新聞記者から大熊町役場職員へ。
わからないから知りたいから、動き続ける。

私の中の「どこか」は、その地で出逢った友たちの姿でできている。

2011年3月11日。大地震が起き、東京電力福島第一原子力発電所の事故が起き、日常は一瞬で変わってしまった。
福島県外に移り住んだ友も、一時避難をして戻った友、ずっとお店を開け続けた友もいた。

これからどう生きていくか。
誰と、どこで、どんなふうに。

考えて考えて考え抜いた末の、一人ひとりの別々の決断が、そこにはあった。たくさんの決断があったからこそ、さまざまなことが動き出し、別れもあれば出逢いもあり、チャンスも生まれた。

めまぐるしく変化した、「あの日から10年」、の福島。
私は初めて、福島の沿岸部「浜通り」へと向かった。

ぼやけて見えなかった地域が、私の中で立ち上がっていく。
どこでもない、今、ここにしかない地域が。

文:佐藤有美 写真:今津聡子

「喜浦さん、福島らしいっすよ」
警視庁の廊下から転がりはじめた人生

浜通りに向かうことになったとき、そこに住む私の友人はたったひとりだった。

喜浦 遊さん。福島市の友人のお店で一度だけお逢いしたことがあった。毎日新聞の記者から、今も町の半分以上のエリアが「帰還困難区域」や「中間貯蔵施設建設地」となっている福島県双葉郡大熊町の役場職員に転身した人だ。SNSでつながり、彼女の暮らしぶりや変化、原発周辺地域が抱えるさまざまな問題への吐露など、いつも興味深く見ていたから勝手に友人気分だった。

JRいわき駅付近からレンタカーを走らせ国道6号線をぐんぐん北上し、大熊町と双葉町にまたがる東京電力福島第一原子力発電所から10km圏内に入ると、「帰還困難区域」の立て看板が目立ちはじめる。町のすべての区域に避難指示が出され、全町避難となった大熊町では、2019年の4月になって初めて一部の地区の避難指示が解除となり、人々の生活が戻ってきた。しかし、面積でいえば38%を取り戻したけれど、人口の96%を占めていた区域にはいまだに住むことはできない。住民登録上の人口は約1万人だが、2021年2月現在、町内に居住している町民は240世帯・約280人。住民登録のない居住者を含めても約860人だ。

 

2019年5月に開庁した大熊町役場の新庁舎。そのほど近くにある喜浦さんのお家に向かう。丁寧に手入れされた大きな日本家屋とお庭、ベリーショートの髪にニカニカした笑顔の喜浦さんが迎えてくれた。かつては家族が暮らした大きな家。大家さんは避難先だったいわき市に定住したが、定期的にこの家へ通い、暮らしていたときと同じように掃除をしてきたという。

「2016年の4月に大熊町役場に転職して、仮庁舎があった会津若松で3年。ここで暮らしはじめたのは2019年の5月からだから、まだ1年半。だけどここに住んでからの心境の変化が、すごく大きくてね。“住む” ということはやっぱり大きいなと」

長崎県の離島、蛎浦島(かきのうらじま)で育った喜浦さん。アメリカの大学に進学し帰国後に、毎日新聞社に入社。青森支局や甲子園担当を経験し、2011年4月から警視庁記者クラブに配属になった。周りはほとんど男性、朝も夜もなく仕事に明け暮れた2年半。毎日新聞社では捜査一課担当を務め、リーダーにもなった。

「私としては十分やり切った!と思って、上司に直談判したの。私を次の異動にかけてくださいって。それから何カ月か経って、警視庁の廊下でね、人事情報を嗅ぎつけた後輩が、『喜浦さん、福島らしいっすよ』って。もう、ガッツポーズしたよね。警視庁担当が終わって “福島に来た” 。このときが、やっぱり自分の人生の一番の転機だったと思う。大熊町役場への転職でもなくてね」

 

ここで降りなければ降りられなくなる。
福島に残るための、役場職員への転身

福島支局に異動すると、自然の近くで暮らし、夜寝て朝起きる、そんな生活のリズムが戻ってきた。ほどなくして会津若松通信部へ移った喜浦さんは、当時会津若松市に町役場の機能を置いていた大熊町の取材担当となる全町避難が続いていた大熊町は町役場を移転し、行政運営を行っていた。

 

福島市での1年半のあと、会津若松でまもなく1年が経とうとする頃、見えてくるのは次の異動。しかし当時、震災から数年が経っても、大熊町は帰還はおろか、それぞれの区域の方針がやっと見えはじめた段階だったという。

