薄れゆくまちの記憶を、語り伝える。
記憶はあまりにも脆弱で、モノの存在はこんなにも大きい。

いつものまちの一角に、急に、ぽかんと空いた土地。
あれ、ここってなんだったっけ。家だったっけ。お店だったっけ。
思い出そうとしても、なかなか思い出せない。よくあることだ。

記憶というものはあまりにも脆弱で、モノの存在というのはこんなにも大きい。風景の喪失。そしてその喪失によって、人の記憶もどんどん薄れていく。復興はまちを元通りにしていくことに軸足を置く。震災は今、まるで「なかったこと」にも、なろうとしているのかもしれない。

柵だらけの通りをゆっくりと車で進む。空き地と、草の茂みと、崩れ落ちそうな家、立ち入り禁止のバリケードの向こうに見える立派な桜並木。今までに感じたこともない気持ちが湧きあがる。どこでもない、どこにも似ていない、ここにしかない風景。私にとっての「夜の森(よのもり)」の風景は、こうして記憶された。

一度聴いたら忘れられない福島県・富岡町の「夜の森」という地名を教えてくれたのは、秋元菜々美さんだった。彼女が生まれてから、中学1年生の3月11日まで育ったまちを、彼女と一緒に歩いていく。

文:佐藤有美 写真:今津聡子

「いってきまーす」「また明日ねー」
いつもの言葉が数年先へと放たれたあの日

2011年3月11日。その日は中学校の卒業式だった。

13歳、中学1年生だった秋元菜々美さんは、いつものように「いってきまーす」と家を出て3年生の卒業式に出席したあと、いつものように友人たち4人と学校近くのセブンイレブンに集まっていた。

午後2時46分。目の前のガラスは割れ、棚は倒れ、店内はぐちゃぐちゃになり、ジャンプを立ち読みしていた菜々美さんも慌てて外へ飛び出した。友人は泣き出すし、雪は降り出すし、町内放送が知らせる津波の予想の高さはどんどん上がっていく。とりあえず中学校へと戻り、親の迎えを待った。帰っていく友人たちに向かって、いつものように、「また明日ねー」と手を振った。

それから3年もの間、菜々美さんが富岡町の自宅に帰ることはなかった。

また明日逢えると思っていた友人たちとは、そのまま離ればなれになった。

菜々美さんが語るその鮮明な記憶の断片が胸に突き刺さる。明日、急に、住む場所を追われるとはどういうことなのか。住み慣れたまちが「帰還困難区域」になるということはどういうことなのか。

 

当時13歳だった菜々美さんは23歳になった。

ずっとこのまちを見続けていたい。その想いから、2018年に富岡町役場に入庁し、今は役場で働くかたわら、自分の経験を語りながら富岡町内〜双葉郡各地を回るツアーを企画・運営している。

「私、12、3年くらいしかここに住んでないから、思い出と言ってもすごく小さな思い出がたくさんあるだけなんですよね。場所と記憶ってセットになっていて、匂いとか、温度とか、そういうものがあって思い出せることってたくさんあるけど、そういう、思い出せる場所や風景がどんどん無くなっていて。本当に私、住んでたんだっけ?って」

富岡町・夜の森の、家があった場所の草の上で、言葉を探しながら、考えながら、笑いながら、菜々美さんはそんな話をしてくれた。急に断たれたこの土地との関係性を模索し、必死にもがいて取り戻していったあの日からの年月。 “10年” という単位に、意味なんてないのかもしれない。それでも、中学生だった菜々美さんの中に渦巻いていた “言葉になる前の感情” は、たくさんの出逢いと時間の経過によって少しずつ少しずつ縁取られていき、語られながら、形を成していった。その10年を胸にいま、清々しく前を向いている。

 

演劇との出逢いと、3年ぶりの家。
閉じ込めていた感情を拾っていく

突然はじまった菜々美さんの避難生活。福島県・川内村、茨城県、千葉県など親戚の家を転々としたのち、千葉で半年間学校に通い、その後福島県いわき市へ。中学生の頃は、自分が富岡町から避難して来ているということをずっと言えずにいた。

「授業の中で震災をテーマに話すことがあっても、私は耳を塞いで、ずーっと机に突っ伏してました。先生も何も言わなかった。私はみんなに、富岡から来たって打ち明けていなかったけど、きっと先生から共有されていたんでしょうね。わかっていたんだと思います」

