特集 奈良県・東吉野村
山村に灯りをともす人たち

多様な“個”を小さな村で継いでいく 今この土地を選んだ僕らの役割

移住するということは、単に住む場所を移すということだけじゃない。時には働き方、暮らし方を変え、その人の生き方や考え方を大きく変えることもある。

デザイナーの坂本大祐さんが移住した奈良県・東吉野村は、すでに12年前から両親が移住していた土地。画家の父・和之さんと母・邦子さんの2人でのんびりと暮らしていた。

身近にいる両親が、心底暮らしを楽しむ様子を目の当たりしたことで、坂本さん自身の生活もペースダウンしていく。そのなかで浮き上がってきたのは、自分が“どう生きていきたいのか”ということだった。

「村で暮らしてみると、生きていくなかで大事なものって、案外ほんの少ししかなかったんやなって感じたんです」

そうやって、手元に残った大事なもの、譲れないものを大切にしようと決めた。

「人間にとって大切なもの、失くしたくないもの。それが凝縮されて、いろんな地方に存在している。そのことに気づけるかどうかがいま問われてるんやと思います」

坂本さんが東吉野に住んで気づいた多くのこと。この土地が坂本さんにどういう影響を与え、移住という選択が彼の人生をどう変えたのか。川のそばに佇む静かなアトリエで、ご両親とともにじっくり話を聞いた。

写真: 松木宏祐 文:薮下佳代

吉野の木材を使った、父・和之さんのアトリエ。国内外からさまざまな人が訪れる交流の場にもなっている。

吉野の木材を使った、父・和之さんのアトリエ。国内外からさまざまな人が訪れる交流の場にもなっている。

“生活”をしに東吉野へ
両親のそばで、暮らしを見直す

坂本大祐さん(以下、大祐さん):学校を卒業して、和歌山でデザイナーをしていた頃、夜も昼も関係なく仕事して遊んで……。

坂本邦子さん(以下、邦子さん):遊んで、遊んででしょ(笑)。だって、引っ越した時の段ボールをそのまま開けることなく何年も暮らしてたものね。

大祐さん:めちゃくちゃな生活してたんですよ(笑)。その頃、親がちょうど東吉野に移住することになって。その後、僕が身体を壊してしまったこともあって、後を追うように東吉野に移住することにしました。しばらくは、本を読んだり、映画を見たり、この辺をゆっくり歩いたり。「生活する」っていう当たり前のことをないがしろにしてしまってたから、一から始めてみようと。両親が毎日当たり前に生活しているのを見て、僕もそう思うようになったんです。

奥から長男の大祐さん、母の邦子さん、父の和之さん。会話を聞いていると、親子関係以上の、特別な親密さを感じる。

奥から長男の大祐さん、母の邦子さん、父の和之さん。会話を聞いていると、親子関係以上の、特別な親密さを感じる。

邦子さん:私たちが東吉野村に移住したのは、息子たちが東吉野に山村留学をしたことがきっかけなんです。大祐が中学校1年で、三男は小学3年生のとき。うちのおばあちゃんが「蛍が飛んでいて鮎がつかみ取りできる学校があるんだよ」と、新聞で読んだ山村留学の記事の話を息子たちにしたら「行ってみたい!」と。それ以来、私たちも東吉野に来るようになって、ここにどんどん惹かれていったんです。

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坂本和之さん(以下、和之さん):息子たちの1年間の山村留学中に、村の人たちから土地を借りられることになりましてね。僕は絵を描いていたので、そのためのアトリエを建てて。それからは家のある大阪と行ったり来たりしながら、2003年に本格的に移住しました。

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邦子さん:静かに余生を過ごそうと思って東吉野に来たのに、大祐も来て、移住者も増えて、ずいぶん賑やかになりましたね(笑)。あの頃、息子たちが「山村留学をしたい」と言わなければ、こんなふうに暮らすこともありませんでした。子どもたちが突然言い出した時はとまどいましたけど、その意思を大事にしてよかったなと思っています。

和之さん:僕たちは、子どもは“預かりもの”だと思っているから、最大限サポートはするけれど、何かを与えたり、押し付けること自体、おこがましいと思っています。反対に子どもたちから僕たちがいろいろ勉強させてもらいましたね。

