特集 「自分の健康は、
自分で守る」、まち

「農村に入ったら、演説ではなく演劇を」演劇を通じて広がる、佐久市の健康意識。

長野県佐久市は、戦後から、医療や保健のことを住民にわかりやすく伝えるために、演劇が用いられてきた稀有な場所だ。

考えてみれば、演じるということは、自分ではない誰かの立場や気持ちに近づいたり、見る人に対して共感を与えたり、想像の手助けをする力があるのかもしれない。

医師、薬剤師、看護師など異なる職種と病院の医療従事者たちが集まった「トーシンズ」は、なかなか変えることが難しい生活習慣と密接に関わる糖尿病について啓発している演劇チーム。

日常の習慣や間違った予防意識を、どうやったら変えてもらえるのか……。“佐久市の三谷幸喜”こと、「トーシンズ」「モトジーズ」劇団長・脚本家の浅間総合病院の仲元司先生がつくる、笑いあり、学びありの舞台から、医療と演劇の親和性の高さが見えてきた。

文:兵藤育子 写真:衛藤キヨコ

8つの病院、5つの職種で
結成された「劇場型糖尿病教室」

“農村に入ったら、演説ではなく演劇をやれ”

これは戦後の佐久で“農民とともに”の精神で地域医療の土壌を作った、若月俊一医師が傾倒したという宮沢賢治の教えである。文学青年だった若月医師は、佐久病院(現在の佐久総合病院)に赴任した昭和20年(1945年)には、早くも病院で劇団部を結成。『白衣の人々』という脚本を作り、町の演劇大会で上演している。 以来、無医村の地域に出向いては、出張診療とともに住民に向けて演劇を行い、病気を早期発見することや予防の重要性を伝えようとした。

なぜ演説ではなく演劇だったのか。情報を受け取る立場になってみれば想像がつくだろう。たとえばとっつきにくい医療の話や、自分には必要ないと思い込んでいるような予防の話を一方的に聞かされても頭に入りにくいものだが、登場するキャラクターに共感したり、ところどころで笑えたりするような芝居仕立てになっていたら、同じ内容でも興味や印象は大きく変わってくるはずだ。 

病院に来るときには、手遅れである患者があまりに多いことに危機感をもち、病院からでて出張診療をはじめた若月俊一先生。診療後は演劇や人形劇、コーラスなどで健康教育を行っていた。

こうした活動のおかげか、現在の佐久にも演劇は根づいていて医療従事者や地域の代表である保健補導員が、自ら脚本を作ったり演じたりすることで住民に健康や予防の知識を広めている 。

佐久市立国保浅間総合病院 地域医療部長 糖尿病センター長 仲元司先生率いる「トーシンズ」もそのひとつ。佐久市を含む東信(とうしん)地方にちなんだネーミングなのだが、発足したのは2012年。東信地区の糖尿病医療に関わるスタッフの研究会に、東京・多摩地区を中心に活動する糖尿病劇場の「たまちゃんず」を招待したのがきっかけだ。

病院、職種、世代を超えて構成される劇団「トーシンズ」のメンバー。前列中央が仲元司先生。本番前の余裕を感じさせる(?)集合写真。

「糖尿病劇場は登録商標にもなっているくらいで、糖尿病分野ではそれなりに知られた活動なのですが、その内容は基本的に医療従事者向けです。
たとえばマシンガントークの栄養士が登場して、あれこれ説明するものの、患者さんが置いてけぼりを食っている状況を劇にして、普段の療養指導を見直してみる、というような」

その研究会では  シナリオを作る研修を行い、医療従事者ではなく患者や一般市民を対象に、難しい医学用語や体のしくみをわかりやすく解説する啓発劇を考えた。それを発展させ、「劇場型糖尿病教室」と銘打って松本市で上演したのが、記念すべきトーシンズの初舞台『もろこしはご飯の後で』だった。

明るい仲先生のまわりには笑顔が絶えない。俳句が趣味で、セリフ回しにこだわりあり。

「テレビドラマをもじったタイトルなんですけどね(笑) 。この地域の人たちは、ご飯をしっかり食べたあとにとうもろこしを食べるような習慣があるんです。だけどそれって炭水化物の重ね食いだよね、と知ってほしくて生まれたアイデアです」

オリジナルのミステリードラマと同様、謎解きのスタイルで炭水化物過剰摂取のトリックが明かされていくユニークな展開。発足時のメンバーは、研究会の運営スタッフがベースになっていて、そのときの謳い文句が“8つの病院、5つの職種”。つまり東信地域の8つの病院で働く、医師、看護師、保健師、薬剤師、臨床検査技師などさまざまな職種の人たちで構成されていたのだ。以来、その都度メンバーは変わりながらも7年間で22回、計12本のオリジナルシナリオで上演。なかなか人気の劇団といえるだろう。

