見えないものが、見える世界を支えている。料理家・高山なおみさんが語る、体の言葉。記憶の話。

見えないものの向こう側

ぐーんと角度をつけて、長い坂道を車が登る。神戸の街や港を見渡せる高台に立つ建物の一室。チャイムを押すと、高山なおみさんが柔らかな声で出迎えてくださった。玄関から廊下の先に見えるお部屋のつきあたりには、大きな窓があり、レースのカーテンがパタパタとなびいている。外の強く明るい夏の日差しで火照る顔に、吹き抜ける風が気持ちいい。
「あぁ、ここですね」、窓辺で思わず声をあげた。

高山なおみさんと、画家で絵本作家の中野真典さんによる絵本『それから それから』の一場面そのままの風景が広がっているのだ。

『それから それから』には、日常の風景にも、災禍の只中にも、祝祭の宴にも、確かに息づいている人や生き物の営みが描かれている。

この絵本は、高山さんが見た、ある夢から生まれた。

 

「夢の中で、私はラジオから流れる歌に耳をすましていたんです。それは、かすれた女性の歌声で、聞き覚えのある昔の流行歌のようでした。

サビって言うんでしょうか、『それから それから』と歌詞を、繰り返し歌っていました。『あぁいい歌ねぇ』、そんな風に思いながら耳を傾けているうちに、気がついたんです。これは、受胎の物語を歌っているんだって。女の人の体に生命が宿るその瞬間、その人はぐるぅと、海に重なったり、空に重なったり、地に重なったりしながら、それそのものになっていくんです。海や空や地の粒のひとつになるみたいに。そしてここに戻ってくる。そういう歌だったんです」

「夢の話ですから、何でもありですよね」高山さんはそう微笑みながら、「でも私、昔から夢をよく見るし、夢のことを大切にしているんですよ」と付け加える。そして、夢の中の歌は、現実にある歌ではないけれど、その歌声は耳に残り、目覚めた後も口ずさむことができたという。

2年前、印象的だったこの夢の話を、高山さんは中野真典さんに話した。

「七夕の頃だったと思います。雨が降り続いて、関西空港が水浸しになったことが大きなニュースになった、そういう時があったんです。この部屋から窓の外を見ても、大雨で霧が立ち込めたように真っ白で、目の前の建物も何も見えないような日でした。私の家にいらしていた中野さんが、長い間2階から降りて来ない。見に行くと、正座をして、そこにあった束見本(*)に絵を描いてらしたんです。お茶でもどうですか?と声を掛けても、今は結構ですって」

(*本をつくる際、大きさや紙の厚み、形状がわかるようにつくるサンプル冊子。何も書かれていないためノートのようでもある)

 

その時、中野さんが描いた絵が『それから それから』の元となった。

雨のせいで帰れなくなった中野さんは翌日も、次の場面、また次の場面を描き続け、描き上がった絵を見て、高山さんは言葉をつけた。

そこから絵本として『それから それから』が生まれるまでの間、言葉はさまざまに変わっていった。中野さんの絵に呼応して言葉が変わり、言葉に呼応して絵も変わっていった。そうして、変化を繰り返す中で、最後まで入れるかどうか、迷った一文があるという。

「『みえないものたちが みえるせかいを ささえている』っていう言葉を入れようとしていました。『それから それから』はそういう物語なんです」

そして、高山さんの子どもの頃の話に移っていく。

脳みそから出てくる言葉でなく、
“体の言葉”を使いたい

「私には、“見えているものだけで、この世界ができているわけではない”って思いが、小さい頃からあったんです。学校の先生って、ハンカチを忘れたら怒ったり、表面的なことばかり気にするでしょ。どうしてそれしか見ないのかなって。

そんなことよりも、この世界は、もっといろんなものでできているのにと、思ってました。言葉にはなっていなかったけれど、私の中には、木や風やそういうものと友だちだと感じたり、猫と会話はしなくても通じ合っているという実感があって、そういう“見えないものを見ること”、“見ているものの向こう側を感じること”が得意でした」

 

だから、誰かに「早くおいで」と呼ばれても、道端にいる虫を見たり、草を味見したり、なかなか動かない子だったという。

「じーっと見ていると、わかるものがあるでしょ。雨が降ると、葉っぱの色が濃くなるなとか、匂いがするなとか。そういうことって、おもしろいし、どこか自分の体に近いと感じるんです」

 

でもその思いは、言葉にしようとすると、言葉には収まりきらない。

「だから、言葉が遅かったんだと思います。私には双子の兄がいるのですが、兄は3歳の頃にはすっかりおしゃべりになっていたのに、私はなかなか言葉を話さなかった。話す必要がなかったくらい、じーっと見ていたんじゃないかな、この世界のことを」

感じていることを伝えるのに、ちょうどいい言葉がないと、口が止まってしまうのは今も同じだと高山さん。

 

「どこか別のところから持ってきた言葉ではなく、自分の体に近い感覚の言葉を使いたい。私にとっては、体と言葉とがぴったりであることは、とても大切なことなんです。話をするとき、自分の“感じ”にぴったりの言葉がないと、咄嗟にごまかしてしまうようなこともあって。それが時々すごくもどかしくなります。私が、日記や絵本を書くのはそのせいかもしれません。
体の感覚にぴったりだと感じる言葉を、探して、探して、書くことができるから。それに、そういう“体の言葉”は、普遍的なものと近づくのではないかと思うんです。体は誰もが持っているから、同じ感覚を共有することができる。だから、脳みそから出てくる言葉ではなく、体の言葉を探すのだと思います」

大好きなものがあると、
そのものになりたくなる

じーっと見る。そして、見ているものの向こう側を感じること。そのことは、高山さんの言葉と同様に、料理にもしっかりと繋がっている。

 

「野菜って、同じ野菜でもみんなそれぞれ違いますよね。だから、きゅうりにしても、茄子にしても、買ってきたものをじーっと見て、触ります。それで、水分がどういうふうに入っているかなとか、どうやったらおいしいかなと、イメージする。それも、見ているものの向こう側を感じるってことなんだと思います。

例えば、おいしい茄子はこういう茄子だって、料理本に書いてあったりしますよね。それを頭に叩き込んだって全然だめだと思うんです。茄子が目の前に並んでいても、それらは全部同じ“ただの茄子”とはならない。一つひとつ違うから、よく見て、触って。それから、匂いを嗅いで、味をみて、感じることです」

そうして、見ているものの向こう側を感じようとすることを、高山さんは「自分を手放す」と言う。

「自分を透明にして、ゼロにする。自我のようなものから離れて、そのものに身を委ねる。そうすると、見えてくるものがあるんです」

 

時として人は、物事を自分の見たいように見る、感じたいように感じるということがあるように思う。でも、目の前にあるものを本当に感じたいと願う時には、自分の考えや先入観、自我さえも差し挟むことなく、感じて、まっすぐに捉える。その先に見えてくるものがあるのだなと、改めて高山さんの言う“見ているものの向こう側を感じる”という言葉の意味を味わった。

同時に、誰もが“感じる”ことはできるはずなのに、自分の感覚よりも本に書いてあることを手がかりにしてしまうのはなぜだろうという疑問が湧く。そのことを高山さんに尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「体で感じて捉えたものは、自分の “記憶”となります。その記憶を信じることができるか、できないかということかもしれません。信じることができないから、本に書かれていることや、ニュースや人の言葉ばかりが頭に入ってくるんじゃないでしょうか」

じーっと見る。触る。匂いを嗅ぐ。味をみる。自分を透明にして、身を委ねる。

そうやって高山さんが、 見ているものの向こう側を感じることは、「一体になりたい」という思いとも、繋がっているという。

「ある編集者の方に、『食べるように本を読みますね』って言われたことがあるんです。その言葉を聞いて『本当だ、言葉を食べるように入れている』って思いました。本も、映画も、歌でもなんでも。何かを本当に好きになったときは、体に入れる感覚がある。武田百合子さんの文章が大好きで、『富士日記』は、何回も、何回も読みました。読むと『この文になりたい』って思うんです。文ですよ。おかしいんだけど、好きで、好きで、仕方なくなると、そのものになりたくなる。一体になりたいんです。

母に聞くと、子どものころは大好きな絵本があると、紙を本当に食べてたみたい。『ちびくろサンボ』の話が大好きで、体ごとその世界に入りたい、記憶に留めたいって思ってたんですね。だから、じーっと見るんだけど、それでは間に合わなくて、紙を口に入れてしまう。食べないと“留まらない”、そんな感じがあったんでしょうね」

 

 

母との別離から考えた、
死と、記憶のこと

そこからお話は、昨年の夏に亡くなった、大好きなお母さまのお話になっていった。

「亡くなる前、姉と交代しながら母の病室を訪れていたんですが、行くとずーっと母のことを見てました、ずーっと。おもしろいなんていうと、すごく変なんだけど、どうやって人はこの世から離れていくのか、それを見ているのは、おもしろいことでした。

90歳ですから、自分の体を使い切って、だんだん世間的なことから離れていく。毎日見ていた大好きな朝ドラも見なくなって、聖書も読まなくなって。人は、最後は食べることと排泄だけになっていくんだな、そういうことも母を見ていてわかりました。食べられなくなると、流動食を食べようとして、それも食べなくなると、アイスクリームになって、水になってーー。そうすると、体がどんどん透明になっていく。食べ物を食べているときは、体に生々しさがあるんだけど、だんだん透けるようになって、目もきらきらとしてきて、赤ちゃんみたいになっていくんです」

 

それまで、人が死ぬということはどういうことなのか、わからなかったと高山さん。でも、お母さまとの時間は、死を「自分のこと」としてくれたという。

「息をひきとったとき、母はとってもかっこいい顔をしていました。看護婦さんが体をきれいに拭いてくれて、お化粧をしてくれて。実家に連れて帰って布団に寝かせてからも、何度も触りに行きました。本当は横で一緒に過ごしたかったんだけど、クーラーがガンガンに効いているから、寒くていられないんです。それでも、時折触りに行くと、だんだん体は固くなっていく。でもね、燃やすまでの3日間、耳たぶだけはずっと柔らかかった。

体って、母の魂が入っていたものだから、体も母だと思うんだろうか? それとも魂が抜けたら母じゃないって思うのかな?ってそういうことがわからなかったんだけど。亡くなってしばらくは、まだ母だなって思いました。動かないし、びくともしないし、顔もだんだん変わってきているんだけれど、血は通ってなくても細胞は生きている。そういうことが触るとわかる。でも、ある時から、もう母じゃないって思ったんです。体が入れ物のように感じて。それで、放っておくと腐っていくんだから、燃やしてお別れをするのは、当然だなって思いました。もちろん泣きます。けれど、それは悲しい涙じゃない。納得をしてお別れをするという感じがありました」

 

お母さまと過ごした最後の日々のことは、高山さんの当時の日記『日々ごはん』にも記されている。それらを読んだ時、お母さまへの目線の率直さ、包み隠さない描写に驚いた。そう高山さんに伝えると、高山さんは即座にこう言った。

「残酷なんだと思います。でも“じーっと見る”“感じる”ってそういうことだと思う。見逃さず、観察する。それはさっきの大好きな本の文を、“自分の体に入れたい”と感じることと同じことだと思うんです。母の目つきとか、ふとした時の表情とか、現実とそうでないことの間で混乱する様子とか、全部覚えています。そして、その記憶は私の血肉になっている。そんな感じがするんです」

 

わからなかった「死」に対する、気持ちは少し変わったりしましたか? そう質問すると、高山さんは今もちゃんとわかっているわけではないけれどと言いながら、こう話してくれた。

「本当にいなくなるんだなって。それは、想像していたよりも、“もっといなかった”です。よく亡くなっても、まだここにいると言ったりしますよね? でも私は、今もここにいるとは思っていない。母は、完全にこの世からいなくなったってことがわかりました。でも、だから私は記憶に向かって、毎日話しかけてるんです。よぉく残っている、記憶に向けて」

高山さんの話を伺っていると、まるで高山さんは、そとの世界と体で“交信”しているような人だと感じた。体を受信機のようにして、感じ、取り入れ、体を介して発信する。料理も、言葉も、そうした“体の記憶”から生まれているようだ。

神戸に引っ越して来なければ、絵本『それから それから』はできなかったと、高山さんはいう。そして、神戸に引っ越してきたことで、使ってもいいと感じる言葉の語彙が増えたとも話してくれた。それは、もしかしたら新しい街で、たくさんの新しい記憶を蓄えているからだろうか。

絵本は、高山さんの部屋の窓の景色とそっくり同じ神戸の街の絵とともに、「わたしは ここに」「おはよう」という言葉で結ばれている。

「ここ」にきた「わたし」は、これからどんな1日を始め、何を生み出していくのだろう。高山さんと、絵本の言葉とを重ね合わせて、そんなことを思った。

 

“本当のところ”から出てきたものは、人を、自分を、揺り動かす。詩人・岩崎航さんの、生活から立ち上る詩

分かちがたく
重なっている心と体

現代に生きる私たちは、心と体が繋がっていることを頭で知ってはいるが、つい分けて考えてしまう。たとえ心が体を通して声を発していたとしても、気付かなかったり、頭で考えることを優先させて、見て見ぬふりをしてしまうことも多い。でも、岩崎航さんは違う。

「心と体が重なり合っていることは、ダイレクトに、かなり“露骨に”感じます。

これまで、体調はさまざまに変化しましたが、今は病気を抱えて生きるなりの健康、生活ができる最低限の穏やかさがあります。でも、すぐには解決できないことを思い悩んだり、心の中で悶々と考えることがあると、体の具合が悪くなってきます。頭痛がすることもありますし、胃に直接、経管を用いて栄養を送るのですが、そうした水分を入れようとした時に入れづらくなったり、吐き気の症状が現れることもあります」

心の声はダイレクトに体に作用するため、体を整えようとするときは心にも働きかける。

「体調が悪くなると普段の暮らしができませんから、自分に合う薬などで対処します。でも、解決することのない、離れようにも離れられない悩みについて一人で考えていると、体調を戻すことができず、自分自身がまるで回転しながら落ちていくような気がするんです。そういうとき、私は人と話をします。話したからといって、悩みが解決するわけではないですが、話すことで、問題を抱えながらでも生きていくことができると思える。人と関わることにより、病気や障害に飲み込まれずに、自分の人生を生きることができるのです」

 

岩崎さんは、著書『日付の大きいカレンダー』のなかで、“病”と“病魔”とは、まったく別もので、闘病というのは“病”と闘うことではなく“病魔”と闘っていくことだと語っている。そして、自分にとっての闘病とは、“自分のいのち、そして自分の人生を生ききることを妨げようとする何ものかと闘い続けていくこと”だという。

その闘病において、側にいて話を聞いてくれる人の存在が、大きな力になっている。

しかし、はじめからそのように感じていたわけではなく、10代後半から20代半ばの頃は、引きこもりに近い状態で孤立した時期を過ごしていた。何日もの間、話をするのはほぼ家族だけという状態が続いたこともあったという。

「家族以外からの介護も受けようと考えました。訪問介護であったり在宅医療であったり、人と関わっていくよう、自分で仕向けていったんです。将来、両親も年齢を重ねていくことを考えると、家族しか介護ができないのでは、いずれ立ち行かなくなるという思いもありました。それに、いろんな人と関わって、いろんな経験をして生きていくのが人生だと思ったのです。人と関わることで、前向きになり、自分の暮らしを生きていける。生活が立ち上がっていくと感じます。

久しぶりに人の手を借りて外に行くと、街の外気感というのか、空気や光など外の世界からすごく強いものを身に受けます。そういうことを体感すると、みんなはこういう中で生きているんだなと感じる。これは、一人ではなかなか感じることができません。人と関わったことによって得られる実感だと思うのです」

 

関わりの海
そこで生きるのが
全てなのだと思えてきたら
なんだか人に
会いたくなった

 

詩は“生きていく”という方向に
歩むための、闘う力

岩崎さんは、20代前半、“気が狂いそうなほどの”辛い時期を過ごした。

「4年もの間、僕は激しい吐き気の症状に襲われ、病気に飲み込まれるようでした。あまりの苦しさに、生活の一切が覆い尽くされ、何かをしようとする気力が吸い取られてしまい、がんばれと言われても、その一歩手前で、動くことができませんでした」

吐き気の症状の要因は、今考えれば、自分の先行きへの強い不安、思うように外に出られない不自由さ、深まっていく孤立感などからくるストレスによるものだったのではないかと、岩崎さんは振り返る。なぜ、その症状が落ち着いたのか、具体的な理由はわからないというが、何もかも難しいと感じてしまうようなときは、ただうずくまって嵐がすぎるのを待つしかないというのが、岩崎さんの実体験からくる言葉だ。その嵐が過ぎた後、岩崎さんは詩を書き始めた。詩がことさら好きだったとか、得意だったためではない。一日のすべてをベッドの上で暮らすなかで、自分にできることとして浮かんだのが詩の創作だった。
そして25歳からはじめた詩は、今、岩崎さん自身を支えている。

「私が詩を書くのは、穏やかに暮らしたい、生きたいという、誰しも感じることの延長線上にあることです。誰かに言われたからやっているのでも、ましてや“修行”でもありません。
暴風雨のように激しく吹き荒み、ひっくり返るような状況を、工夫や努力、外部からのケアによってなんとか穏やかなものにしていく。そして、そこでの実感や日々の生活を詩に書き上げることができたなら、それが私の生きる寄す処(よすが)となります。そして、“生きていく”という方向に歩むための、闘う力になるのです」

 

自分にも
やれることがある
その光は
離さずに
いたいと思う

 

 

“本当のところ”から出てきたものは
人を、自分を、揺り動かす

岩崎さんの詩からは、自らを奮い立たせるような力強さや、エネルギーを感じる。そう伝えると、岩崎さんからこんな言葉が返ってきた。

「詩を書くとき、明るくて前向きな、わかりやすい表現を使うこともできると思います。でも、本当に苦しいとき、絞り出すように出てくる表現をそのまま目の前にぽんと置く。それがたとえ、何の救いもなさそうなものであっても、心と体で感じた“本当のところ”から出てきたものは人を揺り動かすと思うのです。同様のことを、私は画家の香月泰男さんの『シベリア・シリーズ』という作品に感じたことがありました。彼のその作品は、一見すると真っ黒で、ただ絶望や苦しみを目の前に置いたというもので、言葉にならない、言葉では整理しきれない表現でした。でも、それは彼の奥底から出てきたものだから、私の心を揺り動かし、支える力になった。私がそう感じたように、私の詩もまた、そんなふうに誰かに受け取ってもらえたのなら、それがまた私の力になります。そういう詩を書いていきたいです」

また、岩崎さん自身も、過去の自らの詩に力をもらう。

「自分の詩を読む。その詩は、私が書いた本人ではあるけれど、送り出した瞬間に私の手を離れていきます。そして、何年か後、苦しみがあるときに読み返すと、状況は違っていても自分を励ましてくれるんです」

それは、きっと岩崎さんが、ごまかしたり、諦観したりせず、そのままの自分を見つめ、“本当のところ”から出てきた言葉を綴っているからだろう。

「困難な局面に対峙する経験が、世の中に向けて何かを書こうという気持ちに繋がりました。もし私が書くことをしていなかったら、今のような心境ではいられなかったと思います。言葉になりきらなくても、とにかく言葉に出す、伝える。そうすることで、心が暗澹としたところから整う。それは整理されるとか、スッキリするという類のものではありません。ただ、何か内向きであったものが、一歩外に向かって歩みだすエネルギーになっているのです。
“生存”するだけなら、それに必要な最低限のものがあるでしょう。しかし、そこに生活というものがあってはじめて、生きている手応えが湧いてくる。私は、その手応えから詩を書いています」

 

どんな
微細な光をも
捉える
眼(まなこ)を養うための
くらやみ

 

あなたがそこにいる。
そのことが誰かを支えている

授かった大切な命を、最後まで生き抜く。
そのなかで間断なく起こってくる悩みと闘いながら生き続けていく。
生きることは本来、うれしいことだ、たのしいことだ、こころ温かくつながっていくことだと、そう信じている。
闘い続けるのは、まさに「今」を人間らしく生きるためだ。

生き抜くという旗印は、一人一人が持っている。
僕は、僕のこの旗をなびかせていく。

エッセイ『生き抜くという旗印』の一節だ。
「生き抜くという旗印は、一人一人が持っている」。そう語る岩崎さんは、病や障害を持って生きる一人として、近年の恐ろしい事件や差別的な発言に対抗する言葉も、今、伝えるべきもののひとつに加わってきたという。

そして、昔から日本にある「人に迷惑をかけない」ことを美徳とする考えが、行き過ぎてしまうことに危機感を募らせる。

(写真提供:ナナロク社『点滴ポール 生き抜くという旗印』より 撮影/齋藤陽道)

「たとえば事故や大病などによって、今までできてきたことができなくなったり、これまで通りに生活や仕事ができなくなったときに、“人に迷惑を掛ける人間になってしまった”というふうに考え、人間としての価値が下がったような気持ちになってしまうことは、誰にでも起こりえます」

私自身もそういう思考に陥ることがあると、岩崎さんは語る。しかし、そこから踏みとどまりたいという。

「病気や障害があるかどうかにかかわらず、人は、誰もが、何らかの形で、人に助けてもらって生きていかなくてはならない。そして、その人がそこにいるだけで、誰かの生活が立ち上がるということがあります。関係性が生まれるんです。何かができるから価値があるわけではなく、そこに存在している、ただそれだけで人に影響を与えているし、そのことによって誰かを支えているのです。

ですから、病気があるかないかに関わらず、自分で自分を否定したり、人から自分を否定されたりすることはあってはならないことだと思っています」

 

誰もがある
いのちの奥底の
燠火(おきび)は吹き消せない
消えたと思うのは
こころの 錯覚

 

岩崎さんは、外に向かって窓を開け、人と関わり、心に滞りそうになる思いを詩という形で外に放つ。お話を伺って、彼の詩から受ける力強さは、暗闇に身を置いているように感じるときも、その暗さから目を背けず、なんとか光のある方に体を向け、踏み出そうとする心の動きに触れるからではないかと思った。

この世の中に、岩崎さんの詩があること。その詩に出合えたこと。そのことに喜びと心強さを感じながら、お話を終えた。

 

※本記事中の岩崎さんの五行歌は著書『点滴ポール 生き抜くという旗印』(ナナロク社、2013年)より引用しています。

 

心と体で見えないものを「さわって、探る」想像力を。医師・稲葉俊郎さんインタビュー

「違和感」からはじまった医の探求の旅

稲葉さんは循環器系を専門とする医師として、「からだ」だけでなく、「こころ」や「いのち」をめぐる思考を続けてきた人だ。医療とは本来、病と闘うだけのものではない。しかし、ともすれば目に見える症状を治すことのみが、いま私たちの「健康」を考える基準になっていないだろうか。稲葉さんはそこで、「そもそも健康とはどういうことか」に立ち戻った結果、必然「こころ」や「いのち」が思考のキーワードに加わった。そのきっかけとなった出来事はあったのだろうか。

photo:Kohei Yamamoto

「常に大切にしてきたのは〈違和感〉ですね。たとえば、医者を目指して医学部で授業を受けていたときから『これは自分がなりたいと思う医者のイメージとは全く違うことをやっているのでは』と思うことが、少なからずありました。私は自然やいのちというのは本来すごく多様で、広く深いものだと思っています。しかし医大ではその一部だけを取り出して学ぶことで、完結しているように思えたのです。

たとえば食の問題ひとつとっても、東洋医学にも食に深く関わる領域があり、マクロビ、玄米、断食などもからだやこころと奥深い関係があります。でもそこは学校で質問しても明確な答えはもらえず、または自分たちの尺度で『エビデンスがないよね』と片付けられてしまう。しかし私は本来、医者ならば自分で調べ、考えた上で『あなたにはこの選択が向いているはず』と相手に伝えたいと思ったのです」

  

そこで稲葉さんは、医師国家試験に合格し、現代医療の場で働き始めてからも、様々な領域を学び続ける。西洋医学を礎としながら、東洋医学や民間療法、代替医療などにも目を向けてきた。それは、与えられた資格とはまた違う、自分が目指す医者としての「資格」を問い続ける日々でもあったようだ。「でも、それを本気でやったら一体どれほどの時間がかかるのか……と不安にはなりませんでしたか」と聞くと、稲葉さんは微笑みながらこう答える。

「私の場合、そこは不安より〈もっと知りたい気持ち〉が勝ってしまう感じです。将来のためだけでなく、やっぱり、新しいことを知った時の感動や、そうした発見を通じて自分が更新されていく感じが好きなのでしょうね。そして、それらは結果的に、だんだんとつながってもいく。私は『医療と芸術はどちらも、人間が〈全体性〉を取り戻すための営みである』と考えます。それぞれが歩んできた人生のプロセスにおいて、一見すると関係や意味がないものも、ライフサイクルを通じて何らかの形で統合されていく。全体性とは、そうしたことも含むお話です。そして、自分自身でこの星座を読み解き、人生のなかで解釈していくのはとても面白い作業ですよ」

自分の中の、
こころとからだの星座を読み解く

自分の中でもまだ見えていない、あるいはばらばらなものを「星座」として読み解く。そこでは「科学か芸術か」を超えて、人間の想像力が活かされるというのが稲葉さんの考えなのだろう。

「見えないものを補い、自分の中で統合していくのは、やはり人間に与えられたイマジネーションという能力でしょう。私は多くの物事について、正面からさわって手を延ばしていくと、裏側とつながっていると思える感覚があるんです。そうして『さわって、探る』想像力も使いながら、全体性をつかんでいく。たとえば、病院勤務と同時に続けてきた訪問医療などでもそうですが、表面上はとにかく怒っている人がいて、でも色々探っていくと、裏では深く悲しんでいたことがわかる。または、ある人がなぜ不整脈や過呼吸を起こしたのか謎だったのが、実はとても理にかなった〈からだ側の理由〉があったケースもしばしば見られます。その意味では、言葉だけを信用してはいません。

野山で植物の葉の付き方などをじっくり見ると、そこに真理の表現を感じることができます。光の当たる方向や水のとり方、土のありかたなど、複雑な関係性の中で最適化がなされている。さらに周囲では皆がある意味平等に、各々の場所で最大限の生き方をしていて、かつ全体として調和している。同じように、からだのさまざまな反応には、何かしら理由があるものです。そしてこのことは、私が〈いのち〉に抱くある種の信頼感につながっています」

 

ただ、医療の場を訪れる人の多くが心身の困りごとの解決を求めるのに対し、芸術を求める人々は、体調管理や治療のためというより、表現にふれる体験自体を愛する人々も多いのではないか。こう考えると、芸術と医療はやはり違うような気もするが、稲葉さんの中ではどうつながってくるのだろう。

「そこがまさに、私が学生時代に感じた〈違和感〉の先にあったものだと思っています。現代医学は、いわば〈病気学〉であり、病気の治療についての研究や勉強をひたすら行ってきました。でも私はずっと、『人間が健康である』とは本来どういうことかを学び、活かしたかったのだと思います。『病気がなくなったから健康になる』ではなく『健康になったから病気がなくなる、または気にならなくなる』ということもあるのではないか。

これは、ただ現象をひっくり返しただけのようで、方向性は全く違います。病気を治すことだけを第一に考えると、症状は消えたのに体調がすぐれない、というような人たちに応える術がない。でも私はそこにも応えることが大切だと思うし、だからこそ『健康になるとは、調和とはどういうことか』を考えたいのです。もしかしたら、病気と健康が両立し得る領域さえあるかもしれません。こう考えると、芸術がただ困っているから求めるものではないのと同様、医療にも病と闘うだけでなく、本来の健康や調和を求めて人々が集う場が必要だと思います」

稲葉さんはこうした考えを、著書『からだとこころの健康学』(NHK出版、2019年)に綴っている。とてもわかりやすく読める本だが、実は20年ほど考えて続けていたことが、最近ようやく自分の言葉になったと話してくれた。論旨明快、頭脳明晰な印象の稲葉さんでもそこまで時間がかかるのかと意外に感じる一方、私たちもそれぐらい、じっくりと考えるべき/考えていいテーマなのだとも思わせられる。

 

「いのち」というフィロソフィーを
共有する場を

こうしたお話は、稲葉さんが今回「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2020」の芸術監督を務めることともつながっている。医療従事者が芸術監督というのは、近年各地で盛んな芸術祭の中でも異例の人事だが、契機はやはり、医療と芸術をつなぐ場から生まれた。

「きっかけは、香川の丸亀市猪熊弦一郎現代美術館を通じてのご縁です。猪熊さんは作家としての晩年、『美術館は心の病院だ』と仰ってあの美術館を設立しました。私はそのことに感動し、それを知った同館がシンポジウムへの登壇に誘ってくださったのです。シンポジウムでは、猪熊さんの言葉同様に、実際の病院も新しい可能性が交わり得るはずだというお話をして、そこで中山ダイスケさんと出会ったんです。しばらくして、山形ビエンナーレのお話をいただきました。私もかねてこうした芸術祭ができないものかと思っていたので、渡りに船というか、ぜひやらせてくださいとなりました」

しかしその後、まさに医療も芸術も含めた社会全体を襲った新型コロナ禍によって、同ビエンナーレも重要な判断を迫られることになった。従来のように各地からの訪問者を山形に迎えるのではなく、初のオンライン開催を決断することになったのだ。

「大変な調整と決断でしたが、私はとても嬉しかったんですね。今回は見送ろう、という選択肢もあり得た中で、実現するための方法を皆さんが共に考えてくださったからです。これから先、私たちがどう進んでいくか、その後ろ姿を次の世代に見せたいという意見もありました。この人たちと一緒なら新しいことができると、いま改めて思っています。

完全オンライン制でも失われない価値が、ここにはあると信じています。一例を挙げれば、私自身がずっと感動させられてきた、詩人の岩崎航さん(1976年生まれ。進行性筋ジストロフィーを抱え、経管栄養と人工呼吸器を使う暮らしの中で詩を創作している)の参加。彼はご自身の人格を賭けて表現に挑んでいるような人で、しかしこれまで芸術祭という場に登場する機会はありませんでした。それが今回、映像を通じて彼に参加していただけた。このことだけでも、皆さんの心が動くような全く新しい〈通路〉がつくれるのではと思っています」

稲葉さんが共同キュレーターを務める、山形ビエンナーレ2020のプログラム「いのちの学校」。アート、音楽、パフォーマンス、食、ボディワーク、レクチャーなど、あらゆるジャンルの参加アーティストが登場し、からだ・こころ・いのちのあり方について参加者とともに考える。同ビジュアルの水彩画は稲葉さん自身が描いたもの。

心が動くといえば、心臓の鼓動で演奏するパフォーマンスなどで知られる山川冬樹のような、自分自身が表現媒体であるような作家たちの名前が並ぶのも印象的だ。美術、音楽、パフォーマンス、食、レクチャーなど多様なオンラインプログラムが用意されているが、参加アーティストを決めるうえで大切にした観点は「ジャンル分けしにくい人」だという。

「いずれも『どういうことをしている人?』と聞かれたら、『その人というジャンル』としか言えない表現者たちです。アーティストの全身全霊の行為から取り出した表現を、ある種の果実として〈作品〉と呼ぶことはできる。でも本来、そうした果実をもぎってアートと呼ぶよりも、彼らの人生やその軌跡自体が創造物であり、〈その人〉という大木、あるいはその根や土までも含めたものをこそ、アートだと考えたいのです。今回はそういう作家たちと準備をしてきたので、ぜひ体験して頂けたら嬉しいです。

私はこの芸術祭で、医療と芸術が交わる深い部分について、改めて読み解き直そうとしています。出発点にして目指すところでもあるのは、コマーシャリズムや権威とも異なる形で、一人ひとりに固有の健康を回復する、未来の養生所になること。〈いのち〉に対して開かれ、〈いのち〉というフィロソフィーを共有する場をつくりたいという想いでした。もともと私にとっての芸術がそういうものでしたし、芸術“祭”をやるならばなおさらです。このテーマを中心に、いわば曼荼羅のように全体性が描ければいいなと思っています」

最も身近で特殊な
「あたま」との付き合い方

ところで、「こころ」「からだ」「いのち」の関係を考えるとき、私たちは自分の「あたま」も意識せざるを得ない。たとえばコロナ禍以降、私たちは毎日のように「今日は陽性者が何人だった」などの「目に見える」情報を気にし、危険や安心を可視化することに躍起になっている。そこには利点もあるけれど、見落としていることはないだろうか。一方で稲葉さんからは、目に見えないものも含め「全体」をとらえようという思いが感じられた。簡単ではないかもしれないが、大切なことではと思う。

photo:Kohei Yamamoto

「そこに関連して言うと、私たちの〈あたま〉からの声が主に『こうすべきだ、こうせねばならない』という命令形でプログラムされているとすれば、〈こころ〉の声は命令形ではなく『こうしたい、これが好き、楽しい』というものではないでしょうか。そして、人間の〈あたま〉は重要な部分であると同時に、かなりの異物だと私は思います。私たちの〈からだ〉の営みは、神経のパルスのやりとりから内臓の働きまで、99%以上が無意識の領域で行われていると言える。全てを意識で制御していては〈あたま〉が保ちませんから、見方を変えると、これはからだ側からの思いやりかもしれません。

ですから、私たちが〈あたま〉由来の言葉に従いがちなのはある程度仕方ないとして、自分の〈からだ〉や〈こころ〉への思いやりでバランスを保てると良いでしょうね。これは、自分自身に支配されない感覚にもつながると思います。世阿弥の言う『離見の見』(演者が自らの身体を離れた客観的な目線をもち、あらゆる方向から自身の演技を見る意識のこと)ではありませんが、自分という存在がこの世界にどう位置付けられているか、をきちんと把握することも大切でしょう」

 

稲葉さんは著書『いのちは のちの いのちへ』(アノニマ・スタジオ刊、2020年)の中で、これからの個と社会を考えるうえで、「中動態」という言葉にふれている。日常感覚で言うと、「能動態(〜する)」の対概念は「受動態(〜される)」になるけれど、古代ギリシアにおいてはそこに「中動態」という考え方があったという。

「〈中動態〉とは、自分の行いが自分自身に及ぶものを指します。たとえば『他者を思いやる』のは能動態で、『思いやられる』は受動態ですが、もともとは中動態としての『自分の中での思いやり』『自分への思いやり』もある。これは〈感動〉や〈謝罪〉などにおいても同じことが言えて、人それぞれ自分のなかで愛や思いやりが循環して、いわば土や養分から何かが生まれていく。そう考えれば、これは究極のエコシステムだとも言える。そういうことをもう少し考えようというのも、私の提案したいところです」

最後はちょっと難しい話になってしまいましたね、と笑った後、稲葉さんはこう付け加えてくれた。

「でも私は、こうしたことすべてを楽しんでいます。基本的に、生命の欲求というのは『楽しくやろう』だと思うからです。なぜそう思うかと言えば、子どもたちを見ているとそうとしか思えないから。たとえば家族で出かけたとき、トラブルで電車が止まると、大人は皆ぶつぶつぶつ文句を言い出しますよね。だけど子どもたちは、そんな大人たちの股をくぐり抜けて走りまわり、遊園地のように楽しんでいる。そして、いま私がやっていることすべても、挑戦であると同時に発見があり、かつて自分が違和感を覚えながら『本当はこうあれたら』と願ったものに近づいてきている感じがするのです」

 

サーカスが社会を変えていく。 “信頼関係”が挑戦を生む、「ソーシャルサーカス」とは?

社会のしくみからはじかれた人を
支えた“サーカス的”文化

ご挨拶をして、まずは写真撮影をお願いした私たちに、金井さんはいいですよと応じてくださり、「何かしましょうか?」と側にあったクラブと呼ばれるジャグリング用の道具を数本手にしたと思ったら、それらを次々と宙に放つ。よく見知った仲間だとでもいうように軽やかにクラブを扱う身のこなしは、目に心地よく、ずっと見ていたくなる。

金井さんは、日本人で初めてフランス国立サーカス大学(CNAC)へ留学し、その後長くフランスでサーカスアーティスト、ディレクターとして活躍。帰国した後、2014年に初開催されたヨコハマ・パラトリエンナーレをきっかけに、NPO法人スローレーベルとともにサーカスの技をベースにしたパフォーミングアーツのプロジェクトやワークショップを開始し、それを「ソーシャルサーカス」として発展させてきた。

「ソーシャルサーカスというのは、簡単に言うと、サーカスによる社会貢献活動のことで、80年代後半から90年代初め、ブラジルで始まったと言われています。

サーカスについて少しお話をすると、主に家族で経営されてきた昔ながらの『伝統サーカス』に対して、『現代サーカス』は、“サーカスは芸術”という立場からいろいろなアーティストが関わってつくってきたんです。特にヨーロッパと南米で歴史があります。
サーカスは、テントを立てるスペースがある程度必要なこともあって、地方の町や村で大衆の楽しみのひとつとして根付いて、だんだん都会へと浸透していきました。また現代サーカスの多くが、子どものためのサーカス学校などを開催し、日本でいう児童館や学童保育のように放課後の子どもたちの居場所、遊び場として運営しています。

そうした地域とのつながりのなかで、サーカスが出合ったのが、紛争や貧困に苦しむ人や移民、自信を失った女性たちだったんです。そして、サーカスの練習や習得のプロセスは、人々のさまざまな力を育て、結果的に問題の解決につながるのではないか、そう考えたアーティストたちによって、自然発生的に社会問題にアプローチするサーカスが生まれていきました」

南米から始まったといわれるソーシャルサーカス。みんなで協力し合いながら、技をつくりあげるなかで、コミュニケーションが生まれていく。(写真提供:スローレーベル)

スローレーベルのパンフレットには、“ソーシャルサーカスとは、サーカス技術の練習や習得を通じて、協調性・問題解決能力・自尊心・コミュニケーション力を総合的に育むプロジェクトのこと”と書かれている。
「なぜサーカスはそうした人々に受け入れられたのか?」、「なぜ練習や習得のプロセスが、人々の力を育むことになるのか?」、浮かんでくるさまざまな疑問を投げかけると、金井さんは、「そうですよね」とにっこり笑いながら、サーカスの持つ文化や背景が関係すると教えてくれた。

「サーカスは、もともと遊びから始まっているのが大きいですね。今日は一輪車、明日はジャグリング、トランポリンと、自分が好きなこと、やりたいことをやればいい、おもちゃ箱みたいなものです。言葉が違っても、文化的な文脈を知らなくても、誰もが自分のペースで楽しむことができる。また、何かができるようになると、次はもっとできるんじゃないかと、挑戦したいことが増え、可能性が広がっていくのもサーカスの特徴ですね」

また、サーカスは家族的だとも言われていると、金井さん。

「協力し合ったり、人と息を合わせたりしないとできないのが、サーカスです。もともと転々と旅をしながら行われてきたものですし、みんなで力を出し合わなくては、テントを立てることもできない。技の中には危ないものもあり、人にサポートをしてもらいながら習得するものや、パートナーに命を預けるようなものもたくさんある。信頼関係なしには成立しないんです。ですから、血はつながらずとも、家族的でアットホームなつながりのなかでつくりだされてきたという背景があります」

淡々とした語り口ながらも、その言葉や表情からサーカスへの愛情や誇りに思う気持ちが溢れる金井さん。現在住んでいる長野県松本市でもジャグリングクラブを主宰している。

さらに、ヒエラルキーをつくらないことが、“サーカス的”なコミュニケーションを生むという。

「演出家や振付師といった“先生”のような存在を置くことは少なく、反対に、経験のあるアーティストでなくても、『君ができるなら、ぜひやってよ』と、すぐに人を受け入れる土壌があります。それを表してか、最近では、一団や仲間を意味する“カンパニー”という言葉の代わりに、人々が集団を形づくりながらも、個々の独自性や特異性を尊重するという意味合いのある“コレクティフ”という言葉で表現することも増えてきました。そこに、ヒエラルキーはなく、個々に自由な精神をもった人々の集まりというような意味が込められているように思います。
リーダーがいない分、話し合いにすごく時間がかかるのですが、ああでもない、こうでもないと言いながら、誰かを排除することなくみんなで一緒につくりあげていく。それは、とても民主主義的な文化で、そうしたサーカス同士は世界中でつながり合っています。もちろん、競技的な側面をもった団体や、◯◯な人だけの集まりという団体も存在しますが、それは“サーカス的”ではないように感じますね。そもそもサーカスというのは、オープンでソーシャルな感覚がベースにあるんです」

そうしたサーカスの持つおもちゃ箱のような楽しさや可能性の広がり、信頼関係、オープンでソーシャルなコミュニケーションが、社会のしくみからはじかれてしまった貧困に苦しむ人や移民、抑圧されてきた女性たちに、一体感や自信、表現の場を与え、徐々に彼・彼女らを支え、勇気づけた。そう話す金井さんの言葉を聞いて、ようやくサーカスと社会問題が、私の中でつながり始めた。

その後、社会問題にアプローチするサーカスは、南米やアジアなど各地で成果をあらわしていく。そして、1995年に世界的なエンターテインメント集団「シルク・ドゥ・ソレイユ」の社会支援事業としてメソッドが開発され、「ソーシャルサーカス」と名付けられて、世界中に広がっていったという。

日本人で初めてフランス国立サーカス大に入学した金井さんは、その後、約10年間、ヨーロッパでさまざまな人種、国籍の人々とともに、現代サーカスの公演を行ってきた。(写真提供:ご本人)

道具を使った遊びがもたらす
関係性の変化

そんな世界中にあるソーシャルサーカスの中でも、障がいのある人々と一緒にサーカスを行う日本のスローレーベルは、異彩を放つ存在だという。

「貧困に苦しむ人や移民とのソーシャルサーカスは世界各地にありますが、障がいのある人と一緒に行っているという例はほとんど聞いたことがなく、珍しい取り組みだと思います。

実は、障がいのある人々とワークショップを始めた当初は、ソーシャルサーカスの存在は知らず、行っていたのも皿回しやジャグリング、ダンスなど、サーカスの中でも遊びの要素が多いものでした」

スローレーベルが主催するソーシャルサーカスワークショップでは、障がいのある人もない人も一緒になって、皿回しやジャグリング、さまざまな遊びや技に挑戦する。(写真提供:スローレーベル)

そもそも障がいと一口に言っても、さまざまな障がいがあり、決して一括りにすることはできず、「どのように進めるのがいいか、僕の中にも恐怖心があった」と、金井さんは振り返る。
しかし、ワークショップを重ねるなかで、皿回しやジャグリングなど、道具を使った遊びは、コミュニケーションをつないでいくのではないかと、手応えを感じるようになった。
面と向かって人とコミュニケーションを取ることが苦手でも、好みの道具を見つけて取り組めば、一人で夢中になることができ、そうして楽しんでいる者同士は、やがて道具や技を介してゆるりとコミュニケーションを取り始める。だんだんとスキルをあげていく人、周りが驚くほどひとつのことに集中する人は、その中で尊敬を集め、自信をつけていく。障がいがあっても、なくても、そのことに変わりはない。金井さんはそういう様子を何度も目の当たりにした。そして、それは金井さん自身の固定観念も壊していったという。

同時に、スローレーベルは、障がいのある人が安全に会場に来て、イベントやワークショップに参加できるよう、環境やコミュニケーションを支える看護師の資格を持った「アクセスコーディネーター」やダンサーとして運動療法にも携わる「アカンパニスト」らをスタッフに加えた。そして、パフォーマンスを振り付けするダンサーや演出するアーティストたちとともにチームを編成。障がいのある人とともにどう取り組んでいくのがいいか、少しずつ模索していった。

(写真提供:スローレーベル)

安心して挑戦できる。
信頼関係のある場所

そんななか、スローレーベルが出合ったのが、ソーシャルサーカスという概念だった。「自分たちがこれまで進めてきたことはこれだ」と、日本初のソーシャルサーカスを運営する団体として名乗りをあげる。

「サーカスには、ハラハラを楽しむという要素が含まれています。それまでスローレーベルでは、サーカスの遊びの部分しかしていませんでしたが、各国で行われているソーシャルサーカスは地域の人とスリルのある“攻めた技”もやっている。僕たちも、みんなとやればできそうだと思ったんです」

そして、金井さんはツムちゃんという女性の話をしてくれた。

「『イニシエーション』という、高い所から後ろ向きに倒れるようにジャンプし、下にいる人がキャッチするという技があります。後ろ向きですから、下に誰もいなかったらどうしようって想像してしまうと怖い。下にいる人に対して信頼していないとジャンプできないんです。そこで、まずは僕たちがやっているのを見せて、参加者に『誰かやってみる?』と聞いてみました。そうすると、怖くて絶対に無理という人と、やってみようかなという人が出てくる。やってみようと上にあがっても、怖くて、ジャンプまで5分、10分とかかったり、やっぱり今日はやめておこうと降りてくる人もいたりします。
そんな参加者の中にツムちゃんがいました。ツムちゃんはダウン症の女の子。ダウン症の人は傾向として、高い所を怖がることが多いんです。『やってみる?』と聞くと、ツムちゃんは目も合わせず、絶対にやりたくないという感じでした。

でもある時、ツムちゃんに『ソレイユ』という別の技の声掛け役をお願いしたんです。ソレイユは、大きな円になるよう並んだ人たちが、中央に小さな輪っかがついた放射線状に伸びるロープを持ち、声掛け役の指示に従って、その輪っかをボールの乗った棒に通すという技。みんなで力を合わせ、ボールを落とすことなく輪を棒に通すことができると達成感があります。ツムちゃんはこの役をするようになって、すごく自信がつきました。ワークショップなどでソレイユをするたびに、声掛け役を買って出るようになったんです。

そんなある日、公演で先程の『イニシエーション』を、チャイニーズポールと呼ばれる長い棒を使ってやることになり、練習が始まりました。人の肩の上に乗り、ポールに掴まって演技をし、最後はポールを離して後ろ向きにジャンプし、下で支えてもらいます。高い所が苦手なツムちゃんは、やらないだろうと思ったのですが、『やってみる?』と聞くと、今度は『やる』って言うんです。
人の肩の上にあがり真っ直ぐに立ったものの、足がガクガクして怖そうでした。でも、ぶつぶつと呪文のように何かつぶやいている。『ソレイユ、ソレイユ、ソレイユ、ソレイユ……』って言ってるんです。私にはソレイユという技ができた、だからこの技だってできるはずだっていう気持ちだったんですね。そのまま後ろ向きにジャンプして、見事に技を成功させました」

みんなと一緒にさまざまな挑戦をしてきたツムちゃん。スローレーベルのメンバーが大好きで、練習のたびに「おつかれさまでした」「支えてくれてありがとう」などの手紙を書いてきてくれる。(写真提供:スローレーベル)

自分で自分を力付けることができた「ソレイユ」をお守りのように唱えて、技を成功させたツムちゃん。少しずつ挑戦を重ね、自信をつけ、またそれが次の挑戦につながっていく。
「みんなのサポートがある、この信頼関係の中でなら、いろんなことに挑戦できる。そういう場であることは、とても大切です」と金井さんは言い、こう続ける。

「社会にも僕自身にも、『障がいのある人にこれはできないんじゃないか』という思い込みがある。何か、障がいのある人は守らなくてはいけない存在なんじゃないかと思ったり、これは挑戦させられないって勝手に限界を決めてしまっていたりします。でも、実は人には限界などなく、あったとしても、必ず抜け道や別の可能性が見つかるのではないか。勝手に決めつけて守ろうとしたり、周りが限界をつくる必要などないのではと、気付かされます」

それは、障がいのある人たちだけでなく、健常者といわれる人にとっても同じことで何も変わりはない、と金井さん。

「障がいのある人の中にもひょうきんで社交的な人もいるし、健常者の中にもコミュニケーションが得意でない人もいる。当然のことですが、健常者にも得手不得手があり、問題を抱えている人もいます。自分も含め、みんな各々にとっての壁があるということなのだと思います。

外からは、僕たちは障がいのある人をサポートするためにいると見えるようですが、実はそうではなくて。いろいろな人がいる多様な集まりのなかで、こんな風にコミュニケーションできることがとてもおもしろい。たとえそれが言葉のコミュニケーションでなかったとしても、いろいろな人がいて、だからつくり出せるものがあることが楽しいんです」

声掛け役の声に従い、みんなで呼吸を合わせて成功させる「ソレイユ」。(写真提供:スローレーベル)

2019年、スローレーベルは「スローサーカスプロジェクト」を発足。日本初のソーシャルサーカスカンパニーとして、ダンサーやサーカスアーティスト、ジャグラー、障がいのある人、ない人、30名を超える団員が一体となってプロジェクトを動かしている。

新型コロナウイルスの影響もあり、2020年5月に予定されていた初公演は延期となったが、新しい発表の場のための準備は進む。

「僕たちのサーカスは、とてつもない高さから飛び降りるというような、世界レベルのアクロバットを披露できるわけではありません。プロジェクトが目指すのは、多様な人がひとつの世界でつながる楽しさ、おもしろさを感じてもらうこと。そして、みんながそれぞれの壁に向かって挑戦をし、限界を超える。そこに生まれる感動を観客のみなさんと共有できるのではないかと思っています」

「この信頼関係のなかでなら、いろんなことに挑戦できる」。金井さんが口にしたこの言葉がとても印象的だった。
サーカスの話を、そのまま、まるっと地球に置き換えることができたら、私たちはどれだけの限界の壁を超えることができるだろうと、今この時、想像せずにはいられない。さまざまな人たちが混ざり合って暮らすなかで、サーカス的な文化、サーカス的なコミュニケーションは、私たちに多くのことを教えてくれる。

違いよりも、同じ価値観に目を向ける。東京の真ん中にあるイスラムの礼拝堂から小さな種を蒔く。

偏見は、“知らない”から生まれ、
放っておくと差別になる

私がはじめて東京ジャーミイを訪れたのは、2014年11月のこと。ISILなどと呼ばれる過激派組織が毎日ニュースで取り上げられているような時期だった。
イスラムの人にとって、意図しない形で「イスラム」という言葉がメディアを通じて連呼される状況のなか、東京ジャーミイの案内をしてくれた下山茂さんのことがとても印象に残った。
日本人のイスラム教徒として、人々が疑問に感じていることを丁寧に汲み取り、正しく伝わるようにと、注意深く言葉を選びながら話す姿に「本当のイスラムを知ってほしい」という思いが溢れていると感じたのだ。

あれから約5年。久々に東京ジャーミイの見学会を訪れ、驚いたのは見学者たちの数だった。当時は30〜40人ほどだったが、この日はエントランスから溢れるほどの人が見学会の開始を待っている。「多い時には100人ほどの参加者があります」と下山さんは語る。

ジャーミイとは、アラビア語で多くの人が集まる場所の意で、集団礼拝ができる礼拝堂(モスク)のこと。なかでも東京ジャーミイは、日本最大の礼拝堂で、金曜礼拝には多くのイスラム教徒がここを訪れる。

東京ジャーミイの前身、東京回教礼拝堂が建てられたのは1938年のこと。2000年に東京ジャーミイ・トルコ文化センターとして再建された。毎週土日祝日には、見学ツアーが開かれている。

また、その美しさも東京ジャーミイがよく知られている理由だ。トルコから建材を運び、現地の職人さんも加わって建てられたオスマン・トルコ様式の建物。初めてここを訪れる人の多くが異国情緒溢れる建築や装飾の美しさに声をあげ、カメラを向ける。

「ひとりでも多くの日本の人々にここを訪れてほしいと思っています。撮影をしたり、その美しさを発信したりしてくれることも歓迎です。メディアやSNSなどでこの場所を知って、見学に来てくださった方の多くが、私の話を熱心に聴いてくださいますから。
どんなきっかけであっても、イスラムという大きな文明に目を向けてもらえたらと思うのです

27歳のときイスラム教徒になった下山茂さん。早稲田大学探検部として スーダンを訪れ、イスラム教徒たちの寛容さや親切な気持ちに触れて、 イスラム教に対する先入観が覆ったと言う。

下山さんがこのように話すのには、ある思いがある。

もともと出版や編集などの仕事をし、イスラムに関する出版物にも携わっていた下山さんが、東京ジャーミイの広報として働くきっかけとなったのは、2001年のアメリカ同時多発テロだった。

「世界にとっても、イスラム教徒の私にとっても大変な事件でした。イスラム教に大きなレッテルを貼られて、逆風の時代が来てしまうと思いました」

下山さんが、イスラムについて伝えるときに用いている「イスラム文明の科学遺産」の地図。これを見ると、アラビア数字やカメラ、珈琲、手術器具など、多くの文明がイスラムの地で発祥したことがわかる。

同じように考えた当時の東京ジャーミイのトルコ人イマーム(代表)に誘われる形で、下山さんは、2010年から広報担当として働くことになった。
その後も、世界各地で起こったテロ、そして日本人拘束事件。ジャーミイには、大きな事件のたびに新聞・雑誌、テレビなど、多くのメディアが取材にやってきたが、下山さんは、ほぼすべてに応じた。

「なかには『ネガティブな事件だから取材を受けないほうがいいのでは?』といった意見もありました。しかし私は、できるだけ話をしたかった。

そもそも、日本ではイスラム教のことがあまり知られていません。ですから、テレビや新聞の向こう側にいる多くの日本人に、イスラム教とはどういう宗教なのか伝えなくてはと思いました。

誤解や偏見は、知らないこと、無知から生まれます。そして、偏見は放っておくと、差別になってしまうのです

転んだり、衝突しながら
前に進んでいく

「日本では、欧米のようにイスラムフォビアと呼ばれる憎悪や宗教的偏見は広まりませんでしたが、テレビなどによって、怖い、テロといったイメージがしっかりと日本人の中に入っていきました」

そうした間違ったイメージではなく、正しいイスラムについて、とくに地域や近隣の人に知ってもらいたいという、下山さん。

東京ジャーミイでは、断食あけの最初の食事「イフタール」や、トルコ人シェフによるトルコ料理の食事会や講習会など、文化や料理を切り口にしたイベントに近隣の人を招いてきた。また、清掃活動など、近隣の人と顔を合わせる時には、積極的に声をかけるよう努めてきたと言う。

イスラム教やイスラム文明について知ってほしいという思いはもちろんあります。でも近所に住んでいる皆さんの関心はもっと日常的なことです。

ですから、まずは皆さんのお顔を覚え、すれ違ったらこちらから挨拶をするようにしています。そして、毎日『いい天気ですね』『お元気ですか』といった日常の言葉を交わす。

そこから、ようやく近所の方が、東京ジャーミイにはこういう人がいるんだなとか、食事会に行ってみようかなと、感じてくださると思うのです」

入り口にはナツメヤシと紅茶が置かれている。「モスクは、コミュニティであり、シェルター。立ち寄れば知り合いがいて、ちょっとお茶を飲んでいってという場であり、また分かち合いの場なのです」

しかし、せっかく積み重ねても、あっという間にゼロに戻ってしまうこともある。

「たとえば、礼拝に来て、近くの住宅街に路上駐車をしてしまい、近所の方に注意を受けた人がいました。その時、すぐに謝って移動させたらよかったのですが、ちょっとした口論になって、警察がやってきてしまったのです。
ジャーミイとしては礼拝には公共交通機関を使ってきてくださいねとお話していますが、ルールを守らないような出来事が起こると、積み重ねてきたものはすぐに元に戻ってしまう。やはりそこは、人と人との関係が重要なんです

そして、「異文化共生、異文化理解というのは、並大抵のことではありません」と、よく通るしっかりとした声で下山さんは続ける。

「移民の多い欧米諸国や、多様な民族でひとつの国家を形成するマレーシアのような国は、試行錯誤をしながら、いばらの道を歩んでいるといってもいい。

でも、日本はこれまでそういうことをしてこなかった。モノカルチャー(単一的文化)の中に、欧米の価値観ばかりを取り入れてきた日本で、異文化を理解し、受け入れることは簡単なことではありません。

ですから、私たちは異文化交流なんて大きな看板を背負うのではなく、井戸端会議のような小さなものを積み重ね、人間と人間として感じることを大切にしています。

異なる部分を頭で理解しようとするよりも、人として共通の価値観に目を向けること、互いの素晴らしいところを知っていくことです。

異文化理解、異文化共生というのは、そうしたことを重ねて、転んだり、衝突したりしながら、進んでいくものではないでしょうか

「モスクは生活になくてはならないもの」と語るエジプト人の男性。「子どもに生活習慣を教えるためにも、モスクへ来ることは大切なことなんです」

僕を構成するレイヤーのひとつに、
イスラム教があるだけ

話を伺っていると、一人の男性が下山さんに握手を求めてきた。

「いつも顔を合わせる友人ということでなくても、モスクを訪れる人はお互いに挨拶をし、声を掛け合います。モスクは礼拝の場であると同時に、集会所であり、シェルターのような役割を果たしているんです」

下山さんはそう言うと、「では、ちょっと中を歩いてみましょう」と、ジャーミイ内を案内してくれた。

その時、下山さんに紹介してもらった一人に、ジャーミイでアルバイトをするエルトゥルール・ユヌスさんがいた。ユヌスさんは、神奈川県内の学校に通う大学生で、トルコ人の父と日本人の母のもと岡山県で生まれ育つ。

東京ジャーミイでアルバイトをするエルトゥルール・ユヌスさん。スポーツ観戦が好きで、土日は横浜スタジアムや東京ドームで野球観戦をするのが楽しみなのだそう。

「両親ともにイスラム教徒で、僕自身も生まれたときからイスラム教徒として、日本で生活をしてきました。

といっても、人と違う暮らしをしてきたわけではなく、僕を構成するレイヤーのひとつに、イスラム教というのがあるのだと思っています」とユヌスさん。

しかし時には、異なる反応が返ってくることもあると言う。

「例えば、飲み会などで、僕のことを知らない人に『今から、トルコ人のハーフで、イスラム教徒が来るよ』って紹介されていたりすると、その場にいる人は僕が来る前から構えていたりするんですよ。実際に顔を合わせて話をしたら、ルーツが違うだけで、日本人としてみんなと同じような人生を歩んできてるってわかってもらえるのですが」

構えず、いじってもらうくらいでいいんですと、ユヌスさんは笑う。

そして、子どもの頃の思い出を話してくれた。

「中学に入学した頃、僕は太っていました。それで、中学1年生のある日、クラスメートの一人に『お前、豚を食べられないのに、豚みたいだな』ってからかわれたんです。
僕はブチ切れました。大喧嘩です。仲裁に来た先生も戸惑ってしまってどう止めたらいいのかわからない。その時、側で見ていた友達や先生の顔を見て、やっちゃったなって思いました。

僕がこういうことで怒ったら、今後一切、僕のイスラムの部分に関して、誰も触れてこないだろうって。それは本意ではないんですよね。だから、今でもイスラムは、僕のアイデンティティの一つであるだけで、特別なこととして捉えてほしくないし、ことさら違うところを伝えて壁をつくりたくないと思っています

ジャーミイに隣接するインターナショナルスクールには、マレーシアやエジプトなどにルーツを持つイスラム教徒の子どもたちが通っている。ジャーミイは彼らの遊び場でもあり、家族の憩いの場でもある。

ただ、これから就職活動をするにあたり、考えてしまうこともあると言う。

「イスラム教徒であると伝えることが、就職活動にマイナスに働いてしまったらいやだなぁという思いがあります。使いづらいなぁと思われたくはないんです」

そんなふうに考えてしまわなくてもいいように、社会が変わることも大切ですね、そう伝えると、その言葉に頷きつつ、こんなふうに教えてくれた。

「僕個人としては、イスラム教徒であることを強調するよりも、イスラム教徒だけれど日本社会に馴染んでやってきたことを伝えたい。僕にとっては、それが生きやすいんです。

同じイスラム教徒であっても、人によって、もしかしたら男女によっても違う考えがあるかもしれません。どういう考えであっても、自分が生きやすいと思う選択肢を選べる社会であればいいなと思います

「イスラム教徒の日本人」が
「隣の席に座っている」時代に

これまで、日本人にとって“イスラム教徒を知っている”=“イスラム教徒の外国人を知っている”ということだったと思います。でも、これからは “イスラム教徒の日本人が隣の席に座っている”という時代になっていきます」と、語るユヌスさん。今後増えていく後輩たち対して、自分の世代には役割があると考えている。

「僕は岡山で育ったので、学校には日本人の友達がたくさんいたけれど、モスクに行くと孤独でした。地域によっても違いがあるのですが、僕の通うモスクでは、同世代のイスラム教徒は、親の仕事の都合などで外国から来ていて、いずれ母国に帰ってしまうという子たちが多かったんです」

お父さんはエジプト出身。この日は、一番下の男の子にアラビア語を、お姉さんとお兄さんには、コーランを教えていた。

そういう環境にあって、イスラム教徒であり続けるには、家族のサポートが不可欠だったとユヌスさんは言う。

日本のイスラム教徒は、トルコでイスラム教徒であるよりもずっとたくさんのことを突きつけられます。
トルコの街では、何も考えずに買い物をしても、豚肉を使った食品やアルコールなど、イスラムで禁止されているものを手にすることはありませんし、礼拝をするのに説明は要りません。

でも日本では、食事や1日5回の礼拝の時間ごとに意志をもった選択を迫られます。それはとても大変なことで、僕はよく母にそうした葛藤を聞いてもらい、救われました。でも中には、両親に厳格なイスラム教徒として過ごすことを求められ、結果的にイスラム教徒であることをやめてしまう子どもたちもいました」

ハラールレストランが増えるなど、近年環境は急速に変わっている。だから時が解決することもあるとは思いますがと前置きしつつ、ユヌスさんは続ける。

日本に住むイスラム教徒としての過ごし方や考え方を一緒に考える、コミュニティのようなものが必要だと思っています。それが、日本人のイスラム教徒が日本社会で共生し、馴染んでいく第一歩になるのではないかと思うのです。
当時の僕のような中高生たちは、僕の世代以上に増えています。彼らが落ち着いて居心地よく生活するために、先輩として動いていきたいです」

世界中の価値観を発見し、
考える機会を

ユヌスさんとお話した後も、下山さんはジャーミイの中を歩きながら、いろいろな人に声をかける。近所に住むイスラム教徒の家族、ビジネスで日本を訪れるたび立ち寄るという男性、ジャーミイに隣接するハラールフードショップに買物に来た親子、カフェでお茶をする近隣のご家族など、さまざまな人がいる。ここが、礼拝の場であり、同時に集会所やシェルターの役割を果たしているという言葉を実感する。

日本在住のイスラム教徒はもちろん、日本に出張に来て立ち寄るイスラム教徒や、「ここには週1回はお茶をしに来て、珍しい食材などを買っていきます」と言う、ご近所の日本人親子の姿も。

「最近は、授業の一環で東京ジャーミイを訪れる高校生も増えています。これから社会に出ていくという高校生が、世界の見方や捉え方、欧米だけではない世界中の価値観を発見し、考える機会があるというのは、大変重要なことです」

そして、時代はようやく動き出し始めたのかもしれないと、下山さん。

人間と人間は、誰でも違いを越えて信頼し、付き合っていくことができます。日本にあるモスクは100カ所を越えました。こうした時代にあって、イスラム教徒である私たちは、これからも社会に対し内向きであってはいけません。
また日本人も異文化に特別なレッテルを貼ることなく、人と人との信頼を大切にし、異なることへの理解を進めていかなくてはならない。今という時代に、ようやく、そのための種が蒔かれたのかもしれないと感じています。
そして今後、高校生の頃から異なる文化を学んだ若者や、日本に住むイスラム教徒の子どもたちなどによって、さらに異文化を理解し合う土壌が育ってくれればと思っています」

美しく花を咲かせるトルコ原産の花 チューリップ。種はいつしか芽を出し、美しい花を咲かせる。

下山さんやユヌスさんのお話は、“異文化理解”“異文化共生”と一括りにしていては見えてこない、彼らだから語ることができる、確かな温度を持った言葉だった。

国や地域、肌の色に対するステレオタイプなイメージや先入観を、知らず知らずのうちに頭に植え付けてしまっていることがある。でも、個と個として出会い、ともに過ごした経験は、イメージや先入観よりもずっと強い感覚を伴って心とからだに残るのだと改めて感じた。
ニュースや他の誰かの経験から“知る”だけでなく、自ら挨拶をし、話をし、時間をともにする。蒔かれた種は、そこからようやく芽を出すのだろう。


取材・文:小谷実知世
こたにみちよ/ライター・編集者。京都市生まれ。大阪、東京を経て、現在は神奈川県・逗子市在住。インタビューをするなかで、話す人のおなかの中にある思いが溢れてくる、その瞬間に出会うのが一番のよろこび。写真家・田所瑞穂さんとのユニット、khorlo(コルロ)において、『ヨミモノコルロ』を発行中。


 

「個性豊かな南国食材と向き合う、沖縄の小さな料理店」【後編】

前編はこちらから  >>

生活の中心に、
食材との対話がある。

今でこそ、“ライフスタイル”の流行もひと段落して、かつての食卓には馴染みの薄かった木の器も特段珍しいものではなくなった。けれど、関根さんが、木工作家の藤本健さんから「うちのアトリエスペースで、食と器とで何か表現ができないか」と持ちかけられたのは、今から7年ほど前のこと。当時の沖縄は、やちむん(沖縄固有の焼き物)と琉球ガラスの食器文化が根強くあり、木の器自体、見かける機会も少なかった。

「それに、沖縄は湿度もあって、木の器は扱いづらいのでは?という先入観を持つ人も多かったのだと思います。そんな状況もあって、藤本さんには木の器がもっと気軽に使えるものなんだというのを知ってもらえる場にできたら、という思いもあったんです。もちろん、私も藤本さんの器は大好きだったし、アトリエの場所も環境も素晴らしくて、二つ返事で決まって進んでいきました」

現在の店の客席のあるスペースが、工房だった部分。もともとの建物同様に、藤本さんがセルフビルドで増改築してくれた。そして、関根さんが趣味で集めていた古い家具のパーツをあちこちにあしらい、調度品は二人でアイディアを出し合う。そうして完成した空間で提供される、木の器に盛られた料理。そこには、関根さんが沖縄で過ごしてきた日々が詰まっていた。

今では、<胃袋>中心に生活がまわっている関根さんが、何より大切にしているのが、食材との出合いだ。「オン・オフが一切ないんです」と言い切るほど、個性的な沖縄の食材を前に、どう料理しようかと考えることが楽しくて仕方がないのだという。

「沖縄の食材は、同じ野菜でもそれぞれ味に違う個性があって、均一じゃないんです。ものすごく渋味や苦味が強いものに当たったりすることが普通にあって。ここ数年で、東京に呼んでいただいて料理をする機会が増えたことで、そのことをより実感するようになりました。東京は、普通のスーパーでも、野菜の見た目がきれいに揃っていて、何を食べてもおいしいんですよね。そう思うと、沖縄はハズレが間々ある(笑)。そんな沖縄の食材と接しているうちに、どんなものに当たっても丸ごと受け入れて、その個性をどう生かそうかと考えることが当たり前になった。今となっては、その試行錯誤が料理の一番の楽しみになりました」

店の休みの日には、遠く離れたやんばる(沖縄本島の北部一帯を指す呼称)まで足を伸ばし、生産者を訪ね歩く。季節の移り変わりによって少しずつ味わいが変化していく野菜や果実を、その場で直にかじると料理のイメージが次々に湧いてくる。

「畑に行くと、ひとつの食材でも、1年を通じていろんな味わいがあることがわかるんです。知っているつもりの野菜でも、芽吹いた時期のほうがおいしかったり、実よりも一般的には食べられていない花のほうがおいしかったり。そうしたことを、自分の舌で体験したくて。それを知れば、もっといろんな絵が描けると思うので」

関根さんにとって、畑を訪ねるのは単なる仕入れではなく、インプットのための大事な時間なのだ。その畑訪問に同行させてもらうことにした。

秋に赤い包葉になる白ウコン。その場で果汁を絞って持ち帰る。

沖縄という環境の中で、思いを共にする友人たち

やんばるの畑へと向かう道すがら、「寄りたいところがある」と、友人の渡慶次弘幸さん・愛さんが夫婦で営む木工と漆の工房〈木漆工とけし〉を訪ねた。「ここでいつも、スモークで使う木屑をもらっているんです」と関根さん。製材屋からの仕入れだけでなく、事情があって伐採された木や、台風で倒れた木など、沖縄の身近な木材を使って日常の漆器を作る渡慶次さんの工房からでる木屑は、関根さんが目下研究中という肉の燻製に欠かせないのだそう。

渡慶次弘幸さんと愛さん。弘幸さんは木工作家、愛さんは漆作家として、共同で作品を制作する。https://tokeshi.jp/

「渡慶次さんが扱う木材は、みんな沖縄の木だから、この香りを移せたらいいなと思って。最近、アウトドア用のドラム缶で毎日のように肉を燻製しているんですけど、沖縄の木は香りがやさしいぶん、移りづらいんですよね。でも、塩と木屑だけでどれくらい香りが出せるか、あちこち部位を変えたりしながら実験するのは楽しい。いろいろ試してみて、肉の脂に吸わせたときに一番いい味になったのが、ハマセンダンの木でした。ほんとうにいい香りがするんですよ」と関根さん。

「木工としても、沖縄の木は決して扱いやすい木とは言えないんですよ。でも、その木の特有の個性とも言えるクセをうまく生かすというのが、面白さでもあります」。この渡慶次さんの考え方も、作るものは違えど、関根さんの食材への思いと通じるところがあった。

 

「やんばる畑人プロジェクト」の代表で、農家の芳野幸雄さん。名護の農業の6次産業化支援を目的に設立した「なごアグリパーク」内にある、直売所とカフェを併設したカフェ「Cookhal(クックハル)」のオーナーも務める。http://haruser.jp/

次に訪ねたのは、自らも農家でありながら、同じ地域の農家さんたちと飲食店・消費者とをつなぐ「やんばる畑人プロジェクト」の代表を務めている芳野幸雄さんの畑だ。芳野さんもまた、<胃袋>のよき理解者のひとり。自身も料理好きで、ゆくゆくは「すべて自家栽培のカレー屋」をオープンするべくスパイスの栽培も実験しているのだそう。沖縄らしい食材から、珍しいスパイスやハーブまで、広い畑におよそ100種類もの作物が、強い日差しを受けてたくましく育っている。

島とうがらしの花は、垣花樋川で汲んだ湧水とうこんの果汁でゼリーに仕立てた。

植物園のような芳野さんの畑をめぐりながら、関根さんは目に留まった食材を躊躇なく口にしていく。「ん……? これは渋すぎる」というものもあれば、口にした瞬間、目を輝かせるものもある。この日は、島とうがらしの花に、その場で絞ったうこんの果汁、そして何種類ものハーブを収穫させてもらった。

そしてもうひとり、「午後の15時に約束している農家さんがいるんです」と、芳野さんの畑から数分の距離にある、川本恵子さんの畑を訪ねた。川本さんも「やんばる畑人プロジェクト」のメンバーのひとり。「沖縄で皆の100年先を行く生産者と慕われている方なんです」と関根さん。

15時と約束していたのは、川本さんが栽培している球根植物・ジンジャーリリーの花が、午後の数時間しか花を咲かせないからだ。畑に通してもらうと、まさにユリの姿をした真っ白の花を一斉に咲かせていた。関根さんに続いて口にしてみると、いわゆる生姜の味ではない。すっきりと甘い芳香が口いっぱいに広がった。

ジンジャーリリーの花。

花の咲く時間が限られているため、関根さんは、お酒を持参してその場でスピリッツにしたり、持ち帰って砂糖菓子にしたり。その日のうちに魚と合わせて料理することもあるのだそう。そしてもう一つの関根さんの目当ては、研究熱心な川本さんが手塩にかけて育てている、日本名でミズレモンと呼ばれる熱帯フルーツだ。市場に出回ることがほとんどないと言われるそれは、半分に切るとパッションフルーツと見た目は同じ。けれども、パッションフルーツのように尖った酸味はなく、味わったことのない爽やかで奥行きのある甘酸っぱさ。ものすごくおいしい。

宮古島でも栽培されているというミズレモン。同じ品目ではあれど、川本さんが手がけるミズレモンは、全く臭みもない唯一無二の洗練された味わい。

「こんなにおいしいミズレモンは、私も食べたことがなかったですよ」。関根さんがそう言うと、川本さんは「太陽の力を信じているの。光合成で太陽をさんさんと浴びると、自ら糖分を増やしてくれるから。よく『パッションフルーツは、落ちたのを拾えばいい』と言うけれども、ちゃんと手をかけてやったら、それに応えてちゃんとおいしく育ってくれるんよ」と言って、なんともいい笑みを浮かべた。

川本恵子さん(右)。果樹農家となって11年。ミズレモンやジンジャーリリーのほか、マンゴーやマカダミアナッツなども手がける。

川本さんが、大阪からこの名護へと移住し、新規就農したのは11年前のことだ。「果樹農家としては、まだまだよ」と彼女は言うが、珍種で栽培農家の少ないこのミズレモンも、皆が利益の伴う形で栽培できるようにと、日照時間と糖分の関係や面積に対する収穫量など、質のいいミズレモンに育つ栽培方法について細かくデータを取っている。川本さんもまた、それが楽しいのだという。

「大阪にいた頃には、想像すらしなかった喜びですよね。作物を通じて、老若男女どんな人とでもつながることができる。おいしいものが食べられて、余ったら他の人にも喜んでもらって。もう幸せなことだなと思います」

自然に抗わず、喜びに変える。

次の日、関根さんとは十年来の友人で、宜野湾に天然酵母パンの店〈宗像堂〉を営む宗像誉支夫さん・みかさん夫妻のもとへと向かった。翌々週に控えている食のイベントで出す料理の試作をするためだ。二人は厨房に入って手際よく下ごしらえを始め、バットの上に大きく広げたパン生地の上に、石窯で焼いた宗像さん自作のハムに、野菜やカレーリーフなどを載せていく。その上からパン生地を被せ、石窯でじっくり時間をかけて焼き上げるのだそう。

「沖縄の食材から学んだことと言えば、料理と時間の関係かもしれないですね。そのまま食べると味が強すぎる食材も、じっくりと時間をかけて焼いてみると、違う味が引き出せることもあるんです」(関根さん)

そうして焼き上がるのを待つ間も、関根さんと宗像さんは、「これとこれを合わせたら良さそう」などと、愉しげに料理のアイデアを投げかけ合っている。レストランとパン屋とは、業態は違えども、食に対して同じ価値観を共有できる宗像さんは、かけがえのない存在だ。

宗像誉支夫さん(左)と、みかさん(右)。もともと大学院で微生物の研究をしていたという誉支夫さんは、天然酵母のパン作りで名の知れた奈良の楽健寺との縁から、独学でパン作りを始めたのだそう。そこから20年、現在の場所に〈宗像堂〉を構えて17年になる。
https://www.munakatado.com/

「宗像夫妻が大好きなんです。みかさんは、沖縄の太陽のような女性で、誉支夫さんはやっぱり、同じ食に向き合っているぶん、これまでにも自ら体験して得てきた言葉をたくさんくれました。誉支夫さんは、どんなときもブレることがないんです。あるとき『どうして、いつもそんなにフラットでいられるんですか?』と聞いたら、『常に抗えないものが目の前にあるからかな』と言ったんです。そのときは、どういうことなのか理解できていなかったけど、最近になって少し理解できたような気がします。料理で言えば、食材に対して強引にテクニックを押し付けるよりも、受け入れた上で良さを引き出すということなんじゃないかと」(関根さん)

宗像堂、5代目の石窯。代替わりするたびに、改良を重ねてきた。

「自分のパン作り自体が、抗えないものだらけなんですよ。気候、天候、気圧、すべてが日々刻々と変化していく。発酵には欠かせない菌自体、思い通りにはいかないものだし、薪も枯れ具合によって燃え方が違う。何ひとつとしてコントロールできるものはないんだと受け入れて、その中でベストを尽くして潔い仕事をするしかない。それはもう、人生観のようでもあって。変化しつづける環境の中で、どう生きるかということにも通じているんじゃないかなと思います」(宗像さん)

前編はこちらから  >>

「個性豊かな南国食材と向き合う、沖縄の小さな料理店」【前編】

まわりの環境や景色、食材が
自ずと作りたい料理へ導いてくれた

「料理 胃袋」。

一度聞いたら忘れない。印象的なその名前をはじめて耳にしたのは、もう3〜4年ほど前になるのかもしれない。その響きだけで、どんな場所にあって、どんな人が料理をしているのだろうと、自然と想像がふくらんでくる。おいしいらしい、沖縄にあるらしい、女性がひとりで営んでいるらしい、あんまり予約が取れないらしい――そうした噂以上に、この名をつけた女性はどんな人なのだろうと、その人となりに興味を抱いた。

頭の片隅にそうした思いを持ちながら数年が経ち、ようやく〈胃袋〉を訪ねる機会を得た。那覇から沖縄本島の南端、南城市へと車を走らせる。琉球王国最高の聖地とされる斎場御嶽にもほど近い、太平洋を臨む高台に〈胃袋〉はあった。
鬱蒼と南国植物のしげるアプローチを抜けると現われるエントランスには、“胃袋”を象った表札がかかっている。中へ入ると、ひんやりとした漆喰の壁に落ち着いた照明、キッチン側の壁一面の大きな窓が、その向こうの庭の植物たちをスクリーンのように映し出している。周囲の環境自体、観光地である那覇の喧騒からは遠く離れた森閑とした場所なのだが、さらにこの空間が沖縄でも何処でもないような、不思議な錯覚を起こさせた。

〈胃袋〉で出される料理に、沖縄の食材がふんだんに使われていることは話に聞いて知っていたが、それが和食か洋食か、どんな料理なのかは訪れるまでわからなかった。けれど、実際に食したあとの今となっても、ひと口に表現するのはとても難しい。なぜなら、関根さん自身が一つひとつの食材に対して、和食なり洋食なりの手法を当てはめようとはしていないからだ。

「しばらく料理から離れていた時期を経て、やっぱり料理へ戻りたい、店をやろうと心に決めてはいたのですが、どんな店にするのか、どんな料理を出すのかは、まったく決めていなかったんです。でも、この場所でやらせていただけることになって、外の緑があまりにきれいなので壁一面を窓にして。そうしたら、自ずと作りたい料理が浮かんできました」

カレーリーフや数種のバジルをたっぷり載せた鯛の蒸し焼きは、銅の鍋ごとオーブンで加熱し、仕上げにカレーリーフをバーナーで燃やし、煙の香りをまとわせる。これがソースの役割を果たしている。甘く瑞々しい珍種の果物・ミズレモンは、追熟させて低温で長時間焼き(こうすると皮まで食べられる)、ハムとバジルとともに。

この空間で食すこの料理が、関根さんの人となりを物語っている。そう思うと、彼女がなぜ沖縄に暮らすようになったのか、なぜ料理という道を選んだのか、興味は一層ふくらんだ。

しつけの厳しかった子ども時代
海の向こうを旅し続けた20代

関根さんが生まれ育ったのは、東京都の福生市。福生といえば在日米軍横田基地のある町であり、ある意味、沖縄の町にも似たムードを幼少期から味わってきたとも言える。しつけの厳しい家庭に育ち、3歳から中学3年生まではコンクールを目指す本格的なバレエスクールに通っていたため、食事もきちんと管理され、菓子パンにスナック菓子のおいしさを知ったのは、高校生に入ってから。成人するまでは門限も厳しく、グレる暇もなかった。そんな子ども時代の反動からか、若い頃の興味の先は、とにかく大きく開かれた海の向こうの世界。20代は、旅費をためてはアジアを旅してきたが、30歳を目前に、ふと「自分が生まれた日本のことを、まったく知らずにきてしまった」と気づく。そこでまず行ってみようと思い立ったのが、歴史も文化も自分の知る日本とは異なる土地、沖縄だった。当時は、地方の観光事業と関わりのある会社に勤めていたが、退職を機に、沖縄の八重山地方をひとりで旅することにした。

「写真を撮るのが好きで、当時流行っていたポラロイドカメラを2台抱えての撮影旅行のような旅でした。防波堤で出会った戦争体験者のおじいさん、一見するとガラの悪い不良のようで、話してみるとものすごく純粋で屈託のない中学生たち。

行く先々で出会う人は皆、逞しくて、人懐っこくて、やさしい。旅の前に、沖縄のことを知っておきたいと思って読んだ本に記されていた悲しすぎる歴史、苦しい出来事を乗り越え続けてきた背景とは裏腹に、沖縄の人たちの温かい心根に触れて、どうして沖縄の人たちはこんなにやさしく、たくましいんだろうと。それがどうしても知りたくなって、住んでみようと思ったんです」

ちょうど仕事を辞めたばかりで身軽だった、ということもあったのかもしれない。けれど、だからと言って初めて訪れた縁もゆかりもない旅先で移住を決めるというのは、勇気のいることだったはずだ。

「あんまり考えてなかったんでしょうね。深く考えていたら、きっと動けていなかった。もともと場所自体に執着しないほうなんです。どんなふうに生きていても必ず変化は訪れるのだから、その時々の流れに沿って自分の身を置けばいいと、いつもどこかで思っているようなところがあって……。でも今となっては、沖縄には特別な思いがあります」 

自然に即した沖縄での生活
〈胃袋〉の原風景

当時の沖縄では、ウチナンチュ(沖縄の人)の保証人がいないとアパートが借りられないという事情があり、東京でバイトをしながら保証人になってくれる人を探し、1年後にようやく移住することができた。はじめの住まいは、現在の〈胃袋〉のある地域の隣町にあたる大里村。同じ南城市にある沖縄では名の知れた喫茶店、〈浜辺の茶屋〉と〈山の茶屋 楽水〉でウエイトレスのバイトをしながらの生活が始まった。

〈胃袋〉のすぐ近くにある、名水百選にも選ばれた湧水スポット垣花樋川。

「その名前の通り、海辺にある喫茶店でした。面接のとき、オーナーから『ここで暮らすのに時計はいらないよ』と言われたんです。月の満ち欠けと潮の満ち引きで時間がわかる。そんな生活が始まりました。当初、金銭的には決して裕福とは言えなかったんですけど、でもものすごく豊かだったんですよ。

沖縄という土地柄もあって、隣近所やバイト先のまわりなんかに農家さんがいっぱいいるんです。だから、黙っていても方々から野菜がいただけました。ただし、食べきれないくらい、一種類の野菜を大きなビニール袋にどっさり詰め込んで渡してくれるんです(笑)。これを毎日いかに違うふうに料理にして食べるか、というのを試行錯誤するんですけど、それが意外にもすごく楽しかった。ひとつの野菜を、工夫次第でこれだけ違うものに変化させることができるんだと。

それで、野菜をいただいたお礼に何かを買ってお返しする経済力がなかったので、もらった野菜で作ったスープだったり、練り込んだパンだったりをお返しするようになったんです。それをみんな喜んでくれて、また違う野菜をわけてくれるんですよね。当時のそうした記憶が、今の胃袋の原風景なんだな……と、今になって思います」

それまで、特に飲食店の調理場でバイトをしたような経験もなかった。単に生きていく術としての日々の料理が、“楽しい行為”へと変換する。先入観を持たずに、目の前に現れたひとつの食材と対峙するという、現在の彼女の料理への姿勢も、この体験が起点となっていたのだ。

 

変わらない味の先に
変化を受け入れ続ける料理があった。

その後、家族の事情から一度東京へと戻ることになり、その一年後、やっぱり沖縄に戻りたいという思いが募って、再び拠点を沖縄へと移した。そして、友人の誘いで沖縄不在の間に新しくできたというカフェ〈モフモナ〉を訪れたとき、スタッフ募集の張り紙を見つけたことが、次の転機をもたらした。

「オーナーが、いろんなミュージシャンと繋がりのある面白い人で、ライブイベントもよくやっていたのと、カフェというのもあって、面接に来るのは20代の女の子ばかりでした。あとから聞くと、40人くらいの応募があって、私が最年長だったそうで。当時、私は35歳で、オーナーカップルよりも全然年上だったんですよ。年上のスタッフなんて、扱いづらいじゃないですか。でも、なぜか面白がってくれたみたいで、私ひとり採用されたんです」

そうして新しく得たカフェでの仕事は、はじめての厨房担当。現在とは対極的ともいえる、毎日同じメニューを提供するというものだった。

「ミートソースにオムライス。毎日同じ味を提供することの難しさを、そこで初めて知りました。その頃の自分にとっては禅の修行のようでしたけど、『あそこへ行けば、あの味がある』ことの大切さや、みんなに愛される味というのがどういうものなのかも学ぶことができたと思います」

その後、独立して共同経営者とともに宜野湾でカフェを開いたのちに、建物の老朽化により閉店。それを機に料理から離れ、新しくオープンする衣食住にまつわるギャラリーショップ〈Shoka:〉に立ち上げから加わることになった。料理から離れてみようと思ったのは、すぐにやりたいことが内側に湧いてこなかったことと、違う角度から食を見てみたいという思いがあった。

そこから数年。ようやく「料理がしたい」という思いがふつふつと湧いてきた。けれど、まだどんな店にするのかまでは定まっていない。そんな矢先、カフェをしていた頃によく店に来てくれていたという木工作家・藤本健さんのアトリエを店として使わせてもらえるという話が持ち上がった。その1年後の2014年、〈胃袋〉は誕生した。

後編へ続く  >>

異国の地・日本で自信をなくした女性たちと、“目を合わす”料理の力。

“混ざって暮らす”とは
どういうことか?

多様性、ダイバーシティという言葉がひとり歩きするなかで、本当の意味で、多様に生きるとはどういうことだろうと考えた。いろんな背景を持った人がひとつの場所に住んでいれば、働いていれば、それは“混ざって” 暮らしていると言えるのだろうか?

