特集 私の、ケツダン
「自分にないものがこの人にはある。」二人揃って、一月と六月。 <鳥取県・境港市>
「60代の私たちの話を聞いたって、おもしろくないわよ」
照れくさそうに顔を見合わせる、一月生まれの阿部義弘さん(以下、義弘さん)と、六月生まれの阿部月美さん(以下、月美さん)ご夫妻は、「一月と六月」を営んでいる。
私は東京から鳥取へ移り住んで5年目になる。東京にいる頃から、「鳥取に行くならば『一月と六月』には行った方が良い」と友人から聞いていたが、実際に行って納得した。東京や他のどこにもない、
近年、
境港という港町に10年前に新たに生まれた、“小さな波止場”の物語をお二人に語っていただいた。
写真:波田野州平 文:中山早織
「カギカッコの形にそそられた」
ひょんなきっかけで形に
鳥取県境港市。鳥取県の北西部にあり、橋を渡ればすぐに島根県の松江市へと入る。米子鬼太郎空港があり、港からは隠岐島や韓国、ロシアにも船が出ている、名実共に境目にある空と海の港である。
観光客で賑わう「水木しげるロード」から一本道を逸れると、カギカッコのような形をした木造モルタル造りの古い建物が現れる。本とミシンの絵が象られたシンプルな釣り看板は、中欧を彷彿とさせる。ここが本・雑貨・ギャラリー・カフェ「一月と六月」だ。
かつてはボタン屋や編み物教室、バー、小料理屋とギュッと小さな店舗が詰まった4軒長屋だったというこの場所に、10年前にオープンした。きっかけは、ひょんなことだった。
月美さん 「カギカッコのかたちで、この風貌でしょ。なんかちょっと、そそられたの。友人たちと飲みながら、『この建物いいよね』と話していたら、その中の一人が『親戚の物件だから話を通すよ』と言ってくれて。なんとなーく聞いたつもりだったのに、すごく安く借りられることになっちゃって(笑)。話がとんとん拍子にすすんでいったの」
物事は、小さな歯車が噛み合うと一気に加速して進み出す。それでも、ここにこのお店があることは必然だったと思えるくらい、二人は長い時間をかけて地盤を固めていたように見える。
買い物や雑貨が好きなことは、ずっと二人の共通点。家業の建設業をしながら子育てをしていた約20年の間も、お互いに店をしたい思いは漠然とあったという。学生時代は出版社でアルバイトをするほど本好きだった義弘さんは、いつか本屋をやりたいと思っていた。さらに、カフェもできたらと、東京や高知など全国のカフェを巡り、カフェ文化の草分け的存在、栃木県にあるSHOZO CAFEにも足を運んでいたという。
今でこそ、インターネットで全国の情報を簡単に検索できる時代だが、20年以上前の当時は一体どのように情報を得ていたのだろうか。
月美さん 「この人ね、雑誌からおもしろいことを見つけるが上手なの」
義弘さん 「昔の雑誌は、いろんな情報や要素がバラエティ豊かに含まれていて、社会を表しているようだったんだよね。だから、雑誌をつくるように本屋をやってみたいなって。その時代を確かに生きている人が、
本屋を編集する。本が大好きで本屋で働いていたこともある私は、この言葉に感動した。鬼太郎が髪の毛にある妖怪アンテナを立てて妖気を感じるように、
二人の中にあった、「こんなことができたら」という想いから生まれた小さな点。それらがどんどん増えていって、ふとしたきっかけで線となった。それが、「一月と六月」なのだと思った。
華やかで自由な東京時代と、
それぞれ想いを抱え故郷・山陰へ
この日の二人のいでたちは、義弘さんは縁の厚いべっ甲の眼鏡、月美さんは生成りのリネンのベストに、真っ赤な口紅と眉上に切りそろえられた前髪が潔い。
田舎町ではちょっと異質にも見えるこの二人は、一体どのようなルーツを辿ってこられたのだろうか。境港出身の義弘さんと松江出身の月美さんは、タイミングは違うものの一度は東京へ出ている。義弘さんは、当時から自由度の高さで有名だった文化学院に入学。授業にはあまり出ずに、“適当に”やっていたそうだ。
義弘さん 「境港も港町なので、よそものに対する寛容さはあったと思う。それでも、俺にとっては人付き合いとかちょっと面倒くさいなと思っていた。東京へ行くとみんな知らない人間だし、人にあんまり関わらないでいいっていうのは自分に合っていたかもしれない」
