INTERVIEW

現代の百姓になるために、
自分にできることを増やしていく。

兵庫県
鶴巻耕介さん
つるまき農園 園長
居住地: 東京都品川区→兵庫県西宮市→宮城県仙台市→兵庫県西宮市→兵庫県神戸市北区淡河町

秋晴れのとある日。芋掘りに来た小さな子どもたちにまぎれて、ふかふかの土を踏んだ。土の中には大きなさつまいも。子どもたちがキャッキャと楽しそうに芋掘りする様子を、農園長の鶴巻耕介さんは優しい目で眺めていた。

東京都品川区出身の鶴巻さんは、生まれも育ちも東京。しかし、大学は兵庫県西宮市、就職は仙台、そして結婚を機にまた西宮へと戻って来た。そして、いまから4年前、奥さんの実家である兵庫県神戸市北区にある淡河町(おうごちょう)へと家族で移住した。

それから一年後、ずっと続けていた仕事をきっぱりと辞めた。再就職先のあてもなかったけれど、自分がやれることなら何でもチャレンジしようと決めて動いていくうちに仕事が着実に増え、いま、鶴巻さんの名刺には7つの肩書きが書いてある。

大学時代のボランティア、初めての就職、NPOで活動してる時に感じた社会課題へのとまどいを経て、移住してからは求めるままに、がむしゃらに働いてきた。そのどれもが鶴巻さんの活きた技術となり、いまの彼を支えている。

会社に勤め、フルタイムで働き、月々決まったお給料をもらうといった従来の仕事のあり方ではなく、昔の百姓のように何でもやる人になりたい。

それがお金を稼ぐことよりも、鶴巻さんにとって何より必要な、生きていくための目標になっている。

写真:加瀬健太郎 文:薮下佳代

_DSF9561東京から離れ、めぐりめぐって
たどり着いたのは里山だった。       

この家、めっちゃいいでしょう? 一目惚れしたんです。ここに住みたいって。

妻が淡河出身なので、彼女の同級生に移住したいと話したら、空き家の情報を知っている方を紹介してもらって。物件をいくつか見せてもらったんですが、あとは自力で大家さんと直接交渉してと言われて。電話しても「貸す予定はない」と冷たくあしらわれたり、なかなか借りられなかったんですが、たまたま「これはどうや?」と教えてもらったのがこの家だったんです。

2014年に家族3人で淡河に引っ越してきました。その前は西宮に住んでいたんですが室内の湿気がすごくて、子どものためにも引っ越そうと話していた時、突然「淡河はどうやろか?」という話になって。妻の実家には何度も行っていたけれど、妻も僕も、淡河に住むなんてまったくイメージしていませんでした。そもそも物件が不動産屋に出てないですし(笑)。でも妻の勤務先が遠かったので、お互いの勤務先の中間あたりに住むなら「淡河でいいんちゃうか?」と。「家ってあるんかな?」ということで聞いてみることにしたんです。

神戸・三宮から車で30分で来れるのんびりとした農村地帯。このエリアでは家と畑がセットになっていることが多い。

神戸・三宮から車で30分で来れるのんびりとした農村地帯。このエリアでは家と畑がセットになっていることが多い。

僕はもともと東京の品川区で生まれました。高校まで東京に住んでいて、大学で西宮へ。学生時代はNPO法人ブレーンヒューマニティーに所属して、子どもたちとキャンプに行ったり、不登校の子どもの家庭教師をしたりしていました。そこは単なるサークルではなくて、学生も真剣に関わっていて、本気になれる場所でしたね。結局4年間そのNPOに入り浸っていました。

学校が大好きだったから、先生になりたかったんです。でも、初めてリーダーとして参加したキャンプの時、子どもたちと関わっている時間がなかなか楽しめなくて、僕は教師に向いてないんだなってことがわかりました。それで直接子どもを相手にする役割ではなく、入ってくる後輩ボランティアたちをどう成長させていくかという学生の人材育成を担当することになりました。いま考えれば、早々に挫折して、自分の適性がわかってよかったなと思います。「教育」とひとくちにいっても、いろいろな関わり方があるんだということがよくわかった。だから卒業後は教師よりも一般企業で働くほうがおもしろそうだなと思っていましたね。

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昨年、家の前の畑で「つるまきサツマイモ農園」を立ち上げ、今年からは奥さんの実家がやっていた農園も一部引き継ぎ、幼稚園や保育所の子どもたちを受け入れている。

