特集 「自分の健康は、
自分で守る」、まち
農村医療が生まれたまちでつながる、「地域医療」のバトン。“医療の充実”がもたらすものとは?
今のところ、暮らす場所の条件として、“自然の豊かさ”や“子育てのしやすさ”に比べて、“医療の充実”の優先順位は高くないかもしれない。でも、「人生100年時代」といわれる今、できるだけ健康でいたいと思う人は多いはず。
平均寿命が全国1位の長野県の中でも、佐久市(さくし)は有数の長寿率を誇る。この地域では、古くから、“農民とともに”をスローガンに、医師が農家を巡る出張診療を行ったり、演劇を通じて医療や健康の重要性を伝えたり、地域に根ざした医療活動がすすめられてきた。
地域の医療機関と市民が手を取り合って「自分たちの健康は、自分たちで守る」という精神を受け継いできた佐久市。地域医療のあり方や医療の充実がもたらすものから、ピンピンコロリと、死ぬまで生き生きと暮らす秘密を探っていく。
文:兵藤育子 写真:衛藤キヨコ
患者さんの人生を
もう一度一緒に辿る「在宅医療」
群馬県との県境にある、人口10万人弱の長野県佐久市。浅間山連峰、秩父山地、八ヶ岳連峰に周囲をぐるりと囲まれている。東京駅から長野新幹線で1時間半弱と都心へのアクセスもいいが、周辺の軽井沢や蓼科、諏訪などと比べると、観光面の知名度はそれほど高くない。しかしながら佐久市は、医療従事者も一目置く、健康長寿のまちなのだ。
戦後間もない頃、この辺りは農業従事者が多く、「医者にかかるのは一生に一度」と言われるほど、住民にとって病院は縁遠い場所だった。そんななか、健康診断のもととなった出張診療を全国に先駆けて行い、自分たちで健康を守り、病気を予防することの重要性を説いてきたのが、佐久総合病院の医師、若月俊一先生だった。
住民にとって医療が身近になるために尽力し、地域に根ざした医療を目指した若月先生の活動は現在に引き継がれ、佐久市は今なお在宅医療体制が充実している。実際、自宅や施設など住み慣れた空間で診療を受け、最期を迎える在宅医療を選択する割合が、全国で圧倒的に高いのだ。
「在宅医療は、若月先生が唱えた“医療の民主化”の精神が色濃く受け継がれているかもしれません」と話すのは、現在佐久総合病院で、自宅や施設を訪問する診療を長年続けている、地域ケア科医長の北澤彰浩先生だ。2006年、96歳で亡くなった若月先生の最後の主治医でもある。
最初に訪問診療に同行させてもらったのは、在宅酸素療法を受けている高橋さん(84歳)のご自宅。酸素ボンベを携帯して通院する負担が徐々に大きくなってきたため、在宅医療に切り替えて3回目の診療になる。病院の診察室で医師と向かい合う時間は、大なり小なり緊張を強いられるものだが、リビングのソファに座っている高橋さんはリラックスしているように見える。
「我々医師や看護師が、在宅医療で大きな目的にしているのは、患者さんが希望する場所で、なるべく希望に沿ったかたちで生活をしてもらうこと。ですから今までその方が、どういったことを大事に生きてきたのか理解することが、より大切になってきます」
その点、自宅というプライベートな空間から見えてくる人となりは、たくさんある。たとえば飾られている家族写真から、患者と家族の関係が浮かび上がってくるし、趣味の道具が部屋の隅に置かれているかもしれない。賞状などからは、誇りにしていることがうかがえる。
「元気なときにどんなことを考え、社会的にどんな役割を担い、どんなことをしてきた人なのか、その方の人生を一緒にもう一度辿らせてもらう。その過程は残りの時間をどうやって生きたいかという思いに少なからず影響していますし、在宅医療のほうが圧倒的に見えやすいですね」
もう1件訪問したのは、介護保険施設に入居する志摩さん(99歳)。施設に入居したのは3年ほど前で、北澤先生が外来で長らく担当していたのだが、家族の負担や体力の低下などを考慮して、今年から在宅医療に切り替えた。
訪問してから、志摩さんは北澤先生の手を力強く握り続けていた。医師と患者の距離は想像していたよりもずっと近い。北澤先生は志摩さんのような超高齢者や、認知症の初期段階の方に対して、もしものときにどんな治療やケアを受けたいか、あらかじめ本人の意思を確認している。
「アドバンス・ケア・プランニングというのですが、患者さんに伝わりづらいので、僕は“心づもり”という言葉を使っています。最期をどこで過ごしたいか、万が一口からご飯を食べられなくなったときにどうしたいか、などをお聞きして、本人の希望に沿った処置ができるよう情報を共有しています。
外来に見える方にもそういった話をするのですが、自分の意思をご家族にきちんと伝えていない人が意外と多い。そういった場合は、次の診察のときに同席してもらって、お話するようにしています」
最期まで楽しく生きられる
佐久市の事例が、世界へ