「とにかく東京へ行きたかった」という月美さんは、女子美術大学に進んだ。入学式の日から自分らしく振る舞う個性的な同級生たちに、最初は気後れしたものの気付いたらすっかり溶け込んでいた。10人くらいのグループでご飯を食べたり、学校を抜けてライブに行ったり、渋谷で飲んで遊んだりしていたという。東京生活を存分に楽しんでいた二人が、故郷・山陰へ帰ってきたのはなぜだったのだろうか。
月美さん 「あたしはね、本当は東京で就職したかったの。でも、松江の母は、あたしが東京で勤め出したら絶対帰ってこないと直感的に思ったみたいで、泣いて『絶対松江に帰ってこい』って。それで、そうか……と思って。あの頃は従順だったのね。
うちの母はね、あたしに似合わず寡黙な人なの。あたしの実家は、松江の駅前商店街でお菓子や果物を扱う商売をやっていたんだけど、母は商売が上手ではなくて。姑、つまりあたしの祖母が仕切っている商売の家に嫁いだから、あたしに近くにいて欲しかったんじゃないかな。あんまりしゃべらない母に泣かれたのが……ああダメ。今はもういないの、67歳で亡くなっちゃったんだ。今生きていたら80歳かな。うちの子どもたちも懐いていて、母との思い出がいっぱいあるみたい。そういう母だったの」
目尻に涙を浮かべて、遠くを見ながら話す月美さん。故郷へ帰るか否か。これは、
義弘さん 「私も帰る気はなかったけど、父が境港で建築業を立ち上げていたので、一人っ子だし、一応継ぐという形で戻ってきました。昭和40年代はオリンピックもあって、建築業は上り調子の時期。でも、帰っては来たものの結局建築の仕事なんてほとんどしていなかった。
あの頃は政治的にもいろいろなことがあった時代なんですよね、学生運動が元気なときで。東京でそういう影響を受けていたので、戻ってきた境港の時間の中で俺は異質な感じだったかもしれない。目立たないように生きてきたけど、いつもモヤモヤしてた。今の若い人たちが、自分たちでスッと新しいことをやっていく姿を羨ましいなと思う」
花屋での出会い。
一月と六月が熟成していく20年
鬱屈した思いを抱えながら過ごしていた義弘さんは、勤め先だった米子市内の花屋で、月美さんと出会う。お互いの第一印象はどうだったのだろうか。
月美さん 「お花屋だから長靴姿だったのだけど、普通のじゃなくてミツウマっていう乗馬の靴みたいなシュッとした靴を、細身のジーンズと履いていたの。長靴姿なのにカッコ良く見えて。で、風貌はへらへらした自由人って感じで、髪は今より長かった。スタイリッシュじゃないけど、絶対個性がある変な風貌だったの。だから、なんかちょっと惹かれたみたい」
義弘さん 「今とは違うカチッとしたスタイルをしていて、今まであんまり出会ったことがないタイプだった」
出会った瞬間にフィーリングが合った二人。今から約40年前、月美さんが22歳の頃のことである。そして、間もなく結婚へ向かっていくことになるが、両家の両親に安心してほしいという思いから、月美さんから義弘さんへ家業の建設業を継ぐことを勧めたという。
義弘さん 「最初は花のことをやりたい思いもあったんですけど、私は流れのままに生きているところがあるので、実際の生活を考えたときにその方がいいかなと」
月美さん 「この人は、二人で花屋ができたらって思ったみたい。だけどそれは甘いよって言ったの。色んなことに首出しても、商売ってそう簡単にできるもんじゃないから」
結婚して1年後にはお子さんが生まれた。3人の子育てに追われる日々が続き、家業では義弘さんが2代目の社長になり、月美さんが右腕となって働いた。
「そう簡単に商売はできるもんじゃない」。商家に育った月美さんのこの言葉には、商売に対する真剣さ、誠実さが感じられる。月美さんの祖母は松江の商家の生まれで、月美さんは祖母の接客している姿を見て育ったという。
月美さん 「今あたしの中に素地としてあるのは、おばあちゃんの姿だと思う。おばあちゃんは、冬には着物を着て店に立つ、粋な人だったの。朝早く起きて店の掃き掃除をして、ごはんを作って店に立って。松江だから15時にはお抹茶を点ててた。