そんなことを考えていた時、ある大学のシンポジウムでこんな考え方に出会った。それは、ダイバーシティ・マネージメントについての研究(谷口真美氏、中村豊氏など)をもとにしたもので、社会が異なるものを受け入れるプロセスは「拒否」→「無視・同化」→「承認」→「違いを活かす」という流れを経るという考え方だった。

違いを受け入れるプロセス

「拒否」は、異なる背景を持つ人に対する『わからない』という感情からくるもので、抵抗の形として表れる。次のプロセス「無視・同化」は、その言葉通り、一緒の場にいるけれど『自分たちには関係がない』というように無視をする状態、さらに『私たちのようにしていなさい』と、同じであることを求める状態のことをいう。次の「承認」は、違いに対し『なるほど、そういうことか』と違いを認め、違いに価値を置くこと。そして、ようやく「違いを活かす」、互いに幸せである状態となるという。

この考えをもとに、つまり同じ場にいても「拒否」したり、「無視・同化」の状態、「なんかいろんな人がいるけど、自分には関係ない」とか「常に私たちと同じように行動してね」という関わり方では、“混ざっている”とは言えないのではないかと考えた。「互いの違いを認める」、さらには「それらを活かし合う社会」という段階になっていてこそ、“混ざって”暮らす社会なのではないかと。

でも実際にそんな社会は実現しているのだろうか? そんなことを考えるなかで知ったのが、SALAを運営する黒田尚子さんのことだった。

アジアの“お母さんたち”が
日替わりで料理を提供するお店

 

神戸のJR元町駅から歩いて3分ほど。神戸元町商店街と関西最大の中華街・南京町との間の路地に、神戸アジアン食堂バル SALAはある。2016年にオープンしたアジア料理を出すレストランだ。このお店がほかと違うのは、アジア出身の女性たちが日替わりでキッチンを任されているということ。

黒田さんを訪ねたこの日は、タイ出身のアサリさんがキッチンで、同じくタイ出身でまだ働き始めて1カ月というセンさんがホールで忙しそうにしていた。11時半の開店後すぐなのに、店内はすでに満席だ。注文したのは、日替わりメニュー「緑なすと豚肉と野菜をホーラパー(タイのバジル)とタイの味噌で炒めたもの」と、タイの鶏料理「カオマンガイ」。どちらもタイのスパイスや調味料が香る本格的な一品だった。

蒸し鶏・揚げ鶏・ラープカオマンガイの「3種類から2種選べるカオマンガイ」は、異なる鶏のおいしさを選べる人気メニュー。パクチーも追加して、本格的なおいしさを味わった。

ここできびきびと働く女性たちは、もともと料理人や飲食店経験者だったわけではない。黒田さんが親しみを込めて“お母さん”と呼ぶ彼女たちは、タイや台湾、フィリピン、中国などから、結婚や夫の仕事の関係などさまざまなきっかけで日本にやってきた。しかし、言葉の通じない日本で社会に溶け込むことができなかったお母さんたち。そんな彼女たちの働く場として、黒田さんは神戸アジアン食堂バル SALAを立ち上げた。

実際に自分の目で見て、確かめて。
「そんな社会に住みたくない」 

「アサリさんなどお母さんに出会ったのは10年前のことで、私が大学生のときです。当時設立されたばかりの、社会起業学科という学科に通っていました」

SALAのお昼の営業が終わった後、まずはお母さんたちとの出会いを聞くと、黒田さんからこんな答えが返ってきた。お店がオープンして3年というが、出会ったのは10年前とはどういうことだろう。その頃のお話から伺っていく。

「絵を描くことや、何かをつくることが好きで、学生時代は、当時学校になかった剣道部を立ち上げたり、一から何かを始めるのが好きでした。ですから “起業”という言葉に惹かれて入学を決めました。でも、そこが社会問題の解決を目指した起業家を育てる“社会起業”学科だとは気づかずに入ってしまったんです(笑)」

なんと痛恨の勘違い。社会起業学科出身という言葉を聞いて、なるほどと頷いた矢先のまさかのエピソードに、黒田さんと一緒に苦笑いする。しかし、その勘違いが、黒田さんをある出会いに導くことになった。

「日々、学ぶのは社会問題。社会にはこんな問題があって、こんなNGOがあって、こんな仕組みがあって……と。でも、いくら授業でそれを聞いても、私は、ぜんぜんピンと来なかったんです。困っている人に会ったわけでもなければ、支えている人の話を直接聞いたわけでもない。何かよくわからなくて……」

そこで黒田さんは、まずは出かけてみようと考えた。ホームレスの問題を調べるために日雇労働者が多く暮らす街に行き、障がいのある人のことを知るために施設を訪問するなど、実際に自分の目で見て、確かめることから始めた。

「そのなかの一つに外国出身の女性たちの生活相談を受けていたNGOがあり、そこで何人かの女性たちに出会いました」

彼女たちから聞く言葉に、黒田さんは衝撃を受ける。

ある女性は、ご主人の仕事の関係で20年近く日本に住んでいるにも関わらず、一人で出かけることができるのは、徒歩10分圏内にあるスーパーだけ。多くの時間、家に引きこもっていたという。

また、別の女性のご主人は日本人で、子どもたちも日本で育ち、みるみる日本語が上達していく。そのなかで日本の社会と関わりの少ない自分だけが取り残されるような、自分自身が小さくなったような感覚を味わい、すっかり自信をなくしていたという。

「10年前の当時、彼女たちの話は“社会問題”としては扱われないような“小さな”問題でした。彼女たちのような人たちがこの街で暮らしていることを誰も知らない。誰も彼女たちと“目が合わない”。“目が合う機会がない”んだと思いました。そして、それではあまりに生きづらい社会だと思ったんです」

何か自分にできないかと考えた黒田さんは、すぐにそのためのヒントを見つけることになる。

「お話を聞いたその日、彼女たちはお弁当を持ってきていたんです。あなたも食べてと差し出されて、いただいたお弁当が本当においしくて。私はそれまで本場のアジア料理を食べたことがなかったので、初めてのおいしさにびっくりしていたら、縮こまり、恥ずかしそうにぽつりぽつりとしか言葉を発しなかった彼女たちが、めちゃくちゃがんばって日本語で料理の説明をしてくれたんです」

料理のこととなると途端にいきいきとし始めたお母さんたち。どんな料理があるのかという話から、だんだんと自国のことについても話しだしたお母さんたちを見て、黒田さんは「これってすごいことだ!」と感じたと言う。

厨房でキビキビと働いていたアサリさん。黒田さんとの出会いは10年前のこと。

「お母さんたちは、自分たちの料理を特別だとか、自慢だとか、そんなふうには思っていませんでした。でも私は、こんなにおいしい料理をつくれるなんてすごいって思ったし、こんなふうにいきいき話す人たちが、たまたま異国に来たというだけで、自信をなくして、いろんなことができなくなってしまう。そんなの嫌だと思いました。誰かが手助けをしたら、環境さえあれば、力を発揮できるはずなのに、自分も含めて誰も気が付かず見過ごされてしまっている、そんな社会にいたくないって思ったんです」

そうして黒田さんは、お母さんたちと一緒に屋台イベントを開くことを思い立つ。1日だけ場所を借り切って、お母さんたちのさまざまな料理をみんなに食べてもらおうと考えたのだ。

「たとえば、台湾出身の游(ゆう)さんには、焼きビーフンを30食つくってくれるようお願いしました。家族以外の人にビーフンを焼いたことがない彼女は、本当に自信がないという表情で、しぶしぶ30食つくることを引き受けてくれました」

黒田さんたち学生チームはチラシをつくり、お母さんたちをサポート。初めてのイベント開催にどんな準備が必要か手探りだったと言いますが、彼女たちの心配をよそに、蓋を開けてみたらイベントは大成功!用意していた料理は午後2時くらいにはすっかりなくなっていた。

私たちが訪れたこの日は、センさんとアサリさんというタイ出身のお二人がランチタイムを担当。ほかにも、外国人支援のNGOから紹介を受け、今では台湾やフィリピンなど、8カ国の人々がこのお店で働いている。

「イベントが成功したのがすごくうれしくて、やったーって喜び合いました。不安そうだった游さんも、焼きビーフンがあっという間に完売したことが、本当にうれしかったようで、イベント前とは全く違ういきいきとした表情になっていて。

このイベントによってお母さんたちも、学生も、一緒に自信をもらうことができたんです。参加してくれたのは、弱い立場にあると言われている人たちでした。でも、あの場では違った。力を合わせてイベントを成功させ、お互いに自信をつけることができたんです」

“お互いに”この言葉に力を込めた黒田さん。学生たちがイベントをやってあげて、それでお母さんたちが自信をつけたのではなく、力を合わせて成功させたことで学生たちも一緒に自信をつけることができた。

「誰もがこんな風に自信を持って生きることができ、互いの価値を認めあえたら、日本全体、社会全体がもっともっと良い世界になるんじゃないか。こんな小さなイベントでこれができるなら、さらに広げていけば、いつか社会を変えることができるのではないか」

このイベントを期に、この思いがむくむくと大きくなっていった。

「ボランティアを商売にするな」

その後もイベントを重ね、大学を卒業後は、お母さんたちが料理を担当する飲食店を開きたいと考えるようになった黒田さん。一方で、もやもやした感情も抱えていたという。

「学生がこうした活動をしているとすごく褒められるんですよ。若いのに社会貢献活動なんてえらいねぇって。でも、それでは違うなぁと思っていて。『学生が人のためにがんばってる、だから料理を食べてあげよう』そう考えてくださる方には、自ずと私達の思いは伝わっていきます。でも、社会貢献活動として関心の高い人にだけに届くのではいずれ行き詰まる。それでは、社会を変えことはできないと思いました」

また、ビジネスマンだったお父様とも口論が続いたという。

「『ボランティアを商売にするな』というのが父の言い分でした。私自身も、このままお店をオープンしてもすぐに潰してしまうのではないかという不安があり、卒業も間際になっていろいろ迷いましたね」

そして、黒田さんは就職しようと決める。それは、お店を繁盛店にするための決断だった。

「本当に社会を変えるためには、まずはめちゃくちゃ流行るお店にして、ビジネスとして成立させなくてはならないと思ったんです。そうすることで、今まで“目が合わなかった”人が、社会貢献とか以前に、おいしいお店、人気のお店として認識してくださる。お母さんたちがつくった料理をたくさんの人に食べていただくことができ、お母さんが自分自身の手でお給料を得ることもできる。お店の背景をお伝えするのはその後でいいと思いました」

そのために圧倒的に足りないのは集客力だと考えた黒田さんは、大手広告会社に就職。飲食店の広告営業担当になり、経営の問題解決などを手伝うなかで、自身でも飲食業に関する知識を得ていくと同時に開業資金も貯え、3年後に念願の『神戸アジアン食堂バルSALA』をオープンする。

お店に反対だったお父様だったが、お店のオープン後は経営をともに支えている。

 

「おいしい」と言ってもらってお金を得る
それが“ここでやっていく”自信になる

SALAのこだわりは、現地と同じ調味料を用いた本格的なアジア料理を提供すること。ランチタイムとディナータイムでキッチンスタッフを交代し、日替わりでアジア各地の味を楽しんでもらうことができる。店の外観や内装にもこだわった。店の中にいると前の小道を通る人が「なんのお店だろう」という表情で、覗き込んでいく。

「料理を食べて『おいしいですね、中に何が入ってるんですか?』と聞いてもらったり、壁の小物や絵を見て、『かわいいですね』とか、『どこの国のもの?』って、話しかけてもらえたら、ヨシって感じで、その国のことやこのお店の背景を話せます。そのためにもいろいろと飾っているんです。お客様の関心事が先にあって、そこから私たちのお話ができるほうが自然に耳を傾けていただきやすいし、結果的に思いが届きやすいと思うんです」

黒田さんの思いを世の中に伝える方法は、ほかにもあったかもしれない。でも、「おいしい」という誰もがうれしくなる感覚を媒体にして思いを伝えることは、「結局、何よりも早く、多くの人に伝わるのではないか」と黒田さんは言う。

調味料は主に南京町にある輸入食材店で揃える。同じアジア料理でも、国ごとに用いる調味料が違うため、キッチンにはさまざまな調味料が並んでいる。

でも、実際の経営は思ったよりもずっと大変だったと黒田さん。今では毎日たくさんの人が訪れるSALAだが、この3年の間には、何度も閉店の危機があったという。そんななか、どうしてがんばってこれたんですか?と伺うと、黒田さんはさらりと、でもきっぱりとした口調で言う。

「このお店がなくなってしまったら、お母さんたちの働く場所がなくなってしまう。だから絶対に潰すわけにはいかないんです。自分の国の料理を食べてもらい、お客様においしいですと言ってもらえる。働く場所ができて、自分自身でお金を得ることができる。それが、お母さんたちがここで(日本で)やっていく自信につながっています。そういう様子を見ていたらこちらも元気をもらうんです。毎日お店に来るとがんばろうと思える。お客様に気づいてもらうため、また来ていただくために、何ができるかばかり考えてやってきました」

そんな話をしていると、台湾出身の游(ゆう)さんがお店にやってきた。メリケンパークで行われているイベントに買い物に行く途中だという。私たちが黒田さんに話を聞きに来たと知ると、「こんどの土日のイベント、もしよかったら来て。お店でいつも出しているビーフンとはぜんぜん違った味のをつくるから。そっちも絶対においしいよー。来てねー」そう言って、帰っていった。

30食つくるにも自信がなかったなんて想像がつかないほど、明るく朗らかな游さん。

「最初の一歩を踏み出すお手伝いをするだけで、その人がもともと持っていた大きなパワーを発揮するというのを私は何度も見てきました。ちょっとしたお手伝いで、人はぐっと変わることがあります」

という黒田さんの言葉に深く頷いた。

お友達と一緒にお店に立ち寄った游さん。オープン準備や後片付けの時間は、最近あったこと、今の悩みなどを話す楽しい時間。「おしゃべりは止まりませんね。手さえ動かしていればOKなんで」と、黒田さんは笑う。

自分とは違っていたとしても
まずは“理解”すること

店の壁に描かれたフィリピンのアーティストCecilleさんの絵には、SALAのコンセプトである「Empowerment of all people」(お互いの価値を認め合い、自分の価値も認められる社会に)という思いが込められている。

そうはいっても、異なる文化背景を持った人と一緒にやっていくとき、困ったことや意見が食い違うことなどはないのだろうか? そう伺うと、お店での例を教えてくれた。

「お客様の残されたお料理を持ち帰るスタッフがいたんですね。それは日本の飲食店ではダメなんだって話をしました。でもただダメと伝えるだけでは、何故かわからないし、反発がある。だから、そういうときは、あなたの国ではどんなふうなの?って彼らの暮らしや、文化を聞くようにしています。そのうえで、でもね、日本ではこういう理由でダメなんだよと。そうすると、なぜ彼女が持ち帰ろうとしたのか、その背景を理解できるし、彼女も日本の考え方に耳を傾ける。大切なのはそうしたコミュニケーションだと思います」

食べ物や宗教など大事にしたいことが、みんなそれぞれにある。だから、さまざまな文化や価値観の人が集まった時、ただ仲良くなるというのは難しいと黒田さん。でもだからこそ、相手が大切にしているものやことを、自分とは違っていて共感はできなかったとしても、まずは“理解”することだという。

黒田さんの言葉や、働いているお母さんたちの様子に触れて、社会が異なるものを受け入れるプロセス「拒否」「無視・同化」「承認」「違いを活かし協働する」を思い出した。黒田さんは、まさに、「互いの違いを認める」「それらを活かし合う」を体現する場をつくっているのではないかと思ったのだ。

同時に、意識的に「拒否」したり「無視」するつもりはなくても、結果的にヘルプを求める人と“目が合う機会がない”まま暮らしていたり、「自分とは関係ないかな」と、そうした人について想像することができず、素通りしてしまうことがあるのではないかと考えた。

黒田さんは、そんな “目が合わなかった”人同士がお互いを活かしあう場をつくっている。

お母さんたちはここで自信と笑顔を取り戻し、SALAを訪れる人たちは、料理のおいしさを通して異なる文化の豊かさに触れ、お母さんのような存在に気づくことができるのだ。

この日、黒田さんの母校の学生たちが、お茶で煮込んでつくるゆで卵「茶葉蛋」のつくり方を教わりにやってきた。学生たちのような若い人たちとの交流も、思いを伝えることにつながっていると黒田さん。

最後に黒田さんはこんな話をしてくれた。

「最近、私自身で取り組んでいることもあるんですよ。新しいデザートの開発です。3年間、お母さんたちの料理をどんなふうにおいしく提供するかを考えてきました。それはもちろんこれからも続くのですが、この間お店の前のワゴンにイラストを描いていて、あぁ私こういうの大好きだったって思い出して。今度は私の番かなぁって思っています。3年経ちましたから、また新しい取り組みをスタートさせていきたいです」

お店に伺ったのは、お昼ごろだったのに、いつの間にか外は暗くなっていた。店の前で明るく手を振って見送ってくださる黒田さんから温かいものを感じた。黒田さんは、自分のやり方で、お母さんたちの、そして自分自身のエネルギーを生み出している。

身の回りをくるりと見渡してみること。それだけで目が合う誰かがいるかもしれない。もし目が合う誰かがいたら。そのとき、ほんの少しでも、お手伝いすることが私にもできるだろうか? そんなことを感じながらお店をあとにした。


取材・文:小谷実知世
こたにみちよ/ライター・編集者。京都市生まれ。大阪、東京を経て、現在は神奈川県・逗子市在住。インタビューをするなかで、話す人のおなかの中にある思いが溢れてくる、その瞬間に出会うのが一番のよろこび。写真家・田所瑞穂さんとのユニット、khorlo(コルロ)において、『ヨミモノコルロ』を発行中。


 

複雑な色で成り立つ社会のなかで。 想像しながら、生きていく。

私たちが今立っている場所は

多様性、ダイバーシティという言葉が街に溢れ、最近は、インクルージョン(包括・包含)という言葉も聞かれるようになった。

日本に住む外国人は、2019年度の総務省の人口動態調査によると、約266万人と過去最多を更新(ちなみに名古屋市の人口は約230万人)。東京都では20歳代の10人に1人が外国人だという。2019年4月には改正出入国管理法が施行され、外国人の数はさらに増えていくことが予想される。

また、me too運動の盛り上がりにより、さまざまな女性の声に焦点があたり、性的指向やジェンダー・アイデンティティを表す言葉として生まれたLGBTという言葉は、さらに多様な人々を表現するため、LGBTQIA+と、文字を増やしている。

こうした時代の流れは、とてつもなく早くて、明日にもまた、新しい言葉が生まれるかもしれない。私たちは今、そういう社会を生きている。

どんどん生まれてくる言葉や、数字や現象が表すのは、私たちが関わる人や社会が “複雑”になってきている、ということではないかと思う。あるいは、そのことに目を向けはじめた、ということかもしれない。これまで一色だと感じていた家族が、町内が、会社が、街が、もっとさまざまな色合いで成り立っているということに。それには、時代の潮流やSNSの普及も後押ししているだろう。

 

そうして私たちは今、「誰もが自分らしく生きるには?」「みんなが混ざって暮らすには?」を考える、出発点に立っているのではないだろうか。

ここからの道のりは、ワクワクするようなエネルギーを含みながらも、同時に戸惑いや面倒に感じることも生じさせるだろう。なぜなら、異なる文化や考え、思いを持つ同士が、ともに歩むことになるからだ。

そんな時、手がかりとなるのは、想像する力、想像できるだけの交わりや情報ではないかと思う。

だから、この道のりの先を行き、「誰もが自分らしく生きる」「混ざって暮らす」ことに向き合い、場をつくる人たちから、想像する力や想像できるだけの情報を得るための知恵や術を教えてもらいたいと思う。

戸惑いがあっても、時間がかかっても。
想像しながら、生きていく。
それはきっと、これからを生きるうえで、とても大切な力になると思うのだ。


取材・文:小谷実知世
こたにみちよ/ライター・編集者。京都市生まれ。大阪、東京を経て、現在は神奈川県・逗子市在住。インタビューをするなかで、話す人のおなかの中にある思いが溢れてくる、その瞬間に出会うのが一番のよろこび。写真家・田所瑞穂さんとのユニット、khorlo(コルロ)において、『ヨミモノコルロ』を発行中。


 

誰もが自分のルーツに自信を持てるように。外国人とまちの人との接点を生み出す。

雲南に恩返しをするため、
Iターンを決意した

雲南市の中心部・木次町(きすきちょう)の日登(ひのぼり)地区。十数段ほどの石段を登った先に佇む古民家が「うんなんグローカルセンター」の事務所兼「多文化カフェSoban」です。カフェは気まぐれ営業ですが、定期的に多文化に触れ交流できるイベントを開き、雲南で暮らす人々が気軽に立ち寄れるようにしています。

李さん・芝さんは国際結婚。李さんはソウルで生まれ育ち、移民女性をサポートする団体で働いていました。芝さんは横須賀出身で、2002年に日本語教師として韓国へ。ふたりは韓国で出会って結婚し、2012年、李さんが雲南市の国際交流員に採用されたのを機にこのまちへやってきました。

国際交流員とは、地域の国際化を進める地方公共団体が招聘する人材で、任期は最長5年。イベントの企画などを通してまちの人々にあたたかく受け入れられた李さんは、「雲南に恩返しがしたい」と思うようになり、そのまま雲南に残り、芝さんと市民団体を立ち上げました。

「雲南には、外国出身者が生活の情報を得たり地域の人たちと関係を築いたりできる場所がありませんでした。自分は国際交流員という立場だったのでさまざまなサポートが得られましたが、日本語が読めない、日本の制度がわからない、頼れる人がいないという外国人はたくさん困りごとがあるはず。彼らをサポートして、雲南がすごくいいまちだということを知ってもらえたらと思ったんです」(李さん)

20186月、ふたりは市民団体を発展させて「うんなんグローカルセンター」を設立。雲南市から多文化共生事業を受託し、さまざまな形で外国人市民の暮らしを支えています。

多文化カフェSobanでの食を通じた交流会の様子。

外国人が自分らしく活躍できたら、
地域に豊かさが広がる

では、雲南に住んでいる外国人って、どんな人たちなのでしょう?

「現在、雲南には18カ国222人の外国籍の人たちが住んでいます。多いのは中国人、フィリピン人、ベトナム人。そのうち半分は技能実習生、残り半分が私たちのように国際結婚した人たちですね」(芝さん)

技能実習生は縫製工場や酪農場などで働いていて、市内のあっちにひとり、こっちにふたりと点在しています。自家用車もなく、仕事も土日休みとは限らないので、地域との接点を持ちづらいのだそう。

「地域のお祭りがあっても自分たちが参加していいものかわからない、地域の人も気になっているけどなんて声をかけていいのかわからない。お互いに迷っているんですね。でも、一度接点ができると、“外国人と日本人”ではなく、“誰々さんと誰々さん”の関係になって、声をかけ合うようになるんです。雲南の人は仲良くなってしまえばすごく親切ですから」(李さん)

うんなんグローカルセンターでは、技能実習生を受け入れている事業所に外国人向けの防災訓練を提案したり、島根県が行う日本語学習プログラムを提案したりしながら、事業所と実習生、さらに地域の人との関係性をつないでいます。

地域の人を巻き込んで、Sobanの奥に多文化図書室をつくっているところ。

地域自主組織で行われた外国人技能実習生との防災交流会。

また、国際結婚の場合、見た目の違いから配偶者や子どもが奇異な目で見られることがあります。そこで、うんなんグローカルセンターに集う外国出身者8人で多文化チームを組み、市内の小中学校で「多文化教室がやってきた!」という出張授業を行っています。チームのメンバーや保護者が自分の国の文化を紹介したり、給食にその国の料理を取り入れてもらったりしながら、多文化共生の大切さを伝えるという内容です。

「生徒たちからも好評で、アンケートに『外国人が怖い、英語は嫌い』と書いていた子が、『みんな同じ人なんだとわかった。これから街中ですれ違ったら挨拶しようと思う』『いろんな国のことばを覚えたい』と変化するんです。実際、積極的に挨拶してくれていますね。外国にルーツを持つ生徒も、お友達が自分の国に関する授業や料理を喜んでくれると、自分のルーツに自信を持つことができるんですよ」(芝さん)

「楽しい」や「おいしい」を起点に、クラスメイトや同じまちで暮らす外国人の背景への興味や親しみが生まれていく。自然な形で“違う”ことは悪いことでなく、むしろ楽しいことという意識が育ちそうです。

市内の小中学校で定期的に実施している多文化給食の様子。大人にも提供してほしい……!

学校以外でも、外国人同士がつながる場、地域の人もU・Iターン者も外国人も関係なく一緒に楽しめる場など、多様な交流の機会をつくっています。

その一例として、多文化チームのメンバーのひとりで、タイ人のダルニーさんに母国の伝統芸能であるタイ舞踊を踊ってもらう・教えてもらう会を開いたことも。普段は介護施設で働いているダルニーさんですが、実はプロのタイ舞踊家。そのしなやかで美しい踊りには喝采が上がり、小学生の息子さんが「タイの楽器をやりたい」と言いはじめたそう。

「母国以外の国に行くとどうしても職業選択の幅が狭くなるから、母国では専門的な職業に就いていた人、すごいスキルを持った人が埋もれていたりするんです。そういう人が自分の特技を発揮できる機会をつくれば、地域に豊かさが広がるでしょう。ダルニーさんも、まちの人が喜ぶ姿を見て『本当に嬉しいことだ』と話していました」(李さん)

地域の人にタイ舞踊を教えるダルニーさん。

 

子どもが授業についていけず
人知れず悩む状況を無くしたい

言葉のサポートも大事な仕事のひとつです。うんなんグローカルセンターでは、日本語が苦手な外国人に向けて、病院や市役所への同行・通訳、訪問型日本語教室へのマッチングのお手伝いなど、幅広い支援を行っています。後者は日本語学習を希望する人の元にボランティア講師を派遣するという島根県の事業で、運転免許を持っていない人や技能実習生はとても助かっているそうです。

子どもに対しては、教育委員会が幼稚園・小学校と連携し、就学前に外国にルーツのある子を把握。保護者と意思疎通を図りながら、必要に応じてうんなんグローカルセンターが日本語指導員を派遣しています。こうすることで、「小学校の授業についていけない」「友達と意思疎通ができない」という状況を未然に防いでいるのです。

「家庭で日本語を使っていないと、小学3、4年生になってから語彙力に大きな差が現れます。そうなってから追いつくのはとても大変。外国籍の生徒には先生も気をつけてくれますが、日本で生まれ育っているけれど親が日本語を苦手としている生徒は見落とされがちです。ある程度のコミュニケーションはできるし、生徒もわかっているふりをしてしまうから。担任の先生だけで対応するのは限界があるので、日本語指導支援員がサポートするんです。

また、保護者にも日本の教育システムや習慣を伝え、学校で配布される資料を読むお手伝いなどをしています。家族の都合優先で1カ月学校を休ませたり、遠足などのときにお弁当をつくってこなかったり、ということが往々にしてあるんです。文化や考え方が違うだけなので保護者に悪気はないのですが、困るのは子どもです。多方面からのアプローチが必要ですね」(芝さん)

私たちの挑戦を、
行政や地域の人たちが後押ししてくれる

それにしても、雲南にIターンをして数年のふたりが、こんなにも幅広く手厚い支援の数々を担っていることに驚きました。そう伝えると、李さん・芝さんは「行政や地域の人たちの力添えがあったおかげです」と口を揃えました。

「就学前支援については、最初私たちが3カ月ほど幼稚園にボランティアとして入り、日本語指導をしたんです。小学校入学前に着実に日本語力を積み上げることができたので、その効果と必要性を幼稚園と小学校から教育委員会に伝えてもらいました。市職員のみなさんも、外国にルーツのある子どもたちがそれまで見えない困難を抱えていたことを知って、『雲南は子どもにやさしいまちを目指しているのに、いまのままじゃだめだ』と、翌年には就学前支援を市の事業にしてくれました。本当に、心ある方々ばかりなんですよ。小学校では、ひとりの生徒のために教育委員会の方や先生など何人もの大人が集まって、『どうしたらこの生徒が健やかに学べるか』を真剣に考えてくれるんです。こんなまち、なかなかないと思います」(芝さん)

雲南市役所で開催した外国人市民の声をきく意見交換会の様子。

うんなんグローカルセンターの拠点は、雲南市が行う「スペチャレ」制度から200万円の融資を得て改装・整備しました。

ほかにも、この特集内で紹介してきた地域自主組織が技能実習生と交流会を開いたり、中高生が認定NPOカタリバや教育委員会のサポートを得ながら、多文化共生をテーマにした学習をしたりと、雲南市では多くの人が「外国にルーツのある人たちも幸せに暮らせるまちにしよう」という意識を持って動いています。

「私たちがこうして活動できているのも、コミュニティナースの矢田明子さんをはじめ、さまざまな方がチャレンジの渦をつくり、あるべき姿を示してくださったからです。だから私たちは、その背中を追いかけることができました」(芝さん)

挑戦する人がいて、それを力強く応援する人たちがいる。雲南でチャレンジの連鎖が起きる一番の理由なのかもしれません。

今回、うんなんグローカルセンターの取り組みを知って、こんな場所がどのまちにもあったらいいのに、と思いました。同じような困りごとを抱えている外国人や外国にルーツのある子どもたちは、全国にたくさんいるはずです。何よりも、開催されているイベントがどれもとても楽しそう。日本人同士でも、考え方や趣味嗜好、大事にしていることは人それぞれ異なるもの。お互いの違いを受け入れ、楽しむ文化が浸透したら、誰にとっても暮らしやすいまちになるのではないでしょうか。

※この記事は、一般財団法人澄和によるジャーナリスト支援プログラムの採択を受けて取材しました。

 

さまざまな人が混ざり合い、助け合うまちを目指して。耕作放棄地を再生した茶畑で障害者が働く「尺の内農園」

高齢者も障害者も、地域の中で暮らせるように

あおぞら福祉会は、1990年から雲南で活動する社会福祉法人です。子どもたちが地域の田畑や里山で泥んこになって遊び育つ保育園や学童クラブ、高齢者が自分の力を活かして暮らすためのグループホームにデイサービス、障害者向けの生活介護事業所などを幅広く経営しています。

あおぞら福祉会が経営する「あおぞら保育園」

「保育園を始めたのは母親で、高齢者向けのサービスは僕が東京から雲南に帰ってきて立ち上げました。昔は認知症になったお年寄りは『人様に迷惑をかけるといけん』と家の中に閉じ込められていて、障害者は山奥の施設に集められ、地域の人と関わらずに暮らしていたそうです。

でも、1994年に認知症になった方々がお互いに助け合いながら自分らしく暮らすグループホームが出雲にできて、その取り組みに感銘を受けたんです。雲南でも取り入れようと地域の家庭をまわって声をかけたら、最初はご家族の方に『迷惑になるから』と遠慮されました。それでも、『それが僕らの仕事なので大丈夫です』と説得して、1998年に認知症の方に向けたデイサービスを始めました」(森山さん)

あおぞら福祉会の森山さん。

養老孟司と宮崎駿の対談を収録した『虫眼とアニ眼』という本に、宮崎駿が“理想のまち”として描いたスケッチがあります。緑いっぱいのまちなかを子どもたちが走り回り、お年寄りも元気なうちはまちのために働く。ホスピスは保育園に隣接していて、園児が病室に遊びにやって来る。子どもは子ども、高齢者は高齢者、病人は病人と分けず、さまざまな人が混ざり合い、力を合わせて助け合いながら生きるまち。森山さんは、こんな風景を雲南につくりたいのだといいます。

森山さんの提案により、雲南市立病院の一角につくられた「カフェひだまり」。あおぞら福祉会を含む4つの福祉事業所が交代で運営し、障害者の働く場となっています。

「そのスケッチには描かれてなかったけど、障害者も同じように地域の人と一緒に働いて暮らせたらもっといいですよね。地元の人たちからの要望もあって、2012年に障害者の生活介護事業所と相談支援事業所を開設しました。

さらに就労支援事業所もつくりたいな、と思っていたときに舞い込んできたのがぶどうの話です。雲南に工場を持つある大手メーカーの会長が、『寄付をするから、障害者が働くぶどう園とワイナリーをつくれないか』と雲南市に提案してくださったんです。雲南のまちづくりを熱心に応援してくださる方で、ほかの地域で社会福祉法人がワイナリーを経営して成功しているのを見て参考にされたようです。よく大企業が障害者福祉を支援する取り組みをしているけど、一過性のものも多いと聞きます。そういうものじゃなくて、障害者が自立して暮らしていける仕組み、ちゃんと稼げる仕組みをつくりたいとずっと考えていたそうです」(森山さん)

尺の内農園のぶどう園。ぶどうが収穫できるのは2022年の見込み。

よそ者の提案を
柔軟に受け入れる懐の深さ

この提案を受け、雲南市が最初に立てた計画は、1.5ヘクタールのぶどう園を造成し、ワイナリーを建てるというものでした。その話を耳にして「待った」をかけたのが、たまたま雲南を訪れていた健一自然農園の伊川健一さんです。19歳のときから20年近く奈良でお茶を自然栽培し、農福連携にも取り組んできた伊川さんは、この計画にいくつか疑問点を感じたといいます。

健一自然農園のお茶は人気が高く、海外へも輸出されています。特に、無農薬・無肥料で3年以上成長させた茶の木を茎ごと刈り取り細かく刻んでつくる「三年晩茶」はカフェイン量が普通の緑茶の1/8〜1/10ほどで、妊婦でも安心して飲めると話題を呼んでいます。

「まず、豊かな山を1.5ヘクタール分も削るというのがもったいないですよね。雲南市内には耕作放棄地がたくさんあるから、そっちを再生・活用することを考えたほうが自然です。それに、そんな広さのぶどう園を管理することが障害者の方々にとって良い就労になるかわからない。醸造所をつくるにはさまざまな機材も必要です。数年経ってぶどうが実ったけれどワインに合わなかった……なんてことになったら目も当てられません。せっかくの想いを無駄にしないよう、本当に障害者の方々のためになって、経営的にも見通せる計画にすべきだと感じました」(伊川さん)

伊川さんの意見を聞いた雲南市政策企画部の佐藤部長が発したのは、「じゃあ君、新しい計画案を練ってみてくれないか」という言葉でした。

「過去に別の地域で、同じようにほんまに大切だと思うことを言って行政を出入り禁止にされたことが何回かあったんですよ。『言ってることは正しいけど受け入れられない』って。でも佐藤部長は、初めて会ったよそ者の口出しを真剣に聞いてくれて、計画案を提出したら、すぐに市長さんや副市長さんに話をつないでくれました。雲南市は柔軟で懐が深いまちだって聞いていたけど、日本の雛形になるような取り組みができる地域やなと直感しました」(伊川さん)

青々と茶葉が生い茂る尺の内農園の茶畑。

そこで、伊川さんが描いた案は次のような内容でした。

「ぶどう園は最小限の面積で始めて、醸造は雲南市内にある奥出雲葡萄園にお願いする。ここは良質なワインをつくっているすばらしいワイナリーですが、ぶどうが足りてないんです。ぶどうの供給量が増えれば、奥出雲葡萄園の売り上げにも貢献できる。

そうやってまずは『いいぶどうをつくったら奥出雲葡萄園が買い取ってくれる』というスキームをつくって、地域の人たちにも耕作放棄地を開墾してぶどうを植えてもらう。障害者の方々が管理や収穫の手伝いをすれば、地域の人との関わりも日常的なものになりますよね。1.5ヘクタールのぶどう園に自分たちだけで閉じこもるよりずっといい。でも、ぶどうが実るまでには数年かかるし、冬場は暇になります。その間の仕事や収入源として、お茶をつくる。僕が奈良でつくっている三年晩茶の製法なら初期投資も少なくて済むし、冬場に作業するからちょうどいいと思いました」(伊川さん)

雲南市木次町にある「奥出雲葡萄園」の醸造所。尺の内農園で収穫したぶどうの半分を奥出雲葡萄園のワインとして買い取ってもらい、半分は尺の内農園ブランドのワインとして醸造してもらう予定。

昼夜の寒暖差が激しい雲南は、もともとおいしいお茶のできる産地でした。しかし、現在では専業農家は激減し、市内のあちこちに耕作放棄された茶畑が残されていました。数年放置されると残留農薬が無くなるため、自然栽培のお茶として育てることができます。伊川さんは、これを活用しない手はないと考えたのです。

「僕自身、奈良で培ってきた茶園づくりのモデルを、ほかの地域に移植できないかと考えていたんです。でも、新しいことを始める人に協力的じゃないまちでやってもうまくいきません。雲南なら、あおぞら福祉会が育んできた関係性もあるし、いいお茶ができたら行政のみなさんは絶対にバックアップしてくださる。『ここなら絶対うまくいく』と確信を抱きました」(伊川さん)

伊川さんが初めて雲南に来たのが2017年の8月。その後すぐに計画案がまとまってぶどう園の造成や茶工場の建設が進み、翌年の201812月には「尺の内農園」が開園となりました。

「すごいスピードですよね(笑)。最初にぶどうの話が出たときは、作業の一部をお手伝いできたらいいな、という程度だったんです。でも、伊川くんの構想を聞いて、『それなら一緒にやりたい』と運営主体になる決心をして。あれよあれよという間に、いまの形になりました」(森山さん)

微生物豊かな土壌でのびのび育った茶葉と茶樹を刈り取り、地域の薪火で焙煎した尺の内農園の三年晩茶。2019年12月より本格的に販売を開始。雲南の道の駅や商店のほか、オンラインショップでも購入できます。

 

季節ごとのお茶会やお茶摘みで、
地域の人との“関わりしろ”をつくる

尺の内農園の面積は、ぶどう園が2500平米、茶畑が3000平米。茶畑では、あおぞら福祉会の職員と障害を持つ人たちが協力して収穫し、茶工場で焙煎しています。また、雲南市加茂町の砂子原茶業組合が管理する既存茶園の茶葉を収穫させてもらい、和紅茶に加工することもしています。

「森山さんが、『利用者の月ごとの仕事を表にしたら、ちょこちょこと手が空く時期がある』と言うんですね。それで、合間合間につくれる和紅茶もやりましょうと提案しました。試しに茶葉を摘んで紅茶を淹れてみたら薫り高くまろやかで、『これは勝負できる』と思いました」(伊川さん)

尺の内農園の茶工場。

焙煎には地元の間伐材を使用。里山保全につながる取り組みです。

尺の内農園の和紅茶。「紅茶って口の中に渋みが残るから苦手だったけど、20代のときに自然栽培の茶葉で紅茶を淹れてみたらおいしくてびっくりしました」と伊川さん。

尺の内農園の取り組みは始まったばかりで、まだ “障害者が自立して暮らせる仕組み”が実現したわけではありません。けれど、ふたりは口を揃えて「将来的に可能性はある」と語ります。

「自然栽培の三年晩茶と和紅茶は普通の緑茶より収益性が高いし、安定して売れるようになれば地域の人を雇うこともできます。人手が増えれば茶畑は増やせるし、観光農園化できる。雲南のように幸せなコミュニケーションが広がっている農福連携の事例はまだあまりないので、視察の受け入れをしたり、ほかの自治体にノウハウを伝えたりもできるでしょう。いろいろな形で仕事をつくっていけば、実現できると思っています」(伊川さん)

2019年3月に開いたぶどうの植樹祭と交流パーティには、地域の人々40人が参加しました。

一方、地域の人との交流は少しずつ進んでいます。植樹祭では子どもたちがぶどうの木を植え、茶葉の刈り取りの時期は長年お茶栽培に取り組んできた地域のお年寄りたちが協力してくれたそう。今後は季節ごとに地域の人を招いてお茶会を開いたり、お茶摘みやぶどうの収穫を手伝ったりしてもらうことも計画しています。

子どもも大人も障害者も一緒になって働き、笑い合う。森山さんたちが思い描いた風景が日常のものとなる日は、そう遠くないかもしれません。

※この記事は、一般財団法人澄和によるジャーナリスト支援プログラムの採択を受けて取材しました。

 

地域を生きた教材として、子どもが学び成長していく。雲南から始まる新しい教育のかたち

「公教育の魅力化」と「不登校支援」
ふたつの事業で雲南の教育現場を変える

まずは簡単に、背景の説明を。雲南市は中山間地域にある人口4万人弱のまちで、高齢化率は36.5%。日本の25年先を行く課題先進地と言われています。苦境に際し雲南市が見出した活路は、住民のチャレンジを応援し、課題“解決”先進地となることでした。

そこで、まちの将来を担う子どもたちにオリジナルで質の高い教育を提供し、地域の課題を解決できる人材を育てようと、カタリバが誘致されました。カタリバは、学校に多様な出会いと学びの機会を届け、社会に10代の居場所と出番をつくる活動を行う認定NPO法人。全国各地でユニークな教育プログラムを展開しています。

雲南市温泉地区の廃校を活用した「おんせんキャンパス」。

2015年、カタリバと教育委員会は教育支援センター「おんせんキャンパス」を開設し、「公教育の魅力化」と「不登校支援」というふたつの事業を始めました。鈴木さんは教育魅力化コーディネーターとして市内の高校に出入りし、池田さんは市内の不登校児童生徒のサポートを行っています。

それまで雲南とは関わりがなかったというふたり。なぜ雲南に来て、こうした事業に携わることを決めたのでしょうか。

カタリバの鈴木隆太さん。

「僕は大学時代にカタリバでインターンをしていて、4年生のときに東日本大震災の支援で宮城県の女川に行きました。職場体験プログラムのコーディネートを担当したのですが、女川は甚大な被害を受けた地域なので、職場なんてないんですよ。でも、地域の人たちは『復興していく様子を子どもたちに見せたい』と話していて。

僕自身は東京で生まれ育って、まちに対する思い入れはそれほどありませんでした。女川に来て、子どもが育っていくまちのこと、教育のことに思いを持っている大人がたくさんいることを知って、『いつかこういう人たちと仕事がしたいな』と思いました。それがいまの仕事の原体験になっています。

大学卒業後は一般企業に就職したのですが、3年経った頃にカタリバで働いていた友人から『雲南に拠点をつくるからやらないか』と誘われ、転職・移住しました」(鈴木さん)

カタリバの池田隆史さん。

「僕は元々、新潟で中学校の教員をしていました。担当している生徒の中にも不登校の子がいて、いつも『教師として何ができるだろう、そもそも自分との関わりだけで本当にいいんだろうか』と自問自答していました。学校がすべてじゃないし、もっと多様な学びの場があってもいいんじゃないかと。

一方、僕自身忙しさから体調を崩してしまって。休養中に、学校外で教育に携わっている方々に出会い、『こういう人たちと学校が協働できればいいのに』と強く思ったんです。それがきっかけでカタリバに転職し、岩手県の大槌町で放課後の学習支援をしていました。程なくして雲南で不登校支援事業を立ち上げると聞き、迷わず雲南に移住することにしました。自分が一番取り組んでいきたいテーマだったから」(池田さん)

地域の中に自分の“出番”を見つける

鈴木さんは雲南市内の高校で週に1〜2回行われる「総合的な探究の時間」を担当しています。これは生徒が自ら課題を発見し、解決に向けて探究することを促す授業です。

通常の授業や部活動の指導だけでも忙しく、常に時間に追われている教員には、子どもを地域とつなげるようなことまで手が回りません。そこで、鈴木さんがこの授業を受け持ち、子どもの興味に合わせてさまざなジャンルの人や物事を紹介しているのです。

探究の時間は、まず地域の大人を80人ほど学校に呼び、「トークフォークダンス」を行うことから始まります。フォークダンスのように大人と生徒が輪になり、11で数分間対話することを繰り返します。生徒は自分がいま何に興味・関心があるのかを話し、大人はそれに耳を傾け、質問やアドバイスをします。こうしたワークを通して生徒は自分自身を掘り下げ、探究の時間で取り組むテーマを決めます。

探究は4人1組のチームで行いますが、授業時間内に終わらないこともしばしば。そこで週に1度、希望するチームが課外活動を行う「放課後チャレンジラボ」を開催。この中で地域の人を呼んでディスカッションをしたり、まちに出て調査したりします。

「雲南の人たちはとても協力的で、農林業に関心のあるチームが森林バイオマス事業に取り組む『グリーンパワーうんなん』の現場に行ったときは、おじさんたちがノリノリで準備してくれていました。間伐体験など普段できないような体験をさせてもらい、なぜ雲南で林業が栄えたのか、歴史を遡って教えてくれて。生徒たちは『何もないと思ってたけど、すげえじゃん雲南!』と、地元の価値を見直していました。

医療福祉をテーマとするチームは、雲南で訪問看護を行う『コミケア』が開く健康サロンに参加させてもらったんですが、おじいちゃんおばあちゃんは『孫が来た』と大喜び。看護師を目指していたある生徒は、『地域の中で医療に携わることもできるし、いまの自分でも役に立てることはあるんだ』と気づいてハッとしていました。そうやって地域の中に自分の“出番”を見つけるんです」(鈴木さん)

雲南市には、ふるさと納税を使って中高生のプロジェクトを支援する『雲南スペシャルチャレンジ』という制度があります。この制度に応募するチームも現れ、実際に多文化共生について活動するチームの生徒は韓国へ研修に行きました。

「韓国の先進事例を見てきた生徒は、『雲南も多文化共生に取り組んでいるけど、道路標識や公共機関のサインなどハード面はまだ全然追いついていないし、外国人が地域に参画できる仕組みが必要だよね』と話していました。これから市に具体的な提案していくそうです。

生徒が学校の外に出て学びや気づきを得て、それをまた学校の中に持ち帰って探究していく。それも世界と比較しながら。ダイナミックでおもしろい教育の循環が生まれていると思います」(鈴木さん)

こうした取り組みによって、市が行ったアンケート調査で「ふるさとが好き」と答える高校3年生の割合が、3年間で67%から92%へと増加。また、中学生の市内高校進学率が2年で60%から68%に上向きました。

「これまで、意識の高い子ほど市外の高校へ進学する傾向があったんです。でも、高校の魅力化に取り組んだことで、好奇心旺盛で物事に積極的に取り組む子たちが地元の高校を選ぶようになった。これは大きな希望だと捉えています。

市内には大学がないので、高校卒業のタイミングで市外に出て行く子は依然として多いですが、卒業生に高校の授業に関わってもらうこともしていて。『雲南はおもしろいから関わっていきたい』と、イベントや休みの度に帰って来てくれています。ゆくゆくは彼らの中から、未来の雲南の担い手が生まれるかもしれません」(鈴木さん)

不登校の時期を通して、
子どもが自分を見つめ直す

 

一方、池田さんは、カタリバの拠点であるおんせんキャンパスを中心に、不登校の子どもたちをサポートしています。ここでは対話形式の授業を行うほか、家から出られない子どもに対しての家庭訪問や、学校には行けるけれど教室に入れない子どもに学校の保健室や相談室を使って勉強を教えています。

池田さんらが行う不登校児のサポートの特徴は、地域・行政・学校と密に連携を取っていること。農作業やものづくり、地域行事への参加など、多様な体験活動を実施しています。学習や体験活動の様子は毎日レポートで学校と共有。再登校の際に、スムーズにバトンタッチできるようにしているのです。

「不登校の子どもはもちろん、そのご家族のサポートも大切にしています。子どもが学校に行かなくなると、保護者の方も地域の行事やママ友の集まりに参加しにくくなり、家族全体が孤立していく傾向があるんです。それを防ぐために、定期的に保護者の勉強会や懇親会を開催し、横のつながりをつくれるようにしています」(池田さん)

子育ての葛藤や学びを共有し合う「保護者カタリ場」の様子。

目指すのは、子どもたち一人ひとりが「自分にとってのベスト」を叶え、自立すること。再び学校へ行くことを目標にする子もいれば、中学の間は自分のペースで学び、高校からの復帰を目標にする子もいます。なお、これまで7割以上の子どもが再登校を叶えたといいます。

「中学で学校に行けなくなったけれど、地元の高校に進学し、そこからは皆勤賞になった子もいます。成績もトップで、『人に教えるのが好きだから教員になりたい、でも一度は地元の企業で社会人経験を積んでみよう』と、自分で調べて自分で考え、進路を決めていました。

その子はおんせんキャンパスに通い始めてから、それまで漠然と興味のあったことに次々と挑戦していったんですよ。卓球にハマってラケットを買ったり、家で生き物を育てたり。この時期に『自分で考えてやってみる』という体験をしたことが、自分の意志で進路を考えて決めることにつながったのかもしれません。

印象的だったのは、保護者の方が『この子にこんな一面があったんだ』と話していたこと。不登校になる前は、本人が何かに興味を示しても、『どうせすぐやめるでしょ』と受け流していたそうです。現代は親も子も忙しく、時間の制約もありますからね。それが、不登校になってある意味でゆとりが生まれた。『子どもの興味や成長に気づけて本当によかった』とおっしゃっていたことを覚えています」(池田さん)

不登校になったことで、自分を見つめ直す時間が生まれ、家族との関係性も変わった——。これまで不登校に対して、私自身漠然とネガティブなイメージを抱いていましたが、考え方次第では子どもにとってすごくいい時間になるのかもしれない、と思いました。

既存の教育が悪いわけではありませんが、決められた内容を、決められた順番で、決められたスピードで教えられることで、本来好きだったことや自分から物事に取り組んでいく意欲を見失ってしまう子もいるのでしょう。自分の興味・関心に合わせ、自分のペースで学びを得ていく時間を必要としている子が、実はたくさんいるのかもしれません。

「別の子は、おんせんキャンパスに通いながら音楽を始めて、地域に師匠と呼べる人を見つけ、ライブで演奏するまでになりました。同年代ではなくて、大人と一緒に演奏しているんです。高校を辞めそうになっていた時期もありましたが、『将来音楽関係の仕事に就きたいから』と専門学校を目指し始めました。好きなことが見つかったこと、さまざまな形で音楽に携わる大人と出会えたことが大きかったんじゃないかな。

子どものうちはさまざまなサポートが受けられるけど、大人になったら自分の力でやっていかないといけない。そのときに、地域の中にいろんなつながりがあれば、セーフティネットになるかもしれません。おんせんキャンパスのプログラムでも、できるだけたくさんの出会いをつくってあげたいと思っています」(池田さん)

地域の課題が子どもたちの生きた教材となり、物事を解決していく力を育む。子どものチャレンジを地域の大人たちが全力で応援することで、まちに愛着を持つ次の世代が育っていく。

ふたりのお話を聞き、雲南ではいま、健やかな循環が生まれようとしているんだな、と感じました。でも、これは雲南に限定される話ではないはずです。地域の子どもたちが育っていく手助けがしたいと思っている大人は、全国にたくさんいるはず。

雲南で起こっている新しい教育のかたちが、ほかの地域にも広がっていくかもしれません。

 

※この記事は、一般財団法人澄和によるジャーナリスト支援プログラムの採択を受けて取材しました。


暮らしに寄り添い、まちの人々と元気をつくる「コミュニティナース 」

看護師がまちの中にいて、
病気になる前に相談することができたら

Community Nurse Companyの拠点がある雲南市木次(きすき)地区。

コミュニティナースの元になっているのは、医療従事者が地域の中で病気・障害を抱える人やその家族の暮らしを支える「コミュニティナーシング(地域看護)」という概念です。矢田さんは看護学生時代にこの言葉を知り、強く興味を引かれたといいます。

「当時読んでいた本に、コミュニティナーシングに近いものとして、1960〜1980年代の日本では行政保健師が地域に駐在し、住民の相談に乗っていたと紹介されていました。でも、財政難などから次第に人員削減され、所定の場所や専門機関に常駐するようになり、1997年に駐在制度は廃止されたそうです。そっかぁ、でもまちの中にいた方がいいじゃんね、とさらに調べていくと、海外ではいまでも集落単位でコミュニティナーシングを実践しているところがたくさんあったんです。

目の前に広がる景色、いわゆる病院でしか健康相談ができないという現状は、政策や制度によって形づくられているけれど、もしかしたら自分で変えることだってできるのかもしれない。それなら、自分たちが暮らすまちに合った形で、まちの人と一緒になってやってみようと思いました」

日本におけるコミュニティナースのパイオニア、矢田明子さん。全国各地を飛びまわり、コミュニティナースの普及に力を注ぐ。5児の母。

そもそも矢田さんが看護師を目指すようになったのは、働き盛りだった父をがんで亡くしたことがきっかけでした。看護師がまちの中にいて、普段から地域の人たちの健康や暮らしの相談に乗ることができれば、父のように病気の発見が手遅れになる人を減らせるんじゃないか。そう考えた矢田さんは看護学生仲間を集め、子育て中のお母さんを対象とした健康イベントをカフェで開きました。すると、参加者の一人が検診を受け、乳がんを早期に発見できたといいます。

「このとき気づいたのは、人が健康に関心を持って行動に移す動機となるのは、楽しさやうれしさ、何よりも看護師をはじめとした健康の専門家との関係性なんだということ。お母さんたちは『おしゃれなカフェに集まれて楽しい』という動機で参加していたし、仲良くなった私たちがそんなに気にかけてくれるなら、と検診に行ってくれたんです。そういう関係性をつくることがすごく大事なんだなと思いました」

こうした実践を繰り返す中で、矢田さんは雲南市の人材育成事業「幸雲南塾(こううんなんじゅく)」に誘われ、1期生として参加します。これがきっかけとなって、幸雲南塾の卒業生をサポートする中間支援組織「NPO法人おっちラボ」の立ち上げを行い、代表理事にも就任。矢田さんの積極的な活動と雲南市のサポートにより、市内では多様な予防医療活動が広がっていきました。取り組みは話題を呼び、矢田さんの元には「自分もコミュニティナースになりたい」「うちのまちにもコミュニティナースを取り入れたい」という相談が殺到するように。

それらの声に応えるため、2017年春、矢田さんはコミュニティナースを育成する講座の運営や、受け入れ地域・団体へのアドバイザリー業務を行う会社として「Community Nurse Company」を設立しました。講座の受講生はこれまでに160人を超え、全国に実践者が広がっています。

コミュニティナースプロジェクトの講座の様子。

矢田さんが自身の活動をまとめた著書『コミュニティナース まちを元気にする“おせっかい”焼きの看護師』(木楽舎)

雲南でも地域おこし協力隊に似た独自の活動として、鍋山(なべやま)地区に配属された女性看護師が高齢者への声かけや健康情報の発信を行ったり、「おっちラボ」のスタッフになった男性看護師が軽スポーツや対話のイベントを開いたりと、コミュニティナースが地域に溶け込んで活動する光景が日常のものとなっています。

住民を巻き込んだ
「地域おせっかい会議」

2019年8月には、雲南市木次地区にCommunity Nurse Companyの拠点が誕生しました。地元をよく知る住民に管理人になってもらい、誰もが気軽に立ち寄れる場所として地域に開放しています。

「毎日いろんな人が来てくれますね。車いすの人やデイサービスに通っている人も来ますが、赤ちゃんの子守りなどできることがあればしてもらっています。“してあげる側・してもらう側”と役割が固定された関係ではなくて、お互いに関わりあうほうがいいな、と思って」

古民家をリノベーションしたCommunity Nurse Companyの拠点。子育てやリハビリを担う団体のオフィスとしても使われている。

楽しく集える場で信頼関係を築き、日常的に健康相談に乗り、病気の早期発見につなげる。そうした数値化しやすい成果も大事にしていますが、矢田さんたちが本当に大事にしているのは、「まちの人たちと日々の“うれしい”や“楽しい”を一緒につくって元気になる」という、目に見えにくい部分だといいます。

「事務所の近くに昔ながらの商店があるのですが、人口減少や少子高齢化でお客さんが減って、店主のおじさんは意気消沈していたんです。でも、コミュニティナースやその周辺の若い子たちが商店街に来るようになると、おじさんが数年ぶりに新商品を入荷したんですよ!『若い子はプリン好きだろ?』って、抹茶プリンを。いまの若い子はプリンよりタピオカでは……と思いましたが(笑)、これってすごいことだなと感動しました。

新しい関係性が生まれたことで、おじさんが意欲を取り戻し、まちの景色が少しだけ変わった。私たちが大事にしたいのはこういうことだなと改めて思いました。何が私たちにとっての成功か?を常に確かめ合いながら進んでいけるといいなと思っています」

管理人のおばあちゃんたちに見守られ、のびのびと動き回っていた矢田さんの息子さん。

こうした流れを加速させるため、最近では理髪店の店主や郵便局員など看護師の資格を持たないまちの人も一緒になって活動する「地域おせっかい会議」も始めました。月に1度会議を開き、「最近髪を切りに来たおばあちゃんが元気なさそうだ」「じゃあ配達のついでに声をかけてみよう」と、みんなでおせっかいを焼くのだといいます。

「一人暮らしのお年寄りに顕著ですが、孤独、不安、退屈といった感情の取り扱いに困っている方はたくさんいるな、と感じています。そういう方を見逃さないために、看護師以外の方々にも協力していただこうというプロジェクトです。

看護師の資格を持っていなくても、コミュニティナースに近いおせっかいな意識、周りの人がどうすれば元気に暮らせるかをいつも考えている人は地域の中にいます。その方々が自分の役割を自覚し、仕事の立ち位置を絡めて積極的におせっかいを焼いていけば、もっと影響力が大きくなるし、まちの景色はもっと変わっていくはず。もしかしたら、おせっかいを焼かれて元気になった人が、今度はおせっかいを焼く人になるかもしれません。

これが実現したら、離れて暮らしているお子さんやお孫さんも安心できると思います。まだ始まったばかりだけど、『地元におせっかい会議があってよかった』『お父さんもおせっかい会議に行きなよ』と言ってもらえる存在になることが目標ですね」

 

中山間地域の在宅医療モデルとして
注目される「コミケア」とは?

コミュニティナースから発展した活動のひとつに、雲南市三刀屋(みとや)地区に拠点を構える「訪問看護ステーション コミケア」(運営:株式会社Community Care)があります。

訪問看護とは、主治医の指示を受けた看護師が患者の自宅を訪問し、健康状態の確認やアドバイス、点滴や注射、介護やリハビリといったケアを提供すること。「定期的な診療や医療処置が必要だけど、1人での通院は難しい」という方も、訪問看護を受けられれば入院せずに自宅で暮らすことができます。

しかし、コミケア開設前の2014年時点で、雲南市における人口1万人あたりの訪問看護師数は1.9人。当時の全国平均3.2人を大きく下回る数でした。

そもそも、意欲の高い若手医療人材は最先端の医療に触れる機会を求めて都会へ行ってしまうため、地方の医療機関は慢性的に人手不足の状態に陥っています。通院・入院患者を看るのが精一杯で、訪問看護まで手が回りません。また、雲南のような中山間地域では家と家の距離が離れていて、訪問看護サービスを提供するのは非効率的という側面も。このため、訪問看護を受けたくても受けられない人がたくさんいる状態でした。

「住み慣れた家で、家族や友人のそばで暮らしたいというささやかな願いが、環境によって実現できないのはおかしい」

そう考えたU・Iターンの若手女性看護師3人は、雲南市や新しいヘルスケア事業を展開する「ケアプロ」からの創業支援のサポートを受け、2015年に「Community Care」 を立ち上げました。立ち上げメンバーのひとり、古津三紗子さんは東京の病院で働いていたときに訪問看護の勉強会に出席し、感銘を受けたと話します。

看護師、保健師、コミュニティナースとして活動する古津三紗子さん。島根県松江市で育ち、大学進学で名古屋へ。東京の病院に7年間勤めた後、矢田さんの誘いを受け2015年に雲南にUターン。

「白血病の方が入院する病棟で働いていたのですが、患者さんが植物状態になっても人工呼吸器や心電図モニターをつけて頑張り続ける医療のあり方に違和感を抱いていました。何年も続けていると医療費は高額になり、ご家族も疲弊していきます。最期の瞬間まで頑張ることは本当にいいことなのか、わからなくなってしまって……。

勉強会で学んだのは、人は生きる力だけではなく、自然に、安らかに亡くなる力も持っているということ。たとえば末期患者の方は、少しずつお小水が出なくなり、体内に尿の成分が溜まっていきます。そこには、痛みを和らげ、幸せな気持ちになる効果が含まれているんです。人の体ってすごいですよね。

病院は病気を治す場所だからそうした力を活かすことができないけど、訪問看護はその人らしく生きることを支援するサービスなので、自然な形で亡くなるための看取りケアを行うことができる。それを知って、訪問看護の道へ進むことにしました」

コミケアは設立後半年で黒字化し、当初3人だったスタッフは現在11人に増員。雲南市内でいかに訪問看護の需要が多かったかということを物語っています。

「訪問看護では1回につき1時間ほどかけてじっくりと患者さんやご家族と向き合います。一人ひとりの暮らしや人生に寄り添うことは、分刻みで動かなければいけない病院勤務ではできなかったことでした。患者さんも、病院では環境の変化に落ち着かず、不安やイライラに苛まれている方が多かったけれど、ご自宅では慣れ親しんだものや好きなものに囲まれてリラックスしていらっしゃる方が多くて。表情が全然違いますね。

強く印象に残っているのは、すい臓がんで亡くなった60代の男性のこと。最初は『家族に迷惑がかかるから病状が進んだら入院する』と遠慮されていたんですが、毎日訪問看護に入らせていただいているうちに、『やっぱり自宅で暮らしたい』と本音を言ってくださって。遠方に住んでいたお姉さんご夫婦が一緒に過ごしてくれました。好きな音楽や外食を楽しみ、前日まで歩いていて、ご本人らしい最期を迎えられたと思います。お姉さんも『弟のお世話ができてよかった』『自分もこういう最期を迎えたい』と、生まれ育った雲南に戻ってこられました」

元本屋を改装した「世代間交流施設ほほ笑み」。コミケアはこの一角に事務所を構え、健康サロンなどのイベントを開催。また、地方の看護師不足を解消するため、若手医療者や医学生が集まる勉強会を開き、地域医療の魅力を伝える活動も行っている。

こうした訪問看護サービスを提供する一方、古津さんたちはコミュニティナースとして月に1度住民向けの健康サロンを開き、予防医療に取り組んでいます。高齢者を中心に、毎回20〜30人ほどの参加者があるそう。

「最初は私たちが健康に関する情報をお伝えしていましたが、住民のみなさんから『自分たちの特技や関心があることを披露したい』という声が挙がったんです。そこで、若い頃に日本舞踊をされていた方に披露していただいたところ、手拍子いっぱいの明るい場になり、立ち見が出るほどでした。少しずつ、住民のみなさんの好きなことを活かす場へと変わってきていますね。病気を治し、訪問看護を卒業された方を地域とつなぐ場所にもなっています」

2018年に雲南市が行った調査では、患者が入院などをする代わりにコミケアの訪問看護サービスを受けることにより、2年間で社会保障費が2億円ほど削減されたと試算されました。また、実施している集いの場の参加者は、非参加者に比べて要介護になる比率が約半分だったとする結果も出ています。コミケアやコミュニティナースは、まちの景色を着実に変えています。

自分が健やかに暮らすことを願い、行動してくれる看護師がそばにいること。まちの中に安心できる居場所やコミュニティがあること。人生の最期の瞬間まで、住み慣れた家で自分らしく生きられること。そして、住民がこうした暮らしを送ることで社会保障費が削減され、まちが持続可能になること。

コミュニティナースの活動は、人口減少・少子高齢化に直面する全国の地方に向けて、進むべき道を示してくれているように感じます。

 

※この記事は、一般財団法人澄和によるジャーナリスト支援プログラムの採択を受けて取材しました。


矢田明子さん(Community Nurse Company 株式会社 代表取締役

やた・あきこ/1980年島根県出雲市生まれ。26歳のときに父の死を経験し、看護師を目指して27歳で大学へ入学。在学中よりコミュニティナースとしての活動を始める。2013年に「NPO法人おっちラボ」を創設。2015年に「株式会社Community Care」の設立と経営に参画。2017年3月に「Community Nurse Company株式会社」を設立。


古津三紗子さん(株式会社Community Care 在宅医療部門/コミュニティケア部門看護師

こづ・みさこ/1985年島根県松江市生まれ。名古屋大学卒業後、東京の病院で7年間勤務。幸雲南塾5期を卒業し、2015年に同期と「株式会社Community Care」を設立。

 

 

住民が考え、動き、変わっていく。雲南で起きている“チャレンジの連鎖”とは。

新しい“自治”のかたちをつくる

東京から雲南までは羽田空港から飛行機で1時間半。出雲縁結び空港からレンタカーを借りて、まず向かったのは雲南市役所。チャレンジできるまちの下地をつくってきた中心人物、佐藤満さんに話を聞きました。

まちが変わるきっかけとなったのは2004年。6町村が合併し、雲南市として生まれ変わるにあたり、各エリアの住民・議員・行政職員が顔を付き合わせて、まちのあり方について真剣に議論したといいます。

雲南市政策企画部部長の佐藤満(さとう・みつる)さん。雲南生まれ雲南育ち。

「住民から寄せられた声は、大きく分けるとふたつ。“これまでは気軽に村長室に行けたけど、まちが大きくなったら声が届かなくなるんじゃないか”“このまま少子高齢化が進んだら地域が立ち行かなくなるんじゃないか”というものでした。その不安を解消するために、雲南市内30の地域で、住民が地域づくりに参加できる組織『地域自主組織』が生まれたんです」

「地域自主組織」とは、従来の自治体を小規模にした、地域ごとの多世代型チームのようなもの。1組織あたりの世帯数は平均400世帯。世帯主だけが会合に出席する11票制ではなく、女性、子ども、若者、お年寄りといった幅広い世代や立場の人が関わることのできる11票制を採用しているのが特徴です。

地域自主組織という仕組みができたことで、住民はさまざまな取り組みを始めました。一例を挙げると、商店が無くなった地域でマーケットを開き、無料送迎や配達サービスを提供したり、幼稚園の放課後に預かり保育を始めたり、独居高齢者への声かけ・見守りを行ったり……。

その後、各地域自主組織で集まってお互いの取り組みを紹介する場が設けられるようになり、防災や教育などテーマごとに関連する人が集まって議論をする「円卓会議」へと進化しました。

エリアごとの地域自主組織が集まって行う「円卓会議」の様子。

「たとえば防災では、『災害が起きてから行政の手が入るまでは時間がかかる。職員だけでは手も足りないだろう。十分な備蓄をして災害時の体制をつくろう』『崖の上に住んでいる高齢者や言葉のわからない外国人と日頃からコミュニケーションを取っておこう』と、地域住民が自ら考えて動いていくわけ。めちゃくちゃすごいと思わん? もちろんそこには市の防災担当職員や多文化共生職員も出席して、政策に落とし込んでいくんです。

これからの地方自治はこうあるべきだと思いますよ。市民が自分たちに必要なことは何かを考えて、行政が政策化する。議会は、それがちゃんと市民の意見を反映したものになっているか、非効率的なものになっていないかをチェックする。もう、机にかじりついて政策を形にする時代じゃないんじゃないかな」

「1人じゃない。失敗してもいい」
まちとして若者を支えるために

ただ、地域自主組織を担うのは主に6070代。次の世代が育たなければ、まちの未来はありません。そこで、雲南市は2011年から「幸雲南塾(こううんなんじゅく)」を始めました。地域課題や自分の興味関心をもとに活動してみたいという若者の学びやチャレンジをサポートする次世代育成事業です。

2013年には幸雲南塾の卒業生が中間支援組織NPO法人おっちラボ」を立ち上げ、幸雲南塾の運営から、卒業生も含めてチャレンジがしやすいまちにするための生態系を耕すような動きを継続的に行うようになりました。

さらに、雲南市ではより若い世代の中高生や大学生の挑戦を促す取り組みも。東京に本拠地を構えて全国でキャリア教育を行う「NPO法人カタリバ」を誘致し、不登校児童・生徒の自立支援と、教育魅力化の一環として中高生が地域に入っていく授業プログラムを実施。近隣の大学生にも学びのフィールドを提供しています。

「幸雲南塾」を通して140人以上の挑戦者とおよそ60人の新規雇用が生まれ、3億円を超える経済波及効果があったと試算されている。

市内の木次地区にある「NPO法人おっちラボ」の拠点。

子どもや若者のチャレンジを応援するため、雲南市は2018年に「雲南スペシャルチャレンジ(スペチャレ)」という制度を新設しました。国内外の研修や留学に行きたい学生、起業創業したい若者に対し、ふるさと納税や企業寄附によって資金を提供する制度です。ふるさと納税が子どもや若者の挑戦の予算になるとは!

「行政は税金も制度も自分たちのものと勘違いしがちだけど、本来は市民のもの。ふるさと納税だって市民のお金なんだから、市民がやりたいことを実現するために使うのが当たり前でしょう。チャレンジする子どもや若者に、『ひとりじゃないよ、みんな応援しているよ、失敗していいよ』って伝えたいんですよ。口だけじゃなくてね。

例えば、中1の子が貧困と福祉を学びたいってカンボジアに行って『カンボジアは貧しいけど、人の豊かさは日本よりもあると思った』なんて言ったり、進学を諦めていた高校生がインターンをして『今の自分が社会に出ても何もできない、力をつけるためにやっぱり学びたい』と帰ってきたこともあった。そうしたら、『そういう子だったら、ぜひうちに来てほしい』と入学金や授業料を免除してくれる大学が現れた。どっちもすごいよな」

スペチャレ1期生が始めた「ショッピングリハビリ®」。高齢者が買い物を通して自然に心身機能を高められるサービスで、介護予防事業として雲南以外の自治体にも広まっている。

雲南市では、地域自主組織を主体とした60代以上のチャレンジを「大人チャレンジ」、幸雲南塾に代表される社会人のチャレンジを「若者チャレンジ」と名付けています。更にいま、ここに「企業チャレンジ」を加え、「日本一チャレンジが生まれるまち」を目指す「雲南ソーシャルチャレンジバレー構想」が進んでいます。

こうしたチャレンジを促す風土を確たるものにするため、雲南市は2018年4月に「チャレンジ推進条例」を制定しました。

「市長も議員も職員もいつか変わる。そのときに時計の針が元に戻ってしまわないための条例です。『第3条、市民は、チャレンジに取り組む権利を有します。第4条、市長は、雲南市におけるチャレンジの取組を理解し、必要な支援に努めなければなりません』。方針の違う人がトップに立っても、これがあれば市民は『条例に書いてあるじゃないですか』と言える。通してくれた議会もすごいよな。感謝しているんです」

来春で定年を迎える佐藤さん。市役所職員として、ご自身もたくさんのチャレンジと失敗を繰り返してきました。

「雲南には、木次乳業の佐藤忠吉さんという、有機農法の草分け的存在のおじいちゃんがいるんですよ。戦後の食糧増産時代、農薬や肥料をたくさん撒いて生産性と効率を上げようという時代に、『食は人の命と体を守るものだから』と有機酪農に取り組み、日本で初めてパスチャライズ牛乳の開発に成功したすごい人。

立ち上げたプロジェクトがうまくいかず悩んでいたとき、忠吉さんのところに行ったら相談もしてないのに『失敗のない人生は失敗だ』と言ってくれてね。市役所ってのは減点主義で、成功しても褒められなくて、失敗すると責められるわけ。忠吉さんの言葉で『失敗を恐れて挑戦しないよりも失敗したほうがいい』と心が軽くなったな。

次にプロジェクトを始めたときに忠吉さんからかけられたのは、『人前でションベンするような恥かけ、それを10年続ければ本物だ』って言葉。俺も単純だから、『なんだ、10年やればこのプロジェクトも本物になるのか』と奮い立ってね。

90%以上進んでいたプロジェクトが土壇場で潰されて、5年後にほかのまちで成功しているのを見たりとか、悔しい思いはいっぱいしましたよ。いまはその分、頑張っている若者を見ると『守ってやらないとな』と感じるね」

佐藤さんはインタビュー中、何度も「すごいと思わん?」「おもしろいと思わん?」と言っていました。それはすべて、地域の人や若手職員、市長や議員、警察に学校、教育委員会と、ほかの人の姿勢に向けられたもの。チャレンジする人やそれを応援する雲南の人々を、心から誇りに思っていることが伝わってきました。

まちに関わる入り口はたくさんあっていい

こうした雲南の動きを、現地で暮らす若い世代はどう見ているのでしょうか。NPO法人おっちラボを訪問し、スタッフの平井佑佳さん、村上尚実さんに話を聞くことにしました。そもそもふたりは、なぜおっちラボのスタッフに?

平井佑佳(ひらい・ゆか)さん。雲南生まれ雲南育ち。島根県庁で嘱託職員として働いた後、幸雲南塾4期に参加。2015年におっちラボのスタッフに。

「やっぱりどこかにずっと、『地域に育まれた』という感覚があって。私、高校に5年通っているんですよ。いじめなどの明確な理由があったわけではないのですが、気持ちが向かず、行ったり行かなかったりで。

そんな自分を責める気持ちがあったんですが、雲南の里山風景を眺めている間は後ろめたさを忘れることができました。山々の間に転々と家があって、おじいちゃんおばあちゃんが畑を耕していて。その人たちの存在があるからこの景色があるんだと思うと、それがすごく尊いものに思えて。大きくなってそういう暮らしを次の世代につなぐ助けができたら、どれほど幸せだろう、と感じました。

高校を卒業すると、みんな市外に出ていきます。確かに、楽しいことは外にあるんです。ここで待っていても楽しいことは降ってこないし、誰かが困りごとを解決してくれるわけじゃない。でも、そういうのを外に求めていたら、いつまでも探しまわる人生になってしまうんじゃないか、という気がして。小さくても自分の手で楽しいことをつくりだしたり、困りごとに対して何かできるようになれたらいいなと思って、おっちラボに入りました」(平井さん)

村上尚実(むらかみ・なおみ)さん。松江生まれ神戸育ち。島根大学を卒業し、出雲市の社会福祉法人で3年半働いた後におっちラボへ合流。

「私は親が雲南出身で、子どもの頃から長期休みには雲南市内にある祖父母の家に来ていたんです。大学在学中に東日本大震災があって東北に通うようになったんですが、ああいう大きな出来事に直面した人たちと過ごしていると、否が応でもこれからどうやって生きるかを考えるんですよね。私の答えは、『雲南で祖母と暮らしていきたい』というものでした。

ただ、仕事が忙しく職場も出雲だったから、雲南でいろんな動きが起こっていることは知っていたけどずっと参加できずにいたんです。

元々まちづくりに関心があり、ニュースを見ながら『もっとこうなったらいいのにな、でも言うだけじゃ世界は変わらないよね』と思って大学で行政学を学んでいました。それが社会人になって、言うだけの人間になっていた。このままじゃ嫌だなと思って転職したんです」(村上さん)

ふたりの仕事内容は、幸雲南塾の企画運営とコーディネート。これまで幸雲南塾は個人でエントリーする方式でしたが、今年はまちの課題にチームで取り組む形を取っています。

「そのうちのひとつにコミュニティ財団を設立するプロジェクトがあり、私はその伴走をしています。行政が税金を使って取り組むほどに認知されていなくて、スペチャレから資金提供してもらうのはハードルが高い。そんな小さなまちの課題に気づいた住民の方々が、出資を募り小さくチャレンジできる、そしてそれを住民同士で応援しあって実現を目指すのがコミュニティ財団です。

相続する家族がいなくて、自分の遺産がどうなるかを気にかけている高齢者もいると聞きます。ただ国に納められるのは虚しい、お世話になったご近所さんのために、地域の未来のために使ってもらえるならうれしい、という方の受け皿となれたら」(村上さん)

 

「チャレンジにやさしいまちと言っても、やっぱり活躍している人を良く思わない人もいます。もしかするとそれは、自分も地域に関わりたいのにできていなくて、それができている人を見ると、自分が否定されているように感じるからなのかもしれません。私も、最初は幸雲南塾のことを『一部の人が盛り上がってキラキラしている』と遠巻きに見ていたから。

行動に移せないのは、時間がなかったり、いきなり起業・創業というとハードルが高かったり、仲間づくりに慣れていなかったりするためです。だから、そういう人が参加できる仕組みをつくることが重要なんじゃないかな。

本当はみんな、誰かの役に立ちたい、喜んでもらいたい、という気持ちを持っているはず。それを形にするための入り口を、『自分たちの手で暮らしをつくっていけるんだ』という実感を持てる機会を、いろいろな形でつくりたいと思っています」(平井さん)

地域自主組織に、幸雲南塾に、スペチャレに、コミュニティ財団……。最初に聞いたときは、「雲南にはチャレンジを促す仕組みが色々あってちょっとややこしいなぁ」と混乱してしまいました。でもそれは、実践する中で見えてきた課題に柔軟に対応してきたからこそなのかもしれません。

どんなに画期的な仕組みや制度も、ひとつですべての課題を包括することはできないし、時代の変化と共に古びていきます。でも、「いま何が必要か」と考えて実行していく姿勢さえあれば、チャレンジの連鎖は形を変えて続いていくはず。

帰り道、雲南の山々を眺めながら車を走らせていたら、ふとドイツの詩人、カール・ブッセの詩が頭をよぎりました。

“山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ
ああ我ひとと 尋めゆきて
涙さしぐみ かへりきぬ
山のあなたになほ遠く 「幸」住むとひとのいふ“

「山の向こうに理想郷があると聞いて探しに行ったけど、見つからず泣きながら帰ってきた。でも、その更に向こうに理想郷があるとみんな言うんだ」という内容です。

雲南の人たちの姿勢は、この真逆。どこかにある“幸い”を探すのではなく、自分たちの手で、“幸い”をつくりだそうとしているのですから。

 

※この記事は、一般財団法人澄和によるジャーナリスト支援プログラムの採択を受けて取材しました。


佐藤満さん(雲南市 政策企画部 部長)

雲南生まれ雲南育ち。チャレンジできるまちのベースをつくってきた立役者。


平井佑佳さん(NPO法人おっちラボ スタッフ)
雲南生まれ雲南育ち。島根県庁で嘱託職員として働いた後、幸雲南塾4期に参加。2015年におっちラボのスタッフに。

村上尚実さん(NPO法人おっちラボ スタッフ)
松江生まれ神戸育ち。島根大学を卒業し、出雲市の社会福祉法人で3年半働いた後におっちラボへ合流。

出会えば、動く。 この町を拠点に音楽文化を育むために。

どうしてもここで、
ギターを作りたい

〈VINCENT〉は、ギター&アザーズをかかげているブランドです。ギターを起点に音楽文化を根付かせていきたいし、ギターを弾くライフスタイルを取り巻く様々なものごとに関わっていきたいと思っていて。

名前の由来は、ひとことで言うと“色々縁のある名前”で(笑)。長崎に暮らしていた高校時代に、初めてしっかり話した外国人の名前がVINCENTさんだったり、70年代のミュージシャン、ドン・マクリーンの好きな曲名が「VINCENT」だったり、屋号に悩んでいた時に妻と行ったラーメン屋さんで偶然その曲流れてきたり……長くなるのでやめておきます(笑)。縁があって、VINCENTという名前を屋号にしました。

子どもの頃から、ものづくりが好きでした。工作が好きで、本棚を作ったり。バンドブームの時に音楽を好きになり、高校三年生の時に初めてヤイリギターを買って、漠然とこれを作る人になりたいと思い始めて。でも、通っていた高校が進学校だったので、大学に行かずに職人を目指すことに対して両親に反対されました。きっと遊びの延長に見えたんでしょうね。

でも、どうしてもギターが作りたいという気持ちを諦められず、反対を押し切り説得して長崎から東京の専門学校に行かせてもらって。就職先を具体的に考える頃は、はっきりと「ヤイリギターに入りたい」と思っていましたね。

当時、ギター工房は日本に5ヶ所ほどあったのですが、その中でもヤイリは一番手作業の行程が多い工房で。もう自分にとっては、ヤイリ以外選択肢はなかった。でも一向に求人は出ないし、待っててもダメだと思い、直接ヤイリに電話して聞いたのですが、採用の予定はしばらくないと言われて。それでも諦められなかったので、当時の先代の社長に手紙を書き、1ヶ月後くらいに面接の連絡をもらって岐阜まで行きました。面接と言っても、社長と話すだけで(笑)。長崎出身の事やヤイリに入ることしか考えていない思いをそのまま話して採用してもらえたことは、うれしかった。

先代の矢入一男氏の意志を受け継ぎ、ヤイリのクラフトマンを率いる3代目の社長、矢入賀光さんと。

何もわからずに入社し、最初は寮生活。常にどこかの部屋からギターの音が聴こえてくるような環境でした。入社して1年はギター製作をやらせてもらえなかったので、小刀など道具作りを最初に教わって。その後、当時ミニギターを専門で作る部署があって、そこに所属してギター作りを学びました。最初は全然仕事ができなかったので、終わってから、ベテランの職人さんの仕事を見に行ったりして。みんなすごく熱を持ってやっていました。

ヤイリには、日本各地からリペアをするギターが届くのですが、著名なアーティストのものもたくさんあって。それをじっと眺めてました(笑)。90年代の終わり頃、多くのミュージシャンが長い全国ツアーに出ていたので、ツアーから戻ってくるギターも色々修理が必要で、パーツやジャックを交換したり。そのギターを見ながら、プロのミュージシャンがステージで使う楽器のメンテナンスに携わりたいと思うようになりました。僕がよく見に来るし質問したりするので、数年後、当時アーティストのギターのリペア担当をしていた松尾浩さんという先輩に「この仕事に興味ある?」って声をかけてもらって。

松尾さんは61歳になるヤイリの現役の職人。ヤイリギターは、もともと木琴やカスタネットなどを作る<矢入楽器製作所>だったので、松尾さんより上の世代の方々は、ほとんど元家具職人でした。先代が1965年に社名を<ヤイリギター>として、アコースティックギターの製造に力を入れて、シフトしていくと同時に、70年代のフォークブームが訪れて。それに影響されて、ギター職人を目指した第一号の世代が、松尾さんたち。僕も職人として育ててもらいながら、たくさん影響を受けました。ライブにも連れて行ってもらいましたね。「ミュージシャン、は弾いてる楽器の生の音ではなく、モニターから聞こえる音を聞いているので、その違いを聞かせてもらいに、ステージに行かせてもらえ!」とか(笑)。

小川さん趣向が垣間見えるのCD棚。さまざまな年代のロックアルバムが並ぶ。

僕は、ギター自体も好きだけど、幅広いジャンルの音楽が好きで聞いていたので。意外と職人さんだとそういうタイプは少ないんです。アーティスト担当になると音楽的な話を分かち合えないとできない仕事なので、その辺りも大事にしていました。当時、BIGINさんが自分たちでギターを持って、電車で来てくれてました。メンテナンスも人に任せるのではなく、自分で理解していたいというか。探究心がある人は、ここまで来てくれるんだなと思いましたね。

時代の変化と
自分自身の変化

2000年前後はCDがすごく売れていたし、音楽業界も楽器業界も潤っていました。それが少しずつ低迷して行って、レコード会社や音楽事務所も続けられないところも増えてきて……僕もそれまで担当していたミュージシャンのギターについては、会社同士でやりとりできていたのですが、直接ミュージシャンと連絡を取ることが増えたり。時代が変わっていきました。ミュージシャンが独立して自分たちでフリーに近いスタイルでやるのなら、僕らもそれに合わせて変化していかないと対応できなくなるなと思って。今回、夏目さんが頼ってくれたことに対して動けたように、フットワークは軽くいたかったんです。

それと、ヤイリだけに限ったことではないのですが、ここ10年くらいで日本のメーカーのギターを使うミュージシャンが減ったことに対して、少しでもこの状況を変えていくために自分にできることは何かと長いあいだ考えていました。でも、ヤイリを辞めて独立したからといって自分ひとりに何ができるんだろうって。

ずっとモヤモヤ考えていた時、尊敬していた先代が亡くなり、どこか自分の中で踏ん切りがつきました。ヤイリギターと関わりながら独立して自分で動きたい、と。僕は売り方やアーティストとの関わり方を自分なりに新しくしたかったので、自分ではギターを作るのを辞めて、製造はヤイリにお願いし、それを売っていこうと思って。素晴らしいギターを作る、確固たるヤイリの技術をもっと活かしていく企画を自分がしたい、と。


音楽を通じて
地域をつないでいく

美濃加茂市に住んで13年になるのですが、ヤイリにいた10年は、日々工房と家の往復で町との関わりはほぼありませんでした。美濃太田駅から歩いてすぐの場所に「ワンダーランド」という本屋があって。僕は、ここの店主の渡辺修さんの事が大好きで。

2016年12月に亡くなってしまい、今は看板だけが残っています。初めて行ったのは、6年ほど前で、ヤイリの先輩の松尾さんに誘ってもらってライブを観に行きました。最初は、ちょっと近寄りづらいお店だなと思っていたのですが(笑)、行ってみたらおもしろい本や古いレコードがたくさんあるし、世代も職種もバラバラな人が集まってみんな楽しそうにしていて。その時は、ちょうどライブもやっていて。楽しそうな輪の中に、「美濃加茂の町をもっと良くしたい、おもしろくしたい」って話題があったり。ワンダーランドで、いろんな人と出会って話して、町に居場所ができたような気がします。僕にとってずっと大事な場所です。

美濃加茂の町の文化的拠点を育んだ「ワンダーランド」の店主、渡辺修さん。(写真提供:修さんの息子、憂樹さんより)

VINCENTを始めてから、町との関わりが増えましたね。大きなきっかけとしては、毎年美濃加茂市が企画運営していた音楽イベントをリニューアルする時に声をかけてもらったことです。美濃加茂市は、かつて“姫街道”と呼ばれていた通りがあったり、それにちなんだ女性を主役にしたイベントもあって。町としても、女性の起業家をサポートしたり、“女性が輝けるまち”として様々な取り組みをしているので、音楽イベントも女性ミュージシャンをメインに呼ぶものにしよう、と。正直、それまでは町の政策も全然知らなくて(笑)。イベント企画を通じて、町の人や町のことを知っていきました。それでスタートしたのが「minokamo HIME ROCK」です。ちょうどその頃、共通の知り合いを通じて出会った高田良三さんや仲間を募ってはじめました。高田さんは隣の可児市の工務店勤務で、ものすごく音楽が好きな人。高田さんとの出会いも大きいですね。

高田さんと小川さん。美濃加茂市と可児市の境にある〈リバーポートパーク美濃加茂〉で待ち合わせ。

高田:小川さんとは初めて会った時から、同世代だし好きなミュージシャンの話でめちゃくちゃ盛り上がって。僕は東京生まれ東京育ちなのですが、子育て環境と仕事の関係で、2010年に妻の実家がある可児市に移住してきました。僕もずっと音楽が好きで、この町で音楽イベントをやりたいなと思っていたんです。

小川:最初は、隣町の可児市で音楽イベントやっている人がいるんだ!ってうれしくて。このあたりの地域だと、自分たちでことを起こさないと、なかなかライブもみれないから。会って話してみたら、僕と同じように移住してきて地元の方ではなかった。お互い、客観的にこの地域を見てるので、そのあたりの感覚も少し似ているんです。

実際に町でやってみて、ブッキングや集客の難しさも改めて感じました。でも、都市ではなくこの地域だからできることに挑戦したいし、有名無名に関わらず、新しい音楽との出会いの場にしたい。そして長く続けていくイベントにしたい。この町で、ライブを観る、音楽を聴くという文化を作っていきたくて。まず、この町に暮らす人が「行きたい!」って思ってもらえるものにしたいんです。

みのかも文化の森で行われた「minokamo HIMEROCK 2019」の様子。(小川さん提供)

高田:誰が出演するかは大事ですが、「minokamo HIME ROCK」に来れば良い音楽が聴けるぞ、というものにしていきたい。岐阜県内の各地で良い音楽イベントがたくさんあるので、この町を拠点にしながら、周辺のイベントに行ったり一緒に何か企画したり、繋がりを持てたらうれしいです。
小川さんと出会ってから、小さくても自分たちのスペースを持ちたいと思うようになりました。月に数回でも自分たちが好きで伝えたいミュージシャンを呼んでライブをやる、いつもの場所ができたら良いなって。VINCENTのギターも飾って。都市ではなく地域だからこそ、こうしていい大人になっても好きなことで遊べるのはかなって思っています(笑)。

小川:そうですね(笑)、あと、高田さんが僕と同じく美濃加茂市在住だったら、作るものも違ったと思うんです。隣町ではあるけれど、大きな木曽川を挟んでいるので心理的に、文化的にも距離があるように感じることもある。だからこそ、それぞれの町に暮らしながら、お互いに行き来して話し合ってイベントや場を作っていきたい。そういう地域同志のつながりも意識しながらやっていきたいと思っているんです。

 

「農村に入ったら、演説ではなく演劇を」演劇を通じて広がる、佐久市の健康意識。

8つの病院、5つの職種で
結成された「劇場型糖尿病教室」

“農村に入ったら、演説ではなく演劇をやれ”

これは戦後の佐久で“農民とともに”の精神で地域医療の土壌を作った、若月俊一医師が傾倒したという宮沢賢治の教えである。文学青年だった若月医師は、佐久病院(現在の佐久総合病院)に赴任した昭和20年(1945年)には、早くも病院で劇団部を結成。『白衣の人々』という脚本を作り、町の演劇大会で上演している。 以来、無医村の地域に出向いては、出張診療とともに住民に向けて演劇を行い、病気を早期発見することや予防の重要性を伝えようとした。

なぜ演説ではなく演劇だったのか。情報を受け取る立場になってみれば想像がつくだろう。たとえばとっつきにくい医療の話や、自分には必要ないと思い込んでいるような予防の話を一方的に聞かされても頭に入りにくいものだが、登場するキャラクターに共感したり、ところどころで笑えたりするような芝居仕立てになっていたら、同じ内容でも興味や印象は大きく変わってくるはずだ。 

病院に来るときには、手遅れである患者があまりに多いことに危機感をもち、病院からでて出張診療をはじめた若月俊一先生。診療後は演劇や人形劇、コーラスなどで健康教育を行っていた。

こうした活動のおかげか、現在の佐久にも演劇は根づいていて医療従事者や地域の代表である保健補導員が、自ら脚本を作ったり演じたりすることで住民に健康や予防の知識を広めている 。

佐久市立国保浅間総合病院 地域医療部長 糖尿病センター長 仲元司先生率いる「トーシンズ」もそのひとつ。佐久市を含む東信(とうしん)地方にちなんだネーミングなのだが、発足したのは2012年。東信地区の糖尿病医療に関わるスタッフの研究会に、東京・多摩地区を中心に活動する糖尿病劇場の「たまちゃんず」を招待したのがきっかけだ。

病院、職種、世代を超えて構成される劇団「トーシンズ」のメンバー。前列中央が仲元司先生。本番前の余裕を感じさせる(?)集合写真。

「糖尿病劇場は登録商標にもなっているくらいで、糖尿病分野ではそれなりに知られた活動なのですが、その内容は基本的に医療従事者向けです。
たとえばマシンガントークの栄養士が登場して、あれこれ説明するものの、患者さんが置いてけぼりを食っている状況を劇にして、普段の療養指導を見直してみる、というような」

その研究会では  シナリオを作る研修を行い、医療従事者ではなく患者や一般市民を対象に、難しい医学用語や体のしくみをわかりやすく解説する啓発劇を考えた。それを発展させ、「劇場型糖尿病教室」と銘打って松本市で上演したのが、記念すべきトーシンズの初舞台『もろこしはご飯の後で』だった。

明るい仲先生のまわりには笑顔が絶えない。俳句が趣味で、セリフ回しにこだわりあり。

「テレビドラマをもじったタイトルなんですけどね(笑) 。この地域の人たちは、ご飯をしっかり食べたあとにとうもろこしを食べるような習慣があるんです。だけどそれって炭水化物の重ね食いだよね、と知ってほしくて生まれたアイデアです」

オリジナルのミステリードラマと同様、謎解きのスタイルで炭水化物過剰摂取のトリックが明かされていくユニークな展開。発足時のメンバーは、研究会の運営スタッフがベースになっていて、そのときの謳い文句が“8つの病院、5つの職種”。つまり東信地域の8つの病院で働く、医師、看護師、保健師、薬剤師、臨床検査技師などさまざまな職種の人たちで構成されていたのだ。以来、その都度メンバーは変わりながらも7年間で22回、計12本のオリジナルシナリオで上演。なかなか人気の劇団といえるだろう。

セリフを暗記する時間がないので、カンペ(カンニングペーパー)もみんなで手作り。試行錯誤を重ねて、現在はダンボール製のカンペ台を舞台上に置いている。

劇の内容は基本的に糖尿病にまつわることで、上演する場も糖尿病関連のイベントがメインなのだが、生活習慣病といわれる病気だけあって、テーマは身近で幅広い。 『大きな魚の目に涙~あなたの足は健康ですか?』『野沢菜一家~アルブミン物語』『糖尿病は歯が命!』『下げ過ぎに気をつけて血糖値』『運動すればいくら食べてもいいの?』などなど、過去作のユーモアに富んだタイトルからもその多彩さが伝わってくる。

「たとえば『野沢菜一家~アルブミン物語』のアルブミンっていう言葉は、一般的にはあまり知られていないですよね。糖尿病の初期段階で尿から出るタンパク質なのですが、アルブミンが検出された時点でしっかり治療をしましょうってことをアピールするための劇なんです」

あえてタイトルに聞き慣れない言葉を入れ、劇中でも『先生がこないだ言ってた、アルなんとか……、アルコール? アルミニウム?』『お父さん、それってアルブミンじゃないの?』などと登場人物にあえて間違えさせることで、見た人が覚えやすいように工夫 しているのだ。

 

病気や予防にまつわる誤った認識を
劇に盛り込んで気付きを与える

トーシンズの23回目の舞台となったのが、11月9日に開催された「2019年東信地区 世界糖尿病デー」というイベント。2019年現在、世界の糖尿病人口は4億6300万人に上り、2017年から3800万人も増えているらしい。世界糖尿病デーに定められている11月14日は、インスリンを発見した人物の誕生日で、この日の前後に全世界で糖尿病啓発キャンペーンが繰り広げられているのだ。

「2019年東信地区 世界糖尿病デー」のイベント風景。イオンモール佐久平で筋力テスト、歯周病チェックなどが行われた。

夜の本番を控えて、昼間のうちに会場の一室にメンバーが集まって稽古が行われたのだが、全員揃っての練習はその日が初めて。勤務先も仕事の内容も異なるうえに、ただでさえ忙しい人たちばかり。全員が集まるだけでもひと苦労なのだ。

今回上演されるのは、『貯筋でのばす健康寿命』という新作劇。主な登場人物は、若かりしときはラガーマンだったものの、年齢とともにすっかり筋力が衰え、最近は不用意に転んだり、むせたりしてしまう70代の“筋肉なしぞう”とその妻の“筋肉あり子”、ムキムキの筋肉が自慢の“マッスルまさる”など。マッスルまさるとともに日頃の食生活を振り返ってみると、なしぞうは朝はごはんとみそ汁と漬けもの、昼はそばとサラダなど炭水化物が多めで、タンパク質が不足していることが判明する。

野菜の役は栄養士が、炭水化物とたんぱく質の役は医師が演じている。ちなみに緑と茶色の衣装は仲先生の自前だそう。

「劇のなかではいつも、ドジなことをやったり、間違った知識を持っているような人が出てくるんですけど、これらは医療従事者が遭遇しがちな“あるある”で、 患者さんが実際に言っていることやっていることを、さり気なくシナリオに取り入れています。決して笑いものにしているわけではなく、ちょっとした思い違いを発見するきっかけにしてほしいんですよね」

このやり方は間違っている、と頭ごなしに否定されるのは、相手が医師とはいえ、あまりいい気分がしない人もいるだろうし、日々の習慣を変えるのはそう簡単なことではない。しかし「いくらなんでもこんなことは言わないだろう」というようなデフォルメされたキャラクターや、大げさな演技が笑いを誘い、客観的に間違いに気付くことができるのだ。

劇は通常3幕に分かれていて、1幕は5分程度。幕間では、劇で登場した医学用語や健康知識を医師がスライドなどを使って解説。劇、解説、劇、解説、劇……とテンポよく展開し、今回の場合は最後にクイズ形式で復習する時間も設けられ、大人も子どもも楽しみながら学ぶことのできる構成になっていた。

筋肉なしぞう(左)の食習慣をマッスルまさる(左から2番目)とともに見直している、本番の一コマ。客席から何度も笑いが起こっていた。

「劇が終わったら客席のほうへ行き、『今の主人公の行動はどう感じました?』『いろんな果物が出てきましたけど、何がお好きですか?』などと聞いたりして、受け身にならないよう双方向性を意識しています。ただ劇を見るだけでなく、楽しみながら考えてほしいのです」

 

演劇に慣れ親しんだ地域だから
期待できる効果も大きい

病院や職種のいわゆる横のつながりから成るトーシンズだけでも、特筆すべき活動といえるが、これとは別に佐久をはじめとする東信地域では各病院内で劇団を結成したり、保健補導員などが地域で演劇をすることも珍しくない。たとえば仲先生は、トーシンズのほかに浅間総合病院の糖尿病センターでも「モトジーズ」という自身の名前を冠した劇団を作って、啓発に努めている。

浅間総合病院の公認キャラクター「あさまんぼう」と。

「モトジーズのような各病院の劇団は病院主催のイベントや、病院祭という病院と地域をつなぐお祭りなどで主に活動しています。トーシンズのメンバーが揃わないようなときは、モトジーズから助っ人を引っ張ってきたりもするんです。モトジーズもトーシンズも劇団員になる人は、基本的に僕のスカウトですね(笑)。普段仕事で接していて、舞台度胸がありそうな人を誘っています」

そんなわけで世代もそれなりに幅広いのだが、練習風景を見ていると、発足時からのメンバーである臨床検査技師や薬剤師のアドリブから新たなシーンが追加されたり、最年少の栄養士と医師が一緒にセリフ合わせをしていたりして、通常の業務とは異なる関係性がそこには存在している。トーシンズは近隣の市町村や、ときには県外で出張公演をすることもあり、かつて自分たちが教えを受けたように、その地域の医療従事者に向けてシナリオ作成の研修なども行っている。

「長野県大町市の病院では研修がきっかけで劇団が誕生したそうです。自分たちの撒いた種がちゃんと芽を出してくれると、やっぱり嬉しいですね」

若月先生がその昔、演劇という手段を用いて健康指導をしたことを、仲先生はトーシンズ結成後に知ったそう。結成に直接的な影響は受けていないものの、そもそも演劇に慣れ親しんできた地域でトーシンズが生まれたことに、不思議な縁を感じている。

「浅間総合病院の初代院長の吉澤國雄先生は、若月先生とほぼ同世代なのですが、約60年前に糖尿病専門の外来を始めた方で、それが今は僕が所属する糖尿病センターになっています。若月先生にしろ、吉澤先生にしろ、伝統を受け継ぐかたちで我々がいるという意識はとても大事。先達が作ってくれた環境があるからこそ、僕たちがこうして活動できるんですよね」

普段は白衣を着ている医師が、被り物をして観客を笑わせたり、所属先も職種も年齢も異なる医療従事者たちが、和気あいあいとひとつの芝居を作り上げたり。作る人も見る人も楽しめる演劇は、健康知識を広めるだけではないさまざまな効用を持っていた。

【特集:「自分の健康は、自分で守る」まち】
●農村医療が生まれたまちでつながる、「地域医療」のバトン。“医療の充実”がもたらすものとは?▶︎▶︎
●「予防は治療にまさる」。住民と育む、佐久市の“健康教養”▶︎▶︎

「予防は治療にまさる」 住民と育む、佐久市の“健康教養”

自分たちで正しい知識を学ぶ。
予防意識を浸透させる、保健補導員

住民の健康教養、つまり健康に関するリテラシーを育むうえで、伝統的に大きな役割を担ってきたのが、長野県の「保健補導員制度」だ。劣悪な衛生環境下で結核や赤痢などの伝染病が蔓延し、乳幼児の死亡率が高かった昭和20(1945)年に誕生。高甫村(現須坂市)の保健婦の孤軍奮闘する姿を見ていた地域の主婦たちが、少しでも手伝いをしようと自主的に呼びかけて、活動を始めたのがきっかけとなっている。

その日を生き延びることに心を砕いていた時代に、自分たちの健康を守るには、まず学習して正しい知識を身につけることが重要だと気づき、自主的学習の場として保健活動をスタートさせたことは、特筆に値するだろう。

時代とともにアップデートしながらこの制度は現代にも受け継がれていて、長野県内ほぼ全市町村の各地域で、住民1、2名が保健補導員となり、研修等で学んだ知識を地域や家庭に還元している。

中山道の宿場町として栄えた、蓼科山の裾野に広がる佐久市望月エリア。10月のある日曜日の朝、女性たちが公民館に集まって年に一度の大掃除に勤しんでいた。掃除終了後、この地区の保健補導員・高橋達子さんの企画によって開催されたのが、地区自主活動と呼ばれる健康意識を広めるための会合だ。集まったのは仕事を持つ50~60代の女性が中心で、お茶とお菓子を囲みながら和やかな雰囲気で会はスタートした。

望月地区を担当する保健師の波間春代さんが、全員の血圧測定と健康相談を行い、その後「フレイル」をテーマにした簡単な講義が行われた。ほとんどの人は初めて聞く言葉のようだが、フレイルは虚弱を意味し、加齢により心身の活力が低下した状態のこと。

健康な状態と要介護状態の狭間を指し、厚生労働省が介護予防につなげるためにも、重点的に力を入れつつある対策だ。言ってみれば流行を先取りしたキーワードなのだが、そんな言葉が山深い地域の公民館の一室で熱心に語られていること自体が、まずもって興味深い。

「今日参加されているみなさんは、まだまだ若く、高齢者を支える側といえます。予防というのは、目の前に迫っていることに対しては残念ながら間に合わないほうが多いです。10年後、20年後を見据えてやるべきなので、将来的に押さえておきたい知識としてこのテーマを選びました」

講義では、筋肉量を自分で測ることのできるテストも紹介。ふくらはぎの最も太い部分を両手の親指と人差し指で囲んでチェックするのだが、誰でも簡単にできるうえ、第三者に伝えやすいというのもポイントだ。

「保健補導員さんは、保健師と地域をつないでくれる存在でもあります。保健補導員さんがいないと、私たちは地域で啓発活動をすることができないですし、些細なことですが今日のような活動の積み重ねで、健康意識が浸透していくのです」

へき地とされる望月地区では、近隣の開業医による週1回の巡回診療が長年行われている。

 

健康について学んだ人が
地域に増えていくことの意味

2019年の佐久市の保健補導員の数は、698名。うち女性は675名で、平均年齢は約60歳だ。

「昭和46年に長野県全域で開始した保健補導員制度は、死亡率がとても高かった脳卒中を減らすことが大きな目的でした。減塩などの栄養指導が中心だったため、その流れで今も保健補導員は主婦の方が大部分を占めています。地域との結びつきが比較的強い女性のほうが、学んだことを家族や地域の人たちに伝えやすいんですよね」

保健補導員の任期は2年間。食事、運動、病気、介護など幅広いテーマで開催される研修や学習会に、平均して月1回程度参加する。波間さんいわく「短大に入学したつもりで2年間、健康について勉強する」のだ。

地域の人は誰でも知っている『望月小唄』に合わせた運動も。手に持っている棒は新聞紙1日分を丸めて作ったもの。この運動は昨年の保健補導員大会で発表されたもので、全身を無理なく動かせるよう工夫されている。

世代的に外に働きに出ている人も多いし、子どもや孫の世話、家族の介護など家庭の事情で学習時間を捻出するのが難しい人も、実際のところ少なくないだろう。それでも任期が終了する頃には、健康に関するさまざまな知識が身につき、地域とのつながりも密になり、さらにはほかの地域の同期の保健補導員との交流も生まれ、経験してよかったと満足する人が多いそう。

「私は30年以上この地域の担当をしていて、今日参加している方たちの親御さんが保健補導員だった時代からお世話になっているんです。2年間の経験を次の人に引き継いで、学んだ人が地域にどんどん増えていくことが、保健補導員の真髄なんですよね」

ひとりでは意見しづらいことを
地域の女性の声にする

保健補導員は行政主体の制度だが、40年以上続いている「佐久しあわせ教室」は、住民が自主的に行っている稀有な取り組みだ。主宰するのは、佐久市臼田の佐々木都さん。

老舗旅館「清集館」の女将である都さんは、91歳になる今も旅館の顔として入口横の受付に座り、訪れる人たちとにこやかに話をしたり、書き物をしたりなど忙しい日々を送っている。

お会いして年齢をうかがうと、その快活さに驚かずにはいられず、しあわせ教室でともに活動している駒村重子さん、井出好栄さんとの和気あいあいとしたおしゃべりを聞いていると、こちらまで自然と元気になってくる。

「しあわせ教室は女性の自立を目指しているのですが、最初は毎月1回楽しくおしゃべりすることを目的に始めたんです。教室を始めた頃は特に、どこの家庭の男性も日々いろんな会合があって、『行ってくるよ』のひとことで外へ出かけられるような時代だったでしょう?

