特集 街と自然と人がつくる、
浜松の表情

農業経験ゼロの地点から、 ピーナッツバターメーカーに なるまでの軌跡

ダンサーになりたくて渡ったニューヨークで、ある興味から会計士となり、やがてはピーナッツと出合い、生産者になった。きっと本人ですら想像もしていなかった道を、地元・浜松で歩み始めたのは4年前のこと。幼少期は、父親の職業柄、転勤が多く日本各地を転々と暮らしていたという杉山孝尚さんにとっての地元は、中学から高校卒業までを過ごした、現在も実家のある浜松市舞阪町。浜松駅から西へ車で30分ほど。“遠州”と呼ばれてきたこの地方で、古くは盛んに栽培されていた在来種の落花生「遠州半立ち」(通称・遠州小落花)をたどり、12年暮らしたニューヨークを後にした杉山さんは、栽培から加工まですべてを行うピーナッツバターメーカー「杉山ナッツ」を独学で立ち上げた。

写真:中村ヨウイチ 文:石田エリ

想像もしなかった新しい扉は、
ある日突然に現れた

わからなければ、調べよう。なければ、つくればいい。自分の人生を思い描く方向へと切り拓いていくには、そうする以外に方法がないことを杉山さんはよく知っているようだった。

ダンサー、会計士、ピーナッツバターメーカーと、全くかけ離れたフィールドへと移る度に、またゼロから向かい積み上げていく。中途半端ではなく、納得がいくまで突き詰める。杉山さんが“ピーナッツバター”にたどり着くまでの道のりについて聞いていると、実際には今話している何倍もの苦労と努力を重ねてきたことも想像ができた。

「ダンサ—になろうとニューヨークに渡ったのは、高校を卒業してすぐの頃でした。でも、実際はダンスをやりながらも生活費は別で稼がないといけなくて、レコード屋で働いていたんです。そのレコード屋の本社が大きな音楽レーベルで、著作権を扱う会社でもあったのですが、本社のほうで働かないかと誘っていただいて。そこで働くうちに数字に強くなっていって、だんだんと社会にどうお金が流れているのか、その仕組みに興味を持ち始めたんです。それで、自分にはもっと知識が必要だと思って、大学に入って働きながら会計士の勉強をして、卒業と同時に公認会計士の資格をとって監査法人に入りました。そこでは法人税を担当して、企業の経営戦略や買収なんかの案件に関わっていました」

浜松市舞阪町にある、杉山さんのピーナッツ畑。

%e6%b5%9c%e6%9d%be%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%93%e3%83%a5%e3%83%bc2

そのまま会計士の仕事を続けていれば収入も先々まで安泰と、普通なら迷うことのないような道筋だった。けれど杉山さんは、ワーキングビザが切れるタイミングが迫ってきたころ、グリーンカードを申請して会計士としてニューヨークで暮らし続けるか、日本に帰るのか、この先の人生について迷い始めていた。そんな時、偶然目にしたのがアメリカの経済新聞、「ウォール・ストリート・ジャーナル」に載っていた、とある記事だったという。

「ある日曜日、新聞に目を通していたら、ピーナッツバターにまつわる記事が書かれていました。ピーナッツバターは、ニューヨークでは毎日食べるくらいの大好物だったので、自然とその記事が目に留まったんです。そこには、1904年のセントルイス万博で賞をとったという、遠州の落花生のことが書かれていました。僕自身も自分の地元である遠州地方が落花生の産地だったことなんてまったく知らなかったですし、“遠州”と言ってわかるアメリカ人なんてほとんどいないはずで……この遠くはなれた街で“遠州”という名を目にしたことも含めて衝撃だったんです。

%e6%b5%9c%e6%9d%be%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%93%e3%83%a5%e3%83%bc3

%e6%b5%9c%e6%9d%be%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%93%e3%83%a5%e3%83%bc4

