ある視点

触れることのできないものへの手触り

すべすべ、ざらざら、ふさふさ。

普段はあまり文章を書くことがない
本屋さんが紡ぐ、まっしろで、
肌触りのある言葉たち。

小さなまちの本屋さんが選ぶ、
手触りのある3冊。

vol.19 触れることのできないものへの手触り

本澤結香さん(「トンガ坂文庫」店主/三重県)

三重県南部の尾鷲(おわせ)市にある九鬼(くき)町という小さな漁村で、土日・祝日のみ書店を開けています。九鬼町は織田信長に仕えた九鬼水軍発祥の地で、ブリ漁で栄えた町。ぎゅうぎゅうと家が立ち並び、昔ながらの漁村の面影が色濃く残っています。車が通れる道は一本のみ。人間や猫、時々鹿が通る細い路地を抜け、トンビやカモメの鳴き声を聴きながら石段を上った先に、トンガ坂文庫はあります。

 

「トンガ」というのは、九鬼の言葉で「大風呂敷を広げる人」、「おおぼら吹き」の意。今っぽく言うと話をやたら盛る人、といったところでしょうか。そんな「トンガ」なおじさんがこの坂沿いに何人も住んでいたことから、この坂が「トンガ坂」という俗称で呼ばれるようになったそうです。

トンガA「ゆうべの台風で俺んとこの石臼が吹っ飛んでった!」
トンガB「お前んとこの石臼なら、うちの蜘蛛の巣に引っかかっとったわい!」

という掛け合いは、町では有名なお話。トンガ坂文庫のロゴも、石臼と蜘蛛の巣をモチーフにしています。時と共に失われていくであろう言葉の一つである「トンガ」の寿命を少しでも延ばそうと、屋号に掲げさせていただいたのでした。
2018年に古本屋としてオープンして、間も無く新刊本の取り扱いも開始。全国でも指折りの辺境の地にある本屋だと思っているので、わざわざ来てくださった方のどこかに何かが引っかかるような選書を心がけながら、まずは自分たちのどこかに何かが引っかかるものを選んでいます。

 

今回お題でいただいたのは「手触りのあるもの」。手触りって何だろうか。ふいに思いがけず触れた時の感触、の場合もあるだろうけど、大半は能動的に自分から触りにいった時の触り心地のことではないだろうか。
私は普段どちらかというと、フィクションよりも人文書やエッセイなどを多く読む傾向にあるものの、今回選んだ本は不思議と小説ばかり。自分から触りに行きたいものは、身近な生活と直接地続きになっているものよりも、物理的に、時間的に、次元的に、遠くにあって触れられないものなのかもしれません。

未来の私に触れる

『わたしのいるところ』ジュンパ・ラヒリ、中嶋浩郎(訳)
新潮社)/1,700円(税別)

著者はロンドン生まれのベンガル人。長年ベンガル語と英語の2つの母語の間で思い悩んだ彼女が、自ら選んだイタリア語で初めて書いた長編小説です。母語から解放されたこの作品の中に、固有名詞は登場しません。自分で選ぶことのできない、生まれながらに押し付けられたものはこの物語からは排除されています。
固有名詞のない世界はどこかふわふわとしていて掴みどころがないのに、この世のどこにもない場所だからこそ、この世のどこででもあるような不思議な感覚をもたらします。

 

主人公の<わたし>は45歳の女性。大学教師をしながら、生まれ育った<この町>に一人で暮らしています。給料のための仕事。ベッドからの朝日。公園のひだまりで食べる素朴なパニーノ。時々旅に出る。本屋で昔のパートナーに鉢合わせる。健康に不安を覚える。春はアレルギーに悩む。ささやかな暮らしが淡々と進むなか、孤独が、明るくも暗くもなく、ただそこにあるだけという顔で空気のように存在する。その孤独を<わたし>も淡々と見つめる。

あ、これは私だ。

読み進めるうち、境遇も住んでいる町の雰囲気も私とは全く違うはずなのに、<わたし>は未来の私だと直感します。そこに愛すべき家族がいようが、友人がいようが、どんな環境だろうが、人間として生きている限り感じ得るであろう、孤独への共感。
物語の終盤で<この町>を去る決意をした<わたし>は、<わたし>にそっくりな女性に遭遇します。済ませなければならない用事もそっちのけで思わず後をつける。そうせずにはいられない。そして一瞬の隙に見失ってしまう。届かない。

 

物語の中で<わたし>が<わたし>に似た人を追い、それを追う<わたし>に似た読者の私。<わたし>は<わたし>に似た人を自分自身だと確信し、読者の私は<わたし>を自分自身だと確信する。決して届かないのに、そこには確かな手触りがある。未来の自分に必死で手を伸ばすような、切実さと切なさ。
この先何度も読み返すことになりそうです。