そして、離れの部屋には季節の花が必ず生けてあった。3月はユキヤナギに水仙、春はコデマリとフリージア。子ども心にも、セットにして生けるときれいなんだなって思った。それが当たり前の生活だったの。さっきまで台所仕事をしていても、ひとたびお店にでるとシャキッとして、忙しい中でも凛としていた」
「一月と六月」に行くと、いつでも綺麗にお化粧をして服も姿勢もシャンとした月美さんが迎えてくれる。月美さんのこの姿は、祖母から受け継いだものだった。このお話を聞いて、小さな納得をいくつもしている自分がいた。
商売の厳しさを知っているからこそ、片手間ではできないとかつては潔く手放した。しかし、子どもの手が離れ、いろいろなタイミングがピタリと合って、「一月と六月」が生まれた。この20年の月日が、「一月と六月」が熟成していくためには必要な時間だったのかもしれない。
「“さかえ”だけえ」
港町に新たに吹き込む風
地元の人は、境港のことを「さかえ」と呼ぶ。合言葉のようにみなが口にする「“さかえ”だけえ」という言葉。よそ者の私にはわからなかったが、「物事をそんなに深刻に考えない、あっけらかんとした“境港気質”」というのがあるらしい。
最近、
なにもない土地に人はこない。一軒でも変わった店があると、
義弘さん 「うちをおもしろいって思ってくれる人もいるし、
月美さん 「10年間、一緒にこのお店やってるけど、ほんとこの人ね、商売人じゃないのよ(笑)。でも、あたしにないものがこの人にあって、この人にない商売っ気があたしにはあって。それで、一月と六月。
この人はしゃべるの下手だけど、あたしは逆にしゃべりすぎるんだよね。あたしの母みたいに、10言いたいことのうち3くらいを言ってたらいい女になれるのに。でも急に3にするのは難しいから、これからは10言いたいことの5程度にしようかな……、って言った矢先にもう10しゃべってるわね(笑)」
お互いが尊重し合って、一月と六月。これ以上の言葉は見当たらないないほど、二人をよく表された店名だと改めて思う。
鬱屈した思いを本屋というひとつの形に昇華させた文学青年・義弘さんと、祖母譲りの凛とした商売人・月美さんによって、新旧さまざまな世代の人やものが集う場所が、この境港に今も新たな風を吹き込んでいる。
今まで私は、「一月と六月」に行くために境港に行っていた。しかしこれからは、「一月と六月」と、そこからさらに広がる「さかえの人々」に会うために、またこの町へ足を運ぼうと思う。
鳥取県・境港市(さかいみなとし)
鳥取県北西部の市。3万5000人と県内で最も人口が少ない
鳥取西部移住ポータルサイト「TOTTORI WEST」: http://tottori-west.jp
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阿部義弘・月美さんご夫妻
あべ・よしひろ、つきみ
鳥取県境港市生まれ、島根県松江市生まれ。家業である建設業の傍ら、2008年より境港市で本・雑貨・ギャラリー・カフェ「一月と六月」を営む。店内には、本担当の義弘さんと雑貨担当の月美さんの目で選ばれたものたちが所狭しと置かれている。「生活をちょっとおしゃれに豊かにできるもの」を。都会のトレンドを意識しながらも境港らしさを忘れない店には、県内外から客が訪れている。
http://ichigatsutorokugatsu.com
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インタビュアー:中山早織
なかやま・さおり/1984年、東京都生まれ、鳥取県在住。助産師、執筆業。大学で心理学を学び、その後紀伊國屋書店勤務を経て、看護師、助産師となる。助産学校進学を機に鳥取へ移住。助産師として働く傍ら執筆活動を行う。寄稿:リトルプレスdm No.2「鳥取という場所で助産師をすること」
http://dm-magazine.com/book
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