邦子さん:子どもを育てる時、私たちが大事にしていたのは、“感じる子ども”になってほしいということでした。勉強ができるようにとか、スポーツマンになってほしいとかじゃなくて、感じて自分で考えることができるようになってほしかった。だから、小学5年生の時に2~3週間学校を休んで大祐を1人でフランスに行かせたことがあるんです。その歳になると飛行機に1人で乗れるから。

大祐さん:すごいおもしろかったですよ。でも、全部自分で決めないといけないのは大変でした。自由っていいように思うけれど、すべて自分の責任になるということですから。僕は早い段階で海外を見させてもらって、逆に日本のことに興味を持つようになりました。海外に行った時に、自分の国のことなのに何にも話せなくて。日本は今どんな政策なんだとか、どういう文化があるんだとか、「クロサワ」は観たか?とかいろいろ聞いてくる。それに対してちゃんと答えられなかったことが恥ずかしかった。それ以来、日本の文化を知りたいと思いました。長く受け継がれてきたものには確かな意味がある。だからそれを大切にしたいなと思ったんです。

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パリで見た、質素だけれど
豊かな暮らしを求めて地方へ

和之さん:僕も若い頃、外国に長く住んでましてね。その頃、ファッション関係のデザイナーをしていて、1960年代の終わりにアメリカで1年ほど暮らしました。一度日本に帰ってきて、今度は単身パリへ。デザイナーを辞めてアーティストになろうと思って。というのもデザイナーとして働くことへの限界を感じたんですね。お金は入るけれど、どうしてか心が満たされない……そんな自分は、とことんアートをやるべきやと思って、すべてを捨ててパリへ行きました。それが28歳の時。そのまま7年間住みました。

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中央に飾られているのは、2013年に描かれたいう和之さんの作品「Saint」。毎日欠かさず筆をとり、絵を描き続けているという。

中央に飾られているのは、2013年に描かれたいう和之さんの作品「Saint」。毎日欠かさず筆をとり、絵を描き続けているという。

邦子さん:当時、私もパリに住んでいたんです。ちょうどバブルの頃で、私たち団塊の世代って、若い時はファッションやさまざまなカルチャーが、アメリカのほうばかり向いていて。でもある時ふと、大量生産/消費の社会に飲み込まれていることに気がついて、何かおかしいんじゃないの?という感覚が生まれたんです。それをきっかけに、ヨーロッパに渡ってみたらその感覚は間違ってなかった。『フランス人は10着しか服を持たない』という本にも書かれているけれど、「ファッショナブル」であるということの意味がまったく違っていた。質素だけれど、豊かな生活を営むライフスタイルに衝撃を受けて。持っていった自分の荷物をほとんど捨ててしまったほど(笑)。大学で勉強し直そうとお金を貯めるために、航空会社の客室乗務員として働いていて。その頃、突然、サンジェルマンの教会の前にあるカフェで、この人と出会っちゃって。彼は屋根裏に住みながらすごく貧しい絵描きをしていたの。何も持っていないないのに、やたら幸せそうな顔をしていました。その出会った日の夜に、私のアパートに訪ねて来て……

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和之さん:絶対、結婚せなあかんなと思たんですよ。直感っていうのかな、この人と結婚しないとダメだ!と。

邦子さん:私はまだあなたの名前しか知らないからと言っても、それが何か問題あるんですか?と強引で。なんかそういうのって魔法にかかっちゃいますよね(笑)。それで結婚しちゃった。そして、私たちはヨーロッパの人たちの「日々の生活をいかに大切にして生きるか」という価値観にすごく影響されて、日本に帰って来たんです。でも日本はまだバブル真っ盛りの時代で、日本人の生活に対する豊かさの価値観が私たちとは違ってた。都会にはいっぱいものがあるけど、本当に大切なものはあまり見当たらなくて。地方は不便だしものも少ないけれど、こここそ無限大というか無尽蔵だと感じたの。先人たちの知恵がいっぱい残っているのが地方だと思ったんです。目に見えない世界をすごく大事にして暮らしてるなって。

和之さん:ここには、おいしい空気とおいしい水がふんだんにありました。それってどちらも人間が生きる上でなくてはならない大事なもの。都会にあるものの多くは、人工的なもので、お金がないと手に入らない。自然にあるものや、この土地で採れたものいただいて暮らすことの喜びみたいなものを、この村で感じられたんです。

邦子さん:どういう家に住んで、どういう車に乗ってとかいうことじゃなく、自分の身の丈にあった生活があって、それ以上のことをのぞまない。与えられたなかでどうやって豊かに暮らすのかということを教えてもらいました。

