辿り着いた、富岡町での"お隣暮らし"
自分の人生をもう一度めぐる、旅の途中。

出逢いは偶然であり、必然である。
いつからかそんな信念が、自分の中にある。

偶然の流れに乗るも乗らないも、そのときの自分次第。あのときああしていればの後悔がなんの役にも立たないことも、もういい加減わかっているつもりだ。

浜通りでさまざまな人に出逢って行くと、そんな「流れに乗って動いてきたら、ここにいた」というようなエピソードを山ほど聴く。ここで生まれて、別のどこかを経て帰ってきたお話はもちろん、想像以上に多かったのが、震災後にここにたどり着いた、特に若い世代の人たちのお話だった。20〜30代の彼らは、この地域が抱える問題も十分受け止めながら、それぞれにここで暮らすことを選んでいる。

福島県・富岡町に暮らす辺見珠美さんと、同じ敷地内の隣の家に住む鈴木みなみさん。二人の間をちょろちょろと行ったり来たりするのは、みなみさんの子・4歳のみちるちゃん。彼女たちの新しい暮らしに、おじゃました。

文:佐藤有美 写真:今津聡子

あの頃の私たちが欲しかった日々を
今、過ごしているのかもしれない

車で目的地にたどり着くと、想像していたよりもずっと大きいおうちが二軒並んで建っていた。

ある一家が暮らした家の敷地内に、息子さん家族が新しく家を建て、その半年後に震災。それから2017年まで、ここはずっと避難指示区域となっていた。避難した家族は別の地に移り、新しい暮らしを営んでいる。

「親戚の家、貸せるみたいだよ。」友人からの紹介で、辺見珠美さんがこの家に住みはじめたのは昨年の4月。隣には同じくらいの大きさの、もう一つの空き家。ちょうど同時期に家を探していた鈴木みなみさんに声をかけ、 “お隣暮らし” がはじまった。

「みなみちゃんのところには子どももいて、なんかわかんないけど、私の中ですごく母性的なところがくすぐられるというか。“疑似家族”的な、ゆるい家族関係みたいな暮らしなんですよ。
昔から子どもは好きだったけど、もっと惹かれるようになったし、自分には子どもはいないけど、ほかの子どもたちも大事にしたいって感じるようになって。それで『こども食堂』も、やりたいなって思ったんです」

珠美さんが言う『こども食堂』とは、2020年11月からみなみさんと珠美さんらが中心となって新しくはじめた取り組みだ。いわゆる“こどものための食堂”の役割だけでなく、学校帰りの子どもたちが親の帰りを待ちながら過ごせる学童のような場であり、親たちもほっとひと息つける場。さまざまな役割を兼ねた、まちのコミュニティを目指している。

「たまちゃんを誘ったとき、ちょっと考えさせてっていうよりかは『おお、いいね~、やろう!』って感じだったよね。こんなことがやりたいって思ったときに、自分一人じゃ難しそうだけど、たまちゃんとならできるかなって」

これまで双葉郡内でさまざまな取り組みに関わり、実現させてきた二人がお隣さんになった。移住者という共通点はあれど、これまでは決してすごく仲がよくて、頻繁に会うような関係性ではなかったと言う。偶然に後押しされて、同じ敷地内にたどり着いた二人。そしてみなみさんの子、4歳のみちるちゃんと猫のサロメ。忙しく働く二人はお互い留守にしていることが多いけれど、もともとイベントを主催したり企画する仕事も多く、コロナ禍では家にいることが自然と増えた。時間が合えばどちらかの家のリビングでギュッと団子になって、食卓を囲む。

珠美さんは東京から。みなみさんは山形から。
違う環境で育った二人がはじめた新しい暮らしの中で思いがけず出逢ったのは、幼い頃の自分自身でもあった。あの頃の私たちが欲しかった何かが、今、満ちていくような日々。

