特集 お母さんだから、できること
「お母さんでもなく、妻でもなく、家族の中でこそ見えてきた、わたしの存在」|【お母さんだから、できることvol.1】
神奈川県と山梨県の県境にある旧藤野町(以下、藤野)に住んでいるという中村暁野さんは、7歳と1歳の子どもを持つお母さん。日々、育児に奮闘する暮らしの中で、今まで通りにいかず、やりたいことを我慢したり、できないことが増えて行く……。そんな現実に打ちのめされ、子育てに悩んでいたという。そんな生活をどうしたら変えられるのか。気づいたことを一つひとつ、少しずつ変化させていくうちに、暮らす場所への疑問も浮かんできた。そして藤野へと移住した今、改めて気づいたことがあるという。
地域へと家族が移住する時、お母さんたちは何を思って移住をし、どういう暮らしや働き方をしているんだろう。仕事のこと、暮らしのこと、家族や子どものこと。大きく変わった暮らしの中で、もしかしたらお母さんは誰よりも深く、地域とかかわっているのかもしれない。けれど、そんなお母さんたちに話を聞く機会はあまり多くなかった。
暁野さんが藤野で出会ったお母さんたちは、子育てをしながら、自分らしいやり方で、新しい一歩を踏み出していた。そんな3人のお母さんたちに会って話を聞いてみたいという暁野さんと一緒に、藤野をめぐることに。第1回目となる今回は、聞き手となる暁野さん自身について話を聞いた。
写真:加瀬健太郎 文:薮下佳代
家族が向き合うために、
家族で雑誌をつくる
神奈川県・藤野。現在は相模原市に合併されてしまい“藤野”という町名は駅名に残るのみとなってしまったが、いまでも住民は親しみ込めて“藤野”と呼ぶ。2017年春、この町に移住した中村暁野さんは4人家族。夫の俵太さんは東京と行き来しながら活動するクリエイティブディレクター、7歳の長女・花種(かたね)ちゃん、1歳になる長男の樹根(じゅね)くんと相模川沿いにある大きな一軒家で暮らしている。
暁野さん自身は、『家族と一年誌 家族』という雑誌を2015年に創刊。自分の中にあった“家族観”と、実際の自分の家族の姿とのギャップに悩んだ経験から、家族ってなんだろう? そんな問いをテーマに、ひとつの家族を一年間にわたって取材し、一冊まるごとひとつの家族を取り上げるというユニークなコンセプトで、取材や制作も中村さん家族全員で行うのだという。
「家族というものは、それぞれにとって一番の理解者で、最高の居場所になるものだという思い込みがあったんです。自分も家族を持つならそうでありたいし、そうじゃなきゃ家族じゃないとさえ思っていました。
でも長女が生まれて5カ月後に東日本大震災が起こって、いろんな不安を抱えながら子育てする中で、夫と同じ方向を向けていないと感じることが多々あって。私が“正しい”と思っていたことは、夫にとって“正しい”ことではなかったり、多忙な夫の『忙しい』という言葉を言い訳に、向き合えていない、思いを共有できていない、こんなの家族じゃない!という思いが日に日に強くなっていって。
それでも、家族の関係をあきらめたくなくて、どうしたらお互いに向き合えるのかと考えた時、一緒に『家族』という雑誌を作ってみよう、と決めたんです。制作をしていくうちに、わからないもの同士が一生懸命寄り添おうとする、その関係も家族なんじゃないか、と思えるようになりました。
正しい家族のかたちなんてない。そう思えたことで、夫が自分とは違う考えや感覚を持っていることに不満を感じることもなくなっていったんです」
いろんな家族のかたちがあるからこそ、家族とは“こういうものだ”という答えを見つける必要はない。ただ、それぞれの家族が持つ、それぞれの物語を知ることで、自分たち家族のかたちも受け入れたいし、肯定したい。それが、『家族』という雑誌づくりを通して暁野さんがたどり着いたひとつの“答え”でもあった。
きっかけはいつも
娘が与えてくれた
「私と夫は、見ている方向や考え方、感覚もバラバラ。そんな2人が一緒に考えたり、2人で何かしら動くタイミングというのは、いつも娘がきっかけで、結婚も移住も娘がいなければしていませんでした。25 歳の頃、妊娠がわかって結婚。