一方で女性は、お姑さんに子どもの世話をお願いしたり、食事のしたくを済ませたりなど、いろいろ都合をつけないと気軽に外出もできやしない。毎月開催する日にちを決めてしまえば、多少なりとも女性が出てきやすくなると思ったのです」

教室のテーマは毎回変わり、豆の煮方やパウンドケーキの作り方など料理を習うときもあれば、手芸、書道、体操などをするときも。参加者自身が講師になって得意なことを教えたり、つてで講師を呼ぶこともある。今まで特に好評だったというのが、親の葬式をテーマにした回。

「みなさんにとって気がかりなテーマだったようで、60人くらい集まりました。戒名の値段はどうしてそんなに高いのか、和尚さんに率直に聞いたりして、ひとりだと質問しにくいようなことも、大勢だと気軽に話し合えるんです」

佐久しあわせ教室は活動はこれまで何度も新聞等に取り上げられていて、住民主体の地域医療のあり方としでも注目する人も少なくない。掲載されるたびに新聞社が記事をラミネート加工してくれるそうで、佐々木さんの手元にはかなりの数が。

暮らしのなかでなんとなく疑問や不安を感じているけれども、ひとりでは声を上げづらいようなことを、“地域の女性の声”にすることも、しあわせ教室の大きな役割といえる。生活にまつわる関心事がテーマになることが比較的多いのだが、参加者の年齢が上がるのに合わせて、2006年から教室の一環として始まったのが、「ドクターとおしゃべりタイム」だ。

会場となる近所の喫茶店にゲストとして医師を招き、診察室での限られた時間では聞けないような素朴な疑問を投げかけたり、意見交換を行っている。

これまで、近くにある佐久総合病院の医師や市内の開業医などをゲストに招き、「笑って老いよう」「ケアからはじまる不思議な力/ケアする側とされる側」「平均寿命と健康寿命」「ペインクリニックについて」「難聴など老いとの向き合い方」などをテーマに開催してきた。さまざまな医師を呼ぶことができるのは、女将である都さんの顔の広さのおかげでもある。

「その昔、佐久総合病院はサケ総合病院って言われていたほど。はしご酒をしたお医者さんたちが、大抵最後にうちに飲みにいらっしゃってたから、向こうの様子はうんと知ってるの(笑)」

都さんは、佐久の地域医療の功労者である若月俊一先生とも交流があった。当時、若月先生が目指した地域や病院内での「医療の民主化」を進めるうえで、お酒の力を上手に利用してコミュニケーションを深めることは欠かせなかったようだ。それはさておき、お酒はなくてもドクターとおしゃべりタイムで医師と住民がざっくばらんに話をすると、診察室のなかだけでは育むのに時間がかかる信頼関係が、無理なく生まれるという。

駒村さんと井出さんお手製の栗ごはん、ズッキーニのカレーピクルス、福神漬け。みんなで集まるときはこうした手作りのお茶請けを持ち寄って、作り方の話でも盛り上がる。

友達みたいな感覚で
医師と住民が気軽に語り合う場

「この会に最初に来てくださった先生が、勤務時間内だとそれなりの謝礼が発生するけれども、勤務時間外だったら自分の意志で自由に来られるから、と言ってくださったんです」

それだけでなく、招かれた医師も参加者と同様にコーヒー代を含む参加費を支払うのが習慣になっている。ゲストとはいえ、ここでは医師と住民はあくまでも対等。参加者に学びが多いように、医師にとっても住民の胸の内を聞ける貴重な機会になっているのだ。

「おしゃべりのあとに特技の歌やギターを披露してくださる先生もいて、みなさん楽しみにきてくださるんです」

顔なじみになった医師とは、病院内だけでなく、スーパーなどで偶然顔を合わせたときも気軽に言葉を交わすし、最近見かけない人がいれば、元気かどうか様子を気づかってもくれる。都さんは、そんな医師との関係を繰り返しこう表現する。

「友達とか仲間なんて言ったら失礼ですし、尊敬もしていますけど……、本当に友達みたいな感覚なんです」

医師と住民が友達感覚で気軽に語り合えるこうした場は、まさに若月先生が目指した医療の民主化を体現しているのではないだろうか。

「地域貢献みたいな大それた思いでやっているわけじゃないの。ただできることをやってきただけなのよね、私たちは」

左から、駒村重子さん、佐々木都さん、井出好栄さん。本音は言う、けれどもネガティブなことは言わないから、いい関係でいられるそう。常に笑いが絶えなかった。

▼保健補導員制度とは?
昭和20年(1945年)に現在の須坂市で誕生。昭和46年(1971年)には、地域住民の健康増進に寄与するため長野県国保地域医療推進協議会が設置され、当時、長野県が日本一の脳卒中多発県だったため、保健婦、保健補導員等によって原因を探る調査を行う。この取組が県下の市町村を巻き込み、保健補導員等の組織化が促進され、現在はほぼ全市町村で組織されている。
保健補導員について:www.city.saku.nagano.jp/kenko/kenkozoshin/kenshin/about.html

波間春代さん(佐久市役所 健康づくり推進課)

保健予防、健康増進、検診推進などの役割を担う、佐久市役所の健康づくり推進課に務め、30年以上、望月地区を担当する保健師。


佐々木都さん(「佐久しあわせ教室」主宰)

佐久市臼田生まれ。老舗旅館「清集館」の女将。地域や女性のための活動を長年続けるほか、随筆集、短編集を多数出版するなど、文筆家としても知られている。著書に『88歳・佐々木都という生き方』など。元気の秘訣は、コイ(佐久名物の鯉料理を食べ、恋をしてドキドキすること)!

【特集:「自分の健康は、自分で守る」まち】
●農村医療が生まれたまちでつながる、「地域医療」のバトン。“医療の充実”がもたらすものとは?▶︎▶︎
●「農村に入ったら、演説ではなく演劇を」 演劇を通じて広がる、佐久市の健康意識。▶︎▶︎

大きなものを手放し、沖縄へ。 暮らし中心の日々が、つくりたいと思える雑誌へと導いてくれた。

会社を辞めたとたん、大きく物語が動き出した

会いたい人に会いたい、知らないことが知りたい。新卒で入社以来、その変わらない思いのもと走り続け、没頭してきた雑誌編集という仕事。仕事と生活の境目なく生きられるのは、側から見れば幸せなことでもあるが、没頭しすぎて“生活すること”自体をおざなりにしてしまうこともしばしばだった。

「ずっと月刊誌の編集を続けていたのですが、年を重ねるごとに、体力が追いつかなくなってきていたんです。ほんとうにやりがいのある大好きな仕事でしたが、このままのペースで仕事を続けるのは難しいなと思っていて。それで40歳になる年に、会社を辞めて、フリーランスとして雑誌に関わせてもらうことにしたんです。あとから思うと、辞めたかったのは体力的にきつかったからだけではなく、きちんと“暮らし”がしてみたかったんだと思います」

そう話す川口美保さんの現在の拠点は沖縄・首里。4年前、ご主人とともにオープンした雑誌と同名のお店「CONTE」を営みながら、首里の町に暮らしている。川口さんは福岡出身、ご主人は神奈川出身と、2人とも沖縄にゆかりがあるわけではなかった。けれど、川口さんが会社を辞めて旅行で訪れた沖縄で、すでに移住して飲食店で働いていたご主人と出会い、川口さんの一目惚れで1年後に結婚。沖縄へと移住。それだけで、すでに“物語”だ。

「大きなものを手放すと、新しい何かが入ってくるというのは、本当なんだなと思いました。実は、会社を辞めて最初の誕生日に、東京にいたくなくて友人と沖縄へ旅行に来たんです。それで、浜比嘉島という沖縄をつくった神様が子育てをしたと言われる子宝の島があると聞いて、その島に泊まることにしたんです。ちょうど旧正月のあとで、御嶽のある洞窟が特別に入れるようになっていたので、そこでもう、本気でお参りしました。家族が欲しい、子どもが産みたいと思っていたから。そしたら、その次の日に今の旦那さんと出会いました」

沖縄に暮らすことを選んだ理由

夫婦で暮らし始める場所としてお互いの地元という選択肢もあったが、それは選ばなかった。沖縄に決めたのは、以前から沖縄を取材でたびたび訪れることがあり、惹かれていたからだという。

 「30代の半ばくらいから、『このままずっと東京に住み続けるのかな』と、疑問に思うようになっていたんです。もちろん、いずれ実家のある福岡に帰ることも考えてはいました。それと同時に、沖縄もいいなと思うようになっていたんですけど、じゃあ仕事はどうするの?という思いと堂々巡りしていました。なぜ沖縄に惹かれていたかといえば、『うたの日コンサート』の取材がきっかけかもしれない。

私は、もともと音楽が好きで『SWITCH』編集部に入ったので、よく音楽の記事を担当させてもらっていたんです。それでBEGINの取材の一環で、毎年6月23日の慰霊の日の後に開催される『うたの日コンサート』の取材をしに沖縄に来たんです。

『うたの日』って、うたをお祝いする日なんですが、なぜ6月23日の後なのかというと、沖縄戦のとき、歌うことや踊ることは不謹慎だと言われて禁止されていたそうで、でも、それでも沖縄の人々は防空壕の中で、歌い踊ることで悲しみや痛みを乗り越えてきたそうなんですね。それで、事実上沖縄戦が終結したとされている「慰霊の日」の後に、みんなで「うた」に感謝しようと、BEGINが『うたの日コンサート』をはじめたんだそうです。

私は2004年、BEGINの取材で初めて見たのですが、若い世代だけじゃなくて、子どももお年寄りも、3世代が同じ歌を口ずさんで踊っているその光景に、ものすごく胸を打たれたんです。こういう音楽の姿があるんだと。その後も沖縄のいろいろなミュージシャンや沖縄民謡の唄者の方々を取材させてもらうたびに、沖縄の心を歌う人たちの思いに触れて、どんどん沖縄に惹かれていきました」

そうして暮らし始めた沖縄の地。沖縄ほどの観光地なら、積極的に活動すればガイドブックなどの編集仕事はあるはずだが、川口さんはそれよりもまず、時間をかけて土地に慣れること優先した。

 「東京の日々が忙しかったから、人生の夏休みと思ってはじめの1年はゆっくり過ごそうと思いました。ちょうど東京で始まったばかりだった書籍の仕事をこっちに持ってきて、それを少しずつやりながら。ずっと求めていたのはこれだったと実感するくらい、暮らしが中心の新しい生活はたのしかったですね。

たまたま、近くの『富久屋』という古くから伝わる首里の家庭料理を出すお店でアルバイトを募集していて、週に2〜3回働かせてもらえることになって。そこに来る常連の方々やお店のオーナー夫婦が、沖縄の風習について、食について、いろんなことを教えてくれるんです。それに若い子たちには、年配の人たちを敬う心が自然と身についているんですよね。今のお年寄りたちが、戦後の大変な時代を乗り越えてくれたから自分たちがある、ということをよく理解している。実際に暮らしてみて、そのことをより実感しました」

 

その土地に、根を張るということ

移住して1年ほどが経ち、首里での生活にもだいぶ慣れてきたころ、ご主人とこれからのことについて話すようになった。その対話の中から、2人で営むお店「CONTE」の輪郭が浮かび上がってくる。

「彼はその頃、宜野湾のカフェで働いていたんですけど、それまではずっと自分の店を持っていた人でした。お店を経営するノウハウを持っているなら、もう一回自分の店を持つのはどう? と持ちかけてみたら、『それなら一緒にやろう』ということになって。私は飲食の仕事はまったく未経験だったから、料理を手伝うよりも自分の得意分野として、音楽のライブや写真展、トークショーなど、こっちで知り合った人と何かができたり、東京からも人が呼べるようなスペースができたらいいなと思った。

それで、物件を探し始めて1年ほど経ったある日、たまたま首里を散歩していたら今の場所が『貸し』になっていたんです。急にトントンと決まって、内装も友人の大工さんにお願いしながら、自分たちができるところは自分たちでつくっていきました」

『CONTE』のオープンは、2015年9月末。はじめから、夜は自分たちのための時間にしようと、営業は昼のみと決めていた。ご主人が手掛ける料理は、沖縄の季節の食材を使ってつくられ、沖縄の陶芸家の器にもこだわり、川口さんが不定期に企画するイベントは、沖縄の内外から多彩なゲストを招き、新たなつながりを生み出していく。こうして『CONTE』が動き始めたことで、それまでにない気づきを得ることもできた。

「いざお店をはじめてみると、何かよみがえる感覚がありました。店という箱の中で、何と何を掛け合わせたら面白いか、それをどうお客さんに楽しんでもらうか。立体か平面かという違いだけで、編集の仕事と同じなんだと気づきました。それに、彼を通じて食の生産者との目にみえるつながりを知ることができたのもよかった。お店を始めるまでは、どこかまだ旅行者の気分だったところがありましたけど、地元のお客さんがきてくれるようになって、知り合いも少しずつ増えて、『庭で採れたから』とお裾分けをいただくようになったり。ありがたいつながりが増えてきて、ようやく少し土地に根づき始めたという実感が持てるようになりました。

雑誌をつくっているときは、読者とつながるという実感を得たことがあまりなかったけど、店という媒体は直につながることができる。農家さんが大事に育てた野菜をおいしく料理して、それを食べてくれる人がいて、お金をいただいて、またそのお金で野菜を買わせてもらう。そうして、小さい円で経済が循環することが、こんなに満たされた豊かなことだというのを初めて知ったんです」

従来の雑誌づくりの根本を問い直す

お店をはじめて3年という月日は、川口さんにとって『CONTE MAGAZINE』を立ち上げるに十分な糧となった。このタイミングになったのは、長く出版業界の第一線で仕事をしてきたからこそ、「なぜつくるのか」が腑に落ちるのを待っていたからではないだろうか。

「ずっとどこかで雑誌をやりたいという思いを持ち続けていました。でも、沖縄という土地だからこそ、簡単にはできないという思いもありました。私が触れてきた沖縄の人たちは、みんな故郷を大切に、誇りに思っている尊敬すべき人たちだったから。それが、5年経ってようやく輪郭を帯びてきたんです。

『CONTE』という店の名前は、夫が付けたのですが、フランス語では「ショートストーリー」という意味があります。つまり「物語」。東京の大きな世界から、沖縄の小さな循環へと居場所が変わったことで見えてきたのは、今起きているうまくいかないことの多くは想像力の欠如なんじゃないかということでした。つながりを手放してしまったことが、いろんな問題を引き起こしているんだとしたら、それをまた再び手繰り寄せて物語を語り継いでいくには、沖縄という場所でつくることに意味があると思えたんです」

雑誌や書籍などの出版活動は、これだけ通信環境が多様化して二拠点生活者が増えてもなお、東京で制作されるものが圧倒的に多い。観光地ならガイドブックであったり、地域おこしなどに紐づく媒体は、地方から発信するものがずいぶん増えたが、土地性によるものがほとんど。
けれど、『CONTE MAGAZINE』は、沖縄発信を謳っていない。ただ沖縄という土地から世界を眺め、紡がれていく雑誌。本来、東京でなければつくれない雑誌などないのだと気づかせてくれる。

しかし、コンセプトが定まり記事にしたいことは山のようにあっても、いざ立ち上げるとなるとなかなか進まない。そこで、ある編集者に一緒につくってほしいと相談を持ちかけた。

「一人きりだと、相談したり『あれどうなった?』って言ってくれる相手もいないので、どんどん毎日がすぎてしまって。沖縄のゆっくりしたペースがすっかり染みついていたのかもしれない。これはもう、誰かパートナーを探すしかないと思って、もともと『ロッキング・オン・ジャパン』や『H』などの編集をされていた、長嶺陽子さんに持ちかけたんです。そしたら『やろう』と言ってくれて。実は、私が沖縄に来るずっと前に、陽子さんもロッキング・オンを辞めたあと沖縄に移住して結婚し、今は旦那さんと沖縄料理と泡盛のお店を営みながら編集やライターの仕事をしている。不思議なくらい私と似た境遇なんです」

心強いパートナーを得て、誌面づくりは一気に具体化し始めた。『CONTE MAGAZINE』は、いわゆる一般的な全国流通に乗せる雑誌ではなく、手売りベースの自費出版だ。ネックなのは、一番お金のかかる印刷費。川口さんたちが、その資金の調達方法として選んだのは、広告をとるのではなくクラウドファウンディングだった。

「クラウドファウンディングに挑戦したのは初めてだったんですけど、やってよかったと思いました。つくりたい本があって、それに対して応援してくれる人たちに、いい本をつくることでお返しする。すごくシンプルでわかりやすいシステムだなと思いました。でも、目標額に達成していざつくり始めると、これがまたなかなか進まない(笑)。普通、雑誌はある程度ページ数が決まっていて、そこに記事を当てはめていくんですけど、すごくいいインタビューがとれても、ページ数が決まっていると、どうしてもすべてを伝えきれないことも多いんですよね。だから、この雑誌はページ数を決めずに書きたいだけ書いて、デザイナーにも好きなようにレイアウトしてもらうことにしたんです。そしたらどんどんページが増えてしまって……」

伝えたいことが、過不足なく伝えられる。それは、つくり手にとっては理想的なあり方だ。こうして従来の編集方法に捉われず、模索しながらの紙面づくりも、ようやく完成。創刊号は、雑誌名でもある「物語」が特集。どんな一冊になっているのだろうか。

 「特集をどうしようかと考えていたころ、心理学者の河合隼雄先生の本を読んでいたんです。その本の中で、先生は『物語とは、何かをつなぐ役割を果たしていくものだ』と、何度も書いていた。じゃあ、河合先生が亡くなられた今、それを語ってくれる人は誰だろうと思ったとき、循環器内科の稲葉俊郎先生が思い浮かんで、東京まで話を伺いに行きました。また、特集では笑福亭鶴瓶さんにも取材をさせていただいているのですが、鶴瓶さんには『SWITCH』の頃からほんとうにお世話になっていて、雑誌をつくるなら絶対に創刊号に迎えたいと思ってオファーさせていただいたんです。他には、角田光代さんも登場していただいていますが、角田さんはこの取材のために沖縄まで来てくださいました。私や陽子さんがこれまで築いてきたつながりが雑誌にも活かされています。

ほかにも、写真家・石川竜一さんや垂見健吾さんのフォトストーリーをはじめ、沖縄で活動する作家さんにも参加してもらって。そんなふうに、今話を聞きにいくべき人がいるなら、沖縄に限らずどんなところにも足を運ぶ。ある意味、その部分は東京で仕事をしていたときと変わらないけれど、沖縄の風土の中で今の自分たちがこれをつくればどんなものができるのかが見てみたい。そう思ってつくっています」

CONTE(コント)
住所:沖縄県那覇市首里赤田町1-17
電話:098-943-6239
MAIL:conteokinawa@gmail.com
営業:11:00〜17:00(L.O.16:00)
定休:月曜
HP:http://conte.okinawa/

農村医療が生まれたまちでつながる、「地域医療」のバトン。“医療の充実”がもたらすものとは?

患者さんの人生を
もう一度一緒に辿る「在宅医療」

群馬県との県境にある、人口10万人弱の長野県佐久市。浅間山連峰、秩父山地、八ヶ岳連峰に周囲をぐるりと囲まれている。東京駅から長野新幹線で1時間半弱と都心へのアクセスもいいが、周辺の軽井沢や蓼科、諏訪などと比べると、観光面の知名度はそれほど高くない。しかしながら佐久市は、医療従事者も一目置く、健康長寿のまちなのだ。

戦後間もない頃、この辺りは農業従事者が多く、「医者にかかるのは一生に一度」と言われるほど、住民にとって病院は縁遠い場所だった。そんななか、健康診断のもととなった出張診療を全国に先駆けて行い、自分たちで健康を守り、病気を予防することの重要性を説いてきたのが、佐久総合病院の医師、若月俊一先生だった。

住民にとって医療が身近になるために尽力し、地域に根ざした医療を目指した若月先生の活動は現在に引き継がれ、佐久市は今なお在宅医療体制が充実している。実際、自宅や施設など住み慣れた空間で診療を受け、最期を迎える在宅医療を選択する割合が、全国で圧倒的に高いのだ。

「病院を出て、地域に出ろ」と、農村を回り診療を行っていた若月俊一医師。「農村に入るなら、演説ではなく、演劇をやれ」という宮沢賢治の言葉から、演劇を通じて予防知識を普及させたことでも知られる。【写真提供:佐久総合病院】

「在宅医療は、若月先生が唱えた“医療の民主化”の精神が色濃く受け継がれているかもしれません」と話すのは、現在佐久総合病院で、自宅や施設を訪問する診療を長年続けている、地域ケア科医長の北澤彰浩先生だ。2006年、96歳で亡くなった若月先生の最後の主治医でもある。

最初に訪問診療に同行させてもらったのは、在宅酸素療法を受けている高橋さん(84歳)のご自宅。酸素ボンベを携帯して通院する負担が徐々に大きくなってきたため、在宅医療に切り替えて3回目の診療になる。病院の診察室で医師と向かい合う時間は、大なり小なり緊張を強いられるものだが、リビングのソファに座っている高橋さんはリラックスしているように見える。

「我々医師や看護師が、在宅医療で大きな目的にしているのは、患者さんが希望する場所で、なるべく希望に沿ったかたちで生活をしてもらうこと。ですから今までその方が、どういったことを大事に生きてきたのか理解することが、より大切になってきます」

その点、自宅というプライベートな空間から見えてくる人となりは、たくさんある。たとえば飾られている家族写真から、患者と家族の関係が浮かび上がってくるし、趣味の道具が部屋の隅に置かれているかもしれない。賞状などからは、誇りにしていることがうかがえる。

「元気なときにどんなことを考え、社会的にどんな役割を担い、どんなことをしてきた人なのか、その方の人生を一緒にもう一度辿らせてもらう。その過程は残りの時間をどうやって生きたいかという思いに少なからず影響していますし、在宅医療のほうが圧倒的に見えやすいですね」

もう1件訪問したのは、介護保険施設に入居する志摩さん(99歳)。施設に入居したのは3年ほど前で、北澤先生が外来で長らく担当していたのだが、家族の負担や体力の低下などを考慮して、今年から在宅医療に切り替えた。

訪問してから、志摩さんは北澤先生の手を力強く握り続けていた。医師と患者の距離は想像していたよりもずっと近い。北澤先生は志摩さんのような超高齢者や、認知症の初期段階の方に対して、もしものときにどんな治療やケアを受けたいか、あらかじめ本人の意思を確認している。

「アドバンス・ケア・プランニングというのですが、患者さんに伝わりづらいので、僕は“心づもり”という言葉を使っています。最期をどこで過ごしたいか、万が一口からご飯を食べられなくなったときにどうしたいか、などをお聞きして、本人の希望に沿った処置ができるよう情報を共有しています。

外来に見える方にもそういった話をするのですが、自分の意思をご家族にきちんと伝えていない人が意外と多い。そういった場合は、次の診察のときに同席してもらって、お話するようにしています」

最期まで楽しく生きられる
佐久市の事例が、世界へ

ベッドの高さやトイレまでの動線をどうするか、なるべく自分の足で歩きたい方、家族の介助を最小限にしたいと思っている方、独居の方、自室にあまり人を入れたがらない方にはどのような環境が必要か……。

在宅医療を始める際は、医師、看護師、介護福祉士、ケアマネジャーなど、患者と関わるさまざまな職種の人が集まって、本人の意思を尊重したプランを立てるケア会議が行われる。佐久総合病院で伝統的に行われてきたこのやり取りは、効率化が求められている医療現場の時流に逆行する細やかさといえる。 

医師、看護師、ケアマネージャー、ヘルパーなど、在宅医療に関わる人たちが、訪問した際に患者さんの状況を把握できるよう、連絡帳には血圧、体温など基本的な健康状態や、日常の様子などが事細かに記録されている。

自宅にある薬を数える、看護師さんたち。本来飲むべきだったものを、飲み忘れたり、余らせてしまった「残薬」は、薬剤費の増加の要因のひとつとして問題視されている。外来で患者さんが申告するだけではなかなか把握しきれない残薬も、訪問するからこそ正確に確認できる。

「若月先生は、将来的に認知症が増えることも見越していたようで、認知症を治す薬をどうこうするのではなく、認知症になっても住みやすい地域にしていかなければいけないとおっしゃっていたのです」

「介護老人保健施設」を国が初めて導入する際、7つのモデルをつくったのだが、そのうちのひとつが佐久総合病院だった。大多数の医師は、病院にお年寄りを看る場所を設置することに猛反対。ところが若月先生は、入院していた人がいきなり自宅に戻って社会復帰するのは大変だから、その間を経由する場所として介護老人保健施設の必要性を主張。

現代の日本でなくてはならない施設になっていることを考えると、いかに先見の明があったかを思い知らされる。こうした精神を受け継いでいる北澤先生が、佐久にやってきた経緯も興味深い。

「僕はもともと発展途上国の医療に興味があって、スリランカ、インド、ネパール、パキスタンなどを転々としていました。人が生きていくためには食べ物が必要で、農村地帯がしっかりしていないといけない。農業従事者の健康をないがしろにしたら人間はアウトだと、そのとき気づいたのです。そして日本で農村医療に力を入れている地域に行きたいと思い、佐久に辿り着きました。

今の日本は全世界に先駆けた超高齢社会で、世界中が注目している場所といえます。なかでも長野県は高齢化率が高く、お年寄りが元気で楽しく最期まで生きられる地域を僕たちがつくることができたら、世界中が見習うことができると思うのです。国際保健や国際協力につながることを、佐久でやらせてもらっていると実感しているんです」 

看護師として、母親として。
医療が、身近なことの豊かさ

10年前にUターン移住をした野村真由美さんは、もうひとつの基幹病院である佐久市立国保浅間総合病院 地域包括ケア病棟の看護師として働いている。高校卒業後、神奈川県の大学の看護学部に入学。その大学病院で働きながら、ふたりの子どもを育ててきた。会った途端にこちらが心を開いてしまうような、 迷いのない目を輝かす明るい女性だ。

「Uターンをする一番のきっかけは、子育ての環境でした。自分が田舎で生まれ育ったので、自然のなかで泥だらけで遊べるような子育てをしたかったんです。でも現実は共働きだったので子どもを預けるだけでも大変で、延長保育を繰り返しては、お迎えのときに子どもがしがみついてくるような状態でした。

そんなとき、子どもを見に来てくれていた親に『お前の子どもは笑ってないぞ』と言われたんです。私自身がいっぱいいっぱいで、きっといつも作り笑顔だったんでしょうね。そのひとことで我に返った感じでした」

そして1歳と2歳だった子どもを連れて、実家のある佐久へ。夫も移住を考えたものの、今の仕事を続けたいというお互いの思いを尊重してそのまま残ることに。
神奈川と佐久で別々の生活が始まった。野村さんは半年ほど子育てに専念してから、浅間総合病院で働き始めた。現在彼女が所属する地域包括ケア病棟は、自宅や施設でスムーズに生活できるようリハビリなどをする、退院の準備期間になる場所。患者さんの多くは高齢者だ。

「佐久は90代、100代の方が珍しくないんです。患者さん同士の会話を聞いていると、80代の方が『まだまだこれからだ』と100代の方に言われていたりして(笑)。畑仕事をするために一生懸命リハビリをして、退院していく姿を見ていると、生きがいのある方は本当にお元気だなと思います」

「専門外のことが出てきたら、ほかの科に聞いてすぐに返事がもらえるんです。大学病院ではそれが最終手段だったので驚きました」と、野村さん(一番左)。患者さんとの距離も近いという浅間総合病院の、職員同士の風通しのよいアットホームな空気が伝わってくる。

若月先生が地域医療の功労者であることは知っていたものの、現在の佐久が健康長寿の街であることや、そのための医療が手厚いことは戻ってくるまで知らなかった。

「以前子どもが夜中にインフルエンザを発症して、小児科の医療相談ができる佐久医療センターに電話をしたんです。応対してくれた看護師さんが丁寧に話を聞いてくださって、ものすごく安心できました。看護師の私でさえそう感じたのだから、一般の方はちょっとした助言やひとことが本当にありがたいと思います」

都会で夫婦それぞれ仕事に情熱を捧げ、自分のペースで暮らす時間も充実していたが、子どもが生まれるとそのバランスは否が応でも変わってくる。野村さんはそれでもしばらく踏ん張っていたが、佐久に帰ってきてこんなにもリラックスして子育てができるものなのかと、目から鱗が落ちたようだ。

「都会にいたときは子どものことを一番に考えるあまり、自分の楽しみなんて考える余裕もなかったし、考えたこともなかったです。だけど今は仕事の合間に山登りをしたり、マラソンをしたりして、好きなこともいっぱいやっています。子どもたちも自由に育ちすぎちゃったくらいです」

そうやって笑う姿は本当に楽しそうだ。自分の五感が育まれた場所で子育てをして、仕事にも励み、そしてここには人生を楽しむ先輩たちがたくさんいる。ロールモデルが多いことは何よりも心強いし、そのことが佐久の人々の元気の源になっているはずだ。

<佐久総合病院>
佐久地域最大の総合病院。昭和19年に20床の病院として開院。翌年3月に赴任した外科医・若月俊一先生は「農民とともに」の精神で、農家を回って診療を行ったり、演劇を通して予防意識を浸透させたり、日本で初めて病院給食を実施。毎年5月の2日間にわたって開催される病院祭も、開かれた病院を目指すべく若月先生が昭和22年に始めた。近年は、国内外から多数の研修生を受け入れている。

住所:長野県佐久市臼田197番地
電話番号:0267-82-3131
www.sakuhp.or.jp

<佐久市立国保浅間総合病院>
昭和34年に開院し、現在は地域の中核病院として機能。初代院長・吉澤國雄先生は、糖尿病を生涯の専門とし、患者と共に医療はどうあるべきかを考え、現在は一般的となったインスリン自己注射を日本で初めて導入するきっかけを作った。さらに糖尿病の集団検診や県内初の専門病棟の開設など、早期発見と治療を精力的に行い、その精神は平成29年に開設された糖尿病センターに受け継がれている。

住所:長野県佐久市岩村田1862−1
電話番号:0267-67-2295
www.asamaghp.jp


北澤彰浩 先生(佐久総合病院 地域ケア科医長)
1965年、京都府生まれ。滋賀医科大学医学部医学科卒業。発展途上国の医療に興味を持ち、スリランカを中心に1年間ボランティア活動を行った。そこで、人が生きていくためには、農業従事者の健康が大切であることに気づき、佐久総合病院へ。現在は、地域ケア科医長として、患者さんの人生に寄り添った訪問診療を行う日々。影響を受けた書籍は『次郎物語』『人間の運命』、映画は『ゴッドファーザー』『スライディング・ドア』。好きな食べ物は、煮た大根。


野村真由美さん(佐久市立国保浅間総合病院 看護師)
1973年、長野県佐久市生まれ。北里大学看護学部卒業後、北里大学病院にて17年勤務。2010年に佐久市にUターンして、佐久市立国保浅間総合病院に。現在は、地域包括ケア病棟にて働いている。趣味は、ピアノ、読書など。昨年から、雪合戦チーム(本気のスポーツ雪合戦)に入るなど、仕事以外でも自分の時間を楽しむ日々。影響を受けた本は、高校の1学年先輩だったという新海誠監督の書籍『君の名は。』『言の葉の庭』など。

【特集:「自分の健康は、自分で守る」まち】
●「予防は治療にまさる」。住民と育む、佐久市の“健康教養”▶︎▶︎
●「農村に入ったら、演説ではなく演劇を」演劇を通じて広がる、佐久市の健康意識。▶︎▶︎

強さと弱さを知っているからこそ 子どもたちを守ることができる。

プロ格闘家として活動するなか、
震災をきっかけに保育士の道へ

一朗さんが、鶴岡で好きな場所のひとつだという湿地帯へと連れて行ってもらった。取材時には青々とした田んぼと緑が生い茂る山並みが広がり、木陰では気持ちのいい風が通り抜けていく。休みの日には小学1年生と年長のお子さんを連れて、ザリガニを取りに遊びに来るのだという。

「この景色も流れる空気も好きな場所ですね。見晴らしもいいし、危ない場所ではないので、子どもたちの心配をしなくても自由に遊ばせることができるんです。僕はここでじっくり集中できるし、マインドフルネスにもいいんですよ。子どもがいるとなかなかそういう時間って取れないので」

優しい物腰の一朗さんだが、Tシャツからのぞく太い腕やしっかりとした体つきから元格闘家の雰囲気が見え隠れしていた。東京都出身で、高校を卒業後は格闘家になりたくて横浜にある道場に住み込みで入門。「パンクラス」という団体に所属し、1年後にはプロデビューした。10 年ほど活躍し、2011年の最後の試合をもって引退。団体でチャンピオンの座にまで登りつめた一朗さんだったが、プロの格闘家を引退し、保育士へと転向しようと思ったのはなぜなのだろう。

「プロ格闘家といえども、生活は苦しくて。格闘技のインストラクターの仕事も並行していました。団体でチャンピオンになったんですが待遇が変わらなかった。対戦相手もさらに強くなるし、もっと練習に専念しないといけないはずなのに、急に自分を信じられなくなったというか、この道で続けていっていいのかな?と迷いがすごく大きくなって、がんばれなくなってしまったんです。それまでは夢中でやってこれたけれど、力が出なくて、勝てなくなりました。それでもしばらく続けていたのですが、震災があって、完全に折れてしまいました。生活も苦しいままだし、チャンピオンになったものの自分のことを誰も知らないし、ボランティアに行く心の余裕もないし。僕は何をやっているんだろう?って。それでも、“僕はこの道でやっていくんだ”と信じることができていれば続けられたと思うけれど、その強さは僕にはなかった。別の道を探すしかないと思いました。28歳の時でした」

現役時代の一朗さん。「ファンの頃から観ていた強豪選手相手に競り勝った、キャリアの中でも印象に残っている試合です」(本人提供)

震災を経て、これからの生き方や働き方について、このままでいいんだろうかと立ち止まって考えた人もいるかもしれない。住まいや人間関係などを見直し、自分が何を大切にしているのかに気づいて、今までとは違う方向へと舵を切った人もいる。一朗さんもまさに悩みに悩み、自分に何ができるだろうと考えた。

「震災で亡くなった多くの人の“死”を思うと、とてもこわくて。これからどんな仕事をしようかと考えた時、死に意味を持たせられる納棺師の仕事か、次の未来を作る子どもたちの生活に関わる仕事かで悩みました。どっちも大事だなと思って。自分にできるのはどちらだろうと考えた時、これからを生きる人と関わっていく保育士という仕事を選びました」

 

真夏でも爽やかな風が吹く、湿地帯の敷地内にあるあづまやにて。一朗さんが着ていたのは現在は会員として所属する格闘技ジム「パンクラスイズム横浜」のオフィシャルTシャツ。引き締まった体は、鍛え上げられた格闘家そのもの。

家族との時間を第一に。
無理のない働き方を探して転職

保育士になるための受験資格がなかったため、奨学金を借りて専門学校へ行き、夜はアルバイトをしながら保育士と幼稚園教諭の資格を取った。在学中には子どもも生まれた。

卒業後は、神奈川にある児童自立支援施設で働き始める。家庭で問題があったり、非行や生活上の問題を抱えた子どもらの暮らしを支えていくことを目的とした施設で、居場所がない子どもたちにとって最後の砦のような、とても重要な場所だった。一朗さんはそこで2年間働く。

「下の子は養子なのですが、その子を迎えるタイミングで転職することにしました。妻1人で子ども2人を見るのは大変だろうと思って。児童自立支援施設は夜勤の仕事だったので、割のいい仕事だったけど続けるのは難しいかなと。家庭や子育てを第一に考えた時、自分の子どもとの時間を削って、他の子どものために仕事をするのは、ものすごく苦しくなるだろうなと思ったんです」

転職後は、保育園で働き始める。時間固定の派遣の保育士だったため、時給制でフルタイムだが決まった時間にきちんと帰ることができた。多くの保育士は拘束時間が長く、子どもがいる人にとっては難しい働き方のため、どうしても離職率が高くなってしまう。看護師の妻も病院勤務から訪問看護に変わり、残業や夜勤をなくした。一朗さん夫婦は、まず第一に子どものことを考え、その働き方を選んだ。それは家庭にとっても、仕事を長く続けていくためにも必要な選択だった。

保育の現場で働くことへの
不安と怖さと

保育園で働き始めてすぐ、一朗さんは保育士という仕事が自分には向いていない、と悩むことになる。

「子ども一人ひとりと遊んだり、一人ひとりの個性やキャラクターを深く知りながら、それと同時に全体を見渡して安全性を見るのが保育士の仕事です。けれど、そのバランスが本当に難しくて。実習の時からずっと、自分の見ている子どもになんかあったらどうしよう?という恐怖心がずっとあります。子どものように肩書きも何も気にしない、ありのままの人間を相手にできる仕事って他にないと思うんです。それと同時にすごくこわいという思いが今もずっとあって。

たとえば、今日みたいにとても暑い日は水分補給しているかどうか様子をよく見てないといけないし、自分の子どもを見るのと同じ感覚なんです。僕としては、楽しさや喜びよりも、苦しみや悩みのほうが大きい仕事ですね」

動き回る子どもたちにくまなく目を凝らし、体も心も全方位に集中する。ただ子どもたちと遊ぶだけでなく、安全かどうか常に見守る。改めて保育士という仕事がどれだけ大変なものか、気づかされた。

「意識してやっているうちはまだ本物じゃないというか。格闘技と同じで無意識に動けるようになってはじめて、そこから先にいけるんじゃないかと思っていて。そこに達するまで、どれくらいかかるんだろう(笑)。

訓練である程度身につくものもあると思います。けれど、格闘技と同じで、そこに到達するのが早い人もいれば、ゆっくり時間をかけていく人もいて。僕は後者だなという実感がありますね。一つひとつ、時間をかけて積み上げていくしかないのかなと覚悟しています」

今までの保育の経験と
「やまのこ」の大きな違いとは?

2018年4月、妻の実家である鶴岡に引っ越してきた。鶴岡に残っている妻の両親のことがずっと気になっていた一朗さん夫婦は、後悔する前に行こうと2人で決めた。終のすみかと決めるわけではなく、一度行ってみようと気軽な気持ちで。

「鶴岡に向かう電車のなかで求人募集をみていました。鶴岡に着いた日に面接をして、とある保育園で働くことがすぐに決まりました。そこで1年間働いてみたんですが、仕事の労力に給与が見合わず経済的に厳しいことがわかり、このままだと保育の仕事は続けられないと思うようになりました。それでほかの仕事を探し始めた時、『やまのこ』の求人をみつけて。今までの保育の現場とは違うなと感じて応募しました」

「やまのこ」に一番魅力を感じたのは、「より良くしていこうということに、すごく柔軟な感じがしたこと」だった。

「これという型に合わせて進めるんじゃなくて、いいと思ったらみんなで相談しながら、やってみるという柔軟で自由な姿勢がすごいなと思ったんです。個人ならまだしも、組織の多くが変化を嫌うものだと思うし、そもそも変わることが難しい。だから、純粋にいいものを追求するために、どうすればいいのかを考え続けるのってすごく難しいことだと思っていて。それを『やまのこ』は組織でやっているんです。相手は子どもですし、一時的に保護者とは接するけれど、自分の正しさを信じ過ぎてしまって、視野が狭くなりやすい気がしていて。けれど、『やまのこ』はそうならないように、常に変化を受け入れていく、そんな印象を受けてすごく魅力的だなと思いました」

面接は、園のスタッフと会社の代表と2回行われた。“人を選ぶ”、その手順そのものも大事にしているんだなと、印象に残ったそうだ。

「ちゃんと一人ひとりを見てくれているんだなと思いました。スタッフの方との面接はいろんな質問をされましたね。『子どもの未来はどうなると思いますか?』なんて、今までじっくり考えたこともないようなことを聞かれて。後になってああ言えばよかったなと思って、深く考えたり、自分自身のことを問う時間でもあって、とても疲れたんですけどすごく面白くて。それがいまもずっと続いている感じですね」

「やまのこ保育園」では1〜2歳のこごみ組を担当する。常に目を凝らし、子どもたちの様子を気にかける。

面接を経て、「ここでがんばりたい」と思ったという一朗さん。「やまのこ」に入ってからは、常に考え、動き続け、それが、「本当に生きることにつながっている」という。

「どんなことも、どういう意味づけをするかだと思うんです。一つひとつ、これは何のためにやるのか、というのをちゃんと考えて、振り返る。思考停止にならずに考え続ける。それが『やまのこ』の魅力だと思います。園庭に手作りの竹の遊具があるんですけど、業者に作ってもらえば、年齢に合わせた安全なものができるかもしれませんが、危ないからなくすのではなく、どうしたら安全に遊べるかを考えるんです。

「やまのこ」の園庭にある竹の遊具は、近くの林から切った竹を使って保育者が組み、DIYで製作。安全か危険か、それは遊び方次第。子どもたちが経験から学び取っていく。

保育者同士でも、やり方を互いに吸収したり、影響し合う毎日で、常にリングの上みたいな気持ちで、気合いを入れてやっています。毎日すごい緊張感で不安もあるし、気を抜けませんが、だからこそ自分が鍛えられて強くなっていく感じがしていて。熟練された保育者さんのように無意識で体が動いたり、目線が動いたりするようになれたらと思って日々精進ですね。互いの価値観を尊重する、許し合うってすごく難しいこと。それを『やまのこ』ではやろうとしているし、そうあり続けていくためにみんなが努力しているんだと思います」

一朗さんはそう話しながら、時々困った顔をしていた。保育の大変さ、「やまのこ」で保育者として働く難しさを身にしみて感じているからこそ、簡単に「楽しい」とは言えないのだろう。けれど、そんな毎日もひっくるめて挑戦し続ける毎日を生きること。その日々はきっと充実し、楽しいことでもあるだろう。弱さを認めて、怖さを知っているからこそ、強くなれるんじゃないか。一朗さんを見ていると、そんなふうに思えた。

子どもたちと過ごす 「やまのこ」での日々を通して 自分の心も体も変化し続けていく。

東京から釧路へ
保育の現場から離れてみたかった

莉穂さんの生まれは、新潟県新潟市。進学を機に東京へ。保育系の短大を卒業して、東京で保育士として3年間働いた。転職し、東京を一度離れてみようと思っていた時、釧路にUターンするというWebデザイナーの友人が「一緒に来てみない?」と声をかけてくれたことで、釧路へ移住を決めた。今から3年前、23歳の時のことだった。

「都内の保育園で3年間、働いていました。保育士とか教育現場の人たちは専門的な人が多いこともあって、外とのつながりが少ないなと感じていたんです。だから、保育士として働きながら、ひとりで旅行に行ったり、もっと外の人たちと出会うことを始めてみたら、知らない世界がたくさんあるんだなと気がついて。一度、保育士を辞めて違う外の世界を見てみたくなったんです。そんな時にちょうど釧路へ来ない?と誘われて。半年間の期間限定だったので、ふらりと行ってみようと思いました」

東京と釧路を行き来しながらウェブデザイナーとして働く友人が釧路にゲストハウスを作ることになり、働いてくれる人を探していた。以前からウェブデザインに興味があった莉穂さんにとって、願ってもない誘いだった。釧路ではゲストハウスで働きながら、地域の方たちと関わる仕事も担当。地域の人の輪に入り、盆踊りを手伝ったり神輿を担いだり、地元の新潟でもしたことがない経験をすることができた。

釧路で働いていたゲストハウスにて。お手伝いをしていた農家さんのところで採れた大根に足がついていたので、みんなで大根になってみました。(本人提供)

釧路市にある「硫黄山」にて。釧路のお気に入りスポット巡りをしていたひと時。(本人提供)

地域に根ざした人たちとのつながりはもちろん、ゲストハウスを訪ねてくれる海外の方や日本中から来る旅人たちと出会える毎日はとても刺激的。保育園で働いていた時に欲していた“外の世界”がそこにはあった。多様な人との出会いを通して、知らない世界に触れたいという莉穂さんの願いが叶ったのだ。しかし半年後、ゲストハウスは冬季休業を迎え、釧路を離れることになる。

「知り合いが誰もいないところに移住する気はなくて。東京に戻るのもなんだか違う気がするし、実家も違う。どこにしようかと考えていた時、よく旅行で訪れていて、友人も多い京都へ行こうと決めました。西日本は知らない土地も多く、興味があったんです」

自分らしく子どもと関わりたい
そんな場所を探していた

京都では、友人の家に住まわせてもらいながら「D&DEPARTMENT KYOTO」のカフェスタッフとして働くことになった。ゲストハウスで働いていた時のように、いろいろなところからお客さんが遊びに来る京都という土地柄もあり、出会いも多く、忙しいながらもとても充実した日々だったという。

10ヶ月間ほど京都で働いた頃、偶然SNSで「やまのこ」の保育者(やまのこでは保育士として働くスタッフを資格名ではない名前で呼びたいという思いから「保育者」と呼んでいる)募集の記事と出会い、その記事に出ていた一枚の写真が莉穂さんの心を掴んだ。かえるを手に載せた保育者とその様子を真剣に見つめる子どもたち。その表情に保育者と子どもたちがどう過ごしているのか、その様子が垣間見え、一目惚れしたのだそうだ。

「こんな瞬間を作り出せる保育園ってすごく素敵だなと思って。私もこの瞬間に立ち会いたいなと思いました。保育者の仕事を辞めてからも、いつか子どもに関わる場所で働きたいという思いをずっと抱えていたんです。偶然記事を読んで、ここでだったら、自分らしく子どもと関わることができるかもしれない。そう思って応募しました。保育者として働いているスタッフたちも自分の生活を大切にしていることが書かれていて、ていねいに日々を営んでいるのがすごく素敵だなと思ったんです。前に働いていた園では身を削って働き、やりがいだけで生きていたけれど、それだけじゃ続かないというのはずっと感じていて。自分自身の生活を見直したいという思いもあったし、『やまのこ』ならば自分の体も心も変えれるかもしれない。そんな期待もありました」

「やまのこ」では、「やまのこ」に関心のある人たちと地域を限定せず広く出会いたいという思いから、随時オンライン説明会を実施している。そこでは、複数人で園長の遠藤綾さんとオンライン上で話をしたり、質問をすることができる。その後、書類選考を経て、鶴岡で行われる面接へと進む。莉穂さんの時は、海外からオンライン説明会に参加した方もいたという。2018年8月、面接のために夏真っ盛りの鶴岡へ来た莉穂さんは、青々とどこまでも広がる田んぼに心を奪われた。

「遠くに地平線が見える庄内平野を見て、あぁ、最高だなと思ったんです。当時は京都駅の近くに住んでいたので、人が多い環境で。広い土地に行きたくなってたんですかね(笑)。新潟出身なので、お米がおいしいところってやっぱりいいなって改めて思いました」

自分の意見を話すことで
自分自身と向き合うことができる

無事、「やまのこ」へ入社し、久しぶりに保育者として働き始めた莉穂さんだったが、スタッフ自ら考えて行動し、さまざまな意見が飛び交う「やまのこ」の現場で、なかなか自分の考えを言葉にすることができず、とまどいも多かったという

「年に4回、1泊2日でやまのこスタッフたちが集まって、その時々のテーマをもってとことん話し合う合宿があり、入社する前に参加させてもらうことができたんです。けれど、話の展開が早すぎて全然付いていけなくて。ひとつの議題でもいろんな意見が出てくるんですが、それについて意見を出すことがとても難しかった。『どう思う?』って話を振ってくださるんですけど、頭の中を整理して、自分の考えにまとめて言葉にするのにすごく時間がかかってしまう。もともと人前で自分の意見を言うことがとても苦手だったのもあって、全然スピードについていけなくて」

1~2歳のこごみ組を担当する莉穂さん。子ども一人ひとりの日々の変化に目を配り、「今を生きる子どもたちと向き合い続けることを大切にしたい」と話す。

けれど莉穂さんは、できないことをできないままにせず、「どうして自分は話をするのが苦手なんだろう?」と自身に問いかけた。自分が話したことを相手がどう受け止めるのかをあれこれ考えてしまうから話せなくなるのだと気がついた。「やまのこ」のスタッフは、保育経験の有無に関わらず働いているので、どんな意見でも、どんな言葉でも大事にし、決して否定することなく、受け止めてくれる。話をさえぎることなく、終わるまで待っていてくれる。そんな環境の中で、莉穂さんはだんだんと自分の意見を臆せず話せるようになった。躊躇せず言ってもいいのだと思えること、どんな意見でも真剣に耳を傾けてくれる場を「やまのこ」全体で作ってくれていたからだ。

「『やまのこ』で働いて、まだ一年しか経っていないんですが、日々、挑戦しているというか、冒険している感じです。入社してから3〜4回、合宿を重ねてきましたが、今ではその流れについていけている気がしています。ちょっと成長してるのかな(笑)。本当に毎日めまぐるしくて、もちろんいっぱいいっぱいの時もあるんですけど、自分の気持ちや体も変化し続けているというか。この一年、頭の中や心の中を必死にかき出して、自分自身と向き合い続けているような感じですね」

自分の暮らしを作っていく
鶴岡での新鮮な毎日

「やまのこ」から徒歩でいける場所に、小さな畑付きの一軒家を借り始めた莉穂さんは、「やまのこ」で栄養士として働く後藤緑さんと一緒にシェアをしている。互いに一人暮らしだった2人は、前回紹介した朋子さん&歩さんのように共同生活を楽しむ暮らしに憧れていたそうだ。自宅に帰ってきてからも、今日あったことや子どもたちの話をする時間が楽しいと2人は口をそろえる。

今夏、平家の一軒家で共同生活を始めたという莉穂さんと緑さん。職場も家も同じ2人だからこそ、仕事での悩みもおもしろかったことも気兼ねなくシェアできる。緑さんは隣の酒田市出身。移住したての莉穂さんにとっても、地元出身の緑さんがいることはきっと心強いだろう。

「園では、子どもたちの発達や年齢に合わせて、どういう保育をしていったらいいのかを常に考えているのですが、先ばかりを見ていると、今、発しているメッセージを取り逃してしまうこともあって。子どもたちの視点をもっと拾えるようになりたいから、全神経を集中している感じなんです。毎日毎日、変化が起きているすごい現場にいるんだなと改めて感じています。緑さんは緑さんの持ち場でどうしていったらいいかと考えているし、それをみんなが持ち寄ってより良くなっていく。立ち止まらず、常に動き続けているのが『やまのこ』なんだと思います」

この日の給食は、具だくさんのカレーとおみそ汁、野菜のごま和え。地元で採れた有機の野菜を農家さんから直接仕入れ、毎日献立を考えて調理している緑さん。子どもたちは好き嫌いせず、この日もおかわり続出!

「大人であるということ忘れたいんですよね」と話してくれた莉穂さん。もうその頃には決して戻れないけれど、そういう思いで子どもたちとともに時間を過ごしている。子どもたちにはどんな世界が見えているんだろうと想像する莉穂さんのやさしい視線は「やまのこ」へと通う何気ない日々の中にも表れていた。

「車を持っていないので、歩いて『やまのこ』に通っているんです。帰り道、夏は夕日がすごくきれいで、歩きながら空一面、どんどん色が変わっていくのが見えて。田んぼの横には雑草が生い茂っているんですけど、ひとつ草が枯れたら今度は違う雑草が生えてきて、季節がどんどん変わっているんだなっていうのを毎日感じながら歩いています。都会では見落としてしまう小さな変化に触れられることもここで暮らす喜びかもしれません。東京で保育士をしていたときは、バッタ一匹を必死で探していたのが、いまではあちこちでぴょんぴょん飛んでるし、トンボもたくさん飛んでいる。本当に豊かな環境で過ごせているんだなと実感して、のびのびと自分らしく生きていられる気がします」

「やまのこ」で働きながら、自分たちの手で生活を作っている真っ最中の莉穂さん。迷いながらも冒険し続ける保育の仕事とひと続きになった鶴岡での日々を、存分に楽しんでいる様子がひしひしと伝わってきた。

距離をエネルギーに変える。東京と鶴岡、離れて暮らす、2つの家族が選んだ別居と同居。

結婚は一緒に生活を作っていく
アートプロジェクト

朋子さんが「やまのこ保育園」に参画したのは、2018年6月のこと。もともと、大学院でアートについて学び、卒業後は仙台にある文化財団に就職。2013年、東京藝術大学の社会連携事業として東京都美術館とタッグを組み、アートコミュニケーション事業の立ち上げから5年間働いた。その間に2人の子どもにも恵まれた。ちょうどその頃、児童養護施設の子どもたちと美術館で一緒に鑑賞するワークショップを企画。そこで初めて社会的養護が必要な子どもたち、社会の力で育てられている子どもたちに出会った。

「ちょうど、自分も子育てが始まったタイミングで、人ごととは思えなくて。そこから里親にも興味を持って、資料をもらって調べてみると、保育士の資格があったらもっと子どもの理解が進むかなと思って、第2子を産んだ後に保育士の資格を取りました。育休中には児童養護施設の子どもたちと美術館で鑑賞プログラムを行う市民団体の運営にも関わっていました」

そんな時、2017年9月「やまのこ保育園」ができた時、共通の知り合いを通じて、やまのこと母体の会社「Spiber」の挑戦と取り組みの話を聞いた。

「やまのこ」からすぐの場所にある2家族5人が暮らすマンションにて、朋子さんに話を聞いた。みんなが食卓を囲むダイニングルームには絵本がいっぱい。

「その時は、『やまのこ』の存在も知らないし、Spiberってどんな会社? 鶴岡ってどこにあるの?って感じでした。でも、実際に調べたり『やまのこ』を見て、 Spiberという企業にも魅了されて。社会のために何ができるかということを保育を通して考えることはとても挑戦的だと惹かれ、作り手として参加したいと思いました。けれど、子どもたちもいるし、夫は仕事の関係で東京を離れられないし。2ヶ月間ものすごく悩みました」

結婚したのは2011年、仙台で働いていた頃だった。夫の大地さんは当時、名古屋勤務。遠距離だった彼から「2カ所に分かれたまま、結婚するのはどうだろう?」と提案された。

「これはアートプロジェクトだなと思いました。生活も結婚もプロジェクトとしてやってみようかと、離れたまま結婚したんです。“距離”をポジティブに、自分たちのエネルギーに転換していこうと。生活そのものをかたちから一緒に作っていく。そんなパートナーに出会えたなと思いました」

仙台と名古屋の遠距離結婚を経て、2013年は東京で同居をスタート。けれど、建築設計の仕事をしている夫の大地さんは中国に赴任したり、その後も出張や激務が多かったという。そんな中、想定を超えた大きな変化を伴う鶴岡への転職の話に朋子さんはとまどった。

朋子さんの4人家族と歩さんの3人家族、それぞれの家族写真が飾られていた。

やりたい仕事と家族のこと。
家族が“2つ”になるという選択

「夫と何度も話し合いました。夫は今、会社を辞める時期ではないから、行かない。でも、私が挑戦したいと思える魅力が『やまのこ』にあるのなら、思考と一致する場で挑戦できるのはいいことだからやってみたら?と応援してくれて。でもその当時は、不安しかなかった。

応援すると言うけれど、自分は行かないのに?とも思ったし、子どもと過ごす貴重な時間がなくなることで彼が父親として成長していく機会を奪ってしまうんじゃないか、いつか東京に戻ってきた時に子どもたちがなじめなくなっちゃうんじゃないか……いろんな推論のはしごを登る感じで、何ひとつポジティブに考えられなくて。初めてカウンセリングも受けました。不安で不安で怖かったんです。現実問題、ひとりで子ども2人を育てられるのか?とも考えました。東京にいる時もパツパツな生活だったんです。ふたつの保育園に送迎してフルタイムで働いて。仕事はすごく楽しいけれど、核家族でほぼワンオペ育児で。家事代行を入れたり消費型で解決したり。

考え続けていくうちに、どうせ髪振り乱してがんばるなら“冒険してる”って思えるほうがいいなと思って。実際に家族4人で鶴岡に来てみたあと、行くことを決めました。決めたら最後、それを正解にしていくしかない。選択ってそういうことだと思うので」

2人は結婚する時「FISH PROJECT」と名づけた冊子を作り、親戚に配ったという。

朋子さんの結婚後の苗字が「魚本」なことから名付けられた「FISH PROJECT」。披露宴の代わりに各地の親戚や友人が住む土地を巡りながら挨拶してまわり、結婚までの過程を1冊にまとめた。

その中に、大地さんが書いたこんな文章があった。

「距離があること。その隔たりを超えて価値あるものへと転換し、そして創造的な行為への契機とすること。それがこのFISH PROJECTのテーマでした」と。

このことをすっかり忘れていたという朋子さん。鶴岡に行くと決めた後にこれを読み、「やられた」と思ったそう。「もとから私たち、こうだったんですよね」と朋子さんは笑った。

離れ離れになった家族が、
もうひとつの家族と同居

朋子さんと子どもたちが暮らす2LDKのマンションは「やまのこ」から歩いてすぐの場所にある。目の前にはスーパーもあり、生活するのはとても便利だろう。

「鶴岡の冬は、雪が降るのでとても厳しくて。母子で暮らすには『やまのこ』からの近さとか自分たちのキャパシティを考えてここにしました。引っ越してきて3ヶ月、3人で暮らして、その後、大野家が引っ越して来て一緒に暮らすことになりました」

左から大野歩さん、歩さんの長女(3歳)、朋子さんの長女(4歳)、長尾朋子さん、朋子さんの長男(2歳)。5人みんなで食卓を囲み、夕飯の時間。

朋子さんと夫の大地さん、大野歩さんと夫の達也さんの4人は高校が同じ。そして、大地さんと歩さんは親友だった。家も近所で、子育てを始めたのも同じ時期だったこともあり、頻繁に互いの家族と過ごす関係だった。朋子さんが鶴岡へ母子だけで移住することを歩さんへ伝えると、「じゃ、私たちも行こうかな」と歩さんも鶴岡に来ることに。すごく悩んだ朋子さんと対照的なほどあっさりと歩さんは決めた。

「知らない土地だし、朋子さん1人だと絶対大変だろうと思ったんです。その時、私はまだ育休中で、娘は保育園が全然決まらなくて。このまま決まらなかったら、仕事を辞めなきゃいけない状態でした。どうしようかなと思っていた時に朋子さんから鶴岡に行くという話を聞いて。夫も出張が多くてほとんど家にいなかったこともあって、最初は『暇だから数ヶ月くらい朋子さんの家に行って家事をしようかな』と、軽い感じでした。夫に話をしたら、今は東京にいることにこだわる必要はないし、いいんじゃない?って」

大野歩さんは正月に引いたおみくじが大吉。「勢いに乗れ」、方角は「東北、西」と書いてあり、「もういくしかない」と鶴岡への移住を決めたそう。「ノリと勢いで朋子さんの波に乗ってきちゃいました」と笑う。

歩さんは大学で写真を専攻し、卒業後は出版社やカメラの修理会社などずっと写真に関係した仕事をしてきた。写真を撮ることは好きだったが、写真を撮ることを仕事にするのは半ばあきらめていたという。そんな歩さんが、朋子さんと一緒に「やまのこ」で働くことになった理由は、あきらめていた「写真を撮る」ことがきっかけだった。

「子どもたちの日々を記録したいから、写真を撮る人がいるというのは園にとって必要だという話を園長の綾さんからしてくださって。保育園ならずっと同じ対象を撮り続けられるし、追いかけていける。それは私が写真を撮る上ですごく理想的な環境だなと思ったんです。自分のやりたいこともできるし、東京では保育園に入れなかったけれど、のびのびといられる『やまのこ』に子どもを入れることもできる。いいことしかないと思って、すぐに保育士試験に申し込んで、4月の試験を受け、9月に鶴岡に引っ越しました」

家族のかたちはいろいろ。
移住して、7人家族になった

朋子さんは歩さんが来る前まで、子どもを部屋に残してゴミ出しに行くようなちょっとした時も緊張していたという。歩さんと一緒に暮らすようになってからは「ようやく肩の力が抜けました」と話す。

1歳と3歳(当時)の子どもたちとの3人暮らしは大変で、持続可能ではなかった。大野家と合流したことで、やっと持続可能な暮らしの兆しを感じられた。そう思った。けれど、一緒に住んで3〜4ヶ月くらい経った頃、互いにギャップを感じるようになっていた。

「私は鶴岡での暮らしを、歩さんと彼女の子を入れて平日は5人家族だと思ってたんですよね。夫たちが週末ここへ来ると7人家族みたいな、“ひとつの”拡大家族だと思っていたんです。拡大家族といっても、2つの家族があって同居しているんですが、私は我が子のように大野家の子を思っていたんですね。なかば責任を感じていた。もともと里親にも興味があったから自分の子じゃない子を育てるということは学びだなとも思っていて。けれど、歩さんは自分がケアすべきはまず自分の子で、自分の家族は2人であると考えていた。それはどっちが正解とかではなくて、感覚そのものが違っていたんだとわかったんです」

朋子さんの娘は、家族の絵を描く時、父母弟自分の4人家族だったり、大野家を含む7人家族を描いたりと変化するそう。「家族という枠を今超えていこうとしているのが私たちの世代だとしたら、こういう環境で育った彼女たちの将来の家族観てどういうふうになっているんでしょうね」と朋子さん。

「朋子さんと大地くんが思っていた家族の捉え方と、私と夫が思っている家族の捉え方がもともと違っていて、それがいつしかギャップになっていました。朋子さんたちは家族みんなでプロジェクトを作っていく、そのパートナーが家族であるという考え方だと思うんですけど、私たちはひとつの家の中に別々の個がいるっていう感覚なんです。共にいるけれど、各々が好きなことをするのを許してくれるのが家族という認識でした。朋子さんは朋子さん、私は私でいても、それでも共に暮らせるのが家族であるという思いだったんです。朋子さんが私と娘に対して、そんなに気を負わなくてもいいんだよって話したら、朋子さんも少し気持ちが楽になったんじゃないかな」

2つの家族が、2つのまま同居しつつ、互いにケアしケアされるというかたちに変えてみたのだ。

仕事は今、リモートワークやフリーランスというかたちで流動的になりつつあるし、住まいも二拠点居住や移住という選択肢がある。けれど、家族というある種固定された関係性が、こんなにも流動的になるのだと驚く。

毎朝、朝食の時は鶴岡と東京をネットでつなぎ、ビデオ通話で顔を見て会話しながら、家族7人でごはんを食べる。会えない時間をマイナスのままにしておきたくないと朋子さんは考えている。会えないからこそ、会える時間が愛おしい。大人4人で子ども3人を育てていける安心が育まれていく。

「離れて住まうことは正直なところマイナスかもしれません。でもおもしろくはしていけるし、マイナスだからこそ挑戦しがいがある。実の親以外にも親しい大人がいて、場所が2つあって、子どもたちにとっても東京と鶴岡で暮らすということはマルチカルチャーというか、彼らのアイデンティティ形成において多様であるということがおもしろい時代がくるんじゃないかなと思うんです。

こういう家族のかたちを持続可能な暮らしの探求として、周りに協力をいただきながら、チャレンジしていっています」

家族の新しいかたちを模索する朋子さんのそばには大地さんや大野家がいて、「やまのこ」のスタッフもいる。そうやって助け合える関係性や、常に考えて作り続ける態度があれば、家族のかたちが変化していっても、大丈夫。仲間・家族・パートナーと一緒に生活を作っていくプロジェクトは、これからもずっとずっと続いていくのだ。

 

あなたはどう思う? 私はどう思う?日々の「問い」から生まれる保育のかたち

「いまを幸福に生きる人」
「地球に生きているという感受性を持った人」
を育むために

夏の暑さをもろともせず、裸足で走り回る子どもたち。その傍らでは、絵を描いたり、段ボールなどの廃材を使って工作したり、さまざまな楽器を奏でたり。はたまた、園庭へと飛び出した子どもたちは自分たちで育てたきゅうりをもいではそのままかじりついていた。このクラスは3〜5歳の「あけび」組で、年齢に関わらずみんなが一緒に遊ぶ。子どもたちは「今、何がしたいか」を自ら選択し、その主体性にまかせながら、思い思いに過ごす時間を保育者たちは静かに見守る。


ここ「やまのこ保育園」では、子どもたちの“生きる力”を引き出す、自由でユニークな運営を行なっている。互いに学び合う異年齢保育、配膳や洗濯、遊びに至るまで子どもの主体性を大切にした運営、小さな地球をイメージしてデザインされた園庭など、「やまのこ」での生活を通して、人が生きていくための本当に必要な力を育もうとしています。そんな新しい保育園が生まれた背景には、園長の遠藤綾さん(以下、綾さん)の強い思いがあった。

2017年9月、Spiber株式会社が手がける企業主導型保育事業として、「やまのこ保育園」は誕生した。Spiberは、原料を石油のような化石資源に依存せず独自の発酵プロセスで構造タンパク質素材を開発し、世界的にも注目を集めるスタートアップ企業だ。

山形県鶴岡市の「鶴岡サイエンスパーク」内にある会社から徒歩数分の場所に、0〜5歳児の「やまのこ保育園」と、0〜2歳児の「やまのこ保育園home」の2つの園を設立。

2018年10月、全天候型子ども施設「KIDS DOME SORAI」内に、0~5歳児を対象とした「やまのこ保育園」が開園。 約50名ほどがひろびろとした空間で過ごす。

0~2歳児を対象とした「やまのこ保育園home」として運営。家庭的な雰囲気で、子どもたちが安心して過ごせるように設計されている。

2016年9月にSpiberに入社した綾さんは、入社してすぐ保育事業の担当者に。その頃は、まだ自分たちで運営するかどうかまでは決まっていなかったが、「会社は社会のためにある」という企業理念を持つSpiberとして、どういう保育を作っていくかという話し合いから始まり、まずは“保育目標を言葉にする”ことからスタートした。

入り口にある黒板には「今月の問い」が。クラスごとに話し合い、次の月の「問い」を立てる。子どもたちがいま何に興味を持ち、何を考えているのか? 行動や関係性など子どもたちを細やかに観察しているからこそ出てくるもの。

「Spiberに入って私が最初に関わったプロジェクトが、これから社会はどうなっていくのか、人口や食料がどうなっていくのかを、いろいろなデータから調べることでした。この世界が30年後、50年後に、人口分布も大きく変わっていくなかで、どういう未来にどう生きるのか、という新たな人間像を考えなくてはいけなくなって。次の時代にどんな能力が必要か考えることをベースに、世界各国が保育や教育の指針を新たに作り直しているのが今の世界の現状だと思うんです。

今、保育の現場は世界中で大きな転換期を迎えていて。幼児教育の役割とは何か、0歳〜6歳時までの年齢の間に何を身につけているべきなのか、そういうことを考え合せながら、かつSpiberの理念をタペストリーのように織り込んでいくようなイメージで考えた末に出てきたのが、いまの保育目標なんです」(綾さん)

保育目標とは、“どういう人間像を目指すのか”を、すべての保育園が掲げるもの。綾さんは、子どもたちが大人になった時、つまり20〜30年後にどういう人間になっているか?という未来の人間像はどうあるべきなのか考えた。

それが「いまを幸福に生きる人」と「地球に生きているという感受性を持った人」という2つの言葉だった。Spiberの理念と、いまの時代のキーワードから導き出されたこの2つが「やまのこ」の柱になっている。

保育目標ができたことで、目指すべき人間像が明確になり、そこから枝葉となる、実際の現場をどのように作っていくのか、また保育者にはどういった人材が必要なのか、選ぶべき家具や食器、など施設に必要なあらゆるものが具体的に決まっていった。

竹の遊具はなんと手づくり。子どもたちは小さな体を目一杯使って裸足で登ったり降りたり。木登りのように体幹やバランス感覚が鍛えられるという。

一番難航したのが人材、つまり「やまのこ」の保育目標に共感し、働いてくれる保育者を集めることだったという。もともと子ども関連の仕事に従事していた綾さんは全国の知り合いを通じて人材探しに奔走。なんとか最初の8人のメンバーが集まった。保育士経験がある2名、看護師が1名、調理の担当者が2名、事務の担当者と綾さん、そして園庭を『小さな地球』と捉え、そこに小さな生態系をつくり、循環が生まれるような場所を作りたいと、パーマカルチャーを学んだガーデンティーチャーもチームに加わった。

そして、子どもの数が増えるにつれ、徐々にメンバーも増え、もう一人の園長となる長尾朋子さん(以下、朋子さん)との出会いもあった。東京で2人の幼い子どもと夫とともに暮らしていた朋子さんは、2ヶ月間悩みに悩み、11月にやまのこ保育園を訪れ、12月に鶴岡に移住することに決める。雪深い冬のことだった。

「やまのこ保育園 home」園長の長尾朋子さん(左)、「やまのこ保育園」園長の遠藤綾さん(右)。本園や分園という関係性ではなく、2つでひとつの「やまのこ保育園」として、互いに支え、学び合う。

常に変化していくことしか
本当のことはない

「自分の役割は、入社した時と1年経った今ではフェーズが変わってきていて。ふたつの園になる前は、リーダーに綾さんがいて、もうひとつの園の開設準備に奔走していればよかった立場から、それぞれに園長が必要だということで、私が園長に。でも、保育という業界については、いままでは利用者側だったので、『園長ってなんだ?』というのが実感としてわからなくて。ようやく3ヶ月経った頃、ものすごい重みと、もしかしたら日々の現場で“問い”を発し続け、チームで場を作り続けられる状態にしていくことが、私なりのリーダーとしての役割なのかもしれない、と。
自分の役割ってなんだろう?ということを問いながら、この1年ずっと学んでいた気がします。学ばなければ、見つけられないという感じがあって」(朋子さん)

「朋子さんが入ってくれたことで、それまで自分ひとりで抱えていたことを話せるようになったのが大きかった。考え方も、経験してきたアートの分野など素地になっているものが近いので、やりとりもスムースで、一人で走るよりも数倍速い感じなんです。いろいろな人が加わってくださることで、どんどん変化していく。それを感じやすい人数が今の人数なんでしょうね。新しい人が入ってきてくれることは『やまのこ』にとってもすごく大事なこと」(綾さん)

現在、スタッフは掃除などのサポートスタッフを含めて、二園合わせて28名にも増えた。さまざまなバックボーンを持ち合わせたバラエティに富んだメンバーが集まっていて、中には保育を専門の仕事にしたことのない人もいる。だからこそ今までの知見や経験が生きてくるし、意見の食い違いが生まれても「あなたはどう思う?」と互いの価値観に耳を傾け、対話しながら、その時々でよりよい選択をしていく。それは保育者同士だけでなく、多様性のかたまりのような子どもと接する日々の保育の現場はもちろん、保護者と接する時も同じこと。そんな“問い”だらけの毎日を、悩み、迷いながらも保育者たちは楽しんでいるように見えた。

「変化し続けられるということは、学び続けられる人だと思うんです。いろいろな世界情勢を見るなかで、『変わるということしか本当のことはない』と思っていて。

Spiberも学びながら変化していく会社ですし、学び続けるということは、これからの時代を生きていく時に必須だと思う。この現場で学び続けるって何かと考えると、相互に影響し合う関係から気づきを得るということ。それは、大人も子どもも同じで、互いに入れ子構造になっているんです。子どもたちと私たち大人の間では、常に関係性が生まれている。何かの関係が生まれたところに、一方通行っていうことはありえないんですよね。子どもに関わっているつもりでも、同時に子どもに関わられていて、常に相互に影響し合っている。影響を与え合いながらその関係性のつながりが集まって大きな球体のような、生命体のようなものになっていく、それがチームや組織のあるべき姿のイメージなんです」(綾さん)

やまのこジャーナル『ちいさな惑星』は、ほぼ毎月発行。いま園で起きている一番熱量が高いことを各保育者が書いて伝える。保護者たちとともに考えたり、共有するための大事なツールでもある。

「“学び続けることこそ、変化し続けること”を体現している綾さんがすぐそばにいてくれる。だから私だけじゃなくて、保育者たちみんなが“問い”を持ち学び続けようとする状態が、『やまのこ』にはあると思います。学ぶことを習慣にしようという意識があるというか。等身大なんですけど、ちょっとずつ広げたり、何か新しいことを得たり、個々人がそうありながら、同時に『やまのこ』も肥やされていく。自分の状態のアップデートとこの場のアップデートがつながっているんだということを綾さんから学びました。

綾さん自身がそれを体現しているから、どこかに行って持って帰ってきたことをすぐに共有したり、『やまのこではどうしたらいいかな?』と対話する時間も楽しい。対話から生まれるアイデアを起点に動き出す姿は、メンバーみんなに影響を与えていると思います」(朋子さん)

「やまのこ」では保育者たちが集まり、年に4回合宿を行う。そこで、日常の業務の中ではなかなかできない深い話し合いの時間をたっぷり取り、自分の考えていることや持っていた“問い”を掘り起こし、対話の中で自ら刷新していく。お互いが持っている“問い”を投げかけ合うことで対話が生まれ、そこから学びが生まれる。1人ひとりが学び続けられる人になるために、相互作用が起きやすい仕組みを「やまのこ」では意識している。たとえば、フラットになんでも話し合えるよう、互いにファーストネームで呼び合うこともそう。“園長”ではなく“綾さん”と呼ぶことで役割を外し、個人として向き合いやすくする。そうした一つずつのことを大切に積み重ねてきた。「やまのこ」が大事にしているのは、個性を尊重し、互いに影響しあえる、人間性で働ける場であり、そこに垣根はない。

「『今を幸福に生きる人』というならば、子どもそれぞれの価値観だったり、大切にしていることだったり、大切にしているペースだったり、それらを保証することが大切で。でもそれは子どもだけに保証するのではなくて、大人もそういう状態でないと嘘になってしまうし、何もクリエイションできなくなってしまう。『やまのこ』では子どもだけでなく、そこで働く大人たちも『今を幸福に生きる』と心から思える状況を大事にしたいと思っているんです」(朋子さん)

保育の場はクリエイティブな場。
生き物のように新陳代謝していく

「そもそも保育の現場って本来はめちゃくちゃクリエイティブな場なんです。まったく正解がないですから。すごくクリエイティブな場所なのに、そういう評価がされていなくて、なぜだろう?と思っていたんです。 

保育というのは、クリエイティブな暮らしであり、先端的なことができる場所だと思っていて。小学校、中学校も本来はクリエイティブな場であるし、教育の場というのは、そういう場であるべきですよね。一番理想的なのは、子どもたちが毎年変わるたびに、この場自体も変わっていくこと。環境を変えることは子どもにも大人にも自動的にとても大きな変化をもたらしますし、子どもたちの個性や傾向性に沿って、場が進化していくようなサイクルをつくっていけたらと思っています。まだそこまでは全然できていないんですけど、ちょっとずつ近づいていけたら、と思っていて。だから私や朋子さんだっていつ変わってもいいというか、ここからいなくなってもいいという感覚はあるんですよ。本当に創造的な場所っていうのは、人に拠るではなく、その場所自体が持っている力が既にあるはずなんです。クリエイティビティってそういうことじゃないかな。 

本当に目指すべきは、どんな活動をしているかではなくて、ここそのものが生きている場所になること。常にクリエイティブな発想ができるように仕組みやシステムを整えることで、誰が入っても出て行っても「やまのこらしさ」が保てる場所になる。

実は、ここにおばあちゃんになるまでいようと覚悟を決めて園長になったんです。命を預かる仕事ですし、それくらい覚悟しないとできないと思ったんですよね。でも、この場所がどんどん耕されていくことによって、そういうイメージもどんどん手放されてきています」(綾さん)

「とはいっても、綾さんの影響は大きいので、いなくなると困るんですけど(笑)。クリエイティブな場になるためには、いまここにある人とか物とか環境とか制度とか、そういったものをすべて素材と捉え、それらの新たな使い方とか組み合わせを考えながらひとつずつ編み出してクリエイションしていく。そういう発想を持てる土壌を作ることは、人同士のコミュニケーションだけでなくて、植物を育てたり、土と対話したり、泥だらけになって遊んだり、子どもも大人も一緒にこの場の様々な素材と対話する経験をかさねることで生み出していくものだと思うんです。 

実は今、馬を“先生”として『やまのこ』に迎え入れようと動き始めているんです。これからの未来を見据えて、人中心の世界という枠を超えていくためには、大きくて強くて、わからない存在とコミュニケーションしていくことによって、得られる力があるんじゃないかと思っていて。だから『やまのこ』での日々はとても大きな仕事だと思うし、一年後の変化も楽しみで。これからも一つひとつ未来につなげていくことを大事にしたい」(朋子さん)

保育園ができたことで、確実にここサイエンスパークを暮らしの場として行き交う人が増え、徐々に街の景色が変わっている真っ最中。若い社員が多いSpiberにあって、子どもを預ける場が必要だったことが発端だったとはいえ、保育園がそんなにもパワーのある場所になり得るとは、思いがけない喜びだった。

今年10月13日には2回目となるオープンデイを開催し、地域の人たちにも「やまのこ」の取り組みを見てもらう機会を設けたいと考えている。「やまのこ」内の変化を「保育園の話・子どもの話」に留めることなく、「大人も含む人間の話・社会の話」として提示して、地域や社会をも巻き込んだ変化にしていく。

そうした地域や社会とのつながりは、まさにSpiberの理念「会社は社会のためにある」を体現するものであり、子どもは社会のなかの一員として育っていくはずだ。そうしてまた、互いに影響を与えあいながら、「やまのこ」も街の風景も変わっていく。地域や社会とひと続きになった暮らしの実践の場こそが「やまのこ」なのだ。

ふたりの暮らしと仕事を聞く。 陶芸家・小野哲平さん 布作家・早川ユミさん

農業を守ることは、人間の尊厳を
継続するひとつの方法かもしれない

今回、ふたりが神山を訪れたのは、フードハブ・プロジェクト(以下、フードハブ)の真鍋太一さんとのご縁から。これまで、真鍋さんがふたりの家を訪ねることはありましたが、ふたりが神山に来るのは初めてです。まずは、神山とフードハブについての感想から伺いました。

哲平:フードハブという会社が目指していることを聞いて、農業を守ることは人間の尊厳を継続していくためのひとつの方法で、大事なことなんじゃないかと思いましたね。そのなかに、自分の仕事と何か共通すること、共感できることがあるから、たぶん僕はここに来たんだろうと思います。

ユミ: 前に「かまパン」の彼(笹川大輔さん)がうちに遊びに来てくれたとき、「不特定多数人のためのパンよりも、一人ひとりの体に合うパンをつくることが目標です」って、まるで作家みたいなことを言っていたの。しかも、彼のパンはすごくおいしくて、「会社でつくらされている感じじゃない」と思いました。

かまパンの笹川大輔さん。「明日朝はかまパンを食べようと思うとそわそわする」ような、暮らしの楽しみになるパンを焼いている人。ほんとに、笹川さんのパンがある朝は幸せです。

フードハブは会社だから、そのなかに食堂やパン屋さんがあって、誰かの指示のもとに分業して仕事をしていると思っていたの。でも、実際に来てみたら全然そうじゃない。「会社なのに」というと変かもしれないけど、笹川くんだけじゃなくて、みんなが自主的に働いている。そのことに驚きました。

哲平:彼の仕事の意思みたいなものを聞いた時に、個が見えてとても感動したんです。今まで、真鍋くんに対して何か共感できるところがあると感じてきて、神山に来て会う方たちにも感じている。たぶん、そういうことなんじゃないかな。

人間らしく生きるための経済、
壊れたシステムを修復する芸術。

フードハブは、「地産地食」を軸として神山の農業と食文化を次の世代につないでいくことを目的につくられた農業の会社。地域に貢献する「社会的農業」を目指して、小さな食の循環システムをつくり、また農業を通して地域の景観を守ることも大切に考えています。

「社会的農業」というあり方に、ふたりはそれぞれに思うところがあったよう。神山での夕食会でもお話されていましたが、もう少し詳しく聞かせていただきました。

ユミ:今の世の中の経済はお金を増やすために、お金だけがぐるぐる回っているでしょう。たとえ小さくても、自分たちの目に見えるかたちで、人間らしく生きるための経済をつくりたい。そう思って、畑で野菜を育てたり、自分たちの食べるものをつくってきました。フードハブは会社でありながら、自主的に、自分たちで何かをつくれる場になっているのが面白いです。

ーー人間が中心にある小さな経済においては、自主的であることが大事だと考えていますか?

