ある視点
vol.02 “森悠子”という一人の音楽家、教育者について
ヴァイオリニストであり教育者の森悠子さんを音楽監督に活動する、 「長岡京室内アンサンブル」その名の通り、拠点は京都府・長岡京市。 この楽団に指揮者は存在せず、メンバーも流動的に入れ替わっていく。 技術、想像力、緊張感、コミュニケーション……
そうして構築されていく素晴らしく刺激的な音楽に出会った、写真家の大森克己さん。
「音楽は、ことばである」
その意味を体感すべく、この音楽が生まれる現場へ。
彼・彼女たちが、長岡京から世界に向けて
音楽を生み出す時間を記録していきます。
森悠子さんは教育哲学者・ 森 昭の3人姉妹の次女として、大阪府高槻市に生まれた。父を慕って集まってくる同僚や教え子たちが、いつも家の中で笑い声やユーモアとともに議論を交わしていたという自由闊達な環境のなか、6歳からヴァイオリンを習いはじめる。その後、桐朋学園に進学し齋藤秀雄に師事。森さんが在学当時の桐朋学園は「同級生には、中村紘子さん、岩崎洸さん、木村俊光さんがいて、二年先輩に堤剛さん、一年先輩に前橋汀子さん(中略)高校一年生のときからプロの音楽家、そういう人たちが桐朋学園には集まっていた」(「ヴァイオリニスト 空に飛びたくて」春秋社刊より)
みんな、とてつもない才能を持った若い音楽家たちだ。そんな競争の激しい集団のなかで森さんは何を考えていたのか? いま森さん自身が教えている学生たちの年頃、そして本格的にヨーロッパで活動を開始した20代後半の頃、一体どんなことを感じながら日々を送っていたのか? そして音楽を学ぶということは一体どういうことなのか。「長岡京室内アンサンブル」が奏でる音により深く近づくためにも確かめたいことがたくさんあった。そんな思いをもってインタヴューをお願いしたところ、快く応じて下さった。(2016年5月3日 AUX BACCHANALES 京都にて )
森(以下M)「高校1年生の時から、左手の運指(楽器を演奏するときの指使い)、動きの研究を一生懸命にやって、19歳のころまでに、かなり自分の中でロジカルに出来上がっていたのね。で、ある時、エルンストのエチュードを無理して弾いて腱鞘炎になって、整体の野口晴哉先生に出会って治癒したという経験があってね。心、精神も含めた身体ぜんたいの動きを整えるということが演奏にとって大切なんだ、ということに気がついて、整体協会に通いながら身体機能についての研究をやっていたのよ」
「いろいろな実験 −−右の耳に耳栓をしたまま自分が弾く音を左だけの耳で聴いたり、片足で立って弾くことをしたり、さまざまな動作を駆使して試してみた。足の位置が演奏上きわめて重要だとわかったのは、この時である。ヴァイオリンを弾く姿勢で片足を椅子に乗せる。さまざまな角度で足を置き弾いてみる。足を離すとどうなるか……そのようにして、音がどう発せられているかを意識しながら続け、丹田で弾けるところを見きわめるまで試していく」(前掲書より)
大森(以下O)「レッスンやリハの時、上手くいかない時に、森さんは必ず、身体の使い方をチェックされますが、そこから来ているんですね」
O「1970年に日本での活動をいったんリセットされて、留学される訳ですが、何故、ヨーロッパに行こうと思われたのですか?」
M「まず一つにはチェコ出身のマリア・ホロニョーバ先生との出会いがありました。自分自身が、どういう方向に進んでいけば良いのかとても悩んでいた時に、東京藝大に先生がいらっしゃることを聞いて、レッスンを受けにいったのね。そうしたら、彼女がプロコフィエフのヴァイオリン・ソナタ第2番の冒頭のたった2フレーズ、4つの音を弾いただけで、自分が子どもの頃、ただただ楽しい! ってヴァイオリンを弾いていたことを、思い出させてくれました。技術の向こう側にある演奏の自由を感じたんですね」
O「悩んでいた、っていうのは?」
