ある視点

「孤独」になれる場所

すべすべ、ざらざら、ふさふさ。

普段はあまり文章を書くことがない
本屋さんが紡ぐ、まっしろで、
肌触りのある言葉たち。

小さなまちの本屋さんが選ぶ、
手触りのある3冊。

vol.21 「孤独」になれる場所

田中典晶さん(「本屋UNLEARN」店主/広島県)

開店して2カ月目にコロナに見舞われたので、それ以降はウェブショップをつくったり、オンラインでイベントを行ったりと、あたふたとした1年を過ごしました。もともと本屋をはじめようとしたのは、それぞれが忙しさで自分を見失いそうになる日常のなかで、なんとか孤独になれる場所をつくり、そこでみずみずしい言葉と出会ってほしい、そして自分を回復する場所の一つにしてほしい、そう思ったからでした。

しかしコロナ禍になり、さまざまな人の話を聞くうちに、孤立は深まっているのに孤独になれない中途半端な状態が続いているのではないか、と自分を含めて感じています。そして、いま思っていることは、最低限コロナが終息するまではなんとしてでも本屋を開いておこう、ということです。

先日、選挙の投票で久しぶりに地元の中学校へいきました。子どもの出身校でもあり、かつてその近くに住んでいたので、その周辺を歩きながら、しばし子育て当時を思い起こしていました。そして、普段ならそのような感情は日常へ戻るとともに自然に消えていくのですが、今回はなぜか消えずに残り続けたまま仕事に取りかかりました。

その時に感じたのは、人は、もともと重層した時間を生きているものじゃないか、ということでした。ノスタルジーとしての過去というより、自分の記憶の煤払い(すすはらい)をしながら、「重層した時間」や「沈殿した感情」をしっかりと救い上げること。その作業こそが、「いま」を生きる新鮮な力になっていくのではないか。私は、本屋をそういう場にしたいと思うようになりました。

孤独を確立しないかぎり、人生ははじまらない

『コルシア書店の仲間たち』須賀敦子
白水社)/950円(税別)

 

“人生ほど、生きる疲れを癒してくれるものは、ない。”

本の扉には、このような一行を含む詩人・ウンベルト・サバの詩が掲げてあります。

コルシア・デイ・セルヴィ書店。もとはと言えば、第二次世界大戦末期、ドイツ軍に占領されたミラノで、知識人による対独レジスタンスが母体となって生まれた書店です。著者は日本にいる時からこの書店に強く惹かれ、イタリア留学後、すぐに関わりを持ちはじめます。やがて書店の中心人物の一人であるペッピーノと結婚、夫婦で書店の活動に参加していくのですが、数年後ペッピーノは病気で亡くなり、彼女は日本へ帰国することになります。
著者にとっては実質10年あまりの関わりであった「コルシア書店」ですが、本のなかでは、書店をとりまくあの人やこの人について、いくつもの忘れがたいエピソードが語られます。しかし著者がこれらを書いたのは、日本に帰国して20年も経った、60歳を過ぎてからのことです。

“コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちは、ともするとそれを自分たちが求めている世界そのものであるかのように、あれこれと理想を思い描いた。(中略)それぞれの心のなかにある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければならない孤独と隣りあわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生ははじまらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う”

この「あとがきにかえて」の最後の部分を、私は何回読み返しただろうか。ここには、「時間」というろ過装置によってしたたり落ちてきたものだけを拾い集めた文体があると思います。

「正しさ」は、痛切なものから生みだされる

『戦後的思考』加藤典洋
講談社文芸文庫)/2,200円(税別)

まもなく没後2年になろうとする加藤典洋さんは、私の最も敬愛してきた著者の一人です。改めて、この人の考えの何がそれほど貴重だったのだろうかと考えました。一つには、新しい「公共性」をつくり出すためには、一見それとは逆の、人間の「私利私欲」の底の底まで降りていき、それをつきつめていくことが大事なのだという考え方です。そこから「公的なもの」が出てくるのだ、と。それが「敗戦後」の最も大切な思想ではなかったのか、と。

