特集 私の、ケツダン

生きるために織る。切実さをたずさえた、女の手仕事。<鳥取県・南部町>

「私がやりたかったことを完全に教えてくれる人に出会ったんですよ、34歳で。回り道、めっちゃしましたけど」

鳥取県・南部町、トタンをかぶせてはいるものの立派な茅葺き屋根の古民家に暮らす実政奈々美さん(以下、奈々美さん)とは、2年ほど前に知り合った。会うときはいつだってテキパキと動く奈々美さんの姿は、私からすると、器用で無駄のない人。だから、「回り道」なんて、奈々美さんには似合わない気がして驚いた。

どこかに発表するためではなく、家族や自分が暮らしていくために必要な布を、自らの手でつくる。奈々美さんが10年かけてたどり着いたその志しは、約4カ月前、ササユリの花が引き寄せた出会いによって勢いよく動き出す。自分の感覚と実感だけを頼りに生きてきた、私の知らない奈々美さんの葛藤の日々と、今までの出会いについて話を聞いた。

写真:波田野州平 文:水田美世

暮らしの中にピタっとはまった
火のある暮らし

のどかな里山風景の中、沢沿いをすすみ、車が通れる道の最後に奈々美さんの家がある。2年ほど前から、夫の邦彦さんと白猫のレオ、鶏2羽と暮らしている。茅葺き屋根の厚みが冬の雪深さを物語る、ここ鳥取県南部町は奈々美さんの生まれ故郷でもある。玄関先の小屋には、どっさりと横たわるビワの枝。土間にあったかまどの上には、大きな鍋が置かれていた。中身を聞くと、「近所でとれた栗の皮を煮出したもの」だという。

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「南部町にもどってきてから、染め物をはじめたんです。自分でもまさかこういう道にいくと思ってなかったんですけど、家の周りに材料はたくさんあるし、南部町には植物染織の先生がおられて、2年前からその方に教わって、自宅でもやるようになったんです」

ツツジの木と葉っぱ、藍、葛、ヤマブドウの皮、アカソ、ビワの葉、セイタカアワダチソウ。奈々美さんが染料の材料にするのは、家の近くで採ってきた山や野の植物。

「家に帰る前に、近くに生えている植物を刈ってきて、ご飯を作るために薪をくべて、火をおこして。その上に鍋をぼんと置いて煮だして、煮詰まったら糸か布を入れて、そのまま冷まして、一晩おくんです。次の日に媒染させて色を定着させるんですけど、かまどを使って火の生活をしているとそれがすごいうまく流れるんですよ。ご飯も染めも一度にできて、一石二鳥!(笑)」

自給自足が当たり前だった時代、農家の女性たちは、家族が身につけるものをつくるために、日常的に草木で糸を染め、布を織っていた。昔ながらのかまどの前に立つ奈々美さんの、ごく自然に手を動かす姿を見て、当時の名もない女性たちの手仕事を想った。

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左から、藍、セイタカアワダチソウ、アカソで染めた糸。媒染を、鉄にするか銅にするかで発色が大きく異なる。藍は媒染材を使わず、空気中や水中の酸素によって色が定着していく。

「染め上がるたびにいつも、わーこんな色なんだって感動するんです。たとえば、茶色に染められる植物っていっぱいあるんですけど、ひとつとして同じ色にはならんくて。ピンクも、水色も、似てるけど違う。同じ植物でも季節によっても染まり方が違うし、花が咲く前と咲き終わった後でも違う。温度とか、採れる場所、土の養分でも違うんです。ほんとに自分でやってみないと分からない」

それは憧れの実現でもなければ、誰かの期待にこたえるためでもない。奈々美さんの手は、何かに突き動かされるかのように動く。繰り返し根気強く、植物と大地と、自分の感覚を一つずつ確かめる、まだ見ぬ世界に分け入りその奥深さを掴みたいという情熱は、奈々美さんのこの小さな体のどこから湧いてくるのだろう。

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少し濃いピンク色はヤマブドウ、薄いピンク色はビワ。左の茶色はツツジの木と葉、右の茶色はアカソで染めており、近しい色でも異なる植物を使って染めている。