M「卒業したあと、齋藤秀雄先生の助手をつとめながら、桐朋学園子供教室オーケストラ、広島での音楽教室での指導、そして自分のコンサート活動に走り回っていたのね。そんな忙しい、追われる日々の中で、小さな経験と勘だけで演奏し、生徒を教えている自分自身の在り方に不安を感じるようになっていきました。それと、コンクール至上主義の日本の音楽教育システムの在り方にも、これでほんとうにいいのか?って思うようになっていました」
O「なるほど」
M「それで、私の世代はみんなアメリカ(NY のジュリアード音楽院)に留学したんです。私も3回ほど奨学金をとれていたんだけど、全部断ったの。アメリカに行ったら自分が潰れると本能的に感じたんです。知識なんてゼロだったけど。それはね、直感。もちろん、プラハのホロニョーバ先生との出会いがあって、彼女の元でセヴシックのボウイング技法を学びたいという希望はあったわよ。でもそれだけじゃなくて、いきなりパリに行くのではなく、ヨーロッパでの暮らしをプラハで始めたということは、とっても大切でした。そこからフランスを、ヨーロッパを見たということ」
O「森さんが渡欧する2年前、1968年には世界中で学生運動の嵐が吹き荒れて、プラハはある意味でその中心の一つだった(プラハの春、そしてソ連軍によるその鎮圧)訳ですが、そのことは渡欧される前にはご存知だったのですか?」
M「ほとんど知らなかったの(笑)だからね、私はプラハでヴァイオリン演奏の原点に立ち返って学び始めたんだけれども、生きることそのもの、人間そのものを理解するということの原点もそこにあるんです」
「70年のプラハの状況があって、食料もほんとにわずか。市民たちには配給の食券が出て、パンや卵の数も決められていて。そういう社会に入っていった。そこで私はたくさんのことを学んだと思うんですけど、彼らは自由が無い政治体制の中でものすごく圧迫されて生きていた。でも人間は自由を求めますよね。どこに自由を求めたかというと、心の奥の奥の奥の底に求めた。心の中が自由になっていく人たちばかりだった。きたなーいカーキ色の洋服を着ているんだけど、心にものすごく豊かなものがある。そういう人たちに囲まれて、人間の本当の自由って心の中なんだと学ぶんです。外見の話じゃないのね」
「南ボヘミアの田舎に、父の友人の哲学者が家を持っていて、週末にそこに連れていってもらって。もう一面お花畑なんです。そこに行くまでにさくらんぼの木があって、さくらんぼ取り放題でおいしいんですよ(笑)。木によじのぼって。あれには助けられましたね。そういう心の自由、行動の自由、ボヘミアに毎週行っているうちに、今までの自分はこだわりと、衒い、気取りとか競争とか、そういう垢がいっぱいくっついちゃって、私は日本で何をしてきたんだろう、何を教わってきたんだろうって。一体何者なんだって思う日がきて。そういう心の汚れがぜーんぶ、バタバタバタバターって落ちていく日があったんです。音を立てて落ちていくんですよね、本当に。そのときに自分の心の中にブラームスの交響曲第2番があふれるように響いてきたことをね、もうしっかりと覚えています」
O「森さん、このヨーゼフ・クーデルカって云う写真家をご存知ですか?68年のプラハの動乱や、ジプシーの写真を撮影しているマグナムの写真家です」
写真集のページをめくりながら、
M「あーっ、このすぐ近くに私、住んでいたの」
ジプシーの楽団の写真を見ながら「見て、この人たちの顔! 暗いようでいて、明るいようでいて、暗い。こういう顔の演奏家になれたら良いんだけどね。外から見えない部分に奥行きがあるんですよね」
O「ブラームスやバルトークが影響を受けた東欧の民族音楽って、こういう人たちのものだった訳ですよね」
そして、プラハを後にした森さんはパリで音楽活動を始めることになる。