「5年経ってようやく少しずつ、土地の面積の7分の1は中間貯蔵施設として使われる、だからこの先30年は帰れないですよっていう枠組みが見えてきた段階でね。今ここで福島を離れたとしても、大熊のことも福島のことも『わかった』 なんて全く言えない。2年半いたって到底、わかる場所じゃない。だから、『もっと見ておきたい』 っていう好奇心みたいな気持ちが芽生えてきていて」

2020年3月、JR常磐線が9年ぶりに全線運転再開し、かつての大熊町の中心部に位置する大野駅も営業再開。しかし、真新しい駅とは対照的に、駅前の商店街の時間は止まったままだ。「私はここが震災前どんな通りだったのかを、知らないんだよね」

そしてもう一つ、喜浦さんを福島に留めた大きな理由が、福島で暮らす人々との出逢いだった。同世代の友人も、取材先の人も、そこにいるのは “自分でここにいることを決めた” 人たちだった。

「たとえば福島市は、まだすごく不安を抱えながらも、『この震災後の町をどうにかしたい』っていうところに入っていたんだよね。大熊は今10年目になって、ようやくそこにたどり着こうとしているわけだけど……。だから、自分の町のこれからを考えられる環境にいる同世代の人たちが、それはもう魅力的に見えた。“プレーヤーになってみたい”って、彼らに対する憧れや羨ましさみたいなものがあったよね。

あとは、新聞社にこのままいたとしても、こう異動して、こんな記者人生を送るんだろうなーっていう最善のルートが何となく見えた気がしたの。それが、やばい……おもしろくない!と思っちゃった。ここで降りなければもう降りられなくなるって、強迫観念みたいにね」

全国紙の記者としてがむしゃらに働いた約10年、ローカルにおける全国紙の役割は痛いほど理解していた。ここの声を、東京に届けることだ。けれど、福島から伝えたい福島と、東京が知りたい福島は全く違う。わかりやすい悲劇、わかりやすい美談、わかりやすい課題に落とし込まれていくことに怒りももどかしさも感じていた。記者を辞めることを決め、福島に残るために選んだ就職先は、会津若松市にある大熊町役場だった。

1年かけてつくった町の震災記録誌。
記者から町民へ、変化する視点

2016年4月、大熊町役場に入庁。面接のとき口からついて出たのは、「震災後の町史の編纂は必要だと思います」という言葉だった。この町のこれからを もっと見ておきたいと思った、喜浦さんのその好奇心のゆく先にも、「震災があって、震災を経て、町民がどうなったのかという町の記録」をまず丁寧にまとめることが必要だった。

職員へのヒアリングをもとに当時の行政対応を中心にまとめ、町民も含め100人ほどの生声からつくり上げた震災記録誌。ここでフル活用されたのはもちろん、記者時代の経験だ。

「私は大熊町が全町避難したときにはいなかったから、震災の当事者にはなれないのは当たり前。でも、よそ者だからこそ話しやすいっていうのもあったと思う。聞いてみなければ、その人の気持ちなんてわからない。わからないから聞くんですっていうスタンスで」

記録誌に散りばめられた大熊町職員や町民たちの証言。津波で家族を失った人、いつか町へ帰る日を待つ人もいれば、遠い地で別の人生を歩みはじめた人もいるが、震災当時「2、3日くらいで戻れるだろう」と町を出たことは変わらない。2011年3月12日の早朝、内閣総理大臣補佐官からの電話で「全町避難」を告げられ、同じように町を出た町長の率直な言葉からはじまる『大熊町 震災記録誌』は、1年の制作期間を経て発行された。

各ページ下には、役場職員や町民たちが震災当時を振り返った「証言」を掲載。感謝の言葉やつぶやき、愚痴まで、短い生声から人間味があふれる。愛用している「ほぼ日手帳」のページ下にある、「日々の言葉」からヒントを得た喜浦さんのアイデアだ。

「自分の視点がどんどん変わっていくのがおもしろくて。記録誌をつくった頃は完全に記者の視点。『いつまで観察者でいるつもりなの?』 って、当時の上司に言われた一言がグサッと胸に刺さった。でもだんだん、いつの間にか町民視点になっていって、『こんな町がいい、こんな町はイヤ』なんて語るようになって。自分=町民だから、町民に寄り添えなくさえなってるかも(笑)」

 