遠い場所への手触り

柘榴のスープ』マーシャ・メヘラーン、渡辺佐智江(訳)
白水社)/2,000円(税別)※絶版

手放してから随分経って、何故手放してしまったのだろうと後悔する本があります。『柘榴のスープ』もその一つ。手触りのある本、と言われて思い浮かんだこの作品。本棚を眺めて既に自分のものでなくなっていることに気づき、慌てて買い戻したのでした。

 

作者のマーシャ・メヘラーンはイランの首都・テヘラン生まれ。イラン革命の動乱を逃れるために家族でブエノスアイレスに移り、その後もアメリカ、オーストラリア、スコットランドを経て、現在はニューヨークに住んでいるそう。この作品は彼女のデビュー作であり、彼女の実体験が大きく影響している物語です。
主人公である三姉妹は、著者と同様にイラン革命から逃れ、アイルランドの片田舎にたどり着き、“発音するのもままならない” バリナクロウという町でペルシャ料理の店を始めます。突然やってきた「異物」を温かく迎え入れる人々もいれば、排除しようとする人もいる。そんな逆境の中でも料理の力で徐々に町に馴染み、最後はハッピーエンド。そう平たく書いてしまうとまるで凡庸な物語に見えてしまうけれど、勿論そうではありません。

 

話が進むにつれ、次第に明らかになる三姉妹の過酷な過去。両親を亡くし、政治犯として逮捕され、夫の暴力に苦しみ……。イランでの生活は悲惨だったけれど、それでも生まれた町でのきらきらとした明るい思い出を胸に、故郷の味を振る舞い続ける姿には心を揺さぶられます。
そして何より物語のスパイスになっているのは、正にスパイスやハーブたっぷりのペルシャ料理。馴染みのない文化圏の料理ってどうしてこんなに魅力的なのでしょう。そもそもタイトルからしてずるい。『柘榴のスープ』って。「柘榴(ざくろ)」と「スープ」はどうしたって結びつかない。

 

各章の始まりにはペルシャ料理のレシピが一つずつ記されています。第一章は「ドルメ」。材料にある「夏セイバリー(生)」も「タラゴン(生)」も「バスマティ米」も何のことやらわからない。ヨーグルトに黒胡椒を入れたり、鶏肉にザクロのペーストを合わせたりする。わからない。わからないけどすごく美味しそう。本から香りが漂ってくる気さえする。

 

料理は日常から(ほとんど)切り離せない。この物語は遠くの国の遠い出来事のようだけれど、料理が「遠く」に触れるための媒介となって、こちらへたぐり寄せてれるような力を持っています。

物語の世界からの手触り

紙の民』サルバドール・プラセンシア、藤井光(訳)
白水社)/3,700円(税別)

マットで少しデコボコとした青味がかった灰色のカバーに銀の箔押し。文字通り手触りが良くモノとしての存在感があるこの本は、メキシコ生まれのサルバドール・プラセンシアという作家の処女作です。(といってもその後の作品の発表は今のところなさそう。読みたい。)日々Instagramで書籍の紹介をしていく中、この作品について何度もアップしかけたものの毎度毎度上手く書けずにいました。どう紹介して良いか分からなくて。でも今回いよいよその時が来たかという感じ。多分まだ上手く書けないのだけれど。

 

この物語の登場人物たちが、ある時自分たちを監視する土星(=サルバドール・プラセンシア=著者)の存在に気づき独立を求めて戦いを繰り広げる、いわゆるメタフィクション。一度読み通すものの、私が読んだものは一体何だったのだろうか……、という不思議な読後感が残ります。目次には謎の手文字が記され、読み進めても誰が主人公なのかいまいち分からない。突然文章が黒塗りされたり、文字が横向き縦向き様々に書かれていたりと、凝りに凝った文字組みにも翻弄されます。

 

しかし読み進めるうち次第に、彼らの敵は登場人物たちを監視する著者であり読者なのであると感じられ、ふいに罪悪感にさいなまれはじめます。覗いてしまってごめんなさい、でも最後まで見ていたいのです、と。手触りというよりも、手触られ感。腕を掴まれて向こう側に引きずり込まれるような……。
なんだか不安定で先が見えなくて不安になってしまうこの頃、「ちょっとあっちの世界にいってきますね」ができる本が手元にあるのがとても心強く思えるのです。

本澤結香さん
長野県松本市出身。東京で会社員として働いた後に三重県尾鷲市へと拠点を移し、2018年に友人と共に「トンガ坂文庫」をオープン。平日は複数の仕事を掛け持ちしながら、週末のみ書店を開けています。最近ではイベントやポップアップなど、選書のお声がけも少しずついただけるようになりました。不思議な場所にあるお店なので、ぜひ探検がてら遊びにきていただけたら嬉しいです。

 

トンガ坂文庫
三重県尾鷲市九鬼町121
070-4340-2323
tongazaka@gmail.com
https://www.tongazakabun.co/

Twitter:twitter.com/tongazaka
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Facebook:facebook.com/tongazakabunko
(更新日:2021.01.29)

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