ある視点
どんなものにも、大体「ふち」があります。
常に真ん中以外にあって、かたちのないものに輪郭を与えたり、
真ん中から溢れたものの拠りどころになったりする場所。
そんな「ふち」が持つ世界を、福岡の小さなブックカフェ
「縁側」店主・河野理子(かわのりこ)さんが紐といていきます。
境界線であり、すみっこであり、ものごとのきわの部分に在るものを見つめるために。
ありふれているけれど、まだ知らない、縁〈ふち〉の世界へ。
vol.5 宇宙と縁
宇宙は果てしなくて、何でも受け入れてくれる大きな存在だった。現実から目をそらしたい時、遠い宇宙に思いを馳せて、わたしは気を紛らわせていたのだ。それは宇宙の不思議を解明し、少しでも真実を知りたいという欲求とは程遠く、ただ得体の知れないものに包まれていたいだけの感覚に近かった。
大人になってからも、いつも「ここは自分がいるべき場所ではない」と、今いる場所から引っ越すことをよく妄想していた。世界から引きこもってしまいたい、という欲求が時折顔を出す。わたしはいつからか、地球の今ここの地点から浮遊していたのだと思う。
だけど最近、不思議と「地球で生きたい」、と思うようになった。自己をめぐるキリのない問答に辟易し、もうその弱さや醜さを受け入れなくてはならないと思いはじめた時期と同じだった。地に足をつけて大地を思いっきり踏みしめてみたい。純粋な欲求だった。
そうして初めて、わたしが今ここでできることは何かを考えるようになった。お掃除をすること。祖母の畑の野菜を収穫し料理をすること。その地球の産物を、体に入れる。その一つひとつがとても重要な営みだ。毎日の暮らしをよくしてゆくような小さなこと。ただそれだけのことのようだけれど、それこそが一番大切なのだと少しずつ体が感じている。
わたしたちが粒のような素粒子でできているという奇跡みたいな命の世界に気づいたら、夕日がとても綺麗に映るようになった。空も毎日形を変えてわたしたちを喜ばす。洗いたての下着のような瑞々しい朝に目覚めることも以前より増え、秘密にしたいくらいの朝焼けも見ることができるようになった。そうして自分の言葉というものも出てきた。雑然と積み重ねられた本に囲まれて妄想ばかりが肥大化し、生身の人間や現実との差に驚いては、落胆していた時代。誰かの思想を借りて話をしていた頃のわたしにはない世界への眼差しだ。
そうして地球で生きたいと思って、初めて気づいたことがあった。
「縁側」には、家主さんがどこからか拾ってきた太陽のライトがあり、わたしは、このライトがとても好きだ。その太陽にパチンとスイッチを入れて縁側の一日がはじまる。自分で買ったお月様の満ち欠けの日めくりカレンダーもぶら下げた。陶器でできた星座の茶香炉も。そして、古い本、新しい本。窓辺には地球儀もある。
時計だけがない。
それらをなぞっていくと、ふとここは宇宙ではないか、と思った。宇宙にあると思っていたものと同じものが目の前の手の届くところにあったのだ。
太陽も、月も、星も、地球も。小さな宇宙。縁側という場所は宇宙だったんだ。
地球で生きると決めた途端、はるか遠いと思っていた宇宙が、逃げ場にしていた宇宙が、既にここにあったことに気づいたのだ。思わぬ発見にわたしはしばし呆然とし、じんわりと嘘みたいに胸の中が熱くなった。ああそうか、自分の好きなことに夢中なあの人や、自然を愛するあの人も、今ここにある小さな宇宙を見つめていたのか。
それに気づいて以来、お客さんは、わたしの宇宙に遊びに来る人となった。そしてお客さんもそれぞれ自分の宇宙を持っていた。それを、地球にある縁側という場所で共有している。縁側には時計がないから、時間だけが曖昧で、みんながそれぞれの感覚で時間を図り、時間が伸びたり縮んだりしていて閉店時間を過ぎることもしばしば。
地球で生きようと思った途端、目の前に宇宙が現れたように、「詩と科学は遠いようで近い」という言葉も、科学を苦手としていたわたしに新しい感覚を与えてくれたものだった。その言葉に出合ったのは高野文子さんの書籍『ドミトリーともきんす』の中だ。そこにあった理論物理学者である湯川秀樹の話が、わたしにはとても面白く感じられた。自然は曲線を作り、人間が直線を作る。人間も自然の産物で曲線的なものだけど、その人間の精神は直線的な骨格を発見した。
しかし、と湯川は言う。「しかしさらに奥深く進めば再び直線的でない自然の真髄に触れるのではなかろうか」と。そのような言葉の中に、確かに詩のきらめきを感じた。そんな湯川が詩と科学について書いた『詩と科学ー子どもたちのためにー』の中の言葉の一部を紹介する。
“いずれにしても、詩と科学とは同じ場所から出発したばかりでなく、行きつく先も同じなのではなかろうか。そしてそれが遠く離れているように思われるのは、途中の道筋だけに目をつけるからではなかろうか。どちらの道でもずっと先の方までたどって行きさえすれば、だんだんちかよってくるのではないだろうか。そればかりではない。二つの道は思いがけなく交差することさえあるのである。”
苦手と思っていたものは意外と近く、それはほとんど隣り合わせだ。小さな世界を研究すればするほど、そこには広大な宇宙が広がっている。思えば地球も宇宙の一部で、それは全く別物ではないのだった。地球に降り立った途端、わたしは宇宙の子どもになれたような気がした。わたしの宇宙は地球に立つわたしの中にあって、地球は広大な宇宙に在る。
「縁側」に来た女の子が、「マルっていいですよね、だって端がないんです。どこにいても真ん中なんですよ。」と言っていたことを思い出す。地球は丸くて縁(ふち)がないのか。真ん中は端っこであり端っこは真ん中だ。ということはここではないどこかはここで、全ては別物ではなくて、もともとは同じなのではないか……。
わたしの見ている世界は、発見によって少しずつ形を変えている。それも、とても優しいほうに。端っこと思っていた縁〈ふち〉の概念さえも真ん中になり得るし、いろんな捉え方ができることこそ、地球で生きる面白さなのかもしれない。このような感覚を知って、安心して今ここで生きはじめることができている。
今日の一冊 :『ドミトリーともきんす』/高野文子(中央公論新社)
河野理子
本屋兼ブックカフェ「縁側」店主。福岡の夜間保育園で保育士として働き、福岡市にある「Rethink Books」という期間限定の本屋でアルバイトをしたのち、祖父の介護のために、豊前市へ移住。ZINEの制作や冊子編集などの仕事もしながら、本に出会える陽だまりのようで吹き溜まりのようなお店「縁側」を営む。2021年3月末で「縁側」の店舗閉店。現在は結婚を機に北陸に移住し、個人本屋でアルバイトをしながら祖父母との暮らしをまとめた冊子を製作している。
「縁側」だった場所は、現在「まんなか」という名前で、米粉で作ったたこ焼き「こめころ焼き」やドリンクを出す、駄菓子屋さんのような集いの場となっている。
www.instagram.com/comecoro.maruchan
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