ある視点
すべすべ、ざらざら、ふさふさ。
普段はあまり文章を書くことがない
本屋さんが紡ぐ、まっしろで、
肌触りのある言葉たち。
小さなまちの本屋さんが選ぶ、
手触りのある3冊。
vol.13 見えないものに触れてみたくなる本
神戸の中心地からほんのちょっとはずれた小さな街で店を開き、片手で数えるとあふれるけれど、両手だと十分なくらいの年月が経ちました。古本と、新しいものも少し置いています。
神戸の街は海と山、2つの自然に挟まれていて、浜手と山手ではそれぞれ別の表情を覗かせます。
そんな特徴を反映するように、店に来るお客さんはストロング系チューハイを煽って時代小説を求める方から、美術館の帰りに少し値の張る画集を求める方までさまざま。
帳場から店内の風景を眺めていて、「なんだかこの店は下町の気風と山の手の風情が合わさった汽水域のような場所だな」と思ったりしています。本がある場所は誰も拒まない場所であってほしいと、日々オフシーズンに護摩行をするプロ野球選手のように祈っていますので、私はここからの眺めが大好きです。
私が書店で本を買うときは、平積みにされている上の方から、面出し陳列のものは手前の方から、どれでも同じものだろうと、封を開けたばかりのピノを選ぶように一冊拾い上げます。しかし、一度人の手に渡った古いものはそうではありません。どんな人が、どういう動機で買ったものなのか、寄り添ったり、対峙する課題だったり、抱えている気持ちに言葉を与えてくれたり、心を溶かしてくれたり……。その1冊1冊に、手にした方の記憶があり、それが個性のように感じられます。
書店では同じ本だったものが、いま、私の目の前で個別の本としてあると思うと、少し不思議で、愉快な気分がします。
こんな風に、私は前に手にした方の手触りが残った本を、次の読者へ届けるこの仕事を結構気に入っているのです。
手紙で交わす、言葉未満のおもい
『追伸 二人の手紙物語(新装版)』森 雅之
(basilico)1,400円(税抜き)
この自粛期間の間、手紙やはがきを書くことがささやかな楽しみになりました。手紙の言葉は相手を想像し、頭の中で推敲し、選びながら書くので、おのずと抑制の利いたものになります。
その中には、したためられた文章からは零れてしまった感情や言葉もたくさんありますが、しかしどういう訳か、たとえ取り留めのない近況が書かれていたとしても、目の前に相手がいるような気がして何度も読み返してしまいます。筆運びや筆圧から紙の上に落ちた情緒が、ぼんやりと浮かんでくるのを感じるからでしょうか。
きっと手紙は、情報の交換が目的なのではなく、情を交わしているものなのかもしれないと思います。
さて、この本はまだスマホの概念すらなかった時代の、ある1年の間に、遠く離れて暮らす若い2人の間で交わされた手紙の物語です。
東京の仕事を辞め実家に戻った版画家志望の青年と、大学を中退しモラトリアムな時間を生きる若い娘は、旅先で知り合います。2人の関係は、一度ずつお互いを訪ね、数回電話をするのみで、それ以外はすべて手紙を通して心を通わせていきます。
筆を執るまでの間も、返事を待つ間もそれぞれの生活があり、そんな手紙の行間とも言える時間には不安に思うことや喜びがある。しかし、そのほとんどは言葉として相手に届くことはありません。
それでも、2人以外が介入することのできない手紙の中には、その紙面にぎっしり、相手のためだけに選んだ言葉が並んでいる。そして、行間にはさらに多くの言葉にならなかった言葉の余韻が残っている。
だからこそ手紙には、相手の存在が確かな手触りとして残るのです。
この世から消えていたかもしれない物語
『あいたくて ききたくて 旅にでる』小野和子
(PUMPQUAKES)2,700円(税抜き)
「幼い頃に聞いて覚えている昔話があったら、聞かせてくださいませんか」
著者の小野和子さんは50年もの間、交通網がいまのようには整理されていない山間の集落などの家々を訪ね歩き、先々で出会った方々に、そんな言葉をかけて民話を採訪して回ってきました。
採取ではなく、採訪。この二つの言葉の意味を分けるのならば、採取は果物から種子の部分だけを抜き出すこと、採訪は種子だけではなくて、果肉や表皮ごと収集するということになると思います。
小野さんは、どこで誰が話してくれたかをとても大切にされる方です。語り手との出会いのきっかけや本人の属性が詳述されていることによって、時を越えて、語り手が土地の記憶=民話と繋がっているのだということを感じることができます。
そのため、紹介される民話はどれも、語り手が肉声をもって聞かせてくれているような気にさせられるものばかりです。また、語り手の中には伝聞ではなく自身が体験した話を語り下ろす方もいて、それはまさに、いま目の前で立ち上がった物語が、民話になる瞬間のようでもあります。
そのようにして小野さんは、恐らく尋ねるものがいなければこの世から消え去っていったであろう物語を掬い上げます。こうした声をまた誰かが語ることで、穂を揺らす風、夏草の匂い、早駆けの馬の脚音……。忘れられていた人々の暮らしを伝えてくれるのです。確かな実体をもって。
ままならない体を生きること
偏頭痛持ちの私は、月に大体3日ほどは憂鬱な日を過ごしています。スッキリしない頭は考え事には向かないので、そんな日は「ああ、今日は出来の悪い日だな」と思って、海外サッカー選手のスーパープレイ集を観たり、備品を作ったり、単純な作業に時間を当てるのです。何ともままならない体を持ったものだと悲観したこともありましたが、それでも、サボることが許される定期的なこのインターバルを、少し気楽に暮らせています。
さて、本書では、全盲や片腕・片脚のない方、吃音や若年性認知症などの障害を持つ方12人のエピソードを通して、ままならない体との付き合い方をひも解きます。
著者は対象の体で起こっていること、感じていること、あるいは、経験を通して自分の体を乗りこなす方法を獲得していく様子をロジカルに言語化していき、朧かかった感覚を明晰に読み解きます。そうして、著者によって拓かれた「障害を得た体」は、それぞれ個人が歩んできた道のりの中で獲得してきた個性であることが分かります。そこには、「この障害がある方はこうだろう」という単純な決めつけや、反対に、簡単に同調することのできない固有性があるのです。
彼らが持つままならない体は、たまたま健常者がデザインした世界に生きていることで違和が大きく映るだけであり、大同小異、健常者とされる人にも起こっていることだと思います。
スマホの画面から目線をあげれば、さまざまな人がいて、その誰もが違う体を、精神を生きている。私も、あなたも。
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小沢悠介さん店から徒歩50歩の場所に住んでいます。出勤をしてみたいと思い立って、歩ける範囲で手頃な物件を探しているところです。
先日、買い取った荷物に一本のカセットテープが紛れていました。スティーヴィ―・ワンダーの『イン スクエア サークル』がダビングされていて、テープは途中で止まっていました。続きを再生するとスティーヴィーの優しい声で“I’m trying to find my Whereabouts”(自分の居場所を探している)と歌っていました。これは自分の歌かも?と思いました。
古本屋ワールドエンズ・ガーデン
兵庫県神戸市灘区城内通5-6-8 1F
ozawashoten.kobe@gmail.com
078-779-9389
https://worldends-garden.hatenadiary.org/
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