昨年、家の前の畑で「つるまきサツマイモ農園」を立ち上げ、今年からは奥さんの実家がやっていた農園も一部引き継ぎ、幼稚園や保育所の子どもたちを受け入れている。

一般企業といっても、教育以外の分野には興味がなかったので「KUMON」に入社しました。「一歩後ろから現場を支えるところで教育に携われる仕事だ!」とピンと来て。最初の配属先は宮城県の仙台事務局。僕の担当エリアには、淡河みたいな農村地域も含まれていました。

初めて訪問した時、この人里離れた環境のどこに子どもがいるんだろうって思って教室へ行ってみたら、子どもたちがうじゃうじゃいた(笑)。その地域の半分くらいの子がKUMONに通っていて、みんなそこで楽しそうに勉強をしていて。その時に初めて“地域”というものを意識したような気がします。そして、先生が地域の教育を担っていて、地域に根ざして生きている。すごくかっこいいなって思いましたね。

数年後にはまたどこか違う地域に転勤するかもしれない自分とは違う生き方に惹かれたというか、自分の決めた場所で根を張って生きてみたいと思うようになったきっかけでした。

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2年ちょっと働いて、大学時代にお世話になったNPO法人に戻ることになりました。学生時代からつき合っていた今の奥さんとはずっと遠距離恋愛だったので、結婚を機に僕が西宮に戻ることに。給料が良いわけではないけれど、共働きだったこともあってなんとかできるかな、と。反対したのは父親くらいでしたね。大企業に勤めたのに辞めるなんて!と。両親も高校時代の友だちも大好きですが、東京に戻る気はなかったので(笑)。僕は東京で働いたことはないけれど、高校の通学で毎日満員電車には乗っていたので、あの地獄のような環境は経験済み。その頃から、大人になってもこうして会社に通うのかぁ……ちょっと嫌だなと感じていて。そういう思いがあったから無意識に東京で就職することを避けていたのかもしれないですね。

自分の生活を立て直したい。
働き方を変えるために移住を決意

2010年、26歳の時に西宮に帰ってきました。家を借りて結婚生活を始めると同時にNPOでの仕事が始まりました。僕の仕事は学生ボランティアたちが最後までやりきれるように伴走するコーチのような役割で、2015年の9月まで丸5年働きました。

学生時代に関わっていた頃と比べると、子どもを取り巻く社会課題が深刻になっているように感じました。東北の震災もありましたし、子どもの貧困の問題や両親が共働きなために子どもが1人で食事する“孤食”の問題も。そうした問題に取り組みながら思ったのは、そもそもの暮らし方や生き方を根本的に変えないと解決しないんじゃないか、ということでした。たとえば、月給16万くらいでも家族みんなで普通に楽しく過ごせるような生活があるんじゃないかとか、孤食の問題も、子どもを集めてみんなで食べる時間を作るのもとても大事なのですが、それでは家族とバラバラなことには変わらないし、親の残業も常態化したまま。表面的には手助けできでも、根本的な原因は何も変わっていないんじゃないかと思って。だからこそ働き方や暮らし方を変えるべきなんじゃないかって。

そういう思いに至ったのは、自分に子どもが産まれたことも大きかったと思います。仕事で子どもたちの支援をしているけれど、毎日家に帰るのも遅いし、土日も仕事のことが多くて、子どもとの時間が全然取れなかった。そういう仕事だって分かってここに帰ってきたし、僕も同じように時間をかけて育ててもらってきたから次の世代に恩返しがしたいって思っていた。でも、子どもが大きくなるにつれて、色々なことが噛み合わなくなってきてしまったんです。

息子の洸哲(こてつ)くんは木に登ったり、さつまいもを掘ったり、元気いっぱいの6歳。

息子の洸哲(こてつ)くんは木に登ったり、さつまいもを掘ったり、元気いっぱいの6歳。

ちょうどその頃、地域に移住してその土地の環境に沿って働きながら暮らしている人たちがいることを知りました。手当たり次第、本を読んだり話を聞いたりして、地域活性やまちづくりに興味を持つようになって。だんだんと“いつかこういうことをやってみたい”という思いと、実際に感じていた社会課題が自分の中でつながりはじめたんです。「たとえばもし、里山の暮らしを成立させることができたら、いろんなことのバランスがそれなりに取れるようになるんじゃないか。里山での暮らしの中に、これからの生活のヒントがたくさんあるんじゃないか」と思って、淡河に移住してみようと思ったんです。あと僕は高校時代からパンク・ロックの洗礼を受けていますから(笑)、インディーズな場所から戦いを挑むみたいなのが好きで。