「原発、大丈夫かな?」
出せなかったエントリーシートのゆく先

2011年の大震災の日。珠美さんは大学でおにぎりを頬張りながら、志望企業に出すエントリーシートの最後の仕上げをしていた。「小中学生の頃はガリ勉だった」と、自分で話すほど勉強漬けの日々を送った幼少期。女手一つで育ててくれた母の方針だった。いつしか数学に夢中になり、理系の大学へと進んだ珠美さんは、原子力の研究室へ。第一志望企業は電力会社だった。

「地震が来たとき一番に思ったのが、『原発、大丈夫かな?』ということでした。2月15日に福島第一原発へ見学に行って、中央制御室が再現された訓練所にも入ったんです。“地震”っていうライトがあって、『どれくらいの震度のときに光るんですか?』って質問もしたからすごく覚えていて。今、あのライト光ってるのかな?あそこにいた人たち、大丈夫だろうか?って」

しばらく放心状態となり、翌日が締め切りだったエントリーシートは出せないまま、就職活動は全く手につかなくなった。これまで積み上げてきた勉強の成果とは、なんだったんだろう。いい成績を取らなければというプレッシャーからなのか、高校1年生のときからナルコレプシーという睡眠障害に悩まされ、大学では友人たちと気軽に訪れたスロットにハマり、ギャンブル依存症のような状態に。疲れ果て、壊れかけていた珠美さんの心を少しずつ癒したのは、震災後の福島や岩手との関わりだった。

東北の地ではじめて出逢えた、
ただ、ありのままの自分

「岩手県大槌町の仮設住宅で、おじいちゃん、おばあちゃんの手を揉みながら足湯をして、話を聴いていたんですけど……、『ありがとね』って言ってもらえたりとか、足湯で緊張がほどけたときにホロっと出てくる本音を受け止めたりとか、その関係性の中で、自分の心が救われたような気持ちになったんです。勉強だけが私のプライドで、価値観で、でもそれが睡眠障害で一気に壊れて。大学に入っても自暴自棄になったり、ギャンブルにはまったりして。そこからの心の再構築がずっとできてなくて。そこが癒されたんですよね。包まれたっていうのかな」

何者かにならなければと、ずっと焦ってもがいていたこれまでの自分。私は私のままで、ここにいていいんだと、はじめて言われたような気持ちだった。

その後、ボランティアでのご縁がつながって福島県・川内村で就職することになった珠美さん。マイナス16度まで冷え込むという冬を目前に、はじめての一人暮らしがスタート。灯油ストーブの使い方を一から教わり、こたつを貸してもらって寒い冬を耐え忍んだら、春がドーンとやってきた。一斉に咲き乱れる花、丸ごと紅葉する山。東京とは全く違うダイナミックな自然が、毎日違う風景を見せてくれた。取得したての運転免許で広い川内村を縦横無尽に走り回り、いろいろな考え方や意見を持つ個性豊かな人々に惚れ込んでいくのに、時間はかからなかった。自然もありのまま。人もありのまま。自分の心がどんどんオープンになっていく。

最近は陶芸教室にも通いはじめた珠美さん。「これ、めっちゃかわいくないですか?」細やかでやさしいディティールに惚れ込んで購入した作品だそう。

珠美さんも関わり住民たちをつないで結成した「川内盛り上げっ課」は、「川内をどう楽しくしていくか?」を自由に考え、かたちにしていく場。川内にいながら国内外の文化に触れられ、郷土文化も学べる多彩な講座の開催は50回を超え、毎年恒例の藍染講座やお正月飾り講座には、30〜50人もの参加者が集まるようになった。

最初の仕事の任期終了後も川内村に残り、双葉郡内でさまざまな仕事を掛け持ちした。「たまちゃーん!」と声がかかればどこへでも、今日も双葉郡内を忙しく駆け回り、ここでの暮らしを誰よりも楽しんでいる。

手描きの絵が目を引くチラシは、毎回「川内盛り上げっ課」のメンバーが制作。イベントや地域の情報が満載のラックの中でも一際目立ち、楽しみにしている人も多いとか。

 