当時わたしはPoPoyansというユニットで音楽活動をしていて、夫は勤めていたギャラリーのディレクションを任されたばかり。長く一緒に暮らしていたけれど結婚なんてまだ先のことと思っていたんです。
娘は物心つく前からとても繊細で敏感な子でした。保育園に通うようになってもずっとなじめず、大変なこともたくさんあって。彼女の確固としてある感性や個性が、先の学校生活ではどう受け止められるんだろうと、ずっと心配していました。でも娘と自分は似ていると常々言う夫は『芯が強い子だから大丈夫』と言っていて。そうなのかなあ……と揺れる日々を送っていたんです」
そんな時、2号目となる『家族』の取材先の家族やその仲間たちと中村さん家族でキャンプへ行くことになった。初対面の人たちばかりにもかかわらず、花種ちゃんが楽しそうにのびのび過ごしていることに驚いた。そんな姿を見た暁野さんも俵太さんも、花種ちゃんが自分らしく過ごせる場所があるのかもしれないと思い立つ。そしてその場所は、「東京じゃないのかもしれない」と思い始めた。
その1カ月後、突然、藤野に移住を決意。一番の理由は花種ちゃんの感性をそのまま受け止め、伸ばしてくれそうな学校との出会いだった。また、数年前に独立し、デザインスタジオを立ち上げていた俵太さん自身も、東京から離れ、自然の中で暮らしたいという思いがあった。それでもなかなか踏み出せなかった“移住”は、花種ちゃんの進学により、予想外のスピードで実現することになる。
藤野に来て感じたこと、
変わり始めたこと
「娘のために」と藤野に来た中村さん家族だったが、それ以上に暁野さん自身がここにきて「変わるきっかけをもらった」という。
「今まで人の評価を通してしか自分を肯定することができませんでした。人の目が気になって “こう見られたい”という思いも強かった。『家族』の制作をして、正しい家族の姿なんてないと思ったはずなのに、そして娘に対してありのままの姿で彼女らしく育ってほしいと思っているはずなのに、私は自分に対してずっと『良いお母さん』でいたい、まわりからも『良いお母さん』に見られたい、と思っていたんだと気がついたんです」
花種ちゃんがまだ小さかった頃、毎日のように癇癪を起こして泣き叫ぶため、近所の人に通報されたことが何度かあったという暁野さん。東京に住んでいた頃にもまわりに頼れるお母さん友だちはたくさんいたはずなのにどこかで息苦しさを感じていたのは、そういうことがあったことも大きかった。家庭の問題は家の中に留めておくこと。そしてそれは、母親として乗り越えなくてはいけないことだと思い込んでいた。
「藤野に引っ越してきた日、生まれたばかりだった息子がずっと泣いていたんです。荷ほどきに追われていたので泣かせっぱなしにしていたら、近所の人が来て『抱っこしててあげるよ』と言ってくれて。他にも『これ食べて』と差し入れを持ってきてくれる方がいたり。友だちでも知り合いでもなかった初対面の人がそんなことをしてくれることに本当に驚きました。夕暮れ時に近所の子どもたちがパジャマ姿で犬の散歩をしていたり、道を歩くと知らない人からも『こんにちは』とあいさつしてもらえたり、そういった藤野の空気が、どこか張っていた気持ちをゆるめてくれたのかもしれません。
なんだか自分のスペースが広がった気がしたんですよね。家の中に留めておかないといけないものがなくなったような。
たとえば娘と喧嘩して私が怒っている声が近所に響いても別にいいかって思えるくらい、気張らなくても、いいところを見せようとしなくても、私が頑張っていることがわかってもらえているような気持ちになれた。子どもはみんなで育てる、みんなで見守る。そんな意識が自然とあるような土地に感じたんです。そして、こういう場所で子育てをするとこんなに気持ちがラクになれるんだ、と思いました」
お母さんも、
“自分らしく”生きる
藤野に来てからは、人と比べるのではなく、人から評価されるのでもなく、自分らしく生きている、と自分で自分を思えるようになりたい、と願うようになったという暁野さん。自分らしく、を貫くことは実はとっても難しい。そもそも自分らしく生きれるほどに、自分を知るのも難しい。でもそんな時、自分らしく生きている、藤野に住むお母さんたちに出会った。