ベッドの高さやトイレまでの動線をどうするか、なるべく自分の足で歩きたい方、家族の介助を最小限にしたいと思っている方、独居の方、自室にあまり人を入れたがらない方にはどのような環境が必要か……。
在宅医療を始める際は、医師、看護師、介護福祉士、ケアマネジャーなど、患者と関わるさまざまな職種の人が集まって、本人の意思を尊重したプランを立てるケア会議が行われる。佐久総合病院で伝統的に行われてきたこのやり取りは、効率化が求められている医療現場の時流に逆行する細やかさといえる。
「若月先生は、将来的に認知症が増えることも見越していたようで、認知症を治す薬をどうこうするのではなく、認知症になっても住みやすい地域にしていかなければいけないとおっしゃっていたのです」
「介護老人保健施設」を国が初めて導入する際、7つのモデルをつくったのだが、そのうちのひとつが佐久総合病院だった。大多数の医師は、病院にお年寄りを看る場所を設置することに猛反対。ところが若月先生は、入院していた人がいきなり自宅に戻って社会復帰するのは大変だから、その間を経由する場所として介護老人保健施設の必要性を主張。
現代の日本でなくてはならない施設になっていることを考えると、いかに先見の明があったかを思い知らされる。こうした精神を受け継いでいる北澤先生が、佐久にやってきた経緯も興味深い。
「僕はもともと発展途上国の医療に興味があって、スリランカ、インド、ネパール、パキスタンなどを転々としていました。人が生きていくためには食べ物が必要で、農村地帯がしっかりしていないといけない。農業従事者の健康をないがしろにしたら人間はアウトだと、そのとき気づいたのです。そして日本で農村医療に力を入れている地域に行きたいと思い、佐久に辿り着きました。
今の日本は全世界に先駆けた超高齢社会で、世界中が注目している場所といえます。なかでも長野県は高齢化率が高く、お年寄りが元気で楽しく最期まで生きられる地域を僕たちがつくることができたら、世界中が見習うことができると思うのです。国際保健や国際協力につながることを、佐久でやらせてもらっていると実感しているんです」
看護師として、母親として。
医療が、身近なことの豊かさ
10年前にUターン移住をした野村真由美さんは、もうひとつの基幹病院である佐久市立国保浅間総合病院 地域包括ケア病棟の看護師として働いている。高校卒業後、神奈川県の大学の看護学部に入学。その大学病院で働きながら、ふたりの子どもを育ててきた。会った途端にこちらが心を開いてしまうような、 迷いのない目を輝かす明るい女性だ。
「Uターンをする一番のきっかけは、子育ての環境でした。自分が田舎で生まれ育ったので、自然のなかで泥だらけで遊べるような子育てをしたかったんです。でも現実は共働きだったので子どもを預けるだけでも大変で、延長保育を繰り返しては、お迎えのときに子どもがしがみついてくるような状態でした。
そんなとき、子どもを見に来てくれていた親に『お前の子どもは笑ってないぞ』と言われたんです。私自身がいっぱいいっぱいで、きっといつも作り笑顔だったんでしょうね。そのひとことで我に返った感じでした」
そして1歳と2歳だった子どもを連れて、実家のある佐久へ。夫も移住を考えたものの、今の仕事を続けたいというお互いの思いを尊重してそのまま残ることに。
神奈川と佐久で別々の生活が始まった。野村さんは半年ほど子育てに専念してから、浅間総合病院で働き始めた。現在彼女が所属する地域包括ケア病棟は、自宅や施設でスムーズに生活できるようリハビリなどをする、退院の準備期間になる場所。患者さんの多くは高齢者だ。
「佐久は90代、100代の方が珍しくないんです。患者さん同士の会話を聞いていると、80代の方が『まだまだこれからだ』と100代の方に言われていたりして(笑)。畑仕事をするために一生懸命リハビリをして、退院していく姿を見ていると、生きがいのある方は本当にお元気だなと思います」
若月先生が地域医療の功労者であることは知っていたものの、現在の佐久が健康長寿の街であることや、そのための医療が手厚いことは戻ってくるまで知らなかった。
「以前子どもが夜中にインフルエンザを発症して、小児科の医療相談ができる佐久医療センターに電話をしたんです。応対してくれた看護師さんが丁寧に話を聞いてくださって、ものすごく安心できました。看護師の私でさえそう感じたのだから、一般の方はちょっとした助言やひとことが本当にありがたいと思います」
都会で夫婦それぞれ仕事に情熱を捧げ、自分のペースで暮らす時間も充実していたが、子どもが生まれるとそのバランスは否が応でも変わってくる。野村さんはそれでもしばらく踏ん張っていたが、佐久に帰ってきてこんなにもリラックスして子育てができるものなのかと、目から鱗が落ちたようだ。