大祐さん:僕も「OFFICE CAMP」で朝、菅野くんと、「今日、川きれいやね」とか「あそこにこんな花咲いてたよね」みたいな会話をしてて。これって今まで都会に住んでた頃には絶対になかった感覚で。「今日の空きれいやね」とかあんまり言わないでしょ? そういう話を日常的にしてる。それに気がついて僕もびっくりしました。東吉野に来てからは、それが当たり前になった。それは、まさに両親がそういう暮らしをしているのを身近に見ていたから。こういう環境を源泉として生み出されるものはやっぱりある。どういうところを基盤にして働くのかということからにじみ出る説得力というか。それがないと仕事も生み出せない時代がくると思う。

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地域に残る多様性を
守るためにできること

和之さん:世界中いろんな場所に行ったけれど、日本人ほど感性豊かな民族はいないですよ。やっぱり土地が持ってる空気やエネルギーとか、目に見えないものを感じる力がある。この近くにある「丹生川上神社」という場所は、天皇が何十回も行幸に来ている水の神様が祀られてる日本の総社なんです。人間をつかさどる「水」という一番の基本がここにある。

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邦子さん:海外の人がここに遊びにくると、エナジーを感じるってみんな言う。このすぐ近くの山にも、神武天皇が八咫烏(やたがらす)を見た場所があるそうなんです。まさに神話が根づいている場所。

和之さん:知れば知るほど、この村の奥の深さというか、土地の記憶があることがわかります。だからここを選んで住んだ僕らにも何か役割があるのかなと思う。
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和之さんが手際よく作ってくれた朝食。毎朝家族みんなでテーブルを囲み、たっぷりの朝食を食べるのが坂本家の定番。

和之さんが手際よく作ってくれた朝食。毎朝家族みんなでテーブルを囲み、たっぷりの朝食を食べるのが坂本家の定番。

大祐さん:そういう、土地が持つ魅力にひかれて移住する人もいると思います。だけど、僕にとっての移住はやっぱり人。両親が切り拓いたところで、僕は何をするのか。いわば“移住2代目”の僕ができることって何なのかをいま考えてますね。
世代間のつながりが分断されているので、特に都会では同じ年齢層の人だけで集まりがちですよね。でも、この小さな村には僕の両親がいて、僕がいて、青木くんぐらいの年齢の人がいて、菅野くんの子どもの間太もいる。“ダイバーシティ”というか、“多様性”がないと新しい発想も生まれにくい。均質になるって何がダメかというと、問題が生まれないんです。自分たちがこの先どうあるべきなのかを考えるには、ほかの世代がいることで初めてわかることがある。近くに住む90歳になるおばあちゃんがいまも畑に行ったり、自分の暮らしを生きている姿を見ると、そこには未来があるなって思う。そのおばあちゃんを“老人”として一括りに見るんじゃなくて、一個人として見ること。僕自身も親から“子ども”としてではなくて、一個人として見てもらってきたから、今こうしてここにいるんだと思います。個として扱われるとことで、初めて他者とつながれる。まわりと良好な関係をどう築けるかは、個として立って初めて可能になっていく。最初からまわりとつながろうとしたって難しいので。個として生きるために、まわりとつながるために、こういう地方のような場所が適してるんじゃないかなって思うんです。

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多様な“個”を小さな村で継いでいく 今この土地を選んだ僕らの役割
坂本大祐さん(デザイナー)・和之さん・邦子さん さかもと・だいすけ/1975年、大阪府生まれ。和歌山県でデザイナーとして活動をスタート。身体を壊したのを機に、2006年、両親が移住していた奈良県・東吉野村へと拠点を移す。移住後は県外の仕事を受けながら、今までの働き方や生活を見直し、自分にとって居心地のいい新たなライフスタイルを模索。奈良県庁職員の福野博昭さんとの出会いをきっかけに、奈良県内の仕事が増え、商品やプロジェクトなどの企画立案からディレクションまで手がけるデザイナーとしてさまざまな案件に携わる。2015年3月にオープンした「OFFICE CAMP HIGASHIYOSHINO」設立時にも企画からデザイン、運営までを担当。村と外をつなぐパイプ役として、東吉野村になくてはならない存在になっている。
(更新日:2015.12.28)
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奈良市内から車で1時間強。山あいの小さな村、東吉野村に“自分の暮らし”をつくるために移り住んだ人々。都市では気づけなかった暮らし方・働き方とは。
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