セリフを暗記する時間がないので、カンペ(カンニングペーパー)もみんなで手作り。試行錯誤を重ねて、現在はダンボール製のカンペ台を舞台上に置いている。

劇の内容は基本的に糖尿病にまつわることで、上演する場も糖尿病関連のイベントがメインなのだが、生活習慣病といわれる病気だけあって、テーマは身近で幅広い。 『大きな魚の目に涙~あなたの足は健康ですか?』『野沢菜一家~アルブミン物語』『糖尿病は歯が命!』『下げ過ぎに気をつけて血糖値』『運動すればいくら食べてもいいの?』などなど、過去作のユーモアに富んだタイトルからもその多彩さが伝わってくる。

「たとえば『野沢菜一家~アルブミン物語』のアルブミンっていう言葉は、一般的にはあまり知られていないですよね。糖尿病の初期段階で尿から出るタンパク質なのですが、アルブミンが検出された時点でしっかり治療をしましょうってことをアピールするための劇なんです」

あえてタイトルに聞き慣れない言葉を入れ、劇中でも『先生がこないだ言ってた、アルなんとか……、アルコール? アルミニウム?』『お父さん、それってアルブミンじゃないの?』などと登場人物にあえて間違えさせることで、見た人が覚えやすいように工夫 しているのだ。

 

病気や予防にまつわる誤った認識を
劇に盛り込んで気付きを与える

トーシンズの23回目の舞台となったのが、11月9日に開催された「2019年東信地区 世界糖尿病デー」というイベント。2019年現在、世界の糖尿病人口は4億6300万人に上り、2017年から3800万人も増えているらしい。世界糖尿病デーに定められている11月14日は、インスリンを発見した人物の誕生日で、この日の前後に全世界で糖尿病啓発キャンペーンが繰り広げられているのだ。

「2019年東信地区 世界糖尿病デー」のイベント風景。イオンモール佐久平で筋力テスト、歯周病チェックなどが行われた。

夜の本番を控えて、昼間のうちに会場の一室にメンバーが集まって稽古が行われたのだが、全員揃っての練習はその日が初めて。勤務先も仕事の内容も異なるうえに、ただでさえ忙しい人たちばかり。全員が集まるだけでもひと苦労なのだ。

今回上演されるのは、『貯筋でのばす健康寿命』という新作劇。主な登場人物は、若かりしときはラガーマンだったものの、年齢とともにすっかり筋力が衰え、最近は不用意に転んだり、むせたりしてしまう70代の“筋肉なしぞう”とその妻の“筋肉あり子”、ムキムキの筋肉が自慢の“マッスルまさる”など。マッスルまさるとともに日頃の食生活を振り返ってみると、なしぞうは朝はごはんとみそ汁と漬けもの、昼はそばとサラダなど炭水化物が多めで、タンパク質が不足していることが判明する。

野菜の役は栄養士が、炭水化物とたんぱく質の役は医師が演じている。ちなみに緑と茶色の衣装は仲先生の自前だそう。

「劇のなかではいつも、ドジなことをやったり、間違った知識を持っているような人が出てくるんですけど、これらは医療従事者が遭遇しがちな“あるある”で、 患者さんが実際に言っていることやっていることを、さり気なくシナリオに取り入れています。決して笑いものにしているわけではなく、ちょっとした思い違いを発見するきっかけにしてほしいんですよね」

このやり方は間違っている、と頭ごなしに否定されるのは、相手が医師とはいえ、あまりいい気分がしない人もいるだろうし、日々の習慣を変えるのはそう簡単なことではない。しかし「いくらなんでもこんなことは言わないだろう」というようなデフォルメされたキャラクターや、大げさな演技が笑いを誘い、客観的に間違いに気付くことができるのだ。

劇は通常3幕に分かれていて、1幕は5分程度。幕間では、劇で登場した医学用語や健康知識を医師がスライドなどを使って解説。劇、解説、劇、解説、劇……とテンポよく展開し、今回の場合は最後にクイズ形式で復習する時間も設けられ、大人も子どもも楽しみながら学ぶことのできる構成になっていた。

筋肉なしぞう(左)の食習慣をマッスルまさる(左から2番目)とともに見直している、本番の一コマ。客席から何度も笑いが起こっていた。

「劇が終わったら客席のほうへ行き、『今の主人公の行動はどう感じました?』『いろんな果物が出てきましたけど、何がお好きですか?』などと聞いたりして、受け身にならないよう双方向性を意識しています。ただ劇を見るだけでなく、楽しみながら考えてほしいのです」

 

