COLUMN
手触りのあるもの

vol.4 「しなやかに、揺れることができるように。」文・naoco(「蛙軒」店主/愛媛県)

 

愛媛県の松山市にある三津浜という港町で小さな書店をしています。本当に小さな書店で、近所の人にもまだ書店と認識されていないのではないかというくらい密やかに、細々となんとか続けています。

 

いきなりこんなことを言うのもなんですが、人に本を薦めるというのがとても苦手です。それまでの私の読むと書くという営みには出てこなかった「薦める」というニュー・ワード。それが必要であると気づいたのは、本を売るということを選んだ後でした。書店には向いていないのではないかと度々思いますが、それでも本を売る場所を続けるためには、「伝えること」とも向き合っていかなくてはとようやく思うようになりました。

 

そうは言っても、読むのが遅いです。読んだ後に言葉が出るのは、もっと遅い。読んだが最後、書物から流れ出る時間の中で一年くらい漂っていたりします。読む前と、後では、明らかに違う。それくらい読書とは、忘れていたものを思い出させてくれるし、新しい気づきもくれる、私にとっては“すがりつくようななにか”になっています。

今回、変わりゆく日々の中で「手触りのあるもの」を選書することになりました。いつの時代にも確かなものなんて、きっとどこにもないのでしょう。どんな時代も揺れています。だから、手を伸ばして読む。何度も読む。何度も読んで確か「らしさ」を引き上げて、自分の滋養にしていく。それらが積み重なれば、折られずに、しなやかに揺れることができるようになるのかもしれません。

 

既に出会っていたけれど、私たちは何度でも出会い直せる

詩画集 プラテーロとわたし
ファン・ラモン・ヒメネス(著)・波多野睦美(訳)・山本容子(絵)
理論社)1,700円(税別)

 

机上の文章に世界が一変する。そんな体験をしたのは14歳のときでした。

 

“まあなんとたくさんの木の葉が、ゆうべのうちに散ってしまったんだろうね、プラテーロ!まるで木という木が、空に自分の種をまきたがっているみたいに逆立ちして、こずえを地面へ、根を空へ向けているようだよ。”

 

途端に世界がひっくり返り、窓の外の枯れ木が根っこを空へ空へと伸ばし始め、広大な大地が葉っぱに花になったのです。あの日体感した、一文の強さ、重みは、感動という言葉では到底言い表せない。それ以来、プラテーロは常に一緒です。そういう目には見えない不確かな存在が寄り添ってくれているという心強さに、助けられることが度々あります。

 

プラテーロはロバです。ふわふわとした銀色の毛並みの、黒い水晶のような眼をしたロバ。語られるのは、作者のヒメネスがプラテーロと共に暮らしたスペインの田舎町での日々です。先ほどの引用は、2001年に長南実さんの訳で岩波書店から刊行された『プラテーロとわたし』の「道」という章の冒頭部分です。2011年に伊藤武好さん、伊藤百合子さんらの訳で理論社からも刊行され、未曽有の大災害の中、優しくあたたかな詩の感触と、長新太さんが描く愛らしいプラテーロの姿に慰められた方も少なくなかったのではないでしょうか。

 

そして2019年の秋、波多野睦美さんの訳で再び理論社より刊行されたのが本書です。今回は、スペイン語の朗読とギターのために作曲された音楽が基になっています。音楽と共にあることが大前提とされており、元来の詩の美しさはそのままに、音に合わせてよりすっきりと、軽快なリズムで胸に響きます。さらに、山本容子さんが描く全編のベースとなっているオレンジ色の柔らかで鮮やかなこと!オレンジ色に包まれながら、見過ごしていたプラテーロの表情やしぐさにはっとさせられます。

 

既に出会っていたけれど、私たちは何度でも出会い直せるのだという歓びがここにあります。

 

言語は今の自分の状況を映す鏡。

地球にちりばめられて』 多和田葉子
講談社)/1,700円(税別)

新刊が待ち遠しい作家が何人もいます。多和田葉子さんはその中の1人です。本書は2018年に刊行されました。

 

