COLUMN
晴耕雨読のはなし

vol.6 大きな1つより、小さな集まり

 

前回、コミュニティのつくりかたについて実践的に紹介してみました。今回は、小名浜で繰り出したものに通底する「思想」のようなものについて(ちょっと固い話になるかも分かりませんが)、書き進めてみようかなと思っています。
ウェブマガジンにせよ、オルタナティブスペースにせよ、アートプロジェクトにせよ、ぼくが取り組んできたことで、常に頭の中で意識しているのが、「勝手に初めて小さく続ける」ということ。ちょっと詳しく言うと、①ゲリラ的に始めて後から公共性を持たせ、②スケールを小さくすることで参加しやすさをつくり、持続性を持たせる。この2つがミソかなと思っています。

 

まず①から。

 

前回の記事でも触れましたが、最初から事業化したり助成金を得ようとするのではなく、最初は勝手にゲリラ的に始めてしまい、それを無理なく続けることで少しずつ社会的に認知させ、それを公共領域に広げることで、後から公共性を得るというプロセスを大事にしています。

 

はじめからしっかりした大きなものを目指すと、いろいろなところに調整をお願いしたり、きちんと企画書を作らなくちゃいけなかったり、企画書が通っても予算が通らなかったりして、「自分たちが本当にやりたかったアイデア」が実現されないことが多いんですよね。いつの間にか角が取れて、全然面白くないプロジェクトになってしまったり。

 

だったら、最初は多少大変でも、自分たちが好きなように、勝手に自分たちで作ってしまえばいいんです。そこに少しずつ地域の人を巻き込んでいくと、いつの間にかメディアに取り上げられたり、自治体の広報媒体に取り上げられたりして、いつの間にか「正統性」のようなものが与えられていきます。

 

おもしろければ人は集まってくれるし、おもしろい体験や時間はSNSなどによって広範囲に広がっていきます。だから、規模や収支は身の丈に合わせ、まずはその「面白さ」を追求する。そこで誰かを巻き込むことができれば、巻き込まれた人が少しずつ「当事者」になり、その当事者が増えることで「持続性」が生まれてくるんです。

 

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収支を後回しに出来るのは、それが本業ではないから。ぼくたちの「晴耕雨読」のライフスタイルは、みんな昼間はサラリーマンをしています。サラリーマンとしての収入があるので、ウェブマガジンやオルタナティブスペースで儲けを出す必要がないんですね。平日午後5時以降と土日の時間を使ってできることをやるわけです。逆を言えば「できないことはしない」。つまり大規模化しないということになります。

 

大規模化しないというのは、②の話につながってきます。規模が大きくなると、ぼくたちのような一般の市民の手には負えなくなって「専門家」や「業者」にお願いしないといけないことが増えてきます。つまり、その作業を「誰か別の人」がやることになる。すると、当事者性が少しずつ薄れてくるんですよね。

 

例えば、美術館を例にとってみましょう。自治体が何十億円とかけて美術館を作ったとしても、それを作るのは、建築家やゼネコンの業者や、美術専門家や自治体職員ということになります。当然、一般の市民が美術館をつくる過程には参加できません。最近では美術館のコンテンツを作ることに市民が参加することも増えていますが、結局そういう「市民も一緒に」みたいなプログラムを作るのは専門家です。まあ当然っちゃ当然なんですが。

 

すると、やがて市民は「与えられるだけ」の立場になってしまい、自主性や当事者性がなかなか醸成できません。「なんか面白い企画してよ!」みたいな依存が生まれてしまいかねないんですね。結果的に美術館と市民が離れてしまい、市民の興味のある展示じゃなく、なんかいつまで経っても「印象派」ばっかりやってたりする。

 

もちろんハコモノをすべて否定するわけじゃありません。「それだけになる」のが怖いんじゃないかと思うんです。だからぼくたちは常に「オルタナティブ」を用意しておかなくちゃいけない。50億円かかる大きな美術館が1つあるのと、50万円でできる小さな美術館が1000あるのと、どちらが豊かでしょうか。50億円の美術館に万が一「耐震偽装」なんかがあって展示が見られなくなったら、大変なことになります。