畑からの頂きものを、手際よく何品もの料理に仕上げていく。川内村のおばあちゃんたちから郷土料理を習う会にも参加し、漬物や発酵食品も研究中。ゆず胡椒も手づくりだ。

「強くて、やさしいまちになる」
その過程に、自分もいたいから

山形県最上郡の山奥、本人曰く「私より田舎だっていう人に逢ったことがない」ほどの田舎で生まれ育った鈴木みなみさんは、2011年の3月に山形県米沢市の短大を卒業、関西の大学への進学を目前に引っ越しを控えていたところだった。すぐに避難所のボランティアに駆けつけたが、何もできずに泣きながら帰ってきたと言う。そのときの悔しさが、今もずっと心の中にある。

「ここで私がかけられる言葉なんて、一つもないなって。自分の無知さや想像力の無さで誰かを傷つけちゃうかもしれないと思うと怖かったんです。でも街頭募金に立てば、本当に、全員がお金を入れて、声をかけてくれた。『これからこの地域は、強くて優しいまちになっていくんだな』って、その言葉だけずーっと頭の中にあって。自分も、その変わっていくまちの一員でありたいって思った。それがずっと関わるきっかけになっていますね」

山形を離れても、東北への想いは募るばかり。月に1、2回は夜行バスに乗り、岩手県宮古市でのボランティアに向かった。もともと短大を卒業後に大学へ進学しようと決めたのは、はじめて夢ができたから。国際協力の仕事に就くためにフィリピンへの留学も予定していた大学3年生の夏、ギリギリまで悩んだ末に選んだのは、いわき市のNPOで働く道。参加した対話の場「未来会議」では、富岡町出身の平山勉さんと出逢った。当時、まだほとんどの地区で避難指示が出ていた双葉郡のまちづくりを牽引していた平山さんのもとで、大学卒業後もいわき市に住みながら、双葉郡をテーマに働くことになった。

 

母になってひらけていった、
私と地域の、あたらしい関わり

たくさんの偶然とたくさんの決断があった。みなみさんは福島県いわき市で結婚し、2016年秋には母になった。これまでは「支援者」として地域に関わってきた自分が、子育てをはじめたことで一気に「生活者」となり、震災以降、双葉郡から多くの避難者を受け入れてきたいわき市で噴出していたさまざまな問題が、これまでよりもずっとリアルに、自分ごととなって見えてきた。

 

「子育てしているお母さんたちの苦しさを、自分が母になってはじめて想像できるようになったんです。これからの生活の見通しが立たない中、子どもはどんどん育っていって、このまま避難した先で暮らしていくことになるのかな、帰れるようになるのかなって。避難して来ていることを打ち明けられずに、心細く子育てしている人も多くて」 

みなみさんはその実感から、2017年にいわき・双葉の子育て応援コミュニティ「cotohana(コトハナ)」をスタートし、1カ月に2回ほどのペースで「子育てママサロン」を開催。2019年に富岡町に住まいを移してからは、双葉郡内の全8町村を巡回し、2020年には双葉郡の子育てに役立つ情報をまとめたフリーペーパーも発行した。

「2017年にはじめてサロンを開催した頃は、もう震災から6年経ってたけど、双葉郡から避難していることを打ち明けられていないというお母さんがとても多かったんです。でも1年くらい続けたところで、いわき、ふたばって、いつまでも分けてちゃダメだなって思った。同じ “お母さん”っていうカテゴリだからこそ、出身地なんて関係ない共通の話題が持てる。『子どもってカワイイよね〜』『そろそろ目が離せなくなるね〜』って、ありふれた子育ての話。被災者とか、大変な地域で子育てしてるっていう視点じゃなくて、子育てについてふつうに楽しんだり悩んだりしてる姿が見られるのが、本当にいいなって」

自分自身が母になったとき、みなみさんの周りには新しいコミュニティができていた。お母さんや女性たちとの関わりがどんどん増えていき、子育ての話や遊びに行こうよって話が気軽にできる。何年いても“外からきた人” で、どこまでいっても誰の気持ちもそのまま理解することはできないと、どこかで諦めていた。でも今は違う。一人の、双葉郡で子育てするお母さん、だ。