「遠州半立ち」。通称・遠州小落花は、その名の通り普通の落花生よりも一回りほど小さく、その分旨味が詰まっている。

そこから、ふつふつと興味がわき始めて、アメリカのピーナッツバターの文化と遠州の落花生をかけ合わせたらおもしろいんじゃないかと考えが浮かんできました。向こうでは、オーガニックスーパーの「ホールフーズ」なんかへ行くと、その場で欲しい分だけピーナッツをペーストにできるマシンがあって、つくりたてが買えるんですけど、これがびっくりするくらいに美味しいんですよ。日本でもやり方次第でもっとおいしいピーナッツバターがつくれるんじゃないかと。そこから、遠州小落花について調べたり、休日にはスーパーでピーナッツを買ってきて自分でピーナッツバターの試作をするようになりました」

そうこうしているうちに、いよいよビザの更新が間近に迫ってきた。その時にはもう、「実家に帰ってピーナッツバターづくりに挑戦してみたい」と、杉山さんの心は決まっていた。また再び、真っ白なフィールドでのゼロからのスタート。農家の家系だったわけでも、どこかで畑を学んだこともない。農業についてまったくの素人だった杉山さんは、浜松に戻ると、とにかく遠州小落花にまつわる文献を読み漁り、借りられる農地と種を探し始めた。

「実際に遠州小落花の種を求めて、地元の農家さんを訪ね歩いても、栽培しているところがほとんどありませんでした。育てていたとしても、売るのではなく自分たちで食べるためのもので……。そんな中でも『これが遠州小落花だ』というものを見せてもらったりもしましたが、どう見ても自分が調べてきた遠州小落花の特徴とは違っていました。それでも諦めずに探し続けていたら、ある農家さんが『亡くなった祖父母が栽培していた落花生が今も自生しているから、それでよければ持っていっていい』と言ってくれたのが、探し求めていた遠州小落花だったんです。全部で2キロくらいでしたね。それと同時に畑も探していたのですが、きれいな畑は農業資格がないと借りられないので、荒れた耕作放棄地をまずは約100坪借りて、耕すところから始めました」

%e6%b5%9c%e6%9d%be%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%93%e3%83%a5%e3%83%bc5

新しい経験の連続という日々の中で、杉山さんは結婚し、双子のお子さんを授かった。実家で両親と同居しているとはいえ、家族を背負った上での挑戦。その分プレッシャーもある。

「荒れた農地を耕して、種を増やしていくのに約2年。トラクターは外国車くらい高いし、ピーナッツの焙煎機など、あれやこれやで貯めていたお金もほぼ使い果たしました。最初の年は、二畝から始めたんですが、一畝を全部カラスに食べられて……。カラスは頭がいい分、こちらが策を講じてもしばらく経つと破られてしまうから、知恵比べがずっと続いている。落花生自体はもともと砂漠地帯で生まれたタフな作物ですけど、やっぱり一人でやるにはわからないことだらけで、何度も畑で泣きたくなるような局面がありました。自然相手だから、これで完璧ということはない。一つ解決したら、また次の問題が生まれてくるんですよね。落花生の脱穀機なんかも、日本は栽培する人が少ない分、機械が進化していないんです。使っているとすぐ動かなくなるから、必要に迫られて溶接も勉強して自分で機械を改良するようにもなりました」

%e6%b5%9c%e6%9d%be%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%93%e3%83%a5%e3%83%bc6

落花生は、春に種を撒き、秋に収穫する。冬の間は、浜名湖で採ってきた海藻と牡蠣の殻、米農家さんから分けてもらった収穫後の稲や籾殻を混ぜて肥料をつくる。落花生栽培のスタンダードは、ビニールをかぶせて土の温度を上げて育ちを早くするのだけれど、杉山さんはそれをせず、じっくりと育てていく。そして収穫を終えた11月、“遠州のからっ風”と言われる西風が吹いてくると、収穫したピーナッツを天日干しして、その風に晒して乾燥させるのだという。これは、遠州小落花がセントルイスで賞を取ったときの栽培方法が記された文献「国の光」から得た有機栽培法。漢文で書かれたこの文献を調べながら読み解いていった。それに加えて、「自然の運行に合わせて栽培したい」という思いから、種撒きは満月、苗植えは新月に行っている。

畑を案内してもらいながら話を聞いていると、気の遠くなるような手間ひまが浮かんでくる。会計士としての感覚とはかけ離れた採算の合わないやりかたなのでは?と訊いてみた。