高校に入学し、菜々美さんは演劇と出逢う。「自分の中で大きかった出来事を演劇にする」という演劇部の作品づくりの手法に取り組む中で、耳を塞いで蓋をしてきた震災と向き合うことになっていく。

 

「演劇の仲間の中に、富岡出身で同じ小中学校だった女の子がいたのもすごく大きかったし、もう一人、いわきで津波の被害に遭って自分の家をなくした男の子もいて。その子とは、家に帰れないのと、津波で家を失うのと、どっちが辛いかっていうことでケンカして。お互いに『そっちの方が辛い!』って言って、決着はつかないんですけどね(笑)」

また、高校1年生の3月、菜々美さんは震災以来初めて富岡町の自宅を訪れることになった。帰還困難区域には15 歳未満は入ることができない。両親からの「行くか?」の誘いに、「じゃあ行こっかな」と車に乗り込んだ。3年ぶりに訪れた我が家。それまでは帰還困難地域の近くに来たことも、行きたいと思ったこともなかった。

「『こんなになるまで放っておいてごめん』っていう気持ちが湧いてきて……ごめんと言うか、放っておいちゃったんだっていう事実がひたすら、ばぁって来て。あの頃はまだ中1で、地震の後、家に戻ってもいなくて……だから、震災があったんだっていうことを、そこではじめて思ったし、人が住んでないまちってすごく空気が停滞してて、独特で……ああ、もう前の生活とは違うんだって。

それまでの3年間は、富岡を大事には思っていたけど、別に関わろうともしてこなかったし、暮らしていないし、一度も来ていない……その間に何があったのかが自分から抜け落ちてることへのショックが、すごくあったんです」

もう家には帰れない。町には入れない。中学生が受け止めるにはあまりにも大きすぎる現実を前に、菜々美さんはそれを表現する術もなく、ただただ絶句していたのかもしれない。あの日、家を出てから、どこかふわふわと漂い続けていた菜々美さんのこころは、生まれ育った家の、町の “いま” を目の当たりにすることで、“ここ” に戻ってきた。もつれた糸をほどいていくように、その後は何度も富岡町に通い、家に入り、演劇の手法も使いながら自分の経験や感情を整理し、昇華していった。

「自分にとっての町って何だろうとか、震災後に経験してきたこと、友達づきあいの中でふるさとのことが言えなかったこと……そういうものを一つひとつ拾っていってあげる作業というか。震災のことも、自分が何を思ってるかも、ゴチャゴチャしてて全然わかんなかった。でも、言葉にしないと伝わらないし、言葉にすることで自分もわかることがたくさんあるはずだって思ったから、とりあえず言葉に出していって。

もう本当に、語彙力がなさすぎて『うわーっと思って』みたいな言葉しか出てこなくて(笑)。そんなことをずーっとずーっと言い続けて、その『うわーっ』っていうのはどういうことなのって、先生や同級生とお互い言い合いながら『いや、これは違う!』って繰り返しながら、ケンカもしながら、整理していきましたね」

高校2年生のとき、震災の日以来初めて中学校1年生の時の教室へ。黒板には担任の先生からのメッセージが残されていた。「黒板には日直だった私の文字もあって。そうだ、私、ここにいたんだって、思えた時間でした」(ともに写真提供:菜々美さん)

 

語りはじめたら見えてきた
ぼんやりとした、私の故郷

変わっていくまちの風景を、もう見逃したくない。富岡町に関わり続けられる仕事はと考え、役場職員を目指すことを決め、菜々美さんは郡山市の専門学校へと進学した。親元を離れ一人暮らしをしながらも、当時いわき市で開催されていた対話の場「未来会議」に参加するなど、引き続き震災と向き合い続けた。

2019年にはいわき市で開催された芸術祭「しらみずアーツキャンプ」に参加(台風による順延のため2020年に実施)、かつて常磐炭鉱として栄えた地域を中心にバスで移動し、歴史を体感しながらめぐる演劇プログラムに役者として出演。(写真:鈴木穣蔵)