ユミ:そう。それぞれの人が自分でやりたいと思ってやる必要があると思っています。そろそろみんな、資本主義以降の経済について考えていると思うんだけど、フードハブはひとつのヒントになりそうだなと思いました。

ーーユミさんは暮らしと社会の関わりを言葉にしながら考えておられますよね。哲平さんは、ご自身の作品づくりと社会との関わりについてはどう考えていますか?

哲平:僕も、資本主義経済ということに感じているところはあるけど、言葉にして伝えようとはしていないと思う。それよりも、心の深いところが壊れてしまった人間がつくっているから、社会のシステムが壊れるんじゃないかということを考えます。その部分を修復できるのは、やっぱり芸術の力もあると思うので、そことつながっていきたいですね。

ーーどうして、人間の心の深いところは壊れてしまっているのでしょう。

哲平:欲望と、欲望と引き換えに大切なものを手放したんじゃないですか。うーん……なんで壊れたんでしょうね? 自分自身も、壊れているように見える大人に理由もわからずに管理されようとしたから、すごく不自由を感じて必死で抜け出そうとしたんだと思います。

もしも10代の頃に、土を中心とした表現と出会わなかったら、僕もどんどん精神が壊れてしまったと思う。出会えたからそこを修復できて、人として生きられているんじゃないかと思っています。

命のいれものみたいな服、
小さな仏さまのような陶器。

「まちのシューレ963」に展示されていたふたりの作品を見たとき、「あ、哲平さんとユミさんがたくさんいる」という印象を受けました。

ユミさんのつくった洋服をそっと広げてみると、大事そうなところに宝貝や十字架のような印が縫いつけられていて。着る人を守ろうとする意思のようなものを感じました。

ふたりには、作品を受け取る人に対する思い、あるいは願いのようなものがあるのでしょうか?

ユミ:命のいれものみたいな感じがあるよ。なるべく体が大きく包まれるようなものにしたいから、布をたっぷり使ったりしてね。私の衣服は、いわゆる洋裁というものではないんですね。山岳民族の衣服みたいに、すごく簡単な作り方だけどすごく理にかなっている衣服のシステムを取り入れたりしています。

哲平:僕には宗教心はまったくないし、仏教徒でもないんですけど。アジアを旅しているときに仏像を見たり、骨董品屋や路上で売っている小さい仏さまを見たりすると、やっぱりなにか感じるものがあるんですよね。自分がつくるものは、ある側面ではそういうものでありたいと思う。

今の社会に欠けているものをつくって形を戻すというか、欠けているものを加えたい。今の人の心に欠けているもの、欠けているピースをつくっているという感じがあります。

ーーこの2日間、哲平さんの作品に何度も触れて、見て、やっと自分のためにお茶碗をひとつ選びました。触れることで思い出したい、取り戻したいという感じがあって、暮らしのなかに置きたかったんですね。「本当は、世界ってこうじゃないの?」というものに触れていたいという感じに近いかもしれません。

ユミ:うん。長い間入院された人が、哲平の器を入れた「旅茶碗」を病院に持っていったんだって。病院では、「割れやすい陶器を使わないで」と言われていたんだけど、袋からこっそり茶碗を取り出して使っていたそうです。「すごく力をもらったよ」と言ってくださってうれしかった。

原初的な気持ち、自然を感じられるのはきっと哲平の器だからだよ。そういう風に、何か触れていたくなるような、力が感じられるといいなあと思って、ものをつくっているんだよね。

ユミさんが縫う袋に哲平さんの茶碗を入れた「旅茶碗」

近くに見ているものは違う
遠くに見ているものは同じ

「まちのシューレ963」のトークイベントで、参加者から「それぞれの暮らしの考え方で食い違いがあり、方向性が違った場合はどうしていますか?」という質問がありました。

ユミさんはさらりと「違ったら違う方法でやりますね」と答えていたけれど、哲平さんは「喧嘩するときは今でもひどい。わずかな、お互いの作るものに対する信頼があるから…」と答えられていて。その言葉が、ずっと心の底に沈んでいました。

とてもデリケートな関係性のお話。聞いていいのかどうか迷ったのですが、思い切ってふたりの懐に飛び込んでみることにしました。

ーーあの、昨夜のトークイベントで「一緒に暮らしていて、ひどい喧嘩もしてきました」とお話されたとき、「わずかな、お互いのつくるものに対する信頼」や「一抹の尊敬しあえる部分がお互いのなかにある」と哲平さんがおっしゃっていて。

哲平:一抹の、な。紙一重ですよ、ほんと。

ーーその「信頼」や「尊敬」ってどんなところで感じていますか?

哲平:……なんだろう? ユミがつくったものから感じるものですかね。色がどうとか、組み合わせがどうとかいう話ではなくて。

ユミ:あれもそうだよね。何年か前に、奈良国立博物館でそれぞれバラバラにすごくたくさんの仏像を見たとき。最後の最後に「どれが一番よかった?って聞いたら……。

哲平:同じものがよかった。巨大なものから小さなものまで、何百という仏さまを見たのに、お互いに同じ小さな誕生仏を「これがいいね」と思ったっていう。まあ、そういうことでしょう。

ユミ:だからね、近くに見ているものは違うかもしれないけど、とおーくに見ている、目指しているものは一緒なの。よかったよねぇ(笑)。

ーーお互いのどこがいいということではなく、お互いの作品から感じるものだったり、一緒に見たものであったり、少し離れたところを信頼しあっているということがとても興味深いです。

哲平:その、少し離れた部分を信じてものをつくっているから、そういう見方をするというか、ね。

ユミ:私は、哲平のつくった器に毎日触れて、使うことからも共感をしています。ご飯のたびになるべく美しく盛り付けて、何十年もずっと使うところもすごく大事なんだと思う。

器って使うとどんどんよくなるんだよね。使ったり洗ったりしながら触れて全体を感じていくことも、器の面白さじゃないかと思います。

感情、あるいは感動の蓄積、
あるいは感動の大きなふくろ。

ユミさんの話を聞いていた哲平さんが、「それ(器)は俺なのか?」と口を挟みました。「いやいや、そんな美しい話にしちゃいけない。世界には、ちゃんとしたことをやっぱり伝えないといけない」と。

ふたたび潜りこんで考えはじめた哲平さんが語る、「ふたりが紙一重のところで、薄く共感できているのはどこなのか」。居住まいを正して続きを聞かせていただきました。

ーー今、私のなかには、おふたりが小さな誕生仏を遠くに見つめながら、並んで歩いているイメージがあります。

哲平:いや、そうだと思う、そうだと思います。

ーーはじめて出会って惹かれあったときは、きっとお互いに向き合っていたと思います。歩んでいくなかで同じ方向を一緒に見るようになったということですか?

哲平:それは、やっぱりやりたいことを思いきりやってきて、それぞれに自分の思いが重なってかたちになって。自由になってきて、仕事もできるようになってきて。何かお互いのなかに強いものができてきたからじゃないですか。少しは重なっているけれど、違う部分も大きくなってきているというか。

ユミ:長い間、一緒に旅をして同じようなものを見てきて。旅の中での蓄積が自分たちのつくることにもなってきたと思う。たとえば、同じ誕生仏をいいと思うのも、「この色はあそこで見たよね」というようなことを、たくさん蓄積してきたうえでのことだと思うんだよね。

哲平:旅をしたり、制作をしながら、同じ経験をして近いことを感じてきたという感じはあるので。お互いに持っている、感じてきたものを蓄積したレイヤーは、とてもよく似ていると僕は思いたくて。

それがとても似ているから、近い方向のものを体から出せるんじゃないかなと思う。一番大事なところにしまっている、感情の蓄積みたいなもの。感動の蓄積かもしれない。

ユミ:感動して、そこから何か自分の表現につなげていくときには、そんなに共有する部分はないかもしれない。でも、大きな感動のふくろはわりと似ていると思います。

哲平:最近ものすごく感動したのは何か?というと、たぶん同じものが出てくるんですよ。いまだに、ものすごい感動の共有ができるというのはありますね。

ーー同じ地層を持っている地面がつくられてきて、それぞれの植物というか、違う色の花が咲いているような感じがしました。

哲平:そんなきれいな話にしちゃいけませんよ。ドロドロした、きたなーい、きたなーい地面ですよ。

ユミ:わはははは!

哲平:子どもがまだ小さいときなんかは、「どちらが時間を使うか」を常に争っていて、もう欲と欲のぶつかり合い。そうやって、ずっとやってきましたから。良い意味でも、良い意味じゃなくても。

自分との関わりでつくる「趣味」
社会との関わりでつくる「芸術」

ともに作家でありながら、親として夫婦としてともに在ることは、たしかにきれいごとではなかったのかもしれません。自分の表現に真剣であろうとするほどに、そのしんどさもまた重かったのではないだろうか、と。

でも、人生のなかの嵐のような時期は過ぎつつあるよう。歳を重ねたおふたりが表現と制作にどんな風に向き合っておられるのかを尋ねました。

ユミ:縫い物といっても指先ではなくて、体でつくることだから、体は大事にしているし、哲平にも大事にしてほしい。歳をとることでわかることっていっぱいあるので、歳をとることはすごくいいことだと思うんだよね。

ーーそういえば、近年の哲平さんの作品には軽さがあると評する人もいるようですけど。

哲平:ある時点から、器をつくっているときに、相手に寄り添う気持ちがあったほうがいいんじゃないかと思いはじめてから、つくるものは少し変わってきたように思います。

ユミ:たしかに、すごく重いのとか、唇が切れそうなものはなくなったね。

哲平:若い頃はとても攻撃的で、自分を研いで研いで研ぎ澄ませて、それを瞬間的に爆発させるみたいな感情を持って器の仕事をしていました。僕の師匠がそういう感じだったし、とてもかっこよく見えたんです。

でも、それは師匠であって。自分はどういう気持ちをつくればいいのかずっと悩んで。自分がこの仕事を選んだのは、自分のなかの衝動的な暴力性との精神のバランスをとるためだったと思うんです。振り返ると、このまま衝動をだらだら出し続けていても誰にも何も伝わらないと感じるようになったからじゃないかな。

だから今、いろんな怖い事件を起こしてしまった彼らも、どこかで何かが、誰かが救える瞬間があったはずだと僕は信じたい。そういうことが、芸術によってできれば。僕は、自分が救われたからそれができるはずだと信じたいですね。

ーー「誰かに寄り添いたい」というとき、「誰か」のイメージはあるのですか?

哲平:病んだ社会でしょう。個人は見えないから、闇ですね。その闇に向かって石を投げたい。すると、ときどき闇のなかで石を拾ってきて、見せに来てくれる若い人がいたりする。そういう子が現れると、間違っていないかなと思います。

僕は芸術活動を社会運動だと思っていますよ。自分との関わりでつくっていたらそれは趣味にすぎない。外に出して、社会とどう関わるかということが起きてはじめて芸術だと思っているので。芸術ってそういうことじゃない? 人の、それぞれの感情、心のなかに何かが起きる。社会は人間の感情でできているからね。

最後に、「おふたりが暮らしのなかで共有されているものは?」と聞いてみると、「味覚。食べるもの。何をおいしいと感動できるかでしょう。大事なことは」と哲平さんは即答し、ユミさんも「うん」とうなずきました。

「毎日、ユミがつくるごはんがおいしいですよ」

「おいしいものを毎日食べるって大事。暮らしの一番最初かもしれない」

ふたりが一緒に過ごしてきた人生のなかに、旅をしたり作品をつくったり暮らしと格闘する日々があり、その一日ごとに「おいしいね」という瞬間が一枚ずつ織り込まれている。そのすべてが、ふたりのつくる作品のなかに宿っていて。

いま、ふたたび哲平さんの器を両手に持って、ユミさんが縫うやわらかい布を思い出してみると、この世界には信じるに足るものがあるのだと心強くなるのです。この感覚を、一人でも多くの人に伝えたいという気持ちで、この記事を書き終えたいと思います。

 

年齢や性別の重圧から開放されて。デンマーク・人生の学校「フォルケホイスコーレ」から持ち帰ったもの。【後半】

「そこから新しく生きていけるのではないか」 

時折吹く冷たい風に身を震わせながらも、きらきらと陽光を受ける木々の淡緑に春を感じるある日、パン屋&カフェ「Boulangerie Yamashita」のオーナー・山下雄作さんと、WEBディレクターの阿部果織さんにお会いした。ふたりの共通点は、フォルケホイスコーレ留学経験者であることと、東京で働いた経験を経て、神奈川県二宮(にのみや)に移住してきたことだ。

さらに、お話を伺ううちに、フォルケホイスコーレを経験したふたりらしい似た視点が見えてきた。まずは、いつごろ、なぜフォルケホイスコーレへの留学を決めたのか、お話いただいた。

「ぼくの場合は、中高一貫の全寮制の学校を卒業後、ひかれたレールをそのまま進みたくないと思って、フォルケホイスコーレに行こうと決めました。
そのまま同じ学校の大学部に進学することもできたんですが、静かにひねくれていたので、ちょっと違う生き方をしたいという思いがあったんだと思います」

現在は、神奈川県・二宮町で、パン屋とカフェを営む山下雄作さん。

高校2年生のとき、在校していた学校と交流のあったフォルケホイスコーレの学生たちがやってきた。その時、見せてくれたデンマーク体操と呼ばれる体操やフォークダンスが印象的で、「この人達の文化に触れたい」と思い、体操を学ぶことができるフォルケホイスコーレに行った山下さん。体操で身を立てるために留学したというわけではない。「デンマークで人や何かに出会うことで、そこから“新しく生きていけるのではないか”、という思いが漠然とあったんです」と語る。

当時、山下さんは19歳。1年間をフォルケホイスコーレで過ごす。

一方、阿部さんがフォルケホイスコーレに留学したのは、29歳の頃だ。

「当時、東京のウェブサイトの制作会社で、ウェブデザイナーとして勤めていました。でも、学生の頃からいつか留学をして、視野を広げたいと思っていたことと、北欧デザインに関心があったことに加えて、30歳というワーキングホリデービザの取得期限年齢に差し掛かることに後押しされて、フォルケホイスコーレ留学を決めたんです」

1年前から会社には辞めますと宣言。ウェブデザイナーとしての経験は浅かったけれど、今行かないと一生行けない気がすると、デンマークに旅立った。

WEBデザイナーの阿部果織さんは、春夏・秋冬と2度、デンマークのフォルケホイスコーレに通い、スウェーデンのフォルケホイスコーレの短期コースも経験している。

阿部さんが選んだのは「国際コース」。「天気がいいと森に行ったり、カヌーをしたり。もちろん、英語やデンマーク語の授業の勉強はしましたが、ほかにどんな勉強をしたの?と聞かれると、外によく出かけたなぁという印象が強くて」と、当時を振り返る。

そんなふたりの言葉を聞いて、ノーフュンスホイスコーレの教員、モモヨ・ヤーンセンさんの言葉を思い出す。

「デンマークのフォルケホイスコーレに関する法律に、一つの科目で総時間の半分以上を占めてはいけないと定められています。そのため、学校ごとに独自のコース、科目が用意されていますが、どのフォルケホイスコーレであっても学生は必ずメインの科目に加えて、さまざまなサブ科目を選択し、組み合わせていくことになります」

モモヨさんが教員を務める、ノーフュンスホイスコーレの校舎。【写真提供:Nordfyns Højskole】

ノーフュンスホイスコーレでは、時間数の多いAサブジェクトと、各種スポーツや、演劇、歌、パフォーマンスなどのBサブジェクトとの組み合わせで、授業を構成。興味にしたがって授業を選ぶことができる。

フォルケホイスコーレは専門学校になってはいけない、専門分野を極めたいという目的があるのならフォルケホイスコーレ以外の学校を選択したほうがいいと言われるのはそのためだ。反対に、さまざまな分野から好きなことを見つけたい、ゆったりと学べる環境に身を置きながら、自分に向き合う時間がほしいと考えるなら、フォルケホイスコーレはぴったりの学校だろう。

山下さんも阿部さんも、フォルケホイスコーレで何か特別な専門知識を習得したという意識はなさそうだ。しかし、じわじわと、でもしっかりとフォルケホイスコーレでの時間が彼らに影響を与えたことは、ふたりが当時について語る表情から伝わってくる。

「何に安らぎを感じるのか、
感覚として理解した」

デンマークが初海外だった山下さん。フォルケホイスコーレでは、言葉の壁に苦労した。

「僕は英語が本当にしゃべれなくて、ずっときゅうっとなって過ごしてたんです。だから、どんな授業だったとか、先生がどうだったとか、あまり語れることがありません。でも、ルームメイトだったデンマーク人の友人とはわかり合うことができた。その後の20年以上、親友です」

二人部屋のルームメイト。卒業後、20年をすぎても親友だと言える関係にどうやってなったのですか? そう伺うと、「それはもう単純にー」と、山下さんは言う。

「一年間、ベッドをL字に並べた狭い部屋で一緒に過ごしたんです。暑い日はパンツ一丁でね。僕は英語が話せなかった分、デンマーク語が少し話せるようになって、彼はそんな僕の言うことをいつも察して、理解しようとしてくれたんです」

山下さんは何でもないように言うけれど、周りの人とうまくコミュニケーションをとることが難しい環境のなか、初めて触れる言語を用いて、なんとか相手に言葉を伝えたい、受け取りたいと互いに耳を傾けあった時間は、温かく、かけがえのないものだっただろう。そのことは、山下さんの「お互いどういう状況であっても受け入れられる、そういう信頼感がずっと続いています」という言葉からもよくわかる。

また、山下さんにとって、フォルケホイスコーレを経験した1年は、生涯の親友と出会った年だっただけでなく、価値観を変えるきっかけにもなった。

「デンマーク人がとても大切にしている感覚で、よく使われる『ヒュッゲ(Hygge)』という言葉があります。他のどの言語にも翻訳が難しいと言われるデンマーク語特有の言い回しなのですが、平たく言うと、安らぎを感じること、ほっと一息つくことというような意味があります。僕はデンマークで、自分にとってのヒュッゲ、僕は何に安らぎを感じるのかを、感覚として理解しました。

デンマークの船の中で見た静かで美しい自然の景色や、シンプルで心地良い部屋など、きれいなものに触れているとき、僕は幸せなんだ。そういうものに触れていたい。これが自分にとってのヒュッゲだと思いました」

デンマークの人たちの「物欲を満たしても豊かさは得られない」「自分にとってのヒュッゲを見つけることができたら、それを中心に生きていく」という考え方に共感した山下さん。物を売る、買う、それだけでまわる社会や、消費に導くばかりの情報には豊かさなどなく、心の安らぎこそ大切だと考えるようになる。そして、この価値観は、その後の山下さんの選択に大きな影響を与えることになった。 


focus on yourself
「自分に焦点を当てる」ということ。

英語を使いたい。留学をしたい。視野を広げたい。阿部さんは、いつも心の片隅でそういう思いを抱えていた。「世界は広いのに、日本だけにいるのはもったいない」という気持ちがあったのだ。また、アパレル企業を経て、ウェブデザイナーという業界で働いてきた阿部さんは、常々日本のプロダクトは、本当に美しく、質が高いと考えていた。だから、今知られている一部だけでなく、世界に通用する日本の素晴らしいものを世界に発信できる人になれないだろうかという漠然とした思いも同時にあった。だからこそ、語学や、海外の人との出会いで視野を広げることができれば、日本のことを知ってもらう可能性を広げる手伝いができるのではないかと思ったのだ。

でも、「言語を学びたい」その思いだけなら語学留学も選択できただろうし、視野を広げるのなら、旅に出るのでもよかったかもしれない。なぜデンマーク、なぜフォルケホイスコーレだったのか? その疑問に対し、阿部さんはそうですよねぇと微笑む。

「一つは、デンマーク政府の助成金によって比較的安価に留学できるということがありました。それに、一定の期間、いろいろな国の人と暮らしながら学べることも魅力でした。デンマークの国民性を反映していると言われる学校で暮らすことで、興味のあった北欧の文化を身近に知ることができるかなと思ったんです。また、言葉を学ぶという目的を掲げて単身で学校に入るよりも、いろいろな国の人との共同生活の中から互いを知って、言葉を学ぶのはいいなぁと思いました」

その思いの通り、フォルケホイスコーレの雰囲気には、すぐに馴染むことができたと言う。

授業で使ったり、学生たちが談笑する場となっている、共有スペース。

建物も敷地も広々としており、学生はさまざまな場所にアクティビティや居場所を見つけて、自らの意思で学んでいく。

年齢も興味もバラバラな人々が、ひとつ屋根の下で一緒に暮らし、学ぶフォルケホイスコーレ。授業だけでなく、他者との共同生活全体から大きな学びを得る。【写真提供:IFAS】

「言いたいことの意味をただ伝えることはできても、細かな感情まで言葉で伝えるのは簡単ではありません。そんななか一生懸命聞いてくれる仲間がいたこと、そういう雰囲気が学校内にあったことはとても救いになりました。語学留学などで、学校にポンと一人入るのとは違う安心感があったと思います」

また同時に、日本人としての自分に気付かされたり、自分のなかのネガティブな感情に立ち止まる経験にもなった。

「フォルケホイスコーレのようにいろいろな人が集まっている環境は、デンマーク国内でもそう多くはありません。そのなかで互いの文化を知り合えることはとてもおもしろい経験でした。

驚いたのは、みんな自国のことを語ることができるということ。あなたの国ではどう?って聞かれるんですが、私はうまく日本のことを説明できなかった。日本のことを知らないって思いました。

それに、自分の意見をしっかりと主張できる人たちも多いなか、言葉のせいで積極的に一歩踏み込めないことがあり、もどかしく思いました。悔しかったです。大人になってあんなに悔しい、もっとがんばりたいって思える経験は貴重なことかもしれません」

フォルケホイスコーレが定める「focus on yourself(自分に焦点を当てる)」「live together(共に生きる)」の精神そのままに、阿部さんは人と関係し合うなかから、これまで知らなかった自分に出会ったということだろう。そして、その体験はもっと学びたい、もっと知らない世界に飛び出していろいろな経験をしたいという思いにつながっていった。

北欧デザインに関心のあった阿部さんは、アート関連の授業も選択。帰国後、さらにデザインへの関心が高まった。【写真提供:阿部さん】

「年齢や性別にとらわれない社会は、
こんなにラクなんだと

今では、デンマークに「帰りたい」という思いに駆られるという阿部さん。

そもそも最初にいい国だなぁと思ったのは、初めてデンマークに降り立った日、コペンハーゲンにあるチボリ公園という昔ながらの遊園地に立ち寄ったときのこと。

「夜、ダンスをする場所で、年配のご夫婦や子どもたちなど、いろんな世代の人達が、幸せそうに踊っているのを見た時、来てよかったなぁって思ったんです」

サステナビリティクラスで、リサイクル素材のみで作ったグリーンハウス。

1階は学生寮で、2階には教室もある。【写真提供:Nordfyns Højskole】

世代を問わず、皆が混ざりあって幸せな時間をゆったりすごす姿に、どこか温かい気持ちになったと、阿部さん。それはもしかしたら、阿部さんが初めて、デンマークの人たちのヒュッゲな時間に立ち会ったということなのかもしれないなと思う。

幸せかどうかを人生の選択の基準とし、人に干渉せず、自分のヒュッゲを大切にするデンマークの人々。その後も、デンマークでそうした文化に触れるたびに、ラクだなぁと息のしやすさを感じてきた。

「女性的な視点で言うと、デンマークの人は、何歳だからどうとか、結婚しなくてはいけないとか、子どもはどうするのかなど、年齢や性別などの枠に当てはめて人を見ることがありません。日本では30代に入るとそういう質問もされますし、知らず知らずのうちに見えない重圧のようなものを感じてしまいます。それまでは、そういうものなんだろうと、あまり意識していなかったですが、デンマークに行って、それが全然ないことはこんなにラクなんだなぁと気づきました」

また、年配の女性がいきいきと学ぶ姿にも感銘を受けた。

「何歳でも、いつでも、学べる環境は素晴らしいと思いました。フォルケホイスコーレで、楽しそうに学ぶ女性たちを見て、こういう時間を知っているのと知らないのでは、人生の豊かさにずいぶん違いがあるのではないかと思ったんです」

あらゆる年代の人が、学びたいときに学べる環境があるフォルケホイスコーレ。「夫婦ふたりで参加していた年配のカップルや、いきいきと学ぶ女性の姿が印象的だった」と阿部さん。ここは、スウェーデンのフォルケホイスコーレ「Ölands folkhögskola」【写真提供:阿部さん】

幸せな国デンマークを覗く窓口
フォルケホイスコーレ

フォルケホイスコーレを卒業した後、ふたりは、日本でも「デンマークに触れていたい」と考えた。山下さんは、東京にあるデンマークの家具メーカーへ就職。

阿部さんは、留学前住んでいた東京に戻りたいとは思わなくなり、長野にある北欧家具や雑貨を扱う会社に勤め始めた。しかし、その後さらにふたりに転機が訪れる。

「東京でデンマーク家具に囲まれて、13年ほど経った頃、ある人が僕に『今がいいとは本当は思ってないでしょ。自分に嘘をついて、嘘の鎧をかぶって東京で生きている。それを続けることはできるけれど、それでいいの?』って言ったんです」

デンマークから帰って来て東京生活をするなか、心のどこかで「そうじゃない」と思っていたところを突かれたという感じがした。会社を辞め、1年間その後の人生を迷った後、家族とともに神奈川県二宮に引っ越し。3年の修業ののち、パン屋を開いた。

「そんなふうに話してますけど、今もワーカーホリックですからね」

そう笑う山下さん。仕事ではなく、暮らすことや家族と過ごすことを人生の中心に置くデンマークの人のようには、「なかなかー。」と言いながらも、自らのヒュッゲに従って、お店の音楽や家具などには、本当に美しいと感じるものを選び、家族で過ごすデンマークのクリスマスに想いを馳せて、クリスマスを消費するようなセールはしないと決めていたりする。また、ついついワーカーホリックになってしまうのも、「パンは日々の暮らしに寄り添うものであってほしい」と、連休などもお店を開けてしまうからだ。

山下さんの今の暮らしには、確かにデンマークでの経験が息づいている。

 

「デンマークのデザインは日本人の感覚にしっくりくるように思う」と山下さん。「Boulangerie Yamashita」のインテリアには、デンマーク家具を扱っていた頃の経験が生かされている。

長野で家具メーカーに勤め、会社のウェブサイトの運営などを担当していた阿部さんは、その後ウェブデザイナーとして独立。4年ほど長野に住んだ後、二宮への移住を決める。フォルケホイスコーレから帰って以降、コンビニエンスストアを使わなくなり、食べるものも、欲しいものもとてもシンプルになった。フリーランスのウェブデザイナーであればどこに住んでも働くことができる。都会から適度に離れ、海も山も近いこの土地に住もうと決めた。

「でも、実はデンマークに移住することになりそうです。二宮が最後の引っ越しって思っていたんですけれど」

そうにっこりと笑う阿部さん。デンマーク時代からお世話になる知人の紹介で、デンマークの会社に勤めることになったのだ。「帰りたい」その思いが通じたかのように、デンマークで働くという新しい世界にこれから飛び込んでいくことになる。

「生きる目的って幸せだと思うんです。いつも『世界一幸福な国ランキング』の上位に名前があがるデンマークを覗く窓口として、フォルケホイスコーレという場所はいいですよね」

山下さんがそう語るように、おふたりにとってフォルケホイスコーレは、自分らしい人生の幸せを考える窓口となってくれた。

日本では、大人が仕事をしないで、今のことを見直そうとすると「ニート」と呼ばれてしまったり、「ぶらぶらしている」と言われたりする。積極的に立ち止まったり、能動的に迷うときの選択肢があまりないのだ。けれど、少し社会のペースから外れ、自分のペースで自らの暮らしや将来、幸せについて考える時間を持つという考え方やしくみが根付いたら、日本はどんなふうに変わるだろう。

おふたりのお話をうかがいながら、そんなことを想像した。

 

>>>【前半】人生のための学校、デンマークの「フォルケホイスコーレ」って、どんな学校?

人生のための学校、デンマークの「フォルケホイスコーレ」って、どんな学校?【前半】

定義するよりも、体感する場所。 

「フォルケホイスコーレって知っていますか? デンマークには、大学に行く前に自分の本当に好きなものってなんだろうって考えたり、社会人になってから改めて自分を見つめる時間をすごせる学校があるんです」。「雛形」編集部からこう聞いたとき、むくむくと好奇心が湧き上がってきた。

日本では中学・高校を卒業した後、さらに学びたいと考えるなら、入学試験を受けて専門学校・大学などの学校へと進んでいくのが一般的だ。迷ったり寄り道したりせずに、求められる人材へと成長し、一直線に新卒で就職できれば順風満帆だ、と言われたりする。
また、社会人になってから改めて学校に通うのは、専門性のある何かを学びたい人であることが多い。そう思っていたからなのか、フォルケホイスコーレについて聞いたとき、「それってどういう学校?」と強く関心を持った。

そこには、学生の頃、社会のしくみのなかで、私なりにベターな道を選んだつもりだったけれど、今なら違う選択をするかもしれないなぁという思いが、ひっそりと、でもずっと心の中にあったからかもしれない。

農民のための学校として1844年に立ち上がったフォルケホイスコーレの1校目である、ロッディングホイスコーレの昼食の様子。

主にアートやデザインの授業が行われる教室。自然光が差込み、教室とは思えない自由でクリエイティブな空間。【写真提供:IFAS】

そこで、まずは日本とフォルケホイスコーレをつなぐ一般社団法人IFASに所属する矢野拓洋さんにお会いした。

そして、デンマーク独自の教育機関であるフォルケホイスコーレの特徴は、試験や成績がないこと。17歳半以上であれば入学できること。全寮制で、3カ月〜1年ほどの期間、さまざまな学生や先生と寝食をともにしながら学ぶこと。デンマーク国内にある約70校の学校ごとに、政治学、芸術、スポーツ、社会福祉、哲学など、特徴的なコース・科目があり、公教育から独立した私立の学校ながらデンマーク政府が学費の約7割を助成していること、などを教えてもらった。

「英語の授業があり、他国からの学生を受け入れているフォルケホイスコーレの場合、在校生の年齢も、国籍もバラバラで多様。入学理由もさまざまです。高校卒業後に何を専門的に学ぶのかを決める前に、豊富なコース・教科の中からいくつかチャレンジし、本当に学びたいことを見極めたい。社会人として働いた後、少し立ち止まって自分自身と向き合い、改めてどう生きるかを考えたいなど、いろいろな思いを持った人が、一緒に暮らしながら学びます」

だからこそ、フォルケホイスコーレってどんな学校ですか?と聞くと、経験した人ごとに異なる言葉が返ってくる。「定義するより体験する場所」なのだ。しかし、あえていうならと矢野さんは前置きしてから人生のどんな場面でも自分を見つめ直すための時間をすごせる場所「『人生のための学校』と言われたりしますね」と言った。

ポップアップガーデニングというクラスで、学生たちが作ったというお庭。パーマカルチャー、サステナビリティーなどのクラスの学生や教員で日々メンテナンスし、収穫したハーブはキッチンで使っている。

リサイクル素材だけで作られたグリーンハウス。もともと、学校に通うことができない農家が集まり、農場を学び舎にして開校したことが起源となっているため、フォルケホイスコーレの多くは、地方の自然豊かな場所に設立されている。写真は共に、ノーフュンスホイスコーレ。【写真提供:IFAS】

ドライなのに温かい。
デンマークで生まれた学校

もともとイギリスで建築を学び、デンマークの建築事務所に勤めていた矢野さんは、デンマークの人々と仕事をするうちに、彼らの生き方やコミュニケーションの仕方などに興味を持つようになった。そこでデンマークの人々の考え方について調べるうちに、デンマーク独自の教育機関であるフォルケホイスコーレへの関心を深めていったと言う。

IFASに所属する矢野拓洋さん。デンマーク人家族とともに生活しながら、建築事務所や研究機関で3年間働いた経験から、「個人主義的でありながら、人とともにあることを大切にする彼らの考え方に興味を持った」と言う。

「デンマークの人って、ドライなのに温かいんです。国民の幸福度が高いことで知られているように、常に自分が幸せかどうかという基準で物事を選択します。なのに決して個人主義にはならない。ひとりでいくつものコミュニティに属し、自分は社会の一員であるという感覚を持っています。

『デンマーク国民は500万人ほどだけど、ひとりで3つも4つもの団体に属しているから、2,000万人、3,000万人の国民がいるのと同じ』というジョークがあるくらいです。個々に自立した考えを持ちながらも、人と共にいて、自分の持っているものをシェアしたり、シェアされたりが自然にできる。人と一緒に何かをやることで人は成長すると考えているんです。そして、フォルケホイスコーレは、まさにデンマーク人のこうした感覚を体感できる場所だと思います

矢野さんは、現在はデンマーク建築などの研究を進めながら、同時にIFASのメンバーとして、30校以上のフォルケホイスコーレに足を運び、フォルケホイスコーレの理解を深める活動を行っている。

フォルケホイスコーレが生まれたのは1844年のこと。長い歴史があり、これまでもたくさん日本からの留学生を受け入れてきた。「でも、最近になって注目度はこれまで以上に高まっていると思います。問い合わせもとても増えているんです」と矢野さん。そこで、日本にもフォルケホイスコーレの考え方を取り入れることができないかとイベントを企画。

2019年3月の神奈川県・北鎌倉。円覚寺の門をくぐり、梅の香りが漂う庭を抜けたところにあるお寺の建物の一角で、矢野さんらが企画したイベント「鎌倉ホイスコーレプロジェクト」に参加するメンバーが集まった。

鎌倉ホイスコーレプロジェクトには15人の参加者が集まった。そのなかの約半分はフォルケホイスコーレ留学経験者だという。この日から3日間、皆でフォルケホイスコーレについて考えることになる。

対話による授業。
情報は生きた言葉によって命を持つ

「鎌倉ホイスコーレプロジェクト」に参加したひとりに、デンマークで暮らし、ノーフュンスホイスコーレで福祉研修担当の教員を務めているモモヨ・ヤーンセンさんがいた。どんなふうに授業を進めているんですか? そう訊ねるとモモヨさんは、思いが溢れるかのように、少し早口に教えてくれた。彼女のエネルギーのこもった言葉から、フォルケホイスコーレとはどのように学ぶ場なのかが少しずつ見えてきた。

「大切にしているのは、『対話による授業』です。トピックスに対して、常に互いの意見を交換していきます。日本の学校に慣れていると、正解を求めてしまいそうですが、重要なのは正解ではなくプロセス。フォルケホイスコーレでは、テキストや本にあるのは『死んだ言葉』、対話によって出てきたものこそ『生きた言葉』と考え、みんなで授業をつくっていきます」

学びの定義としているのは「情報から知識へ」。本や雑誌、インターネットには情報が溢れているけれど、それらは量が多すぎて、ときに混乱や不安を招いてしまう。情報を意味のあるものにするために、知識に変える手伝いをしています、とモモヨさんは続ける。

29年前にデンマークに移り住み、現在はノーフュンスホイスコーレで教員として勤めるモモヨ・ヤーンセンさん。フォルケホイスコーレは、授業以外の時間も大切にしており、夜も教員が交替で生徒との時間を共有する。

「『情報』は、対話=生きた言葉によって初めて命を持ちます。自分はどう思うのか? なぜそう思うのか? 一人ひとりが自分自身に問いかけ、その思いを共有し、同時に他の人の思いを聞いて、さらに考える。対話を媒体にすることで、情報を知識に変え、学びを深めていくのです」

教員は、専門性を生かして授業を進めていくけれど、テキストを読み、学生がその箇所を覚えるというような授業をすることはない。

「あるとき、福祉の現場で長年勤めてきた60代の女性が入学してきたときがあったんです。その時は、彼女に豊富な知識や経験をシェアしてもらうことが、みんなにとって大きな学びにつながりました」。フォルケホイスコーレの教員は、その場にいる学生たちと、リアルタイムに授業をつくるファシリテーターのような役割を果たしていく。

体験する民主主義

対話による授業では、「今こんなことを言うのは、場違いじゃないか?」「うまくまとめて話せないといけないのでは?」などと、空気を読む必要はない。すべての人に自分の思いや意見を発する権利があり、そこにいる人はその言葉を受け止める。

「少数派だろうが多数派だろうが、言葉や背景が違おうが何も分けることなく、その場に一緒にいる人の中に自分の言葉を素材として投げ入れ、他の人の言葉を受け取る。それは“体験する民主主義”とも言えるもので、フォルケホイスコーレの軸となる考え方です」

自分が感じたことを安心してその場で発し、それらが評価や批判されることなく、他者に受け入れられていく。そうした温かい時間が積み重なる経験は、学びを深めると同時に、その時間をともにすごす人との関係も深めていくのだろう。

自分で学ぶだけでなく、人と考えを語り合う意義と楽しさを知った学生たちは、授業が終わっても、さまざまな話をする。フォルケホイスコーレが、全寮制であることのメリットはここにもある。暮らしの場もまた、学びの場となっていく。

「フォルケホイスコーレのクラスは、言いたいことは何を言っても大丈夫という信頼感があるんです。自分の意見を大切にされてるなって感じられたし、日本にいたときよりも自分自身を肯定することができるようになったなと思います」(しょうこさん)

「高校生のときは一人でお弁当を食べていたし、私はずっと一人が好きだと思っていました。でも、フォルケホイスコーレに行って、私は人といるのが好きなんだって知ったんです」(大学生・松本れいなさん)

北海道で英語を中心とした子供の教育に関する活動をする杉山旬さん。「生徒に高い点数を取らせる先生が評価されるのが日本の教育だとすると、フォルケホイスコーレの教育は、生徒が豊かになることを目的にしているんですよね。そこが大きく違いましたね」

ただ、少し心配なのは、長い時間をともにすることで、人と人の摩擦も生まれやすいのではないかということだ。旅をしようと思うほど親しくなった友達だったのに、四六時中一緒にいることで、細かな違いが気にかかり、イライラしたりするのはよくあること。世代も、育ってきた背景もまったく異なる人と生活するなら、なおさらだ。

その問いかけにモモヨさんは言う。

「イラッとしたときこそ、チャンスなんです。『あれ? 何で私は今イラッとしたんだろう』と考えてみる。すると、それは鏡のように自分自身の考え方や、これまで育ってきた文化などを映し出し、考えるきっかけになります。生活のリズムが違う、考えが違うと思ったとき、自分の感情が反応したときこそ、通り過ぎないで立ち止まって気づける力を身につけたいのです」

できるだけ摩擦を起こさないためにと考えると、相手の性格や文化を努めて理解しようと自分に言い聞かせてしまいがちだ。もしくは、関わらないことで摩擦を起こさないようにしようと考えることだってあるだろう。しかし、そうではなく摩擦をチャンスと捉えて、自分の感情に焦点をあてることから始める。自分自身を知ることで、見えてくるものがあるということなのだろう。

「ふと庭を見ると、エストニアから来た大学院生と、ダウン症の障害をもったデンマークの学生と、日本人の学生が肩を組み合って庭で語り合っている姿を目にしたりします。うちの学校ではごく当たり前の風景。だけど、知らない人が見たら『共通点は?』と感じてしまいそうな彼らが、親しく語り合ったり、笑い合ったりするシーンに居合わせたとき、『あぁ、この学校ってなんていいところなんだろう』ってしみじみ思いますね」

授業だけでなく、寮生活もフォルケホイスコーレの大切な学びの場。一緒に食事をしたり、相部屋で寝起きするなど、異なる文化の人と関わり、ともに生活することで、学校生活だけでは得られない気づきがあるという。

フォルケホイスコーレに半年間通い、帰国したくなかったという荒巻理沙さん。「学ぶって、“認識を広げること”なんだと思いました。自分のなかにあった常識とか、あらゆる前提を遮断して、相手の目線に成り代わってみることで、はじめて本当にわかることもあるのだと気づいたんです」

フォルケホイスコーレを日本にも

矢野さんは、日本にデンマーク公認のフォルケホイスコーレをつくるための方法を模索している。

周りからどう見られるかとか、社会が求めているかではなく、“自分自身の内側に焦点をあてて考えること”。同じ考えや背景の人だけでなく多様な“他者と生きること”。忖度したり、多数決ではない本当の意味での“民主主義的なあり方”でものごとを進めること。フォルケホイスコーレで定められている、そうした学びは、今の日本に必要ではないか。その価値観を持ち込むことができたら、日本ももっと幸せな国になるのではないかと、矢野さんは思っている。

「そんな話をすると、日本の教育はだめだから、優れたデンマークの教育を取り入れようって聞こえてしまうかもしれないけれど、ぜんぜんそんなことはないんです。日本の教育現場、労働現場における慣習や制度を否定する必要はなく、むしろそれらを資源とみなして有効活用する能力が問われていると思います。チームワークの素晴らしさ、繊細で緻密なものを高い完成度でつくり上げる力など、世界に誇れるところがたくさんあります」

新しいものを取り入れるときに、既存のものを否定する必要はない。加算的な議論が大切だと矢野さん。

「フォルケホイスコーレがデンマークに生まれて170年以上。デンマークの文化や、社会のしくみとぴったりとくっついた教育システムなので、ただ学校を持ってきただけでは機能しないだろうと思っています。だから、ゆっくりかもしれないし、まだまだ議論が必要です。でも、今ある日本のいいところに、フォルケホイスコーレの考え方が加わったら、それは最強だと思うんです」

「10年目、私の巣づくり」 vol.3:るみさんと松尾さん 〈大分県・別府市〉

ナスとトマトの豆カレーと、とうもろこしご飯。もっちりと蒸したパンは、大分豊後高田「HIBINO」さんのもの。チキンとポテトのスパイスサラダ、フムス、にんじんのクミンラペを添えて。

若い世代の感性やアイデアと
ともに働くよろこび

山田るみさん(以下、るみ):わあっ!美味しそう!!

宮川園さん(以下、園):るみさん、お昼食べてきた? 食べる?

るみ:さっき食べて来ちゃったの〜残念。でもとうもろこし美味しそうだな、いただこうかな。

園:どうぞどうぞ(笑)、こちら山田別荘の女将のるみさんです。

るみ:はい、影の女将です(笑)。20年ほど前に父が亡くなって、当時女将だった母が「もう引退するわぁ」となり、私が引き継ぎました。27歳の時で、仕事について右も左も分からず、さらに出産して半年後だったので、もうひっちゃかめっちゃかだったな(笑)。ただ、小さな頃からずっと母の仕事を近くで見てきたので、その記憶を頼りにして必死で働いているうちに5、6年過ぎていきましたね。

当時、宿の大広間では、宴会や接待が多くあったのですが、どうも私には向いていないなあと思いながら働いていて。それよりも、海外から来たお客様が、この宿の建築や、日本の家としての佇まいにすごく良い反応を示してくださっている。そこをこの宿の個性として強めて、もっとたくさん海外からお客様を迎えたいと思い始めました。
改めて山田別荘の歴史を遡ったり、ロゴやホームページを作り直したりしながら、インバウンド対応に力を入れていきました。

「山田別荘」の縁側にて。女将のるみさんと園さん。

私は、若い世代の子と働くことが好きなんですよね。もちろん、若ければ良いってことではないけれど、私たちの世代にはない、彼女たちの感性とかアイデアを尊敬しているんです。

母が女将の時代は、常にベテランの中居さんがいて、完璧に仕事をまわしていました。私は何もしなくてよかったくらい(笑)。私の代になって、もっと外国のお客様に宿に来てほしいと考えた時、迎えるスタッフの体制についても変えていきたいなと。別府には、『立命館アジア太平洋大学』があり、留学生がとても多い街なので、海外から来た学生さんに宿で働いてもらえたらいいなと思ったんです。外国のお客様の対応も一緒に考えてもらいながら。

今、スタッフに、ナビンちゃんというカンボジア出身の子がいるのですが、学生の頃から卒業後も働いてくれています。ナビンは、日本が好きで、別府が好きで、とにかくよく働いてくれる頑張り屋さん。みんなに可愛がられていますね。「ナビンがいたら百人力!」って(笑)。

“ここだからいいんだ”と
教えてくれる存在

るみ:「BASARA HOUSE」は、もともと空き家だった物件でした。実際に借りることが決まって、具体的にコンセプトを考え出した時、園ちゃんが前のお店を辞めることを耳にして。

園:まだ、るみさんに直接伝えていなかった時だよね。

るみ:そう、共通の知り合いから聞いて。彼女も園ちゃんが別府に根ざして、地域でいろいろな仕事を作り出してくれていることを知っている人で。私が動き出していることも知ってくれていたから、タイミング良くつなげてくれた。そこからぐっと始まっていったね。

園:るみさんは山田別荘の女将であるとともに、「BEPPU PROJECT」の企画に入っていたり、芸術祭の「混浴温泉世界」では、“踊る女将”として舞台にも立っていて。「混浴温泉世界」は、私も初年度の2009年から携わっているので、るみさんのことが昔から知っているけれど、今とはイメージがまったく違う(笑)。

るみ:そうだね、私は変わった。女将になってからは、この宿を一生懸命守っていかなければと必死で、周りを見る余裕もなくて……“素の自分”っていうものがなかったかもしれないな。

「混浴温泉世界」では、山田別荘を会場のひとつとして貸していました。最初は現代アートというものが何かまったく分からなかったけど、実際に見て、体感するうちに理解できてきて、面白くなっていったんです。そして、踊り出したら、自分が変わった(笑)。

ほかの会場も、それまで町の中で封印されていた建物や、地元では誰も使おうとしていなかった場所に外から人が訪れて、私たちに「ここが面白いよ!」って新しい価値を伝えてくれたんです。
ずっとここに暮らしている私たちにとっては身近すぎて、反対に気づかなかったり、入り込めなかったりするから。外から来てくれる人は、入って、発見して、開拓してくれる。

当時、園ちゃんも浜脇に暮らして、自分からコミュニティに入っていってたよね。私にはない、想像力、冒険心や好奇心をもって、この町を見てた。
園ちゃんは、都会に暮らしたうえで、この町の良さを発見して、「ここだからいいんだ」と教えてくれたんですよね。田舎育ちの私は、どうしても都会に憧れちゃうんだけど(笑)。そうそう、松尾(常巳)さんのことだって、私の周りのみんな誰も知らなかったんだから!

友だちとして、作家として
出会った
22歳と94歳

「BASARA HOUSE」の看板文字を描いた、元映画看板絵師・松尾常巳さん。別府ブルーバード劇場や宮崎県の映画館などの看板を手がけてきた。

園:たまたま私は近所に住んでたからね(笑)。松尾さんとは、町内旅行に行くバスで隣の席だったの。60代〜90代の中に、当時22歳の私がひとり(笑)。途中、車酔いしちゃって。前の席に移動したら、足の悪いおばあちゃんと、90代の松尾さんと、私が、偶然並びの席になって。要介護組だよね(笑)。

その旅で、大きな瀧をみんなで見たんだけど、松尾さんはその後ささっとバスに戻って、鉛筆と紙を出して川柳書いてたの。「なんだこの人、すごい!」って、まずびっくりして。松尾さんが持参してバスで食べてたお弁当も、スーパーの半額シールが貼ってある鯖寿司で、「生もの大丈夫か!?」とか……もう、とにかく気になって、気になって(笑)。

その出会いをきっかけに、松尾さんの絵と川柳の展示をお手伝いすることになって、ちゃんと知り合った感じかな。松尾さんは当時94歳。そこから一緒に遊ぶようになって、植物を交換したり、私の家のドアノブに肉まんがかかってたこともあった(笑)。すごく優しいんだよね。

園:松尾さん、こんにちは。何しとったの?

松尾常巳(以下、松尾):寝とったよ。

園:おはよう!

松尾:はい、おはようございます。

園:もう自転車乗らないんでしょ?

松尾:先生が乗るなゆうからなあ。まだボケとらんのに。

園:松尾さん、前は自転車で移動していたけど、危ないからドクターストップかかって。でも、認知症もないし、もともと戦争の時に耳を悪くしてるから、耳が遠いくらいで。ある時、耳の穴に100円玉つめて出かけてたから「じいちゃん、100円耳につめてどこ行くのー?」って聞いたら、「豆乳!」って(笑)、ね?

「BASARA HOUSE」から松尾さんの家に向かう道中にて。「ここから見える扇山が一番いいね」と、ふたり。

園:昔、一緒に旅行に行ったの憶えてる?

松尾:え? 旅行に行ったか??

園:あははは、町内旅行だよ。

松尾:ああ町内旅行、あの頃はよう行ったな。

園:3、4回行ったね。松尾さんが96歳の時かなあ。バスをチャーターして、佐賀にイカ食べに行って。呼子町の瀧が綺麗だったね。楽しかったね。

松尾:ああ、楽しかったね。

園:紙屋温泉でやった展覧会も良かったね。息子さんが松尾さんの川柳に合わせて、イメージの写真をつけて。松尾さんの川柳もすごいんだよな。

松尾:16歳の頃から俳句やっとって。ある時、満州の奉天で会ったおじさんが川柳やっとって。「俳句やってるけど調子がおかしい」って話したら、「俳句なんてやらないで川柳やったらいい」って言われて。それからだね。もう数はわからんくらい書いてるね。毎日書くから、数えきれん。なにかを感じた時にすぐ書く。

園:今も、紙屋温泉の脱衣所にあるよ。パッと読んですぐに頭に入ってきて、すごく面白いの。例えば…“現代アートは、許可を得た、落書きか”とか。

松尾:ふふふ。

園:救急車に乗った時についての句もあったよね?

松尾:忘れたな。

園:“あと3分、もうちょっとだけ、寝れる”みたいな!(笑)

互いに描くイメージで
つながるふたり

園:看板の文字のお仕事をお願いする時は、いつも松尾さんの家に行って、これを描いてほしいですって伝えに行きます。

松尾:うん、来よるな。

園:いつも突然行くの(笑)。前のお店をやめた時も松尾さんが「また新しいの描くからね」って言ってくれて。いつもいつも、ありがとうございます。

松尾:いえいえ。

園:私からは、あるイメージみせてあとは自由に描いてもらっています。このロゴは三角定規で作ってましたね。BASARAの真ん中にある“A”が、別府タワーになっていて。自分では、まあまあかなって言ってたね(笑)。

松尾:ふふふ。1日くらいかけて描いたかな。

:みんなに羨ましがられるよ。園ちゃんばっかり描いてもらって!って(笑)。どうして私に描いてくれるの?

松尾:どうしてだろうねえ。

:金色の文字は、オープニングの時にみんなで描いたね。あれ、ゴジラみたいでいいよね。ペンキでバサバサっと描いた、あの質感が好き。あえてこういう質感にしたのに、みんな失敗してないかって心配してた(笑)。あれでよかったのに、松尾さんも恥ずかしがってあまり言わないから、息子さん(元美術教師)が上から書き直したりして。松尾さん怒ってね(笑)。

松尾:うん。

:「BASARA HOUSE」はどう?

松尾:うん、いい場所だよ。

:これから、たくさんの人が集う場所になるよ。

松尾:そうだね。

 

 

 

「10年目、私の巣づくり」 vol.2:みせづくりはまちづくり 〈大分県・別府市〉

新しい仲間たちと
育つ家をつくり続ける

山田別荘の隣に10年以上空き家になっていた物件があって。それを女将のるみさんが借りることになったの。元クリーニング屋さんだったんだそうなんだけど、2階建ての建物で、104坪もあって。私も何度もあの物件の前を通っていたけど、こんなに奥行きのある物件だなんて気がつかなかった。

ここを、新たにどんな場にしたいかと考えた時、山田別荘の“別荘”として、2階の部屋を宿泊できるようにして、アーティストたちがここに滞在しながら、作家活動して、作品を残して行ってもらう場にできたらって。小説、写真、音楽、書、木工、和紙…どんな作品でもいいんだけど、人が来て何かが生まれるたびに、ここも一緒に育っていくような場にしたいとルミさんに話したら、すごくいいねって言ってくれて。

そこに、別府でさまざまなプロジェクトを手がける清川進也さんが、前から私と仕事をしたいと思ってくれていたそうで、入っていただくことになりました。

清川さんは福岡県出身で、仕事の拠点は東京だけど、これからも別府で仕事を続けていきたいから別府にオフィスを構えて仕事を作って、町に還元したいと話してくれて。

そこから、るみさん、清川さん、私の3人体制で動き出した。 育つ家、作り続ける家を作っていこうって。

山田別荘・女将のるみさんと。

「BASARA HOUSE」の“バサラ”は、清川さんの出身地、福岡県の飯塚の方言で、“かぶく”っていう意味があるんだって。より良くなるとか、超いい!を、バサラいい!っていうんだって。すごくいい意味だし、カオスな別府の町にもぴったりだなって思って(笑)。



まず、この建物をリノベーションすることから始まりました。るみさんとは「この築80年の建物自体にコンセプトがあるから、無理やり新しくせず土台を残しながらリノベーションして行こう、そうしていくうちにまた新しいアイデアに出会うかも」って話をしていて。

大工さんにもそう伝えて、古くなったベニヤ材を剥がしていったら、褪せたピンクとブルーの壁が出てきて……元遊郭だったことが分かったの!鳥肌たったよ。今思うと、大工さんも下見の時から、なぜかこのベニヤを剥ぐのを楽しみにしてて(笑)。2週間くらいかけて工事したんだけど、もう出てくる出てくる(笑)! 床板を剥いだらタイルが出てきたり、2階もピンクの壁の部屋があって、ああこれは遊郭だったねって確信した。建物のもとの姿が見えるにつれて、どんどん空間が生き生きしてきて。

古材を使うってことは、バラバラな寸法のものを新しい家に合わせて使うから、すごく手間だし、新しい建材を使うほうが良いと言われることもある。
でも私は、現れてきたものをなるべく活かしたかったから、タイルもキッチンのカウンターの下に置いてもらったりしたの。

大工さんたちは、古材は錆びた釘もひとつ残らずとっておいてた。「こういう古材も建具ももう2度と作れないもの、作れないから宝物なんだよ」って。

私自身、そういうことを大学で学んできたから、「もう完璧です!」って(笑)。そうやって価値を分かってもらえる人たちにここを作ってもらえることが、すごくうれしかったなあ。彼らだからできた仕事だと思う。レスキューした建材も愛情をもって使ってくれたし、空間とコミュニケーションをとりながら、もとの建物を活かして細かく作り込んでくれた。

生きてる素材を使うと、建物は生きる。コンクリートや鉄はいずれ朽ちて使えなくなるけど、木はずっと呼吸を続けて生きているから。

私のまちづくりは
私たちのみせづくり

1階のカフェのメニューは、季節によって変えていく予定だよ。私がいろんな土地へ出かけることも多いから、タイに行ったらタイ料理、フランスに行ったらフランス料理とか、その国で食べたものの影響からメニュ—が作れたらおもしろそう。イベントやパーティーもやっていけたらなと思ってる。

知り合いの農家さんの固定種野菜を料理に使っていて。私の周りに農家さんが多いから、手助けになる場にもしたいから。販売もしているんだけど、ここに来て、野菜を置いていってもらえれば、すぐできることだからね。

私の中で、まちづくりは“おみせづくり”だと思うから、店を作り続けているのかな。私たちがやっていることを見た周りの人が「おもしろそう!」と思って、また新しいお店ができたり、それがいろんな町に分散されていったらいいなって。

土地や、建物の価値もあるけれど、そこを育てる人がいるから、人は集まるんだと思う。それがここの、私たちの価値なんだって思っています。

 

 

vol.3:「るみさんと松尾さん」につづく

 

 

「10年目、私の巣づくり」 vol.1:私のままで暮らすために、 離れた町〈大分県・別府市〉


変わりゆく町で
暮らし続ける違和感

3年前一緒に歩いた浜脇の町は、再開発ですごく変わっちゃったよ。元遊郭の建物はほとんどなくなったし、私が住んでいた建物も壊されちゃって。でも、暮らしてる人は変わらないから、人間だけが濃いまま残っている感じで(笑)。そうやって変化していく環境に、私の中で違和感が生まれて、少しずつ「ここはちょっときついなあ」と思い始めたことが町を離れるきっかけだった。でも別府では暮らしていたいから、別なエリアに引っ越したんです。

ここは、留学生や、繁華街で働いている人も多く住んでいて。道ですれ違ったらご近所さんだって認識はあるけど、気にしない感じ。近所の温泉に入ってる時、世間話の流れで「引っ越してきたんです〜」と言うと「そうなのね〜」って感じで。もし浜脇だったら、どこから来て今どこに住んでいて、その周りに住んでいる人がどうだ…ってどこまでも身内話が続いたと思う(笑)。暮らしてる人同士のコミュニティが濃いことは、浜脇が好きな理由だったんだけど。

最初は、初めての一人暮らしだったし、ひとりで寝るのが怖くてずっと窓の方みて寝る、みたいなところから始まって(笑)。

私は、生まれてから3歳まで熊本県の天草で育って、両親がお店をやっていたから、商店街の人たちにすごくかわいがってもらったの。それ以降は東京のマンションで育ったから、天草の時の楽しい記憶が残っていて。当時のようなコミュニティが残る浜脇で暮らすうちに、ここだったら知らない土地でもひとりで生きていけるって思った。近所のお母さんたちが、エプロンして私のことを見守ってくれている感じで(笑)。ありがたいことだったんだけど、だんだんと監視されているような気持ちになったのも正直なところ。

東京から移住してきた人として、雑誌とかテレビに私を取り上げてもらうことが増えてからは特にそうかな。引っ越しを決めた時も、「あんなにお世話してあげたのに!」って言われたりして(笑)。

距離が近くなりすぎることも、危険を孕むことなんだと知った。好きで手伝っていたことでも、「こんなにやってあげたのに!」と思ってしまう関係性にもなりかねないから。“ただより高いものはない”ってことを学ぶ感じ?(笑)。


東京で過ごした大学時代も、地方から出てきた友だちから、「地元のコミュニティが煩わしくて上京して来た」とか、夏休みに帰省すると「近所のおばちゃんにあれこれ聞かれてうざい〜」とか、そういう話を聞いても共感できなかったんだよね。でも今ならあの感じが分かるかも…って、すっごく遅いんだけど(笑)。

地域で暮らす魅力だけでなく、ネガティブな部分も体感したことで、「私はここで、私の巣作りをするんだ」って決めたの。近所のおじいちゃんおばあちゃんにそう話したら、「あら、園も大人になったのねえ」って。30手前にしてやっと大人かあって思いつつね。


園さんが通う大好きなおでん屋「ふくや」にて。店主のさなえさんは園さんの別府のお母さんのような友だち。

私が生きているのは、
10年の月日からつらなる“今”

22歳から別府に住んでるから、もうずいぶん経ちました。恋人も変わったよ(笑)。私自身、この町で暮らすことに慣れたっていうのもあるけど、周りの人に頼りすぎることをやめなくちゃと思ったのもある。最初は、家族も友だちもいない土地だったから、初めて会った人にも自分の話をたくさんして、相手の話も聞いて友だちになって。自分を守る術として、いろんな人と親しくなることが癖みたいになっていった。知らない土地で生きていく防衛本能のように。よく、まちづくりの基本の考えで“よそ者、若者、ばか者”ってあるけど、なぜか私自身がそれに忠実になっていたっていう(笑)。

今思うと……そうすることで私の“良いこちゃん像”のようなものができちゃったのかも。地域の濃いコミュニティに入って、おじいちゃん・おばあちゃんの中にいる“マドンナ園さん”みたいな。それはないやろ〜?(笑)。

若者がいなくなった町に私が移住して来た環境がそうさせたんだけど、どこか美化されてるような像がどんどん一人歩きして、小さな町に刷り込まれていった。この土地で生活していく時間が長くなるとともに、自分で自分を守れるようになって来たのかもしれない。もう自分を守るために誰かを頼る時期ではないな、と。

別府に移住してからいくつかお店を立ち上げ運営してきて、4店舗目になりました。やっと今、自分でお店作りを考えられるようになってきたかな。毎回同じやり方でもダメだから。

働きながらこれまで経験してきたこと、特に前職では、新しくお店作りをすることから始めて、すごく勉強になった。私にとって大きな試練でもあったし、しんどい時は、「もう別府に住む意味がないかも」って思うこともあったけど、「園ちゃんいるー?」ってわざわざ来てくれるお客さんがいたから続けてこれた。私がここに10年住んできたからこそ、お店に来てくれる人がいるってことを信じてやってきた。

別府に暮らし始めた頃、『別府龍宮』という個展で布に写真を印刷して空間を作ったの。そういう創作もすごく楽しかったんだけど、同じ時期に、料理をすることにすごく憧れていて。それが表現できるアトリエとして「スタジオ・ノクード」を作ったから、そこからはどんどん料理に向かっていったんだよね。それまでの作品では、写真や布で空間をコラージュしてきたけど、今は食卓の上の食材でコラージュする。それは季節や時間に沿って変化しながらずっと作り続けられるもので。そう感じてからずっと、たべものに関することが楽しいんです。食卓を囲むこと、おもてなしをするってことが自分にとってすごく好きなことだし大切。それが出来る人のこともすごくかっこいいと思うからね。

5年後どうしたい?って聞かれてもよく分からなくて。
私は今の私を生きているだけだしなあって思ってるから。

私が“たべもの建築家”として、別府でやっていることを、東京で広告とかクリエイティブに関わる人が興味を持ってくれることも増えて。きっと私なりに新しいやり方を実践しているからだと思うんだけど、コンタクトをくれる人の中には、東京で“消費消耗の仕事”をやっている人もいて。そういう人と連絡をとっていると、「この感じでいくと消費されるな、私」って、そういうのすぐ分かる(笑)。

私は、この町で暮らしながら自分がやりたいことをゆっくりやってきたんだよね。

ノクードでは、自分の中で実験をたくさんして、その後は、日常の食作りに関わるためにお店作りを経験して。今、関わっている「バサラハウス」は、山田別荘の女将のルミさん、作曲家でプロデューサーの清川進也さんと私の3人でスタートしたプロジェクト。“育つ家”をコンセプトに場づくりを始めたよ。私はカフェスペースも担当していて、ごはんも作ってます。日常の食でありながら、オートクチュールのような食卓にできたらと思っているけど……やっぱり日々の消耗は激しくて(笑)。でも、その中でいつも新しいアイデアとか自分がどうしたら楽しくいられるか考えています。


vol.02「みせづくりはまちづくり」につづく

パンづくりもお店づくりも、大切なのは愛を配れるかどうか。「ブーランジェリーヤマシタ」 【インタビューby東京R不動産】

地に足をつけて生きるために。
33歳から、パン職人の道へ

ーー神奈川県二宮町。訪れる人をなごませるような、ゆったりとした空気が流れている小さなこの町に、地元の人が足繁く通う小さなベーカリー「ブーランジェリーヤマシタ」はある。2、3人が入るといっぱいになる店内には、焼き立てのパンが所狭しと並び、店の外に行列ができることもしばしば。駅から決して近くはなく、少々閑散とした場所なのに、幅広い年齢層の人が入れ替わり立ち替わりやって来るのは、やはりパンがおいしいからなのか、それとも森のパン屋さんのような雰囲気に引き寄せられるのか。まずは山下さんがどんな思いでこのお店をつくったのか、話を聞くことから始まった。

千葉さん:ニューニュータウンでは、商店街でお店をやりたい人に集まってもらおうと思っているんですけど、今日は山下さんみたいに地域の人に愛されるお店をやりながら、そこで暮らすことの実感とか、暮らしと仕事の距離感をどんなふうに考えていらっしゃるのか、お聞きしたいと思っています。お店を始めるにあたって、二宮を選んだのはどうしてなのでしょう?

東京R不動産の澤口さん(左)と千葉さん(右)。

山下さん:もともと僕は茅ヶ崎に長く住んでいて、青山や銀座に店舗があるデンマークの家具メーカーに勤めていたんです。要は、湘南で都会的な感覚を持って暮らしながら東京で働くっていうことを、かっこつけてやっていたんですね(笑)。でも33歳くらいのとき、あることをきっかけに仕事を辞めることになり、これからどう生きていくべきか1年ぐらい悩んでいたんです。

そのときすでに結婚していて、子どもがふたりいたけれども、ろくに仕事もできず、貯金がどんどん減っていくわけです。お金はないけど、子どもが毎日ごはんを食べる姿を見ていたら、日常の食に関わるような仕事なら、もっと人のためになれるのかなと思って。それと今までは、デザインされたできあがったものを売ってきたけど、自分でものをつくりたいという欲求がずっとあったんです。食に関わること、自分の手でものをつくること、そして今までのように浮足立った感じではなく、地に足をつけて生きていかなければと考えたとき、パン職人という仕事が腑に落ちたんですよね。……といっても、パンをつくったこともなかったし、特にパン好きなわけでもないんですけど。

澤口さん:そうなんですか!?(笑)

山下さん:だからイメージ先行です(笑)。一方で暮らしをどうしようかと考えたとき、人を消費に導くような都会的な情報に自分はかなり蝕まれていたので、そういった情報が届かない場所に行かなきゃダメだと思ったんです。単純に地図を広げて、僕と妻の両方の実家がある神奈川県内で緑の多い場所を探しました。それで二宮に来てみたんですけど、吾妻山の菜の花がちょうどきれいな時期で、なんだこの天国みたいな場所は! と感動してしまって(笑)。町なかに大きな商業施設や広告看板もほとんどないし、歩いて行ける場所に海や山があるのが気に入って、ここで暮らし始めたんです。

都心から電車でわずか1時間とは思えない、自然豊かでのんびりとした雰囲気の二宮町。ブーランジェリーヤマシタの裏手にある吾妻山は、登り口から山頂まで最短500mと、ハイキングにちょうどよく住民に愛される山。山頂(標高136.2m)にある展望台からは、相模湾や箱根、丹沢、富士山などが一望できる。

ーー並行して、知識も技術もゼロの状態から平塚のベーカリーで修行をスタート。1年ほど経って二宮町内で引っ越しをした矢先に、現在、工房兼店舗にしている物件と巡り合う。

山下さん:引っ越した一軒家のすぐ裏なのですが、ジョギング初日に偶然見つけました。後々聞いたら、大家さんが30年ほど前に妹さんのためにつくった美容院で、完成して早々に妹さんは嫁いでしまったらしく、誰かに貸すこともなくそのまま放置された状態でした。前の仕事柄、空間をイメージする力があったとは思うのですが、改装したら絶対にいい感じになると確信できたので、不動産屋さんを通して大家さんにコンタクトを取りました。

澤口さん:その頃にはもう、ご自分でお店をやろうと決めていたんですか?

山下さん:3年修行をしたら独立するつもりだったので、駅近じゃなくて、周りにお店なんかもあまりないほうがいいっていうくらいのイメージはしていました。

千葉さん:駅近じゃないほうがいいと思ったのはなぜですか?

山下さん:落ち着いてやりたかったんです。都会の利便性から離れたくて二宮を選んだわけだし、広くなくていいから、家族が暮らせるだけのパンを焼いて、それを買ってくれる人がいて、生活が静かに回っていくのが理想でした。

お店もパンも人も、
シンプルでありたい

千葉さん:お店を始めるにあたって、地域の人とのつながりなどはすでにあったのでしょうか?

山下さん:特になかったですね。修行時代は生活することで精いっぱいで、お金が使えないから飲みにも行けないし、二宮には今みたいに知り合いもほとんどいませんでした。

澤口さん:宣伝などは特にしなかったのでしょうか?

柔らかい口調ながら、パン職人としての覚悟が伝わってくる山下さん。

山下さん:最低限の情報は発信しなければと思っていたし、お店をつくっていく過程も紹介したかったので、オープンする半年前にFacebookでお店のページを開設しました。オープン時点で、400人くらいの方が「いいね!」をつけてくれていたのですが、初日は行列ができて1時間で完売しちゃったんです。

千葉さん:華々しいスタートですね。でもその人たちは何が刺さったんでしょう。味はまだ、当然知らないわけですよね。

山下さん:考えられるとしたら、修行期間の最後の数カ月、夜な夜な僕がここで工事をしていたので、通る人はその作業を見て、気になっていたのだと思います。

澤口さん:ここは一体何になるんだろうって?

山下さん:そうそう。ブーランジェリーヤマシタっていう屋号とパンの写真、Facebookページのアドレスだけを載せたA4の紙をペタッと貼って、工事をしていたんです。オープンしたのは2014年春ですが、SNSに助けられたところはたしかにあると思います。情報発信ツールがFacebookだけなのは、いまだに変わらないんですけどね。

千葉さんオープン前にFacebookに載せていたのは、工事の様子だけだったんですか?

山下さん:パンの写真も載せましたけど、本当に下手くそで……。結局2年10カ月の修行期間を経て独立したんですけど、そんな短期間でお店を出す人ってまずいないんです。最後の2カ月くらいは、あれこれ技を盗むのに必死でした(笑)。

葉さん:すごいですね(笑)。それでもやれる自信があったのですか?

山下さん:それまでの仕事や生活をバッサリと切り捨てて、崖っぷちの人生だったので、逆に何も怖くなかったんですよね。バゲット1個つくることができて、それを買ってくれる人がいて、暮らせるならそれでいいと思っていました。

澤口さん:パンの種類はだんだん増えてきた感じですか?

山下さん:大して増えていないです。新作といえるような新作は、2年くらい前なので(笑)。

千葉さん:でも何かをつくろうとするときって、切り捨てるものも当然出てきますよね。そのとき基準にしていることはありますか?

山下さん:お店、パン、人もそうですけど、シンプルがいいっていうのはありますね。うちのパンはいろいろあるように見えるんですけど、生地に焦点を当てると、大きく分けて2種類程度なんです。東京のパン屋さんなんかは少しずつ配合を変えたりして、いろんな生地をつくっていますけど、僕はそこに興味がなくてシンプルにやりたいんです。

千葉さん:シンプルにすることでできた余白や時間は、何に向けるのでしょう?

山下さん:開店時からずっと必死で、余裕はいまだにまったくないです。とはいえ経験を積むと、自分やスタッフも慣れてきてゆとりが生まれるので、1種類増やしてみようかということになり、そうやって少しずつ増やしながら、今ようやく30数種類になりました。

いろんなパンがあるように見えるけれども、基本はシンプル。バゲットはもちろん、シナモンロールや、二宮名産の落花生を使ったカンパーニュなども人気。

作家も一緒になって
場所の価値を高めてもらう

ーーオープンして2年後には、店舗の奥にカフェスペースを増設。こちらは大家さんが倉庫として使っていた空間を利用している。

千葉さん:それまではパンを買って帰るだけだったのが、カフェで時間を過ごしてもらえるようになることで、お客さんとの接点が変わりますよね。

山下さん:食っていうのは味覚で感じるだけではなく、空間や触れるもの、接する人などトータルで感じるものだと思うので、たとえば音楽や家具などここでお客さんが触れるものは、僕が知っている本当にいいものを使いたかったんです。そうすることによって、ここに来てよかったなという実感を持って帰ってほしい。それができるようになったのは、大きな変化かもしれませんね。

澤口さん:空間をつくるとか、食と空間の関わりを考えることは、結果的に前のお仕事とつながっていますよね。

山下さん:そうなんです。自分は一回捨てたつもりだったけど、いざこういう場所をつくってみて、前職の感覚を生かせたので、人生に無駄なことはないんだなっていう実感が今はあります。

ーーギャラリースペースにもなっている壁面や棚には、さまざまな作家の作品を随時展示。また「パン屋の食堂で演奏会」と銘打った音楽イベントを不定期に行っていて、幅広いジャンルの音楽をこの空間で楽しむことができる。

澤口さん:ギャラリー機能を持たせたり、ライブを開催しているのも、ここに来てよかったという実感を持ってほしいからなのでしょうか?

山下さん:それもありますね。あと僕自身、以前はキュレーターになりたいと思っていて、アートや建築を積極的に見ていた時期があるんです。結果的にその道は諦めたんですけど、ここなら好きな作家さんを呼んで、作品を紹介できると思って。展示作品は基本的に販売もしていて、マージンを取らず、売り上げの100%を作家さんに渡しています。

千葉さん:それはすごいですね。

取材時に展示されていた、カッティング・アートブランド「Papirklip(パピアクリップ)」を主宰する吉浦亮子さんの作品。カフェ目的で来た人も思わず見入ってしまうかわいさ。この場所からすでに、かなりの数の作品が羽ばたいていったそう。

山下さん:その代わり、作家さんには「この場所の価値を一緒に高めてください」とお願いしていて、それを理解してくれる方とだけやっています。だから言ってみれば、作家さんにも「本気を出してください」と覚悟を求めているんですよね。

作家さんは展示をすると、売り上げの3割から4割を引かれるのが、この業界の“常識”らしいんです。身を削って制作している作家さんから、なぜそんなに引かれてしまうのか疑問だし、実際、作家さんもそれですごく苦しそうだったりして。当たり前だから仕方ないと諦めてしまうのはおかしいと思って。

買い手のほうがつくり手よりも立場が上であるような関係性を、この場所で変えたかったし、売り上げを100%渡すことによって、自分のつくっているものはもっと価値があるのだという意識を作家さんに持ってほしいなと思っています。

パン屋で展示をしたりライブをしたり、はたから見るとビジネスを広げているように見えるかもしれないけれども、うちはパンで成り立っているので、そこからはまったく利益を得ていません。これも突き詰めれば、お客さんの喜びのためにやっていることなんですよね。

ーー「ブーランジェリー ヤマシタ」のスタッフは、フォトグラファーやミュージシャンなど、いわゆる二足のわらじの人もいて、個性的な面々が揃っている。山下さんいわく「この場所をもっと面白くしてくれる人がいいと思っていたら、たまたまこうなった」そうだが、そこにもやはりこだわりがあるようだ。

山下さん:スタッフに求めていることは、ひとことで言ってしまうと、愛を配れる人。言葉にするとくさいから、あまり言わないようにしているんですけど(笑)。

澤口さん:パン職人は直感的に選んだ職業だったけれども、そうやって本質的なことを素直に言えるのは、この仕事が合っていたっていうことなんでしょうね。

山下さん:パンっていうのはいいですよね。思いを持ちながら手でつくったものが、そのまま人の口に入って、生きる糧になるところが。オープン当初、自分なりのパンをどうやったらつくることができるか、悩んだ時期があったんです。そしたらデンマークの友だちが、「庭で有機栽培しているりんごを日本に持っていくから、それで酵母を起こしなよ」と言ってくれて。その酵母を5年間ずっと継いでいて、毎日生地を仕込むときに添加しているんです。友人の思いを5年間ずっとつなぎ続けて、すべてのパンにそれを配ることができているのが、僕のパンづくりの満足といえるかもしれません。

澤口さん:まさに愛を配っているんですね。

山下さん:でも、いつ何が起こるかわからないので、ひょっとしたら急に辞めることもあるかもしれません。震災のような不可抗力もありますし。だから悔いなく生きたいんです。将来のために取っておこうとか、計画的に進めようって考えはまったくなく、明日死んでも後悔しないように、そのとき自分がお店という場所で表現できることを全力でやろうといつも思っています。

千葉さん:素晴らしいですね。ありがとうございました。

「生活という仕事をしよう」 自ら耕し育てた植物で施術する ヘアサロン「ぽかぽか」 【滋賀県長浜市】

子どもが生まれたことがきっかけで、
生活と仕事の価値観がズレ始めた。

滋賀県長浜市、琵琶湖の北側に位置する鍛冶屋町。JR長浜駅から30分ほど、傍らに田園風景が続く草野川に沿って車を走らせていると、川向こうに瓦屋根の連なる古い町並みが見えてきた。その地名の通り室町時代以降、鍛冶が盛んであった地域。戦国時代には槍を、そののちには農具作りを行い、全盛期には100軒以上の鍛冶屋があったのだという。今も虫籠窓(むしこまど)や土蔵など、その名残をとどめる趣のある民家がちらほらとある中で、藤岡さん一家が営むヘアサロン「pocapoca」は、少し(いい意味で)違和感のある佇まいだったので、すぐにそれだとわかった。

川のほとりの一軒家。門を入ってすぐ右側がサロン、奥の左側が住居で、庭はそう広くはないけれど、小さな植物園のようにあらゆる種類のハーブが育っている。挨拶すると早々に、「今、新しい畑を開墾中なんです」と、建二さんがここから車で5分ほどの場所へと案内してくれた。

美容室のすぐ近くにある畑。ここでは、すべての工程を月のリズムに合わせて作る、「pocapoca」のオリジナルブランド「TSUKI」の原料となる、エキナセア、カレンデュラ、ラベンダーなど約80種類の植物を育てている。週1日は畑の日として、「pocapca」のスタッフとともに土を耕す。

休憩時間、スタッフのために梨を切る藤岡香里さん。

建二さんが「pocapoca」をオープンさせたのは、2011年のこと。そして、一昨年からは自分たちが実践してきたノウハウを伝えていくための「TSUKI ACADEMY」を開校。サロンで使用するシャンプーやリンスの材料となる植物も自分たちの手で作りたいと、自宅の庭から栽培を始め、この畑へと拡張して本格的に取り組み始めたところだ。

今でこそ、土と太陽が似合う二人だが、もともとはともに美容師で、同じ東京にあるサロンで働いていたのだそう。その後、建二さんはサロンワークを離れ、ヘアメイクとして雑誌や広告での仕事をメインに活動をするようになったが、いわゆるパーマやカラーリングの一般的な薬剤を使った仕事に対して、特に疑問を持ったこともなかったという。

先進的なファッション業界を経て、環境や身体に負荷をかける薬剤を一切使わないサロンをオープンさせた、藤岡建二さん。

「サロンで働いていたときは、休憩室にあったビールの空き缶にパーマ液が入っていたのに気づかずに誤飲してしまったことがあって。それでも大したことないと思っているくらい無頓着だったんです。彼女(香里さん)もスパンコールのキラキラした服を着ていたし、全然オーガニックじゃなかった(笑)。

でも、結婚して子どもが生まれてから、いろんなことに気づき始めたんです。最初の子どもを自然分娩で産んだんですけど、そのときにケアしてくれた助産師さんが、インドの伝統医学・アーユルヴェーダのセラピストで、自然の植物を使ったお手当などの知恵をたくさん教えてくれました。彼女はそこからアーユルヴェーダや自然療法を勉強するようになって。
僕はその時点ではあまりピンと来ていなかったんですが、少なからず影響は受けていて、子どもの予防接種や食べものの添加物のこと、今まで疑いもしなかったことが実は体にとって良くないことだと知って、身の回りのいろんなことが気になるようになりました。それで、一つずつ確かめていくうちに、自分の仕事はどうなんだ?ってところに行き着いたんです」

どうしていいかわからないけど、
とにかくどこかに移住しよう。

一つひとつ紐解くうちに、都会での暮らしに違和感を感じるようになり、郊外へと引っ越し、休みがある度に子どもたちを連れて家族でキャンプや山へと出かけるようになった。自然に触れることが純粋に楽しいという感覚を味わうほど、今の生き方・暮らし方との間に乖離が生まれていく。

「ヘアメイクの仕事はファッションが中心だったので、シーズンごとにブランドの服をいかに売るかというイメージビジュアルを作るんですよね。仕事も暮らしの一部なんだけど、この仕事と自分が興味を持ち始めていたこととが繋がらなくなってきたんです。だからと言って、どうすればいいのかもわからず、とにかく場所を変えようと。イタリアの下にあるマルタ共和国に家族で移住しました」

それまでの仕事のキャリアもあっさりと手放し、家族がいることを理由に保守的になることもない。そして移住先は、日本の田舎ならまだしも、ガイドブックもほとんどないような海のはるか向こうの国だ。この5歳と1歳の子どもたちを連れた家族の一大航海は、その先の目標がはっきり定まらないままに出発することになった。

「マルタ共和国は、温暖で治安もいい。住むにはすごくいいところだったんですが、ビザがうまくいかなくて帰国せざるを得なくなりました。せっかくだから、いろんな国を旅しながら戻ろうということになって。タイを訪れたときは、テントを張りながら村を転々としていたんですけど、村の人たちの生活の光景を見たときに、“これだ”と思ったんです。
子どもたちが大人に混じって仕事をしている姿。仕事自体も生活の延長上にあって繋がっているように映りました。マルタ共和国にいた頃から、日本に戻っても仕事はしない、と思っていたんです。生活という仕事をしようと。日本でも昔の人たちは、単にお金を稼ぐための仕事というのはほとんどなくて、生活に直結したことが仕事だったわけで……。なので、必要なものがあれば自分たちで作って、それが仕事になればいいと漠然と思っていたので、タイの村々の光景が大きなヒントをくれました」

そうして帰国したときには、「仕事も家もお金もない」ところからの再スタート。香里さんの地元・和歌山県にも滞在しながら場所探しをしたけれど見つからず、最終的に建二さんの地元・滋賀県に戻り、曽祖父がよろづ屋として商いしていた土地を使わせてもらうことになった。そうして、近くの大工さんに手ほどきを受けながら、ようやくくっきりと思い描くことができた理想の店舗兼住居を自らの手で建築していった。

すべての植物に薬効あり。
アーユルヴェーダを学ぶ

化学薬品を使わずに始めたサロンワーク。必然的にパーマやカラーリングはできないため、初めはカットのみだった。けれど、お客さんの中には、「やっぱりカラーリングしたい」という声があり、どうにかそれに応えたいと探してみると、ヘナという植物でカラーリングできることがわかった。

「これならできるかもしれないと思ってヘナを使い始めたんですけど、ヘナについて調べるとアーユルヴェーダという言葉が頻繁に出てくるんですよ。これからもこの植物を使い続けるつもりで、ずっと関わっていくものだからと思って、神奈川県にあるトラディショナル・アーユルヴェーダ・ジャパンというスクールに、毎週夜行バスで通うようになりました。そしたら、通っているうちに体がどんどん整っていくんですよ。知識として吸収するのと、体が感覚として受け取るのが同時に進んでいきました。

そんなときに、インドでパンチャカルマセラピスト(アーユルヴェーダの中でも重要とされる浄化療法)の資格が取れると聞いて、試験を受けに行きました。実際に向こうのドクターからパンチャカルマの治療を受けながら学んだことで、すべての植物に薬効があって自分たちの体を整えてくれることを知りました。植物から抽出したオイルを体に刷り込むと、植物が体に浸透していき、浄化の作用を促していくという一連のことを、体感として得ることができたんです。体が生まれ変わるような感覚でした」

ガスールやニームの粉末など、その人に合わせて調合するクレイシャンプー。

そこから、アーユルヴェーダの知識をもとに、ヘナだけでなくさまざまな植物を用いて、抽出液やエッセンシャルオイル、クレイシャンプーを作るように。アーユルヴェーダの代表的な植物だけでなく、日本の植物でもアレンジしながら工夫と実験を繰り返していった。現在、開墾途中の畑も併せて80種ほどの植物を育てており、滋賀の気候では栽培が難しいヘナは、縁あって奄美諸島にある与論島の農家さんが試験的に栽培を始めてくれていて、再来年の本格始動を目指しているそうだ。

私たちも、一人ひとりに合わせてハーブを調合するトリートメント「ツキハーブリンス」を施術してもらうことになった。まず、施術の前に名前の明かされていない3つの香りを嗅いで、一番ピンとくるものを選ぶ。
「アーユルヴェーダには、ヴァータ、ピッタ、カパという3つの性質によって体質が分けられているんですが、その人の体質を知るのはドクターであってもとても難しいとされています。ここでは体質診断はしませんが、嗅覚は昔の記憶とつながっているので、感覚的に選んだものは、過去と現在の状態、どちらにもフォーカスしてくれるという考えのもと、その人の施術に使う植物を決めています。この香りは、だいたい1カ月に1回、同じ系統の中で植物を組み替えるんですけど、やっぱりヴァータを選ぶ人は、香りが変わってもだいたいヴァータを選ぶんですよね」と、建二さん。

そうして、選ばれた香りに紐づく植物を、頭皮の状態や髪質に合わせて調合し、トリートメントを行っていく。庭で摘んできたばかりのハーブの香りが部屋中を満たして、頭だけでなく全身がほぐれていくような気持ちよさだ。

施術が終わると、学校から帰った子どもたちがサロンの本棚の脇で本を読んでいた。「もっと小さいときは、裸でこの中を走り回ってました。仕事しながら夫婦喧嘩することもあります(笑)」。

こうして施術を受けながら藤岡家の暮らしが透けて見えるというのは、日本ではタブー視されるきらいがあるけれど、あらゆることが不透明な今の世の中にこそ、とても信頼のできることのように思えてくる。子どもたちだって、働くお父さんお母さんの姿を直に見ながら成長していくことができるのだ。

自然に即したサロンワーク、
その先に思い描くこと

今年で2年目となる「TSUKI ACADEMY」は、環境や体に負担をかける薬剤を使わない方法が学べる、美容師のための学校。1年をかけて、植物の育て方や抽出法、カラーリング(髪の草木染め)、身体のこと、食のこと、心のこと、月との関係など、サロンワークだけでなく、自然とのつながりを通して新しい美容の方法を学んでいく。

「今年の生徒さんは16名。みんなこうした知識がない状態で来るんです。なので、初めは一つひとつの学びが点でしかないんですが、一緒に植物を育てたりしていくうちに点が線につながっていく。1年目は、ニーズがあるかどうかも考えていなくて、何の前情報もなかったんですけど、定員8名がすぐに埋まりました。美容室で使う薬剤に疑問を持っても、それらを使わない方法があることを知らず、美容師をやめるべきか悩んでいたと。お客さんは薬剤と言っても、月に1〜2回のことなのでそこまで大きな負担にはならないんですけど、美容師は毎日のことだから女性は特に体に影響が出てきてしまうんですよね」

左から、「pocapoca」で働く、植物が大好きなマイマイさんとさやかさん。「TSUKI ACADEMY」でも学んでいる。

建二さんがインドで経験したことと同じように、「TSUKI ACADEMY」の生徒たちも、働きながら日々体が整っていくのを体感していく。カリキュラムが終了したのちに、同じ考えのもと新しいサロンを開いた生徒もいるのだそう。マルタ共和国へと経つときには目標が曖昧だった航海は、進むうちにくっきりと輪郭を帯びるようになった。

「遠い先の話かもしれませんが、美容業界が変わると、世の中はどう変わっていくだろう? と思っているところもあるんです。自分の地元で作り始めた小さな輪をコツコツと地道に広げていった先に、どんな世界が見えるだろう。理想を思い描きながら、こういう道もあるってことを伝えていけたらと思っています」

土地に根ざして生まれる 人と人の、新たな関係。 【石川県小松市・滝ケ原町】

その土地の、その季節にあるもので
今しかできないメニューを作る

「TAKIGAHARA FARM」がある滝ケ原町は、金沢市内から車で1時間。そのほどよい距離感もアクセスしやすい理由のひとつかもしれない。「TAKIGAHARA CAFE」のスタッフとして働く棚田麻友美さんと田中由香里さんは、どちらも金沢市内在住でここまで車で通っている。

スタッフがみな都市部で働いていた経験を持つからか、カフェに遊びに来る人も、都市から地元に帰ってきても都会的な感覚を持ちながら、小松でどうしていこうかと考えている人たちが多いという。

「TAKIGAHARA CAFE」で働くスタッフの田中由香里さん(左)と棚田麻友美さん(右)。2人とも東京で働いていたが、2年前に金沢へ移住した。

現在、産休中の由岐中みうるさんに代わって店長として働くのは棚田麻友美さんだ。麻友美さんは、2年前、東京から金沢に移住。実は麻友美さんのパートナーも「TAKIGAHARA CAFE」の姉妹店となる、安宅ビューテラスの「安宅カフェ」で働いている。東京では二人とも表参道のカフェでバリスタの仕事をしており、「いつか自分たちのお店を出したい」という夢を持ちながら、彼の実家のある金沢に引っ越してきた。

「金沢の人は家族を大切にするからか、東京に出てもいずれ戻ってくる人が多い気がします。私も金沢へ移住することに抵抗はありませんでした。もともと東京は最終地点ではなかったから、海外に住んでみたかったし、金沢もよさそうだなと思ったんです」

棚田麻友美さんは「TAKIGAHARA CAFE」の店長として働きながら、パートナーが勤務する姉妹店の「安宅カフェ」のスタッフとしても働く。いつか自分のお店を持ちたいという夢を叶えるべく、日々奮闘中だ。

二人は金沢でもコーヒーに関する仕事をしたいと考えていたが、昔ながらの喫茶店が多い環境の中でやることは、自分たちのイメージとは違っていた。そのため、どこかのお店で働くという選択肢はなかったという。そこで金沢市内をいろいろ見て回っていた時に、「TAKIAGAHARA FARM」のスタッフのみうるさんと出会った。

「私たちは表参道で働いていたので、青山のファーマーズマーケットのことはよく知っていたんです。〈TAKIGAHARA CAFE〉ができる前でしたが、〈TAKIGAHARA FARM〉の話を聞いておもしろそうだなと思って、畑のお手伝いに行ったのが最初でした。カフェのオープン日に遊びに来た時も、東京の人や滝ケ原の人たちとたくさん出会うことができて。
金沢にいると金沢の人とだけしか関係性が築けなかったけど、ここなら“東京”ともつながることができた。だったら、金沢のものを東京に持って行けたり、東京のものを金沢に持って来られるんじゃないかと、すごく興味を持ち始めたんです。そんな時、パートナーに安宅にオープンするカフェで働いてくれないかという話をもらって、トントン拍子で話が進みました」

パートナーは安宅カフェで、麻友美さんは「TAKIGAHARA CAFE」で働く。二人で海と山、それぞれの場所にあるカフェで働きながら、夢に向かって経験を重ねていく中で、二人がやりたいお店のイメージも徐々に変わってきた。

「今までは、やりたいことがあって、そのために素材を仕入れて、作りたいものを作るという考えでしたが、ここのカフェは、その季節に収穫した、その土地のものでメニューを作るということを徹底しているんです。
調味料も既製品を使わないし、あるもので作る。そのやり方がすごくおもしろくて。私たちも金沢や小松にある地のものでやっていきたいという気持ちに変わりました。
滝ケ原町の人が育てた野菜をもらってメニューを作っているので、大根をいただいたらスープにしたりサラダにしたり。足りないものは農協で買ったりもしますけど、直接知り合った農家さんに声をかけたり。この食材で何ができるかな?ってメニューを考えるんです。
今後、彼と二人でやるカフェもなるべくそうしたい。今は互いのお店のやり方を経験しながら、自分たちなら何ができるのかを模索中ですね」

滝ケ原に住む地元のおじさんたちは、週末ともなればカフェにお酒を飲みに遊びに来てくれるが、メニューに酒のつまみはなかった。
以前、イベントでおでんや筑前煮といったメニューを出したら、「ここには食べたことのないものを食いに来とるんや」と言われたいう。そこで安宅のカフェの地元の漁師さんから仕入れた貝でアヒージョを作って出してみると「食べたことない味!」とすごく喜んでくれた。

地元の人たちにとって、このカフェは新しい溜まり場かつ出会いの場でありながら、いままで食べたことのない料理が食べられる貴重な場所。自分たちが育てた食材が見たこともない新しいメニューとなって、提供されていることを喜んでくれている。

滝ケ原の人たちは東京などの都市部で暮らした経験を持つ方が多いからか、新しいものや見たことのないものにも寛容で、関心を持ってくれるそうだ。そうした環境でスタッフたちも「何を作ろうか?」と日々メニュー作りを楽しみながら奮闘しているという。それは既存のメニューを作ることよりも経験と知識が必要で、クリエイティブなことを求められるに違いない。けれど、期待に応えられるように料理をすることは、大変ながらも「とても楽しい」と麻友美さんは言う。

「小松でお店を始めるのもいいなと思っています。何と言っても食材が豊富でおいしいですし。この場所で働くようになって、お店の場所は街中である必要はないのかなとも思うようになりました。小松をみんなで盛り上げていこうという働きもあるし、みんなで一緒にやっていこうって声をかけてくれる仲間も多いですし。ある程度完成されている金沢とは違って、小松はまだまだおもしろいことができる余地があると思うんです」

12月のある日のランチは、東京の「おいしみ研究所」みもっとさんによるタイ料理。この日の特別メニューを目当てに金沢から来たお客さんも。

この場所に暮らすことで
自然と郷土愛が生まれてきた

もう一人、カフェスタッフの田中由香里さんは、もともと都内でスタイリストとして活躍。結婚後、2年前に実家のある白山市に戻ってきた。友人の紹介で「TAKIGAHARA CAFE」の存在を教えてもらって通うようになった。スタッフのみうるさんの産休に伴い、カフェのスタッフとして働くように。今は週に4日カフェで働き、週に3日スタイリストの仕事をしている。

「実は、こっちに戻ってくる気はありませんでした。でも待機児童の問題などがあり、子育て環境をもっと良くしたくて、地元で子育てをしたいと思うようになったんです。今までは金沢の友だちとの交流だけでしたし、街に子どもを連れて遊びに行くような環境がなかったけれど、この〈TAKIGAHARA CAFE〉に連れてきてみたら、自分以外の誰かが自然と子どもの面倒を見てくれたり、とても居心地がいい場所だなって。ここがあって本当に助けられています。

「TAKIGAHARA CAFE」スタッフの田中由香里さんは、スタイリスト。東京を離れた今も、カフェで働きながら、地元メディアなどでスタイリストとしても活躍している。

金沢の友だちにも遊びにおいでよ、と誘っていますね。ここに集まるのは東京から来た人たちも多くて、感覚や気が合うし、何かに合わせるのではなく、自分がおもしろいと思えることを共有できるのも魅力だなと思います。私は、もともと人と出会うことが好きだったから、ここにいればいろいろな人と会えるのもうれしいですね」

スタッフ最年長の内木洋一さん。地域おこし協力隊として滝ケ原に来た。19歳の頃からカメラマンとして活動し、働きすぎ遊びすぎで体を壊してしまう。24歳で上京してからは企業に勤め、転職を繰り返しながらサラリーマンとして“右肩上がりの時代”を経験した。結婚後は、病気や事故、離婚といったさまざまな経験を経て、ずっと走り続けてきた内木さん。
一度ゆっくり休憩してこれから何をやるか考えてみようと考えている時、料理家・野村友里さんが作った映画『eatrip』を観て、「生きることは食べること」という当たり前のことに改めて気づかされたという。
それから料理に傾倒し、漢方にも興味を持つようになり、漢方のショップをオープン。いずれ薬草園を作りたいと思っていた時、滝ケ原を訪れ、ここに住もうと決めた。

内木洋一さんは、2年半前に、地域おこし協力隊として滝ケ原へ。耕作放棄地を使った薬草園の構想や、カメラマンとしても活躍。

「〈TAKIGAHARA FARM〉ができた後、2016年7月に滝ヶ原にやってきました。土地がたくさんあって、ここで薬草を育てられたら最高だなと思いましたね。今まで自分の中だけで考えていたことが、ここに来て鮮明になったというか。
ここに暮らしているだけで五感が磨かれるんです。普段見る景色は自然だけ。情報が少ないからこそ、シンプルに物事を考えられるし、見通すことができる。生活にお金もかからないし、けれどやるべきことはいろいろあるので、複数の生業が自然とここでは生まれるんです」

スタッフみんなでイベントで出す食事の準備中。地元で採れた新鮮な食材をみんなで調理する。

「ここは、何もないけど何でもある、そんな場所なんです。ここに人が来て住むことで、外からここに価値を持ち込んで化学変化が起きて、新たな文化が生まれていく。ここで、いただき物で暮らしていると、自然と郷土愛が生まれてきました。だんだんとこの土地に生きている人たちが愛しくなってきた。滝ケ原は僕にとって自己実現の場でもありますが、いずれは地域に還元していきたいと強く思うようになりましたね」

ここで暮らしながら、新しい仕事を作る。そのためのスイッチがここには用意されている。さまざまな経験をしてきた内木さんが、自分らしくいられる場所が、ここ滝ケ原だったのだろう。

この土地だからこその
出会いを生み出す

時折、カフェで開催されるイベントには東京からいろいろな人が訪れる。小さな町に集まるユニークな面々に会いに、遠くからも人が遊びに来る。お客さんに金沢の人が多いのも、金沢という都市の規模感や観光地という立地だからこそ、滝ケ原という小さな町ならではの密な関係性が新鮮に映るのかもしれない。

カフェに遊びに来ていた漆作家の中岡庸子さんは、東京都内のアパレルで働いていたが、縁あって小松市山代へ移住。2018年の11月から滝ケ原にほど近い限界集落で、80歳のおばあちゃんと2人だけで暮らしているという。海外に住んでいたこともある彼女は、ここに来て、“ローカルはグローバル”なのだということを確信したそうだ。

漆作家の中岡庸子さんも移住後、「TAKIGAHARA CAFE」の存在を知り、通うように。ここでの出会いがあるからこそ、がんばれると言う。

「ここに来るようになって、いろいろな人の様々な暮らしを見ることができて、いずれ海外に行きたいという自分の気持ちが、ただの夢じゃないと思えたんです。伝統工芸の世界へ入って石川県に移住してからというもの、東京的な感覚をなくさなきゃいけないと思っていたんですよね。でも、この場所で国内外のアーティストたちと出会うようになって、自分で勝手に思っていた“ローカルはグローバル”という思いは間違ってなかったんだということに気づけた。この場所があることは、私の心の支えになっています」(中岡さん)

スタッフも時々体のメンテナンスをお願いしているというロミロミセラピストの森俊祐さんは「TAKIGAHARA FARM」ができた頃、1泊2日のファーム体験をきっかけに遊びに来て以来、ここを訪れている。
金沢出身で横浜、富山でプロサッカー選手として活躍した後、9年前に引退し、地元・金沢へ戻って来た。ロミロミのセラピストへと転身し、金沢を拠点にしながた各地のイベントなどに出張して施術をしている。

ロミロミセラピストとして活躍する森俊祐さんはイベントなどで出張施術を行う。この日も予約がいっぱいで、スタッフたちの体のメンテナンスを担当している。

「ここができてから仲間がとても増えました。感性が豊かでおもしろい人たちが多いから刺激になりますね。静かな里山にここが初めてできた時は、まったくこうなるなんてイメージができなかった。スタッフのみんなの東京での経験が活かされてできたことじゃないかと思いますね。東京の人がやっているというだけで僕らは行ってみたいと興味が湧くし、そんな場所ができてうれしい」(森さん)

ここがそうした社交場のような、サロンのような場所になったのは、プロジェクトリーダーの小川諒さんの存在が大きい。内木さんによれば、小川さんは「コミュニケーションの達人」だと言う。

「誰にとっても気持ちよくあれる人。素敵な香りや喜ぶ会話、居心地のいい音楽、そういう空間を作ることができる人なので、ここを訪れた誰もが気分良く滞在できる。彼は人が集まる場所を作れる人なんです」(内木さん)

現在、ファーム、カフェ、宿、ホステルと続々と新しいプロジェクトが進んでいる滝ケ原だが、小川さんはここに“楽しい未来”を作りたいと考えている。

「この規模の里山は日本中どこにでもあると思うけれど、地元の人との距離、ここを訪れる人たちや、自分がやりたいことのかたちは場所によって違うはず。
僕はここで農家になりたいわけではなくて、これからも国内外問わず新しい人たちをここ滝ケ原に引っ張ってきたいし、同じ思いを持つ仲間を見つけたいんです。そうしたコミュニティを広げることも大事だし、便利さとか効率の陰で消えかかっている大切なものをちゃんと受け継いでいくことも大事だと思っています。
それが滝ケ原にはまだ残っている。手間暇かけて作られたもの素晴らしさとか、本質的なことを見ようとしている人たちが確かに増えていて。暮らしそのものを根本から見直して、本当に必要なものってなんだろうということを考えながら、僕自身の生活自体もブラッシュアップしてきたい。もっと畑もやりたいし、近しい人が作ったものを消費したい。それな可能性に溢れたエリアが、ここ滝ケ原なんです」

カフェで出た残飯は捨てずに、コンポストで堆肥にして、いずれ畑に使う。そして畑で採れたハーブや野菜はカフェのメニューとして活用。そうした小さいながらも自分たちの手から生まれる“循環”を彼らは大切にしている。

人生100年時代。まだまだこれから先は長い。どうやって生きていくのか。小川さんたちが日々の暮らしの中で考えながら未来を作っていこうとしている、その実践の場が滝ケ原にあるのだ。

10年以上続けてきたから今がある。「古民家カフェこぐま」山中明子さん【インタビュー:東京R不動産】

さびれてしまった商店街に
飛び込んだ理由

ーー墨田区向島にある「鳩の街通り商店街」は、90年もの歴史を持つ古い商店街。東京大空襲をまぬがれたため道幅は戦前の狭いまま残され  、下町の商店街らしいアットホームな雰囲気が漂っている。しかしながら駅から決して近くはなく、シャッターを下ろしたままの店舗もちらほらとあり、かつてのにぎわいが消えてしまった場所特有の寂しさも。

この商店街のなかほどに山中明子さんが夫の正哉さんとともに「古民家カフェ こぐま」をオープンしたのは、2006年11月のこと。今では地元の人はもちろん、東京スカイツリー観光や向島散策に訪れた人が利用する人気のカフェなのだが、山中さんいわく、オープン当初は今よりも寂しい感じの商店街だったそう。

東京スカイツリーから約1キロほどのところにあり、昔ながらの下町の雰囲気を残す、鳩の街通り商店街。

千葉さん:「ニューニュータウン」では、一度さびれてしまった商店街で、空き物件などをうまく活用していきたいと思っているので、今日は先輩としていろいろお話をお聞きしたいと思っています。そもそもこの場所でカフェをやろうと思ったきっかけってなんだったんですか?

