ある視点

私は、海に潜りたかったのかもしれない。

すべすべ、ざらざら、ふさふさ。

普段はあまり文章を書くことがない
本屋さんが紡ぐ、まっしろで、
肌触りのある言葉たち。

小さなまちの本屋さんが選ぶ、
手触りのある3冊。

最終回 私は、海に潜りたかったのかもしれない。

佐々木奈津さん(オヨヨ書林せせらぎ通り店/石川県)

この冬も寒かった。

私は石川県金沢市で古本屋、「オヨヨ書林せせらぎ通り店」を営んでいる。店舗は築百年を越える元鉄工所の建物で、どれだけストーブを焚いても一向に暖まらない。風は吹き込むし、天窓の隙間から雪がちらちら舞い落ちる。お客様から「本が冷たい!」と驚かれることもしばしばだ。

店内では手がかじかむ。お金の受け渡しや、買っていただいた本を袋に入れることさえスムーズにいかない。そんな時、普段は、手触り、指先の感覚が一連の動きの舵取りをしてくれていたことに気づかされる。感覚が先導となって、ひとつの流れが生み出されていたことに。

そして思う。大切な「手触りのあるもの」に触れた時、もし、私の手がかじかんでいたら、と。

昨年の秋に依頼を頂いてから随分と時間が経ってしまった。その頃には一時的に落ち着いていた新型コロナウイルスの感染状況は、オミクロン株の猛威によって、年明けから多くの地域でまん延防止等重点措置の延長が繰り返された。世界的にはウクライナへのロシアの軍事侵攻が始まった。個人的には19年以上一緒に暮らした猫が2月に死んだ。

「手触り」を頭の片隅を置きながら年を越し、もう桜も散ってしまったというのに、鬱々とした気持ちはなかなか晴れない。私はまだあたたまっていない。

そんな私が、今、読みかえす3冊について書く。


肌で悟る「私」。
出来事の羅列から、呼び覚まされる感覚

人生の塩―豊に味わい深く生きるために
フランソワーズ・エリチエ著、井上たか子、石田久仁子訳(明石書店)/1,600円(税別)

 

最初は、フランスの人類学者である著者が、インスピレーションにまかせ筆の赴くまま、自分の人生に起こった些細な出来事を、友人に宛てた手紙の形で書き留めた本『人生の塩―豊に味わい深く生きるために』。

「たずさわっている仕事や活動とは別に、激しい恋愛感情とも別に、(略)生きているというそれだけのことの中にある何か軽やかなもの、優美なもの。」、すなわち、著者がいうところの「人生の塩」が、こんなふうに、長いひとりごとのように綴られている。

(略)好きな歌手のコンサートを聞きにスイスまで一晩で往復する、木苺をお腹いっぱいたべる、風の強い日に海岸沿いの道を行く、日蝕やワシミミズクの夜の飛行を待ちわびる、どうすれば相手を喜ばすことができるかを知りたくて知恵をしぼる、裸足で歩く、海の音に反響する声に耳をかたむける、…(略) 

読みながら、自分が経験した、似たような、でも少し違う出来事が思い起こされる。出来事の羅列なのに、感覚が呼び覚まされる。これも共感というのだろうか。ひとの記憶と併走している気分だ。無秩序な感覚の連なりを追う体験、その作用を言葉で表すのは難しい。走ったあとのような疲労と爽快感が残る。

これらは、思い出のような懐古的な感傷ではなく、“「私」とは誰なのか”といった本質の問題へともつながっていく。「肌で悟る『私』」が解放されたあとには、それぞれの「人生の塩」を書くための空白が設けられている。

 

覚悟と勇気は、空から降っては来ない。

急に具合が悪くなる』宮野真生子、磯野真穂(晶文社)/1,600円(税別)

次は、病に面した哲学者の宮野真生子と、友人の人類学者、磯野真穂の往復書簡による『急に具合が悪くなる』。

手紙という親密な形でやりとりされた、生きることについての真摯な問いの応酬。読み進むほどに、その切実さ、緊迫感に息が詰まる。

9回目のやりとり、9便では、「ライン(線)を描くこと」について思索が巡らされる。その起点は「(○○な人との)適切な接し方」に対して磯野が抱く違和感だ。啓蒙が進みすぎると、○○な人への配慮のあまり、「適切な接し方」ではない試みがなされたときに、それを糾弾するようなことも起こりうる。人の持つ特性にラベルがつけられ、それぞれの決まった役割が固定されることによって、多様であるはずの関係性から動きが奪われてしまうことを懸念する。