M「パリ祭の日に友達と出かけていったら街中が車だらけで駐車する場所がなくて、その友達はシトロエンの2CVという車を見定めて自分が横につけて、その車を動かそうとしたの。そうしたら10人くらいの男の人たちが一緒によいしょよいしょと手伝ってくれて2CV を歩道にのせて、彼がその空いたスペースにパーキングしたんです。私、この人たちってなんだろう! と思ったの。無償の手伝いを。他の国だったらそうはいかない。規則はあるんだけど規則はない、という国民性にびっくりして。あれから、そういう目線でフランスを見るようになったんです。日本じゃありえない。固定観念がなくて一致団結できる。自分たちの気持ちさえあればね。そういう場面がいくつかあったんです。教会のミサでオルガンの音程に合わせて演奏することも、そういうことの一つでした」
O「それは、どういうことですか?」
M「パリに着いたばかりのころ、毎日曜日、フォンテンブローの教会のミサでヴァイオリンを弾くアルバイトをするようになったんだけど、それがカルチャーショックでね。そこで演奏される音程は教会に据え付けのオルガンが基準になるから、いま標準ピッチとされている音程よりも、半音低いのよ。ラの音がソのシャープに聴こえてしまう訳です。A=442Hz という絶対音でドレミを習得してきて、それに慣れ切っているから、ほんとうに戸惑うのね。現場での柔軟な対応がいかに大切か、っていうこと」
フランスでの森さんは、パリでヴァイオリニスト、ミシェル・オークレールに師事後、ノルマンディーのカンを皮切りに、1972年以降、様々な室内楽団、オーケストラで働くようになる。そして練習、コンサート、レコーディングという実践の中で、アンサンブルとは何か? 音楽を作る“音”というのは何だろうと問いかける日々が続いていた。
森さんがフランスで活動し始めた70年代。クラシック音楽業界とオーケストラは大ホールのたくさんの聴衆にむけて、そして、発達した録音技術を駆使してマスに訴えかけるために、どんどん巨大化し、ヴィブラートで甘く色づけされた「ロマンティック」な音楽を大量生産するピークにあった、ともいえます。そこに一石を投じる形で登場したのが「音楽が作曲された時代の楽器(オリジナル楽器、ピリオド楽器)や様式で演奏してみよう」という試み、一般的には「古楽ムーブメント」と呼ばれるものでした。そしてモーツァルト(1756~1791)やベートーベン(1770~1827)以前のバロック音楽がどのようなものであったのかを改めて見直す動きが、とても盛んになっていたのです。それは、単に古いものに対するノスタルジックな憧れというものとは違って、作曲者が音楽や自筆の楽譜に込めた意図を根源的なところに遡って検討してみよう、という音楽に対する知的で真摯なアプローチでもありました。フランスにもピリオド楽器を使ってバロック音楽の新しい解釈、演奏に挑戦しようとする野心的な楽団がたくさん生まれていました。
70年代前半、森さんが在籍していた楽団の一つ、ジャン=クロード・マルゴワール率いる、ラ・グランド・エキュリ・エ・ラ・シャンブル・デュ・ロワ(王室大厩舎・王宮付楽団)で、森さんは古楽との決定的な出会いをはたします。ある日、団長のマルゴワールが「きょうからこれに切りかえる」と自分たちの演奏をすべてピリオド楽器でやっていくことを宣言したのです。団員の中にはそれでやめてしまう人もいたそうです。
M「最初はそりゃあ、びっくりですよ。だってピリオド楽器なんて触ったこと無いんだもの。でもね、プロとしてやっていく、ということは上手に弾くっていうことじゃないの。そうではなくて、今まで誰もやったことが無いことをやるということ。それに、私は食べて行かなきゃならなかったからね、辞める訳にいかないでしょ。レコード会社も新しい音を求めていましたから。研究しているうちに、自分自身がどんどんピリオド楽器に魅せられていったのね」
「ルーブル美術館でバロックやロココの楽器が描かれている絵画を見て、あーでもない、こーでもないって試したわ」
再び、クーデルカのジプシーの楽団の写真を見ながら「ほら、これかなりバロックに近い。顎あて、肩あてが無いでしょ。構え方が、モダン楽器と全然違うの。ギターの様な構え方。構え方によって響きも全然違う。シフティング(左手の運指)も難しかった、顎あてが無いから、上っていけるけれども、下がれない。どういう風に下りていけばいいのか。こういうことは、どこの学校でも学べない。食べていくため、生きていくために必死でやっていましたよ」