『戦後的思考』は、その仮説を歴史や哲学、文学作品を通して繰り返し根拠づけようと試みた本です。戦争の時に叫ばれた「滅私奉公」の精神は、革命運動や反差別運動、はたまたグローバル企業における働き方のロールモデルや学校の部活動にさえ、「公共」という名の下、同じ形で受け継がれていることがあります。そのいきつく先は「ファシズム」以外にはないのに、私たちはいとも簡単にその精神に絡めとられてしまう存在でもあります。むしろ、健全で柔軟な「私性」を持つこと、そこから「公共」をつくっていくことが大事だという考え方を、加藤さんはさまざまな著書で変奏しながら主張しているのだと思います。

もう一つは、「正しいこと」とは、むしろ自分たちの「まちがい」から、その痛切なものから生み出されるのであって、「道徳的な正しさ」を積み重ねていけば到達できるわけではないということ。そういう「正しさ」はむしろ人を裁く思想になりこそすれ、生き延びていくための思想にはならないのではないか。それも、間違った戦争をした「戦後の遺産」なのではないか、と。

私はこのような加藤さんの考え方に、とても大切なものを感じ取ってきたのだと思います。

自分の声を聞けるようになることは、他人の話を聞けることに重なる

『海をあげる』上間陽子
筑摩書房)/1,600円(税別)

沖縄県生まれで、現在は琉球大学の先生である上間陽子さんのエッセイ集です。彼女は、1990年代から東京や沖縄で未成年の少女たちの支援・調査に携わり、現在は若年出産をした女性の調査を続けています。

原稿執筆をはじめた当時について、「自分の声を聞くことができないともがく日々」だったと著者は振り返ります。その言葉の通り、最初の章で読者はいきなり固唾を飲むようなエピソードに出会うことになります。そこでは著者自身の離婚の経緯が語られており、夫婦で別れ話をすすめているその最中、実は夫に長い間恋人がいてそれが近所に住む著者の親友だとわかってしまう。しかしその後の一連の出来事を語っていく文章の、なんと穏やかで抑制的であることか。「沈黙」を含む文章が、むしろ膨らみのある表現にさえなっているのです。このように表現できるまでに、著者はいったいどのくらい「もがく日々」が必要だったのだろう。

この本では、「自分の声を聞けるようになる」ことと「他人の話を聞ける」ことが重なることとして語られています。それまでもずっと若い女性の調査をしてきたにもかかわらず、「近親者からの性虐待」の話を彼女たちが語るようになってきたのは最近になってからのこと。そこから著者は、「聞く耳を持つものの前でしか言葉は紡がれない」ということを発見します。

そして、「原稿の隠れた伴走者が娘だった」と著者が言うように、確かに保育所に通う小さな娘の存在感は全編にわたっています。例えば、辺野古新基地建設の是非をめぐる県民投票に関わっている青年が、ハンスト (ハンガー・ストライキの略。非暴力抵抗運動の方法の一つとして、断食を行うこと)に入った時、彼のことを知っている娘は「ごはん食べないと、大きくなれないさ!元山くんは駄目だね!」なんて言う。トンデモの爆笑シーンなのですが、自分や他人の話に聞く耳を持てるようになることの底には、このように「意味」や「正しさ」以前の弾むような生命力を持つ幼い娘との暮らしが、自分のこわばりを解いてくれる力にもなったのではないか、と思わせられるのです。

田中典晶さん
本屋UNLEARNは2020年1月12日に開店しました。実はその日は私の誕生日であり、また村上春樹の誕生日でもあり、さらには彼が尊敬する作家ジャック・ロンドンの誕生日でもあるのです。そのようなメモリアルな日に開店させようと正月休みもなく書棚づくりを行ったため、開店後しばらくして手が肩から上がらなくなってしまいました。それがようやく治ったと思ったら、こんどは腰痛。で、だましだまし仕事をしているうちに、やがて首筋が痛むようになりました。このように開店以来、体のどこかが悲鳴を上げる状態が続いてはいるのですが、どうにかこうにかやっています。まあ、ボチボチといけるところまでいこうと思いますので、よろしく。

 

本屋UNLEARN
広島県福山市東深津町6-3-58
084-927-7001
https://unlearn-books.com/
(更新日:2021.07.28)

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