大熊町に住んで確実に変わった
「おらほのまち」意識

2019年5月、大熊町役場の新庁舎が開庁すると、喜浦さんははじめて大熊町の地に住むことになった。

「住んでないときはね、他の町でおもしろい取り組みがあると、何でうちじゃないんだって、悔しいような感覚が常にあったの。目立ちたかったんだろうね(笑)。大熊町はうまくいってるって、思われたかった。特にうちと双葉はなかなか避難指示が解除されない地域だから、うちが一番大変なのに!って。

でもね、よく考えたら、たとえば楢葉なんて、全町避難の期間より戻ってからのほうが長くなってる。戻ってきて5年の感じと、今ようやく戻ってきた大熊と、まだ戻ってきていない双葉を、同じ避難自治体としてひとくくりで語られたらどうしても “出遅れ感” を感じちゃうし、それを避難先から見ていたから、やばい!やばい!って焦りだけが募ったよね」

双葉駅前で2020年から展開されている壁画のプロジェクト「Futaba Art District」。双葉町は震災以来、唯一、全町避難が続いている自治体だ。

避難先での行政運営がいかに難しいか。役場機能はあり、住民の対応をしていたとしても、そこに実際の町はない。近隣自治体の行政情報はキャッチできても、隣町の友人はなかなか増えないし、新しいお店のオープン情報までは入って来ない。徐々に帰還が進み新しい町ができあがっていく実感も、なかなか得られなかった。

「 “土地を取り戻す”ってよく言うけれど、その感覚ってよそ者にもわかるんだなって。住んでみてはじめて、頭で考えていた町の枠がなくなったの。“面” で、自分の活動範囲は自分の楽しいエリアにしたいっていう感覚。会津若松では全く感じられなかったから、戻るというのは大事だったんだなって思うね、この地域のことをきちんと考えるためにも。

美味しいレストランもあるし、富岡のさくらモールで買い物して、双葉の伝承館に行ったついでに浪江の道の駅でお土産買って……っていう一連の流れがあると非常に楽しい(笑)。面として自分の住処になったから、大熊町ですべてが完結しなくても、よそががんばってくださってこんなに地域がおもしろくなるんだったらもう、単純にありがたいとしか思えなくなったよ」

喜浦さんの「おらほのまち(わたしのまち)」は大熊町から “自分の活動範囲” にアップデートされ、楽しげな何かがあると聞けばクルマに乗ってスイスイとどこへでも出かける。双葉郡の友人も自然と増えた。先にこの土地に戻ったや富岡などには、既にさまざまなまちづくりの活動や、お店やコミュニティスペースがあり、県外からの移住者も多い。それぞれができることをして、この地域全体の魅力が増していくことが、自分自身の喜びになった。行政が取り組むと時間がかかることも、友人レベルのつながりなら実現スピードも速い。これから楽しみなことが、どんどん増えていく。

「大好きなお店があるから、そこへ行こう」その誘いにのって訪れたのは、楢葉町にある小料理屋「結(ゆい)のはじまり」。千葉県から移住した古谷さんが、飲食業未経験からはじめた小料理屋だ。

大熊町に戻ってはじめて、
島に戻る可能性が見えてきた

「町が消滅するかもしれない、いつ戻って来れるかもわからない、合併するかもしれないって、ふるさと大熊をどう残すかを考えれば考えるほど……あれ?私のふるさとは大熊じゃなくて蛎浦島で、そっちも廃れていってるよねって。4つの島を合わせて2000人くらいの町が平成の大合併で消滅して、帰るたびにどんどん空き家も増えてる。福島は一定の関心を持たれるけど、うちの町はそうじゃないから、もしかしたらそっちでがんばる方が意味があるのかもしれない。島に帰る道が、大熊に戻ってきてはじめて出てきたの」

写真上・中:喜浦さんのご近所に住む佐藤右吉さん。会津若松市に避難していた頃から、町の復興につなげようと「ざる菊」を育て、大熊町に通いながら数を増やしてきた。写真下:時期になると約600株が一斉に咲き、花文字も見られ、大熊町の新名所となっている。取材時(2020年11月)は、「れいわ2ねん」と書かれていた。(写真:佐藤有美)

2020年の夏は地元の盆踊りに顔を出すつもりでいた。今、中心になって祭りを担っているのは、島に残った喜浦さんの同世代たちだ。コロナ禍で祭り自体が中止となり叶わなかったが、懐かしい人たちを訪ね、今どんなふうに祭りや地域活動をしているのかを聞いて回るつもりだった。全国紙で記者を続けていたら、都会に住んで忙しい暮らしを続けていたら、盆踊りに目が向く日なんて来なかったかもしれない。大熊町で、双葉郡で、福島県で出逢った、ふるさとのこれからについて真剣に考える人たち、そして福島の中で “里帰り” を果たしたことが、喜浦さんの心を少しずつ動かしていった。