<磯野真穂による9便より引用>

関係性を作り上げるとは、握手をして立ち止まることでも、受け止めることでもなく、運動の中でラインを描き続けながら、共に世界を通り抜け、その動きの中で、互いにとって心地よい言葉や身振りを見つけ出し、それを踏み跡として、次の一歩を踏み出してゆく。そういう知覚の伴った運動なのではないでしょうか。

<宮野真生子による10便より引用>

私たちが生きる世界は、こんな根源的な出会いに充ちています。でも、そのためには、ラインを引く覚悟「連結器と化すことに抵抗をしながら、その中で出会う人々と誠実に向き合い、ともに踏み跡を刻んで生きることを覚悟する勇気」が必要です。でも、その勇気を持ち、偶然を引き出すことができれば、こんな出会いに充ちた世界に自分が紡ぎ出した意味の網の目を織り込んで行ける。

病状の進行とあいまって深まりゆく思索、そして信頼も尊敬も友情もいっしょくたになった愛を目の当たりにして、頭と心を同時に揺さぶられていた。この魂のこもった20通の往復書簡の中で、なにかすごいものが立ち現れた過程に居合わせたような気がした。

ところがその半年後、宮野が最後の書簡で「他者と生きる始まりに充ちた世界」をなんと素晴らしいのだろうと讃えてから1年もたたないうちに、世界から「始まり」が一斉に消えた。

新型コロナウイルスの出現以降、何もかもが「感染拡大を防ぐ」という正義とのみ直結し、私たちはラインを描くことができずにいる。店とは、街とは、都市とは、描かれたラインが偶然に交差する場であったのに、私たちはいま何も始まらない世界に住んでいる。

この書簡で二人がたどり着いた場所は、新たな起点でもある。覚悟と勇気は空から降っては来ない。踏み出すのは自分だ。

繰り返し潜り込んでいきたくなる、
海のような文章

漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』小津夜景(素粒社)/1,800円(税別)

最後の1冊は『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』だ。

フランス在住の俳人、小津夜景による著。言葉の選び方、間合い、余白、ユーモアに微笑み、驚くほどの博識に舌を巻く。抜群に面白いのに、語るに荷が重く感じられる本。

また詩はタコと同じく自由と孤独が好きですが、詩を読む人びともまたそうだろうと思います。そこでわたしはこの本が読者を案内するものではなく、あくまで個人の覚書にすぎないことが伝わるように「漢詩の手帖」という傍題をつけることにしました。案内せず、干渉せず、ただ放っておくこと--それはタコがわたしに教えてくれた、あらんかぎりの他者へのもてなしです。

「おわりに」にあるこの一文からだけでも、その機知に富んだ文の魅力が伝わるだろうか。

漢詩にはひょんと出会わせられる。著者が昼食のフェットチーネのためにバジルを摘んでいたその先で、唐突に杜甫の詩「槐の葉のひやむぎ」と出くわすことになる。気づけば漢詩を読んでいる。フランスのどこかの部屋のベランダから、時間の砂の下に沈んでいた漢詩をつまみ上げ、ふっと息を吹きかけて鮮やかに見えるようにしてくれるのだ。

でも、正直に言うと、私は漢詩そのものよりも、その出会わせられ方と展開の驚きを楽しんでいる。時には浮遊し、時には沈んでいくような。平衡感覚がおかしくなるような。なのに、繰り返しその中に潜り込んでいきたくなる、そんな海のような文章にすっかり魅了されてしまった。

感覚を頼りに3冊を渡り歩いて、海の手触りへと行き着いた。海は私がもっとも安らいだ気持ちになれるところ。私は海に潜りたかったのか。

手触りは、最後に「望み」を連れてきてくれたみたいだ。

佐々木奈津さん
2010年に東京から金沢に移転したオヨヨ書林でアルバイトをはじめ、2011年3月、のれん分けのような形で「せせらぎ通り店」を開業しました。店は、図書館、公園、小学校、病院、観光地にもほど近い街中にあり、本好きの方以外にも、何かのついでに立ち寄ってくださる方も多いです。入口はできる限り開け放しています。猫も雀もトンボも入ってきます。いろんな仕事を経て今に至りますが、この仕事だけ性に合いました。長く続けられるよう、骨を折りつつ、祈りつつ過ごす毎日です。

オヨヨ書林せせらぎ通り店
石川県金沢市長町1-6-11
076-255-0619
https://044seseragi.thebase.in
(更新日:2022.04.14)

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