いまをつくる土台でもある
心が荒れた学生時代

奈々美さんの実家は、今暮らしている家からわずか5分ほど坂をくだったところにある。お父さんは車屋を営み、現在はお兄さんが継いでいる。看護師だったお母さんは、8年前から、おにぎり定食をメインにした「カフェ・ド・穂のか」をひらいている。奈々美さんは、28歳まで実家で暮らしていたという。進学や就職で、故郷を出ることが当たり前だった世代の中で、南部町を出たいという気持ちはなかったのだろうか。

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「実は私、子どものときから足が速くて、小学校から高校までずっと陸上をやっとったんです。陸上が強い中学校に行くために、お父さんは南部町に残って、お母さんとお兄ちゃんと一緒に境港市に引っ越して。家族にいろいろしてもらったけん、陸上以外で自分が何かしようと思っても、家族にたくさん迷惑かけたけんな、ってなんとなく後ろ髪ひかれて。その時は、『それでも私はやるんだ』っていう勢いが持てるものがなかったんでしょうね」

朝6時に家を出て、夜9時まで練習という生活を続けた、中学・高校時代。家族も先生も友達も、何の疑いも持たずに彼女の才能を支えた。しかし、「やるしかない」というたった一つの選択肢が、10代の多感で繊細な心と体に重くのしかかる。

「小学校の時は走ることがめちゃくちゃ好きだったんですけど、中学生になってから精神状態が崩れちゃったんですよね。せっかく引っ越したんだけん走らんといけん、やり続けんといけんって。中1の時点で辞めたかったけど、辞めれんかった。でも成績はずっと県で一番で。そんな生活を続けていたら、高校で拒食症になって6キロ痩せました。でも、振り返ってみると、あそこで陸上を辞めていたら、私はいまここに居ないから、やっててよかったんですけど。でもただしんどかったです、ずっと」

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奈々美さんは誰よりも耐え抜く力を備えてきたのだと思う。どんなに苦しくても、自分が納得いくまでやり切る。その強さは、彼女の身体能力を高め、周りの期待にこたえ、そして自分自身を苦しめた。どこまでが我慢でどこからが甘えなのか、その境界線は、本人もそして他の誰も分からなかったのだと思う。

一度荒れてしまった柔らかな心は、高校を卒業して陸上から離れてもすぐに晴れることはなかった。

ここではないどこかを求めて。
少数民族との出会い

煮えきれない想いを抱えたまま、お父さんが営む車屋さんの事務を手伝って過ごしていたある日のこと、奈々美さんは、雑誌でみかけた写真に心を奪われる。それは、中南米の山岳民族の衣装だった。

「着るものとか、身に付けるものにもともと興味があったから、その民族衣装をみてどうしても直で見たいって思って。だけん、23歳のときに旅に出たんです。

私たち日本人って、今はもう伝統的なものを着てないですけど、少数民族の人たちって、身につけているもので、自分たちの意志を主張しているというか、アイデンティティがあるんですよね。それって、めっちゃかっこいいなって感激したんです」

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染めの美しさ、大胆なデザインや刺繍の繊細さ、それをまとう人々の堂々とした姿に魅了された奈々美さんは、その後も世界各地を一人で旅した。中でも、ネパールに暮らす山岳民族のある家族の家には、3カ月滞在して日本に帰るという生活を繰り返し、6年間通ったという。
朝、川に水を汲みに行って、火をおこして、ご飯を作って食べる。食べ終わったらお皿を川に持って行って洗って、そのついでに洗濯をする。衣食住において、すべてを自分たちの手でつくる彼らの日常。

「楽しいけど、やっぱりずっと満たされない。何をやっても満たされないんですよ。自分の根本がちゃんとしてないから。常にここじゃないどこかに、居場所を探しとったんだと思います。

でも、結局何がしたかったかといったら、“生活”がしたかったんですよね。ある日、『あれ、これって日本でもできるじゃん』って気がついて。日本に帰ったら、家を見つけようって思ったんです」

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20代の“6年”は長い。満たされないと思ったら、長くても2、3年で旅を辞めそうだ。でも奈々美さんは、「私の興味があるのはこれじゃなかった」と手放すことなく、その先を探し続けた。本能的に気になったことから目を逸らさず、自分の心と体ではっきりと腑に落ちるときまで、繰り返し何度もやってみる。それは、10代の頃から、傷つきながらも貫いてきた、奈々美さんの揺らぐことのない骨格なのだと思う。