娘の依音(よね)ちゃんはもうすぐ2歳。淡河に移住してから生まれた淡河ネイティブ! 鶴巻さんも子育てを堪能中。

娘の依音(よね)ちゃんはもうすぐ2歳。淡河に移住してから生まれた淡河ネイティブ! 鶴巻さんも子育てを堪能中。

そんな時、いま僕が携わっている「淡河の明日を考える会(通称・淡河ワッショイ)」という有志のまちづくり団体がちょうど立ち上がった頃で、妻の同級生がメンバーにいるつながりで行ってみることにしたんです。そこには20代〜50代まで幅広い年代の人たちが集まっていて、よそ者の僕でもすんなり入りやすかった。このメンバーとだったら、今まで考えてきた地域活性ができそうだなと思えました。それでようやく本腰を入れて家を探し始めたんです。同じ志の人が淡河にもいるんだということが移住の後押しになりましたね。

住む場所も無事に決まり、2014年4月に引っ越しました。ここから約30分で三宮に行けますし、15分ほどで大きなショッピングモールへも行けますから、不便さはまったく感じませんでしたね。時々ラーメンが無性に食べたくなるんですが(笑)、行ける距離ですしね。もともと東京出身なので、都会的なものもやっぱり僕には必要で。里山でありながら都会ともうまく折り合いがつけられる淡河での生活というのは、自分にとって一番合っている気がします。

引っ越してからも車で1時間ほどかけてNPOの仕事を続けていました。学生時代からの居場所なので自分のアイデンティティーでもありましたが、里山に住んだことでもっともっと顔の見えるローカルな地域活性に携わってみたかったし、自分の働き方そのものを変えてみたくなりました。なかなか家にいられない暮らしに区切りをつけて、いましかできない子育てをちゃんとしてみたかったんです。ひとまず5年で一区切りをつけようと、淡河に来て一年後、NPOの仕事を辞めようと決めました。淡河の人とだんだんと顔見知りになって、淡河の地域づくりの活動にも携わっていたから、このまま何とか淡河で働けないかなと思っていたんですよね。

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秋は芋掘りのシーズン。学生時代から子どもの野外活動に関するボランティアをやっていた鶴巻さんにぴったりな仕事。

秋は芋掘りのシーズン。学生時代から子どもの野外活動に関するボランティアをやっていた鶴巻さんにぴったりな仕事。

そんな時、「月3万円ビジネス」を提唱している、非電化工房の藤村靖之さんの「地方で仕事を創る塾」に行ったんです。ひとつの仕事で20万稼ぐのは地方だと無理かもしれないけれど、3万円くらいで人のためになる仕事を10個やれば30万になると。それを聞いた時、そんな無茶な……と思ったんですけど、実際、淡河にはフルタイムで働ける仕事はなかったし、考え方を変えざるを得なかった。ちょうどその頃、神戸市が移住支援を地域でまかなう委託事業が始まって、「農村定住促進コーディネーター」を募集したんです。でもみんな本業の仕事があるし、報酬も7~8万円。一体誰がやるんだという状況で、すかさず「やりたいです」と手を上げました。自分自身も移住した身ですし情報発信はうまくできるはずだと。NPOを辞める前に、地域でやれる仕事が1つ見つかった。その仕事が決まってなかったら前の仕事を辞めるふんぎりがつかなかったかもしれないですね。

同じ頃、淡河ワッショイで一緒に活動している淡河かやぶき屋根保存会くさかんむり」の茅葺き職人相良育弥さんに「僕、仕事辞めるんですわ」と話したら「だったら現場に来たらええやん」と言ってもらえて。職人さんは屋根の上で作業するんですけど、下から屋根の上にススキなどの茅と呼ばれる束を上げたり、上から出てくる茅クズを捨てたりする、準備兼後始末係みたいな人が現場には何人か必要なんです。「手伝い」がなまって「てったい」って言うみたいなんですけど、茅葺き職人のてったいが足りないからと、週に2回ほどてったいをすることになりました。これで2つの仕事が見つかって月15万くらいになったんで、これはなんとか生きていけるぞと(笑)。見通しないまま移住したわりには奇跡ですよね。家も見つかり、仕事も見つかって。

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芋掘りでやって来たお客さんに自宅の一部を解放している。「いもぶんこ」と名づけられた本棚には、鶴巻さんが集めた地域や街づくりに関する書籍がずらり。

