる一方、私たちもそれぐらい、じっくりと考えるべき/考えていいテーマなのだとも思わせられる。

 

「いのち」というフィロソフィーを
共有する場を

こうしたお話は、稲葉さんが今回「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2020」の芸術監督を務めることともつながっている。医療従事者が芸術監督というのは、近年各地で盛んな芸術祭の中でも異例の人事だが、契機はやはり、医療と芸術をつなぐ場から生まれた。

「きっかけは、香川の丸亀市猪熊弦一郎現代美術館を通じてのご縁です。猪熊さんは作家としての晩年、『美術館は心の病院だ』と仰ってあの美術館を設立しました。私はそのことに感動し、それを知った同館がシンポジウムへの登壇に誘ってくださったのです。シンポジウムでは、猪熊さんの言葉同様に、実際の病院も新しい可能性が交わり得るはずだというお話をして、そこで中山ダイスケさんと出会ったんです。しばらくして、山形ビエンナーレのお話をいただきました。私もかねてこうした芸術祭ができないものかと思っていたので、渡りに船というか、ぜひやらせてくださいとなりました」

しかしその後、まさに医療も芸術も含めた社会全体を襲った新型コロナ禍によって、同ビエンナーレも重要な判断を迫られることになった。従来のように各地からの訪問者を山形に迎えるのではなく、初のオンライン開催を決断することになったのだ。

「大変な調整と決断でしたが、私はとても嬉しかったんですね。今回は見送ろう、という選択肢もあり得た中で、実現するための方法を皆さんが共に考えてくださったからです。これから先、私たちがどう進んでいくか、その後ろ姿を次の世代に見せたいという意見もありました。この人たちと一緒なら新しいことができると、いま改めて思っています。

完全オンライン制でも失われない価値が、ここにはあると信じています。一例を挙げれば、私自身がずっと感動させられてきた、詩人の岩崎航さん(1976年生まれ。進行性筋ジストロフィーを抱え、経管栄養と人工呼吸器を使う暮らしの中で詩を創作している)の参加。彼はご自身の人格を賭けて表現に挑んでいるような人で、しかしこれまで芸術祭という場に登場する機会はありませんでした。それが今回、映像を通じて彼に参加していただけた。このことだけでも、皆さんの心が動くような全く新しい〈通路〉がつくれるのではと思っています」

稲葉さんが共同キュレーターを務める、山形ビエンナーレ2020のプログラム「いのちの学校」。アート、音楽、パフォーマンス、食、ボディワーク、レクチャーなど、あらゆるジャンルの参加アーティストが登場し、からだ・こころ・いのちのあり方について参加者とともに考える。同ビジュアルの水彩画は稲葉さん自身が描いたもの。

心が動くといえば、心臓の鼓動で演奏するパフォーマンスなどで知られる山川冬樹のような、自分自身が表現媒体であるような作家たちの名前が並ぶのも印象的だ。美術、音楽、パフォーマンス、食、レクチャーなど多様なオンラインプログラムが用意されているが、参加アーティストを決めるうえで大切にした観点は「ジャンル分けしにくい人」だという。

「いずれも『どういうことをしている人?』と聞かれたら、『その人というジャンル』としか言えない表現者たちです。アーティストの全身全霊の行為から取り出した表現を、ある種の果実として〈作品〉と呼ぶことはできる。でも本来、そうした果実をもぎってアートと呼ぶよりも、彼らの人生やその軌跡自体が創造物であり、〈その人〉という大木、あるいはその根や土までも含めたものをこそ、アートだと考えたいのです。今回はそういう作家たちと準備をしてきたので、ぜひ体験して頂けたら嬉しいです。

私はこの芸術祭で、医療と芸術が交わる深い部分について、改めて読み解き直そうとしています。出発点にして目指すところでもあるのは、コマーシャリズムや権威とも異なる形で、一人ひとりに固有の健康を回復する、未来の養生所になること。〈いのち〉に対して開かれ、〈いのち〉というフィロソフィーを共有する場をつくりたいという想いでした。もともと私にとっての芸術がそういうものでしたし、芸術“祭”をやるならばなおさらです。このテーマを中心に、いわば曼荼羅のように全体性が描ければいいなと思っています」