「藤野は地域通貨が機能していて、お金に代わる価値や生活する方法が根づいているんです。そういった新しい価値観やここに暮らす人々の気質もあって、自分自身を見つめ直す、ひとつの機会になるのかもしれません。
自分がやりたいことをやることは、特別な選ばれた人しかできないわけではなく、好きだから、やりたいから始めてもいい。そう思える環境が藤野にありました。
私自身も文章を書きたいと思ったのは30歳近くなってから。『家族』を創刊した後も、私なんかが書かなくたっておもしろいものを書いてる人がいっぱいいる、と引け目を感じたりコンプレックスを抱えていました。でもそうじゃなく、ただ自分が書きたいから書く、それでいいんだと思えるようになったんです」
「本当に藤野に来てよかった」という暁野さん。中村さんの中で起きた変化は暮らしを変え、家族との関係性も変え続けている。そしてその変化は現在制作中の『家族』2号にも影響を与えているそう。
「創刊号の表紙は暗闇に光が写っている抽象的な写真でした。あの光はまるでひっかいた傷跡にも見えるし、傷の向こうに光が差しているようにも見える。あの写真は当時の私たちの家族というものへのイメージを表しているように感じたんです。あの時、家族は傷でもあったし眩しい光でもあった。今はその光のちょっと先の世界が見えている気がしています」
『家族』のウェブサイトには、暁野さんが毎日綴る家族の日記がある。花種ちゃんとの意地の張り合い、樹根くんのイヤイヤ期の到来や夫とのささいなケンカ、苛立ちも怒りも悲しみも俯瞰して言葉にしていくことで、「自分の気持ちが軽くなって笑い話になる」という。
「ミュージシャン時代、あるサイトでママブログを書かせてもらっていました。その頃はいいことばっかり書いていた(笑)。実際、そういう瞬間もあってそれはウソではないけれど、家族っていい瞬間じゃない時間もいっぱいあって。でもいい時も悪い時も一緒にいれる、それこそが家族の醍醐味だよなと思える今は、赤裸々に何でも包み隠さず書こうと思っています」
それはきっと中村さん自身が、痛みとか迷いとか苦しみにきちんと向き合って、つらくても直視している証拠。今も悩み続けて、考えて続けているまっただ中を、書いて、言葉にする。それがもしかしたら彼女が探し求めている「自分らしく生きる」ことに繋がっていくのかもしれない。
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中村暁野
なかむら・あきの
1984年、ドイツ生まれ。多摩美術大学映像学科時代から音楽ユニットPoPoyansとして活動。映画音楽やCM音楽等を手がける。2010年に結婚・出産。家族のかたちや社会との関わり方に悩んだことがきっかけとなり、ひとつの家族を1年間に渡って取材し丸ごと一冊一家族をとりあげる雑誌『家族と一年誌 家族』を2015年に創刊する。取材・制作も自身の家族と行うのが雑誌のコンセプト。7歳の娘、1歳の息子の母親。
特集
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- 「お母さんでもなく、妻でもなく、家族の中でこそ見えてきた、わたしの存在」|【お母さんだから、できることvol.1】
- 中村暁野 (『家族と一年誌 家族』編集長・エッセイスト)
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- 自分の「やりたい気持ち」を大切に。 正直に、ただ進んでいくだけ|【お母さんだから、できることvol.2】
- 飯田知子さん (「MOMO ice cream 」主宰)
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- 自分のまわりの人を幸せに。 自分自身も幸せになる働き方|【お母さんだから、できることvol.3】
- 池辺 澄さん (「ス・マートパン」主宰)
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- 手仕事を通して、もっと自由になる。|【お母さんだから、できることvol.4】
- 大和まゆみさん (「暮らしの手仕事 -くらして-」主宰)