山中さん:以前は三鷹周辺に住んでいたのですが、アート関連のプロジェクトで向島に通っていた時期があったんです。というのも、もともとは夫とふたりで劇団をやっていまして、実際に街歩きをしながらリサーチして、その街や場所からイメージしたお芝居をつくり、リノベされた物件やオルタナティブなスペースで上演するようなことをやっていたんです。そんななかで向島が面白いと聞いて、3年くらいそういった活動をしていたのですが、ここに住んで何かしらやってみたいという思いが強くなって。なんとなく物件を探していたら、ここを見つけて引っ越してきたという感じです。

澤口さん:演劇を通していろんな街を見てきたなかでも、ここでカフェをやろうと思った決め手はなんだったのでしょう?

山中さん:カフェのような拠点を持ちつつ、演劇の活動もしたい と考えていたのですが、もし出会った物件がまったく違えば、まったく違うカフェになっていたと思うので、こればかりは物件との出会いなのでしょうね。たまたまここが空くタイミングだったので、何かしら引き寄せられた気がしないでもなかったです。

ーー「こぐま」を営むのは、昭和2年に建てられ、もともとは五軒長屋のひとつだったという古民家。昭和50年代までは薬局として使われていて、その後30年くらい空き家の時期があり、山中さんたちが入る前は2年ほど古道具屋だった。入り口上部のガラス窓には「化粧品 クスリ」の文字が今も残り、壁の薬棚もそのまま利用するかたちで、現在は陶芸作品を展示している。

千葉さん:この商店街ではもともと商売をされていた方がお店を辞めて、店舗として貸し出すようなことは一般的なのでしょうか?

山中さん:商売を辞めると大抵は住宅に建て替えるので、1階部分だけを店舗として貸し出す例はかなり少ないと思います。ここはたまたま大家さんが別のところに住んでいたので、1階を店舗、2階を住居として借りることができたんです。

商売でいいとこ取りはできない

ーー地縁がほとんどないところに飛び込んで、カフェをオープンした山中さん。商店街や地元の人たちの当初の反応は意外と“冷静”だったようだ。

山中さん:古い物件をリノベーションしたカフェやバーなどは過去にもあったらしいのですが、私たちが来たときにはすでに辞めていたこともあって、この店もたぶん続かないだろうというのが、大方の予想だったようです。だけど思いのほか続いていたので(笑)、1年くらい経ったある日、当時、鳩の街通り商店街振興組合の理事長をされていた松橋一暁さんが、私たちのところにやってきたんです。松橋さんは、私たちが来る前から空き店舗の活性化事業をしたいとずっと思っていたそうなのですが、その頃の理事さんにはなかなかその思いが伝わりにくかったみたいで。

そんななか、ぽんとこの商店街に入ってきた私たちに、相談に乗ってくれないかと。今の状況をご覧になった方からは、はじめから商店街活性化を目的に私たちが入ってきたのだと誤解されがちなのですが、実際はまったく逆で、自分たちの都合で勝手にここにやってきてカフェを開き、商店街とのつながりが生まれて活性化事業が始まったという経緯なんです。

一緒にカフェを切り盛りする夫の正哉さん。手前の趣のある時計も、この物件を借りたときにそのまま残っていたもの。

千葉さん:その辺りが、まさにお聞きしたいと思っていた部分なんです。というのも、今おっしゃっていた松橋さんの思っている商店街の活性化と、僕らが商店街で面白いことをやりたいという思いは、また違っているような気がして。厳しい言い方かもしれませんが、すでにさびれてしまった商店街が最盛期のような状態に戻るのは難しい と思っているんですね。だからこそ、活性化を狙わずに商店街に入ってきた山中さんが、地域の人と築いてきた関係性にヒントがあるような気がするんです。

東京R不動産の千葉さん(右)と澤口さん(左)

山中さん:松橋さんと出会って、最初のプロジェクトになったのが、うちから徒歩2分くらいのところにある鈴木荘という空きアパートなんです。かつては1階部分に焼肉屋さんやスナックなどが入っていたのですが、商店街で全7室丸ごと借りて、商売をしたい若手オーナーに個々の部屋を貸すことはできないかと、まず相談されたんですね。

ただ、イメージはあっても具体的な取っ掛かりはまるでなかったようで、ご自分の商売一筋でこられたような方にとって、空き家物件をリノベして人を呼ぶようなことは、遠い世界で行われていることなのだとそのとき感じました。だけど私としてはわりとイメージしやすく、何かお手伝いできるのではないかと思えたので、街の人や近隣の有志の方とミーティングをして、鈴木荘をどうしたらいいか具体的に考える期間を3カ月くらい設けたんです。

ーー話し合いの結果、各部屋をチャレンジショップにして、オーナーを公募することに。告知が新聞に取り上げられたこともあって、100人以上が内覧会に訪れ、商店街には久々に賑わいが戻ってきた。しかしながら複数の店舗が入居して、いざスタートしてみると、入居者側と、商店街や地元の人たちとの間の意識の違いが浮き彫りになってしまう。

山中さん:街が募集したのだから、商売どうこうよりも、街を賑やかにする手伝いをしたいという思いで入居された方もなかには当然いたわけです。その方たちは、なんとなくその場にいて、いろんな人と会話をしているうちにプロジェクトが生まれて、商店街が賑わえばいいというイメージだったようで……。

澤口さん:自分の商売を頑張りたいというより、ゆるい感じでつながっていけばいいと。

山中さん:でも地元の人としては、何をしている場所なのかよくわからないから行きづらいというのが正直な反応だったようで、結果的にその方たちと齟齬が生まれて、商店街を去ってしまうことが何件かあったんです。私としても一連のその出来事は、大きな教訓になりました。

というのも、そのときは私もまだ演劇に半分くらい足を突っ込んでいて、両方の気持ちがわかると思っていたからです。だけど自分たちのカフェに1カ月、2カ月もお客さんが来なかったら、家賃も払えないし、仕入れもできないから、単純にここにいられなくなるわけです。演劇の活動も、カフェの経営も、さらにはここに住むことさえできなくなるかもしれない状況で何を思ったかというと、経済的な拠点をここにしようと決めた以上は、まずは商売をきちんとやらなければいけないということでした。

澤口さん:生業として成立させないとここにはいられない、ということですね。

山中さん:カフェが成功せず、ここを去ることになってしまったら、カフェをやりながら、演劇の活動をしたいという気持ちが嘘になってしまうと思いました私たちも公募で来てうまくいかなかった方たちと同じで、どこかしらふわふわとして、社会をわかっていないところがあったんですよね。

千葉さん:そのことがわかって、お店としても何かが変わったから、今があるということなのでしょうか?

山中さん:そうですね。その後、アート的な拠点であろうという思いから抜け出して、カフェとしてみなさんがくつろげる場にしようという努力を10年以上やり続けて、今があるのだと思います。

地元の人が望むことと
自分たちができることのマッチング

ーーオープン当初はギャラリーカフェ的なイメージもあったため、壁面スペースを貸し出して、2週間ごとに展示物を入れ替えていた。しかしながら週末などは特に展示目的に来た人で混み合い、カフェ利用をしたい人が入れなくなる状況に陥ってしまったそう。いいとこ取りはできないことがわかり、カフェとしての機能を充実させようと決めてからは、メニュー自体も変えていった。

山中さん:最初の頃は中国茶を出して、お茶請けをちょこっと出すようなお店だったんです。ケーキも焼けないし、何もつくれなかったのも大きいのですが(笑)。だけど今考えると、オープンのお祝いに来てくださった商店街の方々は、明らかに失望されていましたね。そのうちランチできる場所があったらいいよねとか、コーヒーだけじゃなく手作りの甘いものを食べられたらいいよねという声が聞こえてくるようになり、フードの勉強をしながらメニューを充実させていきました。

「焼きオムライス」と「あんみつ玉」は、墨田区が始めた「すみだモダン ブランド認証」という事業の飲食店メニュー部門で認証をいただいた人気のメニューです。メニューだけでなく、お店のあり方に関しても、ひとつひとつ試してはお客様の反応を見て、修正して……ということの繰り返しですね。

写真上:正哉さんは昨年から、商店街振興組合の副理事長に。イラストやデザインなどの特技を生かして、お店のロゴマークやショップカードをつくっていたが、最近は商店街のグッズ制作も担当している。写真下:「焼きオムライス」は、ケチャップライスの懐かしい味わいと、オーブンでオムライスを焼く斬新さが人気。

千葉さん:本当に少しずつ変えていった感じなんですね。「ニューニュータウン」プロジェクトでは、住んでいる人が日々使えるようなお店をやりたい人に参加してほしいと思っているので、「こぐま」さんの店づくりのアプローチは、すごく共感できます。僕らは不動産屋なので、ステキなお店をつくることによって、その街に住みたい人を増やすことも狙ってもいるのですが、住んでいる人がお店に来るようになるまでには、それなりに時間がかかったのでしょうか?

山中さん:とてもかかりました。こういった古民家をカフェにすること自体、当時の墨田区ではまだ少なかったので、近隣の方も珍しがってくれるんですけど、普段づかいしてくださるかというと、それはまた別の問題で、若干距離があったと思うんです。

オープン当時はカフェブームだったので、まずカフェファンのお客様がいらっしゃって、2012年に東京スカイツリーができてからは全国から観光でいらっしゃった方も来るようになりました。その頃はテレビの取材も多かったので、番組を見て地元の方がようやく来てくださるようになり、だんだん常連さんが増えてきたのですが、そうなるまでには10年以上かかったと思います。

澤口さん:つい最近なんですね。たとえば地元の人にもっと使ってほしいのに、外からの人が席を専有していたりして、理想とする客層と違うジレンマはなかったのでしょうか?

山中さん:東日本大震災が起きたとき、観光客が一斉にいなくなってなかなか戻ってこなかったのですが、そのとき地元のお客様の大切さをしみじみ感じました。もちろん以前から地元の方にもっと活用していただきたいと思っていたのですが、やはりこの層があってこその、観光の方なのだとそのとき実感しました。今はスカイツリーができたばかりの頃に比べると観光の方が減ったので、自然と理想的なバランスになってきたところはあります。

千葉さん:新しい土地でこれからお店を始める人に、アドバイスをするならどんなことですか?

山中さん:小さいお店をやりたい方は、たぶんそれぞれに思いがあるので、一概にこうしたらいいというのは言えないのですが……。お店を始めた当初はまだ演劇の活動も並行していたので、自分たちの得意な分野のつてを頼ってお客さんを呼べば、なんとかなると思っていました。だけど実際にやってみたらそれは本当に狭い考え方で、お店が成り立つかどうかは別問題であることを痛感しました。やっぱり地元の方が望むかたちと、自分たちができることをマッチングさせることが、生き延びるコツなのかなと経験から感じています。

千葉さん:住む場所も仕事場も同じ場所だと、周りの人との関係がとても大事になってくると思うのですが、山中さんたちがこの街に住み始めて大きく変わったと感じることはありますか?

山中さん:先ほどお話した鈴木荘は、その後いろんな課題をクリアして、成功事例になっていると思います。その後、鈴木荘以外でも空き店舗の活性化を行いましたし、今はイベントなどで商店街を盛り上げようと、鈴木荘を中心に若手オーナーの会合を月1で設けています。松橋さんのご尽力のおかげで、ここ数年で理事会が一気に若返ったんです。

旧来のお店さんたちとの関係も大事にしつつ、今後もいろんなことを企画していきたいと思っています。たとえばハロウィンをもじった「ハトウィン」というイベントを、ここ5年ほどやっているのですが、続けているとじわじわと周知されて、近隣のマンションの方などが家族連れで来てくださったりするんです。イベントがきっかけで「鳩の街通り商店街」を初めて知る方もいるので、お金をかけて大々的にやるよりは、みんなの気持ちを汲み取りながら、細く長く続けられることのほうが、この商店街には似合っているのかなと思ったりもします。

澤口さん:ありがとうございました。

都市と里山が交わる場所。 小さな町で、人を迎える。 【石川県小松市・滝ケ原町】


約35
年ぶりの新しい住民として
里山に暮らし始める

地方に移り住むには人それぞれに様々な理由があるけれど、「TAKIGAHARA FARM」のプロジェクトリーダー・小川諒さんが石川県小松市滝ケ原町に辿り着いたのは運命だったのか、それとも必然だったのか、そこには不思議な巡り合わせがあったとしか思えない。

今から3年前の2016年のこと。小川さんは東京の大学に在学中、ITの会社でインターン生として働いたものの、休学して千葉県富津市へと移住。卒業後もそこでコミュニティスペースを運営していた。そして仕事を辞めたのを機に、念願だったアメリカ・メキシコ周遊の旅へと出かけることに。

日本に帰って来てから何をするか、どこに住むかもまったく白紙で旅に出た。充実した旅から帰ってきてすぐ、滝ケ原へ遊びに行かないかと誘ってくれたのが、流石創造集団の黒崎輝男さんだった。黒崎さんは、東京・青山の国連大学前で開催されている「ファーマーズマーケット」などを運営。すでに小松市とも様々なプロジェクトを手がけており、滝ケ原の里山の美しさに惚れ込んでいたのだ。

小松市内では昔から石がよく採れた歴史があり、日本遺産にも登録されている。滝ケ原町にも採石場跡地がいくつも点在している。「TAKIGAHARA CAFE」に行く道中に見えるのは、滝ケ原町で三番目に古いという西山石切場。その存在感に圧倒される。

「友達が黒崎さんのところで働いていて、帰国して2日後に黒崎さんに会うことになったんです。初対面だったけど、すぐに仲良くなって。面接だと思ってなかったから普通に楽しく話をして。『暇だったら一緒に小松に行こうよ』って誘われて何度かついて行くうちに、『ここに住んでいいよ』って(笑)。家もないし、お金もないし、仕事もなかったけど、ここなら新しい生活の拠点を作れそうだなと。それもいいかなって」

そんな縁で滝ケ原町に辿り着いた小川さん。先のことを何も決めずに旅をしていた頃から、「東京ではなく、地方で何か活動したい」という思いだけはあった。その思い通り、滝ケ原でゼロから自分で暮らしを作っていくことになったわけだ。

長年使われずに残っていた古民家に住みながら、見よう見まねで畑を耕し始めた。先生は隣の畑のおばあちゃん。滝ケ原の住民は自家消費としての野菜や米を収穫し、兼業農家として暮らしきた歴史があり、ほとんどの家のすぐ近くに畑がある。


古民家をリノベーションした「TAKIGAHARA FARM」の拠点となる母屋。広々とした土間ではイベントも開催できるよう、DJブースも完備。古さを存分に活かしつつ、人が集まれる場所へと生まれ変わった。

「1年目はかぼちゃの苗を植えて、隣の畑のおばあちゃんにいろいろ教えてもらいながら育ててみたら、採れすぎるくらい育ちました。秋にはネギを植えて冬になってお鍋にして食べた時、あまりのおいしさにすごく感動したんです。自分で作った野菜ってこんなにおいしいんだ! 農的な暮らしってこういうことなのかなって。

おいしいネギを作る人なんてごまんといるわけですよ。でも自分で作ったものを食べるというのはそれとは次元が違う。自分で手間暇かけて愛情注いだものを自分の体に入れて、それを噛み砕いて消化して、それをエネルギーにして生きる。そのことそのものが僕の中では革命だったんです。

でも、自分で作ったものを自分で食べるなんて、この町では当たり前のこと。今まで自分がしてきた消費と違って、種や苗を買うことは生産のための消費です。それをどれだけ増やせるかということが、これからのお金の使い方だと思っていて。一次産業は生きていく上でのベースラインだから、これからもずっと続いていく欠かせない営みで。お金の価値は下がるかもしれないけど、お米の価値は下がらない。米本位の世の中をこれから作っていきたいし、農のある暮らしをもっとやってみたい。そういう思いが生まれてきました」

そこで小川さんは、移住してすぐに、滝ケ原の住民が作った野菜の余剰分を買い取り、青山のファーマーズマーケットに出店するという企画を、小松市と一緒にスタート。実際に町の人から野菜を譲ってもらうことことで関係性もより密になり、次第に町の中に溶け込んでいった。

「約35年ぶりの新しい住民だったので、町の人にはもっとびっくりされるかなと思っていたんです。でもみなさん快く受け入れてくれた。応援してくれる方々がちゃんといるのは本当にありがたいし、心強い。おじいちゃん、おばあちゃんぐらいの世代の方が多いから孫みたい可愛がってくれるんです」

滝ケ原町の人から見た
「TAKIGAHARA FARM」の存在

2017年5月には、念願の「TAKIGAHARA CAFE」をオープン。大阪から遊びに来てくれた由岐中みうるさんも滝ケ原を気に入って住み始め、店長として務めたあと、現在は育児休暇中だ。

海外からのゲストたちが、日本の里山暮らしを体験してみたいと、わざわざここを訪れてボランティアとしてお手伝いをしながら長期滞在したり、2018年夏に米蔵を改装した民泊施設にもゲストが訪れている。

米蔵を改装した一棟貸切のゲストハウス「TAKIGAHARA HOUSE」。

小川さんが、滝ヶ原にやって来たことで、この小さな町に国内外からやってくる人たちが急激に増えたわけだが、町の人々の暮らしは変わったのだろうか?

「町の人は、カフェがオープンしたらすぐに遊びに来てくれました。コーヒー好きな人が多いからお茶しに。近所のおばあちゃんは〈TAKIGAHARA CAFE〉の“CAFE”って単語が読めなかったぐらいだったけど、遊びに来てくれましたね。ここができたことで町の人も『自分の行動が変われば自分の世界が変わる』ということに気づいてもらえたのかなって。自らカフェに足を踏み入れることもそうだし、そこにはきっと新しい出会いもある。そこから僕らが主催するイベントでごはんを出すようになったおじちゃんもいるんですよ」

ゲストハウスから歩いてすぐの場所にあるカフェ。夕方に訪れると、東京で活動する〈タイ料理教室おいしみ研究所〉の料理家みもっとさんをゲストに、イベントに向けてスペシャルディナーの準備が始まっていた。

進む高齢化と過疎化で町の存続が危ぶまれる中、どうにかしなければと滝ケ原の人々も考えていただろう。そんな時、こうして若い人たちが訪れる場所ができたことに、町の人はとても喜んでいるように感じた。

町で唯一の専業農家を営む川端淳一さんは椎茸農家。小川さんが滝ケ原に移住してからも様々な場面で手助けしてくれた良き応援者だ。カフェにも肉厚な椎茸を提供してくれている。

オープン時間より少し早く来て楽しそうに過ごしていたのは、カフェ常連さんの下坂さん(左)川端さん(右)。

「〈TAKIGAHARA FARM〉ができた時からイベントやらでなんでも協力してるんや。ここのカフェで使っている食材はだいたい町の人が、自分のとこで余ってるものを持ってきよる。自分は椎茸作っとるし、ここで使って欲しいがために来てみたら、使ってくれるだけでなく東京のシェフやいろいろな人を紹介してもらえてすごく助かってる。自分としては東京のファーマーズマーケットで売ってくれる以上に、東京からこっちに人が来てくれることで、ここにいながらいろいろなつながりができるし、その方がものすごい魅力だと思う」(川端さん)

もう一人、東京のロシア料理店でシェフとして働き、今は実家の滝ケ原町に住む下坂順毅さんもここができたことを本当に喜んでいる様子だった。

「ここに来てからというもの、いい出会いがたくさんありました。イベントがあるたびに東京から様々な人が来てくれるので毎回とっても楽しみなんです。ここにいれば人が来てくれますから、外に出なくても良くなりましたね。外国の方は滅多に来なかったんですけど、今は本当にたくさんの人が来てくれる。アメリカのポートランドやイスラエルからも人が来たり、国際色豊かでね。他の町の人からは『滝ケ原の奥に東京がある』って言われたんですよ(笑)」(下坂さん)

「TAKIGAHARA CAFE」がある建物は、誰も住んでいなかった一軒家だった。ここ数年は町内から人が出ていくばかりで、誰かがここに住み、カフェまでオープンするなんて誰も思ってもいなかった。空き家がそのまま朽ち果てていくのを待つだけだと思っていた町の人はさぞ驚いたことだろう。カフェの隣の民家もこれから改装し、来年にはホステルがオープン予定。宿泊者もさらに増え、賑わいを見せることだろう。小さな町に起きた大きな変化を、町の人たちは柔軟に受け入れてくれている。

この場所ができたことで
集まって来た人々

2018年12月15日にカフェで開催されたイベントは、少し早いクリスマスパーティ。年内最後のイベントとあって、町の人はもちろん、このイベントに合わせて東京や名古屋から帰省したという人や金沢から遊びに来た人など、多種多様な人たちが集まった。わざわざこの場所を目指してやってくる人たちに、距離はもはや関係なさそうだ。


広瀬治佳さんは名古屋から遊びに来た大学4年生。実家は小松市だが進学のため名古屋に暮らす。このカフェの存在は母親が教えてくれた。2019年からは宿泊施設に就職が決まっているが、このカフェでの働き方に興味を持って来たと話す。

「私はいつか地元の人と都市部の人が交わる場を作りたいなとずっと思っていたんです。たまたまここを知って来てみたら、私のやりたいことに近いなと思って。オーストラリアに留学していた頃、ファームステイをしていたんですが、そこは各国から来た外国人と農家さんが交わる場所で、お酒を飲みながらいろいろな話をして、自分の知らないことを知ることができたんです。そういう場所があるってすごくいいなと思って、将来自分でも作ってみたいなと。そういう場所で働いてみたいなって」(広瀬さん)

「TAKIGAHARA CAFE」や「TAKIGAHARA HOUSE」などの改装を手がけた建築家の野尻順滋さんと、ジュエリー作家のさやかさん。野尻さんは、イベントが開催されると小松市内から遊びに来てくれる。にぎやかで温かな空間を見渡しながら、楽しそうにみんなと話していた。

小松市が地元のさやかさんは、東京・表参道のCOMMUNE 2ndの「TOBACCO STAND」で働きながら、ジュエリー作家としても活躍。この日は、イベントに出店する作家として、また、イベントの準備段階からみんなをサポートするスタッフとしても参加。拠点は東京だけど、小川さんたちと一緒に遊んだり、イベントを企画したりと欠かせない存在。実際に、「TAKIGAHARA FARM」ができてから実家に帰ってくる回数が増えたという。

こうした都市から地域へと拠点を移して暮らす若者たちにとって、同じ感性の人々が集まれる場所があることはとても貴重なことだ。地元に帰った時には、ここに行けば誰かに会える、そんな安心できる場所にもなる。町の人にとっては外の人と出会える場所にもなる。人が集まれば、自然とゆるやかなつながりが生まれていく。小川さんがやっていることは、“ただ居心地のいい場所を作るだけ”と、とてもシンプルだ。彼が「地域おこし」という言葉を好まないのは、このプロジェクトは、地域おこしのためではないから、だ。

東京を拠点に活動するシンガーソングライターの〈BUOY〉のライブ。特別なクリスマスプレゼント。

「〈TAKIGAHARA FARM〉は、僕らのこれからのライフスタイルを根本から見つめ直そうというプロジェクトなんです。それが結果的に地域のためになるのかもしれない。カフェができてコーヒーを飲める場所ができたり、いろんな出会いがあったり。それが地域活性に“なっていた”というのが自然なことであって、それはあくまでも僕らにとって目的ではなく結果なんです。そこはいつも意識しています。
僕らは未来のためにやっている。もちろん、この町の未来にとっても、日本だけでなく世界にとっても、次の世代にとっても。いま日本の各地域が様々な問題を抱えている中で、この町だけが盛り上がればいいということではないですから」

カフェは誰でも来られる場所で常にオープンな場だからこそ、様々な人が多目的に訪れることができる。家族みんなで遊びに来たり、おばちゃんグループがお茶をしに来たり、同窓会などの集まりにも使ってくれる。小川さんが妻のしょうこさんと出会ったのも、このカフェだった。2019年1月に待望の第一子も誕生した。滝ケ原にはスタッフを含め、いきなり5人もの人口増となり、今では町民たちも大喜びだ。

「まさか滝ケ原に来て結婚するとは。海外を気ままに周っていた時はからこんな人生、想像していなかった。いや想像以上ですね(笑)」

流れに身を任せているようだが、常に自分の思いで動いて来た小川さん。時には黒崎さんのように導いてくれる人もいるし、祖父母のような世代の町の人が温かく見守ってくれている。地域に暮らす若者たちが小川さんを慕い、様々な人が集まってくる。だからこそ、小川さんはもっと自由に、さらに思いのまま、この滝ケ原という町で暮らせているのではないだろうか。

「このエリアをもっとおもしろく循環させて変化させていく」ことが、いまの小川さんの役割だ。「住む人が少しずつ増えて人口が減っていかないように。170人をキープしていきたい」と小川さん。彼一人の生き方が、町を少しずつ変え、きっとこれからも変えていくのだろう。

後編「土地に根ざして生まれる、人と人の、新たな関係」

“都市をたたむ”って、なんだろう? 都市計画家・饗庭伸さん【インタビュー:東京R不動産】

都市に生まれた隙間で始まる、
新たなまちづくり

人口減少や過疎といった問題は、地方だけで起こっていることではない。総務省の人口動態調査によると、2018年1月1日時点で日本の総人口は9年連続で減少している。東京一極集中が加速してはいるものの、いまや東京圏でさえも「さびれた街」が生まれつつあるのだ。
首都大学東京の都市環境科学研究科 都市政策科学域で都市計画・まちづくりを専門とする饗庭伸(あいば・しん)教授は、『都市をたたむ』という著書で、人口減少社会における新しい観点でのまちづくりを提案している。


都市をたたむ』とは?

世界的に見ても都市への人口集中が進んでいる日本は、総人口の実に9割以上が都市に住んでいる。一方で、世界に類を見ない人口減少時代に突入している日本の都市空間は、どのように変化していくのか。饗庭さんがここで使っている「都市をたたむ」という言葉は、「shut down=店をたたむ」ではなく「fold up=紙をたたむ、風呂敷をたたむ」を意味するそう。つまり一度規模を小さくしたとしても、状況によってまた「開く」こともできるというニュアンスが込められている。

同じ都市内でも、住み心地のいい空間には必然的に人口が集中するし、反対に不便なエリアでは過疎が発生する。そんな現象がすでに起き始めているなか、これからの都市計画はどうあるべきなのか。都市が本来持っている役割や機能を改めて捉え直しながら、人口減少に伴う都市空間の変化のしかた、時代に沿った都市計画のあり方、また饗庭さんが実際に関わった都市計画やまちづくりの事例などを紹介している。

使われなくなった建物がある街に賑わいをつくろうという、東京R不動産の新プロジェクト「ニューニュータウン」は、この本が大きなヒントになっているそうで、千葉敬介さんは本書を読んで感じたことをこう説明する。

千葉さん:都市の衰退や縮退というテーマは、わりと暗いムードで語られることが多いのですが、この本にはポジティブな印象を受けました。でも何度か読み返してみると、そこまでポジティブに書いているわけではない。それなのにポジティブな印象を受けるのは、漠然とした不安の理由をクリアにして、どう対処すればいいのかが的確に語られているからなんですよね。饗庭さんは主に地方都市を想定して書かれたのかもしれませんが、東京にも当てはまることがたくさんあると感じました。

右から、書籍『都市をたたむ』の著者・饗庭伸さん、東京R不動産の千葉敬介さん、澤口亜美さん。

――東京でもこれから起こりうる現象として、千葉さんたちが本書のなかで注目したのが、都市の「スポンジ化」。人口減少によって都市が縮小する、というと、都市のサイズが単純に小さくなることをイメージしがちだが、実際のところ、大きさ自体はほとんど変化しない。その代わり、商店街や住宅地などに空き家がランダムに増えていくことをスポンジ化と呼んでいるのだが、その部分にこそまちづくりの新たな可能性を見出したようだ。

千葉さん:今の東京で住むところを選ぶときは、愛着を持てるかどうかより、自分の収入や都心からの距離、家賃に対する広さなどが優先されがちですが、スポンジ化が起こったら必ずしもそうではなくなる気がするんです。

今まではスポンジの穴がないか、空いてもすぐ埋まる状態でしたが、ある程度の空きが出てくると、自由度が生まれて、イレギュラーな価値が生まれる余地が発生しやすくなると思っています。例えば、場所はイマイチだけど仲間どうしで近くに住んだら楽しそうだとか、好きなお店の周りに、その店のファンの人たちが住み始めるとか。他にも海外の事例だと、空き地が公園や畑になったり、空き家が観光の核になったりしています。(参考記事:「エリアイノベーション海外編」

東京R不動産は単体の物件を扱うときも、スペックではなく、居心地や愛着に価値を転換するようなことをやってきていますが、都市に隙間が生まれることによって、それと同じことが街に対してできるんじゃないかなと思ったんです。

――「ニューニュータウン」は、これまで不動産の仲介をベースにしてきた東京R不動産が、街そのものをつくってしまおうというプロジェクト。といってもゼロからつくるのではなく、すでにある街に飛び込んで、新しく住む人も、すでに住んでいる人も愛着が持てるような場所にしていくことを目指している。

実施場所として、スポンジ化が起きつつあるエリアを想定しているわけだが、より具体的にいうと駅からやや離れていて、シャッターが目立つようになった商店街を探しているそう。その一角を東京R不動産が丸ごと借り上げ、お店などをやってみたいという人に貸して、同時発生的に複数のお店をオープンさせることで、商店街を再びにぎやかにするだけでなく、街に新たな価値を付加したいと考えている。プロジェクトの概要を聞いた饗庭さんは、自身の経験と照らし合わせてこんなふうにコメントした。

饗庭さん:人口が減少し始め、ダイナミックに都市を変える必要がなくなった今の時代 、都市計画はそれぞれ違う方向を向いている100人を説得するのではなく、一人ひとりを相手に進めていくのが最短といえるかもしれません。私自身も学生の頃はそれこそ、ニューがひとつの“ニュータウン”をつくってみたいと思っていましたが、そういう時代はすでに終わっていたので、ひとつの空き家を使ってどういう都市をつくっていけるかを考えるところからのスタートでした。

空き家を再生して、地域の拠点をつくる

スポンジ化によってあいた穴、つまり空き家を再生することで、周辺はどんなふうに変わっていくのか。ニューニュータウンの参考になるのが、2010年に饗庭さんが国立市谷保で実施した空き家活用プロジェクト「やぼろじ」だ。

都市をたたむ方法のひとつとして、空き家を再生して地域の拠点を形成することを目指した「やぼろじ」プロジェクト。【写真提供:饗庭さん】

饗庭さん:都心から30分ほどの住宅地にある、昭和30年頃に建てられた300坪程度の大きな空き家でした。それこそ立派なマンションを建てられるくらいの土地なのですが、江戸時代から続く名家ということもあり、売却などは考えていないようでした。またオーナーさんはそこから2時間ほど離れたところに住んでいて、5年後に定年退職を控えていたので、いずれ戻ってくることも選択肢にあったようです。最初にオーナーさんに連絡をしてみたときは、当然といえば当然ですが、すごく怪しまれました(笑)。

空き家再生の計画を考えるワークショップの様子。【写真提供:饗庭さん】

地元の人を招いて、ガーデンパーティを開催した。【写真提供:饗庭さん】

澤口さん:私たちも今、街を歩いてよさそうな空き家を見つけたら、持ち主を探して、直接コンタクトを取ったりしているので、怪しまれる感じは想像がつきます(笑)。その際、こちらがやろうとしていることや目的などを説明して、理解してもらうのが意外と難しくて、いつも苦戦しているのですが、饗庭さんはどんなふうに自分たちの思いを伝えたのですか?

饗庭さん:知り合いづてだったこともあり、ファーストコンタクトでとりあえず会ってもらえることにはなったのですが、空き家を貸してほしいと切り出すまでは、それこそ異性に告白するみたいにタイミングを計りかねて(笑)。
下手な言い方をしたら二度とチャンスはないと思ったので、最後の最後に「この家の再生についてご提案したいので、半年くらい時間をください」とお願いしました。要するに「お友だちから始めましょう」みたいに、断られない方向に持っていった感じですね。

それから必要なときに鍵を開けてもらえるようになったのは、大きかったです。空き家はやっぱり中を見ないとわからないですし、漠然とカフェをやりたいとか、独立したいと思っている人も、中を見ると具体的にイメージが湧くので、いろんな人を巻き込みやすくなるんですよね。地域の拠点として空き家をどんなふうに使えるかを考えるワークショップを数回開催して、3、4カ月で構想が見えてきました。契約期間を5年にしたのも、うまくいったポイントだと思います。オーナーさんが5年後に戻ってくるかもしれないという理由もありましたが、期間をある程度区切って提案すると、先方も判断しやすくなると思います。

結果的にこの空き家は、シェアオフィス、コミュニティレストラン、工房等、複数の用途が混在する空間となり、当初目指していた地域の拠点として、地元の人だけでなく、遠方から訪れる人でもにぎわう場所となった。

“ステキなお店”が地元の人に受け入れられるために

これまでやってきたように商店街の物件を単体で仲介するのではなく、一角をプロデュースするニューニュータウンは、「お店の生存率を上げる」ことも狙いとしている。

千葉さん:ある街にすてきなパン屋ができたとします。5年頑張って認知されて、街にもにぎわいが生まれて隣にカフェができたりすると、そのパン屋の生存率はおそらく上がりますよね。だけどパン屋の隣にカフェができるかどうかは、言ってみれば運次第。カフェができなかったら、10年後にパン屋がなくなっている可能性も十分にあると思うんです。ニューニュータウンは、僕らが大家としてテナントを選べる立場になることで、たとえば通りに向かい合わせで5軒のお店を一気にオープンさせるようなこともできるわけです。それによって、街の顔と呼べるような空間をつくることができるし、お店を開く人にとってもギャンブル性が多少薄まりますよね。

饗庭さん:商店街の場合はアーケードがあったりすると、フリーダムな雰囲気が生まれやすくなりますよね。真ん中が車道になっている商店街だと、道路にイスがはみ出ているだけで怒られたりしますけど、アーケードがあるようなところは、向かい合わせの店舗が了解のうえで、真ん中の空間もうまく使えそうな気がします。

千葉さん:たしかにそうですね。似たような考えで、たとえばみんなのリビングとか、みんなのキッチンみたいな、通常であれば家の中にある機能を街に持ち出して、住んでいる人の拠点になるような空間をつくれたらいいなとは思っています。

澤口さん:長年同じ場所でお店をやってきた商店街の人たちも、高齢や跡継ぎ不在、売上不振などで店をたたむことになっても、そこを建売の住宅にするのはできれば避けたいし、周りでまだ頑張っているお店に対して申し訳ない気持ちもあったりするみたいなんです。なので、しかたなく閉じてしまったような場所を、私たちが別のかたちでまた開くことが、今住んでいる人たちにとっても喜ばしいことになればいいなとは思います。

千葉さん:街に対する帰属意識じゃないですけど、自分で選んでこの街に住んでいると思ってほしいし、すでに住んでいる人ともきちんと関係を築くことが大事だと思っていて、そのための仕組みについても議論しているところです。たとえば、僕らと一緒に街を盛り上げる活動をしてくれたら、家賃が安くなるようなシステムがあってもいいのかなとか。それも僕らが大家になるからできることだったりするので、新しく住む人とすでに住んでいる人が交われるような環境を作っていきたいですね。

饗庭さん:センスのいいお店を作って街の価値を上げるのはいいことだと思いますが、地域の人との接触面を作ることが結局大事になってきますよね。

澤口さん:空き家再生をやられたとき、その辺りの難しさは感じましたか?

饗庭さん:先ほど話した谷保のときは、オーナーさんが地元の村長一族だったので、その歴史をお話ししてもらうようなワークショップを開催しました。相手のことや土地の歴史を聞く姿勢は大事ですし、そういう場を設けると意外と盛り上がると思いますよ。

あと私の知り合いで、社会学の先生の話なのですが、東日本大震災後、学生を連れて仮設住宅でボランティアをしたそうなんです。最初のうちは「何かお手伝いできることはないですか?」などと尋ねて、お願いされたことをやっていたのですが、だんだん相手が恐縮し始めて「もう大丈夫だから」とやんわり断られるようになったらしくて。それで途中から「おばあさんの得意な料理を教えてください」などと反対にお願いするような言い方に変えてみたら、喜んで教えてくれるようになったそうです。

澤口さん:双方向な関係になったんですね。相手にあえてお願いをしてみるっていうのは、いいかもしれないですね。

饗庭さん:もちろん、無理のないお願いというのが前提ですが。オーナーさんの年齢層は70代、80代くらいがやはり多いと思うのですが、私たちからするとその世代の方々の人生は、たとえ場所を移動していなくても冒険の連続なんですよね。そういった方々のお話を聞くのはとても興味深い経験だと思いますし、聞いていくうちにその方の得意なこともわかってきますからね。話のなかから、これというキーになるようなことが見つかると、プロジェクトがドライブすると思いますよ。

千葉さん:関係を築くためにも、地域の人たちの特技を知りたいとはずっと思っていて、どうやったらそれを引き出せるのか、まさにみんなで考えていたところなんです。

澤口さん:とてもいいヒントになりました。ありがとうございます。

手仕事を通して、もっと自由になる。|【お母さんだから、できることvol.4】

藤野で見つけた
新しい暮らし

旧藤野町にある「日連(ひづれ)」と呼ばれる通りの一角に、「餃子」「担々麺」と書かれた旗の揺れるお店があります。ここは藤野で人気の中華料理店〈大和家〉。地元の有機野菜や平飼い卵などこだわりの食材を使って作られる創作中華を求めてやってくるお客さんでいつも賑わっています。

その〈大和家〉の2階に〈暮らしの手仕事 —くらして―〉というお店があります。工芸品に手紡ぎの糸や布、オーガニックコットンの洋服などが並び、店主の大和まゆみさんによる手仕事教室も行われています。〈大和家〉を営む大和伸さんと、〈くらして〉を営む大和まゆみさんはご夫妻。1階と2階、ふたつのお店をそれぞれで切り盛りされているのです。

私がまゆみさんと出会ったのは、まゆみさんの手仕事教室でした。娘の小学校ではダンスの授業で絹のワンピースを着ることになっていて、裁縫のまったくできない私は四苦八苦。そんな人に向けた講習会があることを知り、藁にもすがる気持ちで〈くらして〉を訪れました。

手取り足取り教えてもらった長時間の制作の間に、まゆみさんとたくさん話をしました。子どもから大人まで幅広い人たちに手仕事を教えていること、手紬した糸はまゆみさんが畑で種から作った綿からできていること、羊を飼い羊毛も紡いでいること。そんな暮らしをしていることに驚き、憧れのような気持ちが生まれました。

「身につけるものを自分の手で作りたい」というまゆみさん。元々、都心で家を持ち、お店も経営されていたところからすべてをリセットし、藤野にやってきたという、その決断から藤野での新しい暮らしと、いまの生き方をみつけるまでのお話を聞きました。

家も仕事もない状態から
藤野へ移住

現在、高校生と中学生、2人のお母さんであるまゆみさん。もともとは婦人服のパタンナーとしてアパレル会社に勤めていました。出産後も働きたい気持ちはあったものの子育てと両立することは難しく、仕事を辞める選択をしたそうです。子育てを始めてみると、子どもに着せたいと思う洋服がなかなかありませんでした。そんな時、友人の紹介で海外のインポートブランドのかわいい子ども服に出会います。それをきっかけに、いまから17年前にはまだほとんどなかったネットショップを立ち上げ、子ども服の販売を始めました。自分のペースで運営していたネットショップに転機が訪れたのは、上のお子さんが幼稚園の入学を迎える時でした。

「幼稚園って上履き袋とか替えの洋服を入れる袋とか、いろいろなグッズを作らなくちゃいけなくて。仕事柄、作ることは簡単にできたんです。そしたら、ほかのお母さんたちに『うちのも作って欲しい』と頼まれるようになって。でもお母さん自身が作れるようになったらそれが一番いいなと思ったから、簡単に手作りできるキットを作ってみたんです。布は切ってあって、こことここを縫うだけと説明もつけて簡単に。生地はお母さんたちが好みそうなリネンのちょっとおしゃれなものにして。このキットをネットショップで販売してみたところ注文が殺到したんです。今はいろんなところでこうしたキットも売っているけれど、当時はなかったから」

そうしてお母さんたちが気軽に手作りできる入園準備グッズのキット制作とネット販売を行いながら、2人のお子さんの母親として過ごすうち、その後の人生に大きな影響を与える出会いが訪れます。

「上の子は都心にありながら自然に触れる環境の幼稚園に通っていました。大きな園庭でいろいろな動物を飼っていたり、親も味噌や納豆を作ったり、暮らしについて考える機会も多くて。まだ未就園児だった下の子を遊ばせる場所を探していた時、シュタイナー幼稚園の未就園児向けのクラスを知って通うようになりました。そこで自然療養の料理教室をされている方と出会い、食べ物について考えるきっかけをもらったんです」

店内に並ぶリネンやシルクのスカーフ。捨てられてしまうハギレを使い作られたターバンも。

まゆみさんの飼う羊の毛を刈り草木染めした羊毛セット。

そこから、自然の力を活かして作られた食材と伝統的な製法の調味料を使った食事を心掛けるようになったというまゆみさん。当時すでに東京で中華店を営んでいた夫の伸さんも、家庭での食事が変わったことで体調が変化していき、自然とお店で出す料理も無農薬野菜を使った無添加のものへと変わっていったそうです。そんな時、シュタイナーの一貫教育を行う私立のシュタイナー学園が神奈川県の藤野という町にあると聞き、学園のオープンデーに家族で行ってみることになりました。

「上の子が年中さんの時だったかな。興味本位でどんな学校か見に行ってみよう、くらいの軽い気持ちだったんです。そしたら夫がすごく気に入って。帰り道で『子どもをシュタイナー学園に通わせよう。藤野に越してこよう!』って。でも東京に家も買っていて、小学校も公園もすぐ隣という恵まれた環境だったし、夫のお店ももちろん東京。藤野に越しても、夫とバラバラの生活になるんだったら、どんなによい環境だったとしてもそれじゃ意味ないんじゃない?って。私は家族が一緒なら、東京でも藤野でもどっちでもいいと思っていたので『お店をやめるなら藤野に越してもいいよ』って言ったんです」

すると、伸さんは軌道にのっていたお店を突然閉め、家も売って、藤野に引っ越すことを決めました。ところがいざ移住してみると、思うようにはいかないこともありました。

「夫は藤野でお店をまたやるつもりだったんじゃないかな。でも来てみたら店舗物件がないんです。不動産屋さんに『ここは外食する文化がないから無理だよ』って言われて驚いて。結局、物件は見つからず、夫は友人の紹介でゴルフ場のレストランのシェフをすることになったんです。自宅からは遠くて朝4時に家を出て夜10時に帰ってくるような生活。子どもたちは楽しそうに学園へ通っていたけれど、家族として望んでいたのとは違う生活が数年続きました」

震災をきっかけに、
種をまき始める

そんな生活を変えるきっかけとなったのは東日本大震災だったといいます。上のお子さんは小学校2年生、下のお子さんが年長の時でした。震災直後でもゴルフ場の予約が入っては仕事に向かう伸さんを見て、まゆみさんの中で何かが切り替わったそうです。

「このままじゃいけない!と思ったんです。その後すぐに夫は仕事を辞めました。二人ともいろいろなことを見つめ直さなくてはいけないと感じていたんですよね、きっと」

まゆみさんはネットショップを続けつつ、震災後さまざまな情報が交錯する中、不安で心が揺れる日々が続いたといいます。そんな時、手紡ぎの布を作っている友人から綿の種をもらいました。以前、その人の作った布で体を洗ううちに湿疹が治ったことがあったそうで、綿の種を手渡され「藤野で綿を育てなさい」と言われて、始めてみることにしたのだそうです。

「それまで綿を育てるなんて考えたこともなかったんですが、今年種をまかないと来年はもう発芽しないというので、種を継がなくちゃと思って植えてみたんです。畑仕事なんてしたこともなかったんだけど、必死で育てて秋にふわふわのコットンボールができた時、これは神様の贈り物だと感じました」

畑に育つコットンボール。この実が弾けて中からフワフワのコットンが現れる。

収穫したコットンボールを黙々と糸紡ぎをしているうちに、不安だった気持ちが次第に整っていき、心の中に軸が生まれていくように感じたといいます。そうして自分と向き合う時間の中で〈くらして〉を立ち上げようという気持ちが生まれていきました。

「ネットショップのキット制作と販売は、必要としている人の助けになるかもと思って始めたことだったけれど、だんだんお金を稼ぐための手段になってしまったことがしんどくなってきていたんです。布ってどうやってできているんだろうなんて考えたこともなかったけれど、土からできていた。それを実感した時、とにかく種をまいて収穫をして、糸を紡いで、自分で一から作ることを始めてみようと思ったんです」


糸を紡ぐまゆみさん。まゆみさんが使っている紡ぎ機はでインドで作られた「チャルカ」という伝統的なもの。

手仕事は昔から
ずっとあった営み

そんなことを思ううちに、藤野で物件が出たという話が舞い込んできました。飲食店ができる物件で、2階にはまゆみさんがやりたかった手仕事や物販もできそうなスペースもありました。けれど、10年以上使われていなかったボロボロの物件だったため、相当手を入れないといけない状況でした。そこで、伸さんを応援してくれる仲間を募ることを思いつき、親しい人たちに話したところ地域ファンディングとして出資者が集まりました。

「藤野に来て7、8年が経って、人と人との繋がりができていると感じていました。お店ができたら食券と交換というかたちで出資してくれる人を募ってみたら、すごくたくさんの人が協力してくれて。それで無事に〈大和家〉をオープンすることができました。2階にはそのお金は使えないので、自分たちで最低限の改装だけしてお店を始めました」

地元の野菜や卵も、人との繋がりの中で、より顔の見える信頼できる材料を選べるようになった伸さんの創作中華は、外食文化がないといわれた藤野でたちまち人気店となりました。そして2階の〈くらして〉では、時代の中で作り手がいなくなってしまいつつある工芸品や、手紡ぎや手織り、草木染めされた衣類の販売と、手仕事の教室を始めました。そこからさらに、地域の繋がりで羊を譲ってもらえるという話が舞い込み、庭の竹林を切り開いて飼うことにもなりました。

手仕事教室では、春から秋はコットンボールの種まきから収穫、羊の毛狩り体験があり、冬には下着からワンピース、ブラウス、パンツまで計6着をすべて手縫いで作ります。自分の着る物を自分で作っていたまゆみさんが、一から丁寧に教えてくれるので、最初はとても完成できないと思っていた人でもみんな6着すべてを縫い上げるといいます。

「自分や家族のためにする手仕事を提案したいんです。手仕事ってみんなハードルが高い、技術がないとできないって思うかもしれませんが、実は昔から母親やおばあちゃんたち、誰もがやってきたこと。売り物みたいに美しく整っていなくてもいい。縫い目が揃ってなかったり、いびつだったりしていたとしても一目一目が愛しい、そんな自由なものだと思うんです」

自分で縫い上げた服を着るまゆみさん。気づけば上から下まで全身自分で縫ったものを着ている日もあるという。

「最後まで縫い上げられた」というひとつの経験から変わっていくこともあるんじゃないかとまゆみさんは言います。

「私自身、不安だった時に手仕事を通して自分の軸が作られていくのを感じました。最近は〈くらして〉に若い人がやってきていろいろな悩みを話していったりすることもあるんですよ。ここに来てから『仕事辞めちゃいました』なんて人も(笑)。しっかり働かないと、貯蓄しておかないと、と何でも周りと比べて不安になりがちな世の中に感じますが、そんなふうに不安にとらわれなくても意外と生きていけるんだって思うことって大切なんじゃないかと思います。

母になって、子どもの成長とともに私の働き方もその都度変わっていきました。子どもに着せたい服、子どもに持たせたいバッグから始まって、子どもが手を離れてきたら今度は自分自身が着たいものへ。子どもが小さいうちは家でできることをしていたけれど、今は人を招いてワークショップをしています。その時その時の自分と向き合って、その時にしたいことをすることが、いつの間にか未来につながっていた。自分で何かを作れたという一つひとつの経験って、その人の生きていく自信になっていくんじゃないかな。そして手仕事にはそんな力があるんじゃないかな、と思っているんです」

・・・・

《取材のおわりに》

自分の暮らしにもっと向き合いたい

「作ることって、生きていく自信につながると思うんです」というまゆみさんの言葉が強く印象に残りました。

バーバラ・クーニーという人が書いた『にぐるまひいて』という絵本があります。19世紀始めのアメリカの農村で暮らすある家族の一年が書かれた絵本で、畑を耕し、羊の毛を刈り、糸を紡ぎ、布を織って、一年かけて作ったものを市場に売りに行き、そのお金で必要最低限のものを揃えて、また一年間暮らしていく。自然に寄り添い、その恵みをいただいて、自分たちの暮らしを自分たちで作りながら生きていく。

私も娘もこの絵本が大好きで繰り返し読んでいるのですが、読むたびにうらやましくてたまらない気持ちになっていたのです。まゆみさんに出会った時も同じような思いが湧き上がりました。必要なものも、欲しいものもお金を通して手に入れる、そんな暮らしは便利だけれど、お金がないと生きていける気がしなくなって、いつも漠然とした不安がある。まゆみさんのように、暮らしを自分の手で築いて生きていけたら、この漠然とした不安もなくなっていくんじゃないだろうか、と。

作ることは長い間、人にとって生きていく根源にあることでした。そしてその根源に触れていない今の暮らしの中では、人は不安に駆られてお金に寄りかかりすぎてしまう。少なくとも、私はそう感じていたんだと思います。でも実感のともなう暮らしはあらゆる大変さとともにあり、そう簡単にできることではありません。でも、綿は育てられなくてもたとえば子どものお弁当包みを作ることから始めてみる。どんなものであっても形ある何かを作れたということはきっと、また何かを作れるかも、という自信につながっていくんだと思えました。わたしも暮らしを自分で築いていくことを始めたい。

その小さな始まりとして苦手だと思っていた手仕事を何か始めてみよう、そう感じたまゆみさんのお話でした。

 

自生する木のように生きる人。<鳥取県・江府町>

すっぽり収まった、
“昔話”のような生活

徳岡さんの家の前に着き、車を降りると、道路を沢蟹が横切った。さっきの鬼といいこの沢蟹といい、川だけではなく時間をも遡ってしまったような感覚になる。

出迎えてくれた徳岡さんは、傘もささず、パーカーのフードを被っただけで顔はよくわからなかった。急な坂道をすたすたと歩く徳岡さんの背中はすぐに見えなくなり、「こちらです」という声だけに導かれ、玄関を横切り家の裏へまわる。するとそこには七輪で何かを焼いている徳岡さんがいた。その何かをよく見てみると、それは砂鉄のようなものがびっしりとこびりついた鉄瓶だった。

「薪だから煤で何もかも真っ黒になっちゃうんです。だから触ったらだめですよ」

徳岡さんはそう忠告すると、他の鍋も見せてくれたのだが、どの鍋も全てが煤で覆われていた。そう、この家にはガスが通っていないのだ。彼女は三度の食事を屋外に置かれたこの七輪に、そこら辺で拾った木をくべて作っているという。
やはり知らないうちに昔話の時代に遡ってしまったのだ、と自分の生活とのギャップを埋めるために、そう言い聞かせながら家の中へお邪魔する。そこで初めてちゃんと見つめた徳岡さんは、いたって普通の「徳ちゃん」とでも呼びたくなる、爽やかな女性だった。

徳ちゃんはその後も自家焙煎のコーヒーを自分で縫ったフィルターで淹れてくれたり、自分で育てたとうもろこしで絶品ポップコーンを作ってくれたりと、見ず知らずの僕たちを快く迎え入れてくれた。次々と現れる「自分で作ったものたち」を前に僕は改めて、今の自分の生活がどれだけ「誰かの作った既製品」に囲まれた生活なのかと思い知らされる。

彼女はその後もせわしなく動き、最近住み着いたという二匹の猫が机の上を駆け回るのを叱りながら、そこら辺の石垣に生えているお茶の葉を発酵させて作ったという紅茶を淹れてくれる。ようやく家の中が落ち着いたところで、僕はやはり「何でこんな暮らしを?」という疑問からインタビューを始めた。

「よく聞かれるんですけど、思い出してみても本当にわからないんです。小さい頃から遊ぶといったら、その辺の草花をすりつぶして汁を取ったり、そんな遊びばっかりしてたので、その延長なのかなと思ったりもするんですけど。でも、この家があったからかな」

徳ちゃんが2歳の時、この家にひとりで暮らしていた母方の祖母が、徳ちゃんたちの住む米子市へ降りてきた。それから26年間空き家になっていたこの家に、京都の大学から戻ってきた彼女は、10年前から住み始めたのだという。

「ここは、いつか私が来るために、何代にも渡っていろんな準備をしてくれてたのかなっていうくらい、ぴったり収まってるんです。意気込んで、『田舎暮らしするぞー!』みたいなのじゃなく、当たり前にここだろうというところに、すぽっと入ってる状態なんですよね」

彼女の話を聞いていると、窓の外で何かが動いた気がした。それは雨で濡れた森の緑を背景に立ち昇る、白い煙だった。外の七輪はまだ薪を燃やし続けている。そして、僕は今まで一度も身近に煙のある生活をしたことがないのに気づく。それは僕だけではなく、現代のほとんどの人がそうだろう。

「やっぱり私は都会の暮らしができないんだと思うんですよ、性質として。だって都会だと、柿とか食べて種をぺってできないし」

煙から目を移し、壁に貼られた星野道夫が撮影した北極熊のポスターを見る。もしかしたら彼女がこの暮らしをする理由は、北極熊に「何で北極で暮らすの?」と聞くのと同じで、理由を聞かれても答えられないくらい、自然と適正な場所に収まっている結果なのかもしれないと思う。

 

私たちが生まれた意味を
問いかける“呪い”

「中学生の頃に、絵を描きながら自給自足の生活をしたいって思ったんですけど、それが何でだったかはわからなくて。たぶんどこかで、きっかけになるようなものを見て、そこから何かを受け取ったからだと思うんです。私はその何かを『呪い』と呼んでるんです。でも、何を見てこうなったのかは、自分でもわからない。米子の美術館で見た、よく分からない絵とか、そういうものが心に残ってたからなのかもしれないし」

そう言って、彼女は奥の部屋から自身の絵を持ってきてくれた。そして包んである紙を取ると、そこには黒い粘菌のようなものがびっしりと這っていた。

「自然を見てたらわかるけど、汚いものもきれいなものも、どっちもあって美しいってことだと思うんです。全部混ぜこぜで一緒にして、それを美しいってできないかなって思って絵を描いてます。

自然がすごく好きだったので、高校の時は環境保護に役立つような研究をする大学に行きたいなと思って、理系を専攻してたんです。でも途中で、環境を良くするって、技術じゃなくて“人の心”だろうなって思ったんです。人の心に働きかけるには、絵を描く方が有効だな、その方が役に立つなって思ったんです」

今、目の前にある彼女の絵と、彼女の言う「有効」や「役に立つ」という言葉がうまく結びつかない。もしかしたら彼女の言う「役に立つ」とは、普段僕が「便利」や「助かる」という意味で使っている「役に立つ」とは、まるで違う意味なのかもしれない。などと考えていると、話は突然、大きく飛躍する。

「『人間ってどういう存在だろう?』というのが、私がずーっと知りたいことで、気になってたんです。動物や植物や虫を見てたら、私たち人間って本当に変わってるなって思うんですよね。こうやって出会って、話して、意識を持って、何かを思い出したりもして。『私たちって何だろう?』っていう本当に根源的な問いですけど、それをずっと考えてるんです」

もう一度、彼女の絵をよく見てみる。するとそこに描かれていたのは、線ではなく小さな丸の集合だった。墨で描かれたとても小さな泡のような丸が無数に連なり、何か大きな全体を形作っている。

その絵を眺めていると、また「何で?」という問いが浮かんでくる。何で彼女はこういう絵を描いているのだろうかと。描かれた絵を前にして、僕は絵ではなく彼女のことを考えてしまう。

高校生のときに読んで影響を受けたという本、『無Ⅲ  自然農法』(著・福岡正信)

「私の絵を見て、『私たちって何だろう?』ってことを突き詰める人が増えていけばいいなと思ってて。それが、人間の存在する意味や、世界の存在する意味に貢献することなのかもしれないなって思ってます。全然何の食い扶持にもならない話だし、そんなこと考えずに生きて死んでいくことなんてすごく簡単だと思うんです。でも、そこに突っ込んでいくことが、私たちが何のために生まれたかってことにつながるような気がして」

彼女が言うように、「そんなことを考えないで生きて死んでいくことなんてすごく簡単」なのかもしれない。でも僕はこの絵を見ながら、「何で彼女はこの絵を描いたのだろう?」と考えていた。それは、「人間とはどういう存在なのか」という、とても大きな問いにつながる道の、最初の入り口に立つことになるのではないだろうか。そんな巨大で漠然とした難問に立ち向かうための具体的な入り口として、絵画は、そして芸術は存在する時がある。そして、誰かがその入り口に立った時、彼女は自分の絵が「役立った」と思うのではないだろうか。

「私は、気づかないうちに誰かからもらった、こんなヘンテコな生活に流れ込んでいったきっかけの『呪い』を、今度は誰かにかけたいなって思って、それで絵を描いてるんです」

彼女の絵を眺め、あれこれと巡らせていたその考えのひとつひとつこそ、彼女が言う「呪い」という言葉の具体的な形のことなのだと、ようやく腑に落ちた。

自分の人生を乗りこなすことは、
本来、誰もができる

「本当はもっと雑草が茫々で、鬱蒼としてたんですけど、この取材があるからってお母さんが刈っちゃったんです」

家の周りや、畑に向かう道中のきれいに刈られたあぜ道を通るたび、徳ちゃんはまるでそれがよくないことのように何度もつぶやいた。あまりにも残念そうに言うのが可笑しく、彼女はよっぽど自然のありのままの状態が好きなんだなと思う。そうして案内された田畑には、黒米や緑米といった聞きなれない作物が実っていた。彼女はここで収穫した作物をファーマーズマーケットで販売して、生計を立てている。

「この山の家で、制作しながら自給自足の暮らしがしたくって、その生活を維持するためにとりあえず農業で収入を得ようと思ったんです。でも一時期は夏場なんか1日12時間とか農作業をしてて、今思うとアホなんじゃないのって思うんですけど。だんだん“働き者の農家さん”みたいな感じになってきて。でもそれは違うなって。私は農家になりたかったわけじゃないんだから、10年目で引退しようって決めて、ちゃんと絵を描こうって思ったんです。本当にやるべきことを試さなきゃいけないなって」

そんなに農作業に時間を取られて絵が描けないのなら、わざわざ手間がかかり、収穫の少ない自然農法をなぜ選んだのだろうか。僕は話を聞きながら、そう思わざるをえなかった。すると徳ちゃんは、この2年間おこなっている菜食について話し始めた。

「今、実験的に菜食してるんです。これも『人間ってどういう生き物だろう?』ってことなんですけど。それを自分なりのやり方で、私なりにいろいろやってみてるところなんです。ただ、今の所は良い効果より悪い方に行ってるかな。少食も、実験的に減らしているんですけど、でもそれで痩せたらいけないんだけど、痩せてるからどういうふうにしたらいいかなって」

そう言って、彼女は素直にうまくいっていないことを告白する。しかしその後に「現時点では」と続けるのだ。もしかしたら彼女にとって、今の暮らし方も、自然農法も、そして菜食もすべてが現時点での実験であり、彼女が求めているのは失敗も含め、そこからしか得ることのできない経験と実感なのではないだろうか。

「自分の心や身体を、自分のものとして乗りこなして生きるって、本当はみんなできるんじゃないかって思うんです。何かに流されたり、惑わされたりしないで、自分自身を生きていく。私はそれが本当にできるかを、一個一個確認したいんです。そうじゃないと腑に落ちないから。
絵を描くって、そうやって試行錯誤して、見たものや経験したことを自分の中で熟成させて、発酵させて絵にするわけなので。それが力を持つかどうかって、私がどういう人になれるかにかかってるんですよね」

「自分自身を生きる」とは、自分に正直に生きるということだと、彼女を見ていて思う。どうしたら自分の心や体に素直になれるのか、彼女が試行錯誤しながら試しているのは、ただそのひとつのことなのではないか。

「でも、昔はもっともがいてました。あれも違うこれも違う、全部違うみたいに。もっと素直に生きたらよかったなって思います。だから今は、何も言わずに探求するしかないと思ってやってますね」

彼女に畑を見せてもらった時、最も印象深かったのは、自然農のその方法よりも、稲の間に生える星のような雑草を教えてくれた姿だった。
その時の彼女は「自然って何?世界って何?」と問うのではなく、そこに生える雑草の美しさにただ素直に感動していた。

その姿を見ながら、彼女がうまく答えられなかった、この場所でこの暮らしを選んだ理由も、ただ自分の心や体に素直に生きた結果なのだろうなと思った。

徳ちゃんのひいおばあちゃんの写真。100年近く前に撮影されたその場所に、今徳ちゃんは暮らしている。

祖父母が残した古い家にひとりで暮らす彼女を「孤独」と思う人もいるだろうか、それともそうではなく「自立」と言った方が適切だろうか。裏庭にある大きな木の前に立つ彼女を見ながらいろいろ思いを巡らせていると、ふと「自生」という言葉が浮かんだ。

何にも依らずに生きることができる人がいるのか、今の僕にはわからない。ただ、今の彼女はそれすらも試そうとしているように思える。彼女のその姿を見ていると、人の生き方や生活とは、誰かに憧れたり、誰かの真似をする必要などなく、僕は僕、あなたはあなた、その人だけのものということを強く感じさせられる。そして、その僕とあなたを分ける距離は、決して寂しい距離ではない。

僕は彼女のような暮らしを実践することはとてもできないと思う。僕と彼女の生き方は違う。でも、この山の中にそうやって暮らす人がいるということを知るだけで、勇気がわく。この山に自生するその木のような姿を、僕はこれから何度も思い出すと思う。そうすることで、自分は自分の場所で強く根を張ろうと思えてくるのだ。

徳ちゃんが幼少期遊びに来ていたときには生えていたという、裏庭に自生する樫の木。10年ほど前に越してきたときには大木になっていたそう。

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私の、ケツダン
「決断」というと、ちょっと重い。何かを決める理由なんて、きっとひとつではないから。流れる日常の中で、ふとした気付きが連なって、もしかすると自分でも自覚していない体験が重なり合って、人は動くのかもしれない。常套句ではない、正直で小さな頷きたち。鳥取県西部に暮らす9名のそんな「ケツダン」を集めました。 >>その他の記事はこちらから。

【平田オリザさん、兵庫県豊岡市・移住計画】負ける気がしない。豊岡が世界と戦える理由。(後半)

>>【前半】平田オリザさんインタビュー:「演劇」はまちの在り方を変えていく。

演劇界トップクラスの劇団ごと移住
その先に見えること

豊岡は非常にリベラルでオープンなまちです。僕の仕事からすると、まちの規模が適正で、教育にしても手応えを感じやすい。そういう意味で、まず個人的な仕事のやりがいを求めて、豊岡に移ってくるというのがありますね。

また、豊岡は地方とはいえ、劇団員が食べていくための職もあります。劇団をメインにしながらも、城崎の旅館で働いたり、農業をしたり、他の仕事をしながらも食べていくことができる環境です。いま、城崎の旅館のみなさんとも、劇団との両立を配慮していただける雇用形態について協議をしています。うちの劇団員たちは、接客はうまいので、城崎の旅館で働きながら演劇をする劇団員も出てくるんじゃないかと思っています。

今回は、僕だけでなく、僕が主宰する劇団「青年団」ごと引っ越すので、まずは、劇団員が20人ほど移住する予定で、家族を入れると4、50人になります。それで成功すれば、もっと移住してくると思います。

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市民劇みたいなもののお手伝いできると思いますが、具体的に劇団が地域に貢献できる事例をあげると、例えば城崎温泉から車で40分ほどの場所にある、出石(いずし)という地域があります。そこの課題は、観光客の滞留時間が極端に短いこと。名物である出石そばを食べたら、すぐ城崎温泉に行ってしまうことです。
そこで、出石にある近畿最古の芝居小屋「永楽館」を活用して、うちの劇団員に講談ができる人がいるので、講談をしようという話が出ています。そういう事例が増えると、お客さんが滞留して消費が生まれることにも貢献できるのではないかと考えています。

ローカル線徒歩圏内に
誕生する
小劇場

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キャプション

昭和10年に建設されたモダンな建物。ここが、劇団「青年団」の事務所と劇場に生まれ変わる。

「青年団」の事務所を移転しようと予定している場所は、豊岡市日高町にある豊岡市商工会館です。JR山陰本線の「江原(えばら)」駅も近く、利便性も良いので、案内されてすぐに決めましたね。事務所としてだけでなく、小劇場としても活用できる。

実は、ほかにも駅から徒歩5分圏内に複数の小劇場をつくりたいと思っています。近くに立派な旧酒蔵と米蔵があるので、そこを改装できればと考えています。

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創業約250年の歴史を持つ『友田酒造』の酒蔵の改装を検討中。「酒造りの道具などを残して、趣きのある空間にできたらいいですね」と平田さん。

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「利用価値を見出していただいて、使ってもらうのは喜ばしい」と、友田酒造のご主人。

お酒の醸造技術って当時とても貴重ですごいものだったんです。今でいう、化学の知識がないとできなかった。だから醸造業というのは、知的な産業だったんですね。しかも、おそらく但馬杜氏というのは、日本一の杜氏の集団じゃないですかね。
冬の農閑期は、杜氏として出稼ぎに行くので、最先端の上方の情報を見て帰ってくるんです。それが、但馬の文化を支えてきているんです。

先日、この地域の長老の方々と飲む機会がありました。以前はグンゼの工場があって、駅のこっち側とあっち側に多くの商店があったようです。その方々は、当時の賑わいを知っています。なので、うちの「青年団」の移転は最後のチャンスだと(笑)。
ただ、外国のアーティストもたくさん来ることになるので、少し不安そうな空気になったのですが、ある方が「昔はグンゼの工場があって、日本中からたくさん働き手が来て盛り上がっていたのがそもそもの江原なんだから、それが海外からに変わるだけだ」と言われたんです。それは頼もしかったですね。
でも、僕は江原の方たちに言ったんです。「うちの会社は零細企業なので、経済波及効果はそんなにないです」と。「ただし、劇団員は宵越しの銭は持たないので、消費はします」と(笑)。

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世界最大の演劇祭を。
豊岡なら世界と戦える。

具体的に構想しているものとしては、2019年から豊岡で国際演劇祭の開催です。それを20年かけて「アビニョン演劇祭」(南フランス)に匹敵する演劇祭にするというのが目標です。「アビニョン演劇祭」というのは、世界最大の演劇祭なんですが、アビニョン自体は、人口9万人ほどの小さな城壁都市です。一方、豊岡も人口8万人ほどですから、規模としても似通ったイメージが持てます。

その「アビニョン演劇祭」では、1カ月間に1,000以上の演目をやるんです。そのうち、演劇祭がお金を出して正式招待作品として呼んでいる演目は、20、30ぐらい。それ以外は全部フリンジと呼ばれる自主参加の劇団による演目です。朝の9時から3時間おきに演目があって、まち中の納屋とか教会が全部時間貸しをしていて、それらが全部劇場になるんです。

その期間中は、建物の所有者は外にバカンスに出ていて、そのあいだ家賃収入も入ります。そこに世界中のアーティストが集まってきて、ちょっと評判になるとブロガーたちが見に行きブログに書いて、世界中のプロデューサーも来ているのでその情報を聞きつけて、実際に演目の内容が良いと翌日アビニョンのカフェで商談が始まる。そういうフリンジ型のフィスティバルを豊岡につくりたいと思っています。

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城崎国際アートセンター」には、世界各国の識者が訪れますけど、誰が見ても「ここなら、アビニョンのような国際演劇際ができるかもしれない」と言うんです。なぜなら、規模が適正で、宿泊施設があるから。例えば、同じ豊岡市内の神鍋(兵庫県北部を代表するリゾート地)は、スポーツ合宿のメッカなので、宿泊施設が充実してる。そういうのが揃っていて、これだけのコンパクトさにまとまっているというのは、世界中探してもそうそうありません。

“負ける気がしない”。勝ち目があるから移住するんです。だから、ここでのんびりして引退するつもりはさらさらありません。もはや、僕は東京の演劇界の中で競争することに関心はない。それよりも、豊岡を拠点にすれば、ダイレクトに世界と戦える。そして、演劇は豊岡で観光、鞄、農業に次ぐ第四の輸出産業になると思っています。

日本で唯一、演劇やダンスが本格的に学べる
国公立大学が豊岡に開校 

2021年の4月になりますが、豊岡に県立大学が新設されることになっています。観光とアートに特化した専門職大学で、わたしはその大学の学長候補となっています。

この大学の売りのひとつとして、日本ではじめて国公立の大学で演劇やダンスが本格的に学べるというのがあります。かつ、観光とアートや文化をクロスした事業をマネジメント出来る人材を育てていくのが大きな目的です。観光とアート、それにスポーツ。それらを一体とした観光文化政策を立案できる人材が日本にはまだまだ不足していますから。

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しかも、専門職大学ができると演劇のワークショップなどができる教員が20人くらい地域に来るわけです。今、高大接続といって、大学の教員が高校に教えに行くのは普通の事ですので、そういった大学教員が高校にも教えに行くことになります。そうすると、高校においても、おそらく日本で最も高度なアクティブラーニング(生徒が受動的ではなく、能動的に学ぶことができる学習プログラム)ができる地域になると思います 。

また、城崎国際アートセンターに国内外のアーティスト達が常に滞在することで、それがまちの新たなコミュニティ層となり、おもしろい化学反応が生まれているように、大学ができることで、アートを志す学生が1学年80人の4学年で320人、加えて教員も合わせると400人くらいのコミュニティが新たに入ってくるわけです。
多様性を受け入れ、それをまちの活力にしていくという方針の豊岡において、このことは、ただ大学ができるといった意義以上に、新たな展開を生むだろうと思っています。

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>>【前半】平田オリザさんインタビュー:「演劇」はまちの在り方を変えていく。
>>【募集中!】平田オリザさんが指導する「コミュニケーション教育」ワークショップ@東京、12月21日(金)22日(土)参加者募集中!