M「私がいまね、松崎くんなんかに、時々『雑音』を出させるのも、フランス時代のバロック研究があるからこそ。フランス人は挑戦していた。綺麗な音だけじゃなくて、『雑音』の中にもさまざまな響きがあるの」
「バロック音楽、バロック・オペラの中には必ずバレエのシーンがあります。ガボット、メヌエット、ジーグ、パッサカリア、、、。つまりダンス・ミュージックっていうことなのよ。クラシック音楽にダンス・ミュージックっていう側面があることを絶対に忘れちゃダメなんです」
「それと即興の要素も」
バロックの話から、森さんの話は縦横無尽に広がり、日本の音楽教育の話にもおよぶ。
「日本の音楽家は速度を変えられない人が多すぎる」
カンカンカンカンっ! と乱暴に机を叩きながら、
「こうやって、指揮者、指導者が叩いてしまうから。一小節に何拍って決めて機械的に軍隊のようにやってしまう。そうしないと遅いリズムの曲を演奏できないのね。だから音と音の隙間が無いし、色彩感も無いの」
「悲しいくらいに同じ速度。アクセルが踏めない、ブレーキも時には必要、つまり運転能力が無い、ということなのね。それじゃあ、創造の外でしょ。コメット(彗星)のしっぽがあるような音が弾けないの。一音でも全弓を使えなきゃいけないのよ」
「音と音の間、間感って音楽にとってとても大切なものなんです。アイデアが教育の中に無いのね。扇風機の風は同じ速度だけれども、自然の風は常に変化しているでしょ。水の流れも速かったり、遅かったりする、すべてはそうであって、それが音楽なのね」
「教育の中でいったん統一して押し付けてしまうと、なかなか心を鬼にしないと変えるのは難しいんです。(教える側も、教えられる側も)一度出来てしまうと、安心して同じ事を繰り返してしまう。音楽家に、安定、安心っていうものをもたらしてしまうと、それはアートではなくなってしまいます。それなら古い同じレコードを聴いていればいいじゃない?」
「フランスの音楽、イタリアの音楽、ドイツの音楽、どれも特徴はあるけれど、みんなつながっているのよ。モーツァルトも旅をしたでしょ?」
「旅をして、たくさんおしゃべりしないといけない。日本の若い子、特に男の子はおしゃべりが下手でしょ。無駄話がいっぱいあるはずなのに声を出さない。その無駄の中にこそ、いろいろあるのに。タガの無い人が増えるべきよね」
インタヴューを終え、帰り支度をしようとずるボクに、ふと何かを思い出したように森さんがまた話しをしてくれる。その時の森さんは、あのクーデルカの写真の中のジプシーのような「暗いようでいて、明るいようでいて、暗い」なんともいえない表情をしていた。
「自分は教師として、まだまだダメだと思いますよ。何故かっていうと、他人の身体は、私の身体とは違うんだもの。身体って、聴覚、視覚、味覚、いろいろあるでしょ? 『他人の身体』という境界線をまたいでしまって良いのか? そこを越えてしまうと、その人の個性をつぶしてしまう。だからレッスンしながら、教えながらいつも苦しんでいます。ただね、こちらの失敗も、向こうの失敗も『味わい』になったりもするからね。マニュアルを作って教育するのも一つのテクニックではあるけれども、私には出来ない、分からないの」
題字・吉田勝信
長岡京室内アンサンブル
「
森 悠子
もり・ゆうこ/6歳よりヴァイオリンを始める。桐朋学園大学卒業後、
-
大森克己
おおもり・かつみ/1963年、神戸市生まれ。1994年、第3回写真新世紀優秀賞。国内外での写真展や写真集を通じて作品を発表。主な著書に『サルサ・ガムテープ』(リトルモア)、『encounter』、『すべては初めて起こる』(マッチアンドカンパニー)など。クラシック音楽にも造詣が深く、特にルネッサンス時代の合唱曲の大ファン。https://www.instagram.com/omorikatsumi/
バックナンバー
-
vol.01
-
vol.02
-
vol.03
-
vol.04