2018年4月、念願叶って富岡町役場に入庁。その年の冬には富岡町を中心に、自らの経験や想いをツアーを通じて表現していく活動を開始し、現在も続けている。

「自分の経験を言葉にしていくことや、地震や津波の被害、震災以降の町を知ることについては結構決着がついてきたけど、もうちょっと深掘りをした地域の歴史も考えていかなきゃって思いはじめたんです。神社仏閣巡りからはじめて、『しらみずアーツキャンプ』での出逢いやご縁から、地域を見る新しい視点や手法を取り入れたリサーチの仕方も教わりました」

震災前と震災後だけではない、もっと大きな時間軸で地域を見ていくことが、菜々美さんの視野を大きく広げ、その語りにますます厚みを持たせていく。ここは、決して原発だけがあった地域ではない。長い長い歴史の上に、今、立っている。

彼女と歩く「夜の森」は
いつか私が歩いたまちだろうか

国道6号線を南へ北へと行ったり来たりしながら、JR富岡駅や富岡漁港、立ち並ぶ送電鉄塔を横目に新福島変電所、そして夜の森へ。菜々美さんの案内でさまざまな場所に立ち寄り、町をめぐっていく。途中、菜々美さんは何度も小声でつぶやき続けた。

「あ、ここ無くなってる」「ここも」「あそこも」「ついこの間はあったのに」

 

放射能で汚染されてしまった土地の “復興” は除染が前提であり、避難指示解除の目処がなかなか立たなかった時間の中で、たくさんの家や建物が解体されていった。「帰還困難区域」「中間貯蔵施設建設地」「特定復興再生拠点区域」などの、さまざまなラベル。いまだに方針が定まらない場所もある。避難生活から別の地への定住へ。故郷に家があっては前に進めないと、解体を選択した人は多い。震災から10年を区切りとするように、解体のスピードはどんどん速まっている。

「さっき通った6号線沿いに天井が落ちている建物があったんですけど、そういう被害の状況が見られる場所ってもっとたくさんあったんですよ。やっぱりああいうのって、視覚的に訴えるものがすごいじゃないですか。でも、解体が進んで、私が『あった』としか言えないことがどんどん増えていくと、この町の被害自体がなかったことになって……自分の生活も、夜の森で生まれ育ったこともなかったことにされるみたいな感覚が、すごく強くて」

2020年3月のJR常磐線全線運転再開にともなって、震災以降ずっと帰還困難区域となっていたJR夜ノ森駅周辺の一部の道路だけが 先行解除となった。菜々美さんの家の前の道路もその対象となり、道を塞いでいたバリケードが撤去された代わりに、それぞれの家の敷地に鍵付きの柵が設けられた。

「ここからは歩きましょう」

そう促されて、先行解除された道路に車を停めて歩いていく。かつて、菜々美さんの家があった場所。2017年に家は解体され、今は草が生えているだけだ。解体の直前には両親と兄、姉の家族5人で集まり、みんなで家にお別れすることができたと、菜々美さんは言う。

「いつもは両親と私の3人で来ることが多かったから、久しぶりに5人で家にいたら、暮らしの記憶がバーっと蘇ってきて。台所に立つ母の姿や、その後ろで相談したいことを考えながら待っている自分とか、きょうだいで遊んだこととか。家は、みんなで見送れたから、気持ちの整理もついたんですよね。

でも、 先行解除されて、道路沿いに柵が並ぶ景色を見たとき『もっと帰れなくなっちゃった』って思って。その手前にバリケードがあって、それを越えたら私が暮らしていた夜の森の風景が続いていた頃とは全く違う、風景自体が変えられちゃったような」

再び車に乗り込み、バリケードの前の警備員さんに申請書を渡し帰還困難区域の中へと進む。そのままになっている家も多いが、やはり解体も進んでいる。助手席の菜々美さんは、小さな思い出をぽろぽろと話し続けてくれる。