 

看護師として恩返し。「町のために」が受け継がれる場所<鳥取県・日野町>

だんだん芽生えてきた、
「町のために」という思い

鳥取県西南部の人口わずか3100人の町、日野町。その中心を流れる日野川にぐるりと囲まれた場所に「日野病院」はある。21の専門診療科があり、手術や透析をはじめ、MRIなど大病院では受けるのに何週間も待たないといけないような検査も、ここではすぐに受けることができる。
また、公共交通機関が少ないエリアへの送迎や、訪問診察や看護・リハビリといった在宅医療にも力を入れ、「出かける医療・近づく医療」を実践している、町民からの信頼が厚い病院だ。

朝の日野病院には、副病院長である生田さんの姿がある。毎朝7時半から受付機の横に立ち、患者さんを出迎えるのが生田さんの日課だ。

「ここにいるとね、顔を覚えてもらえて、自分らも患者さんの顔を見ると何科に行かれるかわかるから案内して。日頃からそういう関係を作っておくことが大切かなって思うんです」

生田さんが日野病院で働きだしたのは、今から15年ほど前。当時約6億円もの赤字があったという日野病院再建のため、役場の財政係にいた生田さんは日野病院へと派遣されることになる。その頃は健康で、病院に行くこともほとんどなかったという生田さん。全く未知の分野で、莫大な赤字経営の立て直しに奔走する日々は過酷を極めたという。

しかし、町民の顔が直接は見えづらかった役場の仕事と違い、自分のしたことがダイレクトに跳ね返ってくる病院での仕事に、徐々にやりがいを感じるようになっていった。そんな生田さんだが、約5年前、息子さんが地元・日野町に帰ってくることになったとき、町の危機が自分ごとになった。

「中学を卒業して、高校も大学も就職先も鳥取県外だった息子から『日野町に帰る』と言われたときに、『就職先ないぞ?』って焦りました。結局役場に勤めることになったけど、このままだと日野町自体もいつどうなるかわからない。そのとき初めて、次の世代のためにも町をしっかりせんといけんと思いました」

「日野病院」の副病院長、生田哲二さん。「あのまま役場の中でずっと計算ばかりしとったら、どんな人間になってたんだろう。ここで町民さんから感謝されてよかった」と、悪戯っぽく笑う。

生田さんは、町一番の事業所である日野病院が、町民から愛され、黒字になって元気を取り戻すことが、町全体の活性化につながるのではないかと考えた。そして、生田さんが行ったのが、人を育てることだった。

たとえば、中高生が看護を体験できる機会や看護学生の実習を積極的に受け入れ、丁寧で雰囲気の良い指導に努めた。緊張でガチガチの学生は、のびのびと実践させてもらえると自信がつく。次第に、「日野病院で実習をすると、見違えるほどしっかりして帰ってくる」と、看護学校の先生が生徒に日野病院への就職を薦めるようになったという。

チームの一員として働く美紀さん。撮影するときには皆さん下をむいてしまったが、ナースステーションは、緊張感の中にも、親戚や姉妹といるようなあたたかい雰囲気に満ちていた。

また、日野病院で学べない技術は、大学病院と連携して補える新人研修制度も整えた。評判が評判を呼び、来春2019年度に採用する新人看護師は、募集人数の5名を大きく上回る11名となった。これは、過去13年の看護師不足を解消する快挙だ。働く若い人が増えれば、日野町に住む人も増え、町の行事も活気づく。「役場ではなかなかできなかったことが、ここでならできると思った」と、生田さんは言う。

「日野町図書館」の出張ブース。本の貸し借りが気軽にできるようにと、町のいろいろな場所にある「よらいや図書館」が日野病院内にもある。場所に合わせて司書が選書した本が2、3カ月ごとに入れ替わる。

外来の待合室のインフォメーションシステム。待ち時間が長いという患者さんの声を反映し、待合室から離れていてもスマートフォンやPCから順番を確認できるシステムを導入している。また、画面下には病院からの情報を掲載。駐車場でライトがつけっぱなしになっている車があるときなども、ここで知らせているそう。

病棟のデイルームで息を飲みテレビドラマに集中する患者さんは、まるで自分の家にいるように寛いでいる。病院は本来病気を治す場所で、入院生活は心身ともに決して楽なものではない。しかし、病院全体が家族のように暖かいこの場所にいれば、そのしんどささえ軽減されるように見える。

「町民さんから、直接『ありがとう』って言ってもらえるから嬉しいですね。若い頃は仕事に一生懸命で、次は家庭や子どものこと。それらが落ち着いてくると、今度は町のためにっていう気持ちがだんだん生まれてくるんだと思います。私はそうでしたね」

生田さんは、少し遠くを見つめてから笑った。

自分の好きなところが、
ここだった。

そんな日野病院に、今年の春、日野町で生まれ育った一人の女の子が看護師となって帰ってきた。美紀さんは、笑うと歯科衛生士である姉仕込みの規則正しく並んだ白い歯が覗く、ハキハキと喋る女の子だ。

小さい頃から喘息で病院にかかっていた美紀さんは、看護師と接する機会が多かった。また、日野町はソフトテニスが盛んで、美紀さんも小学校2年生から始め、高校では全国大会で1位になるほどの腕前。ソフトテニスに真剣に打ち込む日々は、怪我とも隣り合わせだった。彼女は医療と身近に関わっていくうちに、自分も看護師になりたいと思うようになる。

「中学1年生の時、大事な試合直前に指を骨折しちゃったんです。試合は諦めて手術することになったけど、私が出ないとペアの3年生の先輩も出られない。やっぱりどうしても試合に出たいって思って、手術する日の朝に日野病院に『キャンセルしたい』って言いました。
手術したらラケット握れないけど、骨折しててもガチガチに固定すればラケットは握れたんで。病院にはすごい迷惑かけちゃったなと思うんですけど、お医者さんも、『試合に出たいなら、出ればいいよ』と言ってくれて。その試合で勝って全国大会が決まったんで、結果を出せたから良かったですけど(笑)。中学の卒業文集には看護師になりたいって書いていたから、たぶんその頃から思っていたのかな」

淡々と話す美紀さんだが、当時の壮絶な日々が伺えた。そんな美紀さんの思いを尊重して、怪我を治すだけでなく精神面もサポートしてくれる医師や看護師は、彼女にとって心強い存在だったのかもしれない。

美紀さんが小学校2年生のときから通っていたテニスコートは、日野病院のすぐ横。日野町はソフトテニスが盛んな町で、美紀さんのお母さんもお兄さんもお姉さんもやっている。

高校卒業後、ペアを組んでいた相方は東京の大学でソフトテニスを続けたが、美紀さんは看護師になるために鳥取市内の専門学校へ進んだ。そして、専門学校卒業後は日野町へ帰ってきた。中学校の同級生の女子11名のうち、現在日野町に暮らしているのは美紀さんともう一人と、少ない。
しかし、仲間の多くが鳥取県県外に出ていくことも、相方の大学での活躍も、美紀さんはどこ吹く風だ。

「実家が好きだから、都会に出たいとはまったく思わなかったですね。テニスでお金が稼げるわけじゃないし、私は看護師になりたいってのがあるから、趣味でやれればいいかな」と美紀さんはさらりと答える。そんな迷いのない美紀さんだが、故郷日野町にいたいと改めて感じたできごとがあったという。

「ひいおばあちゃんが亡くなったとき、看護学校で鳥取市内にいたからすぐ帰ってこられなくて、最期が看取れなかったのが悔しくて。日野町にいれば、家族に何かあっても近くにいられるから。近所に住んでいるおばあちゃんの料理が食べたくて、今も休みの日によく遊びに行きます」

小さい頃から美紀さんをかわいがってくれたというおじいちゃんとおばあちゃん、そしてご両親も、日野町に帰ってこいとは一度も言わなかったという。言われていたのは、「好きなところに行きなさい」。美紀さんにとってはそれがここ日野町だった。

看護師として働く美紀さんは、患者さんから「おっきくなったなー」、「今日も美紀ちゃんが来たわ」と言われるそうだ。松本という名字は日野町に多く、「あんたどこの松本だ」と聞かれて答えると、「ああ、あそこの娘か」と祖父の名前で話が通じることもあるという。
自分を祖父母の代から知っている人たちの中にいること、常に誰かが見守ってくれること。それは、安心できる反面、ともすると窮屈に感じることもありそうだが、美紀さんはその温かさに身を委ねている。

「これから看護師っていうかたちで何か恩返しできたらいいなって思ってます」

美紀さんは、「日野町で看護師をする」という自分なりの恩返しのかたちを見つけた。思いをかたちにする、そのかたちは色々あっていい。

 

「あなただったら、大丈夫」
受け取り、返して、循環する

美紀さんは現在、お父さんとお母さんと実家で暮らしている。お母さんとは、休みの日に映画を見に行ったり、買い物へ行ったりするほど仲がいいそうだ。取材当日、お母さんが同じ日野病院で管理栄養士として働いていると聞き、お母さんからも話を聞くことができた。

「試合で負けるのはいいんですけど、中途半端な負け方をするとすっごく腹が立ってね。もう応援に行かないぞって思うけど、また試合があるとつい行っちゃうんです」

お母さんは、休みのたびに県外で行われた美紀さんの試合のために、早朝に起きて送迎した日々を笑いながら振り返る。おっとりとした柔らかい口調のお母さんだが、ご自身も昔やっていたというソフトテニスの話になると熱が入る。

美紀さんが小さい頃、お父さんは単身赴任で、お兄さんとお姉さんは歳が離れていたため、美紀さんとお母さんは二人で過ごす時間が長かった。過ごした時間と関係性の親密さが必ずしも比例するわけではないが、ふたりを見ていると一緒にいた時間を感じずにはいられない。
それは、看護師になりたいと確信したのはいつですか?という質問に答えてくれたときもそうだった。今まで、自分のことばを持ちサバサバと受け答えしていた美紀さんの声がはじめて揺らいだ。

「看護学校の学費を払うためにお金を工面してくれているお母さんの姿を見て、思わず『ごめんね、ありがとう』と言ったんです。そうしたらお母さんが、『あなたなら大丈夫よ』って。看護師はいのちに関わる仕事だし、今までソフトテニスばっかりやってて、ぜんぜん勉強してこなかったから、自分にできるかなって不安があったんです。だから、母が自分を信じてくれたことが、すごく嬉しかったです」

仕事をしながら子育てをしていたお母さんにとって、美紀さんがしっかりと育ってくれたのは、いつも面倒を見てくれていた父方の祖父母の存在が大きいと話してくれた。

「おじいちゃんとおばあちゃんは、義務じゃなくて美紀を本当にかわいがってくれました。いつも『子どもっていうのは、かわいがってやるもんだよ』って言っていて。それを思い出すたびに、自分も孫をかわいがってやらないとなあって思うんです。当たり前のことなんですけど、言われなかったら気づいてなかったかもしれない。だから、今でもすごくありがたいなと思っています」

目を潤ませながら一言一言噛み締めるように話すお母さんを、美紀さんは隣で「また泣いてる」と呆れたように笑いながら眺めている。その目からは、ベタベタと距離が近すぎるのではない、お互いを信頼した安心感が伝わってくる。

美紀さんは、休みの日には姪っ子や甥っ子の面倒を率先して見ているという。祖父母がかわいがってくれた思いは、美紀さんのお母さんに、そして美紀さんにも自然と伝わっている。美紀さんは「恩返しをしたい」と言っていたが、彼女が人からの厚意を当たり前ではなくしっかり受け取って、今度は自分が返したいと素直に思える理由がわかった気がした。返す相手は、それを与えてくれた相手だけではないのだ。気持ちのよい循環に、胸が熱くなる。

美紀さんは、祖父母や家族をはじめ、小学校2年生から始めたソフトテニスの仲間や先生、先輩後輩、地域の人、たくさんの人に支えられてきた。そして彼女は今、日野町で看護師というかたちで恩返しをしている。同じように、今は日野町にいない人たちも、日野町で育まれてきたものを今自分がいる場所で返していけたら、それが故郷日野町を誇りに思うこと、日野町からもらった恩を返すことにつながるのではないか。

町全体が家族みたいな日野町で育った美紀さんは、今日も故郷日野病院でかわいがられながら、看護師として奮闘している。

(Special Thanks:景山享弘元町長)

【平田オリザさん、兵庫県豊岡市・移住計画】「演劇」はまちの在り方を変えていく。(前半)

多様性を理解し合う社会のために
「演劇」がもたらすもの 

僕が約20年前から取り組んでいる「演劇教育」は、演劇の表現方法を通してコミュニケーション能力を育成していくこと()が目的のひとつとされていますが、根底にあるのは多様性理解を促すことです。演劇が教育に本格的に取り入れられたのは、戦後のイギリスです。イギリスが植民地を失い、植民地の支配層や現地に滞在していたイギリス人が母国に戻ってくる過程で、地方都市がものすごい勢いで多民族化、多国籍化していった。そのままいくと、社会が崩壊するというほどに。
その時に目を付けたのが「演劇」なんですね。「演劇」というのは、一時的とはいえ、自分とは違う価値観を持つであろう他者を演じます。それを「教育」の現場に持ち込み、多様性を理解し合う社会を作ろうとしました。

いちばん「演劇教育」が盛んなのは、カナダやオーストラリアなどで、今でも移民が多い国です。まだ英語もできないような状態の移民の子どもたちに、いわゆるおいしい役とかおいしいセリフを与えて、演じてもらいます。そうすると、それがクラスの中でウケるんですよね。
本人はその経験から自信がついて、積極的に英語も喋れるようになり、その後現地のコミュニティにも入っていきやすくなる、ということがあるんです。そういう「演劇教育」のプログラムを彼らはたくさん持っています。

これは、従来人類が培ってきたノウハウで、演劇は、ニューカマーの人たちや子どもたちが社会に入っていく、ある種のイニシエーション(通過儀礼)として使われてきた側面があります。ですから、市民社会を作っていく過程で、演劇とか演劇的なるものが必要とされてきたんだと思います。

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写真上:平田オリザさん。下:中高生を対象にした演劇入門ワークショップ「中・高生アートチャレンジ!」。演劇に興味がある生徒だけでなく、演劇をするのがはじめての生徒もたくさん集まった。今年は豊岡の魅力を再発見していくためのアートのお祭り『Toyooka Art Season』の一環として開催された。

公教育とまちづくりが連動する
潜在的学習能力を育てるまち

豊岡に移住を決めた理由で、ひとつの決定打だったのは、昨年子どもができたことです。僕は東京の駒場に生まれ育って、小中高とずっと公立の学校でした。僕は、子どもを通わせるのであれば、中学生ぐらいまでは公立の学校の方が良いと考えています。なぜなら、さまざまな環境や境遇を持つ生徒が集まっていて多様性があるから。

ですが、今東京の都心部では生徒の約7、8割が私立の中学校を受験する。公立の中学に進むことがイコール転落するという幻想を持ってしまっていて、それが怖いから、富裕層でなくても無理して私立の中学を受験させるわけです。要するに、東京では普通に子どもを育てられなくなっているということでもあります。

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一方で、豊岡の場合は非常に公教育の改革がうまくいっています。これは専門的な話になりますが、戦前からの反省で、教育委員会というのは独立性を保ち、行政と一線を置いてきました。それはある意味で正しいのですが、今のように地方の人口減少などが大きな問題になってくると、そうも言っていられません。
行政も積極的に教育に関わらなければいけないのですが、教育の独立性が、いまだ頑なに守られている自治体はそれができないんです。ですが、豊岡の場合は公教育とまちづくりが非常にうまく連動している。

例えば、単純に学力試験の結果だけをみると、高校入学の時点では、豊岡高校の子は神戸市の子と比べると、いわゆる“学力”は低いそうです。でもそれは、塾に行っているか行っていないか程度の差だと思っています。豊岡の子たちは塾に行っていない分、高校生活の中で、ないしは大学に行ってから自分で学びを設計できる力を身につけます。あらかじめ敷かれたレールが存在しないこれからの時代において、そのような「潜在的学習能力」こそが大事なんです。

 

コウノトリもアーティストも。
ゆるやかなネットワークが作る”コモンズ”とは?

さきほど、「演劇教育」は多様性理解を促すことだと話しましたが、別の角度から言うと、「いろんな人がいて良いんだ」、「いろんな意見を言っていいんだ」ということを子どものうちから体験させるということでもあります。

豊岡の場合、よそ者を排除しないで、どんな人でも包摂していくような、コウノトリも生きられる、アーティストでも生きることのできるまちをつくろうとしています。実際、せっかく他のところから来てもらっても、また戻ってしまうケースは非常に多いですよね。

例えば、東京からIターンなどで移住する人たちは、近所付き合いが全くない東京が嫌で田舎に越してきたいとは思っている。けれど、全部の地域行事や団体に参加しなくてはいけないのでは、と田舎のしがらみに対する恐怖心も持っています。それを行政の人に話すと「そんなわがままな」と言います。

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でも、まちがその在り方自体を変えていくことで、今までそこに住んでいた人たちにとっても持続可能な住みやすいまちになっていくんじゃないかなと思っているんです。というのは、既に住んでいる人の中にも田舎のつながりを嫌がっている人は、意外に多いと思います。そこを思い切って変えてみる。

異なる価値観を持つ人と折り合いを付けたり、言動の背景にあるものを理解できる能力・それをまちの人たちが持つことで、UIターンも受け入れやすいし、外国から来るインバウンドの人も問題なく受け入れることができると考えています。

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平田さんが芸術監督を務める「城崎国際アートセンター」。滞在制作以外にも、会議や滞在アーティストの選考などで訪れている。

ちなみに、城崎温泉にあるアーティスト・イン・レジデンス「城崎国際アートセンター」に滞在しているアーティストは、地元の方々から「アートさん」と呼ばれていて(笑)。アートさんならしょうがないわね。と、いろいろと大目に見てくれています。

つまり、異なる価値観を持つ人と折り合いをつけることができる能力を、みんながちょっとずつ身に付けていることが大事だと思うんです。ですから、旧来型のガチガチの共同体ではなくて、趣味とか食文化とか、色々な楽しみで繋がっているような、でも都会のような殺伐さはなく、近所付き合いやつながりもそこそこにある。そういうのが理想です。僕はこれを「ゆるやかなネットワーク社会」と呼んできたのですが、それが地域には必要なんです。

それは、アートマネジメントや建築の世界でも良く言われることですが、「コモンズ」を作っていくということなんです。出入り自由な場所を作っていく。本当の意味で、居心地の良いまちを作っていく。豊岡が挑戦していることはそういうことなんです。

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キャプション:ただし、後半の素材が足りないため、後半に持っていく可能性あり。

風情ある街並みがつづく城崎温泉街。「城崎国際アートセンター」で創作に没頭し、まちに出ると温泉や美味しい食を身近に味わえる環境に、世界中のアーティストから応募が殺到しているという。

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>>【後半】平田オリザさんインタビュー:「『負ける気がしない』豊岡が世界と戦える理由」

 

 

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>>【募集中!】平田オリザさんが指導する「コミュニケーション教育」ワークショップ@東京、12月21日(金)22日(土)参加者募集中!

一生やる事がある、そういう場所を求めてた。<鳥取県・日南町>

やっと見つけた“へんなところ”

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日南町は広かった。それが念願叶って初めて訪れた、日南町に対する僕のあまりにも素朴な印象だった。ただ、目の前に広がる風景は迫る山々で、決してだだっ広いという印象ではない。その谷間を縫うように道が続いている。そして隣の谷の集落に向かうには、峠を越えなくてはならない。その曲がりくねって勾配のある道を移動する時間が長いのだ。空間的な印象ではなく、時間的な実感として広い場所。つまりは辺鄙と言っていいようなこの場所を、大森幸二さんと麻衣さんはなぜ住処に選んだのだろうか。

幸二さん「自分たちは、宮崎や奄美大島でも自給自足の生活をしてきたんですが、そういう生活をもっと発展させたいと思って住む場所を探していました。山と農地、あと安心して飲める水が流れてるところを探してました。川が流れてたり、湧き水が出てたりとか。それと、できるだけ通りから見えない、ちょっと隔離されたような場所を探してました」

麻衣さん「私たちは空き家バンクに載ってるような家じゃなくて、すごい手直ししないと住めなかったり、誰も住みたがらないような変なところにある家を探してたんです(笑)」

その通り。大森さんの家は林道を逸れて、そこからさらにずんずんと進んだ先にある。空き家だったその建物は、二人が求めていたように通りからはまるで見えない。そして家の前には澄んだ小川が流れている。しかしこんな「変なところ」が簡単に見つかるものだろうか。

幸二さん「移住支援員の方にすごい世話になって、自分たちの話を本当によく聞いてくれました。おもしろかったんでしょうね。すごい笑ってたもんね。『え!そんなところがいいの? あるよ! あるよ!』って、周りの人にも相談してくれて。それだけで人の良さを感じて、日南町はいいところだなと思いました」

麻衣さん「私の方がぐいぐい質問とか相談してたんですけど、そういう積極的な奥さんあまりいなかったのかもしれないです。旦那さんは自給自足の生活をしたいけど、奥さんと子どもはそういう生活にはついていけないみたいなパターンも多いから。本気度が伝わったのかもしれないです」

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通りから入ると、その先はほぼすべて大森さんの所有する土地になる。一番手前には老朽化した建物(写真上)、そこを通り過ぎて小川を渡ると、大森さん家族が暮らす家がある。

キャンプ場を転々としながら、なかなか理想の場所が見つけられず、かなり追い詰められた時期もあったという二人は、支援員の方や地域の方とのやりとりに精神的にも助けられたという。

幸二さん「いろんな場所で力になってくれる方はいたんですけど、日南町の人は特にすごい親身になってくれて。他のところに比べると、この辺の人たちって閉鎖的な感じがしない。心が豊かなのか、すんなり受け入れてくれるような気がするんです」

麻衣さん「観光地みたいな売りのある、人が集まる場所がいいのか、何もないけど自分たちの土地がある方がいいのかって、いろいろ考えたんです。奄美大島とか観光業がメインのところは、観光に関することに支援が手厚いんです。日南町には特に何もなくて、でも人が暮らすところだから、暮らすために、人のために支援しているっていう感じがしています」

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薪を作り、パンを焼く。
生きることを作る

幸二さんは千葉県の、麻衣さんは埼玉県の、ともに生まれ育った環境はごく普通の住宅街だった。

幸二さん「自分は幼稚園の頃から周りの環境に違和感みたいなものを感じていて、途中から行かなくなったんです。小中学校はもう地獄のように感じてました。周りを見てて、自分もこのまま決められたレールに従ってずっと生きていくんだって思ったら絶望的な気持ちになって。社会に出てからも、常に自分の中に矛盾みたいなものを感じてるところがあって。もう本当に心を病んでしまう時もあったんです。それで、もう自分はお金なんて一切いらない、社会とも関わらないみたいな、極端になった時期があって。それがきっかけで、こういう暮らしを始めたんです。そうしたら、やっと幸せを感じられるようになって。自分は今まですごい息苦しい人生を送ってたけど、あれは自分の人生じゃなかったんだって」

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麻衣さん「私は育った場所がすごい好きってわけではないけど、別に反発みたいなのはなかったんです。でも一度田舎で暮らし始めたら、その暮らしの方がよくて。千葉県の南房総にもいたんですけど、そこでの暮らしは友だちといえば近所のおばあちゃん。畑をやってる輪の中にいてすごく楽しくて、何でも教えてくれました」

幸二さん「この暮らしを始めた時に、『あ、自分らお金がたくさんなくても生きていけるんだ』って、すごい自信になったっていうか、どこかにお金を稼ぎに出なくても生きていけるって思ったらすごい楽になりましたね」

麻衣さん「みんな田舎に暮らすときに、『仕事がないと暮らせない』って言うけど、それがうちにはないんです」

こうして二人は各地で暮らしながら、自給自足で生きる術を身につけていく。今では畑も田んぼも、機械を入れなくても充分な収穫ができるまでの腕を身につけたという。しかしこう聞くと、社会と隔絶して自分たちだけの楽園を作ろうとする人たちに思えるかもしれない。

麻衣さん「一時は人とは付き合えないくらい極端な生活をしてました。皮や化繊のものとか、電化製品も一切使っていませんでした。でも、すごいやりすぎるとそれが本当にしたいことなのか、これで生活が楽しいのかなって思うようになって。それで自分たちが心地よく、楽しくできるラインに戻ってきました」

幸二さん「まあ性格ですね。すべてにおいて、行くところまで行ってちょっと戻るみたいな。そういうことに、ここ10年かけて気づきました」

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生きていくための作業。
自分たちの土地を切り開く

つい昨日床の張り替えが終わったというリビングには、冷蔵庫や洗濯機など、よく見慣れた電化製品がひととおり揃っている。長女の瑚麻ちゃんは、僕たちのためにAKB48の歌をフルコーラスで披露してくれる。これまでの大森さんの自給自足のストイックな話を聞いていると、この光景は少し奇妙だが、でもこうしたどこにでもあるもののひとつひとつが、こちらの緊張を解いてくれることも確かだ。

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幸二さん「今は家の掃除と、冬支度が毎日の仕事で。今まで時間に縛られる生活をしてこなかったので、朝起きて今日何しようかなって決められたんですけど、この子が保育所に行くようになってから、みんなが朝6時に起きるようになって。まず火を熾して、米を炊いてって」

幸二さんは毎日、車で往復一時間かかる保育所に瑚麻ちゃんを送迎している。

「彼女を保育所に通わせてるのは、彼女にも選択肢があったほうがいいかなって思ったからです。一方的に僕らのこの暮らしを押し付けるのではなく、社会性があったほうがいい。それでどちらがいいのかっていう、その判断は彼女に委ねたいと思います」

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さっきまで強く降っていた雨があがると、幸二さんは外に出る。麻衣さんは台所に立ちお菓子を作り始める。この暖炉でゆっくりと焼き上げられたスコーンが本当に美味しかった。僕は大人気なくも、無心になって次々と頬張る次女の弥麻ちゃんの手から奪い取るのを必死に我慢していた。すると「お父さんの音だ!」と叫ぶ瑚麻ちゃんの声で、濡れた森に響き渡るチェーンソーの音に気づく。

幸二さん「周りの木を程よく間引いて、切った木は乾かして来年の薪にして。畑はどこでもよくて。家の裏はすごい広くて、伐採すればどこでも畑になるので」

麻衣さん「衛星写真でしかまだ確認してないんです(笑)」

幸二さん「草もすごいし、伐採しながらじゃないと入っていけないんです。全部で12,000坪あるんで。早く全部山の中を見て歩きたいんですけど、春にならないと行けない。だから田植えも来年はどうかな。まだ田んぼがおこせてない可能性もあるんで」

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これはもう移住ではなく、開墾と言ってもいいのではないだろうか。新天地を求めて移り住み、自分たちの土地を切り開く。彼らがやっているのは、暮らしを一から作ること、つまりそれはこれからここで生きるための作業だ。

幸二さん「昔からものを作るのが好きで、今は生活を作ってる。このまわりをきれいにして、自然と人が共存できるような空間を作るっていうのが何よりも楽しいですね。それ自体が自分の生活なので。今はそれがやりたいことだし、自分の生活だと思ってる」

文字通り彼らは「その手で」薪を作り、パンを焼き、生きることを作っている。

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すべてがある、何もない場所

僕は「移住」と聞くと、多くの人はなるべく住みやすく、できるだけ整備されて、そして便利な場所の方を選ぶものだと思っていた。大森さんたちを案内した支援員の方が、彼らの要求を聞いて驚いていたことからもわかるように、移住を受け入れる側もなるべくそういった環境を提供しようとするだろう。しかし大森さんたちは、ことごとくその逆を求めていた。彼らにとってここは、放置された木々が鬱蒼と生い茂る、面倒くさい森ではなく……、

幸二さん「この家の周りの環境は理想通りでしたね。森の中で、川があって、山もあるし、農地もいっぱいあるし、すべて揃ってた」

麻衣さん「ここは手付かずの場所だったのがよかったんです」

と、何もないのではなく、すべてがある場所に見えたのだ。もしかしたら支援員の方も、価値がないと思っていたものに、彼らが価値を見出してくれたことが嬉しかったのかもしれない。

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幸二さん「今までもこういう暮らしをしていると、3、4年くらいでなんとなく生活が形になって、これ以上やりようがないっていうところまでいってしまうんですよね。自分の土地じゃないと、どこまでやろうかを考えてしまって。

だから広大で、一生自分のやりたいことがやれる土地を探してたんです。すごい先になると思うんですけど、自分たちで作った作物でご飯を提供して、宿泊もできる場所を作りたいなと思ってます」

麻衣さん「あと10年かかるか、いや一生、死ぬまでに終わるかどうかみたいな感じですけど(笑)」

幸二さん「でも一生やることがある、そういう場所を求めてたんです」

そう言い切る彼らを、僕は羨ましく思っていた。

今やっている仕事が明日に繋がっていること。その明日はその次の、またその次の明日に一歩一歩繋がっていること。そしてそれが一生という長い時間へと姿を変え、さらにその先にまで伸びていく。

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幸二さん「小さい頃に、友だちが夏休みにおじいちゃんおばあちゃんの家に遊びに行っていたのが羨ましくて。自分は住んでる場所しかなかったので、寂しかったんです。だから自分の子どもには、こういう自然豊かな環境で育ってほしいっていうのがありました。もしかしたら彼女たちが大人になって都会に出るかもしれないけど、でもいつでも帰ってきたら食べ物はまちがいなく作れる場所はあるよっていう、そういう場所を残してあげたかった」

麻衣さん「何を残してあげられるかって言ったら、安心して食べられる食べ物があるってことが一番だなって思ったんです」

日々の営みが、確かに未来へ繋がっているという実感を持てる生活の美しさ。そんな彼らの暮らしの一歩目を見せてもらえたことが、僕は嬉しかった。

そういえば、日南町の冬って雪がすごいそうですね、大丈夫ですか?といらぬ心配をする僕に、幸二さんは「それすらも楽しみですね」と笑いながら言った。

いつになるかはわからないが、ずっと先にまた日南町を訪れた時、気立ての良い姉妹が優しく出迎えてくれて、美味しいコーヒーとスコーンで旅の疲れを癒してくれるに違いない、とそんな妄想を抱き、チェーンソーの音が小さくなるのを聞きながら僕らは森を後にした。

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生きるために織る。切実さをたずさえた、女の手仕事。<鳥取県・南部町>

暮らしの中にピタっとはまった
火のある暮らし

のどかな里山風景の中、沢沿いをすすみ、車が通れる道の最後に奈々美さんの家がある。2年ほど前から、夫の邦彦さんと白猫のレオ、鶏2羽と暮らしている。茅葺き屋根の厚みが冬の雪深さを物語る、ここ鳥取県南部町は奈々美さんの生まれ故郷でもある。玄関先の小屋には、どっさりと横たわるビワの枝。土間にあったかまどの上には、大きな鍋が置かれていた。中身を聞くと、「近所でとれた栗の皮を煮出したもの」だという。

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「南部町にもどってきてから、染め物をはじめたんです。自分でもまさかこういう道にいくと思ってなかったんですけど、家の周りに材料はたくさんあるし、南部町には植物染織の先生がおられて、2年前からその方に教わって、自宅でもやるようになったんです」

ツツジの木と葉っぱ、藍、葛、ヤマブドウの皮、アカソ、ビワの葉、セイタカアワダチソウ。奈々美さんが染料の材料にするのは、家の近くで採ってきた山や野の植物。

「家に帰る前に、近くに生えている植物を刈ってきて、ご飯を作るために薪をくべて、火をおこして。その上に鍋をぼんと置いて煮だして、煮詰まったら糸か布を入れて、そのまま冷まして、一晩おくんです。次の日に媒染させて色を定着させるんですけど、かまどを使って火の生活をしているとそれがすごいうまく流れるんですよ。ご飯も染めも一度にできて、一石二鳥!(笑)」

自給自足が当たり前だった時代、農家の女性たちは、家族が身につけるものをつくるために、日常的に草木で糸を染め、布を織っていた。昔ながらのかまどの前に立つ奈々美さんの、ごく自然に手を動かす姿を見て、当時の名もない女性たちの手仕事を想った。

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左から、藍、セイタカアワダチソウ、アカソで染めた糸。媒染を、鉄にするか銅にするかで発色が大きく異なる。藍は媒染材を使わず、空気中や水中の酸素によって色が定着していく。

「染め上がるたびにいつも、わーこんな色なんだって感動するんです。たとえば、茶色に染められる植物っていっぱいあるんですけど、ひとつとして同じ色にはならんくて。ピンクも、水色も、似てるけど違う。同じ植物でも季節によっても染まり方が違うし、花が咲く前と咲き終わった後でも違う。温度とか、採れる場所、土の養分でも違うんです。ほんとに自分でやってみないと分からない」

それは憧れの実現でもなければ、誰かの期待にこたえるためでもない。奈々美さんの手は、何かに突き動かされるかのように動く。繰り返し根気強く、植物と大地と、自分の感覚を一つずつ確かめる、まだ見ぬ世界に分け入りその奥深さを掴みたいという情熱は、奈々美さんのこの小さな体のどこから湧いてくるのだろう。

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少し濃いピンク色はヤマブドウ、薄いピンク色はビワ。左の茶色はツツジの木と葉、右の茶色はアカソで染めており、近しい色でも異なる植物を使って染めている。

いまをつくる土台でもある
心が荒れた学生時代

奈々美さんの実家は、今暮らしている家からわずか5分ほど坂をくだったところにある。お父さんは車屋を営み、現在はお兄さんが継いでいる。看護師だったお母さんは、8年前から、おにぎり定食をメインにした「カフェ・ド・穂のか」をひらいている。奈々美さんは、28歳まで実家で暮らしていたという。進学や就職で、故郷を出ることが当たり前だった世代の中で、南部町を出たいという気持ちはなかったのだろうか。

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「実は私、子どものときから足が速くて、小学校から高校までずっと陸上をやっとったんです。陸上が強い中学校に行くために、お父さんは南部町に残って、お母さんとお兄ちゃんと一緒に境港市に引っ越して。家族にいろいろしてもらったけん、陸上以外で自分が何かしようと思っても、家族にたくさん迷惑かけたけんな、ってなんとなく後ろ髪ひかれて。その時は、『それでも私はやるんだ』っていう勢いが持てるものがなかったんでしょうね」

朝6時に家を出て、夜9時まで練習という生活を続けた、中学・高校時代。家族も先生も友達も、何の疑いも持たずに彼女の才能を支えた。しかし、「やるしかない」というたった一つの選択肢が、10代の多感で繊細な心と体に重くのしかかる。

「小学校の時は走ることがめちゃくちゃ好きだったんですけど、中学生になってから精神状態が崩れちゃったんですよね。せっかく引っ越したんだけん走らんといけん、やり続けんといけんって。中1の時点で辞めたかったけど、辞めれんかった。でも成績はずっと県で一番で。そんな生活を続けていたら、高校で拒食症になって6キロ痩せました。でも、振り返ってみると、あそこで陸上を辞めていたら、私はいまここに居ないから、やっててよかったんですけど。でもただしんどかったです、ずっと」

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奈々美さんは誰よりも耐え抜く力を備えてきたのだと思う。どんなに苦しくても、自分が納得いくまでやり切る。その強さは、彼女の身体能力を高め、周りの期待にこたえ、そして自分自身を苦しめた。どこまでが我慢でどこからが甘えなのか、その境界線は、本人もそして他の誰も分からなかったのだと思う。

一度荒れてしまった柔らかな心は、高校を卒業して陸上から離れてもすぐに晴れることはなかった。

ここではないどこかを求めて。
少数民族との出会い

煮えきれない想いを抱えたまま、お父さんが営む車屋さんの事務を手伝って過ごしていたある日のこと、奈々美さんは、雑誌でみかけた写真に心を奪われる。それは、中南米の山岳民族の衣装だった。

「着るものとか、身に付けるものにもともと興味があったから、その民族衣装をみてどうしても直で見たいって思って。だけん、23歳のときに旅に出たんです。

私たち日本人って、今はもう伝統的なものを着てないですけど、少数民族の人たちって、身につけているもので、自分たちの意志を主張しているというか、アイデンティティがあるんですよね。それって、めっちゃかっこいいなって感激したんです」

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染めの美しさ、大胆なデザインや刺繍の繊細さ、それをまとう人々の堂々とした姿に魅了された奈々美さんは、その後も世界各地を一人で旅した。中でも、ネパールに暮らす山岳民族のある家族の家には、3カ月滞在して日本に帰るという生活を繰り返し、6年間通ったという。
朝、川に水を汲みに行って、火をおこして、ご飯を作って食べる。食べ終わったらお皿を川に持って行って洗って、そのついでに洗濯をする。衣食住において、すべてを自分たちの手でつくる彼らの日常。

「楽しいけど、やっぱりずっと満たされない。何をやっても満たされないんですよ。自分の根本がちゃんとしてないから。常にここじゃないどこかに、居場所を探しとったんだと思います。

でも、結局何がしたかったかといったら、“生活”がしたかったんですよね。ある日、『あれ、これって日本でもできるじゃん』って気がついて。日本に帰ったら、家を見つけようって思ったんです」

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20代の“6年”は長い。満たされないと思ったら、長くても2、3年で旅を辞めそうだ。でも奈々美さんは、「私の興味があるのはこれじゃなかった」と手放すことなく、その先を探し続けた。本能的に気になったことから目を逸らさず、自分の心と体ではっきりと腑に落ちるときまで、繰り返し何度もやってみる。それは、10代の頃から、傷つきながらも貫いてきた、奈々美さんの揺らぐことのない骨格なのだと思う。

日本で家を探す、そう決意をした最後の旅先のタイで邦彦さんと出会い、帰国してすぐに結婚した。

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「やりたいことを全部教えてくれる人」
との運命の出会い

自分の生活をする。その確かな道筋が見えた先に奈々美さんを待っていたのは、自身も意外だったという植物染めだった。気づけば家の周りには染められる木や草花が溢れている。 持ち前の追求心に火が付き、拾ったり貰ったりしてきた植物でどんどん布を染める自分がいた。

そんな中、今年の6月に出会ったのが、染織家の村穂久美雄さんだ。その日、村穂さんは、最近見かけなくなった「ササユリ」の花が咲いていると聞きつけ、自宅兼工房のある鳥取県米子市から、南部町の「カフェ・ド・穂のか」にやってきた。そこにたまたまいたのが、お母さんの手伝いをしていた奈々美さんだ。

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村穂久美雄さんの工房で、藍で染めた糸を紡ぐ。奈々美さんは、工房のある米子市まで、自宅から片道30分かけて通っている。

「私が持っていた布を村穂先生が見て、『おまえその布どうしただ!』っておっしゃたんです。『いや、これビワで染めたんです』って言ったら、『そんなに色が出たか!』って。『3回ぐらい染め付けました』って、自分がやったことを話したら、先生が、『やっぱり物事っていうのは、「習うより慣れろ」っていう言葉があるように、とにかく自分でやることに意味がある』っておっしゃられて。その言葉を聞いたときに、ああ、習うって受け身でいることではなくて、そこから自分が発展させんといけんのだって、実感したんです」

その後、「要らん糸があるからもらいにこい」と言われ、工房へ行って以来、村穂さんから織りを学ぶことになっていった。「糸から染めるなんて思ってもみなかった」という奈々美さんは、その糸を織って布をつくっていく機織りに、一気にのめり込む。

「初めて会った頃は正直この人はなんなんだって思ってました。生きるエネルギーがものすごいんです。常に衝突、爆発してるというか。でも、すごくよく会ったんです。私は骨董市が好きで月に2回行くんですけど、行くたびに村穂先生に会う。ある日先生に、『なんで骨董市に行くんですか?』って聞いたら、『君は何で行くんだ?』って聞かれて、『古いものが好きです』って答えたら、先生は『わしは古くなくてもいい、美しいものが好きだ』っておっしゃって。先生はとにかく美しいものが好きなんです。工房は散らかってるんですけどね、はい(笑)」

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この日は、「機結び」といって、織り終えた糸と準備した糸の端を結んでいく作業。「先生はひとつ行程を進めるたびに、『えらいだろう(つらいだろう)、休むか』って言ってくださるんですけど、私はずーっとやりたかったことだから、『先生、何一つ嫌なことなんてないです、全部感激です』ってこたえてます」

村穂さんは、戦後、柳宗悦氏に啓発され山陰地方の絣(かすり)を収集してきた第一人者で、自身も天然染料の糸で手織りする染織家だ。ある日、自転車でたまたま通りかかった川に干された絣のおしめを見て、「これこそが民藝だ!」と確信し、教師をしていた村穂さんの人生は一変したのだという。
「ここにある織り機や布には全部、織ったばあさんたちの、女の人生が染み込んでるんだ。いいか、旦那は酒飲んで、ぐうたら寝とる。女は、子どもを産んで育てて、炊事と洗濯して、その上で薄暗い中糸をひいて、寒い寒い中で、旦那や子どもに、少しでもあったかくしてあげよう、どんな荒仕事でも耐えうるものを織ってあげようっていう気持ちで織る。そこには女の執念があったんだ。分かるか?この機の上で何回、女の人が泣いたかわからん。この子(奈々美さん)もいつか泣くかもしれん」

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「家の仕事もせんといけんし、親のこともせんといけん。貧乏もするだろうけど、必ず。それでもこの子はこうやって時間をかけて通って来るんだから、ね。そういう具合に取材してやってください」と、取材中奈々美さんを気遣い続けていた村穂さん。

使う人のことを思い浮かべながら、少しでも丈夫であったかいものをこしらえようとした女性たちの思いが、一糸一糸に織り込まれた布。生きることが今よりもずっと厳しかった時代、私たちが想像しても理解することができない、生きることの切実さと、美しさがあったのだ。

「90年間、人を見てきたらな、大体のことは分かる。こいつ(奈々美さん)は、『でべそ』(鳥取弁で、出しゃばる人の意)じゃない。「やりたい」という気持ちを僕は感じた。呑み込みが早いけど、少し鈍感な方が、愚図の方がいいことがある。重厚な愚図っちゅうか。だけどね、非常にクレイバーなところがある」

繰り返し何度もやってみないことには、納得して次に進めない、奈々美さんの不器用に見えて、他の誰にもない骨のある部分を、村穂さんは誰よりも感じ取っているのだと思う。奈々美さんが冬の間に自宅で織仕事ができるようにと、それまでに必要な技術を伝え、そして織り機のひとつを奈々美さんへ受け渡す予定だという。

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「あそこ(奈々美さんが暮らす南部町の古民家)でやるのは、厳しいんだて。冬は寒い。だけどね、自分の周りにある材料を、自然からいただいて使っていこうという思考、それを自分の仕事に展開しようとしてる、それは素晴らしい。これは河井寬次郎先生の受け売りになるけんな、物を作るというのは、自分をつくるということだけん。物を買うてくるっていうことは、自分を買うてくる。物を売るっていうことは自分を売る。物をつくるは自分をつくるんだ。そういう先人の教えを守らないけん」

私たちが村穂さんからお話を伺っている間、奈々美さんは工房の玄関先の掃除をしていた。それでも、ひとつの話がおわるごとに「ななさん!」と呼ぶ村穂さんの声を、奈々美さんは一度も聞き漏らすことはなかった。半世紀以上歳の離れた師弟関係にもかかわらず、二人の間にはまるで長年時間を共にしてきた同志のような、目には見えない強く引き合うものを感じずにはいられなかった。

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「もし染織で忙しくなって、お惣菜などを買ってご飯を作らなくなったら染織は辞めます。本末転倒なので」と奈々美さん。糸を染めることと布を織ることは、奈々美さんにとってあくまで生活することの一部だ。

「人との出会いって、運命だなって本当に思いました。今まで、温めて温めて温めて、10年たって、やっとはじまった。まだ行きついてないけど、でも、本気で思って願えば、いつかは絶対そのタイミングがやってくる。思っていることは叶うんだなって思いました。村穂先生に出会って」

奈々美さんに、切実さを感じるのはなぜだろうとずっと考えていた。さっきは、奈々美さんには耐え抜く力があるんじゃないかと言った。でもそれは、忍耐強さというような能力や性質ということよりも、そうじゃないと生きられないからなんじゃないかと思った。奈々美さんはこれからも、ご飯をつくるように、ただ生きるために糸を染め、布を織っていく。織り機に染みた、目に見えない女の執念をたずさえて。

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持ち寄ってつくられる、第三の子どもの居場所。<鳥取県・米子市>

居場所をもとめて、
戦っていた学芸員時代

故郷である鳥取県米子市に帰ってくるまで、水田さんは埼玉県川口市にある美術施設「アートギャラリー・アトリア」で学芸員として働いていた。そこは、作品を所有しない、保存しないというポリシーを持ち、今生きているアーティストと何ができるかを軸に活動していたという。彼女は、若手アーティストの発掘や、アーティストを小・中学校に派遣して子どもと一緒に行うプロジェクトを手がけていた。

「現場には、誰か先輩がいるわけじゃなくて、同年代の若い女性スタッフばっかりで、すごくおもしろかったんです。みんな非常勤だったけど、このままじゃいけないよねっていう思いは共通してて、専門の学芸員を置くべきだっていうのを市に提案したり、その段取りを自分たちでつけたり……。自分たちで考えて行動することができる場所だったんです。
たまにはケンカもしましたけど、それも楽しかったですね。自分の好きなことで、いろんな人とやりあって話をするのが楽しかったなあと、今になって思います」
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水田さんの口から、“ケンカ”という言葉が出てくるのに驚いた。僕の勝手な想像だが、“やりあう”という言葉に表されるような環境で過ごし、それを楽しんでいたとは、今の柔らかく人当たりの良い彼女からは想像ができなかった。

「自分の居場所を作っていこうとして、糸口が見つかりはじめていたので、その職場を離れるつもりは全くなかったんですけど、だんだんと意識が変わりましたね。仕事はすごい楽しくて、自分たちで築き上げてきた感覚はあったけれど、でもそれは自己満足なんじゃないかと。自己満足でもいいけど、狭い世界の中で戦ってることに意味があるのかと思うようになりました」

彼女は働きながら、がんばって自分の居場所を築き上げようと戦っていたという。それはもしかしたら、自分のために働いていたということかもしれない。そして、少しずつそのことに窮屈さを感じ始めたのだろうか。

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「小さい頃から、ものを見て、『なんでこういう形になってるんだろう』とかを考えるのが好きだったんです。こういう楽しみを追求するにはどういう分野がいいのかな、それはなんとなく美術なのかなという感じで学芸員になる道を選びました。
私は、ああじゃないかこうじゃないかって話すのがすごく好きなんですよ。真理を探るのを、ひとりじゃなくて誰かと共有してやるのが楽しい。でもある日、別に美術って名前がついてないところでも、楽しめるんじゃないかって思ったんです。普通にご飯を作ってて、この素材の色合いってきれいだなとか、これとこれを組み合わせるとすごくおいしくなるとかってあるじゃないですか」

彼女が言うように、美術と名前がついてないところでも心を動かすものや瞬間はたくさんある。それは思えばすごく当たり前のことだ。美しいと思うものが日常の中にあり、それをなんとかして形にしたのが美術なのだから。彼女は自分の居場所を築き上げようと戦ううちに、そんなごく当たり前の瞬間を見落としていたことに気づいたのかもしれない。

「そういうのを発見したり、誰かと共有する場所って、いくらでもあるんだろうなってことに、だんだんと気付いていったんです」

真理の追求ではなく、共有。誰かと一緒に楽しむこと。今の水田さんと話していると、彼女が本当に追い求めていたのはこちらの方だったのかなと思う。

子どもを持つと、その成長の過程でそこかしこに、「美術と名前がついてないところでも心を動かすものや瞬間」に出会う。もしかしたら、このまま狭い世界の中で戦っていてもいいのかなという疑問は、彼女が子どもを持ち、日常の中の美しい瞬間に出会うことで、少しずつ大きくなっていったのかもしれない。ただ、子どもを育てる日々はそんなに平穏で美しい瞬間だけではもちろんなかった。

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故郷へ帰る踏ん切り。
「楽しいことは作っていける」

米子市で長男を里帰り出産したのが、2012年。育休後、自分が企画したプログラムが残っていたために、「米子で働いてもいい」と言ってすでに米子市で就職を決めたご主人を残して、埼玉へ戻り職場復帰する。

ご主人と離れて、小さい長男と二人で暮らすことを、「夫や両親にはやめとけよって言われたけど、私もやりたいことあるし。自分の意地を通させてもらった」と笑いながら話す。そして、無知だからこそできたのだと、そこからの大変だった子育ての日々を素直に認める。
「仕事をしてる時間の方が楽でしたね。子どもと違ってちゃんとコミュニケーション取れるから」

今までやってきたことに疑問を感じながらも、そう簡単にそれを捨てることはできない。そして同時に、新たに生まれた環境にも待ったなしで対応していかなければいけない。難しいことだと思う。それは彼女が女性で、それが子育てだから難しいというだけではない。誰だって何かを選択するのは簡単なことではないと思うからだ。彼女の話を聞いていて、ぶれずに貫き通す形ではなく、どうしようかと揺れながら導かれる形だってあるのではないかと感じた。

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「それで、二人目の子ができたら、踏ん切りをつけて、もう帰ろうって決めました。もともとは、学芸員になってキャリアを積んでいこうと思ってたけど、米子に帰ったら帰ったで、何か楽しいことを見つけたり、作ったりできるだろうなっていう気持ちになったんです」

その決断を聞きながら、物事を変えるのは自分の意思ではなく、具体的なことなのだと思う。決断のあとで、その具体的なものが与えてくれた意味に気付き、受け入れることがある。そうやって今の自分に納得することがある。

ふたりの子どもたちが幼稚園から帰ってくる時間となり、バス停へお迎えに行く。子どもたちと幼稚園であったことを話しながら両手をつないで歩く水田さん。自分の居場所を作るために戦ってきた彼女を、その舞台から降ろしたのはこの子どもたちだっただろう。今の彼女の姿からは「踏ん切り」という言葉よりも、そのあとに続いた「楽しいことを見つけたりできるだろうな」という前向きな言葉の方を感じる。
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わたしに必要だからやる。
「ちいさいおうち」 

ちいさいおうち」の隣には、水田さん家族の暮らす家がある。もともとここはある会社の社宅があった。使われなくなったその建物の一部を、「子どもの人権広場」が月に1、2回「子どもの広場」という名前で、家庭や学校とは異なる子どもたちの居場所として提供していた。

その建物を壊して水田さんが家を建てようとした時、「子どもの広場」に愛着のある人がたくさんいるということで、その活動を引き継ぐ場所として、2016年、「ちいさいおうち」を建てることになった。そしてそれを機に、水田さんはこの場所を管理することになった。
ここでは子どもたちと誕生会や季節の行事が行われるほか、小さい頃から利用していて、今では大きくなった子どもたちが世話人となって、自然学校やワークショップなども行われている。時には憲法について学ぶ場など、子どもだけではなく、大人にも開かれた場所にもなっている。

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「両親が、がんばって20年間「子どもの人権広場」という活動を続けてきたのをそれなりに見てきたし、こっちに戻ってみると、『ああ、すごい活動をしてるんだな』って思うんですよね。でも二人ももう70代だから、いずれ引退することになる。

そう思った時に、「子どもの広場」ならできるかな、やりたいなと思ったんですよね。私も自分の子どもとの関わり方に不安になる時もたくさんあるから、ここに来る人たちに自分の子どもも見てもらって、私も見守ってもらえればいいなあって。子どもにとってもいろんな人と関われることはいいことだし。だから、よしやろう!ってはじめたというより、私にとって必要だからやるっていう気持ちで始めましたね」

米子に戻った水田さんが始めた場所作りは、自分だけのためのものではなかった。同じ思いを共有できる場所、時には誰かに頼ってもいい場所。そうやって閉じていた手を広げると、その手を握ってくれる人はいるものだ。

「誰もがそれなりに苦労はあると思うんです。ここに来て、おもてだってそういうことをみんなでしゃべったりはしないんですけど。心に抱えていることってみんな普通にあるよねっていう、弱い部分を隠さずに認めているというか。ここに継続して来ている人は、そういう弱いところもあった上で、一緒にできることを持ち寄れるっていうのがうれしい、楽しいって人たちなのかなと思います」

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気付いたらできていた
みんなの居場所

インタビュー中、学校を終えた子どもたちが続々と集まってくる。この日は、みんなでスイートポテトを作る日だった。子どもたちはお菓子を作りながら、テラスに墨で落書きをしたり、追いかけっこを始めたり、同時にいろんなことをして遊んでいる。

ある子どもが、駐車してある高級車のボンネットに飛び乗る。それを見て、僕は思わずたじろぐ。が、それを見ている水田さんは何も言わない。僕はこの場所に来てからずっと、水田さんの子どもたちへの接し方に、独特の距離感を感じていた。他人行儀というわけではないのだが、すごく親密というわけでもない。遠くも近くもない、すべての人に対して等距離。

「うまく環境に合わせて生きていける人もいるけれど、そうじゃない人もたくさんいるんですよね。たとえば、精神的な障がいがあっても、一見普通に元気に見られてしまうから、それがすごくつらいという人もいる。そういう他の人と違う部分を自分で認めるのは難しいけど、でも別にわざわざ認めたり、気にする必要もなく過ごせる場所があるっていうのは、大事だなと思っています」

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「子どもの居場所」と名付けられたこの場所に、僕が感じた距離感。それは子どもに対して、「明日から来なくてもいいし、来たかったら来ればいいんだよ、どっちでもいいよ」という構わなさ、気にしなさを含んだ距離感だ。そしてそれは、この場所に風通しの良さを生む。だからここは「居場所」というよりも、通過点や休憩所だったり、息継ぎをしにくる場所として、子どもたちに必要とされているのではないだろうか。

「ちいさいおうち」は、水田さんが管理人だが、彼女が築き上げた彼女の居場所ではない。ここは、彼女も含めたここに集まるみんなのいろんな状況が持ち寄られて、“作り上げられた”というよりも、“こういう形になった”と言った方が適切な、みんなの場所だ。

居場所というのは誰かに作ってもらったり、自分で作ろうと思って作るのではなく、みんなが必要とした結果、気付いたらできているものなのかもしれない。そして、そうして生まれた場所の方が、きっと心地良いと思う。

「何かを私ひとりだけでやるというのは難しいと思っています。やっぱりひとりには限りがある。それは小さい頃から気づいていました。私は4人兄弟だったからかもしれないですけど、姉のように頭がいいわけでも、弟たちのようにコミュニケーションが上手でもないなとか。でも、何かに向かって物事を進めるとか、アクションを起こしていくみたいなのはすごく好きで。でもそれは、ひとりだとできないから、どうしたら他の人と一緒にやれるかなっていうのを考えてますね、ずっと」

水田さんは、この場所の中心にはいない。中心から少しだけ体をずらして、そこに誰かが入れるスペースをそっと作る。そうすることでいろんな人をここに呼び込んで、するとほら、みんなの居場所ができている。

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こえを出し、こえを届ける。“村民さん”とつくる図書館。 <鳥取県・日吉津村>

“狭さ”じゃなくて“近さ”を感じる
開けた大地

鳥取県西部に位置する県内唯一の村、日吉津村。面積はわずか4.2㎞平方四方で、バイクを15分も走らせれば、村を一周できてしまう。東、西、南の陸地は商業都市米子市に囲まれていて、北は日本海に接する。平成の市町村合併の際、住民からのこえで住民投票を行い、圧倒的多数で単独を貫いた、気骨のある村だ。

山も谷も視界を隔てるものは何も無く、中国地方の最高峰「大山(だいせん)」の勇姿を、村内どこからでも目にすることができる。この開けた大地は、ここに暮らす人たちに「包み隠さず、土俵に上げる」という自治の精神を、育ませるのかもしれない。

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土井さんが務める「日吉津村図書館」は、村のほぼ真ん中に建つ複合施設「ヴィレステひえづ」の一角にある。「ヴィレステひえづ」もまた、住民の声を拾い、議論を重ねて生まれた場所だ。

1年半かけて、2カ月に1回のペースで実施された、ワークショップ形式の検討委員会。どんな機能があったらいいか、村にとって必要なものは何かを、住民たちと話し合ってきた。

「健康相談がしたい」、「小さい子どもとゆっくり過ごしたい」、「学習スペースが欲しい」、「カフェでお茶ができたらいい」、「村民が集えるホールが必要」……。さまざまな要望を叶えるために採用されたのが、多目的に利用できる広いフリースペースだった。
現在「ヴィレステひえづ」に入っている公民館、図書館、健康増進の機能は、このフリースペースがあることで、管轄を超えて住民同士が向き合うことができ、相乗効果が生まれているという。

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「ヴィレステ日吉津」のフリースペース。「用途が限定されていない場所ってって大事ですよね。使い方を決めてしまうと、入れない人たちが出てきますから」と、土井さん。

「ヴィレステひえづ」のフリースペース。「用途が限定されていない場所ってって大事ですよね。使い方を決めてしまうと、入れない人たちが出てきますから」と、土井さん。

「健康診断に来た方が、待ち時間に図書館で新聞や雑誌を読んだり、逆に絵本を借りに来たお子さん連れの方が、保健師さんに発育相談ができたり。あと、自分たちが予想していなかった使い方を村の人が提案してくださることもあったりして、嬉しいですね」

フリースペースでお弁当を広げていた親子連れに、目を留めながら土井さんは続ける。

「広いフリースペースを確保するには、図書館の広さが限られてしまうことは分かっていました。でもその代わり、図書館の企画をこのフリースペースですることができるんです。読み聞かせの会も「ひえづっこ広場」というカーペットの部屋でやっています。館内でできないことは、こちらから飛び出していけばいいんですよね」

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住民一人ひとりが必要なことを考え、提案をこえに出す。そしてそれらを拾いあげ、議論を重ねてかたちにしていく。日吉津村がやってきた、人と人との関わり合いの中で物事を決めることは、シンプルだけど難しい。でもこの小さな村は、それを実現している。

ここの大地には、視界を隔てるものがないと言った。遠くまでよくよく見通せるということは、「隠せない」ということでもある。うれしいことも、つらいこともすべての風通しがよいのだ。しかし、日吉津村には、“狭さ”というような窮屈さではなくて、安心感のある“近さ”の方を感じるのはなぜだろう。煩わしさやしがらみさえも含めて生きていく糧にしよう、そういう前向きな意思がこの村の脈を打っているように感じるのだ。「自治」とは、思っていたほど堅苦しいものではないのかもしれないと思った。

「いまもお客さんに教えていただくことがとても多いんですよ。話題の本もそうですし、あと、図書館では毎日、地方紙や全国紙に掲載された日吉津村に関連する記事を、複写して保管しておくんですけど、利用者の方が、『新聞のここに日吉津のことが載っとったよ』って、教えてくださることがあるんです」

自分たちにとって必要な場所は、自分たちで作って育てていく。そういうたくさんの人々の思いに支えられてきたからこそ、土井さんは「“村民さん”のおかげで、“村民さん”がつくった図書館」だと、自らの働く場所を誇らしく、そして愛おしく語る。

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ひょんな巡り合わせからつながった、
図書館員という仕事

幼いころから本には親しみがあり、年上の子が読む分厚い物語を早く読みたがったという、土井さんの子ども時代。でもまさか自分が図書館に勤めるようになるとは思いもしなかった。

「実は大学で、司書の勉強もしたんですけど、私は学校の先生になりたかったので、途中で怠けて司書は諦めたんですよ。細かい文字で、図書カードを書く几帳面さは、私にないなと思って。それにおしゃべりも好きで。図書館って静かにしないといけないでしょ。だから私には難しいかなと(笑)」

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一度手放した憧れは、ひょんな巡りあわせでもう一度目の前に現れた。結婚を機に、出身地である大山町から日吉津村に移り住んだ土井さんは、幼い二人の子どもの育児をしていたときに中央公民館の仕事をみつけた。

「その公民館の中にたまたま図書室があったんです。本が3000冊ぐらいしかない小さな図書室だったんですが、徐々にそこの仕事が増えていったんですよね。そしたら、図書館を建てるタイミングにちょうど遭遇して。どうしよう、もう一回勉強せんといけんなって。でも新しい図書館を作っていく過程は、すごく楽しかったですね」

県内の市町村で唯一、公立図書館がなかった日吉津村。幸い鳥取県は、地域のための知的基盤を整えようという取り組みが活発で、他県と比べても図書館の職員を育てていくことに熱心で、公共図書館や学校図書館との密な連携ネットワークもあった。だから土井さんは、それぞれのよいところを、日吉津村図書館に生かしていくことができたという。

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たとえば、日吉津村よりも南の山間部に位置する日野町(ひのちょう)。起伏のある土地柄、集落間に距離があり、行き来は容易ではない。そこで、図書館に来る人を待つだけでなく、積極的に地域の中に出かけていこうという試み「まちじゅう図書館」を行ってきた。

「日野町の図書館は販売者とタッグを組んでいて、商店や喫茶店、人がよく集まる個人宅などに図書館の本を置いて、町民の人が本を借りやすい環境を作っているんです。すばらしいですよね。そういう取り組みをしている館長さんをはじめ、本当に人に恵まれた中で、図書館のABCから教えてもらいました。
こんな何とも言えんのが手伝いさせてもらえて、本当にありがたかったし、いい経験をさせてもらってます」FH020023

謙虚な言葉の裏側に、土井さんが積み上げてきたものの確かさを感じる。さまざまな人のアドバイスや他所での事例を、村の利用者層や立地条件を踏まえて取り入れ、実践を重ねてきた。蔵書は約3万冊、中央公民館時代と比べて、実に10倍の冊数を扱っている。

カウンターごしから
どんどん顔が見えてくる

もともと教員になりたかったという土井さんは、広島県の大学を卒業後、国語の高校教員の採用試験を受けながら3年間、鳥取県内の高校で講師を務めた。講師とは、産休に入る教員の代わりや補助教員として、1年ないし半年間勤務する形態のことだという。

「がんばったんですけど、結局、教員にはなれなかったんです。でも、図書館にいると、子どもと関われる機会が本当に多い。今は、『朝読』といって、朝の読書の時間に小学校に行くんですね。子どもって、図書館の人だろうと誰だろうと『先生』って呼ぶんですよ。だから『土井先生』って言われると、恥ずかしさもあって、『わー、先生じゃないよー』って返すんですけど(笑)」

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真ん中に立つ、中学3年生の翔生(かなる)くんは土井さんの息子さんと大親友。左隣りはお母さんで、お互いがそれぞれの息子の「第2の母」だという。

土井さんが子どもについて話すとき、明るい声が一層弾み、瞳は三日月形に細く弓を描く。お母さんに連れられて、赤ちゃんの頃から図書館に来ていた子が、いつしか自分の足で歩くようになり、カウンターに頭をごつごつぶつけていたと思ったら、顔がだんだんと見えるようになっていく。そういう過程を見れるのが何より幸せだという。

「ほとんどの男の子は図鑑が好きになって、一人で5冊とか6冊とかを借りて帰るようになるんです。3月になると、幼稚園に上がったり新入学とかで生活のリズムが変わって会えなくなる子が増えて、少し寂しかったり。でもしばらくすると、うんと身長が伸びた姿でやって来たりするんです。ボールを持っていて、『あ、サッカーやってるんだ』って、分かったりするのが楽しくて」

子どもたち一人ひとりに声を掛け見守ってくれる土井さんは、子どもたちはもちろんその親たちにとっても、かけがえのない存在になっている。教員としてではないけれど、いま、図書館の職員として、子どもたちの成長に立ち会える時間が、土井さんにとってもパワーの源なのだ。

ゆいかちゃん、小学3年生。妹6歳、弟0歳。多い時は一度に5冊くらい借りるという。本を読むことに夢中で『おねんちゃんって、もうたいへん!』「おねえちゃんって、ほーんとつらい!」がいまのお気に入り。

読書が好きで、多い時は一度に5冊は借りるという、小学3年生のゆいかちゃん。妹が6歳、弟が0歳のゆいかちゃんの今一番のお気に入りの本は、『おねえちゃんって、ほーんとつらい!』。

「見様見真似の文字が、すごくかわいくて」と、土井さん。常連のねねちゃん家族が東京ディズニーランドに行くと聞いて、ガイドブックを探して手渡したそう。そのお礼にもらったというお手紙は、机の上に大切に飾っている。

写真上:常連のねねちゃん(右)とゆいちゃん(左)。下:「見様見真似の文字が、すごくかわいくて」と、土井さん。ねねちゃん家族が東京ディズニーランドに行くと聞いて、ガイドブックを探して手渡したそう。そのお礼にもらったというお手紙は、机の上に大切に飾っている。

ここでしかできない働き方。
求めてもらえるから、自分の色が出せる。

近隣の市町村からも利用者が多く、多い月は6000冊を貸し出す日吉津村図書館。土井さん含めて職員3名で仕事は回るのだろうか。開館以来、土井さんと4年一緒に働く同僚の佐伯美由紀さんに伺った。

「本の返却が多い日はちょっと大変です。でも、お客さんからのリクエストやご意見はもちろん、すごく小さなことでも、3人なら気軽に共有できますよね。このスペースだから、他の2人が何をしてるかが分かるし、フォローもしあえていいですよ」

図書館のオープン当初から一緒に働く佐伯美由紀さん(写真左)と、この4月に入ったばかりだという岩田愛さん(右)。

図書館のオープン当初から一緒に働く佐伯美由紀さん(写真左)と、この4月に入ったばかりだという岩田愛さん(右)。

あるとき、土井さんが休みの日に図書館にやってきた。その日の夜、カウンターにいた佐伯さんの様子を気にかけ、「元気がなさそうだったけど、大丈夫? 明日、シフト代わろうか」と、メールが届いたという。

「私としてはいつも通りのつもりだったんですが、土井さんはそういう些細な変化を見逃さないんです。お客さんにもいつも目を配っておられますね。小さい村なので、みんなの顔を分かっている、“日吉津のお母さん”、そんな存在です」

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たとえ他愛のないやり取りだとしても、その一つひとつに心を砕き、自然と向き合えるのが土井さんだが、本人いわく、“それなりに人見知り”で、日々緊張することや反省することが多々あるという。そんな土井さんは、ここだから働けるのだと話す。

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「村民さんに求めてもらうから、こうやって自分のカラーを出させてもらえているんですよね。だから、どこか他のところでやりなさいって言われたら、ようせんかもしれんなって思います。
同僚にもすごく支えられてるし、『ヴィレステひえづ』に関わる各課のスタッフの方も、アイディアをたくさん出してくださって、一緒に同じ方向を向いていると感じているので。もし、『明日から、カウンター内ではしゃべっちゃいけないよ』とか言われたら、たぶんできないだろうなって(笑)」

「隠せない」という土地柄が、ありのままの自分と、ありのままの他人を受け入れることを可能にしていくのかもしれない。一人ひとりの顔が分かり、よそ行きではない関係性をつくることのできる日吉津村図書館では、今日も土井さんの「おかえり」の声が聞こえているだろう。

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日吉津村図書館
鳥取県西伯郡日吉津村日吉津930番地 ヴィレステひえづ内
TEL:0859-27−0204
営業時間:火~日 9:30~18:00
休館日:月曜日・祝日・最終木・年末年始(12/29~1/3)・特別整理日
http://www.hiezutoshokan.jp/finder/servlet/Index?findtype=9

比べる自分に「おわり!」を告げる。「好き」に忠実に、軽やかに。 <鳥取県・伯耆町>

「あたし生きてる!」
漠然とした“好き”が形になる

伯耆町には、米子駅から車で20分も走れば差し掛かる。壮大な大山を麓までのぞめるけれど、町からも近い。便利さと自然がほどよく融合した場所である。
みよこさんは、何かをしたいときには条件を紙に書くと理想通りのものに出合えるという。家を探すときの条件は、広い庭、川が近くにある、隣との距離がある、台所が広い、自分の作業場がある、など13個。伯耆町に見つかった今の自宅は、その全てが満たされている。

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みよこさんと私の出会いは1年半前。私が東京から鳥取へ移り住んで3年半を迎えた頃だった。当時彼女は「CADEAU(カド)」という手づくりのアクセサリーと多肉植物の店を米子で開いていた。それまで私は、ものは買うものだと思っていた。壊れたら捨てて新しいものを買う。それが当たり前だった。鳥取に来て、東京のようになんでもはないけれど、だからこそ自分たちでものをつくり出す人に出会って衝撃を受けた。アクセサリーはもちろん、家具でもおもちゃでも自分でつくり出してしまうみよこさんと出会った私は、どこか芸能人と知り合ったような鼻高々な気分だった。私がそんなミーハー心で近づいていたと知ったら、みよこさんは驚くだろうか。

みよこさんは米子生まれの米子育ち。高校卒業後、岡山県にある専門学校へ進んだ。彫金の専攻ではあったが、ものづくり科という陶芸・木工・プロダクト等なんでも好きなことをさせてもらえる自由な学校だったという。小さい頃からつくることが好きだったみよこさんが、つくることを学びたいと思ったのはどういうきっかけだったのだろうか。

「お店で売ってるアクセサリーを見て、ここをこうしたらもっとかわいいのになって思っとったけど、どうしたらそれができるかがずっとわからんかった。進路を決める時に高校の先生に相談したら、こういう学校があるよって教えてくれたけん、そこに決めた。
それで岡山の学校に行ったら、やっと『あたし生きてる』って感じがした。高校生まではずっとなんかなあってモヤモヤしとったけん、これだ!っていうものを見つけて生き返った。古いものが昔から好きだったけど、岡山で古道具っていうことばを知って、あたしが好きなのは古道具なんだってわかった。岡山の友達はズバッと言ってくれるけん、教えてもらえることも多かった。いまでも仲良くしとる」

漠然とした「好き」をどう表すかがわからず鬱々としていたが、表現方法を知ることで水を得た魚のように人生が動き出す。生き返るって、良いことばだな。鳥取に来たことで自身や故郷東京を客観的に眺めることができ、自分らしく生き返ったと感じている私は、実感を持ってその言葉を噛み締めた。

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大切なことは人に決めてもらう。
委ねることを楽しむ

みよこさんは、専門学校は高校の先生に、岡山での一人暮らしの家は両親に、店の物件は父親に決めてもらったという。初めて聞いた時、私は驚いた。大切なことこそ自分で決めるものだと思っていたからだ。これは一体どういうことなのだろう。

「人に決めてもらうと、自分じゃ選ばなかった道を教えてもらえるから。自分が最初は興味ない場所だったとしても、つまんないってことはあまりないかも。委ねたら楽しめる。
岡山では、親が借りてくれた家が専門学校から遠くて、最初はえーって思ったけど、自転車で通うおかげで、大好きな古道具屋さんとか色々な所を知れたから、結果的に良かったなって。米子で店の物件を探した時も、家賃が高くて困っとったら、父が知り合いのビルを紹介してくれて。ボロいし、日当りも悪いし多肉植物には向いてないけど、すごく安く好きに使わせてもらえた。自分で決めとったら高い家賃にひーひー言っとったかもしれんけん、あそこでよかったな」

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私だったら、人に決めてもらってもし上手くいかなかったら、きっとその人のせいにしてしまいそうだ。頼ることが苦手な私は、自己責任という一見立派に見える固いバリアを張って生きているのかもしれない。一方でみよこさんは、人に気持ち良く委ねて、そのこと自体を楽しんでいる。早く結論を出さずに、もっとここをこうしたら……と状況を受け入れてその中で楽しむ方法を創造する。しかもそれを頭で考えてやるのではなく、自然とやっている。委ねることに責任を持つ強さを持っている。

「店をやりたいとか最終的な目標はぶれずにあって、そこに行くまでの道のりは決めてもらう感じかな。どう行ったらいいかわからないから、行き方は委ねちゃおうって」

軽やかで、潔い。ステップを踏むようなみよこさんの歩み方を見ていると、もつれて絡まりそうな私の足が少しだけ軽くなる。

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次女を抱くみよこさんのお母さん

次女を抱く、みよこさんのお母さん。

つくることで、現実と繋がれる

「CADEAU」の店は、建物の取り壊しのため2017年に幕を閉じた。現在みよこさんは伯耆町にある自宅で二児の子育てをしながら主に彫金作業をしている。店はなくなっても、みよこさんのつくることへの欲求は終わらない。

「まだまだつくりたいものがあるけん。今は、子どものおもちゃをつくったり、家をもっと過ごしやすくしたい。台所の流し台は、最初は和風の引き扉が付いとったけど、見通しよくしたくて全部取っ払った。子どもと一緒に料理したかったけん、台所の作業スペースは広くした。広すぎて水場までが遠くて大変なんですけどね(笑)。タイルを張って板を敷いて。かわいくできたけん、台所を見るたびに『あ、うれしい』ってなる。

なんでも、買う前にまずはつくってみようって思う。ままごとキッチンも買えばあるけど、あたしが欲しいのはこういうのじゃないんだよって思ってつくった。お金がないけんつくらんとっていうのもあるけど、それも逆に楽しいなって」

最初は和風だったというキッチン。台所のタイルは、長女の好きなチューリップ柄。

最初は和風だったというキッチン。

みよこさんの“つくる”は、「これじゃない」から始まっている。ないことが、生み出すエネルギーに繋がる。私はそもそも、「まずは買う」で育ってきた。売っているものが気に入らなければ買わないし、お金がなければ買えない。そこからの広がりはなかった。ないということは、もっと悲壮感の漂うものだと思っていた。そんな自分が恥ずかしくなるほど、「なければつくる」ってなんて豊かな発想だろう。

「店をやったり物をつくっていると、すごいって褒められることが多くてずっと違和感を感じていた。あたしはただ好きでやってることだけん。
昔は、自分に自信がなくて人と比べる癖があった。お店をやっていても、他の店と比べて悶々としたり。でも、ある人に『あなたって、すごく人と比べるよね。生きづらくない?』って言われたことがあって。初めて会った人だったけど、ずっと誰かに言ってほしかったことを言ってもらえて、すっごく楽になった。あースッキリってなって、そこから比べなくなった。やっと納得する答えが出た、みたいな感じ。自分だけじゃ、一生もやもやしとったかもしれん」

私も、人の言うことをもっとよく聞こうと思った。人って、相手のことを知らないからこそ、客観的に的を得たことを言ってくれたりする。みよこさんは、「人と比べてしまう自分」を人から指摘されたことで、生きづらかった自分を認め、納得できた。自分でもどこかで気づいていたことを人に言ってもらうことで、ストンと腑に落ちた。みよこさんは、端から見える自分についても、時として人に委ねているのかもしれない。

そういえば、みよこさんはよく「この話は、おわり!」と口にする。彼女には必ずおわりがある。納得できて、おわり!となれば前へ進める。みよこさんにも、人と比べていたときがあったのか。親近感を持つとともに、なかなかおわれずいつまでも引きずってしまう私は、おわりと言い切れる潔さに憧れも感じた。

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食べる、寝る、
と同じように、つくる。

3、4日でつくったという、子ども用のままごとキッチン。「娘にはヒットせんかった」とみよこさん。なんと真鍮の蝶番も手作り。

3、4日でつくったという、子ども用のままごとキッチン。「娘にはヒットせんかった」とみよこさん。なんと真鍮の蝶番も手作り。

みよこさんは娘さんへ手づくりのおもちゃをつくって、思ったほど喜んでくれなくても「子どもってそんなもんだよね」と笑顔だ。私だったら、せっかくつくったのに……と思ってしまいそうなものなのに。

「ちっちゃい頃からつくるのが好きで、公園に捨てられている粗大ゴミを家に持って帰って、壊してなにかつくっていた。父も母も働いていて家におらんかったけん、一人遊びの延長だったと思う。縁側でつくって何かができて、一人で喜ぶみたいな光景をよく覚えている。『あ、いいのできた。こんなんできるんだ!』って。褒められたいとかじゃなくて、とにかく自分が満たされた」

タイルは、長女の好きなチューリップ柄。

タイルは、長女の好きなチューリップ柄。

そういうことか、と思った。みよこさんに私の好きなところを聞いてみると、「格好が好き、顔が好き、自分が出産して憧れた助産師って職業をしていることがすごい!」と満面の笑みで答えてくれた。見た目や肩書き。相手の好きなところを聞かれたときに、もし本当にそうだとしても私だったら敢えて口にしなそうなことばかりだ。こう答えたら相手の目にはどう映るか。私はどうしても、そういう思いが介入してしまう。それっぽく見えることば。かっこいい、きれいなことば。無意識のうちにそういう言葉を選んで表に出している自分に気づかされる。私がみよこさんの好きなところは、こんなにずる賢い私に対しても屈託なく接してくれるところだ。利害損得から遠く離れた世界にいるみよこさんと話していると、ホッとする。人の目は気にせず、好きなものは好き。自分にはそれができているだろうか。

「今は、子どもたちと一緒にものづくりをしてみたいなって思ってる。3歳になる長女はあんまり感情を表にださん子だけど、何かをつくったときだけは、『できた!見てー!』ってすごく嬉しそうにするんよね。だけん、他の子たちもつくることで自分を出せるきっかけになる場所ができたらいいなと思って。拾った松ぼっくりでクリスマスツリーをつくったり、買わんでもあるもんだけでつくれるよーって。そういうちょっとしたヒントをあげたりしながら、一緒にやってみたいなと思って」

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みよこさんも、もしかしたら娘さんも、つくることを通して現実と繋がっているのかもしれない。よく見られたいとか、それで商売をしたいとかではなくて、それをやっている時間が楽しいという素直な感情。これはつくる上で一番大事なことだ。ただ好き。ただ楽しい。そういう気持ちは、伝染する。必死の形相でする自己表現ではなくて、食べる、寝る、と同じように、つくる。生きていく上で不可欠な自然な欲求として、つくる。つくるって、本来こういうものだよなあと思った。

「あたし、何かをつくるときは基本的に一日で全部おわらせたいって思っちゃう。つくってできたら、うお〜って満足するけど、またすぐ次につくりたいもんが出てくるけん、早くつくりたくなる。うまくつくれんくてモヤモヤしても、今は雨も降っとるし、これは気候のせいだって思う。そうすると、次の日にはスッキリして元気になって、おわり!」

いい意味で、ずっと顔の前のにんじんを追いかけている人だと思う。食べたらまたすぐ次のにんじんを見つけて追いかける。おわりがあるって、気持ちがいい。

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誰かの創作が誰かの扉をひらく、 「林ショップ」のある通り。 <富山市>

長い長い文化が息づく、とある通り

林ショップの向かいにある老舗そば屋「野花そば処 つるや本店」の店主は代々民芸や美術が好きだそうで、よく使い込まれたうつわでおいしいそばを出してくれる。店内には人間国宝の濱田庄司や島岡達三のうつわと一緒に、無名の作家の石彫りなども置かれている。民芸の父・柳宗悦や河井寛次郎、濱田庄司らと親交があった板画家(版画家)・棟方志功が暮らした富山には、生活のなかに民芸が溶け込んでいるのだろうか。

民芸を扱う林ショップも、以前は「きくち民芸店」という老舗の民芸店だったという。林ショップはその店を引き継ぐような形で2010年にオープンした。その2年後、もう一方の端に古本屋「ブックエンド」が開店。文芸書のほか、音楽や映画、料理、美術などの本も揃え、この通りに文化の香りを運んできた。続いて、2015年に絵本の古本屋「デフォー」、2016年にギャラリー「スケッチ」、2018年にコーヒースタンド「SIXTH OR THIRD」がオープンした。

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写真上:古本屋「ブックエンド」の石橋 奨さん、中:コーヒースタンド「SIXTH OR THIRD」の井上佳乃子さんと。下:右側がギャラリー「スケッチ」、左側が「林ショップ」。右側から、樋口裕重子さん、高森崇史さん、荒井江里さん、林さん。

写真上:古本屋「ブックエンド」の石橋 奨さん、中:コーヒースタンド「SIXTH OR THIRD」の井上佳乃子さんと。下:右側がギャラリー「スケッチ」、左側が「林ショップ」。右側から、樋口裕重子さん、高森崇史さん、荒井江里さん、林さん。

林ショップはときどき開店が遅れるし、突然休むこともある。仕入れや制作のために店を休みにするとき、お昼ごはんに外へ出るとき、店頭には林さんの携帯番号が書かれた紙が張り出される。そんな真面目で丁寧な人柄と、ゆるく開いている雰囲気が自然と周りの人たちを惹きつけてきたのかもしれない。

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林ショップ周辺の人びと

林ショップの隣にあるスケッチは、2016年夏にオープンした、林さんと仲間たちが共同で運営しているスペースだ。普段は絵の教室とフランス語教室を開催し、ときどき展覧会やライブ、上映会なども開催している。

この日はスケッチで、林さんとスケッチに関わるグラフィックデザイナーの高森崇史さん、デッサン教室「アトリエ セーベー」を主宰する樋口裕重子(ゆちこ)さん、編集者の荒井江里さんからお話を聞かせていただいた。

デッサン教室「アトリエ セーベー」を主宰する樋口裕重子さん。

デッサン教室「アトリエ セーベー」を主宰する樋口裕重子さん。

「高森君も裕重子さんも江里ちゃんも、もともとは林ショップのお客さんだったんですよ。仲良くなっていくうちに色んなことを教えてもらったり、そこから新しい企画が生まれたり。お客さんに教わることがとても多いです。

それで以前から、周辺の人たちと何かやりたいと思った時に、パッと実現できるような場所があったらいいなと思っていたんです。そんな時に林ショップの隣が空いて、高森君はちょうど独立することを考えていた頃で、裕重子さんとご主人の上田さんは場所があれば、それぞれの教室が開けるということだったので、4人でシェアしましょうという話になりました」

翌年の夏には、林さんがホラー映画『リング』の魅力にとりつかれてしまったことがきっかけで、同映画の上映会を開催した。その時は、音響エンジニアが音響セットまで組むという懲りようだった。

高森「あれは怖すぎて衝撃を受けましたね。音の効果がここまで映像を助長しているんだと知りました。終わりの方で僕が貞子の格好をして登場するというサプライズ演出をしたんですけれど、僕自身が一番怖くなっちゃって。その後、高熱で3日ぐらい寝込んだんですよ。それからしばらくはアリが這っているのをみるだけでも驚くほど神経過敏になっていました」

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左から、荒井江里さん、高森崇史さん、林さん。

左から、荒井江里さん、高森崇史さん、林さん。

林さんが手作りした、映画『リング』上映会のチラシ。上映後には、朝6時までの納涼カラオケ大会も計画されている。

林さんが手作りした、映画『リング』上映会のチラシ。上映後には、朝6時までの納涼カラオケ大会も計画されている。

樋口「子供たちは、意外と怖がってなくて、凄く楽しかったみたいです。林さんの企画に巻き込まれる方はいつも大変なんですけれど、林さんにいわれると、皆『しょうがない、やるか』ってなるんですよね。それで実際にやってみると、おもしろかったということが多いんです」

高森「僕が凄いなと思うのは、林さんは頑固なところもあるけれど、周りの人たちとちゃんとうまくやっているところなんです。ルーズなところもあるんですけれど、それでも怒られないのは人徳だと思います。林さんは、とにかく嘘がつけない人なんですよ。自分がいいと思わないことには、絶対にいいっていわない(笑)。いい時はすぐに『いいね、おもしろいね』っていうんですけど」

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夜の「スケッチ」。近所の人たちが集まる飲みの場となることも。1次会、2次会と続いた日に、最後にたどり着く場所でもある。

夜の「スケッチ」。近所の人たちが集まる飲みの場となることも。1次会、2次会と続いた日に、最後にたどり着く場所でもある。

誰かの創作が誰かの扉をひらく。

編集者の荒井江里さんは、スケッチで月に一度開催しているイベント「スケッチモーニング」で、自宅で焼いたパンを売っている。そのきっかけをつくってくれたのは、樋口さんだった。

樋口最初は、江里ちゃんがつくったパンを時々いただいていたのですが、それが本当においしくて、ひとり占めするのはもったいないと思ったのが始まりでした。この場所が、半分パブリックな場所になりつつあったので、お店のようなことをやったら、もうひとつ大きい扉ができるかなという妄想があって、江里ちゃんに提案してみました。それから毎月休まず1年ほど続けてくれています。けっこう大変だと思うんですが」

荒井「林さんがイベント用に、毎月すてきなポスターをつくってくれるので、そのポスターを見ると『来月もがんばろう』って思います」

「僕はすぐ店を休みますけれど、ポスターづくりは江里ちゃんが休まない限り僕も休めないというか(笑)。こういう企画は、スケッチモーニング以外にもいくつかあるんですが、ここでは、それぞれがおもしろそうだなと思うことをやれたらいいなと思っています。
くだらないことであっても、誰かがおもしろいと思うことを実現していく。そういうことに付き合ってくださる大人たちがおられるというのはありがたいです」

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今年オープンしたコーヒースタンド「SIXTH OR THIRD」の店主でありイラストレーターでもある井上佳乃子さんも、林さんに導かれるようにこの通りへやってきた人だ。

井上「ここの通りは、以前から林ショップやつるやさんが好きで、自然と足が向いてしまう場所だったんです。スケッチがオープンしてからは、林さんが私の旦那(アーティストのアーロン・ジョセフ・セワードさん)の展覧会を企画してくれたり、高森さんが私にポスターのイラストを依頼してくださったりしたので、色々と行き来もあって。
それでコーヒーのお店をやりたいと思って場所を探していた時に、林さんがここが空いたよと教えてくれて、大家さんにも掛け合ってくださったんです」

林さんは以前からこの通りにお茶を飲める場所があったらいいなと思っていたそうだ。今では、大きな窓から燦々と日が射し込む店内にあらゆる年齢層の人が集い、コーヒーや焼き菓子を楽しんでいる。

「SIXTH OR THIRD」の店主井上さん(左)と林さん。井上さんはイラストレーターとしても活動している。

「SIXTH OR THIRD」の店主井上さん(左)と林さん。井上さんはイラストレーターとしても活動している。

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ただただ、ものに惹かれて

林ショップを訪れると、林さんがあの穏やかな顔で出てきて中へ入れてくれた。店内を見回すと、壁に棚に、深く優しい色合いのうつわや織物、可愛らしい人形などが並んでいる。林さんは民芸のものに限定せず、彼自身がいいと思ったもの、好きなものだけを置いている。以前の店主・菊地龍勝さんの頃から付き合いがあったつくり手のものに林さんが見つけてきたものたちが加わり、多様でありながらも一本芯の通った、どことなくユーモラスさが漂う空間が生まれた。

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店内には、岩井窯の山本教行さんのうつわや、河井一喜さん・達之さんのうつわ、柚木沙弥郎さんの型染布、若手の吹きガラス作家が手がけたグラス、富山の土人形、近くに住む織作家・豊田栄美さんによる手織りのマフラーや風呂敷、フードデザイナーのたかはしよしこさんが富山の食材からつくった調味料、林さんが手がけた鋳物の干支シリーズなどが並んでいる。

店内には、岩井窯の山本教行さんのうつわや、河井一喜さん・達之さんのうつわ、柚木沙弥郎さんの型染布、若手の吹きガラス作家が手がけたグラス、富山の土人形、近くで染織をされている豊田栄美さんによる手織りのマフラーや風呂敷、フードデザイナーのたかはしよしこさんが富山の食材からつくった調味料、林さんが手がけた鋳物の干支シリーズなどが並んでいる。

林さんが季刊で発行している「林ショップだより」。商品の案内やエッセイなどが書かれている。※現在、発行はかなり遅れている。

林さんが季刊で発行している「林ショップだより」。商品の案内やエッセイなどが書かれている。※現在、発行はかなり遅れている。

林さんはすっと奥へ引っ込むと、コーヒーを淹れて持ってきてくれた。コーヒーの隣には、淡い黄色の柑橘類の砂糖漬け。林ショップを通じて仲良くなった広島・因島の柑橘農家「Banjoh-ya」が送ってくれたものだという。

さて、林さんのことはやっぱり林さんに聞かねばならない。まずはじめに聞いたのは、林さんがなぜこの店を始めたのかということ。

「もういくつの頃だったのかも覚えていないのですが、家に祖母がきくち民芸店で買い求めた蓋もののうつわがあって、それが何とも可愛らしく、そばに置いて触ったり眺めていたりしたんです。祖母は民芸だけではなく、美術にも関心が高い人でした。僕はそんな祖母に可愛がってもらっていて、絵を描くための紙や鉛筆を買ってもらうこともあり、子供の頃から絵を描くのが好きでした。そういった影響もあって金沢美術工芸大学のデザイン科へ進み、デザインを通して民芸に関心を持つようになっていきました。

卒業後は東京の写真現像所で働きながら写真を撮ったり鋳物の原型をつくったりしていましたが、そんな時に叔父から突然電話があって『きくち民芸店の菊地さんが、悠介に店を継がないかといっている』といわれたんですよ。店をするなんて夢にも思っていませんでしたが、祖母の縁を強く感じましたし、民芸は自分の中で大きな存在となっていたので、富山に戻り、継ぐことにしたんです」

幼き頃の写真。右の写真が、林さんのおばあさまと林さん。

幼き頃の写真。右の写真が、林さんのおばあさまと林さん。

開店するにあたって、しばらくは菊地さんについて各地の仕入先を回った。最初に訪れたのは、鳥取県にある岩井窯。若い時に、民芸運動に深く関わったイギリスの陶芸家 バーナード・リーチ氏に出会い大きな影響を受けた陶芸家・山本教行さんが開いた窯だ。

「初めて菊地さんについて仕入れ先にいくときに、どこへ行きたいかと聞かれたので、あの蓋ものを見せて、『もしこれをつくった方がまだおられるのなら、ぜひお会いしてみたい』といったんです。そうしたら、それをつくられたのが山本さんだったんですね。それで岩井窯に連れていってもらったら、作品はもちろん、場所も山本さんのお人柄も、とても素晴らしくて。

その時山本さんに、『君が良いと思うものを集めなさい』といわれて、非常に励まされました。そういったこともあって、僕自身にとって民芸は大切なものなのですが、そこにはあえてとらわれることなく、自分がいいと思うものを置いています」

小さなころからそばにあったという山本教行さんの蓋物。今では林ショップの棚の上にひっそりと佇んでいる。

小さなころからそばにあったという山本教行さんの蓋物。今では林ショップの棚の上にひっそりと佇んでいる。

作業場、事務所、倉庫として使っている、お店の2階から。

作業場、事務所、倉庫として使っている、お店の2階から。

この店を訪れるお客さんは、林さんと話すことを楽しみにくる人が多い。ゆっくり紡がれる言葉の向こうに何があるのだろう?と惹きつけられてしまうのだ。話しているうちに思わぬ方向に話が転び、人を紹介してくれたり、そこから新しいアイデアが生まれたりすることもある。
そんな林さんは店を営みながら、制作活動も続けている。

「ここの2階にも作業場があるのですが、鋳物の原型をデザインする時なんかは店を閉めて、自宅にこもってつくっています。それから、最近依頼をいただいて絵を描く機会があったのですが、それが凄く楽しい、いい時間で。個人的にはもっと制作の時間を増やしていきたいなと思っています。お店ももちろん大切なんですけれど、制作は続けていきたいと思っているので、その辺は今色々と考えてしまいますね」

2階には、お店に置いてある作家さんにまつわる書籍や資料、お店に置きれないものがひしめきあう。制作に集中しているとき、はたまた、お酒を楽しんで家へ帰れない日は、ここで休むこともあるそう。

2階には、お店に置いてある作家さんにまつわる書籍や資料、お店に置きれないものがひしめきあう。制作に集中しているとき、はたまた、お酒を楽しんで家へ帰れない日は、ここで休むこともあるそう。

林さんが背中を押したおかげで好きなことをやっている人たちがたくさんいるというのに、ご本人は制作の時間を十分にもてていないらしい。でも、だからといって切羽詰まっているわけでもなく、今の状況も楽しんでいる。そういう林さんを見ていると、見ているほうまで楽しい気持ちになってくる。やりたいことをシンプルに実現できる場所があって、刺激し合える仲間がいるということは素晴らしい。「林ショップやスケッチみたいな場所があるっていいですね」というと、林さんはこう答えてくれた。

確かに富山には、意外とそういう場所がなかったかもしれないですね自分でも、今こうやって店をやっているのが未だに不思議なんですけれど、いい意味で先がわからないというか、今がとてもいい感じだと思います。

店を始めたおかげでたくさんの良い出会いをいただいてますし、スケッチができたことで、皆が僕には考えつかなかったようなことを考えてくれたり、ノリで思いついたことをできたりして、それがありがたいですし……、楽しいってことですね。結局のところ、楽しいこと、好きなことをやっていくということしかないのかもしれないです」

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自分のまわりの人を幸せに。 自分自身も幸せになる働き方|【お母さんだから、できることvol.3】

パン屋になるなんて
思ってもみなかった。

東京に住んでいた頃、お気に入りのパン屋さんでパンを買って食べるのが家族の楽しみだった我が家。藤野という小さな町にはパン屋さんらしき店は見当たらず、移住したらパンのない生活が始まるのか……と肩を落としていたところ、「天然酵母のパン屋さんがあるよ。でも水曜日と木曜日にしか開いていないよ」と近所の人が教えてくれたのです。谷を下った坂の途中に控えめな看板が立てかけられた一軒家。それが小さなパン屋〈ス・マートパン〉との出会いでした。

初めて私がお店に行ったのは、開店から随分と時間がたった午後のことでした。パンは残りわずかとなっており「ごめんなさいねえ。せっかく来てくれたのに……」と優しく声をかけてくれたのが、仕込みからパン焼き、販売まですべてをひとりで切り盛りされている、池辺澄さんでした。

パンは曜日によって種類が変わる。水曜日はカンパーニュやバゲットといった食事パンやチーズやベリーが練り込まれたパン、木曜日は角食やクロワッサン、チョコやクリームの入ったおやつパンも並ぶ。

パンは曜日によって種類が変わる。水曜日はカンパーニュやバゲットといった食事パンやチーズやベリーが練り込まれたパン、木曜日は角食やクロワッサン、チョコやクリームの入ったおやつパンも並ぶ。

一個残っていた黒糖角食を買い、軽くトーストしてバターをのせて食べたら、黒糖のコクと甘み、小麦の風味が広がるなんとも幸せなおやつで、子どもも大喜び。藤野でのパンライフはこれで安泰!と家族で喜んだのでした。いつもニコニコ迎えてくれる澄さんを見ていると、天職ってこういうことをいうんだなあ……なんて思っていたのですが、実は「パン屋になるなんて思ってもみなかった」そうで、まったく別の仕事をしていた澄さんが、思いもよらずパン屋さんになったのは、藤野への移住が深く関係しているとのこと。移住から始まった新しい働き方と生き方について話を聞かせてもらいました。

漠然と感じていた、
暮らしや子育てへの違和感

澄さんは、12年前に夫の潤一さんと当時小学1年生になる娘さんと藤野に移住しました。それまで家族で暮らしていた東京都・日野市は、緑豊かな地域で公園や保育園、学校も近くにあり子育てする上で不自由のない環境だったといいます。それでも、娘さんの成長とともに夫婦の中にちょっとした違和感が芽生えていきました。

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「子育てにおいて私たちが守りたいと思うものと、現実の間にギャップが生まれはじめていたんです。たとえばうちは子どもにゲーム機を与えていなかったのだけど、近所の子どもたちは公園でもゲーム機で遊んでいたりして。これから子どもがどんどん成長していく中でどう折り合っていったらいいんだろう、妥協していけばいいのかな、でもやっぱり嫌だな、と揺れていました。もしかしたもうちょっと田舎に行ったら状況は少し違うのかな、なんて思ったのが移住を考え始めた最初のきっかけだったんです」

建築家の潤一さんが拠点にしている都内から通える距離ということを踏まえての移住計画。千葉県の海沿いの物件を見たりしながらも、なかなかピンとくる場所にはめぐり合えなかったそう。また、それ以前から生活に対してもこのままじゃいけないという気持ちがあったと澄さんはいいます。

夫の潤一さん。移住は潤一さんの仕事の意識にも大きな変化を生んだそう。個人宅を中心に環境負荷の少ない建築デザインを考えるようになった。

夫の潤一さん。移住は潤一さんの仕事の意識にも大きな変化を生んだそう。個人宅を中心に環境負荷の少ない建築デザインを考えるようになった。

澄さんは大学卒業後、企業でテキスタイルデザイナーとして勤め、出産後は自宅で機織りの作品を受注し、制作する仕事をしていました。一方、家で図面を書いている潤一さんも自宅を仕事場にしており、休みはあってないようなもの。子どもを保育園に預け、朝から晩まで仕事を回し、一日一日をなんとかやり過ごす。そんな毎日に澄さんは限界を感じていたといいます。