「都会にいたときは子どものことを一番に考えるあまり、自分の楽しみなんて考える余裕もなかったし、考えたこともなかったです。だけど今は仕事の合間に山登りをしたり、マラソンをしたりして、好きなこともいっぱいやっています。子どもたちも自由に育ちすぎちゃったくらいです」
そうやって笑う姿は本当に楽しそうだ。自分の五感が育まれた場所で子育てをして、仕事にも励み、そしてここには人生を楽しむ先輩たちがたくさんいる。ロールモデルが多いことは何よりも心強いし、そのことが佐久の人々の元気の源になっているはずだ。
<佐久総合病院>
佐久地域最大の総合病院。昭和19年に20床の病院として開院。翌年3月に赴任した外科医・若月俊一先生は「農民とともに」の精神で、農家を回って診療を行ったり、演劇を通して予防意識を浸透させたり、日本で初めて病院給食を実施。毎年5月の2日間にわたって開催される病院祭も、開かれた病院を目指すべく若月先生が昭和22年に始めた。近年は、国内外から多数の研修生を受け入れている。
住所:長野県佐久市臼田197番地
電話番号:0267-82-3131
www.sakuhp.or.jp
<佐久市立国保浅間総合病院>
昭和34年に開院し、現在は地域の中核病院として機能。初代院長・吉澤國雄先生は、糖尿病を生涯の専門とし、患者と共に医療はどうあるべきかを考え、現在は一般的となったインスリン自己注射を日本で初めて導入するきっかけを作った。さらに糖尿病の集団検診や県内初の専門病棟の開設など、早期発見と治療を精力的に行い、その精神は平成29年に開設された糖尿病センターに受け継がれている。
住所:長野県佐久市岩村田1862−1
電話番号:0267-67-2295
www.asamaghp.jp
北澤彰浩 先生(佐久総合病院 地域ケア科医長)
1965年、京都府生まれ。滋賀医科大学医学部医学科卒業。発展途上国の医療に興味を持ち、スリランカを中心に1年間ボランティア活動を行った。そこで、人が生きていくためには、農業従事者の健康が大切であることに気づき、佐久総合病院へ。現在は、地域ケア科医長として、患者さんの人生に寄り添った訪問診療を行う日々。影響を受けた書籍は『次郎物語』『人間の運命』、映画は『ゴッドファーザー』『スライディング・ドア』。好きな食べ物は、煮た大根。
野村真由美さん(佐久市立国保浅間総合病院 看護師)
1973年、長野県佐久市生まれ。北里大学看護学部卒業後、北里大学病院にて17年勤務。2010年に佐久市にUターンして、佐久市立国保浅間総合病院に。現在は、地域包括ケア病棟にて働いている。趣味は、ピアノ、読書など。昨年から、雪合戦チーム(本気のスポーツ雪合戦)に入るなど、仕事以外でも自分の時間を楽しむ日々。影響を受けた本は、高校の1学年先輩だったという新海誠監督の書籍『君の名は。』『言の葉の庭』など。
【特集:「自分の健康は、自分で守る」まち】
●「予防は治療にまさる」。住民と育む、佐久市の“健康教養”▶︎▶︎
●「農村に入ったら、演説ではなく演劇を」演劇を通じて広がる、佐久市の健康意識。▶︎▶︎
子育て・医療環境が充実する、 長野県佐久市
東京から北陸新幹線で約75分、車で約2時間と、都心からのアクセスのよさと豊かな自然で、移住を考える人の注目を集めているエリア。人口あたりの病院数・医師・医療従事者が多く、医療環境に恵まれている佐久市だが、子育て世代をサポートする体制も充実。佐久医師会が佐久地域で行っている子育て力向上事業「教えてドクター!プロジェクト」では、夜間などに子どもが体調を崩したときに、救急車を呼ぶべきかを判断するためのコンテンツや、実際に救急車を呼んだり、子育て支援センターなどに電話をかける機能があるアプリや子どもの病気や病院受診の目安をまとめた冊子などを作成している。
長野県佐久市空き家バンク「おいでなんし!佐久」:www.city.saku.nagano.jp/kanko/oidenanshi
自分で守る」、まち
特集
自分で守る」、まち
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- 農村医療が生まれたまちでつながる、「地域医療」のバトン。“医療の充実”がもたらすものとは?
- (北澤彰浩 先生(佐久総合病院 地域ケア科医長)/野村真由美さん(佐久市立国保浅間総合病院 看護師))
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- 「予防は治療にまさる」 住民と育む、佐久市の“健康教養”
- (波間春代さん(保健師)/佐々木 都さん(「佐久しあわせ教室」主宰))
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- 「農村に入ったら、演説ではなく演劇を」演劇を通じて広がる、佐久市の健康意識。
- 仲 元司先生 (佐久市立国保浅間総合病院 糖尿病センター長)