日本で家を探す、そう決意をした最後の旅先のタイで邦彦さんと出会い、帰国してすぐに結婚した。

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「やりたいことを全部教えてくれる人」
との運命の出会い

自分の生活をする。その確かな道筋が見えた先に奈々美さんを待っていたのは、自身も意外だったという植物染めだった。気づけば家の周りには染められる木や草花が溢れている。 持ち前の追求心に火が付き、拾ったり貰ったりしてきた植物でどんどん布を染める自分がいた。

そんな中、今年の6月に出会ったのが、染織家の村穂久美雄さんだ。その日、村穂さんは、最近見かけなくなった「ササユリ」の花が咲いていると聞きつけ、自宅兼工房のある鳥取県米子市から、南部町の「カフェ・ド・穂のか」にやってきた。そこにたまたまいたのが、お母さんの手伝いをしていた奈々美さんだ。

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村穂久美雄さんの工房で、藍で染めた糸を紡ぐ。奈々美さんは、工房のある米子市まで、自宅から片道30分かけて通っている。

「私が持っていた布を村穂先生が見て、『おまえその布どうしただ!』っておっしゃたんです。『いや、これビワで染めたんです』って言ったら、『そんなに色が出たか!』って。『3回ぐらい染め付けました』って、自分がやったことを話したら、先生が、『やっぱり物事っていうのは、「習うより慣れろ」っていう言葉があるように、とにかく自分でやることに意味がある』っておっしゃられて。その言葉を聞いたときに、ああ、習うって受け身でいることではなくて、そこから自分が発展させんといけんのだって、実感したんです」

その後、「要らん糸があるからもらいにこい」と言われ、工房へ行って以来、村穂さんから織りを学ぶことになっていった。「糸から染めるなんて思ってもみなかった」という奈々美さんは、その糸を織って布をつくっていく機織りに、一気にのめり込む。

「初めて会った頃は正直この人はなんなんだって思ってました。生きるエネルギーがものすごいんです。常に衝突、爆発してるというか。でも、すごくよく会ったんです。私は骨董市が好きで月に2回行くんですけど、行くたびに村穂先生に会う。ある日先生に、『なんで骨董市に行くんですか?』って聞いたら、『君は何で行くんだ?』って聞かれて、『古いものが好きです』って答えたら、先生は『わしは古くなくてもいい、美しいものが好きだ』っておっしゃって。先生はとにかく美しいものが好きなんです。工房は散らかってるんですけどね、はい(笑)」

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この日は、「機結び」といって、織り終えた糸と準備した糸の端を結んでいく作業。「先生はひとつ行程を進めるたびに、『えらいだろう(つらいだろう)、休むか』って言ってくださるんですけど、私はずーっとやりたかったことだから、『先生、何一つ嫌なことなんてないです、全部感激です』ってこたえてます」

村穂さんは、戦後、柳宗悦氏に啓発され山陰地方の絣(かすり)を収集してきた第一人者で、自身も天然染料の糸で手織りする染織家だ。ある日、自転車でたまたま通りかかった川に干された絣のおしめを見て、「これこそが民藝だ!」と確信し、教師をしていた村穂さんの人生は一変したのだという。
「ここにある織り機や布には全部、織ったばあさんたちの、女の人生が染み込んでるんだ。いいか、旦那は酒飲んで、ぐうたら寝とる。女は、子どもを産んで育てて、炊事と洗濯して、その上で薄暗い中糸をひいて、寒い寒い中で、旦那や子どもに、少しでもあったかくしてあげよう、どんな荒仕事でも耐えうるものを織ってあげようっていう気持ちで織る。そこには女の執念があったんだ。分かるか?この機の上で何回、女の人が泣いたかわからん。この子(奈々美さん)もいつか泣くかもしれん」

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「家の仕事もせんといけんし、親のこともせんといけん。貧乏もするだろうけど、必ず。それでもこの子はこうやって時間をかけて通って来るんだから、ね。そういう具合に取材してやってください」と、取材中奈々美さんを気遣い続けていた村穂さん。

使う人のことを思い浮かべながら、少しでも丈夫であったかいものをこしらえようとした女性たちの思いが、一糸一糸に織り込まれた布。生きることが今よりもずっと厳しかった時代、私たちが想像しても理解することができない、生きることの切実さと、美しさがあったのだ。

「90年間、人を見てきたらな、大体のことは分かる。こいつ(奈々美さん)は、『でべそ』(鳥取弁で、出しゃばる人の意)じゃない。「やりたい」という気持ちを僕は感じた。呑み込みが早いけど、少し鈍感な方が、愚図の方がいいことがある。重厚な愚図っちゅうか。だけどね、非常にクレイバーなところがある」