「娘が2歳くらいの時に『もうこんなの嫌だ!』と私の噴火が起きて(笑)。それを鎮めようと夫が日帰りで温泉に行くことを提案してくれたんです。調べたら日野から車で1時間くらいで行ける里山に温泉があるらしいから、家族で行ってみようって。そうしてやってきたのが藤野でした。来てみたらとてもいいところで、次の休みにまた藤野の温泉に行けるからがんばろうって家族の楽しみになったんです。その頃、温泉が家族を繋いでいたともいえるくらい(笑)。来るたびに少しずつ藤野での滞在時間が伸びていって。それでふと、ここに移住するのもありなんじゃない?って温泉の帰りにそのまま不動産屋さんに寄ったら土地を紹介してくれた。それが今住んでいるこの場所だったんです」

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土地を見てすぐに住むことを決めた潤一さんと澄さん。それまでいろいろな場所を見ても心動かなかったのに「ここがいい!」と2人同時に思えた。その直感こそが大事、と躊躇はなかったそうです。移住の準備を進めるうちに、新たな出会いもありました。シュタイナー教育の一貫教育を行う学校法人校シュタイナー学園が藤野にあることを知ったのです。

「それもまた温泉に置いてあった地域の広報誌を見て知ったんです。シュタイナーってなんだろう?と調べてみたら、私たちが感じていた違和感や疑問を晴らしてくれるような教育を行っている学校だった。これは運命かもしれない、ご縁があったら入学したい、と思いました」

パン屋がないなら、
自分でパンを焼こう。

小学校入学に合わせた移住を目指して潤一さんは自宅を設計。板張りや壁塗りなどのできる作業は自分たちで行いながら準備を進めました。その移住に向けた準備のひとつとして、澄さんはパンを焼き始めたのです。

「うちでは朝食にパンを食べる習慣がありました。でも藤野にパン屋さんがなかったから困ったなあと。だったら家族が食べるパンを自分で焼こう、どうせ焼くなら天然酵母パンを焼いてみよう、と友人に習いレーズンで酵母を起こして焼き始めたんです。でも失敗ばかりで石みたいに固いパンを焼いてしまって、失敗続きでした(笑)」

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それでも幼い娘さんが「お母さんのパンは石みたいだけどおいしいよ」と言ってかじる姿に励まされ、めげることなくパンを焼き続けたそう。そして2006年の春、無事に自宅が完成。シュタイナー学園への入学も決まり、希望いっぱいに一家で藤野へ移住をしたのでした。藤野での暮らしがはじまった頃、緑は多いし温泉は近いし娘さんの学園生活は楽しそうだし、まるで夢のようだと思っていたという澄さん。しかし、季節が移り梅雨がやってくる頃、どうしようもない憂鬱に襲われるようになったといいます。

「雨が続くと、この辺りは湿気がすごいので新築の家でもカビがひどくて。カゴ類が全部カビてしまったんです。当時は今と違ってネットも普及していなかったので、買い物ひとつとってもとても不便だし、レンタルビデオ屋もなければ本屋もない。お茶を飲みに行く場所もなければケーキもパンも何もない! そんな“ないない状態”の暮らしにいつしか不満が募ってしまったんです」

でもその“ないない状態”を不満に思うようになってしまったのには「もうひとつ理由があった」と澄さんはいいます。

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「娘は本当に楽しそうに学校へ通っていたのですが、私がまわりのお母さんと自分を比べてだんだんと辛くなってしまったんです。当時の学園にはシュタイナー幼稚園を卒園して入学してきたお家がほとんど。多くの人が仕事をせずに子どもと向き合い、遊びに来たお友だちはみんなお母さんの手作りのおやつを持っていて、お弁当箱も素敵な木のわっぱだったり。そうしなきゃ駄目だと誰にも言われていないのに、違う自分にすごく引け目を感じてしまったんですよね」

藤野に来ても機織りの仕事を続けていた澄さん。ここで「いいお母さん」をやるのは私には無理、と日野に帰りたいとまで思ってしまったといいます。そんな中、潤一さんは冷静でした。

「『ちょっと様子を見ようよ』って。私が『映画が観たい』と言えばレンタルビデオを配送してもらえるシステムを登録してくれたり、猫が大好きだったのでご近所で生まれた猫をもらってきてくれたり。子どもが寝た後、夜な夜な猫に寄り添いながら映画を見ていました(笑)」

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娘さんの大きな変化もそんな辛い時期の支えになりました。保育園時代に食が細く病気がちで泣いてばかりだったという娘さんは、入学式の日から一度も泣かず、食欲旺盛、元気いっぱいに学び遊んでいました。そして季節がめぐり、ちょうど移住から1年が経った頃、ふと澄さんは肩の力が抜けていくのを感じたといいます。

「いいお母さんにならなきゃいけないって自分だけが気にしていたんだな、誰もそんなことを私に求めたりしていないんだって気づいたんです。『こうならなきゃ!』って1人で思っていた時は辛かった。でも『私は私でいいや』ってふと思えた時、すーっと楽になれたんです」

酵母の風味が活きたクロワッサンは人気のパンのひとつ。地元の野菜をたっぷり挟まれたサンドイッチは食べ応えたっぷり。

地元の野菜をたっぷり挟んだサンドイッチは食べ応えたっぷり。

その頃ちょうど、毎日焼いていたパンが自分でもおいしいと思えるものになっていたという澄さん。遊びに来たお友だちや近所の人に出したりしていると「うちにも焼いてほしい」と頼まれるようになり、物々交換から始めたパンのオーダーがひとつ、またひとつと増えていきました。初めてお金をもらいパンを焼いたのはそれから約1年後のこと。次第にパン作りに向かう時間が増え、澄さんは機織りの仕事を辞めました。こうして〈ス・マートパン〉は始まったのです。

おいしいパンを焼くために、
無理はしない。

〈ス・マートパン〉の評判が人づてに広まり、注文が増えるにしたがって配達だけでなく、地元のお店やレストランへの委託と販売方法を模索した澄さんですが、ふと自宅の一角にあるスペースに目が止まります。

「知らない土地で自宅を建てるという時に、外の人が気軽に靴のまま入ってちょっと一休みできるようなスペースがあったらいいねと、広い土間のスペース作っておいたんです。いずれはギャラリーにしてもいいね、と玄関とは別の出入り口もつけて。そこをいっそパン屋にしたらいいかもって」

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〈ス・マートパン〉の営業は週に2日だけ。火曜日は仕込みの日で水曜日と木曜日には明け方からパンを焼き、お店で販売します。土日にイベント出店をすることもありますが、パンに向き合う時間は基本的に週に3日。決してそれ以上無理をしないのは「余白を残すことが大事だと思うから」と澄さんはいいます。

「4、5年くらい前、たくさんのお客さんに求めてもらうことがありがたくて、作るパンの量を増やそうとすごく頑張った時があったんです。でもその反動で、夏休みに入った途端(お店は夏場は休業)、酵母の面倒をみなくなってしまったんですね。それでいざ、休み明けにパンを焼こうとしたら酵母が全然言うことを聞いてくれなくて、おいしいパンが焼けなくなってしまって。こんなパンじゃ売れないと思っても、それでも買いたいと言ってくれる人がいたんです。その時に、自分が無理をして生まれた“歪み”は、結局まわりの人にも迷惑をかけてしまうんだと思いました。それでもパンを買いたいと言ってくれる人、自分を支えてくれる人がいるならば何よりもまず自分が楽しんで笑っていられることがとても大事なことなんだと思えたんです。わたしが楽しんでいることがおいしいパン作りに繋がる。おいしいパンを焼けたらお客さんに喜んでもらえる。だったら楽しめる自分でいようと」

営業を休む夏には〈chumart〉のコーヒー、〈MOMO ice cream〉のアイスクリームと一緒に特別メニューを出すイベントを開催。会場となる自宅には、たくさんのお客さんが訪れる。

営業を休む夏には〈chumart〉のコーヒー、〈MOMO ice cream〉のアイスクリームと一緒に特別メニューを出すイベントを開催。会場となる自宅には、たくさんのお客さんが訪れる。

求めてもらえるパンを作りたい。でも子どもに寄り添い、ともに時間を過ごして学校生活にも関わりたい。気持ちよくパンに向き合えるように美術館に行ったり映画を見たりする時間も大切にしたい。生活すること、仕事すること、そのふたつを諦めることないように。そんな暮らしを築けたのは、藤野という土地だったからできたことでもあると澄さんはいいます。

「子育てを1人で抱えていたわけじゃなくて、地域の人や学校の人、みんなで抱えて育ててもらってきた。自分の子どもだけじゃなくて、みんなの子どもも我が子のように感じるような信頼関係の中で育ててこられたからこそ、パン屋さんも続けてこられたんだと思います」

 

・・・・

《取材のおわりに》

自分がまず、何よりも楽しむこと

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藤野に越してきて驚いたのは、週に2、3日のみ営業というお店が多いことでした。東京に暮らしていた頃は、早くから遅くまでお店は開いていて、欲しい時に欲しいものが買えることは便利で良いことだと思っていました。でもここ藤野ではお客さんの時間よりもお店を営んでいるそれぞれの方が自分の時間や暮らしを大切にしているんだと気付いた時、それは素晴らしいことだなと思ったのです。

それぞれの時間、生活を一番大切にすること。澄さんのようにパンをうまく焼けなくなってしまった時、ついつい「もっと頑張らなきゃ!」と前のめりになってしまいそうなところで「まずは自分が楽しむことが大事」と思えるかどうか。頑張ることは大切だけれど、「楽しい」を大事にすることは、「頑張る」のと同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に、何かを生み出していく力があるのかもしれません。

澄さんの話を聞いていて、今までどこかで仕事や生活を「楽しい」と思うことへの罪悪感があった自分にも気づきました。みんな大変なんだから、みんな頑張っているんだから、と。でもその「みんな」って誰なんだろう、とも思いました。自分を大切にすることが結果、自分を求めてくれる誰かを大切にすることに繋がっていく。そうやってまわっていく世界は、便利な世の中よりずっと、誰にとっても心地の良い世の中のように思います。

子育て中に芽生えた違和感をきっかけにして移住した澄さん。小さな心の声に決して蓋をしないまっすぐさが、きっと澄さんの「楽しい」を築き上げる強さに繋がっているんだな、と思えたのでした。わたしも、もっともっと自分の「楽しい」を求めていきたい、と思いました。

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「自分にないものがこの人にはある。」二人揃って、一月と六月。 <鳥取県・境港市>

「カギカッコの形にそそられた」
ひょんなきっかけで形に

鳥取県境港市。鳥取県の北西部にあり、橋を渡ればすぐに島根県の松江市へと入る。米子鬼太郎空港があり、港からは隠岐島や韓国、ロシアにも船が出ている、名実共に境目にある空と海の港である。

観光客で賑わう「水木しげるロード」から一本道を逸れると、カギカッコのような形をした木造モルタル造りの古い建物が現れる。本とミシンの絵が象られたシンプルな釣り看板は、中欧を彷彿とさせる。ここが本・雑貨・ギャラリー・カフェ「一月と六月」だ。

かつてはボタン屋や編み物教室、バー、小料理屋とギュッと小さな店舗が詰まった4軒長屋だったというこの場所に、10年前にオープンした。きっかけは、ひょんなことだった。

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月美さん 「カギカッコのかたちで、この風貌でしょ。なんかちょっと、そそられたの。友人たちと飲みながら、『この建物いいよね』と話していたら、その中の一人が『親戚の物件だから話を通すよ』と言ってくれて。なんとなーく聞いたつもりだったのに、すごく安く借りられることになっちゃって(笑)。話がとんとん拍子にすすんでいったの」

物事は、小さな歯車が噛み合うと一気に加速して進み出す。それでも、ここにこのお店があることは必然だったと思えるくらい、二人は長い時間をかけて地盤を固めていたように見える。

買い物や雑貨が好きなことは、ずっと二人の共通点。家業の建設業をしながら子育てをしていた約20年の間も、お互いに店をしたい思いは漠然とあったという。学生時代は出版社でアルバイトをするほど本好きだった義弘さんは、いつか本屋をやりたいと思っていた。さらに、カフェもできたらと、東京や高知など全国のカフェを巡り、カフェ文化の草分け的存在、栃木県にあるSHOZO CAFEにも足を運んでいたという。
今でこそ、インターネットで全国の情報を簡単に検索できる時代だが、20年以上前の当時は一体どのように情報を得ていたのだろうか。

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月美さん 「この人ね、雑誌からおもしろいことを見つけるが上手なの」
義弘さん 「昔の雑誌は、いろんな情報や要素がバラエティ豊かに含まれていて、社会を表しているようだったんだよね。だから、雑誌をつくるように本屋をやってみたいなって。その時代を確かに生きている人が、本という形で自分の思想や表現を記し残している。そういう本を置けたらなぁって」

本屋を編集する。本が大好きで本屋で働いていたこともある私は、この言葉に感動した。鬼太郎が髪の毛にある妖怪アンテナを立てて妖気を感じるように、義弘さんがアンテナを立てておもしろいことをキャッチしていることで、何気なくこの店に入った人たちが、思ってもいない本を手に取り、知らない世界に出会える。パラパラと捲れる本が実際に目の前にあることの意味は、田舎では特に大きい。

二人の中にあった、「こんなことができたら」という想いから生まれた小さな点。それらがどんどん増えていって、ふとしたきっかけで線となった。それが、「一月と六月」なのだと思った。

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華やかで自由な東京時代と、
それぞれ想いを抱え故郷・山陰へ

この日の二人のいでたちは、義弘さんは縁の厚いべっ甲の眼鏡、月美さんは生成りのリネンのベストに、真っ赤な口紅と眉上に切りそろえられた前髪が潔い。
田舎町ではちょっと異質にも見えるこの二人は、一体どのようなルーツを辿ってこられたのだろうか。境港出身の義弘さんと松江出身の月美さんは、タイミングは違うものの一度は東京へ出ている。義弘さんは、当時から自由度の高さで有名だった文化学院に入学。授業にはあまり出ずに、“適当に”やっていたそうだ。

義弘さん 「境港も港町なので、よそものに対する寛容さはあったと思う。それでも、俺にとっては人付き合いとかちょっと面倒くさいなと思っていた。東京へ行くとみんな知らない人間だし、人にあんまり関わらないでいいっていうのは自分に合っていたかもしれない」

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「とにかく東京へ行きたかった」という月美さんは、女子美術大学に進んだ。入学式の日から自分らしく振る舞う個性的な同級生たちに、最初は気後れしたものの気付いたらすっかり溶け込んでいた。10人くらいのグループでご飯を食べたり、学校を抜けてライブに行ったり、渋谷で飲んで遊んだりしていたという。東京生活を存分に楽しんでいた二人が、故郷・山陰へ帰ってきたのはなぜだったのだろうか。

月美さん 「あたしはね、本当は東京で就職したかったの。でも、松江の母は、あたしが東京で勤め出したら絶対帰ってこないと直感的に思ったみたいで、泣いて『絶対松江に帰ってこい』って。それで、そうか……と思って。あの頃は従順だったのね。

うちの母はね、あたしに似合わず寡黙な人なの。あたしの実家は、松江の駅前商店街でお菓子や果物を扱う商売をやっていたんだけど、母は商売が上手ではなくて。姑、つまりあたしの祖母が仕切っている商売の家に嫁いだから、あたしに近くにいて欲しかったんじゃないかな。あんまりしゃべらない母に泣かれたのが……ああダメ。今はもういないの、67歳で亡くなっちゃったんだ。今生きていたら80歳かな。うちの子どもたちも懐いていて、母との思い出がいっぱいあるみたい。そういう母だったの」

目尻に涙を浮かべて、遠くを見ながら話す月美さん。故郷へ帰るか否か。これは、人生において大きな選択である。同じく結婚を機に鳥取県に移住し、現在は大山町に暮らす美容師の高見法子さん(※記事:「“のんき”と一緒に生きていく。髪を切る、その向こうがわにあるもの。<鳥取県・大山町>)は、「親のそばにいられたらという思いは、親の希望ではなく自分の都合だった」と、親元へ帰らない道を選んだ。一方月美さんは、母の涙ながらの訴えによって楽しかった東京生活にピリオドを打ち、実家の松江に帰ってきた。時代の変化もあるかもしれないが、三者三様の家族のかたちがある。そして、みなそのときにした自分の決断に納得し、前だけを見て生きている。

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1階の本売り場。昔から本が大好きだった義弘さんの自宅には、店に置いてある3倍ほどの本があるそう。

義弘さん 「私も帰る気はなかったけど、父が境港で建築業を立ち上げていたので、一人っ子だし、一応継ぐという形で戻ってきました。昭和40年代はオリンピックもあって、建築業は上り調子の時期。でも、帰っては来たものの結局建築の仕事なんてほとんどしていなかった。

あの頃は政治的にもいろいろなことがあった時代なんですよね、学生運動が元気なときで。東京でそういう影響を受けていたので、戻ってきた境港の時間の中で俺は異質な感じだったかもしれない。目立たないように生きてきたけど、いつもモヤモヤしてた。今の若い人たちが、自分たちでスッと新しいことをやっていく姿を羨ましいなと思う」

花屋での出会い。
一月と六月が熟成していく20年

鬱屈した思いを抱えながら過ごしていた義弘さんは、勤め先だった米子市内の花屋で、月美さんと出会う。お互いの第一印象はどうだったのだろうか。

月美さん 「お花屋だから長靴姿だったのだけど、普通のじゃなくてミツウマっていう乗馬の靴みたいなシュッとした靴を、細身のジーンズと履いていたの。長靴姿なのにカッコ良く見えて。で、風貌はへらへらした自由人って感じで、髪は今より長かった。スタイリッシュじゃないけど、絶対個性がある変な風貌だったの。だから、なんかちょっと惹かれたみたい」

義弘さん 「今とは違うカチッとしたスタイルをしていて、今まであんまり出会ったことがないタイプだった」

出会った瞬間にフィーリングが合った二人。今から約40年前、月美さんが22歳の頃のことである。そして、間もなく結婚へ向かっていくことになるが、両家の両親に安心してほしいという思いから、月美さんから義弘さんへ家業の建設業を継ぐことを勧めたという。

義弘さん 「最初は花のことをやりたい思いもあったんですけど、私は流れのままに生きているところがあるので、実際の生活を考えたときにその方がいいかなと」

月美さん この人は、二人で花屋ができたらって思ったみたい。だけどそれは甘いよって言ったの。色んなことに首出しても、商売ってそう簡単にできるもんじゃないから」

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所狭しとものが置かれた「一月と六月」の店内。山陰の作家の作品を多く扱うが、小難しい分類はせずに、良いと思ったものが集められた宝石箱のような印象だ。「東京だと、全然ものが置いていないお店があるでしょ。私はそういう店が好きだし、とても勉強になるんだけど、ここでそれをやっちゃうと、ハードルが高い気がして。いっぱい並べて選べた方が手にとりやすいかなって」と、月美さん。

結婚して1年後にはお子さんが生まれた。3人の子育てに追われる日々が続き、家業では義弘さんが2代目の社長になり、月美さんが右腕となって働いた。

「そう簡単に商売はできるもんじゃない」。商家に育った月美さんのこの言葉には、商売に対する真剣さ、誠実さが感じられる。月美さんの祖母は松江の商家の生まれで、月美さんは祖母の接客している姿を見て育ったという。

月美さん 「今あたしの中に素地としてあるのは、おばあちゃんの姿だと思う。おばあちゃんは、冬には着物を着て店に立つ、粋な人だったの。朝早く起きて店の掃き掃除をして、ごはんを作って店に立って。松江だから15時にはお抹茶を点ててた。

そして、離れの部屋には季節の花が必ず生けてあった。3月はユキヤナギに水仙、春はコデマリとフリージア。子ども心にも、セットにして生けるときれいなんだなって思った。それが当たり前の生活だったの。さっきまで台所仕事をしていても、ひとたびお店にでるとシャキッとして、忙しい中でも凛としていた」

「一月と六月」に行くと、いつでも綺麗にお化粧をして服も姿勢もシャンとした月美さんが迎えてくれる。月美さんのこの姿は、祖母から受け継いだものだった。このお話を聞いて、小さな納得をいくつもしている自分がいた。

商売の厳しさを知っているからこそ、片手間ではできないとかつては潔く手放した。しかし、子どもの手が離れ、いろいろなタイミングがピタリと合って、「一月と六月」が生まれた。この20年の月日が、「一月と六月」が熟成していくためには必要な時間だったのかもしれない。

キャプション:カフェの説明?

二階にあるカフェ。窓から町を見下ろしながら静かに本を読むことができる。

「“さかえ”だけえ」
港町に新たに吹き込む風

地元の人は、境港のことを「さかえ」と呼ぶ。合言葉のようにみなが口にする「“さかえ”だけえ」という言葉。よそ者の私にはわからなかったが、「物事をそんなに深刻に考えない、あっけらかんとした“境港気質”」というのがあるらしい。

最近、一度は県外へ出たが故郷境港へ戻って自分の店を構える若者が少しずつ増えてきている。店に彼らの商品を置いたり一緒にイベントをしたりと、若い世代を応援する「一月と六月」は、彼らにとって強い存在なのではないかと想像する。

なにもない土地に人はこない。一軒でも変わった店があると、自ずと人は集まってくる。町に戻る若い人だけでなく、ふらりと立ち寄るさかえの人々、そして遠方からくるお客さんたち。10年もの間、愛され続けるには理由がある。

朝の「一月と六月」。かつてこの辺りには映画館が3つあり、飲み屋が連なっていたという。

朝の「一月と六月」。かつてこの辺りには映画館が3つあり、飲み屋が連なっていたという。

義弘さん 「うちをおもしろいって思ってくれる人もいるし、何にも思わない人だっている。わかって欲しい気持ちはあるけど、わかんないかもしれないなとも思うし。まあ俺は商売人じゃないから」

月美さん 「10年間、一緒にこのお店やってるけど、ほんとこの人ね、商売人じゃないのよ(笑)。でも、あたしにないものがこの人にあって、この人にない商売っ気があたしにはあって。それで、一月と六月。

この人はしゃべるの下手だけど、あたしは逆にしゃべりすぎるんだよね。あたしの母みたいに、10言いたいことのうち3くらいを言ってたらいい女になれるのに。でも急に3にするのは難しいから、これからは10言いたいことの5程度にしようかな……、って言った矢先にもう10しゃべってるわね(笑)」

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お互いが尊重し合って、一月と六月。これ以上の言葉は見当たらないないほど、二人をよく表された店名だと改めて思う。

鬱屈した思いを本屋というひとつの形に昇華させた文学青年・義弘さんと、祖母譲りの凛とした商売人・月美さんによって、新旧さまざまな世代の人やものが集う場所が、この境港に今も新たな風を吹き込んでいる。

今まで私は、「一月と六月」に行くために境港に行っていた。しかしこれからは、「一月と六月」と、そこからさらに広がる「さかえの人々」に会うために、またこの町へ足を運ぼうと思う。

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“のんき”と一緒に生きていく。髪を切る、その向こうがわにあるもの。 <鳥取県・大山町>

「親のそばにいられたら」という想いは、
親の希望ではなく、私の都合だった

2階の窓から。「夜は、海側に漁火、山側は星がよく見えるんです」と、高見さん。

2階の窓から。「夜は、海側に漁火、山側は星がよく見えるんです」と、高見さん。

鳥取県大山町(だいせんちょう)と聞くと山を想像する方が多いかもしれないが、高見さんの住む家は海からほど近い塩津という場所にある。海風を受けてゆっくりと回る白い風車を背に、赤い瓦屋根の家が立ち並ぶ細い道を歩いて行くと、石垣に囲まれた大きな日本家屋が見えてくる。

この家の一角に、2017年9月、「ヘアサロン タカミ」は生まれた。ここに美容院があることを、通りすがりの人は気付かないだろう。「ヘアサロン タカミ」は高見さんご自身と同じように、ぐいと目立ちはしないが芯を持ってその場にじわりと根を張っている。

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島根県の津和野町出身で、学生時代と結婚するまでの期間を山梨で過ごした高見さんは、結婚を機に夫の故郷である鳥取へ移り住む。夫の祖母が一人で住んでいた大山町のこの家に、現在は祖母と夫、二人の子どもと共に暮らしている。

私と高見さんの出会いは3年前で、彼女のお腹の中には第一子がいた。その頃、この家は土間が広がる純日本家屋だった。延々と続く畳の部屋の隅に置かれたこたつで、高見さんや友人たちと毛布をかぶって肩を寄せ合いながら話をしたものだ。今はリフォームされて、フローリングの室内に薪ストーブがあたたかい。

私自身、東京から鳥取へ来て早5年。古民家に住むことは、古い家に住むことが目的なのではなく、あくまでも暮らしてくための手段なのだと感じている。住む人が自分たちの状況に合わせて変化させていく————こういう新しい古民家暮らしもいいものだなあと、少し寂しさも感じながら木の匂いのするリビングを目を細めて眺めた。

寺の一人娘として生まれた高見さんは、ゆくゆくは実家の津和野に帰るつもりでいた。山梨で出会った夫に、その思いを伝え同意の上でつき合いだした。

「お寺を継ぐというよりは、私は一人っ子で親が高齢だから、介護とか看取るのもそう遠くはないと思っていて、だから親の近くにいられたらなっていうのを思いはじめた時期だった」

しかし、状況は大きく変化する。

「夫のご両親から、『鳥取に1回遊びにおいでよ』と言われて行ったら、蟹料理の席が用意されていて、『で、結婚はいつにする?』となって……。それで、プロポーズも何もないまま、結婚が決まっちゃったんです(笑)。
私の両親も、『自分たちのことはいいから、相手の気が変わらないうちに早く嫁に行け』って。私は父親が45歳の時の子どもなので、当時二人は70代後半だったのかな。だから嫁げば安心というか、自分たちのせいで娘を縛りたくないという思いがあったと思う。

そのとき、近くにいられたらなっていうのは、親のためだと思っていたけど、実はそれはむしろ私の都合であり、私の希望だったんだってことに気がついて。だってここ鳥取から島根の親を介護するとなると大変だし、近くだったら自分が楽だから。
本来の私は、どこでも住めば都なので、地元もお寺もすごく好きだけど、離れるということにも実はそんなに抵抗がなかったなって」

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親の老いを目の当たりにし、近くに自分がいられないことへのもどかしさは、私も常につきまとう。「あなたの好きにしなさい」、と言ってくれる母のことばのうしろに広がる思いを想像して、少し涙が出そうになった。

「もともと、結婚はしてもしなくても楽しいだろうと思っていました。でも、結婚が決まって結納あたりで、『もしかして私好かれてる? 認められてる?』って初めて実感して。それには自分でもびっくりしました(笑)。

新婚旅行で行った石垣島の船着き場で、夫がちょっとトイレに行ってくると荷物を置いてふらっと出て行って。そのときにふと、『ああ、このまま待っていても、きっと戻ってくる。って思えるっていいな』って思ったんです。戻ってきた夫にそれを話したら『今までどんな恋愛してきたの?』と可哀想がられちゃいましたけど(笑)」

他の人からみたらなんてことのない、流れていく日常の中でのふとした瞬間の気付き。こういう瞬間が、実はあとから振り返ってみると自分の意識が変わっていく転機だったりする。小さな気付きの積み重ねが、今高見さんが鳥取にいることに繋がっているのだと感じた。

私が頑張る、を手放して
人に委ねると「うまくまわる」

結婚当初は、米子市のアパートを借りて街の美容院に勤めに出ていたそうだ。夫が仕事を辞めたことで、夫の祖母の住む大山の家へ移り住むことになるが、最初は戸惑いもあったという。

「私が頑張るからアパートにいたいって思っていました。大山の家には1、2回しか来たことがなかったし、おばあちゃんもおられるし……。とはいえ、金銭的にしょうがないね、となって。夫は家の2階を私たちが住めるように自分でリフォームして、生き生きと『おれ、大工になればよかった!』とか言っていて。のんきでいいなと思いながら私は働いていましたけど」

私は人に頼ることが苦手だ。親や誰かの手助けを素直に受け入れられず、つい自分でやろうとしてしまうが、高見夫妻は「かじれるスネはかじる」と、にこやかに言い放つ。その姿がむしろ格好いいなと思う。昔は頑なだったという高見さんがそう変化していったのはなぜだろうか。

近所の保育園へ長男の耕生くんをおくるのは、旦那さんの滋さん。

近所の保育園へ長男の耕生くんをおくるのは、夫の滋さん。

「一番の理由は、夫が、彼のお母さんも言っているように、“のんきが服を着て歩いている”ような人だからですね。例えば、誰かに『何かをしてあげる』と言われた時に、私は自分の親でも義理の親でも、『大丈夫です!』って反射的に断っちゃうけど、彼は『ラッキ〜!』『やった〜!』って言う。最初は、『何この人? 』と思ったけど、その方がなんだかうまくまわるんだよね。私も、高見家の中では、それができるようになってきた。彼は、親子間だけでなく他の人との間でもそういうのがうまいから、見習いたいなと思う。してもらったことは心に残るから、何かのときに今度は自分がしてあげよう、って思うしね。

大山の家に来た最初の日に、おばあちゃんが『お互いのペースでやろうね』と言ってくれて、一気に楽になった。サバサバしていて、めっちゃいいばあちゃんなの」

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関係を清算しないで“前向きな負債感”を持つことは、私も鳥取に来てから学んだ。 借りを作ることで、おたがいさまの気持ちが生まれて相手に優しくなれる。人に世話になることを拒むのは、逆に誰の世話もしたくないという自分の表れだったのかもしれない。ふらっと立ち寄ることが苦手な私が、唯一高見家にはふらっと立ち寄れるのは、そんな高見さんの“気持ちのよいのんきさ”に触れると、自分の中にある硬い部分が緩まるからなのだと思った。

子育てと折り合う働き方
———「ヘアサロン タカミ」のできるまで

鳥取へ来てからも、12年間働いた山梨の美容院へ毎月1週間は働きに行っていたという。3週間は鳥取で、1週間は山梨で仕事に励む生活。そんな高見さんに転機が訪れたのは、長男を妊娠したときのこと。切迫早産となり、予定していたよりも2週間早く里帰り先の津和野へ帰らなければならなくなった。

「ギリギリまで働きたかったから、結構荒れてました。頭ではわかっている。子どもを優先させなきゃいけない、一人の身体じゃないって。でも自分のお客様に、この日までやると言っていたのに、バーンとその2週間がなくなるのはとても不誠実な気がした。今までは自分が頑張りさえすれば解決できたし、体感としても別にしんどいわけじゃないから、『わたしできるよ』って思うのにそれを諦めなきゃいけないのはやっぱりすごく……悔しかった。お客様に手紙を書いて、すみませんって言うしかできなくて。帰っちゃえば帰っちゃったでね、安静という名のもとにぐうたらしてましたけど(笑)。

ロールプレイングゲーム的にいうと、今までは自分一人だけが主人公というか勇者だったのが、子どもが勇者になることもあるんだなという感じ。それならその時は、私は僧侶あたりでいいのかな、と徐々に切り替わっていきました」

 
長女の知歩ちゃん。生後3ヶ月半の知歩ちゃんは、日に日にお兄ちゃんの耕生くんに似てきているそう。

長女の知歩ちゃん。生後3ヶ月半の知歩ちゃんは、日に日にお兄ちゃんの耕生くんに似てきているそう。

この話を聞いて、私はとても驚いた。当時、早めに産休に入ることを笑顔も交えて話している高見さんの様子を見る限り、その事実をスッと受け入れているように見えたからだ。でもよく考えたら、そんな単純にいくわけがないよなとハッとして、口の中に苦い味が広がった。

女性は、妊娠することですぐに母親役割へとスイッチが切り替わるわけではない。端から見ているとその変化がスムーズに見えたとしても、その裡で沢山の葛藤と折り合いをつけている。「母親だからこうしなければ」と自分を律し、思いを素直に表に出せず、一人苦しむ女性たちを、私は何人も見てきた。少しためて、息を吸い直してから口にした高見さんの「悔しかった」ということばに、その時の思いが滲んでいた。助産師として働く私は、こういう女性たちの目には見えない悔しさや小さな決断に寄り添っていかなければいけないと改めて感じた。

鳥取県へ移り住む時、山梨県で参加していた地域団体の方々からもらったという寄せ書き。

鳥取県へ移り住む時、山梨県で参加していた地域団体の方々からもらったという寄せ書き。

産後2、3カ月で仕事復帰をするつもりだったという高見さん。しかし、出産を経験し成長していく我が子を見ているうちに、この成長の一瞬でも見逃したくないと思うように変化していったという。

「この先ずっとハサミを置くか、美容師をやめるかと言われたら、私はやりたい。でも、勤めに出ることと子育ては、すごく折り合わない。残業なしで土日を休める美容院もあるけど、私は現場に出たら絶対に仕事をしたくなるし、残業だってしたくなる。『18時だけどお客様を入れてもいいか』と聞かれたら、受けるって言いたい。でも、そうしたら子どもは見られなくなる———。

その時に初めて、自宅の中にサロンを作ることを思いついたんです。それから、家族も応援してくれて、半年後には店をオープンしました。子どもがいなかったら、絶対に自分ではやらなかったですね。お客さんは、1日1組から2組ぐらいです。育児から切り離される時間はある意味息抜きにもなるし、社会にも必要とされている感じがします。子どもは見たい、仕事はしたい。両方のいいとこ取りができるのがありがたいです」

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髪を切ることの向こうがわにあるもの

お店を始めて地域のおばあちゃんと一対一で話せるようになって、より地域に入れた感じがしているという高見さん。外から来た者にとって、地域の方との関係性をどう築いていくかはなかなか難しいテーマだと感じている。一体どのような関わりから始めたのだろうか。

「こんなに小さい、30軒くらいの集落でお店をやる以上、まずは地域の人に好かれたいと思いました。地域の寄り合いに顔を出して、プレオープンの1週間は、地域の方向けに半額でやるので来て下さいってメニューを配って。おばあちゃんたちの口コミで、その後も来てくれる人がいます。『歩いて行けて嬉しいわ』って言ってくださる。

オープンして間もなく、100歳近い要介護の方のお宅へ髪を切りに伺ったんですが、その2週間後にその方は亡くなられたんです。最後にカットさせてもらえて、少しでもお役に立ててよかったなあと思いました。その後、ご家族の喪服の着付けもお願いしてもらって。こういうことがあると、地域に入れていっている実感が少しずつでてきますね。

でも、これは私の力ではなくて、うちのおじいちゃんやおばあちゃんがこの地域でやってきたことのお陰なんです。年配の方はみんな『ふみえさん(祖母)のところでやっている美容室』って言うんですよ」

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地域のために何かやるというよりは、誠実にやっていることでそれ以上のことがついてきている。街に勤めに出て、家に寝に帰るだけでは得られなかった、地域の中で生きる、生かされているという実感に胸を打たれた。

「先に目指す何かがあって、それに向かって進んでいくというのが苦手なんです。目の前にあることを見て、じゃあ今はこうしてみようかという感じ。遠い先をあんまり見られないんです」

未来は、今の積み重ねだ。結婚して、子どもができて、その都度自分の思いに正直に向き合い、カクカクとではなく流れるようにしなやかに、“のんきさ”も携えながら形態を変えていっている。出会った頃とはまた違う今の高見さんが、私は改めてとても好きだと思った。

医療系メーカーの営業マンが、300年の歴史ある「仙霊茶」の畑を継ぐまで。

特に不満のなかった会社を辞めて
新規就農者になる

「ただ自分が機嫌よくいられるかどうかを物差しに、目の前に現れた選択肢を選び取ってきただけなんです。気づいたら茶農家に流れ着いていました」。

これまでのことを飄々と語る野村さんの話を聞いていると、それまでの生活が一変するような場所へ移住したことも、特別大きな決断だとは捉えていないように見えた。

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視界が緑で埋め尽くされるような、山あいのなだらかな斜面いっぱいに広がる茶畑。この神河町の総面積の8割が山林で、水源に恵まれ、昼夜の寒暖差もある。お茶栽培にはこの上ない風土なのだというが、一人で切り盛りするには途方に暮れてしまいそうな広さだ。けれど、この景色を見た瞬間、野村さんは迷いなくこの茶園を引き継ぎたいと手を挙げたのだという。

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「実は、最初にこの茶園を見にきたのは自分のためではなかったんですよ。36歳で脱サラしたあと、新規就農で生姜と胡麻農家の道を歩み始めていたんですが、周りには『あっさり転身した人』という風に映っていたみたいで、前の職場の後輩なんかが『僕も人生に迷ってて野村さんのように生きてみたい』と訪ねてくるようになって。その中の一人に茶農家になりたいというやつがいて、たまたまこの茶園が新規就農者を募集していると聞いて、紹介するためについて行ったんです。それが、いざ茶園を目の前にすると、当の本人はピンとこなかったみたいで、逆に僕がすっかり一目ぼれをしてしまいました(笑)」

聞くと前職は、医療機器を製造するかなり安定的な会社の営業担当だったという。会社に不満があったわけでもなく、そのまま働いていても不自由なく暮らせていたけれど、いくつかの小さなきっかけが野村さんの向かう先を自然と変えていくことになる。

背丈を超えるほどの高さまでのびた茶葉を、整枝機で刈り取っていく。茶摘みは2人での作業が必要なため、SNSでアルバイトを募集。そんなフットワークの軽さも野村さんらしい。

放棄され、背丈を超えるほどの高さまで伸びた茶の木の枝を、トリマーで落としていく。茶摘みは2人での作業が必要なため、SNSでアルバイトを募集。そんなフットワークの軽さも野村さんらしい。

「僕は神戸生まれですが、入社して以来ずっと東京勤務で、10年目で神戸の本社に異動になったんです。それで、かねてから著書を読んでいた哲学者で武道家の内田樹さんが神戸で開いた『凱風館』という合気道の道場に通うようになりました。この道場に行くと、エネルギッシュな自営業の人が多いんです。弁護士や大学の先生、小さな出版社を経営している人……そういうインディペンデントに生きている人たちと接しているうちに影響を受けた部分もあると思います。それに、あの頃は安倍内閣が解釈改憲に大きく踏み出したときでもあった。僕自身、それまで政治には大して興味がなったんですけど、あのニュースにすごく不穏なものを感じたというか。これからはもっとインディペンデントに生きないと。どうすればもっと時勢に左右されない強い生き方ができるだろうか、という思いがふつふつと湧いてきました」

 

農家の友人は、サラリーマン以上に
悠々自適な暮らしをしていた

野村さんの中にそんな動機が生まれていたとき、たまたま出席した高校の同窓会で米農家の友人と再会する。これが追い風になって、いくつかの点が一本の線へとつながっていく。

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「彼は朝来市で、米を自然農で栽培していると言いました。その当時、僕は自然農自体も知らなかったので、農薬も肥料もやらないと聞いて驚いたんですよね。おまけに『肥料をやらないというのは、田んぼに流れてくる水がすべての栄養分になる。だから、山から降りてくる水をよくするために、冬は林業をする』と。彼の話は、そのときの自分にはないスケール感がありました。興味が湧いて、そのあと彼の畑を訪ねたんです。今は4人目の子どもがいますけど、当時は奥さんと子ども3人と暮らしていて、2階建ての家も近隣の建て壊しになった家の建材をもらったりして、自分で建てたと。その上、農業で完全に独立生計を立てて家族を養っているという。普通に聞いたら相当大変そうですよね? でも『雨の日は仕事しない』とか『朝は8時起き』『土日は必ず家族サービスで休む』『妻は一切畑を手伝わない』って……こんな生き方があるのか!と。“農家=きつい仕事”というのはただの先入観でしかなかった。自分で食料が作れるというのは、紙幣にすら支配されていないんだな、と気づいたときに、もう僕の気持ちは決まってました」

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茶畑の脇には、あちこちに清流が流れている。

茶畑の脇には、あちこちに清流が流れている。

この直後に、あっさりと会社に辞表を出して朝来市へ移住。新規就労の道を歩み始めた。まずは、「好きだから」という理由で生姜と胡麻を栽培することにしたが、ゴマについては教えてくれる人がいなかったので、自分で日本各地のゴマ農家を訪ね歩いた。住む場所も、どうやって稼ぐかも、やりながら考える。それでもなんとかなっていくところが野村さんの不思議なところだ。

「朝来市に移住して間もない頃に、大きな民家が借りられるという話が持ち上がって、僕の話を聞いて実際に移住してきた若い子が2〜 3人いたので、シェアハウスにしようと、共同生活をしてました。酒が好きなんで、冬の閑散期は、近くの酒蔵で酒造りの手伝いもさせてもらったり。そうした縁から、古い酒蔵をリノベーションしたホテルの敷地にあった納屋で、「酒 ごぜる」っていうバーをやらせてもらうことになって。神河町に引っ越すタイミングで、前に働いていた会社の後輩が辞めてこっちに来たので、任せることにしました。朝来市での最初の2年間はそんな感じで、すべてが出たとこ勝負。計画的に進めたことは一つもありませんでした(笑)」

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竹田城跡地からほど近くにある、野村さんが現在もオーナーを務める日本酒バー「酒ごぜる」。カウンターに立つのは、会社の後輩だった山里佳世さん。朝来市にある酒蔵の日本酒「竹泉」「但馬」と、本文中の高校時代の同級生が営む「ありがとんぼ農園」のどぶろく「ほうすけらっぱ」などを扱う。下:左から、野村さん、「酒ごぜる」の共同創業者で、現在は「ココ鹿」というジビエ精肉業を営む高田尚希さん、野村さんと合気道の同門で、朝来市に移住し、現在は「竹泉」で蔵人として働く小松原駿さん、近所の郵便局員の村岸隆行さん。

竹田城跡地からほど近くにある、野村さんが現在もオーナーを務める日本酒バー「酒ごぜる」。カウンターに立つのは、会社の後輩だった山里佳世さん。朝来市にある酒蔵の日本酒「竹泉」「但馬」と、本文中の高校時代の同級生が営む「ありがとんぼ農園」のどぶろく「ほうすけらっぱ」などを扱う。下:左から、野村さん、「酒ごぜる」の共同創業者で、現在は「ココ鹿」というジビエ精肉業を営む高田尚希さん、野村さんと合気道の同門で、朝来市に移住し、現在は「竹泉」で蔵人として働く小松原駿さん、近所の郵便局員の村岸隆行さん。

風土の力に委ねながら、
無理せずおいしいお茶を作る

渋みのないすっきりとした飲み口で、あとからうま味がじんわりと広がる。茶園を引き継ぐと決めてから2年間、仙霊茶の茶園の他にも朝来市にある茶園でも修行し、ようやく自分の力で収穫したという「仙霊茶」は、なり行きでたどり着いたとは思えない味わいだった。

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野村さんが作る「仙霊茶」。無農薬、無肥料と、ほぼ自然栽培。爽やかなのみ口で甘味とうま味がいいバランスの煎茶、天日で酸化発酵させた烏龍茶、香ばしい香りが口いっぱいに広がるほうじ茶、夏の終わりに摘んだ茶葉を使って作った紅茶を合わせた4種類。この日は真夏の炎天下の中、水出しの煎茶とほうじ茶を飲ませてもらったけれど、どちらも暑い日にはぴったりのすっきりとした味わいだった。

野村さんが作る「仙霊茶」。無農薬、無肥料と、ほぼ自然栽培。爽やかなのみ口で甘味とうま味がいいバランスの煎茶、天日で酸化発酵させた烏龍茶、香ばしい香りが口いっぱいに広がるほうじ茶、夏の終わりに摘んだ茶葉を使って作った紅茶を合わせた4種類。この日は真夏の炎天下の中、水出しの煎茶とほうじ茶を飲ませてもらったけれど、どちらも暑い日にはぴったりのすっきりとした味わいだった。

「もともと仙霊茶は、300年ほど前に神河の風土がお茶の栽培に向いていると見出したあるお寺の住職が、農家に片手間でお茶栽培をやらせたのが始まりだと言われているんです。神河町一帯の農家さんの家の裏庭に1、2畝ほど栽培されたお茶を収穫して、それを全部集めて選り分けて、京都にある天皇家ゆかりの尼寺だった宝鏡寺に納めていた。なので、その当時はこんな茶畑もなかったんです。それが、40年ほど前に農林水産省の基盤事業というのがあって全国的に茶園が増えたんですよ。僕が受け継いだこの茶畑は、そのときに山を開墾して作られたもので、20軒くらいの農家が生産組合を作って20年以上にわたって無農薬で栽培していました。それが、どこもそうですけど、高齢化や後継者不足で2015年に組合が解散してしまったんです。それで、地元の人や信用金庫、大学などが支援する形で新規就労者を募集することになった。僕が出合ったのはこのタイミングでした」

野村さんの茶畑は、これまでほかで見たことのある茶畑とは少し様子が違っているように見えた。畝が、いわゆる植木のようにピシッとしていない。「わりとワイルドですね」と言うと、「性格が出ますよね(笑)」と野村さん。

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「まだ就農して5年そこそこだから大きなことは言えないんですけど、ここは幸いずっと無農薬で育てられてきた畑だから、お茶も自然栽培に近い形で育ててみたいなと思っているんです。僕が米農家の友人に再会したときに抱いていたような、すごく苦労しないといい作物が育たないという農業への先入観は、実際に自分が農家になってみても、やっぱり幻想なんじゃないかなと思うんです。お茶の栽培は窒素肥料を与えることでうま味が増すと言われていますけど、それがお茶のおいしさの全てではないんじゃないかなと。300年前に見出されたこの気候風土があれば、人間の介入は最小限でも自ずとおいしく育っていくんじゃないかと思っているんです」

確かに、野村さんが育てた仙霊茶には、肥料を与えていなくてもしっかりとうま味があった。従来の方法に捉われすぎず、自分なりの答えを探し続けること。その積み重ねが、野村さんらしい仙霊茶へと味わいを深めていく。

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自分の「やりたい気持ち」を大切に。 正直に、ただ進んでいくだけ|【お母さんだから、できることvol.2】

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お母さんの中にある
好きなことへ向かう気持ち

春はグリーンピースやビーツ、夏には桃に梅、秋になったら栗やかぼちゃ、そして冬には春菊まで。季節の野菜や果物を使ってその時にしか食べられないアイスクリームを作るのは「MOMO ice cream」の飯田知子さん。2017年春、私が藤野に越してきたまだ数日のある日のこと、自治会長さんに最近越してきた家族がもう一組いるからと紹介されたのが“知ちゃん一家”でした。

互いの家と家は歩いて2分ほどの距離、それぞれ小さな子どもが2人いるという共通点もあってすぐに親しくなった知ちゃんから「アイスクリーム屋さんを始めたい」という夢を突然聞いた時は「それは素敵!」と思ったことをよく覚えています。その後の知ちゃんの動きは驚くほど早く、翌月には地元の農家さんに提供してもらった野菜や果物でアイスを作り始め、そこからは毎月のように新作アイスを考案しては地元のイベントで振る舞うことを始めました。今では藤野でアイスといえば「MOMO ice cream」と知られるほど地元の人に愛さているアイスです。

MOMO ice creamの名前の由来は知ちゃんが大好きだというミヒャエル・エンデの『モモ』から来ている。よく見ると物語で重要な役割を果たす亀が看板に。

MOMO ice creamの名前の由来は知ちゃんが大好きだというミヒャエル・エンデの『モモ』から来ている。よく見ると物語で重要な役割を果たす亀が看板に。

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知ちゃんを見ていてすごいなと思うのは、日々アイスクリームの試作や仕込みに向き合う姿勢もさることながら、子どもがまだ小さい時期にもかかわらず、たった1年で一からここまで立ち上げたということ。「いつまで」という期限もなければ、仕事になる保証もない、動機はただただ自分の「やりたい気持ち」だけ。あきらめず動いて、実現していくには、相当な根気と本気がなければなかなか続けることはできません。現在、実店舗のオープンにむけ、着々と突き進んでいる知ちゃんの原動力は何なのか。そしてそもそもアイスを作ろうと思ったきっかけは? ずっと聞きたいと思っていたそんな話を、じっくり聞かせてもらうことにしました。

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あんずのケーキを持って知ちゃん宅を訪れた。こうしておやつや食事を持ち寄ってどちらかの家でお茶をすることが多い。

あんずのケーキを持って知ちゃん宅を訪れた。こうしておやつや食事を持ち寄ってどちらかの家でお茶をすることが多い。

テキスタイルの道から
アイスクリーム作りへ

美大でテキスタイルを専攻し、20代の頃からずっとテキスタイルの仕事をしていた知ちゃんは、大学卒業後に憧れのテキスタイルデザイナー須藤玲子さんの会社に入り、朝から晩まで働いては、世界中を飛び回る日々。働き出して3~4年はすごく楽しかったという知ちゃんですが、だんだん苦しくなっていったといいます。どうしても入りたかった念願の会社に入ったのに、なぜ?

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須藤さんの作るテキスタイルが収められた作品全集。今も自宅のすぐ手の届く棚に飾られている。

須藤さんの作るテキスタイルが収められた作品全集。今も自宅のすぐ手の届く棚に飾られている。

「須藤さんみたいになりたい!と思って会社に入ったけれど、近くなるほどにすごさを痛感して、私はこの人みたいにはなれないって思ったのかな。その頃、大学時代からのパートナーと結婚したんだけど、29歳の時に体調を崩して入院してしまって。絵が苦手な自分には向いていない仕事だと気づいて、テキスタイルの道を退職してからは今度は背伸びせずに素直に自分の好きなことを仕事にしてみようと考えました」

“自分の好きなこと”とは、高校時代、テキスタイルと同じくらい迷っていた飲食の道だった。知ちゃんが選んだのは料理でも焼き菓子でもパンでもなく、アイスクリーム。フランスを旅した時に出会った、あまりにもおいしいアイスクリームは、ほかのどんな食べものよりも “ワクワク”する特別なものだった。

「とはいえ、アイスクリームを作ったこともなかったから、本を見つつ独学で作り始めたんです。どこかで修業することも考えたけれど、もう30歳だったしパティシエの人が作るようなアイスを目指すんじゃなくて、自分なりにやってみようかなと。アイスはありとあらゆるものが素材になるし、アイスキャンディーもアイスサンドもパフェもケーキにもできる。友人・知人を通して食べてもらううちに仕事として軌道に乗ってきたなと思ったところで、1人目の子どもが生まれて、休業状態になってしまったんです」

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不安だらけの子育てと向きあう
日々の中で生まれた覚悟

2012年に長男の歩太郎(ほたろう)くん、2014年には次男の道(みち)くんが生まれました。やりたい仕事を始めた矢先の妊娠、初めての出産、子育てに必死だったという知ちゃん。近所には子育てしている友だちもおらず、わからないことらだけ。仕事で忙しい夫に頼ることもできず、1人で不安を抱えていた時、旧友の紹介で「森のようちえん」の存在を知って子どもを通わせることにしました。

お母さんたちが中心になって、園舎を持たずに自然に触れながら外で目一杯遊ばせながらのびのび育てる「森のようちえん」という活動は“公園と家の行き来だけで精一杯になりがちな都会での子育てとは違って、とても魅力的に思えた”という知ちゃん。

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「長男が1歳半くらいの時に入って、それから3歳半まで、途中で次男の誕生を挟みながら通いました。お母さんたちが協力し合って自主運営でやっているので、私もやることがたくさんあって大変でしたけど、こうやって過ごすことが子どもに良かろうと思いながら頑張る日々でした。たくさんのお母さんたちと出会い、子どもたちと過ごせたきらきらした時間だったけれど、子どもと四六時中関わる活動をする中で、私は子どもと遊ぶことが苦手なのだと思い知らされたんです」

そんなふうに子どもと向き合う日々に苦しさを感じていた知ちゃんの「育児しかない生活は辛かった」という言葉は、私自身の言葉のように感じました。みんなやっているはずのことを辛く感じてしまう私は駄目な母親なんじゃないか。そんなふうに辛いと感じる感情すらも自己否定に繋がってしまう。誰に何かを言われるのも苦しいけれど、自分で自分を否定してしまうことも、とても苦しい。そんな日々の中で藤野への移住は、知ちゃんにとって大きなできごとでした。

「その頃、家を探していたんです。上の子が小学校にあがるまでにどこかへ引っ越したいなというのはあったけれど、最初は“移住”とか全然意気込んでなくて。でも自然が多いところ、けれど夫の仕事を考えると駅からそんなに離れ過ぎず……でもそんな簡単に条件に合うところはみつからなくて、どんどん沿線を下っていったら藤野に辿り着いた(笑)。駅に降り立った時に『いいかも!』って思ったんです」

流れに身を任せて、藤野にたどり着いた知ちゃん。そこから一旦置いたままになっていた、やりたかったアイスクリーム作りへの夢がむくむくと立ち上がってくる。

暑い季節にはさっぱりとしたソルベ類も多く作る。すもものソルベは色も鮮か。近所の友人に頼まれてお誕生日のアイスケーキも作る。デコレーションはその時の感覚を大事に即興で。

暑い季節にはさっぱりとしたソルベ類も多く作る。すもものソルベは色も鮮か。近所の友人に頼まれてお誕生日のアイスケーキも作る。デコレーションはその時の感覚を大事に即興で。

「引っ越したらアイス作りの活動をしようというのは決めていました。それはやっぱり子育てに向き合っていた4年間がしんどすぎたのが大きかった。森のようちえん時代、良かれと思って毎日子どもと向き合って、でも毎日イライラしていて。全力で子どもと向き合った結果、お母さんがイライラしているなんて本末転倒だなあって気づいて。子どもにイライラしている姿を見せるよりも、好きなことをしている姿を見せたいって思ったんです」

保育園に子どもを預けたことで「すごく変わった」という知ちゃん。子どものいない開放感を感じつつも、お金を払ってまで子どもを預けたからこそ、自分にもウソをつけなくなった。「いま、やるしかないんだ」と覚悟が決まった。そこからのスピードは驚くほど早かった。

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「藤野は、何でもあると言ってもいいぐらい食材に恵まれた土地でした。ビオ市(藤野で開催される地元のオーガニック野菜やお惣菜が集まるマルシェ)の主催者の方と知り合って、農家さんを紹介してもらいグリーンピースをわけてもらったのがきっかけで、野菜でアイスを作ってみたらすごくおいしくて。アイスって何でもできるんだということを再確認しました。藤野にいると季節の食材にたくさん出会えるから、新しい野菜や果物に出会うたびに新しいアイスを作ってはご近所の人に食べてもらって。そうやっていつしか忙しい1年になっていたんです」

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知ちゃんがお世話になっているというコジマ農園の小島信之さんの畑へ。小島さんは、子ども時代、過保護だったという母親との関係について「俺のことはいいから、かーちゃんはかーちゃんのやりたいことをやってくれ!」と思っていた話をしてくれました。

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そして現在、実店舗オープンに向けて準備中という知ちゃん。おそらく子どもが小さいうちは週に3日、平日にしか開けられないけれど、そうやって自分のやれる範囲で始めるということも、ひとつの信念。自分のやりたいことに舵を切ったこの1年、子どもたちとの関係や抱えていたしんどさに何か変化はあったのだろうか?

「もちろん今でも育児で悩むことはたくさんあるしイライラもあるけれど、毎日すごく楽しい。いろいろ大変な世の中だけど、子どもたちはそれぞれ好きなことを見つけて、自分で自分の仕事を作れる人になってほしい。その気持ちを伝えるためにも、お母さんがやりたいことを頑張る姿を見せることって意味があるんじゃないかなと信じています。いつか『僕のお母さん、アイス屋さんなんだよ』って友だちに自慢してもらえたら、すごくうれしいなって思います」

 

・・・・

《取材のおわりに》

子どもと向き合うことは、自分と向き合うこと

子どもと「向き合う」ことは、子どもと「過ごす」ことがすべてじゃない。今回、知ちゃんの話を聞いて改めて、そんなことを思いました。「おかあ、おかあ」と代わる代わる呼ぶ2人の息子さんと過ごしている知ちゃんは、子どもと遊ぶのが苦手とは思えないほど、私からは実に「よいお母さん」に見えます。でも「よいお母さん」ってなんだろう、ということをちゃんと考えたことってなかったかもしれないと気づいたのです。

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「子どもと向き合う」ことって、自分が本当はどうしたいのかということを問う、「自分と向き合う」ことでもあるのかもしれません。そう思うと、悩んで、選んで、自分で決めた道をひたむきに進むお母さんの姿こそ、その人にとっての「あるべき姿」なんだと思えてきます。子どもにとって母親は、一番身近で最初に触れるひとりの大人であり、ひとりの人間でもあります。母親の生きる姿を一番身近で見ている存在が子どもなのかもしれないと思ったら、誰と比べるでもない、自分の選んだ姿で子どもの前に立っていたい。

言葉にするといとも簡単な「自分と向き合う」ことが実はとっても難しいことでもあると思うからこそ、ただただ自分にとっての「あるべき姿」を私ももがきながらつかんでみたい。同じようにもがきながらも、彼女の「あるべき姿」に向かっていっている知ちゃんの話から、そんなことを思ったのです。

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「お母さんでもなく、妻でもなく、家族の中でこそ見えてきた、わたしの存在」|【お母さんだから、できることvol.1】

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家族が向き合うために、
家族で雑誌をつくる

神奈川県・藤野。現在は相模原市に合併されてしまい“藤野”という町名は駅名に残るのみとなってしまったが、いまでも住民は親しみ込めて“藤野”と呼ぶ。2017年春、この町に移住した中村暁野さんは4人家族。夫の俵太さんは東京と行き来しながら活動するクリエイティブディレクター、7歳の長女・花種(かたね)ちゃん、1歳になる長男の樹根(じゅね)くんと相模川沿いにある大きな一軒家で暮らしている。

暁野さん自身は、『家族と一年誌  家族』という雑誌を2015年に創刊。自分の中にあった“家族観”と、実際の自分の家族の姿とのギャップに悩んだ経験から、家族ってなんだろう? そんな問いをテーマに、ひとつの家族を一年間にわたって取材し、一冊まるごとひとつの家族を取り上げるというユニークなコンセプトで、取材や制作も中村さん家族全員で行うのだという。

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創刊号となる『家族と一年誌 家族』は、鳥取県・大山に住む谷本大輔さん、愛さん、空南(あなん)くんの3人家族を追った。

創刊号となる『家族と一年誌 家族』は、鳥取県・大山に住む谷本大輔さん、愛さん、空南(あなん)くんの3人家族を追った。

「家族というものは、それぞれにとって一番の理解者で、最高の居場所になるものだという思い込みがあったんです。自分も家族を持つならそうでありたいし、そうじゃなきゃ家族じゃないとさえ思っていました。

でも長女が生まれて5カ月後に東日本大震災が起こって、いろんな不安を抱えながら子育てする中で、夫と同じ方向を向けていないと感じることが多々あって。私が“正しい”と思っていたことは、夫にとって“正しい”ことではなかったり、多忙な夫の『忙しい』という言葉を言い訳に、向き合えていない、思いを共有できていない、こんなの家族じゃない!という思いが日に日に強くなっていって。

それでも、家族の関係をあきらめたくなくて、どうしたらお互いに向き合えるのかと考えた時、一緒に『家族』という雑誌を作ってみよう、と決めたんです。制作をしていくうちに、わからないもの同士が一生懸命寄り添おうとする、その関係も家族なんじゃないか、と思えるようになりました。

正しい家族のかたちなんてない。そう思えたことで、夫が自分とは違う考えや感覚を持っていることに不満を感じることもなくなっていったんです」

いろんな家族のかたちがあるからこそ、家族とは“こういうものだ”という答えを見つける必要はない。ただ、それぞれの家族が持つ、それぞれの物語を知ることで、自分たち家族のかたちも受け入れたいし、肯定したい。それが、『家族』という雑誌づくりを通して暁野さんがたどり着いたひとつの“答え”でもあった。

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きっかけはいつも
娘が与えてくれた

「私と夫は、見ている方向や考え方、感覚もバラバラ。そんな2人が一緒に考えたり、2人で何かしら動くタイミングというのは、いつも娘がきっかけで、結婚も移住も娘がいなければしていませんでした。25 歳の頃、妊娠がわかって結婚。

当時わたしはPoPoyansというユニットで音楽活動をしていて、夫は勤めていたギャラリーのディレクションを任されたばかり。長く一緒に暮らしていたけれど結婚なんてまだ先のことと思っていたんです。

娘は物心つく前からとても繊細で敏感な子でした。保育園に通うようになってもずっとなじめず、大変なこともたくさんあって。彼女の確固としてある感性や個性が、先の学校生活ではどう受け止められるんだろうと、ずっと心配していました。でも娘と自分は似ていると常々言う夫は『芯が強い子だから大丈夫』と言っていて。そうなのかなあ……と揺れる日々を送っていたんです」

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そんな時、2号目となる『家族』の取材先の家族やその仲間たちと中村さん家族でキャンプへ行くことになった。初対面の人たちばかりにもかかわらず、花種ちゃんが楽しそうにのびのび過ごしていることに驚いた。そんな姿を見た暁野さんも俵太さんも、花種ちゃんが自分らしく過ごせる場所があるのかもしれないと思い立つ。そしてその場所は、「東京じゃないのかもしれない」と思い始めた。

その1カ月後、突然、藤野に移住を決意。一番の理由は花種ちゃんの感性をそのまま受け止め、伸ばしてくれそうな学校との出会いだった。また、数年前に独立し、デザインスタジオを立ち上げていた俵太さん自身も、東京から離れ、自然の中で暮らしたいという思いがあった。それでもなかなか踏み出せなかった“移住”は、花種ちゃんの進学により、予想外のスピードで実現することになる。

神奈川県と山梨県との県境にあり、山と湖に囲まれた藤野町。現在は相模原市緑区に位置し、都心から1時間30分というアクセスの良さと自然豊かなのどかな暮らしを求めて移住者が後をたたない。

神奈川県と山梨県との県境にあり、山と湖に囲まれた旧藤野町。現在は相模原市緑区に位置し、都心から1時間30分というアクセスの良さと自然豊かなのどかな暮らしを求めて移住者が後をたたない。

藤野に来て感じたこと、
変わり始めたこと

「娘のために」と藤野に来た中村さん家族だったが、それ以上に暁野さん自身がここにきて「変わるきっかけをもらった」という。

「今まで人の評価を通してしか自分を肯定することができませんでした。人の目が気になって “こう見られたい”という思いも強かった。『家族』の制作をして、正しい家族の姿なんてないと思ったはずなのに、そして娘に対してありのままの姿で彼女らしく育ってほしいと思っているはずなのに、私は自分に対してずっと『良いお母さん』でいたい、まわりからも『良いお母さん』に見られたい、と思っていたんだと気がついたんです」

花種ちゃんがまだ小さかった頃、毎日のように癇癪を起こして泣き叫ぶため、近所の人に通報されたことが何度かあったという暁野さん。東京に住んでいた頃にもまわりに頼れるお母さん友だちはたくさんいたはずなのにどこかで息苦しさを感じていたのは、そういうことがあったことも大きかった。家庭の問題は家の中に留めておくこと。そしてそれは、母親として乗り越えなくてはいけないことだと思い込んでいた。

長女の花種ちゃんと、長男の樹根くん。藤野の自然の中で、のびのびと育っている

長女の花種ちゃんと、長男の樹根くん。藤野の自然の中で、のびのびと育っている

「藤野に引っ越してきた日、生まれたばかりだった息子がずっと泣いていたんです。荷ほどきに追われていたので泣かせっぱなしにしていたら、近所の人が来て『抱っこしててあげるよ』と言ってくれて。他にも『これ食べて』と差し入れを持ってきてくれる方がいたり。友だちでも知り合いでもなかった初対面の人がそんなことをしてくれることに本当に驚きました。夕暮れ時に近所の子どもたちがパジャマ姿で犬の散歩をしていたり、道を歩くと知らない人からも『こんにちは』とあいさつしてもらえたり、そういった藤野の空気が、どこか張っていた気持ちをゆるめてくれたのかもしれません。

なんだか自分のスペースが広がった気がしたんですよね。家の中に留めておかないといけないものがなくなったような。

たとえば娘と喧嘩して私が怒っている声が近所に響いても別にいいかって思えるくらい、気張らなくても、いいところを見せようとしなくても、私が頑張っていることがわかってもらえているような気持ちになれた。子どもはみんなで育てる、みんなで見守る。そんな意識が自然とあるような土地に感じたんです。そして、こういう場所で子育てをするとこんなに気持ちがラクになれるんだ、と思いました」

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お隣に住むれいこさんはよき相談相手であり、歳の離れた友人でもある。藤野に引っ越してきて初めて声をかけてくれたのも、れいこさんだった。

お隣に住むれいこさんはよき相談相手であり、歳の離れた友人でもある。藤野に引っ越してきて初めて声をかけてくれたのも、れいこさんだった。

お母さんも、
“自分らしく”生きる

藤野に来てからは、人と比べるのではなく、人から評価されるのでもなく、自分らしく生きている、と自分で自分を思えるようになりたい、と願うようになったという暁野さん。自分らしく、を貫くことは実はとっても難しい。そもそも自分らしく生きれるほどに、自分を知るのも難しい。でもそんな時、自分らしく生きている、藤野に住むお母さんたちに出会った。

「藤野は地域通貨が機能していて、お金に代わる価値や生活する方法が根づいているんです。そういった新しい価値観やここに暮らす人々の気質もあって、自分自身を見つめ直す、ひとつの機会になるのかもしれません。

自分がやりたいことをやることは、特別な選ばれた人しかできないわけではなく、好きだから、やりたいから始めてもいい。そう思える環境が藤野にありました。

私自身も文章を書きたいと思ったのは30歳近くなってから。『家族』を創刊した後も、私なんかが書かなくたっておもしろいものを書いてる人がいっぱいいる、と引け目を感じたりコンプレックスを抱えていました。でもそうじゃなく、ただ自分が書きたいから書く、それでいいんだと思えるようになったんです」

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「たくさん漬けたから」とれいこさんからいただいたのは地元のらっきょう。お鍋ごとおかずをもらったりあげたり。そんな自然なご近所づきあいがここ藤野にはある。

「たくさん漬けたから」とれいこさんからいただいたのは地元のらっきょう。お鍋ごとおかずをもらったりあげたり。そんな自然なご近所づきあいがここ藤野にはある。

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「本当に藤野に来てよかった」という暁野さん。中村さんの中で起きた変化は暮らしを変え、家族との関係性も変え続けている。そしてその変化は現在制作中の『家族』2号にも影響を与えているそう。

「創刊号の表紙は暗闇に光が写っている抽象的な写真でした。あの光はまるでひっかいた傷跡にも見えるし、傷の向こうに光が差しているようにも見える。あの写真は当時の私たちの家族というものへのイメージを表しているように感じたんです。あの時、家族は傷でもあったし眩しい光でもあった。今はその光のちょっと先の世界が見えている気がしています」

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『家族』のウェブサイトには、暁野さんが毎日綴る家族の日記がある。花種ちゃんとの意地の張り合い、樹根くんのイヤイヤ期の到来や夫とのささいなケンカ、苛立ちも怒りも悲しみも俯瞰して言葉にしていくことで、「自分の気持ちが軽くなって笑い話になる」という。

「ミュージシャン時代、あるサイトでママブログを書かせてもらっていました。その頃はいいことばっかり書いていた(笑)。実際、そういう瞬間もあってそれはウソではないけれど、家族っていい瞬間じゃない時間もいっぱいあって。でもいい時も悪い時も一緒にいれる、それこそが家族の醍醐味だよなと思える今は、赤裸々に何でも包み隠さず書こうと思っています」

それはきっと中村さん自身が、痛みとか迷いとか苦しみにきちんと向き合って、つらくても直視している証拠。今も悩み続けて、考えて続けているまっただ中を、書いて、言葉にする。それがもしかしたら彼女が探し求めている「自分らしく生きる」ことに繋がっていくのかもしれない。

 

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山形で山形を描く。「ふるさとは絵本のような」【山形ビエンナーレ2018】 荒井良二×宮本武典対談〈後編〉

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絵本は、
あらゆる表現の
ふるさとのような

宮本武典(以下、宮本):荒井さんは、震災のあとにお子さんが産まれたことで、作り手として価値観は変わりましたか?

荒井良二(以下、荒井):そうだなあ……作り手としてよりも人として、ふたつあるかな。“確認すること”と“気づかなかったこと”。確認というのは、生きることや生まれること、そういう当たり前を確認するってことだった。人ってこうだよな、生き物ってこうだよなと確認していくことで、“気づかなかったこと”を受け取る。子育てをしていると、産まれる、生きる、子どもの姿——それは知らなかったのではなくて、目がそこに届いていなかったんだと気づかされることが多くて。

宮本:そうなんですね。2回目の「じゃあにぃ」の時に息子さんが産まれて、それから荒井さんの作品に出てくる子どもは、それまで荒井さんが描いてきた子どもとはちょっと違うんですよね。

荒井:違うよね。震災はかなり大きく影響していると思う。今の感覚をそのまま描いていいのかってすごく考えたんだ。でも、描きたいなら描きなよって。時間が経てばあとから振り返ればいいから、って。「今こういうことをしていいのか?」ということではなくて、やりたいことをやって、それを積み上げていくだけだと。子どもについても、息子をモチーフとしてフィーチャーしているわけでなく、自然に出てしまっているんだよね。

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宮本:はい。“在る子ども”というのが、2回目の「じゃあにい」のキーワードになって。その子どもは、荒井さんのお子さんでもあるけれど、子どもという存在そのものに帯びている未来や時間、その象徴に感じました。

荒井:「じゃあにぃ」も「ビエンナーレ」もそうだけど、僕個人として“子ども”は、ずっとキーワードとしてあったんだ。普段から絵本を作っていることも関係するかもしれないけれど、だからと言って子ども用に何か表現するのではなくてね。絵本も「子ども用に作ったりしていない!」って強がったりしているけど(笑)。でも本当にね、子ども向けに、と思って作ったことはないんだよ。

宮本:当時、荒井さんがよく言っていたのは「絵本というのはあらゆる表現のふるさとのようなものだ、その根からいろいろな表現が産まれてきているんじゃないか」って。それはきっと子どもが見ている世界や感性のことだと思うのですが。だから、実際にお子さんが産まれたことで、自分自身が子どもだった時間とも出会い直していくんですよね。「ビエンナーレ」の初回で荒井さんは「門」をテーマにたくさん作品を作りました。おばあさんの名前は“荒井もん”さん。

荒井:ははは(笑)。ひらがなだから、その“門”なのかは知らないけれどね。

宮本:そうして「じゃあにぃ」が続いているというか、自分自身の東北を旅するという。震災直後に復興支援で沿岸部を周ったのもそうだし、生まれ育った山形に旅をし直していくことも。そして「ビエンナーレ」では、自分以外のもっとたくさんの人に東北を旅してほしい、その入り口として山門を作りたいとおっしゃっていて。キャンバスにいろんな門を描いて、ふるさとに帰る門、赤ん坊が生まれてくる門、閉ざされる門、門の中に音が通れば闇になる、などなど。

荒井:そうだね。山形には鳥居とか、山に入る門がいくつかあるけれど、ここに住んでいる人は「そういえばあったね」って感じなんだよね(笑)

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宮本:実際に「ビエンナーレ」が始まると、たくさんのアーティストが参加してくれました。それぞれの発見から山形を旅をしてくれて。

荒井:アーティストのみんなが喜んで制作してくれたような気がして、嬉しかったなあ。

宮本:みんな基本的には荒井さんと同じようなスタンスで、事前にあまり決めずに現地に来て、そこで感じたものを地元の協力者と一緒に作っていくという流れで。僕らスタッフも、この土地に来たアーティスト自身の中からどういうものが生まれるのかに興味がある。そういった意味で、少しずつ荒井さんが作ってきたチームで、アーティストと向き合いながらこれまでやってきたという意識です。
前回のビエンナーレは「山の神様」がテーマになっていて、そこに“母”のイメージがありました。荒井さんはあまり話しませんが(笑)、「山形っていうとおふくろなんだよなあ」って。去年お亡くなりになられましたが、荒井さんが描く土偶、祭り、祭壇のインスタレーションの裏側のストーリーの中に、最後の母子の時間があったんだと思います。情報として誰かに伝えるものではなかったのですが。

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荒井:説明していないもんね。でもわからなくてもいいと思っているの。そういう“わからない”というコミュニケーションをしたことを大事に思っているし、次に自分にどんな影響が出るかなって楽しみもあって。日常から“わからない”ということが何度も浮上してきて、それでいいんじゃないかなと思うことの繰り返しで。

それでも、ものを作るベースに絵本はなんとなくあるので、今回の「ビエンナーレ」では、そのベースを使ったらこれまでと違う「わかる」に近づけるのかなって。

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宮本:
今回のビエンナーレは「山のような」という具体的な……それでも曖昧ですが(笑)、テーマをもって作っています。荒井さんのこれまでの作品は、山形にいるイメージそのままが、生々しくベタベタッと張り出されたようなもので。でも今回はまず「山のヨーナ」というひとりの架空の女性を描いて、荒井さん主体ではなく客体化していますよね。

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荒井:15年前に出版する予定だった本のタイトルが「山のヨーナ」で。当時、出版はなくなったけど、今回、ビエンナーレに合わせて絵本を出版するという予定もあって。僕としては15年前のものをやっと出せる喜びもありつつ、半分どこかで「いやだなあ」って思うところもあったのね(笑)。もちろん作れないことではなかったんだけど、今回展示するものを想像した時に、絵本と相当かけ離れているような気がしちゃったんだよね。だから、「ちょっと待って!」って(笑)。

宮本:今回は最初に絵本を作り、そこから派生させていこうとしたのですが、本当にこれでいいのかという疑問が生まれて。さっと作れたかもしれないけれど、決して簡単に作ったりしないですね。

荒井:うん、なんか違うなあって。悔やんではいないよ。

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宮本:その“何か違う”という違和感を僕たちとしても大事にしています。地域で表現することって、デザインにしても“ローカルっぽさ”っていうのはイメージとして出しやすいから。「ビエンナーレ」も「おしゃれにしすぎて山形らしくない」って言われたりもしますね。山形はおしゃれじゃダメなんだなって(笑)

荒井:そうそうそう(笑)

山形のイメージを
“印象”ではなく“体感”で描く

宮本:最近は、ローカルやアートフェスに対して「こういうものだよね?」って思うイメージが固まっている気がします。会場も廃校や空き家をベースにしないとリアルじゃないと言われたり、色彩も山形というと古民家に降り積もる雪景色のモノクロームな印象があるそうで。

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荒井:それ、僕が学生の頃から言われてるからね(笑)。地域性はどんな土地にもあると思うけど、個人にとってはあまり関係ないよなって。実際に、自分たちの周りには色がたくさんあるんだから。「山形の人のわりに使う色が明るいね!」って言われても「どういうことだ?」ってね(笑)。

宮本:そういう荒井さんのイメージを押し出してくことが山形の既存のイメージを変えていくことになると思っています。山形、東北、みちのく、と大枠で括って見てしまうとステレオタイプになってしまうけれど、実際に訪れてみると四季の色彩が豊かで多様な世界があることを知れるはずです。
今回のテーマ「山のような」の“ような”という部分を繰り返していると、世の中がこうだ、と決めた固定的なイメージをずらしていくことはすごくラジカルなことでもあるのかなと思っていて。地域における終わりの風景ではなくて、はじまりの景色を見せたいと思っています。だからこそ色彩を打ち出していきたいし、山形ビエンナーレに来てくれた人が、山形のことだけを見るのではなく、ほかの地域だったらこういうことがやりたいなとか、いろんなヒントを持って帰ってもらいたいんです。

荒井:それはあるねえ。山形に対して、みんなが抱いているだろうイメージを演出することは、容易いことかもしれないけど、閉じてしまうことにもなる。もっと開いていくことに意識を向けたいんだ。やっぱり、今から、これからの山形を見て持って帰ってもらいたいという気持ちがあるな。

宮本:はい。関わっているスタッフ自身も、定型のビエンナーレにするのではなく、新しく始めること、変えていくことに躊躇しないで向かっていけたらいいなと思っています。

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山形で山形を描く。「ふるさとは絵本のような」【山形ビエンナーレ2018】 荒井良二×宮本武典対談〈前編〉

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終わらずに続いていく
僕たちの「山形ビエンナーレ」

荒井良二(以下、荒井):ようし、ゆるりといきましょうか。

宮本武典(以下、宮本):はい(笑)。これまで、山形ビエンナーレを“こういう芸術祭ですよ”ってあまり具体的に説明したり語ってこなかったじゃないですか。参加アーティストについても、どういうテーマで決めているんですか?とよく聞かれますけれど。

荒井:よーく聞かれる!(笑)。でもそれは、ほかの芸術祭と比較しての質問なんだよね。「なにか違うんじゃない?」という前提をもとに質問されているような感じがするな。

宮本:そうですね。アーティストの作品に魅力を感じて、「すごく良いな、呼びたいな」という感覚から始まるので、あまり論理的に答えられないところもあって……でも、今日はそこにどんな軸があって形になってきてるかということを、参加してくださるお客さんに伝えたいなと思って。
初回のビエンナーレは、勢いで形にしていったところが大きくて。2回目は初回にできなかったことにトライしてみました。3回目となる今回は、ビエナーレ自体のキャラクターが定着してきたような気がしています。

荒井:そうだね。

宮本:それもやり続ける中で変化してきたことでもあるので、今日は荒井さんが「山形じゃあにぃ」から、この土地で芸術祭に関わってきて、どんな経験や変化を経て今に至るかをお聞きできたらと思っています。

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荒井:はい。これまで「ビエンナーレ」に興味を持ってくれる人に、あえて分かりやすいキーワードを作ってこなかったんだよね。それは、僕ら自身も毎回積み重ねていくにつれて、その辿ってきた道のりを見つめているからで。ふだんの個人の活動でも、最初から目的を決めて、こうやっていくぞ!と力強く明言するのはあまり好きではないの。まずやってみて、その痕跡を振り返りながら「ああ間違っていないな、外れていないな」という感覚を自分が受け取る。そうして見えてくるもを確かめていくことが多いから。

宮本:僕としては、荒井さんを中心にビエンナーレを作ってきているので、その“外れないように”という感覚に対して気をつけていました。はじまりの「じゃあにぃ」から「ビエンナーレ」までずっと、連作のような気がしているんです。だから毎回「ビエンナーレ」が終わっても、それは“終了”ではなく、全何話かのうちの一話が終わりました……さあ次回は!?というような(笑)。

荒井:そうなんだよねえ(笑)、いっつも終わらない。

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宮本:「ビエンナーレ」について、よく話すエピソードですが、最初に僕から「山形でなにかやりませんか?」と声をかけたら、「故郷に錦飾るみたいでなんかやだなあ」っておっしゃっていたのが入り口でしたね。

荒井:そうだね(笑)。まったく知らない土地のほうが作品は作りやすいから。なまじっか知っていることや、子ども時代に過ごした記憶が根っこにあると、ものを考えたり作ったりする上で邪魔になることがあって。もちろん役立つこともあるけれど、すんなり制作に入っていけなくなるところがあるんだよね。

宮本:アーティストは、旅人とか異邦人であるほうが土地と結びつきやすいですね。

荒井:そのほうが自由度が高い。子ども時代に過ごした感覚が、その“自由”を狭めてしまうことを直感してしまうのかもしれない。まったく知らないことーーー未知ってやっぱり楽しいじゃない? とは言っても、山形のこともほとんど未知だけどね。自分が山形のことをどれだけ知っているのか紙に描いてみたりすとると、全然知らないのよ(笑)、でも18歳に出てるから、当然だよなあって。でも僕の中に“知っているか、知らないか”という尺度があって、山形に対して相当意識していたんだなって気がついた。

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宮本:僕はそれがすごく面白いと思っています。2年に一度、外からひとりの芸術家が地元に戻ってきて。自分も家族も社会も変わっていくし、自分とふるさとの距離も伸びたり縮んだりしている。昔と今では、浮かぶ顔も、風景が語りかけてくることも変わってくるし。そうやって変化していくことが当たり前のふるさとを、形式的にとらえることは簡単かもしれないですが。

荒井:うん、うん。

宮本:そこを突き詰めていくと、わかったようなことは簡単に言えない。まったく知らない土地で無邪気に遊べたとしても、自分の両親や先祖が死んでいった土地で何ができるんだろうと考えるから。そういった、ふるさとと自分の関係のようなものが荒井さんが作るものに常に反映されている気がしています。その中で僕は、簡単じゃない・綺麗事じゃない部分をテーマにすることを大事にしていて。単に地方礼賛を言うのではなく、悩みや喪失感が何層にも重なった物語になっていると思うから。

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一緒に創造を楽しめる
遊び場であること

宮本:実際に、2010年に「荒井良二の山形じゃあにぃ」(以下、「じゃあにぃ」)をやってみて、どう感じましたか?

荒井:うーん、この規模でやるのはいいなあって思った。僕が関わるとしたら、規模を大きくしていくことにはこだわらないから。

宮本:どんどん大きなお祭りにしていきたいわけじゃないってことですよね。

荒井:うん、きりがないしね。


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宮本:
山形では「山形国際ドキュメンタリー映画祭」を隔年で開催しています。作品のテーマとして切実な社会の現実に迫ったものも多くあります。記憶や記録という過去を見つめなおしたり、光りを当てているすごく大切なもので。でも「ビエンナーレ」は映画祭のない年に開催するので、その切り口とは別にしようと。荒井さんとともに、みんなで新たに生み出すことをやる。なるべく自由に一緒に創造することを楽しんだり、遊べるかということを思っていました。

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荒井:そうだね。遊び場とか原っぱとか、「ビエンナーレ」では開かれたものを作りたいと思っていたな。アートの愛好家たちだけではなく、地元の人や学生など、直接興味を持っていない人でも、なんか楽しそうで入ってしまう、というような場所作りというのは意識していた。だって僕らが遊ぶんだったら、そのほうがいいよね。

宮本:荒井さんご自身の作品も、あまり形を決めずにやっていますね。形を決めてしまったら、それをなぞっていくだけになってしまう。だから、なるべく決めずにどこまでやれるかという挑戦でもあって。僕らのようなマネージメントする立場でも、いろんな材料を用意して、いざ荒井さんが「さあこれをやるぞ」となった時に、一気にみんなで動けるようにスタンバイしておかないといけなくて。そこは鍛えられました(笑)

荒井:鍛えてる意識ないよ〜(笑)

宮本:ですよね(笑)、でも即興的にみんなで遊び場を作るというか、実際に砂場を作ったり、映画を作るワークショップをしたり、子どもたちともの作りをしたり。単に楽しく遊ぶということではなく、みんなで一緒に作る遊びのような。よく荒井さんも「これは展覧会ではなくて、展覧会を作るワークショップだ」っておっしゃっていますね。

荒井:そう。ビエンナーレは、関わってくれる芸工大の学生ボランティアさんがいて成り立っているから、こちらも発想がどんどんワークショップ的になる。これが通常のボランティアさんだったらもう少し変わっていたかもしれない。それは、ビエンナーレを2回やってきて思ったんだけどね。

宮本:今回もそうですけど、荒井さんは現地に滞在して作品を作っていくので、その過程で話し相手も必要ですよね。でも決してアートのプロじゃなくて良い。作っているのは芸術家の荒井さんだけど、周りの人たちの意見や反応が荒井さん自身が作るものに影響を与えていますよね。そういう意味だど、荒井さんにとってもワークショップだし、周りのみんなも“アーティストと一緒に作っていく”というのを感じているんですよね。

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荒井:僕の中で専門的に作り上げたくないところがあって。じゃあアマチュアかっていうとそうではない。非常に説明が面倒臭いんだけど(笑)、「ビエンナーレ」に来てくれる人は、専門家ではなく一般の方のほうが多いから、そういう日常の感覚を持った人をどれだけ楽しませることができるかということを考えたいなと思うの。でも、考えすぎてエンターテインメントになってしまうことも嫌だから、どちらにふれるか針の位置が微妙なところなんだよね。

宮本:はい。ワークショップに“見本”はなく、荒井さんのようにやることも正解ではない。それぞれが意見をもって参加して、影響を与えあっていく余地を残すというのかな。

荒井:そうだね、余白かな。それを嫌う人もいるとは思う。世の中、余白がどんどんなくなってきているから大変だよねえ(笑)。白黒はっきり分けて考えている人が増えているような気がするんだ、どうなんだろうなあ。

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東北を知る、感じる
旅をする
きっかけに

宮本:2011年に東日本大震災があり、リアルな現実に直面したことで、僕たちのワークショップへの捉え方も変わりましたよね。そこから、荒井さんと“東北”との関わりも変わってきて。ワークショップをやったり、みんなと作るということで、どんな風に被災地の現状に関わっていくことができるのかと悩みながら。

荒井:そうだね。

宮本:僕らは、6月の初頭に被災地で泥かきや物資を運ぶ、物理的な支援を進めていて。荒井さんとも何ができるか考えていた時、まずは行ってみないとわからないので、塩釜のギャラリーでワークショップをやりました。本当はライブペインティングの予定だったのですが、荒井さんは一向に描き始めない(笑)。会場には地元の方しかいなかったのですが、ずっと喋ってましたね。

荒井:あの時はね、喋るしかないって感じがみんなからなんとなく伝わってきたんだ。もちろん絵を描いていいんだけど、話すこともすごく大事なことだから。でも話したくて、話そうと思って話したわけではなくて、結果的に話しちゃったんだけどね。宮本さんが途中であせって「ちょっとそろそろ…」ってね(笑)。最初はこちらから話し始めたけど、だんだんとみんなが当時の状況を話してくれて。ぽつりぽつりとね。それを聞いていたら、どんどん時間が過ぎていったんだ。

宮本:そこに来てくれた30代くらいの女性たちが、「久々にお化粧をして色のある服を着ておしゃれしました」というような事を言ってくださったことが印象的でした。

荒井:ああ! そうだったね。

宮本:そのあとは石巻にも行ったり。

荒井:うん。一度行ったけれど、ここはまだ何もやらなくていいかなって思った。テニスボールを打っている女の子を見て「ああ、まだだなあ。今この子はまだテニスボールを打っていたほうがいいな」って。

宮本:お母さんを亡くした女の子でしたね。そんな風にして、月に一度くらい荒井さんとアカオニのメンバーとか石巻や塩釜で活動していた僕らの仲間でワークショップキャラバンのように東北を周っていた時期がありました。それも2010年に「じゃあにぃ」を作ったメンバーだったので、何かを押し付けるのではなくて、引き出して分かち合う時間を共有する場作りや関わり方をベースにできる人たちでやっていたことが、その後のビエンナーレにつながる動き方になっていったと思います。より関係性やコミュニティが作られていったし、荒井さんだけではなく、ミロコマチコさん平澤まりこさん、Gomaさんなどほかのアーティストも荒井さんが東北のいろいろな地域を回っていく旅に合流していく感じでした。
震災の翌年にやった2回目の「じゃあにぃ」が終わった頃、荒井さんから「『荒井良二の山形じゃあにぃ』の“荒井良二の”をそろそろとりたい」と。「みんなにもっと東北を見てほしいし、旅してほしい。タイトルに僕の名前だけついてると、自分だけ旅してることになっちゃうわない? “山形じゃあにぃ”って名前のフェスにしたらどうかな?」と。

荒井:僕も肩の荷を降ろしたいからね(笑)。でも、無責任じゃなく周りに対して「君も入らない?」って感じだったの。そういう感覚も必要なのかな、そういうきっかけを作れたらいいなと思っていて。その“きっかけ”は、誰もが受け取るわけではないけれど、受け取る人も必ずいる。ワークショップもそういう感覚でやっているから。ワークショップって人ぞれぞれ凸凹があって、その凸凹のまま帰るのがいいなって思って。集まった全員が回答に近いものをみんなで共有することより、それぞれ別々なものを受け取って帰るような場が好きだから。正反対のことを受け取ってもいい。とにかく“きっかけ”をひとつ作りたいだけなんだよね。

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◎続く〈後編〉では、震災後の創作やビエンナーレへの意識の変化、今年のテーマについてのお話です。

未知なる山形へ踏み込む。「それぞれの日常に続く芸術祭」【山形ビエンナーレ2018】座談会

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ビエンナーレを通して
初めて出会う、
人・街・自分


ーーそれぞれ年齢も出身も違う3人ですが、ビエンナーレに参加するきっかけや山形に移り住んだ経緯を教えてください。

佐藤裕吾(以下、佐藤):2014年の山形ビエンナーレ初回の時は、東京のデザイン会社で働いていました。ビエンナーレの市民プロジェクト「みちのおくつくるラボ」にボランティアスタッフとして参加するために、東京から山形まで通っていて。ビエンナーレ会期中は毎週末山形に来て、プログラムディレクターの宮本武典さんの下でアーティストのサポートなどを担当していました。僕は仙台出身なので、同じ東北のデザイン会社の「アカオニ」のことは知っていて。ビエンナーレを通じて、アカオニの小板橋基希さんとお話しする機会もあり、翌年にアカオニの求人に応募して2015年の秋から山形に来てアカオニで働いています。最初はボランティアスタッフとしてビエンナーレに入っていたので、今こうして作る側に入れていることは、すごくおもしろいですね。

akaoniのデザイナー、佐藤裕吾さん

akaoniのデザイナー、佐藤裕吾さん

菅原 葵(以下、菅原):私は秋田出身で、今東北芸術工科大学4年生です。初回のビエンナーレの時は高校3年生で、お母さんと一緒に観光がてら遊びに行ってました。秋田公立美大の附属高校で金属工芸を学んでいたのですが、進路を決める時にあるきっかけがあって。

私のおじいちゃんの家は100年以上歴史ある八百屋さんだったのですが、道路の拡張工事で強制的にお店を閉めないといけなくなってしまったんです。みんなすごくショックを受けていて、私の中でもすごく大きな出来事でした。おじいちゃんやこの街のために何かしたくて、なくなってしまう八百屋の壁に学校の友だちと絵を描くことで想いを残そうとしたり。

そんな時、芸工大の宮本武典先生が私の高校に出張授業に来て、山形ビエンナーレのことを話してくれたんです。当時、街とアートの関わりにすごく興味があったので、私が今まで勉強していた美術や芸術分野というのが、人のためとか街のためになるんだという事にその時初めて気がついて、もっと勉強したいと思い入学しました。

工芸から一転、新設されたコミュニティデザイン学科に入り、第2回ビエンナーレの学生コアスタッフとして、会場でお客さんの対応やアーティストのサポートをさせてもらってました。今年も学生スタッフとして参加します。

東北芸術工科大学4年生の菅原葵さん。

東北芸術工科大学4年生の菅原葵さん。

黄木可也子(以下、黄木):私は福岡県出身で、2007年に芸工大へ入学を機に山形に来ました。2009年から『山形国際ドキュメンタリー映画祭』のボランティアスタッフを毎年続けていて、今は保育士としても働いています。

私は絵本がすごく好きで、荒井良二さんのファンだったので、ビエンナーレの前身になるイベント「荒井良二の山形じゃあにぃ」(2010年)のスタッフ募集に興味を持って。説明会に行った時にいらした宮本さんが、私が映画祭のボランティアをしていたことを覚えてくれていて、「今回は荒井さんが山形に滞在して作っていく展覧会で、その記録映画を撮るという企画も同時進行しているので、そちらのスタッフをしない?」と声をかけてくれて、撮影スタッフとして関わらせてもらうことになりました。

始まってみると、荒井良二さんという人の魅力にすごく惹き込まれて、その荒井さんを中心にいろんな若い世代の人が自分たちでひとつの作品を作り上げていく時間の蓄積が、私にとってとても幸せな時間でした。映画作りをきっかけにいろんな人と出会って……その映画を撮影した監督が今の夫です(笑)。大学卒業後は自分で映画を作る勉強をするために大学院に進んで、その後も山形で暮らしていきたいという想いがあって今ここにいます。

私が保育士として働くきっかけとなったのも「山形じゃあにぃ」です。子どもたちとのワークショップの記録を映像にする過程で、子どもたちのおもしろさを実感して子どもの遊びや生活にもっと触れたいと思って資格を取りました。今は、保育士をしながら、自分で絵を描いたり映像を作ったり、というのを細々と続けています。

〈yellow woods〉黄木可也子さん。

〈yellowwoods〉黄木可也子さん。

菅原:私はいち美大の生徒だけど、ほかの大学ではできないような体験をさせてもらっていると思っています。前回のビエンナーレでは、アーティストの川村亘平斎さんの影絵作品のコアサポート役として照明係になって。光の調整のタイミングなど、川村さんと細かくミーティングをしながら、一番緊張するところを担当させてもらいました。こんな経験も、秋田の美大に行って工芸を学んでいたらできなかっただろうし、ビエンナーレに関わったからこその経験だなと思っています。

黄木:そうなんですね! 今はあまり大学に顔を出してないけれど、現役の学生さんがこんな風に言うんだったら間違いないですね(笑)。

佐藤:(笑)。アーティストたちなど、社会に出たらなかなか繋がれない人たちが身近にいて、山形という小さい街で、ある程度密接に関われるのは貴重な事ですよね。そこにまた、外からおもしろい人たちが集まって来て。

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黄木:そうですよね。映画祭は毎回ボランティアスタッフが300人くらい集まります。リピーターもいるのですが、新規の人も多くて。さまざまな職種の社会人や学生さん、定年退職して映画好きだから手伝いたいと言ってくれる方とか。いろんなライフスタイルの人と出会えるんです。

ビエンナーレもそうですが、会場が複数あるので回遊することで街歩きをすることになる。その時期に街をうろうろしてる人に、地元の人が道案内してあげたり「お祭りに来たんだべか?」って会話が生まれたり。私が七日町付近の居酒屋でバイトしていた時はビエンナーレや映画祭に来たお客さんが夜に飲みに来てくれたり。そこに地元の常連さんがいたりするとカウンターに一緒に並んで、「せっかく来たならあそこ行ってみろ〜」って教えてあげていたりして。外から来た人と、ここで生活している人が接するシーンは会期中よく見てましたね。みんな手にパンフレットを持って移動しているので、すぐわかるんですよね。

菅原:私は、事前プロジェクトの「みちのおくつくるラボ」と、去年「畏敬と工芸」という森岡督行さん(森岡書店)がやっていたプロジェクトのアシスタントスタッフをやらせてもらったことの影響が大きくて。そこには山形県内でお仕事されてる方とか、佐藤さんみたいに東京からラボやミーティングがある時に来る人がいらしていて。県内で洋服屋さんの人や、介護関係の仕事をされている方がいたり。大学で授業を受けているだけじゃ出会えない大人の方々との出会いはおもしろかったですね。そういう場所に来る人は、自分でアンテナを張ってる人たちだし、何かを作っている人とか、これから何かやりたいと思ってる人たちだったので、その中に入れたことが貴重だったなと思っています。

時間をかけながら、
土地に根ざす芸術祭を

——初回からビエンナーレに参加して、始まりに立ち会っているみなさんですが、ほかの地域の芸術祭に行って印象的だったことはありますか?

