ある視点

人生の計画なんて、そう簡単に立てられるものじゃない。

予想を上回る独身生活だったり、長く住む家がどこになるか分からなかったり、パートナーと別れたり、転職したり。先の読めない人生のなかで、安くない、かさが大きいダイニングテーブルを買えない人はけっこう多いのではないか、と思う。同時に、人生の変わり目に購入した人もいるはずだ。

ダイニングテーブルは、食事をするための机でしかないが、戦後の日本では“家族の象徴”として捉えられてきた。だからこそ、ダイニングテーブルを取り巻く環境を探ることで、今日の家族のかたちや暮らしのありようが浮かび上がってくるかもしれない。

それぞれの、ばらばらのダイニングテーブル事情に、耳をすます。

イラスト:中村桃子

第1回: エッセイ「ダイニングテーブルとの因縁、そして和解」

ピストン藤井(ライター )

これまでの私の人生において、ダイニングテーブルに思いを馳せたことはあっただろうか。「そばに居てくれたらいいのに」と恋焦がれたことは、ツチノコやカッパにならある。しかし、ダイニングテーブルには1ミリもない。独身、アパート住まいのアラフォーには、得体の知れない未確認生物のツチノコやカッパのほうが、心の隙間を埋めてくれる確かな存在だ。

部屋にあるのは小さなテーブルが3つ。そのうちの1つはゴミのようなガラクタ、もう1つはガラクタのようなゴミで埋もれている。まともに機能しているのはちゃぶ台のみだ。食事をする際の机という意味では、ちゃぶ台も昭和の日本式ダイニングテーブルと言えるだろう。丸いフォルムを見れば他人とは思えないし、折り畳めるから移動も掃除も楽ちん。おまけに冬場は“おこた”に様変わりする。独り暮らしの強い味方である。

しかしだからこそ、ちゃぶ台はダイニングテーブルとは言えないな、とも思う。小回りが利きすぎるのだ。アイツはそうじゃない。家の真ん中にドーンと君臨し、テコでも動かない。妙な威厳を放ち、一家団らんを支える大黒柱。それが私のイメージするザ・ダイニングテーブルだ。

我が故郷の富山は全国でも有数の持ち家率を誇り、大きなテーブルやソファーを置く家も多い。珍しくはないはずなのだが、既婚者の友人宅に招かれ、ダイニングテーブルへと誘導される時、毎回「うっ」と足がすくむ。一家の仲睦まじい姿が卓上に見える気がするのだ。ダイニングテーブルというものが、血縁や固い絆で結ばれたファミリーの象徴であると、私自身がベタに信じているせいもあるだろう。家族という共同体のプレッシャーに気圧されてしまうのだ。

うちの実家にも5人掛け、35年ものの屈強なベテランが鎮座するが、思えば浅からぬ因縁があった。ヤツと再会したのは29歳になる年だった。それまで東京の音楽雑誌編集部の末端に棲息していた私は、「映画監督になりたい」「雑誌の編集長になりたい」と夢を鞍替えするうち、気づけば三十路が目前に迫っていた。東京でハッタリをかまし続ける娘に、母は「お前にはひとりで東京を生きる術はない」と最終通告。首根っこ捕まえて富山の実家に連れ戻し、自分が一代で築いた薬局に、事務の丁稚奉公として娘をぶち込んだのだった。

住まいはある、仕事はある、家族も旧友もいる。とても恵まれていたと我ながら思う。あとは結婚して、子供を産んで、家を建てればいい。そうすれば都落ちのアラサー独女というハンデを挽回でき、富山の保守的社会の一員になれるらしかった。無茶ブリとしか思えなかったが、しかし周囲の同世代は次々と偉業を達成していった。みんな、いつの間にちゃんとした大人になったんだろう。ついこの間まで、一緒に給食の牛乳を一気飲みしてたのに。

彼らを立派だと思った。でも同じステージにあがりたいとは思わなかった。クソがつくほど甘ったれで、往生際が悪かった私は、「何かを表現する何かしらになりたい」という漠然とした野望をくすぶらせていた。私はどんぶらこっこと周囲から浮いていき、娘をまっとうな人生に軌道修正させたい母とも険悪になっていった。

その頃、実家には客がたびたび訪れるようになっていた。帰郷してから気づいたのだが、父と母は地域の人たちと交流を深めるようになっていた。場末のスナックのママにしか心を開かない父が、地区の体育協会の役員を務めているのには驚いた。行事にかこつけては、頻繁に酒盛りをしていた。

かつて兄と共有していたダイニングテーブルのベンチ椅子は、私が東京で迷走している間、町内会の青年団に奪われてしまった。まさに遠くの親戚より近くの他人である。私の席には赤ら顔の見知らぬ輩が座り、焼酎片手にワハハ笑っている。アンタ誰や。その姿を目撃した時、「実家だからって居場所があると思うなよ」とダイニングテーブルに冷たくあしらわれた気がした。

それから間もなく、夜逃げするように家を出た。家の外にも中にも居場所を見つけられないなら、自分で作るしかない。私は独り暮らしをすると同時に、富山でライターとして活動する道を模索し始めたのだった。

あれから4回、アパートの契約更新をした。私は「ピストン藤井」というふざけた名でライターをやりつつ、薬局の店長代理&便所掃除係に出世した。ちゃぶ台とも10年近い付き合いになる。この小さな円卓は、私が富山に帰郷してから初めて見つけた、かけがえのない居場所だったのだろうと思う。

一度、距離を置いたことで実家との関係性も良くなった。結婚に関しては何も言われなくなってしまい、むしろ何か言ってほしいとすら思う。月の半分ぐらいは親と食卓を囲み、来客があれば「どうぞどうぞ」と自分の席を譲るようになった。変わったのは私のほうだ。ダイニングテーブルは、変容する家族のフォーメーションにも動じず、今も昔もそこに居る。

いつか実家のアイツを受け継ぐ日がくるかもしれない。もしそうなったら、てんでバラバラの個性を放つ人たちが、それぞれのポジションで好き勝手しながらも、一緒に食卓を囲んでいる光景を見たい。ゆるやかな繋がりでも、その場に居ることが許されるような。そんな懐のでかいダイニングテーブルに、私の最後かもしれない恋を捧げようと思う。

ピストン藤井
1979年富山市生まれ。東京で雑誌編集者として勤務後、2008年に帰郷。ピストン藤井のペンネームで、富山ならではの個性の強い場所や人を探るライター活動を開始。2013年ミニコミ『文藝逡巡 別冊 郷土愛バカ一代!』を刊行。地元テレビやラジオ出演、新聞でのコラム連載など活動を広げる。2019年10月、本名の藤井聡子名義で初のエッセイ本『どこにでもあるどこかになる前に。~富山見聞逡巡記~』(里山社)を刊行。続編エッセイを里山社サイトで近日連載予定。twitter:@toyama_piston

 
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【「雛形」編集部より】
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詳細は、こちらから。

(更新日:2021.12.13)

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