 

UDOK.のようなある意味で「小さな美術館」のような場所は、スケールは小さいですが、それだけ「一般市民が関われる」ことになり、当事者として関わる人を増やしやすいんです。内装工事もそうだし、企画も運営も自分たちが主体的に取り組めます。

 

繰り返しになりますが、そこに楽しさや面白さといったポジティブな動機を折り込んでいくことで、さらに当事者を増やしていく。当事者が増えれば、「Aさんは休みでもBさんなら来れる」みたいな感じで、それぞれができる範囲でゆるく続けていけますから、場に持続力が出てきます。

 

このように、当事者性と持続性をいかにして増やしていくかを考えたとき、「スケールの小ささ」と「ポジティブなフック」は欠かせないと個人的には考えています。ゲリラ的に楽しいことを、自分たちのスケールで長くやりつつ、それを社会にはみ出させていくことで公共性を与えていく。こういうあり方は、場づくりに関わるようになってから特に意識するようになりました。

 

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でも、小さな場は、1つだけでは力を発揮できません。地域の中に小さな場がアメーバのようにたくさん生まれてこそ、「大きな1つ」に対するオルタナティブになり得る。だから、もっとUDOK.のような場所が増え、連携していけるといいなあと思っています。

 

やっぱり「大きな1つ」は、確かに大きな経済になり、たくさんの雇用を生むのだけれど、とことん巨大化したものに万が一のトラブルが起きたときには、ぼくたちの手に負えなくなっているもんなんですよ。ぼくはそれを原発事故で体験しました。日本の技術力をつぎ込んだ発電施設で事故が起きたら、世界の最先端技術で収束させるのではない。ヘリコプターで「ぱさーーー」っと水をかけるしかなかったんです。

 

もし仮に、仮にですが、1つの大きな原子力発電所でなく、各地区の小学校に小規模な発電所があったらどうだったかなーと思うんです(考え方としての話です)。やはり、「大きな1つ」は依存を生み、当事者性を奪っていくんですね。電気といえば極めて生活に密着するものなのに、バックヤードに押し付け、依存し、任せきりになり、そのうちに関心がなくなり、当たり前に提供されるのものになって意識すらしなくなる。

 

ぼくは、あんまり健全じゃねえなと思うんですよ、そういうの。だって、自分の日常を支えているものに無自覚になるってことですから。

 

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小さなものの集まりは、そのまま多様性を表します。そしてその多様性が、多様性を認めていくことこそが、「存続」や「持続」を生み出していくんだと思うんですね。これは暮らし全般に言えることだし、特に最近では「食」や「ジェンダー」にも言えることだと思います。その時代だけ見れば「小さなもの」に見えるかもしれないけれど、その小さなものを守り、維持していくことが、実はぼくたちの将来の豊かさを守ることになる。そういうことだと思うんです。

 

自分たちでやるのって、面倒だし手間ヒマがかかります。でも当事者性や持続性を引き出すというのは、つまるところ生活の中に「手間ヒマを取り戻す」ということなんですよね。つまらない手間ヒマは誰もやりたくない。楽しく面白い手間ヒマなら、やる人もいるかもしれない。

 

大きな1つより、小さな集まりを意識することは確かに「手間ヒマ」がかかることなんだけれど、そういうのがなんか豊かだと思うんです。いい感じの味のある茶碗でご飯を食べると、白い飯がやたらとうまく感じられるじゃないですか。あれと同じように、そういう豊かさが「小さな集まり」にはあると思うんですよね。

 

誰のためでもない。自分の暮らしの豊かさのために、ぼくはこれからも「小さな集まり」を意識していこうと思っています。

 

つづく

晴耕雨読のはなし
小松理虔

小松理虔/1979年福島県・いわき市小名浜生まれ。大学卒業後、福島テレビに入社し3年間報道記者をつとめ、2007年に上海へ移住。日本語教師、日本語情報誌の編集・ライターなどとして活動後、2009年に小名浜へと戻る。2010年4月にウェブマガジン『TETOTEONAHAMA』を創刊
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