言語学科の院生であるクヌートは、消滅したと言われている国の出身者Hirukoと出会います。Hirukoが話すのは「パンスカ」という手作り言語。それは、「通り過ぎる風景がすべて混ざり合った風のような言葉」で、「細い糸をよりあわせて、ぎりぎりで伝わるようにつくられた工芸品のような言語の美」を持ち、聞く者は「水の中を泳いでいるみたいになる」といいます。「パンスカ」は「わたしだけの作品」、「わたしの真剣勝負」と言い切るHirukoに、そのような気持ちで言語を口にしたことがあっただろうかと考えさせられます。

 

Hirukoとクヌートはひょんなことから共に旅に出て、その道々でアカッシュやノラ、テンゾと出会い、さらにはHirukoと同じ国の出身者Susanooと出会います。彼らの生きる世界は「外国人」が死語となっている世界、誰もが移民になりえる世界。人間が流れゆくものであるだけでなく、Hirukoにとっては言語も今の自分の状況を映す鏡であり、明日同じである保証はどこにもない、不確かなものです。

 

私は生まれてから迷いもせずに「日本語」を選び取り、日常で書き、話しています。自分が発している言語は果たして、自分の思いを表現できているだろうか。その言語への自信は一体どこから来るのだろうか。パンスカは「母語なんかよりずっと優れた乗り物だ」と言い放つHirukoを前にすると心細くなってしまいますが、それでも言語は人と出会わせてくれるし、予想もしなかった考え方にも出会わせてくれます。そうして互いに影響し合い、より豊かな世界を見せてくれる可能性を秘めているという言語への希望も感じさせてくれます。

 

この本の最後は、6人のストックホルムへの旅を示唆しています。不安定で揺れ動く毎日ですが、この時間軸の先に、また新しく、そして懐かしい表現が弾けるきらめく旅に同行できる日が在るのだと思うと、未来に光が差していきます。

 

心無い声に惑わされてしまいそうなとき、立ち返る本

なみだふるはな』 石牟礼道子・藤原新也
河出書房新社)/850円(税別)

どうしようもない哀しみに襲われるとき、無力感に苛まれるとき、心無い声に惑わされてしまいそうなとき、立ち返る本が何冊かあります。「なみだふるはな」はその中の一冊です。

 

本書は、水俣病の現実を伝えた「苦海浄土」をはじめ、様々な文学を遺された石牟礼道子さんと、写真家である藤原新也さんの2011年に行われた対談を文字に起こしたものです。主に石牟礼さんの幼少期の話と、現在の水俣の話と福島の話が行きつ戻りつしながら進むうちに、ページを繰る手が止められなくなる不思議な吸引力があります。すべてが今と繋がっていき、遠いも近いもなくなってしまう、どうしてこのような語りができるのか。掻き消されてしまいそうな小さな声をずっと拾い続けてきたお二人だからこそ、発せられる言葉は祈りに耳を傾けているような心持になります。

 

石牟礼さんは水俣の問題と向き合うときに、60〜70年前に起きた足尾鉱毒事件に立ち返ったと、「三田文学」の2015年の夏季号で中島岳志さんがおっしゃっていました。目の前の物事と対峙しようとしたときに、過去の死者の声に耳を澄ませ、そこから拾い上げて紡いだ言葉が、今を飛び越えて、未来の生者に届く。それは気の遠くなるような、かつ不確かな流れですが、私たちは確かにその流れの中に生きていて、手を伸ばしさえすれば、その言葉を受け取ることができます。手を伸ばす勇気。そこからしかなにも変わっていかないのかもしれません。読むだけでなにが変わるのかと言われるかもしれませんが、読んだという事実が発生する、確かに発生するということは、私にはとても大きなことに思えます。

 

現実なんて所詮それぞれの頭の中にしかありません。なにを目にするか、なにを読むか、なにを身体に取り込むか、それぞれの体験がそれぞれの現実を創りあげてゆくのなら、私はこのような祈りに手を伸ばす勇気を持ちたいです。

naocoさん/「蛙軒」店主
港町で小さな書店をしています。始まりは絵だったり、音楽だったり、本だったり。「このままではいけない」と思い立ち、歩いて見つけた空き家に、「蛙軒」という名前を付けてあげました。そこからこつこつと足元を耕していたら、段々と外に繋がっていき、いつの間にか人が入って来られるようになっていました。本は、生活と切り離された空間ではなく生活の延長上にあり、書店は未だに完成することなくいつでも作っている最中です。

蛙軒
愛媛県松山市三津3−2−5
nekocycle@gmail.com
090-2855-3081
geroken.wixsite.com/mitsuhama
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