「ここは私が通った保育園なんです。あの遊具で遊んだなー」

「この裏には、私が生まれる前に家族が住んでた家があって」

「ここは親友の家。家族3人すごく仲が良くて。この庭でイワナを焼いて食べたなあ」

「春には桜がいっせいに咲いて、公園には屋台が出て賑わってて」

小さな菜々美さんがタタターっと、車の前を横切って行くかのようだった。自分の世界が歩ける範囲に点在していた頃、その中を駆けめぐる私は、果てしなく自由だった。

菜々美さんの姿に、小さな自分の姿が重なっているようだった。

今こそ必要なのは
きっと、アートや表現の力

2020年の夏、菜々美さんは「みちのくアート巡礼キャンプ」で出逢ったアーティストとともに家の敷地に自分の背よりも高く伸びていた草をすべて刈り、燃やした。それは儀式のようであり、お盆の送り火のようだった。最後には花火もした。この場所は2023年春には避難指示が解除される予定になっている。解除、解体、増える空き地。その波が迫り来ることに焦りすら感じながら、自分が故郷に関わる意味を探してきた。

 

「この柵が無くなった時にきっと、気持ちが大きく変わると思うから、それに向けた心の準備というか。今、ばらばらになっている “自分にとってのこの場所”と、“この場所を思うわたし” みたいなものが、柵が無くなる時に、きっと一緒になるのかなって。
だから、その自分の過程を大事にする上で、ツアーをしたりとか、アートとか表現っていうものが必要なんじゃないかって思っているんです」

演劇と出逢ったこと、震災や地域の歴史と向き合い、この町を想うたくさんの仲間たちと出逢ったこと。今、菜々美さんはその全てを土台に、富岡町で文化の拠点づくりをはじめている。

「私が演劇によって自分の経験を整理していったようなことって、演劇を “見る” っていうことでもできると思っていて。アートには、新しい視点を与えてくれたり、『自分が思ってたことって、こういうことだったんだ』って発見させてくれる力がある。それは、自分が当事者だと気づけないことかもしれない。自分は辛さでいっぱいいっぱいになっているけど、それを自分以外のもので見ることでわかる、そういった経験が誘発できるような機会を、つくれるんじゃないかって。

いろんな復興政策があるなかで、逆に助けられるのが当たり前になって、自分で立つ筋力が落ちていく 、補償が生活補助になってしまっている人たちが増えているのも、役場で仕事する中で見てきているから。そうじゃないかたちの支援……気力とか、前に進んでいくきっかけになっていくのかもしれないなと。自分のことは自分でしか、救えないから」

アーティスト・イン・レジデンスでアーティストを受け入れ、双葉郡を舞台に作品制作を行ったり、イベントも企画していきたい。 数年前から続けているツアーも、双葉郡で活躍するさまざまなプレイヤーとコラボレーションしていきたい。菜々美さんは自分の表現方法をつかみつつある。自分自身の経験をもとに、土地と人をつなぎ、物語を紡いでいく。

 

来て、見て、自分で感じてほしい。
今ここにしかない、この風景

「震災からこれまでの時間って、“当事者の当事者性” があまりに大事にされすぎてたっていうこともあって、そこに関われない人がたくさんいたんですね。そういった人たちを受け入れたいなと、私は思っていて。今年はコロナ禍というのもあって、自分がツアーをできないとか、企画を打てない状況になったときに、これは震災が、ますます記憶から薄れていっちゃうなと。コロナは全員が当事者ですからね。それによって上塗りされて、どんどん忘れられちゃう、だからもっと発信していかないとって思って」

2020年9月には双葉町に「東日本大震災・原子力災害伝承館」がオープンし、開館から1カ月半で来館者が2万人を突破。道の駅ができたり、個人が経営する飲食店も増えた。2018年11月に開館した「東京電力廃炉資料館」もある。コロナ禍がなければもっと多くの人が、あれから10年を迎えようとしている福島に、訪れていたはずだ。

「ここに来た人たちが、伝承館や廃炉史料館だけで終わってしまうのはすごくもったいない。今の町があって、住んでる人がいることを全くスルーして施設に行ってもしょうがないですよね。同じ地域でも全然違う経験や体感があって、伝承館みたいな公共の施設では扱いきれないこともある。だから、それをちゃんと補足して強度を上げていきたいんです」

震災はもちろんつらい経験だった。それでも今、ここに暮らす中での発見や、楽しさも山ほどある。菜々美さんが今年実施したいと考えているのは、富岡漁港から漁船で海釣りに出て、富岡のレストランで調理をしてもらい、富岡でつくられたワインも楽しむという体験型ツアー。釣った魚の放射線量の測定も行った上で、食べることができたらと考えている。