繰り返し何度もやってみないことには、納得して次に進めない、奈々美さんの不器用に見えて、他の誰にもない骨のある部分を、村穂さんは誰よりも感じ取っているのだと思う。奈々美さんが冬の間に自宅で織仕事ができるようにと、それまでに必要な技術を伝え、そして織り機のひとつを奈々美さんへ受け渡す予定だという。

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「あそこ(奈々美さんが暮らす南部町の古民家)でやるのは、厳しいんだて。冬は寒い。だけどね、自分の周りにある材料を、自然からいただいて使っていこうという思考、それを自分の仕事に展開しようとしてる、それは素晴らしい。これは河井寬次郎先生の受け売りになるけんな、物を作るというのは、自分をつくるということだけん。物を買うてくるっていうことは、自分を買うてくる。物を売るっていうことは自分を売る。物をつくるは自分をつくるんだ。そういう先人の教えを守らないけん」

私たちが村穂さんからお話を伺っている間、奈々美さんは工房の玄関先の掃除をしていた。それでも、ひとつの話がおわるごとに「ななさん!」と呼ぶ村穂さんの声を、奈々美さんは一度も聞き漏らすことはなかった。半世紀以上歳の離れた師弟関係にもかかわらず、二人の間にはまるで長年時間を共にしてきた同志のような、目には見えない強く引き合うものを感じずにはいられなかった。

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「もし染織で忙しくなって、お惣菜などを買ってご飯を作らなくなったら染織は辞めます。本末転倒なので」と奈々美さん。糸を染めることと布を織ることは、奈々美さんにとってあくまで生活することの一部だ。

「人との出会いって、運命だなって本当に思いました。今まで、温めて温めて温めて、10年たって、やっとはじまった。まだ行きついてないけど、でも、本気で思って願えば、いつかは絶対そのタイミングがやってくる。思っていることは叶うんだなって思いました。村穂先生に出会って」

奈々美さんに、切実さを感じるのはなぜだろうとずっと考えていた。さっきは、奈々美さんには耐え抜く力があるんじゃないかと言った。でもそれは、忍耐強さというような能力や性質ということよりも、そうじゃないと生きられないからなんじゃないかと思った。奈々美さんはこれからも、ご飯をつくるように、ただ生きるために糸を染め、布を織っていく。織り機に染みた、目に見えない女の執念をたずさえて。

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鳥取県・南部町(なんぶちょう)
鳥取県西部の内陸の町で、日本海に流れ出る「日野川」の上流に位置し、人口は約1万人。毎春、桜の季節には、陶器、塗物、竹細工などの同じ素材を使用して、その年の干支や物語の一場面などを組み合わせる民俗行事「法勝寺一式飾り」が今も続いている。野山に人の手が入ることで保たれる動植物の豊かな生息地として、環境省か選定する「里地里山」に、県内で唯一町全域が認定されている。

鳥取西部移住ポータルサイト「TOTTORI WEST」: http://tottori-west.jp

生きるために織る。切実さをたずさえた、女の手仕事。<鳥取県・南部町>
生きるために織る。切実さをたずさえた、女の手仕事。<鳥取県・南部町>
実政奈々美さん じつまさ・ななみ/1984年、鳥取県南部町生まれ。小中高と100メートルハードル、400メートルハードルの種目で陸上をしていた。23歳の頃から6年間、アジアを中心に世界各地の少数民族の暮らしに触れる旅に出る。28歳で結婚後は、岡山県真庭市の蒜山で暮らす。2016年、夫の仕事が南部町で見つかったことを機に南部町へUターン。現在は染織に励む日々。

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インタビュアー:水田美世
みずた・みよ/1980年生まれ。鳥取県育ち、在住。2008年から8年間、埼玉県川口市で学芸員として勤務。出産を機に家族を伴い鳥取県へ帰郷。2016年に子どものためのスペース「ちいさいおうち」を開く。2017年より県内の芸術・文化を扱うウェブサイト「totto(トット)」を有志と運営する。
http://totto-ri.net
(更新日:2018.11.27)
特集 ー 私の、ケツダン

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「決断」というと、ちょっと重い。自覚していない体験が重なり合って人は動くのかもしれない。鳥取県西部に暮らす9名の正直で小さな「ケツダン」を集めました。
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