ここ、福島で
自分の人生をいま、生きている

そんなふうにうねうねと、蛇行しながら流れてきた二人のそれぞれの川が、富岡町での “お隣暮らし” で合流した。それぞれが何にも縛られずに自由に動くのがベース。時間が合えば一緒に過ごすし、相談に乗ったり、乗ってもらったり。何かあったときは心強く、安心感もある。決して馴れ合いではない、ちょうどいい暮らしに自然とたどり着いた。

珠美さんは、みなみさんとみちるちゃんという母と子を、いつしか自分の母と自分の関係に重ねていることに気づいた。みなみさんは、みちるちゃんが2歳半のときに離婚を決意し、富岡町へやってきた。珠美さんも同じく幼少期に親の離婚を経験している。母と二人暮らしの幼い頃の自分が欲しかった時間、欲しかった場所。歩いて5分ほどで行けるおばあちゃんちが心の避難場所だったこと。みちるちゃんにとっての自分が、少しでもそんな存在になれたらと、思うようになった。

「私が小さかったときにこういう人が欲しかった、そういう人になれたらいいなって。たぶん、自分のためにしているんだと思います。福島にいるのもそうだし、みなみちゃんと一緒に過ごすのもそうだけど、自分が欲しかったものとか、自分がしたかったこととか、過去の自分と向き合ってる。だから、私はすごく充実感があるんですよね。子どものときの自分を、今、満たしているみたいな。

私は母親の期待に応えなきゃっていうことばかり考えちゃって、自分というものがなかなかつくれなかった。みなみちゃんとみちるの関係を見てると、向き合っているのがすごいなと思うし、お互い尊重しあってて、本当にうらやましい。なんだろうね……とにかく私は、子どもの頃を取り戻してる、二人と一緒にいることで」

 

珠美さんの言葉を聴いてみなみさんは、「同じかな。」と頷いた。両親が毎日のようにぶつかり、安心できない環境で育ったことも。そんな家庭環境のことを誰にも打ち明けられず、助けを求められず、目の前の学校生活送ることだけで精一杯だったことも。そして、親元を離れてはじめて、自分で選択して人生を進めていけるのだと知ったことも。

「私も今、癒やされているし、ここが福島だっていうのも一つ、自分の中では納得していて。ここで震災と原発事故があって、いかに生きるかみたいなことをすごく問われたんだと思うのね。どこで暮らしていくの?何を生業にしていくの?誰と過ごしていくの?って。『自分にとって一番のしあわせって何?』の問いの中で、もがいて、悩んで、ずっと苦しいままの人たちもいっぱい見てきたし、そういう中でも答えを見つけ出していく、その過程にたくさん出逢えたことが大きくて。

子どもの頃は自分の力ではどうにもできなかったけれど、今は自分で、心から一緒に生きたいと思う人たちと一緒にいて、ここだって思う場所に住んで、やりたい仕事をしていて。だから、本当に、すごく充実感がある。自分で決めてここにいる、全部自分が選んだことだっていう自信がある」

お隣暮らしをはじめる前にはお互い想定していなかった、幼い頃の自分自身との再会。4歳のみちるちゃんに導かれるように、人生をもう一度めぐる。あの頃の私が癒えていくことで、今の私に力が満ちてくる。

誰に何を言われようと、私の人生は、私がつくる。

ときが止まっていたこの家々に、
三人のあかりが灯る

「いつまでここにいるだろうね?」

最近、珠美さんとみなみさんがしたそんな会話の中で、珠美さんは「富岡で役割がなくなるまでは。あと、みなみちゃんがいる間は!」と、いつもの笑顔で言い放ったそうだ。

「正直、ずっといるかとか、遠い未来のことは全然決めていないんです。でもね、 みちるがここから学校に通うのを見届けたいって思っちゃったんですよ。私にとっては川内村も大切な場所だから、将来的にはあっちに住むかもしれないけれど、今の暮らしもすごく大切にしたくて。みちるの成長を見守りながら、私はここにいたいのかも、二人と一緒に」