演劇に慣れ親しんだ地域だから
期待できる効果も大きい

病院や職種のいわゆる横のつながりから成るトーシンズだけでも、特筆すべき活動といえるが、これとは別に佐久をはじめとする東信地域では各病院内で劇団を結成したり、保健補導員などが地域で演劇をすることも珍しくない。たとえば仲先生は、トーシンズのほかに浅間総合病院の糖尿病センターでも「モトジーズ」という自身の名前を冠した劇団を作って、啓発に努めている。

浅間総合病院の公認キャラクター「あさまんぼう」と。

「モトジーズのような各病院の劇団は病院主催のイベントや、病院祭という病院と地域をつなぐお祭りなどで主に活動しています。トーシンズのメンバーが揃わないようなときは、モトジーズから助っ人を引っ張ってきたりもするんです。モトジーズもトーシンズも劇団員になる人は、基本的に僕のスカウトですね(笑)。普段仕事で接していて、舞台度胸がありそうな人を誘っています」

そんなわけで世代もそれなりに幅広いのだが、練習風景を見ていると、発足時からのメンバーである臨床検査技師や薬剤師のアドリブから新たなシーンが追加されたり、最年少の栄養士と医師が一緒にセリフ合わせをしていたりして、通常の業務とは異なる関係性がそこには存在している。トーシンズは近隣の市町村や、ときには県外で出張公演をすることもあり、かつて自分たちが教えを受けたように、その地域の医療従事者に向けてシナリオ作成の研修なども行っている。

「長野県大町市の病院では研修がきっかけで劇団が誕生したそうです。自分たちの撒いた種がちゃんと芽を出してくれると、やっぱり嬉しいですね」

若月先生がその昔、演劇という手段を用いて健康指導をしたことを、仲先生はトーシンズ結成後に知ったそう。結成に直接的な影響は受けていないものの、そもそも演劇に慣れ親しんできた地域でトーシンズが生まれたことに、不思議な縁を感じている。

「浅間総合病院の初代院長の吉澤國雄先生は、若月先生とほぼ同世代なのですが、約60年前に糖尿病専門の外来を始めた方で、それが今は僕が所属する糖尿病センターになっています。若月先生にしろ、吉澤先生にしろ、伝統を受け継ぐかたちで我々がいるという意識はとても大事。先達が作ってくれた環境があるからこそ、僕たちがこうして活動できるんですよね」

普段は白衣を着ている医師が、被り物をして観客を笑わせたり、所属先も職種も年齢も異なる医療従事者たちが、和気あいあいとひとつの芝居を作り上げたり。作る人も見る人も楽しめる演劇は、健康知識を広めるだけではないさまざまな効用を持っていた。

【特集:「自分の健康は、自分で守る」まち】
●農村医療が生まれたまちでつながる、「地域医療」のバトン。“医療の充実”がもたらすものとは?▶︎▶︎
●「予防は治療にまさる」。住民と育む、佐久市の“健康教養”▶︎▶︎

子育て・医療環境が充実する、 長野県佐久市

東京から北陸新幹線で約75分、車で約2時間と、都心からのアクセスのよさと豊かな自然で、移住を考える人の注目を集めているエリア。人口あたりの病院数・医師・医療従事者が多く、医療環境に恵まれている佐久市だが、子育て世代をサポートする体制も充実。佐久医師会が佐久地域で行っている子育て力向上事業「教えてドクター!プロジェクト」では、夜間などに子どもが体調を崩したときに、救急車を呼ぶべきかを判断するためのコンテンツや、実際に救急車を呼んだり、子育て支援センターなどに電話をかける機能があるアプリや子どもの病気や病院受診の目安をまとめた冊子などを作成している。

長野県佐久市空き家バンク「おいでなんし!佐久」:www.city.saku.nagano.jp/kanko/oidenanshi

「農村に入ったら、演説ではなく演劇を」演劇を通じて広がる、佐久市の健康意識。
「農村に入ったら、演説ではなく演劇を」演劇を通じて広がる、佐久市の健康意識。
仲 元司先生 1957年、大阪市出身。佐久市立国保浅間総合病院 地域医療部長 糖尿病センター長。「仲 寒蟬(かんせん)」の俳号を持つ俳人でもある。俳句界の芥川賞と言われる「角川俳句賞」や芸術選奨を受賞。お気に入りは音楽鑑賞(CD5000枚以上、バッハ大好き)、美術鑑賞(幅広く)、歴史フェチ(塩野七生のファン)、マンガも含め蔵書数は1万冊を超える、ワイン(ボルドーよりブルゴーニュ)、万年筆(コレクションは500本以上)、版画・蔵書票の蒐集、猫を愛するが妻には負ける。

 
(更新日:2019.12.05)
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健康長寿のまちといわれる長野県・佐久市。古くから健康教養の土壌が育まれたここには、日常の中に“医療”がある。佐久に根付く健康づくりの秘密を探る。
「農村に入ったら、演説ではなく演劇を」演劇を通じて広がる、佐久市の健康意識。

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