芋掘りでやって来たお客さんに自宅の一部を解放している。「いもぶんこ」と名づけられた本棚には、鶴巻さんが集めた地域や街づくりに関する書籍がずらり。

さらに、同じ頃に移住した村上敦隆さんが「はなとね」というベークル屋さんを淡河でやっていて。そこで「アルバイト募集」と書いてあったんで「31歳のおっさんでも働けますか?」と聞いてみたんです(笑)。「パン屋の店番ですけどいいんですか!?」って驚かれましたけど、何でもやるって決めたから、土日はここで働くことにして、3つめの仕事が決まりました。その後、前職のNPO時代の知り合いであるNPO法人生涯学習サポート兵庫」の山崎清治さんから学生のインターンシップのコーディネート団体を立ち上げるから一緒にやろうと誘っていただき、メインの仕事のひとつになっています。比較的場所を選ばずにできる仕事なので、18半頃に家に帰って来てみんなでごはんを食べて、子どもをお風呂に入れて寝かせて、21時からパソコン開いて仕事して。働くのは全然苦じゃないんですよ。子どもと過ごす時間が確保できているので。

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茅葺きの立派な家で営業するベーグル屋「はなとね」の店主村上敦隆さんと。移住時期もほぼ同じくらい。鶴巻さんも大好きだというベーグルは遠方からも買いに訪れるという。

茅葺きの立派な家で営業するベーグル屋「はなとね」の店主村上敦隆さんと。移住時期もほぼ同じくらい。鶴巻さんも大好きだというベーグルは遠方からも買いに訪れるという。

いくつもの仕事を組み合わせる、
地方での働きかた

「地方には仕事がない」ってよく言いますよね? でも、農業だったら収穫のこの時期だけ人がほしいとか、週のこの日だけならほしいとか、そういう仕事をかき集めたらなんとかなる気がします。以前、あるおじいちゃんに話を聞いた時に、昔の働き方ってどこか一箇所に所属するのではなく、いろいろ兼業していたんですよね。春から秋は稲作や畑作をして、冬は日本酒の杜氏として出稼ぎに行ったり左官や茅葺きのてったいをやってたりとかね。会社に入って特定の分野の仕事だけをする現代の働き方そのものを改めて考えてみると、もっといろんな仕事をしながら人間の幅を広げることができるんじゃないか。昔の「百姓」みたいに100の知恵を持っているようなね。現代版の「百姓」ならば、100の技の1つにエクセルが使えるとか、写真がきれいに撮れるとか、ウェブサイトを作れるとかが入ってくるかもしれない。持っているといい技術ってなんだろうなって考えながら、自分に何ができるのか探しているところなんです。

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できることが増えていくのはおもしろいですよ。お金を稼ぐというのとは別に、自分の体の中にどれだけの知恵とか技術を蓄えられるか。知恵はお金じゃ買えないし、時間をかけて身につけていくものですから。もし大きな災害や国の破綻なんかが起きた時に、自分の力でどこまで生きていけるだろうってよく思うんです。生きるか死ぬかの時に、生き抜く技術、何かを作る技術が大事になってくる。実際、東北の被災地に行ってそれを痛感しましたね。お金が意味をなさなくなった時、やっぱり米を作れる人が強いと思うし、繋がりがあれば争うのではなく助け合える。家族を守るってそういうことなんじゃないかな。

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僕は自分の手で何も生み出せないということがずっとコンプレックスだったんですよ。パンが焼けるとか服とか鞄が作れるとかそういう技術を何も持っていないし、ずっと口だけで生きてきた。でもどうやら、僕みたいな役割の人も必要とされるんだということが最近わかってきたんです。自分はしゃべったり発信したりするのが得意だから、その得意分野で地域の役に立ったり、仕事になればいいかと開き直りました(笑)。得意なことで少しずつ仕事を増やしていく、そんな働き方を目指したい。でもやっぱり何か作れるようになっておきたいから、いま米や芋も育てているんですけどね。

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編集協力:神戸市

現代の百姓になるために、 自分にできることを増やしていく。
鶴巻耕介さん つるまき・こうすけ/1984年、東京生まれ。関西学院大学に進学し、兵庫県西宮市へ。学生時代はNPO法人ブレーンヒューマニティーでボランティア活動に没頭。卒業後は公文教育研究会に入社し、教育現場の後方支援に従事。仙台支局に配属される。2010年、再びNPO法人で子どもの野外活動プログラムなどに携わる。2014年より、神戸市北区淡河町に家族で移住。NPO法人退職後は、いくつもの仕事を複業しながら、新たな働き方を模索している。
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(更新日:2017.12.14)
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