そう話している間も、みちるちゃんはパタパタと走り回り、珠美さんの膝に座ったり、みなみさんに抱きついたり。ときに会話は中断し、みちるちゃんの声に二人して耳を傾け相づちを打ち、そしてまた会話に戻ってくる。

「その話さ、いつしたんだっけね」「あの時かな、あそこからの帰りの車の中でかな」「ああそうだそうだ、あの日、すごく満たされた気持ちで帰ってきてたんだよね」

何気なく積み重なっていく時間が、何気なく、とても大切なものになっている。家が見えた時にポっと点っている灯りを心強く感じる。 偶然にはじまったこの暮らし。だから、誰も役割を背負わず、そのまんまでいい。桜並木の下でランドセルを背負ったみちるちゃんは、きっと二人と、たくさんの地域の人たちに囲まれて一年生になっていく。三人それぞれの人生の旅が、つづいていく。

 


辺見珠美さん
へんみ・たまみ/1989年、東京都大田区生まれ。武蔵工業大学で原子力と放射線について学んだのち、2012年福島県双葉郡川内村に移住、現在は富岡町在住。「ふたばいんふぉ」スタッフ、とみおかこども食堂実行委員、川内盛り上げっ課事務局。食への興味が旺盛。最近のマイブームはフリーコーヒーパフォーマンスと陶芸。

鈴木みなみさん
すずき・みなみ/1990年、山形県真室川町生まれ。東日本大震災以降、関西から学生ボランティアとして東北に通う。2016年、大学卒業と同時に福島県いわき市に移住し、双葉郡における地域活動に参画。2019年から福島県富岡町在住。「いわき・双葉の子育て応援コミュニティcotohana」共同代表、とみおかこども食堂実行委員。

 

 

文・佐藤有美
さとう・ゆみ/愛知県生まれ、神奈川県・逗子市在住。国内外を旅し、そこで出逢った人たちとの縁から、執筆、企画などを行う。10年以上前から福島へ通いウェブマガジン等で記事を発表。祭りや音楽をこよなく愛し、ちんどん屋としても活動している。
https://cotoconton.com


editor's note
●いわき・双葉の子育て応援コミュニティ「cotohana(コトハナ)
「『ここで子育てしてよかった』と、楽しく子育てする家族が溢れる地域」を目指して、双葉郡で子育て支援を通じた地域づくりに取り組む。双葉郡の子ども・子育て関連情報をまとめたウェブサイト、ウェブマガジンを2021年に開設。

HP:https://cotohana.net
ウェブマガジン:https://cotohana.net/web-magazine


●「川内盛り上げっ課
「むらの暮らしを楽しもう」がテーマの地域団体。川内村の郷土文化をはじめ国内外の衣・食・住、音楽やダンスなどさまざまな文化に触れられ、学べる多彩な講座を開催。
HP:https://www.facebook.com/kawauchimoriage


●福島県双葉郡の総合インフォメーションセンター「ふたばいんふぉ」

双葉郡のまちづくりを牽引する平山勉さんが代表をつとめる民間団体「双葉郡未来会議」が設立した、双葉郡の総合インフォメーションセンター。双葉郡8町村の現状を共有し、住民目線で双葉郡のリアリティを伝えている。双葉郡各地のお土産も購入でき、隣には食事やコーヒーが楽しめる「cafe135」も併設。

住所:福島県双葉郡富岡町大字小浜字中央295ふたばタイムズ1F
電話:0240-23-6612
営業時間:11:00〜18:00
定休日:日曜・祝日
HP:https://futabainfo.com

(更新日:2021.03.09)

特集

これから、誰と、どこで、どんなふうに生きていくか。考えて考えた末の、一人ひとりの別々の決断が、そこにはあった。ぼやけて見えなかった地域が、私の中で立ち上がっていく。
“お隣暮らし” にたどり着いた友たち。 自分の人生をもう一度、めぐる旅の途中。

最新の記事

特集

ある視点