そして今、大きな議論となっているのは「震災遺構」のこと。被災した建物を残すか、解体するか。宮城県や岩手県の沿岸部でもいくつかの建物が遺構として保存される中、津波を思い出したくないと感じる人、後世に語り継ぐために、忘れないためにと感じる人、さまざまな考え方がある。双葉郡の場合は放射能汚染の問題があるため、遺構として保存するためのハードルはさらに上がってしまう。それでも菜々美さんは、可能な限りたくさんの場所を残してほしいと願う。

「モノが残っているということは、被災した人たちだけじゃなく、外から来た人たちにとってもすごく大事なんじゃないかなと思っていて。たとえば小中学校だったら、誰しも小中学校に通っていた記憶があるから、その自分の人生の経験と、そこで被災をした人たちの経験を照らし合わせることでやっと考えられる。そのきっかけとして、すごく大事な場所なんじゃないかなと思うんです」

2020年9月、菜々美さんは自分が通っていた小学校が解体されている合間に、建物の中に入る機会を得た。震災のときは中学1年生だったから、小学校の方が記憶に残っていた場所でもあった。

「校舎の中はもう片付けられてコンクリートが剥き出しになっていたから、教室に入っても何も思い出せなくて。でも、窓からイチョウの木を見たら、急にいろんなことを思い出したんです。校庭の隅にブランコが残っているのを見つけて、立ち漕ぎして、その時見える校庭の景色と、独特の目線の高さで思い出されるいろんなこともあって。モノが残っていることが、これだけ記憶に作用するんですよね」

通っていた小学校が解体中のときに訪れたときの写真。教室の面影はなくなっていても、窓の外のイチョウの木はそのままだった。(写真提供:菜々美さん)

今年はコロナ禍で、卒業生たちみんなでこの校舎を見送れなかったことが悔しい。見送ることで、気持ちに区切りをつけることができたはずなのにと、菜々美さんは言った。彼女の思い出を聴きながらまちをめぐる時、なんでこんなに心に響いてくるんだろう?と、ずっと考えていた。

菜々美さんが話す小さな出来事やまちの風景を、きっと私もどこかで見たからだ。
誰もが過ごした日常の話を、菜々美さんは語り続ける。
「一番残したいのは、夜の森の桜。今の復興を考えるきっかけにもなる場所だし、私にとっては通学路だったし」

ここで、大好きな友たちに出逢うことができたから。
私は桜を見に、また夜の森へ行こう。

 

 

文・佐藤有美
さとう・ゆみ/愛知県生まれ、神奈川県・逗子市在住。国内外を旅し、そこで出逢った人たちとの縁から、執筆、企画などを行う。10年以上前から福島へ通いウェブマガジン等で記事を発表。祭りや音楽をこよなく愛し、ちんどん屋としても活動している。https://cotoconton.com/


editor's note

●菜々美さんが実施しているオリジナル・ツアー
「土地の歴史」「東日本大震災の被災」「現在の暮らし」の3つを軸に、今は見えなくなってしまったものを立ち上げ、過去に思いを馳せ、どう生きるかをともに思考するツアー。
依頼・詳細の問い合わせは、yonomorikita183@gmail.com まで。

薄れゆくまちの記憶を、語り伝える友。記憶はあまりにも脆弱で、モノの存在はこんなにも大きい。
秋元菜々美さん あきもと・ななみ/1998年、福島県双葉郡富岡町生まれ。富岡町役場職員。いわき総合高校で演劇を学び、専門学校在学中に、双葉郡の内陸に位置する葛尾村の一般社団法人で村内ツアーの企画・運営を経験。現在は、自身の経験をもとに富岡町や双葉郡各地を語りめぐるオリジナルツアーを行っている。活動を通して出逢った俳優2人との繋がりから、富岡町に文化拠点を準備中。
note: https://note.com/sacra21/n/nbe758db23c47
(更新日:2021.03.11)

特集

これから、誰と、どこで、どんなふうに生きていくか。考えて考えた末の、一人ひとりの別々の決断が、そこにはあった。ぼやけて見えなかった地域が、私の中で立ち上がっていく。
薄れゆくまちの記憶を、語り伝える友。記憶はあまりにも脆弱で、モノの存在はこんなにも大きい。

最新の記事

特集

ある視点