「『喜浦さんはいずれ島に戻る。その練習を大熊でしてる』って同僚から言われてはじめて、え?そうなの!?って意識して。(笑)でも確かに、今ここで勉強させてもらってることは、島に戻った時にものすごく活きるよね。その時には私自身が、当事者になるわけだよ。私が知ってるばあちゃんとかじいちゃんとか、同級生と一緒に何かをするっていう想像もできるようになってたんだよね。大熊で経験させてもらったから、今だったら貢献できるかもしれない」

「右吉さんは人生を楽しむ天才。ざる菊だけじゃなくて、家の前の水車も、家具も、なんでも自分でつくっちゃう。その『右吉ワールド』をみんなに知ってほしくて、瓦版もはじめたくらいなんです」と、喜浦さん。

出身の島だけでなく、長崎を “面” で見てみれば、風土に根づいた農家の取り組みや新しいお店なども生まれ、移住者も増え、盛り上がりを見せている。帰省するたびに、地元長崎がこんなにおもしろいことになっている!という驚きと刺激をもらっていた。

今はまだ、大熊でやり遂げたい仕事がたくさんある。でも、いつか島に帰るかもしれないという道を得たことが、今の大熊での仕事を一層、深いものにしていく。よそ者の視点、町民の視点、当事者の視点。喜浦さんの頭の中でのおしゃべりは止まらない。

双葉町に2020年9月にオープンした「東日本大震災・原子力災害伝承館」。喜浦さんはもう何度も友人たちを連れて訪れ、そのたびに感想をぶつけ合っている。

「実はね、私のじいちゃん、町長だったんだよね」

私は驚くよりも大笑いしてしまった。あまりにも納得の一言だったからだ。

「役場職員になって帰省したら、じいちゃんがやってた町の施策がさ、すごい目に付くわけ。町を盛り上げるために打ったイベントやあれこれ、全部そういうことだったんだなーって。それが残骸みたいになって残ってる。じいちゃんは、私が役場職員になる前に死んじゃったけれど、ああ、じいちゃん、いろいろやろうとしてたんだねって、いろいろ喋ってみたかったなと思うよ。どんな話になるかね?」

距離を超え、時を超え、大熊町からあらたに広がる喜浦さんの世界。視点だけでなく、立つ地点さえ軽やかに変えながら、彼女は彼女のやり方で、好奇心に導かれるまま進むだけ。そして彼女を取り巻く人々もまた、そのあり方をしっかりと受け止めて、今、ここにしかない共同作業を楽しんでいる。ただやりたいことがあるから、飽きないから、楽しいから、彼女は今ここにいる。


 

 

文・佐藤有美
さとう・ゆみ/愛知県生まれ、神奈川県・逗子市在住。国内外を旅し、そこで出逢った人たちとの縁から、執筆、企画などを行う。10年以上前から福島へ通いウェブマガジン等で記事を発表。祭りや音楽をこよなく愛し、ちんどん屋としても活動している。
https://cotoconton.com/


 

editor's note
●『大熊町 震災記録誌』
大熊町ホームページ内「大熊町復興通信」にて全文を公開、ダウンロードも可能。希望の方には冊子の送付も。
問い合わせ先:shogaigakusyu@town.okuma.fukushima.jp
HP:www.town.okuma.fukushima.jp/site/fukkou/1911.html

「東日本大震災・原子力災害伝承館」
2020年9月開館。映像や展示など豊富な資料から、震災直後からの経過・復興のあゆみの全体像を知ることができる。
場所:福島県双葉郡双葉町大字中野字高田39   Google Mapを見る
電話:0240-23-4402
営業時間:9:00〜17:00(最終入館16:30)
定休日:毎週火曜、年末年始
アクセス:双葉駅からシャトルバスも運行
https://touhoku-access.com/route_futaba.php
HP:https://www.fipo.or.jp/lore/

新聞記者から大熊町役場職員へ。 わからないから知りたいから、動き続ける。
喜浦 遊さん
きうら・ゆう/1981年、長崎県・蛎浦島(かきのうらじま)出身。福島県大熊町役場 教育総務課主査。毎日新聞社を経て、2016年大熊町役場入庁。企画調整課に配属され、震災記録誌作成事業を担当した。現在は町の歴史や震災の経験を記録し、後世に伝えるための「アーカイブス事業」を主に担当している。
(更新日:2021.03.01)

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