「そうですね、手間という部分は勘定していないですからね(笑)。もっと効率よくできたらと考えるんですけど、少しでもオートマチックにしようとするとすぐ味にでてしまうので、どうしても今のやり方から抜け出せない……。味が落ちてしまってお客さんをがっかりさせたら、これまでの苦労が水の泡じゃないですか。それに、アメリカで自分がほんとうに美味しいピーナッツバターに出合ったときの感激をシェアしたいという思いも強いんです」

%e6%b5%9c%e6%9d%be%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%93%e3%83%a5%e3%83%bc7

ピーナッツの焙煎機。この工場で焙煎から瓶詰めまでを行う。

「杉山ナッツ」のこれから

畑を始めて3年目となる今年から、ようやくピーナッツバターの製造販売をスタートすることができた。「杉山ナッツ」のピーナッツバターは「プレーン」と「ハニーロースト」の2種類。「プレーン」は、「ピーナッツだけでも甘みがあるから」と、ピーナッツそのものの風味が味わえるように、砂糖は入れない。最初にピーナッツの甘みがほんのり感じられて、その後ほのかに香ばしさが感じられるように、調整しながら杉山さんが自分で焙煎も行っている。「ハニーロースト」は、白砂糖ではなく、蜂蜜と塩を少し加えて仕上げたもの。同じ浜松にある内山養蜂所でオーガニックに作られている非加熱でフレッシュな、みかんの蜂蜜を使っているという。そして、手間ひまかかっているのは、農業の部分だけでない。製造に至るまで徹底されていた。

「普通なら一気にペーストにして小分けにするのですが、それだと偏りがでてきたしまうので、ひと瓶ずつ粒を残すようにペーストしてから詰めています。だから、一瓶にきっちり100個のピーナッツが入っているんです。一日で詰められる量は、頑張って100瓶。お客さんには、できるだけ作りたてを食べてもらいたくて、卸先のお店にも少量を仕入れてリピートしてほしいとお願いしているんです」

%e6%b5%9c%e6%9d%be%e3%82%a4%e3%83%b3%e3%82%bf%e3%83%93%e3%83%a5%e3%83%bc8

蓋を開けた瞬間、ピーナッツの香ばしい香りが。粒が残った滑らかなテクスチャーも杉山ナッツの特徴。

まだ「杉山ナッツ」が市場に出回り始めて1年経たないうちにも、地元では少しずつ販売店も増え、噂が噂を呼んでリピーターがつくようになってきた。ここから先には、どんな展望を持っているのだろうか。

「まだまだ日々試行錯誤が続いているし、栽培や製造だけでなく、一人ではネット販売まで対応しきれないから、売り方という部分でも考えるところが多いですね。でも、もっとその先にイメージしていることはあります。一番の理想は、コーヒーミルのように家庭でもピーナッツをペーストにするマシンを使う人が増えていくこと。その時、食べる分だけベーストにするのが一番美味しいんです。そうなれば、自分は落花生の栽培と焙煎に注力ができる。日本には他にも古くから落花生を栽培してきた地域がいくつかあるんですが、産地や栽培、焙煎方法によって、ピーナッツバターにもさまざまな味わいがあることを知ってもらって、もっと広く楽しんでもらえるようになればと思っています」

農業経験ゼロの地点から、 ピーナッツバターメーカーに なるまでの軌跡
杉山孝尚さん すぎやま・たかなお/1982年、静岡県生まれ。高校卒業後、ニューヨークへ移住。その後、ファイナンススクールとして全米でも評価の高いニューヨーク市立大学バルーク校・ジックリンスクールオブビジネスを卒業、会計士となり、監査法人に所属する。2012年に帰国。地元浜松でピーナッツバターメーカー「杉山ナッツ」を設立。今年から販売をスタートさせた。

杉山ナッツ:http://www.sugiyamanuts.com
(更新日:2016.10.21)
特集 ー 街と自然と人がつくる、
浜松の表情

特集

街と自然と人がつくる、
浜松の表情
浜松のことがもっと知りたい。 この街の文化や人々はさまざまな表情をもって、土地を彩る。その奥深い魅力はそのまんま浜松らしさになっていく。
農業経験ゼロの地点から、 ピーナッツバターメーカーに なるまでの軌跡

最新の記事

特集

ある視点