最も身近で特殊な
「あたま」との付き合い方

ところで、「こころ」「からだ」「いのち」の関係を考えるとき、私たちは自分の「あたま」も意識せざるを得ない。たとえばコロナ禍以降、私たちは毎日のように「今日は陽性者が何人だった」などの「目に見える」情報を気にし、危険や安心を可視化することに躍起になっている。そこには利点もあるけれど、見落としていることはないだろうか。一方で稲葉さんからは、目に見えないものも含め「全体」をとらえようという思いが感じられた。簡単ではないかもしれないが、大切なことではと思う。

photo:Kohei Yamamoto

「そこに関連して言うと、私たちの〈あたま〉からの声が主に『こうすべきだ、こうせねばならない』という命令形でプログラムされているとすれば、〈こころ〉の声は命令形ではなく『こうしたい、これが好き、楽しい』というものではないでしょうか。そして、人間の〈あたま〉は重要な部分であると同時に、かなりの異物だと私は思います。私たちの〈からだ〉の営みは、神経のパルスのやりとりから内臓の働きまで、99%以上が無意識の領域で行われていると言える。全てを意識で制御していては〈あたま〉が保ちませんから、見方を変えると、これはからだ側からの思いやりかもしれません。

ですから、私たちが〈あたま〉由来の言葉に従いがちなのはある程度仕方ないとして、自分の〈からだ〉や〈こころ〉への思いやりでバランスを保てると良いでしょうね。これは、自分自身に支配されない感覚にもつながると思います。世阿弥の言う『離見の見』(演者が自らの身体を離れた客観的な目線をもち、あらゆる方向から自身の演技を見る意識のこと)ではありませんが、自分という存在がこの世界にどう位置付けられているか、をきちんと把握することも大切でしょう」

 

稲葉さんは著書『いのちは のちの いのちへ』(アノニマ・スタジオ刊、2020年)の中で、これからの個と社会を考えるうえで、「中動態」という言葉にふれている。日常感覚で言うと、「能動態(〜する)」の対概念は「受動態(〜される)」になるけれど、古代ギリシアにおいてはそこに「中動態」という考え方があったという。

「〈中動態〉とは、自分の行いが自分自身に及ぶものを指します。たとえば『他者を思いやる』のは能動態で、『思いやられる』は受動態ですが、もともとは中動態としての『自分の中での思いやり』『自分への思いやり』もある。これは〈感動〉や〈謝罪〉などにおいても同じことが言えて、人それぞれ自分のなかで愛や思いやりが循環して、いわば土や養分から何かが生まれていく。そう考えれば、これは究極のエコシステムだとも言える。そういうことをもう少し考えようというのも、私の提案したいところです」

最後はちょっと難しい話になってしまいましたね、と笑った後、稲葉さんはこう付け加えてくれた。

「でも私は、こうしたことすべてを楽しんでいます。基本的に、生命の欲求というのは『楽しくやろう』だと思うからです。なぜそう思うかと言えば、子どもたちを見ているとそうとしか思えないから。たとえば家族で出かけたとき、トラブルで電車が止まると、大人は皆ぶつぶつぶつ文句を言い出しますよね。だけど子どもたちは、そんな大人たちの股をくぐり抜けて走りまわり、遊園地のように楽しんでいる。そして、いま私がやっていることすべても、挑戦であると同時に発見があり、かつて自分が違和感を覚えながら『本当はこうあれたら』と願ったものに近づいてきている感じがするのです」

 

稲葉俊郎さんが芸術監督を務める
「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2020」

9月の金・土・日・祝日に開催中!


東北芸術工科大学が主催し、山形市で2年に1度開かれる芸術祭。4回目を迎える今年は新型コロナウイルス感染拡大防止に伴い、オンラインを中心としたプログラムを展開する。山形ビエンナーレ2020公式webサイトをプラットフォームに、コンテンツ配信+各種メディアミックスで開催。
URL:https://biennale.tuad.ac.jp

心と体で見えないものを「さわって、探る」想像力を。医師・稲葉俊郎さんインタビュー
稲葉俊郎さん 医師、医学博士。1979年熊本生まれ。2004年東京大学医学部医学科卒業、東京大学医学部付属病院循環器内科助教(2014-2020年)を経て、2020年4月より軽井沢病院総合診療科医長、信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授を兼任。心臓を専門とし、在宅医療、山岳医療にも従事。西洋医学だけではなく伝統医療、補完代替医療、民間医療も広く修める。近著に、『いのちを呼びさますもの』アノニマ・スタジオ(2017年)、『ころころするからだ』春秋社(2018年)、『からだとこころの健康学』NHK出版(2019年)、『いのちは のちの いのちへ』アノニマ・スタジオ(2020年)がある。
photo:Kohei Yamamoto

HP:https://www.toshiroinaba.com/
(更新日:2020.09.17)
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