ある視点

いつも変わらずそこにある、世界の広がり

すべすべ、ざらざら、ふさふさ。

普段はあまり文章を書くことがない
本屋さんが紡ぐ、まっしろで、
肌触りのある言葉たち。

小さなまちの本屋さんが選ぶ、
手触りのある3冊。

vol.9 いつも変わらずそこにある、世界の広がり

中村勇亮さん(「本屋ルヌガンガ」店主/香川県)

当店は、3年ほど前にはじめた香川の新刊書店。本を売ることはもちろん、カフェ、イベント、お店やライブラリスペースの選書、通販などいろいろやっています。

 

お商売のやり方は、これまでの本屋とは少し違う形ですが、期せずして、だんだんと自分たちがよく知った「ふつうの」本屋に近づいてきている気がしています。それは、普段お店を利用してくださるお客さまを見ていて得られる実感です。
ご近所の喫茶店からは週刊誌の宅配注文が入り、近所のお母さんからは 『こどものとも』を定期購読いただき、たくさんの客注が入り、サラリーマンからお年寄りまで本を探しにきてくださる。そんな風に、街の本屋として「ふつうに」使ってくださる方が多くなってきたように思うのです。

 

あまりに当たり前のことですが、本屋にお客さまが来てくれるのは、当店が必要とされているということ以前に、本が必要とされているということ。時間をかけて積み上げられてきた、本に対する信頼、本屋に対する愛着。そうした巨大なアドバンテージの上にお店が成り立っていることに気づかされます。

 

そんな風に「過去とつながっていること」を意識しながら、ふつうの本屋として、本の後ろにそっと隠れて、本とお客さまの橋渡しをし続けられれば……そんなことを考えながら、店を開けています。

ピュアな悦びが隠しきれず溢れでている

赤ちゃん教育』野崎 歓
青土社)1,600円(税抜き)

“とはいえ、ひらがなを覚えたことで子供の世界が急速に外部に向けて広がり出す様子にはやはり見ていて胸の躍るものがある。「わ」「ん」「わ」「ん」と一文字ずつ表紙の文字を指先でさっと撫でながら発音してみて、その結果「わんわん!」と音と意味との結合を体験した瞬間、幼児の顔には喜びの波がさっと走る。映画『華氏451』でオスカー・ウェルナーが初めて書物を手にとってたどたどしく音読し始めるシーンを思い出す。しかし息子はオスカー・ウェルナーのようなしまらない不細工男ではなく、可憐な幼児なのだから、懸命に文字をたどろうとするときの表情はかくべつに愛らしい。”

 

子どもを育てる経験とは、もう一度無垢な目で、世界を体験し直すことだと思います。
子どもと一緒になって生き物や自然に驚いたり。ままならない子どもを前に、積み重ねてきた知識など何の役にも立たないまま、ただあたふたしたり。あるいは、子どもの「ふっくらした触感や甘い匂い」に、ただただうっとりしたり。

 

フランス文学者・野崎歓さんの育児エッセイからは、そんな世界の「手触り」をもう一度味わいなおす甘美さが伝わってきます。あまたの文学や映画を知的に引用しながらも、文章からはピュアな悦びが隠しきれず溢れでている。だから読んでいるこちらの頬もゆるんでしまう。そんな幸福な一冊です。

 

詩的で魔法のような文章のリズム

戦下の淡き光』マイケル・オンダーチェ(著)・田栗美奈子(訳)
作品社)2,600円(税抜き)

小説の醍醐味は、文章のリズムと細部にこそ宿る。 オンダーチェの文章を読んでいると、そう断言したくなってしまいます。

 

本書の舞台は1945年のイギリス。突然姿を消した両親。それと代わるように現れた怪しい大人たちとの冒険譚が繰り広げられる前半。そして大人になった主人公が、過去の謎を解き明かしていく後半。そんなワクワクと、みずみずしさと、切なさが同居した物語の本筋はもちろんのこと、それ以上に、静かに心研ぎ澄まされていくような、詩的で魔法のような文章のリズムがすばらしい。

 

そして物語に埋め込まれた、一見脱線にも思えるような細部の描写も見事。例えば、高い建物に違法によじ登る「ルーフクライミング」というカルチャーについて、長々とした描写が続いたり。あるいは、1858年にパリのオペラハウスで行われた伝説的なチェスの名試合について、手に取るような事細かさでその細部が語られたり。

 

そういったいくつものディテールの描写がイキイキと輝いていて、小説に生命を与えているように思うのです。

 

手触りと人肌の体温に満ちた哲学書

「聴く」ことの力 –臨床哲学試論』鷲田清一
筑摩書房)1,000円(税抜き)

“〈声〉に触れる。ここではない別の場所から〈声〉が身体のいろんなところでわたしに触れてくる。その声はわたしの皮膚をざらざら擦る、しつこくまとわりついたり、しっとりと被う、ふわっと撫でる。だみ声、しゃがれ声、撫で声、金切り声、尖り声、曇り声、震え声、裏声。あるいは、ふくよかな声、丸みのある声、突き刺すような声、ざらざらした声。〈声〉には強度と律動と艶と陰影とがある。強い浸透力がある。”

 

哲学って、厳密な言葉と論理で積み上げていく「硬い」構築物のようなもの。そんな先入観を見事に覆される、手触りと人肌の体温に満ちた哲学書です。

 

本書で取り上げられているのは「聴く」という行為。聴くということは、ただ言葉の内容を受け取っているだけではない。それは、言葉の表情、声の響き、顔の表情、そんなすべてを受け取ること。そしてそれは、他者を迎え入れ、目の前のあなたを肯定することにつながっている……。

 

そんな風に、からだの感覚から、あるいは受動や受容といったポジションから人間の営みについて考える、心動かされる一冊です。

中村勇亮さん
本屋の店主というのは、じっと動かない仕事だと思っている。めまぐるしく移ろう世界にあって、いつでも変わらず店を開け、いつでも変わらずそこにいる。だけど本を通じて、どこまでも世界の広がりを感じさせてくれる。そんな存在であるべきだと思っています。だからぼくは、いつも半径1キロ圏内で暮らしています。開店してから一度しか、香川を出たことはありません。だけどそんな生活を、自分でも意外なほど気に入っています。

本屋ルヌガンガ
香川県高松市亀井町11-13 中村第二ビル1F
lunugangabooks@gmail.com
087-837-4646
https://www.lunuganga-books.com/
(更新日:2020.07.03)

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