菅原:以前、越後妻有大地の芸術祭に行ったのですが、とにかく規模が大きくて1日じゃ周りきれなかった。作品もそうで、海外アーティストの作品も多くあって、街中に美術館の作品が展示されているという印象でした。
私はビエンーレに学生スタッフとして関わったので特にそう思うのですが、展示される作品を作り上げていく過程にも参加させてもらえたことがすごく楽しかった。学生や市民、山形に暮らすいろんな人たちが一緒に作ったものを展示していることに思い入れがあるんだなと思いました。

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黄木:越後妻有は歴史も長いですし、地元の人と芸術祭の関わりの深さが強いんだろうなと思います。地元の人達も芸術祭を誇りに思っている雰囲気がある。規模も大きいので芸術祭をきっかけに仕事が生まれたり、集客で経済が回っていたり、移住する人がいたり。私はお客さんとして行ったから、良いところしか見えてないのもあると思うんですけど、人が暮らしてる場所も作品の一部にしてたり、生活とかなり密接に作っているという印象は大きかったかな。

ビエンナーレはまだ若い芸術祭だし関わっている人もみんなとても魅力的だけど、地元の人で「ビエンナーレってなに?」という方も……それは映画祭も同じなんですけど。存在を知らない地元の方はまだたくさんいますよね。

越後妻有も地元に根ざしていくまで、最初はすごく大変だったという話はよく聞くので、街を巻き込むのはすごく時間がかかることだと思うんですけど。

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——ビエンナーレのスタッフを経て山形に移住した佐藤くんは、実際にビエンナーレの現場にいることで、地域性を感じたり暮らすイメージは沸きましたか?

佐藤:行動範囲が、ほぼビエンナーレの会場のみだったので、街での暮らしは想像がつきませんでした。住めるか住めないか分からないけど、あの土地は楽しいところで、素敵なことをやっていて、おもしろい人が集まっている。もうそれだけで行くしかないなって思ってた。あとは何とかなるだろうと。僕にとってはアカオニという働きたいデザイン会社があったので、それはすごく大きいですね。移住して3年目か…えーと…前の記事の振り返りですね(笑)。

僕が山形に来た2015年は映画祭開催の年でした。それまでドキュメンタリー映画というジャンルにあまり興味を持つことがなく、観る機会もなくて。でも、自分が住んでいる街に、こんなにも世界的な映画祭があるのだから観てみようと。それをきっかけに観るようになったんです。なので去年の映画祭はめちゃくちゃ楽しめましたね。多分10本以上観れたかな。目の前に原一男監督がいて「すげえ!」って興奮して、サインもらいました(笑)。次回も楽しみですね。

黄木:ああ、それはよかったです〜(笑)。本当にうれしい話。

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人に会いに行くことで
視野を広げていく

佐藤:東京にいた時は、電車に乗っていたり街を歩いていれば、展覧会とかいろんな情報が入ってくるので気軽に行ってましたが、山形に来てからは、おもしろそうな展覧会がいくつか重なってあれば東京に見に行くけれど、それより日常の会話……例えば、荒井さんとか坂本大三郎さん、小板橋さんなどと話していて「この映画知ってる?」「この音楽知ってる?」と教えてもらったものを観たり聴いてみるとか。そうして興味を深めていくことが今はおもしろい。東京でもそうでしたが、いろんな人に出会うことが楽しい。信頼している人の言葉とか知識とか、そこに触れて視野が広がっていくおもしろさがある。僕の周りは、みなさん本当に物知りなので。

黄木:私は福岡も好きなんですが、山形に来て2年目くらいから自分には、この土地がしっくりくるなあと感じました。四季がはっきりしていて、冬の厳しさがあるから春の喜びも大きい。福岡では便利な街のほうに暮らしてましたが、山形に来て自転車で移動するようになって能動的に動く範囲が広がったし、自分で考えて行動して人に会いに行くことが楽しくなって。農家さんと知り合うようになって、私も視野が広がりました。生きる力というか。地元に帰ると、性格がまるーくなったって言われるんです(笑)。

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菅原:そうなんですねえ。私も山形で暮らして、今年で3年ちょっとになるので、街の魅力を伝えられるようになりたいな。山形の人って、普段学生が買い物したり遊ぶ時は仙台に行くことが多いんです。山形⇆仙台のバスもたくさん出ているので。でもビエンナーレの時期は反対で、仙台の人がバスで山形にきて街を楽しんでいる。そういう逆の現象が起きているのがすごくおもしろいなって。お客さんにビエンナーレのプログラム以外にも「お昼ご飯はどこかおすすめありますか?」と、聞かれることもあって。そういう人たちに、土地の魅力をしっかりお伝えしたいと思っています。

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黄木:うん、作品だけじゃなく展示してある建物も観てほしいですね。「文翔館」もそうですし、会場を回遊して行く途中に、かなり古い建物が街にそのまま生きてるのがおもしろさの一つだと思う。飲食店も、ちょっと路地に入ってみると、古くからやってるところや若い人の新しいお店もあったり。作品や会場のルートだけじゃなくて、ちょっと寄り道するとおもしろい発見がある街だと思います。

菅原:学生スタッフがエリア内にたくさんいるので、ぜひ話しかけてください。スタッフの中には、作品をつくる過程に携わらせてもらっている人もいるので、アーティストがその場にいなかったとしても、その作品に込められた想いや制作エピソードをお伝えできることもあると思います。私たちも積極的にお客さんに話しかけたいなと思ってますし、そこで生まれる会話や情報の交換ができることが楽しみですし、お客さんにも楽しんで欲しいですね。

佐藤:とんがりビルにあるギャラリー「KUGURU」であるライブやイベントは、ぎゅっとコンパクトにやっているので、パフォーマンスやライブを近い距離で体感できると思います。その一体感を体験して欲しいですね。イベントは週末ごとにやっているので、ぜひ参加してほしいです。それと、おいしいごはんと、温泉をセットに。レンタカーがあるといいですね。山形の街から奥へ、車で回って見てもらうのもおもしろいと思います。

黄木:山寺も近いし、温泉はハシゴできるしね。

佐藤:最高っすね。それぞれオススメがあると思うので、それも声かけてください。あと、この時期は河原で名物の芋煮会をやってるので(笑)、その様子も見れると思います。

都市から山形を探訪する。「内なる感覚の中へ」【山形ビエンナーレ2018】ミロコマチコ×山フーズ・小桧山聡子対談〈後編〉

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絵と食、互いの表現が
動物的な感覚を呼び起こす

——今回の山形ビエンナーレは前年以上に毎週末さまざまなイベントが行われますね。92日(日)にはふたりのコラボレーションによる「ミロコマチコと山フーズの夕食会〈山分け〉」というパフォーマンスもあります。どんな内容になるのでしょうか?

ミロコマチコ(以下、ミロコ):だいぶ決まってきました。いつもこびさん(小桧山さん)のつくるものは、食なので、みんなの身体の中に入っていくじゃないですか。それがすごくうらやましいなと思っていて。その力を借りて、絵も一緒に身体の中に入っていく、食べてもらうみたいな。ざっくりとしたイメージはそんな感じ。毎回どういう形にしようかというのをこびさんと相談しながらつくっています。今回は私たちが山形でもらった食材やいろんなものをみんなで共有しよう、という感じかな。そういう意味で「山分け」というタイトルにしました。

——ふたりでパフォーマンスをするのは何度目ですか?

ミロコ:私の個展の時にケータリングは何度もやってもらっているんですけど、パフォーマンスとして一緒にするのは、今回で3度目。

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〈いきもののおまじない〉展でのライブ風景より/2017年、アルフレックス東京

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〈いきもののおまじない〉展でのライブ風景より/2017年、アルフレックス東京

——今さらですが、ふたりはどういうきっかけで出会ったんですか?

山フーズ・小桧山聡子(以下、小桧山):ふふふ(笑)。

ミロコ:ふふふ(笑)。

小桧山:私が今のアトリエを借りる前に、友人のデザイナーと何人かでシェアして使えるような一軒家を探している時期があって。自宅から近くていいじゃん!っていう物件を見つけて、何度も内見に行ってほぼそこにしようと決めていたんです。そしたら、不動産屋さんに「もう1社の仲介業者さんに抑えられちゃいました」って言われて借りられなくなってしまって……。友だちと「残念だったねー」って話してたら、その数週間後に一緒にシェアしようと思っていたデザイナーさんから連絡がきて、「友だちが新しい家に引っ越したからペンキ塗るのを手伝いに来て」と言われて、住所を聞いたら「あの借りるはずだった家!」ってなって。それがミロコさんの家だった(笑)。

ミロコ:そうなんです、私が先に抑えちゃった(笑)。

——なんとー! またすごいご縁ですね。

小桧山:その時まで面識はなかったんですけど、それ以来遊びに行くようになって、お家でごはんを作ったり、ケータリングをしたり……というのが始まりです。

ミロコ:こびさんに使われてるうちの家も見てみたかったけど(笑)。

小桧山:ははは(笑)。

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——お互いの作品や表現についてはどんな印象をお持ちですか?

小桧山:私は普段料理を作っているんですけど、“食べる”っていう行為そのものに興味があって。身体的に料理を食べるということとか、おいしいって何だろうとか。例えば、同じものを食べたとしても、食べている自分たちもなまものだから、体調や感情によって同じ味に感じなかったりするのがおもしろいなって思うんです。“食べる”って実はとても生々しい行為だったりもして。

日常生活を送っていくなかで、生々しい部分って排除するじゃないですか? 社会に適応していくために見ないように、ないものとして過ごすことが多い。でも、そういうものに触れることってすごく意味があるし、重要だと思うんです。“食べる”って、みんな1日1〜3回はやってる行為で、何も考えなくても通り過ぎちゃうんだけど、実はすごくいろんな身体の感覚を使ったりとか、生き物を食べて体内に取り入れるとか、そういう行為の時間。自分の動物的な部分と向き合おうと思えば、向き合える時間だなと思っていて。

料理を提供する仕事をしてるっていうのもあるんですけど、そういう自分の中の生々しさとか動物的な部分とか……匂いのようなものをミロコさんの絵からは感じる。だから共感できるというか、素晴らしいなと思っています。ミロコさんの絵を見ると、自分の動物的な部分が揺さぶられて顔を出すところがあって、惹かれます。

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ミロコ:私からも、そういう意識はすごくある。食べ物が身体に入っていくものとしてダイレクトにあるように、絵も見ることによって身体に入れたり感じたりすることをしたい。確かに、日々の食べることを特別なことだと考えなくなりつつあるけど、こびさんの作ったものを食べたり体験したりすると、それ(動物的な部分)を再確認させてくれる。例えば、手で食べてみたり、ちょっと違う方法や形にしたりするだけで、新しい気持ちで食べることをちゃんと意識できる。そういうことを与えてくれる人だなぁと思っています。

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都市の当たり前が通用しない
ありのままで向き合う山形での日々

——山形と東京を行き来する中で、新たに感じたことや気づいたことはありますか?

小桧山:山形ビエンナーレに参加することが決まって、初めての現地打ち合わせで山形に向かっていた時は、「芸術祭だし、こういうコンセプトでこういう作品がいいかな」と、いろいろ考えていたんです。でも実際に山形に着いて山に案内されて入ってみたら、あまりにも自分自身に受けるものが強くて、山の中で何もできない自分がいました。ちゃんと立っているだけで精一杯。東京であれこれ考えていたものが、陳腐っていうか、意味なく思えて。なので、一旦これまでの考えを全部取っ払って、山形で出会うものとまっすぐに向き合って、何を感じられるかということにだけ全力を注ごうと思いました。

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小桧山:そして気がついたのは、知ってるつもりになってるところがいっぱいあるなということ。命をいただくとか、何百回も言葉としては聞いているけど、実際体感として全然わかってなかった。わかったつもりになっていることをどれだけ排除できるか。どこかで格好つけたいと思っている部分も絶対にあって。そういうのをどれだけ無くしてそこに立って、受け取れるか、というのがすべてでした。その感覚は、やっぱり実際に山に入ってみないとわからなかったと思う。そこが自分の中で大きく変わったところかな。それからは、毎回余計なものをなるべく持たない状態で山形でのフィールドワークに臨むようになりました。でも、そうは言っても私は山形に住んでいる訳ではなく、東京との行き来の繰り返しなので、山で崖を登って山菜を採っていた次の日には、銀座でパーティーのケータリングとかしてて(笑)。

——振り幅がすごいですね(笑)。

小桧山:はい。結構毎回それが激しくて。でもその感じも良かったというか、だからこそできたっていうのもあると思います。ついさっきまで聴こえていた山の風のザワザワが、数時間後には新宿の人の喧騒に変わる。この感じって何だろうっていう振り幅がすごくて。そこから立ち上がってくるものとか気づかされるものはすごく多くて、毎回おもしろい体験でした。

ミロコ:私も似たような感覚がおおいにあって、東京から山形へ向かう新幹線の中でいつも感じています。3時間くらいかけて、だんだん、だんだん、削ぎ落とされて、裸になっていく感じ。

小桧山:うん、すごくわかる。

ミロコ:いろんなものを持ちすぎてたけど、山形に向かうにつれて意味なく感じてくる。東京にいるといろんなものがすでに当たり前にあって、それをあんまり意味なくというか、何も考えずに使いまくっている気がする。でも山形に行くと、人の営みがあって、そこに理由があっていろんなものがある。冬で雪が降るとできないからこれを準備しておかなくちゃ、とか。生きるためにすることが中心。それをすごく感じます。山形では人間力みたいなことが必要になっているなあって。今回は山形に行って絵を描くので、そういうものを感じながら作品をつくるっていうのは、東京でつくるのとはまた違うものが生まれるのではないかなと思っています。

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——ミロコさんは東京生活どのくらいですか?

ミロコ10年くらい。そうそう、でもそろそろ来年くらいには離れようと思っていています。島に。

——島?!

ミロコ:奄美大島に引っ越す予定です。ちょっと自分がナヨナヨしすぎてるから、もう少し人間力を磨かなきゃと思って。こっち(東京)だと、人間が主役みたいな気持ちにすぐなってしまうけど、本来そうじゃないところに一度身を置いてみたくて。過酷な自然にお邪魔します、という感じ。

——山形での体験が影響している部分もあるのでしょうか?

ミロコ:もしかしたらあるのかもしれないですね。あ、山伏の坂本大三郎さんの存在はなかなか大きいかもしれない。自然の中で生き残る力を持っている人。そういう人間力が必要とされる場所に住んでみたい。

小桧山:奄美大島は前々から移住してみたいと思ってたの?

ミロコ:東京を離れたいと思っていたけど、どこに行くかがずっと決まらなくて。奄美大島には去年たまたま絵の仕事のリサーチを兼ねて行ったんです。それで空港に降り立った瞬間に「ここがいい!」ってなって。すぐに物件とか探し始めた(笑)。

小桧山:えー! うそすごいね〜。

ミロコ:「ここやここや〜」みたいになって、トントン拍子に決まっていった感じ。まぁどうなることやらですけど。東京でちょっと虫がいるだけで「いやー!」とかなってるのでどうしようかと(笑)。

小桧山:あははは(笑)。

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——小桧山さんは東京以外に住むことを考えたことがありますか?

小桧山:そうですねー、ちょっと離れたいなという気持ちがここ数年生まれ始めてはいるけど、まだ全然現実的なイメージができてないです。最近、仕事を通して山形やほかの地域にも行く機会が増えてきたことで、東京の流れって異常なところがあるなって気づきました。私は生まれ育ってずっと東京だったので、都市の生活に疑いがなかったというか、スピードやものの量の多さの異常さに気づいていない部分があって。

ミロコ:わかるなあ。だから私も今後の人生は、いろんなサイクルの中に自分がいることを忘れないようにしたい。生活が一番にあって、絵を描きたい。そして1つの場所に縛られず、いろんなところに拠点があればいいよね。引っ越したら、うちのキッチンを奄美拠点としてどうぞ(笑)。

小桧山:ははは(笑)。本当に? いいなあ行きたい!

——では最後に、いよいよ開催が近づいてきましたが、今回の山形ビエンナーレで楽しみにしていることを教えてください。

小桧山:私は山形ビエンナーレにアーティストとしてもお客さんとしても初めて行くので、あの会場一帯がどんな雰囲気になるのか楽しみです。私の作品が展示される「とんがりビル」内ではライブやイベントもたくさんあるのでそれも楽しみ。

ミロコ:私は「文翔館」での設営が楽しみ。自分のというか、アーティストやスタッフのみんなが同時にそれぞれの部屋で作品をつくり上げて行く様子を見るのが好きなので、今回もその時間を楽しみにしています。

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都市から山形を探訪する。「内なる感覚の中へ」【山形ビエンナーレ2018】 ミロコマチコ×山フーズ・小桧山聡子対談〈前編〉

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山形ビエンナーレとふたりの出会い

——ミロコさんは前回(2016)から、小桧山さんは今回初参加ということですが、それぞれどういう経緯で山形ビエンナーレに参加することになったのでしょうか?

ミロコマチコ(以下、ミロコ):私は「山形ビエンナーレ2016」の時に、ディレクターの宮本武典さんから参加依頼の連絡をいただいたのがきっかけです。前身の「荒井良二の山形じゃあにぃ」から山形ビエンナーレの存在は知っていたので、「あ、あれや、やりたい!」と思って参加のお返事をしました。

山フーズ・小桧山聡子(以下、小桧山):私も山形ビエンナーレの存在は前から知っていました。初回のポスターを見て素敵だなーと思っていて。そしたら偶然、私が別の用事で山形に行っている時に2回目の「山形ビエンナーレ2016」のポスター撮影をしている現場にたまたま居合わせたんです。その現場の雰囲気がすごく良くて。いい緊張感があって、全員でつくり上げている感じが伝わってきて、とても印象的でした。ディレクターの宮本先生や撮影の志鎌康平さんにお会いしたのもその時が初めてで、それを機に山形に行く機会が増えて、おふたりに現地を案内してもらう中で宮本先生から「次のビエンナーレで一緒にやりましょう」と言っていただき、今回参加することになりました。

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——すごい偶然ですね! ちなみにふたりは山形に行ったことはありましたか?

ミロコ:私は「山形ビエンナーレ2016」のお誘いを受けてから、開催前の下見で芸工大(東北芸術工科大学)の関連ワークショップを見学に行ったのが初めて。やっぱり“山”。山が近い環境で暮らしたことがなかったので、生活する風景に山があるっていうのはすごく印象的でした。あと、その時に乗ったタクシーのおっちゃんがめっちゃ気さくやったのも印象に残っています(笑)。東北の人は無口な人が多いイメージがあったので、ギャップにびっくりした。私は大阪出身なので、「そうそうタクシーのおっちゃんはこのくらい喋るよな〜」って、人なつっこい感じがしました。たまたまそのおっちゃんだけかもしれないけど。

小桧山:(笑)。私はさっき話したポスター撮影の現場に居合わせたのが初めての山形。行った瞬間から、すごく肌に合う気がして好きになりました。山の存在は私もすごく大きく感じて、夜、窓から見ると黒い影がぬっとあって、何か大きな生き物に守られている感じが独特だなあって。私は東京生まれ東京育ちなので、それががすごく新鮮でした。あと、やっぱり人が良くて、すんなり馴染みやすかった。おいしいものもいっぱいあるし、おもしろい土地だなあという印象です。

——山形で食べたもので印象的だったものはありますか?

ミロコ:だいたい全部が印象的。食べるもの食べるもの全然違う。ひっぱりうどんとか、冷たい肉そばとか、ちょっと甘いラーメンとか、長〜いまんま切ってないワラビの醤油漬けとか。そして全部おいしい。食べるたびに驚きがあります。

小桧山:私は今回の作品制作で毎回強烈な食の体験をして……。

——そうですよね。東京のプレス発表会でも触れていましたが、あらためて今回の作品「ゆらぎのレシピ」の内容と制作過程について教えていただけますか。

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強烈な食の体験から生じた
“ゆらぎ”を見つめる

小桧山:私は去年から毎月2泊3日で山形に行き、いろんな生産者さんを訪ねて、食材が生きている現場に入りました。1日目は川で魚を獲ったり山で山菜をとったりするフィールドワーク、2日目に前日の体験で感じた“何か”をひと皿の料理にする、というプロジェクトです。毎回超ハードで、修行のようでした(笑)。私がいつもやっている仕事や展示の際は、大体事前準備をしっかりして当日を迎えるんですけど、それが一切できない。何の準備もできないし、何を感じられるかもわからないし、何が待っているかもわからない状況。それで毎回山を登ったり鶏を絞めたりという強烈な体験をして、咀嚼しきれていない状態で次の日に何かを作らなくちゃいけない。

——プレッシャーですね(笑)。毎回ライブのような体験をされてきたんですね。

小桧山:瞬発力が必要な、濃厚な23日でした。

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〈ゆらぎのレシピ#01 記憶をつなぐ勘次郎胡瓜のサラダ〉制作風景/写真:志鎌康平(山形ビエンナーレHPより)

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最上郡真室川町を拠点に、山形の自然と共に生きる生産者を訪ね、食を巡る生命の現場を取材。写真は伝承野菜農家の佐藤春樹さん/写真:志鎌康平(山形ビエンナーレHPより)

——なかでも印象的だったのは?

小桧山:うーん、やっぱり鶏を絞めたのは印象的でしたね。あと今年に入ってから行った山菜採りも。かなり崖を登って行くんですが、山に入る手前に立ててあった看板に、「山菜と命、どっちが大事?」って書いてあって(笑)。

——サバイバルすぎる(笑)。

小桧山:私、もともとまったくアウトドアも山登りもやらない“ザ・東京のもやし野郎”みたいな感じだったので(笑)、毎回山形で受けるものが本当に大きかった。今回発表する「ゆらぎのレシピ」は、おいしいレシピを開発しましょうというものではなくて、「生きものを食べる」っていう生々しさとか、体感的なことをテーマにしています。

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〈ゆらぎのレシピ#04 大地で焼く比内地鶏の丸焼き〉制作風景/写真:志鎌康平(山形ビエンナーレHPより)

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小桧山さんが山形で体験した「ゆらぎ」をもとに制作したレシピをフルコースに見立てて、写真、映像、テキストを織り交ぜたインスタレーションで表現する。(山形ビエンナーレHPより)

身体の中に響く“何か”に耳をかたむける
体験していく絵画空間

——ミロコさんは今回どんな作品を発表されるのですか?

ミロコ:2016年の山形ビエンナーレの時は何度か山形に通いながら、市民の方々と一緒につくることがテーマだったのですが、今回は“自由”と言われて……。

小桧山:(笑)

ミロコ:日々東京で作品を発表する時もそうなのですが、過去の体験を元に生まれてくるので、今回も、今感じていることと山形で感じたことを引きずりながら、そういう延長線上みたいなものを出したいなと思ってはいます。

——プレス発表会の時、ディレクターの宮本さんが、「ミロコさんが山形に来て一緒に山に入った時、おばちゃんの喋り声みたいなのが聞こえると言っていた」とお聞きしたのですが。

ミロコ:あぁ、そうそう。山伏の坂本大三郎さんの案内で龍山に登ったことがあって、山の途中で井戸端会議みたいな話し声が、そんな訳ないんやけど聞こえてきたんです。山を降りたあとで、「途中でおばちゃんの話し声みたいのしたやんな」って言ったら、「いや誰もそんな声は聞いてないよ」って(笑)。

——恐怖体験!(笑)。

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ミロコ:でも、そういう聞こえないものが聞こえるみたいなことは、山に入ると感じる人もいるよって大三郎さんが言っていて。実際、山に入る前は目を使うのかなと思っていたら、耳をすごく使った。鳥の鳴き声とか人の足音とかもそうやけど、山ではすごく耳が敏感になっているのを感じました。その時に、普段は耳をそんなに使ってないのかもしれないなと思って。私はいつも何かを感じた時に、なんていうか、こう、身体の中がふわ〜っとなるんです。ジューンって充満するみたいな。その山に入った時にも、耳から何かが入ってくるというか、耳がジーンってしたんです。その体験を元に、今年は「みみなり」っていうテーマにしていて、その延長線上で作品をつくろうかなと思ってるんです。直前につくるので、今はまだ何もないですが。

小桧山:え、そうなんだ! これからつくるんだね、知らなかった。

ミロコ:そう。ビエンナーレ直前に山形入りして、芸工大で1週間くらい制作して、会場の「文翔館」に運ぶ予定。

——かなり大きな作品になると聞いています。

ミロコ:はい。大きい絵です。みんなにも、自分の中に何かが入ってくる、みたいな体験をしてほしくて。頭の中とか身体の中に入ってくるものは見えないので、絵の中に入ってもらえるような展示をしようかなと。壁と床面を使って、絵に囲まれた空間をつくりたい。その絵の上にのって、歩いてもらって、耳から身体の中に入っていく……そんなイメージ。

——前回の山形ビエンナーレでミロコさんが発表された、山車のような立体絵本「あっちの目、こっちの目」も、ミロコさんの世界の中に入っていくような感じがしましたが、今回はまた違ったアプローチですね。

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〈あっちの目 こっちの目〉山形ビエンナーレ2016出品作(山形ビエンナーレHPより)

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〈あっちの目 こっちの目〉山形ビエンナーレ2016での朗読ライブ風景(山形ビエンナーレHPより)


ミロコ
:そうですね。前回は東京でつくったものを車で山形に運び込んで展示したんですけど、今回は山形で制作するのでどんなものになるでしょうね。前回の作品も、私自身ああいうものが出来上がるとは! という感じで、自分でも驚いたんです。まあ何か、山形のいろんなことに引っ張られて、きっとあの作品になったんだと思います。いつも自分で発案してつくるけど、あとから思うと「ほんまに私が考えたんかな?」「私が描いたんかな?」と思うことがよくあります。私、割とおもろいやん、って(笑)。

小桧山:ははは(笑)。

ミロコ:でも本当に不思議な力が働いてるんだと思う。描いたことは覚えてるけど、時間を置いて見た時に、こんな風に描いたんやーって、不思議な気持ちになります。

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◎続く〈後編〉では、今回の山形ビエンナーレでふたりが絵と食でコラボレーションする公開セッション「山分け」や、 山形ビエンナーレでの経験が影響しているかもしれない暮らしの変化についてお話を伺いました。

書籍「サムガールズ〜あの子が故郷に帰るとき〜」発売決定! シソンヌ・じろうインタビュー

生まれた背景、青春時代、帰郷…
“妄想”がリアルな物語になっていくまで


——この連載は、会ったことのない女性のポートレートと、名前・年齢・居住歴という最小限のプロフィールだけをじろうさんにお伝えして、“あの子”の半生を妄想して物語を作ってもらいました。実際に、どんな風に書き進めていったのです
か?

じろう:写真の顔を見て、パッと話を思い付く方もいれば、そうでない人もいましたね。物語に関する情報は写真から得るしかないので、ギターを持っている人はギターの話になるし、毛皮をかぶっている人はそれに関連づけた話になっていて。

第4話「ギターに出会って変わった私の人生」より

第4話「ギターに出会って変わった私の人生」より

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第5話「冬子と元・冬子」より

——被写体になっていただく女性たちは、写真家の志鎌康平さんと編集部で相談しながら決めていったのですが、彼女たちの本当の“居住歴”は、物語の大事な要素になると思っていたので、なるべく特徴のある方に協力していただくようにしていて。

じろう:居住地はなるべく追うように構成していました。生まれた背景から、どんな風に育って、中学校時代をどう過ごして……と、細かく設定していくのは大変でしたね。中には居住地がめちゃくちゃ多い方もいたので諦めたこともあったし。これは無理だ!って(笑)。最初から、物語の大筋を決めて書くっていうよりも、書きながら思い付いたことをバンバン入れていく感じでしたね。ネタを作る時もそうなんで。

——海外を経由している方にも何人か登場してもらって。

じろう:けっこういましたね。後半に出てくる人は、ほとんど海外を経由していますよね。海外は、留学など行く理由付けが似てしまいがちだから、そこが難しかったですね。今はけっこう海外に住む人って多いんだなって思いましたね。自分はずっと日本にいるので……

——英語が好きで高校までECCに通っていたんですよね(笑)。

じろう:はい。いいなー留学したかったなーって思いながら経歴を見てました(笑)。_DSF9520

——女性たちのキャラクターも、一人称が「私」や「あたい」だったり、口調や語尾の言い回しなどの微妙な変化で、それぞれのパーソナリティを際立たせていましたね。

じろう:一応そのつもりで書きました。一冊通して読んだ時に、主人公同士のキャラクターが似ないかなって心配だったんですけど……。

——まったく似てないと思います!

じろう:それはよかったです。全話通して読んでみると、前半に書いた話と後半に書いた話は違いますよね。前半は“お笑い”として書いている要素が強いと思います。表現としても、文字で笑わせようとしている感じが、前半は多いんですよね。後半は全体の雰囲気自体を面白くする方向にシフトチェンジしていっている様子が読み取れますね。……しかし、修行の一年でした、この連載を書くことは(笑)。

——それは、すいませんでした!

じろう:いやいや、こういう自分にとってカロリー高いことをやらないと成長していかないんで(笑)。

——文字量を見ても、前半は多くて後半にかけてコンパクトになっていっていて。文字数だけでなく、物語が進んでいくスピード感もくるくる変化していて、毎回原稿をいただくたびに。すごく練られているんだろうなあと感じていました。

じろう:書く技術が上がっていればいいですけどね。でも、打った文字数は嘘をつかないと思うんで。文字を打てば打つほど得るものはあると思うんです。今回に関しては、自分がネタを作っていく上でも良い経験をさせてもらいました。

——ありがとうございます。確かに、シソンヌのネタにも通じるような人間の細かい描写の面白みや、心情の機微にグッときてました。実際に本人から「これが本当の私かも……?」という感想もいただいたり。

じろう:ああ、そういう感想いただきましたね。そんなことあるか!って思ってましたけど(笑)。自分のこれまでの経験をもとに書いた部分もあるけど、とにかく、写真の中の人になりきって書いていました。

——特に、小さい頃の記憶って曖昧で。自分の記憶というか、写真に写っている情報や、両親から聞いた話で形成されていることが多いのかもなと改めて思いました。そうして読んでいくと、「あれ?今までの私の記憶は嘘で、ここに書かれているのが本当か!?」と、パラレルワールドに陥る人もいたり……

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じろう:確かにねえ。そういう感覚で読んでもらっていたんですね。最初にいただくプロフィールで、年齢も教えてもらっていたので、冒頭に「私は何月何日生まれ」って誕生日を書くことにはまっていたんです。いつか当たるんじゃないかなって(笑)。でも途中から、無理だと思って諦めました。これは当たらねーだろうって(笑)。

——第5話の『冬子と元・冬子』に、アラスカンマラミュートという犬種が出てきますが、後日、主人公の女性がじろうさんが私の一番好きな犬種をどうして知っていたのでしょうかと言っていました。

じろう:何かしら書くと当たるもんすね(笑)。僕も知らなかったですもん、アラスカンマラミュートって犬のこと。

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——第3話 『私のばあば。私はばあば』の主人公の方からも、小説の中にあるエピソードと似たような体験をしたと教えていただいたり……。

じろう:ああ、撮影のちょっと前におばあちゃんが夢に出てきたって書いてくれてましたね。そんなことあるんだなって思いました。このふたつの話は、不思議と自分の中でも残ってるんですよね。ドラマの撮影で栃木方面に電車で行く時、熊谷を通ると「あ、冬子がいたところだ」って自分でも思ったり(笑)。「あいつ、ここで暑さに苦しんでたんだな」って。

——あの子たちが生きる土地に関してもいろいろ調べてくれてましたよね。

じろう:妄想小説なので、何を書いてもいいっていうのは、自分のルールのひとつとしてあって。正解じゃなくても妄想して書いてるから。でも、一応その土地の特産品を調べてみたりしましたね。なので、リサーチはしたりしなかったりです。第9話の 『夜行バスに揺られて』では、どれだけ調べても伊達市から埼玉県に行くバスは見つからなかったですけど(笑)。でも、まあいいやと思って。

——第8話『ラッキー集め』も反響が大きかったです。

じろう:ああ、意外ですね。わりと男目線の話になった気がしてたので。昔、僕が住んでいた家の近所にクジ屋さんがあったんですよ。同級生の子の家だったんですけど。そのあたりは自分の中の記憶だけど、誰かしらのところにもあったんじゃないかなと思って。

——『ラッキー集め』の主人公の方は、昔からの友人になんの疑いもなく“こんな過去があったんだね”って感想をもらったと伺いました(笑)。それぐらいドキュメンタリーになっていたんですね。

じろう:確かに、“妄想小説です”という説明に気づかず、「私の話、こんな風に載ったよ」って紹介されて読んだら、実話だと思って読むでしょうね(笑)。そう考えても、連載の中盤あたりから、話のリアリティが強くなっているんだと思います。前半はふざけながらも「そんなことあるか!?」ってイメージのものを書いていたと思うんですけど、中盤から、全体的にトんでる話でもリアルな雰囲気がベースにあって。

——普通なのに、どこか狂ってる感じがありますね。

じろう:やっぱり、人間はどこかしら狂ってるところがありますからね。人には言わずに自分の中だけで成立していることで、他人に言わしたらそれは狂ってるよっていう変なクセとか趣味志向とか……誰しも持っていると思うんで。

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——そうですよね。この中盤からリアイティが増してきているのは、意識して表現していったのですか?

じろう:書いていくうちに、話を落としこんでいく地点が高くなっていったんじゃないですかね。ネタとしてではなく、ひとつの作品としてその人になって書くっていう度合いが強くなったからそうなったのかもしれないですね。普段書くコントのネタでも、あんまりトびすぎない、リアルな感じはあると思うので。脚本だからこう書く、ネタだからこう書くっていう棲み分けは自分の中でないんですよ。いつもなんとなく思い付いたものを書くっていうだけなんで。

——連載を始めてもらった一年前から、どんどん“書き仕事”が増えていると聞きました。コントのネタ書きはもちろん、ドラマ「卒業バカメンタリー」(日本テレビ系)の脚本や、映画「美人が婚活してみたら」(2019年公開予定)の脚本も手がけていますよね。雑誌「Tarzan」でも連載が始まっています。

じろう:そうですねぇ……去年一年は書いている記憶しかないぐらい、どこいってもパソコン開いてやってました。舞台の本番前は、小道具のデスクみたいなのを使って書いたり(笑)。なんやかんや書くのが好きなんだと思いますね。これだけやれてるってことは。舞台に出るのも楽しいですし書くのも楽しいから、大変ですけどすごくやりがいは感じますね。外に出て無理矢理書く環境を作ってます。家にいると一切書かないので。

——今年の年始に掲げた抱負なんでしたっけ……

じろう:ああ、今年は「〆切を守る」……一発目の提出物の原稿で〆切をやぶりましたね(笑)。

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——(笑)。じろうさんは青森県の弘前市出身ですが、この“帰郷物語”というテーマで、ご自身の故郷に対する想いや記憶などを込めた部分はありますか?

じろう:子どもの頃、ハスキー犬を連れている近所のお金持ちの女の子とかいたり。当時ハスキーを飼っている人なんて一人もいなかったので本当にびっくりしたんですよ。あんなでっかくて狼みたいな犬で。僕も大学のグラウンドで犬を飼ってたので離して遊ばせてると、そのハスキー犬の飼い主も連れてきて、離して遊ばせたりして。もう、ウチの犬がハスキーを怖がっちゃって(笑)。ハスキーは楽しくて追っかけているんでしょうけど、ウチの犬は尻尾を下げて逃げ回ってたんで。あいつらが暴れるさまの描写とか入ってますね、じゃれあってるけど襲っているようにしか見えないとか。
あとは、主人公たちが、東北の田舎の人が多くて、僕も田舎っぺで東京出てきているんで、初めての東京の怖さみたいなのもはありましたからね。すごく実家に帰りたくなる瞬間とか、お母さんと電話したこととか。たまに見かける地元ナンバーの車を見つけて実家が恋しくなるとか。東京で青森ナンバー見ると、「ああこの車は青森から来たのかあ」とか。そういう瞬間にちょっとだけ救われる感じがするというか、勇気をもらうことはあるんですよね。

——撮影自体も、なるべく被写体の方の地元だったり、ふだんよく行っている場所とか、生活圏内の中で撮らせてもらうことが多かったです。じろうさんのそういう感性に合うかなと思って。

じろう:そうですよね。第7話の『こうた』も、なんてことない商店街の、なんてことない電気屋さんの前の写真だけど、写真をみてすぐに「こういう話にしよう」って思いましたね。

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——写真もどんどんリアルになっていって、それも良い作用だったのかもしれないです。そして!これまでの連載にもう一話、スペシャルな書き下ろしを加えて、「サムガールズ あの子が故郷に帰るとき」というタイトルに改題し、書籍としてこの夏(8月24日発売予定!)みなさんのもとにお届けします。どんな時に読んでもらいましょうか。

じろう:はい。短編だし、特に難しい話もないので、寝る前に読んでもらうのは良いんじゃないかと。どの話のどの部分で読んでも止めても好きに読んでもらえたらと思います。最後の“あの子”の書き下ろしは今までにない新しいやり方で執筆しますので、楽しみにしていてください。

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身体感覚に響く、ワインと音楽を。転がり落ちるようにはまった、ヴァン・ナチュールの世界。

音楽から世界が開かれていった

wine bar alpesは富山城近くの、碁盤の目のように道路が敷かれた街の一角にひっそりとある。店内の半分近くを大きくカーブした木のカウンターが占め、どこかノスタルジックな、パリのバーのような雰囲気も漂っている。ところが、カウンターのなかに置かれたターンテーブルにレコードがかかると、ここがちょっとヒップな空間に変わるのだ。

池崎さんは富山の高校を卒業後、一度は故郷を出ようと札幌の大学へ進学した。札幌を選んだのは、当時好きだったヒップホップグループが札幌を拠点に活動していたというのが大きな理由だった。夜はバーでバイトしながらDJもしていたという。そして池崎さんは、帰省した時に立ち寄った富山のレコードショップで衝撃的な音楽体験を果たす。

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「富山にいきつけのレコードショップがあって、ある時店主がJBLのスピーカーでハウスやデトロイトテクノを聴かせてくれたんですよ。その音を聴いた時に、“なんなんだこれは”と心を打たれました。その時に身体で音の振動を感じたり、リズムをとったりする、音楽における“身体感覚”みたいなものがあるということに気づきました。以来、ダンスミュージックにはまりましたね」

音楽から食へと関心が移行していくきっかけになったのは、アンダーグラウンド・クラブの草分けとなった「Loft」の主催者であり、DJのデヴィッド・マンキューソのパーティに参加してからだという。

「音環境が素晴らしいことに加えて、パーティにフリーフードがあることで、誰もが『もてなされている』という実感を得ることができているんじゃないかと思ったんです。もちろんそれだけではないんでしょうが、食事という行為そのものが、ゲストをもてなす上でとても重要な役割を果たしていることを、そのパーティで知ったんです」

転がり落ちるようにヴァン・ナチュールにはまる

大学卒業後は上京し、出版取次会社へ就職。その頃によく通っていたのがワインバー「アヒルストア」(東京・富ヶ谷)だった。

「当時人気が出始めていたスペインバルやビストロのような店を知って、こんなおもしろい世界があるのかと。自分もいつか店をやりたいという夢が膨らみました」

その後、「uguisu(ウグイス)」(東京・三軒茶屋)という店を訪れ、洗練された空気とおいしいワインに衝撃を受けた池崎さんは会社を辞め、働き始めた。

「ところが僕、その店では使いものにならなかったんですよ。当時シェフを務めていた原川慎一郎さん(現「the Blind Donkey」オーナー)にはよく怒られました。原川さんには大切なことを沢山教わり、今でもすごく尊敬している方です」

その後uguisuの2号店であるorganへ移り、フロントマンとして4年間経験を積んだ池崎さん。そこで夢中になったのが、ヴァン・ナチュール(※1)という自然派ワインだった。

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「あるヴァン・ナチュールを飲んだ時に、ワインが喉を通りぬけて、まるで指先、そして全身へと染み渡っていくような体験をしたんですよ。その時の体験に衝撃を受けてから、転がり落ちるようにワインにはまっていきました」

そして、4年かけてヴァン・ナチュールと他のワインの違いを確信するようになる。

「ざっくりと言うと、ヴァン・ナチュールはブドウを育てる行程においても、ワインを醸造する行程においても、一切添加物を加えずブドウの皮についた天然酵母で発酵させるのですが、僕はもともと添加物を加えるか、加えないかというところはあまり気にしていませんでした。でも、飲み続けるうちに添加物を“極力足さない”と“まったく足さない”は全然違うということに気づいてしまったんです」

池崎さんにとってのヴァン・ナチュールとは、おいしいことに加え、さらに何か得られるものがあるワインだという。

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「そういうワインには滅多に出会えないのですが、飲み疲れることなく、ただ心地よい酔いがあり、楽しい気持ちになり、飲めば飲むほど頭が冴えるのではないかと錯覚してしまうようなワインがあるんです。何を基準に選ぶかは人それぞれだと思いますが、僕の根底にはおいしい、楽しいという基準がありますね」

※1 ヴァン・ナチュール:100%葡萄果汁の産物。添加物を一切加えず、天然酵母で発酵させたワイン。農薬を使うと自然発酵しないため、農薬も使用しない。一方オーガニックワインは、培養酵母を使用することもある。

 

ヴァン・ナチュールの聖地、フランスへ

organで働いた後、池崎さんはフランス・オーヴェルニュ地方にあるワイナリー「ドメーヌ・ラ・ボエム」を営むパトリック・ブージュのもとへ飛び、住み込みで1年間働いた。もちろん、おいしいヴァン・ナチュールで知られるワイナリーだ。だが池崎さんは盲目的にヴァン・ナチュールを礼賛しているわけではないという。

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「ヴァン・ナチュールをつくる人たちだけが努力しているというストーリーには、少し違和感を感じてしまいます。僕は“極力足さない”ことを選んだ生産者の方々にも敬意を払いたいと思っているんです。というのも、極端なことをいえば、農薬をまくのも滅茶苦茶大変なんですよね。あるワイナリーでは、朝4時に起きて農薬をまきにいっていました。かたや、僕が働いていたワイナリーは朝7時に起きてエスプレッソを飲んでじゃあいこうか、という世界。

ただいろんなワインを飲み、結果的に僕にとってちょうどよかったのがブドウ100%のワインだったというだけの話であって。そうでないものを否定しようとは全く思っていません。そもそもヴァンナチュール文化の根底には自由を愛する精神があるとすら思っています。自分とは異なるスタンスを別の場所からあれやこれやと批判したりするような話題は、酸化防止剤より頭が痛くなるものなんじゃないかな(笑)」

 

ブドウの成長と発酵に任せ、人間は人間の体内時計に従って暮らす——そんなワインづくりの在り方も、池崎さんの感覚に合ったのかもしれない。ワーキングホリデーを終えた池崎さんは、2016年夏に帰国。富山へ戻り、すぐに自分の店を開く準備を始めた。

富山で店を開く。ワイン1本からどんな風景が生まれるか

店を開くと決めた池崎さんだったが、何もかも初めてのことばかり。そんな時に、友人が強力な助っ人を紹介してくれた。

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「最初は全て自分たちでやるつもりだったんです。ところが、友人が“富山に店を開くんだったら荒井洋平さんに内装をやってもらえ。最高の人だ”といっていると聞き、お願いすることにしました。もともと、東京にいたときに自分が大好きなビストロやワインバーの常連だった荒井さんなら、“ワイン1本からどんな風景が生まれるか”ということを共有できると思ったんです。大切なのは、お客さんの楽しみ方ですね。荒井さんは、店という箱があってそこにワインがあって、どういう風にお客さんが楽しんで….ということを共有でき、さらに導いてくれる方だと思いました」

物件探しから荒井さんと一緒に始め、最終的に決めたのは、スナックだった居抜き物件。

「一緒に店づくりを始めると、荒井さんのアイデアに驚かされることもたくさんあり、想定を超える店に仕上げてくださいました」

内装は池崎さんの地元の友人にも手伝ってもらい、ほぼDIYで改装。レトロな深紅の木枠をアンティーク調のダークブラウンに塗り替え、カウンターは立ち飲みできる高さに上げ、仕上げに荒井さんのアイデアで壁紙を剥がした。写真は改装中にフランスから訪ねてきたサヴォワ地方の生産者フランソワ・グリナン氏が壁に書いたサイン。ここだけ壁紙が残されている。

内装は池崎さんの地元の友人にも手伝ってもらい、ほぼDIYで改装。レトロな深紅の木枠をアンティーク調のダークブラウンに塗り替え、カウンターは立ち飲みできる高さに上げ、仕上げに荒井さんのアイデアで壁紙を剥がした。写真は改装中にフランスから訪ねてきたサヴォワ地方の生産者フランソワ・グリナン氏が壁に書いたサイン。ここだけ壁紙が残されている。

また、音楽と出会う

大きなカウンターの中にはターンテーブルを置いた。音楽好きなら、わくわくしてしまう空間だ。

「僕の人生のいろんなことが音楽から始まった。外の世界が開かれるきっかけになったのが、音楽だったんです。じつは、駆け出しの頃は修行の身だからと、あえて音楽を遠ざけていた時期もあったんですよ。ところがある時、訪れたビストロで、音楽と再会するような象徴的な出来事があったんです」

その店の名は「祥瑞(ションズイ)」(東京・六本木)。ギャルソンの坪田泰弘さん(現「Le cabaret(ル・キャバレ)」)とシェフの茂野眞さん(現「Le 14e(ル・キャトーズイエム)」オーナーシェフ)が世界観をつくりあげた、ヴァン・ナチュールの聖地といわれている店だった。カーテンに仕切られた入り口をくぐると、その向こうには赤い壁に囲まれた薄暗い部屋がひろがっていて、爆音で音楽がかかっていた。

ターンテーブルは高校生のときに買ったもの、スピーカーはダンスミュージックを聴かせてくれた富山のレコードショップにあったのと同じJBLの「4312 mkⅡ」。池崎さんは、接客しながら一枚一枚レコードをかけている。

ターンテーブルは高校生のときに買ったもの、スピーカーはダンスミュージックを聴かせてくれた富山のレコードショップにあったのと同じJBLの「4312 mkⅡ」。池崎さんは、接客しながら一枚一枚レコードをかけている。

「僕はすっかり気圧され、周りが見えなくなるほど萎縮していたのですが、徐々に意識を取り戻すうちに、爆音でかかっている音楽が昔よく聴いていたCalm(カーム)さんの曲だということに気づいたんですよ」

まさかヴァン・ナチュールの聖地でハウス音楽を聞くとは。池崎さんは坪田さんに「これ、Calmさんの曲ですよね」と話しかけた。すると坪田さんは「そう。ところで、今君の後ろに座っているのがCalmさんだよ」と教えてくれた。

「そこから後のことは、ショックと興奮のあまりもう覚えていないですね。ただそれまではワインを極めるなら音楽やファッションは諦めなくてはいけないと思っていたのですが、その時はっきりと“好きなことを追いかけていいんだ”と思ったんです」

富山のレコードショップで身体感覚にうったえる音楽と出会った時から10年ほど経ち、切り離されていた音楽とワインがつながり、また新たな可能性が生まれ始めた。今池崎さんは、10年の間に積み上げてきたこと、考えてきたことを自分の店で実現している。

「周りの人から、よく一人で料理をつくってワインを出して接客して、レコードをかけるなんてことができるねといわれるんですよ。でも僕としては音楽に助けられている部分もあると感じていて、楽しいんです。フランスにいた時、ワイナリーでサロン(※2)が開かれていたのですが、畑の真ん中で音楽をかけ、皆が自由に音楽やワインや料理を楽しんでいました。自分もいつかそんな場をつくってみたいと思いましたね」

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最後に池崎さんに、これから富山でどんなことしていきたいか聞いてみた。

「抽象的ないい方ですが、今の富山は、街のアイデンティティが揺らいだ結果、その揺り戻しとして必要以上に“その街らしさ”を伴ったアクションが求められている気がしています。
もちろんある側面においてとても価値のあることだと思ってるんですが、僕はあくまで『誰もが認めるその街にしかないもの』ではなく、『誰も分からないかもしれないけど個人的におもしろかったこと』を出発点としたいと思っています。仮に最初は誰かの真似だとしても、その気持ちに偽りがなければ、好きなことの積み重ねがいつか自然とオリジナリティを編み出していくというか」

そうした上で、池崎さんは普遍的に伝わる“何か”を追いかけていきたいという。

「極端な話ですが、自分の商売は地球人を相手にしていると思っているんです。例えば、心がこもった感じのいい挨拶って、国は違ってもされて悪い気はしないと思うんです。そういう根源的な気持ちよさのようなもの——、僕が札幌や東京やフランスで誰かにしてもらって楽しかったこと、かけてもらって嬉しかった言葉、感動したことを、ここで実践していきたい。一見、富山とは関係のないパーソナルな体験を伝えていくことで、かえって、“この街らしさ”の一端に貢献できたら最高だなと思っています」

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※2 サロン:ここでは見本市や大きな試飲会の意味。

このまちには、大人も子どもも「ただいま」と言える場所がたくさんある。

自然体で生きられるまちで
暮らしていきたい

神戸一の繁華街・三ノ宮から海岸沿いを走る電車に乗って西に向かうと、ふっと車内の空気がゆるむ。長田は、「港」から「浜」へと移り変わっていくちょうど真ん中あたり。JR新長田駅を下りると、鉄人28号の巨大モニュメントに出迎えられた。

駅から南へ徒歩8分、六間道(ろっけんみち)商店街が見える。その名の通り六間(約11m)幅の広いアーケードに入ると、昭和な空気がぐっと濃厚になった。朝10時、六間道3丁目商店街のレンタルスペース「r3(アールサン)」(くわしくは後述)の前で待っていると、すっかりまちの風景に馴染んだ様子で小笠原さんが現れた。20180221-DSC_1971_
小笠原さんは保育士起業家。子育てコミュニティ「asobi基地」を運営し、合同会社こどもみらい探求社では小竹めぐみさんとともに共同代表を務めている。実は、小笠原さんが夫・浩基さんと出会ったのは、「いつか京都に住みたい」と願っていた小竹さんに誘われた旅行だったそうだ。

「めぐちゃん(小竹さん)の友人が当時運営していた六甲山上のシェアハウスに一泊させてもらったんです。そこに、私の旦那さんが住んでいたんですよ」。

約1年半の遠距離恋愛の間、小笠原さんは東京と神戸を行ったり来たりしていたが、やがて神戸の街が好きになっていった。東京に浩基さんが行くか、神戸に小笠原さんが行くかを2人で考えていたが、先に、決心したのは小笠原さんの方だった。

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「神戸の暮らしを体感してみると、身体の疲れ方が全然違ったんです。しばらく神戸で過ごした後に東京に戻ると、体調を崩したりすることもあって。自分の身体が感じる心地よさは、こっち(神戸)側にあるのだなと思いました」。

また、「ゆくゆくは子どもを持つ」という選択肢を考えると、「神戸のほうがストレスなく子育てができそう」と感じたことも決め手になった。

「子育てって、子どもと一緒に暮らすこと。自分が自然体で生きられて、その延長線上に子どもと一緒の暮らしがあるんじゃないかなと思うと、イメージがパッと『こっちだ!』みたいになって。当時はまだ結婚していなかったんですけど、彼に『私、こっちに引っ越してきたいんですけど』って相談しました」。

このまちの仲間に入れたら
どんなに心強いだろう

2016年4月、小笠原さんは神戸に移住し、最初は兵庫区で暮らしはじめた。「神戸にはどんな人がいて、どんな活動をしているんだろう?」。新しいまちへの興味から、小笠原さんはいろんなイベントに出かけていった。

人のネットワークが密な土地柄ということもあり、「保育士起業家の小笠原さんという人が東京から引っ越してきた」という情報が知れ渡り、「子育てのことなら、“舞ちゃん”」と認知されるまでそう時間はかからなかった。

「2016年7月に、学びから人の輪を生み出すプロジェクト『神戸モトマチ大学』の講師に招いていただきました。その日は、雨音で声が聞こえないくらいの豪雨だったんですけど(笑)、『r3』のオーナー 合田昌宏さんと三奈子さん夫妻が4人の子どもたちを連れて来ていたんです」。

「r3」のオーナー、合田昌宏さん・三奈子さんご夫妻。昌宏さんが設計・デザインを手がけ、理想の空間に仕上げた。

「r3」のオーナー、合田昌宏さん・三奈子さんご夫妻。昌宏さんが設計・デザインを手がけ、理想の空間に仕上げた。

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三奈子さんはNPO法人ママの働き方応援隊の代表理事。0〜3歳の乳幼児と母親がペアになり、学校や高齢者施設で「命の授業」を届ける、「赤ちゃん先生プロジェクト」を運営している。子どもに関わる仕事をしている小笠原さんに興味を持って参加してくれたのだった。

「初めて『r3』に来たのは、その2、3日後だったと思います。asobi基地のイベントをさせてもらったり、ちょこちょこ出入りするようになると『ここの暮らし方はちょっと面白いぞ』ってことに気づいて」。

「r3」はレンタルスペースであると同時に、合田家の“第2のリビング”。合田家の子どもたちだけでなく、近所の子どもたちも「ただいまー!」と帰ってくることや、近所のおばちゃんが合田家の4番目の子を寝かしつけていることに小笠原さんは驚いた。また、徒歩3分の距離にある多世代型シェアハウス『はっぴーの家ろっけん』にも衝撃を受けた。

「はっぴーの家ろっけん」1階のシェアスペース。中央に立っているのがオーナーの首藤義敬さん。

「はっぴーの家ろっけん」1階のシェアスペース。中央に立っているのがオーナーの首藤義敬さん。

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「認知症のおじいちゃんおばあちゃんが過ごす傍で、パソコンを開いて仕事をする人がいる。『ただいまー!』と帰ってきて宿題をする子もいれば、おじいちゃんと将棋を差す子もいる。認知症のおばあちゃんに頼んで保育園に持っていくおむつに名前を書いてもらっているお母さんもいたりとか。大人も子どもも、“そのままの個性”で受け入れられていることに感動しました」。

「r3」と「はっぴーの家ろっけん」で繰り広げられている人々の暮らしを知れば知るほどに小笠原さんの気持ちは募った。「子育てするとき、このチームに入れたらなんて心強いだろう」。2017年11月、この2つの場所に自転車で通える現在の家に引っ越してきた。
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イベントではなく日常に
コミュニティがある幸せ

「大人も子どもも一人ひとりがそれぞれの色を持っている」と考え、『こどもみらい探求社』や『asobi基地』などの活動を続けてきた小笠原さんが、「r3」や「はっぴーの家ろっけん」に惹かれるのは、ごく自然な流れだった。

「お年寄りとか子どもとか、認知症とか外国人とかそういうことじゃなく、お互いの違いを個性として認め合える関係性が理想だと思っていて。まさに思い描いていたものが、『r3』や『はっぴーの家ろっけん』の日常にあふれていました」。

新長田の駅周辺の地域は、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災後の火災で約7000棟の建物が失われた。六間道商店街は延焼を逃れることができたため、下町コミュニティのつながりが残されている。
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六間道商店街の小道を入ると突如あらわれる「丸五市場」。大正7年(1918)に開設され、昨年100周年を迎えた。

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学校帰りの子どもたちがこぞって立ち寄る「庄田軒精肉店」。揚げたての串カツやコロッケなどが100円前後で買える。

毎年6〜10月の第3金曜日は「丸五アジア横丁ナイト屋台」が開催され、お祭りのように多くの人で盛り上がるそう。

毎年6〜10月の第3金曜日は「丸五アジア横丁ナイト屋台」が開催され、お祭りのように多くの人で盛り上がるそう。

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「出雲食堂」のぼっかけうどんとぼっかけカレーうどん。美味。

「どこに行くにも『行ってらっしゃい。どこ行くの?』、雨が降ってきたら『洗濯もの大丈夫?』って。セキュリティ機器に頼る安心感もあると思うけど、誰かが見てくれている、人の目の安心感ってこんなに違うんだなって実感しています」。

ごく普通の、ほんのちょっとした安心の積み重ねは、困った時に助けを求める声が届く距離感をつくっていく。「r3」や「はっぴーの家ろっけん」も、こうした何気ないまちの関係性のもとで成立した場所なのかもしれない。

「やっぱりイベントも必要だし、日常を離れるからこそ本音を言い合える良さもあります。いろんな支援や助成もあるから上手に使えばいい。でも、身近な日常に『ちょっと助けて』って言える関係があることはすごく心強いですよね」。

今、小笠原さんは妊娠6ヶ月。母になることについて、「自分でもビックリするくらい心配していない」と話す。

「もともとの性格は心配性。神戸に来る前の自分だったら、すごい不安を抱えてトツキトウカを過ごし妊娠・出産を迎えていただろうと思います。でも、今は何も心配していない。もちろん、直前になったら『痛い!』とか叫んだりするだろうけど(笑)」。

コミュニティがあるから、
5人目を生んでもいいと思える

「島&都市デュアル」で小笠原さんが企画するツアーでは、六間道商店街や「r3」、「はっぴーの家ろっけん」も訪れる予定だ。

「ツアーでは、私が暮らしているなかでいいと思っていることの一部分だけでも体感して、自分の暮らしに持ち帰ってほしいなと思っています。移住したいと思ってもらえたらうれしいし、移住はできなかったとしても、自分の地域や近所、友だちや家族の間でできるヒントが詰まっていると思うから」。

たとえば、「寺子屋ピアノ」や「子どもミュージカル」、「ロボットプログラミング教室」などの子ども向けの教室、週1あるいは月1のカフェなどの他、時間単位でのレンタルスペースも行う「r3」。どうして、こんなにもいろんなことが起きる場所に?

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「r3」で行っている子どもミュージカルの練習風景。

連日さまざまな習いごとやイベントの予定がぎっしり。

連日さまざまな習いごとやイベントの予定がぎっしり。

三奈子さん「ここは、来た人から何かが始まっていくんです。長女がピアノをやりたいというので先生を呼んで始めたのが『寺子屋ピアノ』。最近は、たまたま料理が好きな子がごはんをつくってくれるので、5家族ぐらいが集まって一緒に食べるようになりました。1家族で買い物に行けば2〜3千円かかるし、お買い物にも、ごはんをつくるにも時間がかかりますよね? でも、5家族で割ったら1家族500円くらい。この場所は、自分たちがより豊かになる、豊かにするためにやっている感じです」。

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料理が得意な林ゆうきさん。新居の家賃を貯めるため、「r3」でコーヒーや料理を振る舞いながら資金集め中。こんなふうに「r3」には何か始めたい人・おもしろい人たちが自然と集まってくる。

三奈子さんは、「r3」を「みんなのため」「子育て世代のため」と力んでつくったわけではない。子育て、仕事、親の介護を両立するために必要な“第二のリビング”をつくった結果、そこにまちの人たちが集まるようになった。合田家のニーズが、たまたまこのまちの人たちのニーズに合致したというところだろうか。

2年前、三奈子さんが第4子を出産したときには、朝から晩まで“抱き屋さん”が続出。授乳のとき以外は「赤ちゃんがなかなか帰ってこなかった」と三奈子さんは笑う。

三奈子さん「朝はおばあちゃん、お昼は50代、3時半頃からは小学生、夕方になったら仕事あがりの40〜50代。ひとり赤ちゃんがいるだけで、めっちゃ喜ばれるしけっこう人が来るんですよね。だから、5人目欲しいなあなんて思えるんです。ここをやることによって、生活はめっちゃ楽になっていますよ」。

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中学2年、小学5年、1年、2歳の4人の子どもを育てる合田三奈子さん。

夕方になると、子どもたちが帰ってきて宿題をするそばで、地元の人がふらりと立ち寄る。「r3」のいつもの光景。

夕方になると、子どもたちが帰ってきて宿題をするそばで、地元の人がふらりと立ち寄る。「r3」のいつもの光景。

長田で言う“自分たち”は、
“自分たち”だけではないらしい

三奈子さんが「はっぴーの家ろっけん」のオーナー首藤義敬さんが出会ったのは、「r3」オープン間もない頃。すぐに意気投合したふたりは、お互いのやりたいことを熱く語り合ったそうだ。
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「はっぴーの家ろっけん」の階段の壁は黒板仕様。訪れる人が自由に絵やメッセージを描いていく。

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部屋を見せてくれた入居者のおひとり。壁紙はなんとヒョウ柄! 好きなものや思い出の品々に囲まれた空間。

首藤さん「僕はこの町で生まれて、いろんな大人が出入りする家で育ちました。でも、親族間のもめごとに嫌気がさして家を出ていたんです。実家に戻ることを考えたのは、結婚して子どもを育て始めてからです。人気の子育てスポットと呼ばれるまちに住んでみても満足度が低くて。ひとつ屋根の下に5世帯14人の大所帯で暮らすことにしました」。

首藤さんは、大家族で暮らす良さを再認識。多世代シェアというコンセプトが少子高齢化を解決するのではないかと考え「はっぴーの家」プロジェクトに着手した。「はっぴーの家ろっけん」をつくるときには、首藤さんは「どうせならまちの人に求められる場所にしたい」と、10人規模のワークショップを10回以上開催。なんと100人以上からアイデアを集めたという。20180221-DSC_1857_
首藤さん「プロは安くて安心安全なところをつくろうとしがちやけど、まちのひとが求めているのはエンターテインメント。おじいちゃんおばあちゃんも人生を楽しんでほしいし、地域の人にとっても楽しめる場所があったらうれしいですよね」。

オープニングイベントには400人以上が参加。現在は週に約200人が出入りしているし、Facebookページを通じて全国にファンも増えた。しかし、一番のお客さんはお隣にある真陽小学校の子どもたち。多世代の大人や外国人とのコミュニケーションに長けており、誰とでもみごとに会話してみせる。

首藤さん「この地域の子は相手が何を言いたいのかを察するセンスがある。お金があって、英語を習わせて留学させてもいいけど、本当の意味のグローバルやダイバーシティは言語じゃないなと思います。ここにいたら、お金をかけずに世界中で通用するホンモノのコミュニケーション力が身につきますよ」。

真陽小学校は1学年1クラス。少人数だからこそ、地域の人たちが子どもの顔と名前を把握してくれている安心感もある。「今の時代だからこそ、新しい選択肢として長田はすごくいい」と首藤さんは話す。

首藤さん「うちは若くして子どもが生まれたので、『まだ人生経験を積んでいないのに何を教えるねん』ってめちゃくちゃ悩んだんです。自分では教えられなくても、自分以外のいろんな大人に会わせることならできる。はじめは、年間千人が目標やったけど、今は年間1万人の大人に会う環境ができてしまいました」。

首藤さんも、三奈子さんも「誰かのためにいい場所をつくろう」という風には考えていない。あくまで、考えているのは“自分たち”の暮らしを良くすること。その延長線上に、このまちの暮らしがつながっている。

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新長田にあるコンテンポラリーダンスを主とした劇場「ArtTheater dB 神戸」にて。同劇場を運営するNPO法人DANCE BOXの理事、正岡健二さん(右)と、広報の岩本順平さん(左)。新長田のまちを舞台にした市民参加型のプログラムやイベントを積極的に企画し、ダンス×地域×人×組織をつなぐ事業を行っている。

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2017年に洲本市から新長田に引っ越してきた山口葉亜奈さん。大正筋商店街にあるコワーキングスペース「ヨンバンカンニカイ」のスタッフとして働きながら、新長田の街づくりに携わっている。

たぶん、彼らが言う“自分たち”には、同じまちで暮らす人たちがゆるやかに含まれているのだと思う。“自分たち”という範囲に入れてもらった人たちのなかに、また “自分たち”の暮らしを良くしようとする新たなプレイヤーが生まれ、このまちのコミュニティの密度と温度を上げていくのではないだろうか。ちょうど、小笠原さんがそうであったように。

最後に、この町の新しいプレイヤーとなった小笠原さんの言葉を改めて伝えたい。

小笠原さん「関係性はお金では買えないし、移住したから仲間になれるわけでもない。自分が一歩、勇気を振り絞って出て行ったり、人と出会える場に足を運んだりして探し続けるしかないと思います。常に自分が感じるままに探し求めていくことが本当に大事だし、そこに答えがある気がしています」。

小笠原さん、三奈子さん、首藤さんの言葉に胸がざわざわするのを感じたら、ぜひ「島&都市デュアル」のツアーに参加してみてほしい。百聞は一見にしかず。次はあなたが一歩を踏み出すときかもしれない。

【小笠原さんがナビゲートするツアーの申し込み・詳細はこちら】
◯島&都市デュアル 暮らしツアーズ:https://shimatoshi.jp/?p=954
◯TABCA:https://tabica.jp/travels/4399
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遠くへ出かけたら、もっとここが見えてきた。食を媒介に空気をつくる 「風景と食設計室ホー」

空気みたいなものをつくりたい

初めてふれる空気、誰かが歩く音、食べものの匂い、口にしたときの甘みや苦み、手のひらに残る肌触り……私たちは自分の体や感覚を通して、いろんなことを感じる。永森さんは何かをつくるとき、その作品に関わる人が自由に、能動的に感じられるような表現を模索していきたいという。その思いは、ときに食のインスタレーションというかたちをとり、ときにパフォーマンスになり、また、LETTERという場所にも生かされている。

体験型の作品に興味をもったのは、高校生のとき、オノ・ヨーコさんの作品に出会ったことがきっかけだった。そのひとつ『グレープフルーツ』(1964)は、「Imagine」(想像して)などの言葉ではじまる、さまざまなインストラクション(言葉による指示書)を収録したテキスト集だ。そこに示されているのは「地球が回る音を聴く」とか「風のために道をあける」とか、シンプルかつ少し日常を超えるようなことばかり。この著作が出版された60年代当初、日本ではほとんど理解されなかったというが、永森さんには響いた。

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「オノ・ヨーコさんのインスタレーションを見て、こういう表現って何なんだろう?って思ったんです。私はずっと体育会系でほとんどアートにはふれてこなかったのですが、インスタレーションというものに出会ったときに、何か目に見えないもの——間合いや空気みたいなものをつくることに惹かれました」

インスタレーションをつくりたいという思いにかられた永森さんは、インスタレーションは空間に関わるものなのではないかという予測のもと、金沢美術工芸大学の環境デザイン科に進学。卒業後は映像制作会社やグラフィックデザイン会社を経て、ランドスケープデザインの会社に所属する。その会社はパブリックアートも手がけており、アートとデザインの両方に携わりながら通算8年間働いた。

「食」を媒介に表現するということ

その頃は、当分その仕事を続けていくつもりだった。ところが東日本大震災を経て、永森さんの価値観は大きく変化していく。

「震災があったとき、出張で仙台にいたんです。大きな揺れを経験して、自分のいた場所からそう離れない所で、たくさんの方が亡くなっていて、傷ついていて、でも私は生きている。それ以降は第二の人生のような感覚もあって……。あのときって、みんなこれからどうやって生きていくかということを考えたと思うんですけれど、私もそれまで以上に考えたのかもしれません。そこから、人生を長い時間軸で捉えられるようになりました。5年後はどうしているかな、10年後はどうしているかな、って。自分が大切に思うことを、急がず育てていこうという気持ちになったんです」

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震災から1年が経ち、永森さんは会社を辞めた。気がついたら、届ける相手に近いことをしたいと思うようになっていた。

「仕事の規模がどんどん大きくなっていったときに、自分がつくるものと受け手の間にできる距離感みたいなものを感じて、このままでいいのかなと思うようになっていったんです。つくっているときの手触りや感覚みたいなものをもっと感じたかったし、それを受けとる相手がどう感じているかも、感覚としてもっと感じたいと思いました」

そんな感覚にしっくりきたのが「食」という表現手段だった。2012年、永森さんと高岡さんはホーとしての活動をスタートさせる。

「ホーの高岡は、ランドスケープデザインの会社で働いていたときの同僚だったのですが、彼女とは最初から気が合って、一緒に何かやりたいねという話をしていたんです。彼女は芸大時代に制作の一方でケータリングもしたりしていて、食についてもよく考えていました。ランドスケープデザインは風景をデザインする仕事ですが、私も彼女と話しているうちに「風景」と「食」ってどういうことなんだろう、「食」を通して「風景」をみるってどういうことだろうと、考えるようになりました」

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食事と朗読の公演「月出る処、今と昔」。千葉県市原市・月出の人々から伝え聞いた風習や食文化、風景を一つのテーブルを通して再構築して口承するというインスタレーションを行った。観客は、語り部が話す月出の物語と食べ物、絵の描かれた冊子を手がかりに、月出の今と昔を体験した。

「食を通した表現は、 とても刹那的ですが、それが魅力だなと思います。 手をのばして食べて、その人の体の中に入っていって、その人の感覚で受けとる。食べものは消えるけれど、その人の中の記憶や感覚として何かが残る。そこに流れる時間や空気、その人と私たち、そして、その人が想像することで、作品が成り立っていると思います。私たちは自分たちが感じたことを咀嚼して、差し出すだけなんです。自分自身もホーの活動を通じて、社会や政治、信仰や民俗、微生物など、いろんな世界を想像できるようになったことがうれしいなと思っています」

故郷、富山からフィールドワークの旅へ

2014年、故郷である富山へ戻ることを決めた。それは「ひとつの挑戦」でもあったけれど、いざ戻ってみると、自然と気の合う仲間が増えていった。また、制作のために富山と日本各地を行き来していると、オンとオフの切り替えができるのもよかった。

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その頃から、ホーはアーツ前橋(群馬県前橋市)で開催される「フードスケープ 私たちは食べものでできている」展に参加するため、前橋市粕川町でリサーチを開始。お年寄りから話を聞き、村誌や文献を読み、その土地の歴史を読み解きながら作品の構想を練っていった。そして2016年、足かけ2年のリサーチを経て、同展の関連イベントとしてツアー公演『見えない神さま ~粕川の祈りと食べもの~』を行う。

ツアー公演『見えない神さま ~粕川の祈りと食べもの~』は粕川町の赤城山に伝わる「粕流し」という神事などを手がかりに実施したフィールドワークをもとに構成した、ハイキングと食事のツアー。参加者は、八百万神(やおろずのかみ)へのお供えものを辿って山を歩き、川の上流にある滝沢不動尊で朗読や伝え聞いた習慣の再現や、小豆粥などの料理を提供するパフォーマンスを行った。

このツアーのブックレットには、次のようなテキストが収められている。

太陽が沈み、月が昇る。
山があり、川が流れる。
雨が降り、田畑が潤う。
火を起こし、米を炊く。

あたり前の風景。
そこここに、神さまがいた。

あたり前の風景。
それは、生きる糧をもたらしてくれる。

流れの中で、だんだんと淘汰されていくこと。
かたちを変えながら、続いていくこと。

神さまの気配に耳を澄まし、わたしたちは、所々に、そっと供える。

『見えない神さま ~粕川の祈りと食べもの~』ブックレットより(2016年)アーツ前橋所蔵

撮影:木暮伸也

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粕川村(かすかわむら)の語原にもなっている「粕流し」という神事では、赤城山の中腹に住む山の親神が下流の里の子神に向けて川に濁酒を流すというもの。粕川では今でもその神事が行われている。

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撮影:木暮伸也

「普段の暮らしの中で自然を畏怖し、祈ることによって生みだされた神さまみたいなものに興味があって。そういうことって特別なことではなく、人間の普遍的な感覚なのではないかと思うんです」(永森さん)撮影:木暮伸也

永森さんはホーの活動を続けていくうちに、その土地の歴史や食べものの背景にある大きないとなみに気づくようになったという。

「フィールドワークを重ねていくと、今目の前にある食べものがどこから来ているのか、今目の前にある風景はどこから来ているのかを、考えるようになりました。その土地土地を知ることで見えてくることがあるし、人が大きな循環の中の一部ということを想像する大切さも感じます。小さい頃から、今目に見えていることがすべてだと思うのは、なんだか奢りというか、少し違うような気がしていて……。いろんな世界でいえる事ですが、見えないものや理解できないとされるものとどう向き合って、どう咀嚼していくのか、どう寄り添っていくのかということは、これからの風景を描く糸口なような気がしています」

ホーは「朗読」と「食」という手法でいくつかの作品を発表してきたが、永森さんは、いろいろな表現方法を模索していきたいという。

「朗読と食事の会は、食事と共に朗読や動きがあり、五感を通じて感じられるので、作品の在り方として、しっくりはきていると思います。ただ、言葉を用いることを突き詰めていきたい一方で、言葉は、やはり形づくるものなので、より身体的、感覚的な在り方が見つけられたらおもしろいなと思っています」

今、ここにはないもの。目には見えないもの。そしてホーがつくるものも、その時、その場でしか体験できないものだ。その場に立ち会った人たちは、かつて人々の間で信じられていた何かを感じただろうか。なお、このときのツアーは後にアート作品としてアーツ前橋に収蔵されることになったという。

突然、大家になる

富山へ戻り1年ほど経った2015年の秋頃、建設会社を営む永森さんのお父さんから「射水市にいい物件があるから見てみないか」という話が舞い込んできた。建物の名は「小杉郵便局」。大正時代に建てられた郵便局で、文化財になってもいいほどの素晴らしい建物なのだが、壊すか残すかという話になっているらしい、ということだった。

「その郵便局は地元の人たちからも愛されていて、取り壊しには反対する人も多かったので、父としてはそこで地域に貢献できるようなことができないかと考えていたようなんです。それで“何かやってみないか?”といわれて見にいってみたら、とてもいい場所だったんです」

LETTERの正面入り口。様々な白の壁や窓が美しい。石張り風の腰壁など、あちこちに当時の洋風建築の要素が見られる。

LETTERの正面入り口。様々な白の壁や窓が美しい。石張り風の腰壁など、あちこちに当時の洋風建築の要素が見られる。

洋風の白い建物のなかに入ると、天井が高く開放的な空間が広がっていた。正面には分厚い木のカウンターがあり、かつてここを多くの人たちが行き来し、活気にあふれていたことが想像できた。

永森さんは、お父さんの後押しもあって、大家さんとしてここを活用していくことを決める。突然といえばあまりに突然な話だったが、あれよあれよという間に話が進み、2016年7月、文化スペース「LETTER」がオープンした。

1階は本居淳一さんが営む古本屋「ひらすま書房」とホーのアトリエとキッチン。2階はデッサン教室「アトリエ セーベー」を主宰する樋口裕重子さんのアトリエ兼教室。本居さんも樋口さんも、永森さんが直観で思い浮かべ、声をかけた人たちだ。

1階の古本屋「ひらすま書房」は小学校の図書館のような懐かしい気持ちになる空間。

1階の古本屋「ひらすま書房」は小学校の図書館のような懐かしい気持ちになる空間。

「今は、本居さんと裕重子さんにとても支えてもらっているので、本当はもっと率先してLETTERを動かしていった方がいいのかな、という葛藤もあります。でも、LETTERは出会ってしまった場所で、ここが好きだから、この場所と自分との関係性みたいなものを探り探りつくっていけたらいいのかなとも思っています。おばあちゃんになってもここにいるぐらいの気持ちで、長い目で考えていけたらいいなと」

「出会ってしまった場所」という言葉は運命的な出会いを感じさせた。永森さんがいっていた「この場所との関係性をつくっていく」というのも、この場所と時間をかけて向き合い、生かし合っていくということなのかもしれない。長いこと閉じられていた場所に人が集まりはじめて、この建物自体がまた新しく呼吸し始めているような気がした。

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2階にある美術教室「アトリエ セーベー」。この日は隣のスペースで、ルドルフ・シュタイナーの教育思想を背景に生まれた人形「ウォルドルフ人形」をつくっていた。主宰の樋口裕重子さんは教室の運営のほか、LETTERで行われるライブや上映会なども企画している。

2階にある美術教室「アトリエ セーベー」。この日は隣のスペースで、ルドルフ・シュタイナーの教育思想を背景に生まれた人形「ウォルドルフ人形」をつくっていた。主宰の樋口裕重子さんは教室の運営のほか、LETTERで行われるライブや上映会なども企画している。

遠くの誰かとつながっている感覚

永森さんは富山に拠点をかまえるようになってから、不思議と近くに居る人とも遠くにいる人とも「つながっている」感覚を感じられるようになったという。

「富山にきて、自分はここにいるけど、遠くにいる人ともずっとつながっているような感じがあるんです。気の合う人や信頼できる人、遠くにいても存在を感じる人が増えたというか。つながっている人が山形や高知や九州や北海道や前橋や東京にいて、その人たちが住んでいる場所も好きで…そういう場所が増えていくと、自分の空間認識みたいなものがざっと広がるような感じがあります。そういう感覚をもてるようになったことがうれしい。もちろん富山も大切で、愛着があります。でも、どうしても富山が好きというよりは、ここが今自分がいる場所だからいるんだな、という気がしているんです」

永森さんと高岡さんは、目下次の作品の準備を進めている。制作のために、またフィールドワークに出かける予定だ。

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【雛形イベント】サウンド・ワークショップ × 朗読と食事の会「見えない世界」開催

春のにおいに包まれる、3月21日(祝)春分の日。見えないものに耳を澄まし、眠っていた感覚をひらく手がかりをさがす、雛形イベント「見えない世界」を開催します。「風景と食設計室 ホー」さんに、“見えないもの”をテーマに、朗読と食事の会をひらいていただきます。イベントの詳細はこちらから。

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雛形イベント「見えない世界」
日時:3月21日(祝)17:00〜20:00(受付 16:30〜)
会場:VACANT 原宿(東京都渋谷区 神宮前3-20-13)
入場料:2,000円(税込)/軽食・ドリンク付

都市と地方の魅力が交差する、 この場所でしかつくれない“かっこいい”ものを。

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この場所でこそ実現できる、
アンテナショップを

宇都宮中心部から北西の大谷地区へと車を走らせる。30分ほどで大谷に入ると、車窓から流れる風景が変わり始めた。道の両脇にそそり立つ岩壁。黄褐色の美しい縞模様が続く。古代の火山噴火による地形で、ここで採れる「大谷石」は昔から外壁や土蔵など高級建築の材料として使用されてきたのだそうだ。大正から昭和60年頃まで大谷には、石の地下採掘場があった。その巨大で神秘的な空間はいま「大谷資料館」として観光名所になっている。

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現在、「大谷資料館」となっている大谷石地下採掘跡地。巨大な地下建造物を思わせる。地下に広がる地底湖では、クルージングを楽しめるツアーも。

現在、「大谷資料館」となっている大谷石地下採掘跡地。巨大な地下建造物を思わせる。地下に広がる地底湖では、クルージングを楽しめるツアーも。

松本さんが、大谷に関わることになったのは、今から3年前のこと。資料館オーナーの息子さんと松本さんの古くからの友人のつながりから、声をかけられたのだ。資料館脇のミュージアムショップをリニューアルしたいという話だった。

「ずっと地元で建築をやってきた仲のいい友人だったので、はじめは仕事として関わるというよりも一緒におもしろいことをやろうって感じでスタートしました。じつは数年前から2人でこういうことできたらいいねって意気投合していた企画があって。それを実現するいい機会になるかもしれないと思ったんです」

それは、栃木のものにこだわった小物やクラフトを置いた店を始めること。「栃木県のかっこいいアンテナショップ」をつくる案だった。

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「仕事がら他の県からセンスのいいクラフトがどんどん出てきているのを見ていて。でも栃木県のアンテナショップには、食品類は充実していても、生活雑貨やクラフト系のいいものが少ないなと感じていました。伝統工芸品の技術を生かして、もっと若い人たちが手に取り入れやすいものをつくるができると思ったし、栃木でしかつくれないかっこいいものをつくりたかったんです。友人が建築と施工を担当して、僕が小売や店舗のノウハウを提供して。オリジナルのプロダクトをつくるために、県内でものづくりしている人たちを300〜400人はまわりました。最終的に形になったのは30〜40くらいかな」

「ROCKSIDE MARKET」がオープンしたのは2016年の春。お店へ入ると、ここでしか買うことのできないオリジナルのクラフトや食品が並ぶ。栃木県南部に伝わる組紐でつくった「間々田紐のあわじ玉ピアス」や、大谷石を土台にしたろうそく、益子の作家による陶器、那須のカフェでつくられた手づくりジャム……など、栃木県で生まれたものばかり。

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大谷石の器にソイワックスを流し込んだキャンドル「takibi」(左奥)や、花や木の実、大谷石の入った「Aroma Wax」(右奥)。「stone colorピアス」(手前)など、大谷石を用いたオリジナルの品が揃う。

大谷石の器にソイワックスを流し込んだキャンドル「takibi」(左奥)や、花や木の実、大谷石の入った「Aroma Wax」(右奥)。「stone colorピアス」(手前)など、大谷石を用いたオリジナルの品が揃う。

「栃木でもこれだけカッコいいものができる」というメッセージは周りにも伝播して、ここ数年大谷は若い人たちがツアーを企画するなど活気を取り戻している。「ROCKSIDE MARKET」はその要になっているといっていい。昨年の資料館の入館者は、2013年の約4倍、40万人を超えた。

未来像の見えるまち。
だから、自ら始める

「それでも、大谷にもっと多くの人に来てもらうためには、足りないものがまだたくさんあると思っていて。駐車場はこれからできます。でも見に行けるスポットも少ないし、人数を収容できる飲食店がないんですよ。そこで、地元の人たちにも観光客にも喜んでもらえるような、ベーカリーショップを兼ねたカフェレストランを始めることにしたんです」

こともなげに言うが、これまで経営者に伴走するコンサルタント業が主な仕事だった松本さんにとって、自らオーナーとしてお店を開くのは初めてのこと。思い切った理由を問うと、「もう半ば、意地です」と笑って言った。

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「この建物の一部だけ使ってシェアオフィスにするような案も出ていたんですが、それを知った時、そうじゃないだろうって思ってしまって。ここをリノベーションするなら全体を変えないと雰囲気が出ないし、せっかくこれだけ観光客が訪れるポテンシャルのある場所でオフィスをやるのは勿体ないと思いました。それですぐに契約して、自分が何とかするからって。そのために、自営業でやってきた事業を会社にして、資金を集めました。『ROCKSIDE MARKET』と今回のベーカリーで大谷の2大スポットを抑えているので、これからもっと大谷はおもしろいことになっていくと思います」

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普段は落ち着いた物腰からクールに見える松本さんだけれど、その奥にある熱いものがちらりと見えるような話ぶりが印象に残った。

「THE STANDARD BAKERS」は、2018年4月に大谷のもう一つの名所、大谷寺の入り口にオープンする。おいしいパンを買うことができて、ゆっくり食事もできる、明るくて開放的なレストラン。話を聞いていると、そこが「ROCKSIDE MARKET」に並ぶスポットとしてたくさんの人で賑わう様子が目に浮かぶ。

「THE STANDARD BAKERS」は2018年2月末には完成予定。パンのほかにパスタやグリル料理も提供する。まちの周囲も含めて、松本さんにはこの場所の未来像が見えているかのよう。

「THE STANDARD BAKERS」は2018年2月末には完成予定。パンのほかにパスタやグリル料理も提供する。まちの周囲も含めて、松本さんにはこの場所の未来像が見えているかのよう。

大谷との関わりから知り合いも増え、県内のほかのエリアでの仕事にもつながり始めている。そんな松本さんは、一つの地域を、もうひとまわり広い視野で見ることの大切さを話す。

「大谷の中だけを見ていると、訪れた人たちにこの中でどう動いてもらうかってことばかり考えてしまいがちですが、もう少し広く、北関東くらいの範囲で見ると、大谷って都市部からとてもいい距離感にあるんですよね。日光や益子に向かう途中に立ち寄ることもできるし、日帰りで遊べるスポットとしてもちょうどいい。そんな視点をもって、僕らがもっと周りの地域とつないでいけるといいのかなと思っています」

宇都宮の暮らしやすさと、
都心のスピード感

9年前、会社員だった頃から、栃木に暮らしながら東京へ通う生活を続けてきた。奥さんの職場が宇都宮にあったことが一番の理由だけれど、松本さんはこのライフスタイルを気に入っている。

「いまも週3〜5日は宇都宮から東京へ通っていますが、新幹線で1時間ほどなので通勤もそれほど大変じゃないんです。暮らすことを考えると宇都宮の方が環境はいいと思うので。小さな子どもがいると、電車でなく車社会なので移動が楽ですよね。祖父母も近くにいるので、共働きでも何かの時にはすぐに手を借りられます。駅のすぐそばで、保育園も近くて便利ですし」

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6年前に独立した際も「住むのは宇都宮、仕事は東京で」と決めてやってきた。それがここ最近、大谷のプロジェクトに携わったことで地元でのネットワークが広がり、少しずつ県内の仕事も増え始めている。今後は東京の仕事を減らしてできるだけ栃木にシフトしていくのだろうか。

「いえ、やっぱり東京の仕事はやっていてすごく楽しいし、周りの人たちのクオリティも高いので今のペースで続けていきたい。何よりスピード感と情報感度が全く違います。それを栃木に持って帰って周りに伝えられたらいいなと。東京でちゃんと稼いで、栃木では面白くてやりたいことに絞って関われたらいいなと思っています」

今あるものを、
もっとかっこよく

都心の最前線での仕事と、地元の気のおけない仲間と家族。そのバランスが今はちょうどいい。どんどん望む方へ進んでいるように見える松本さんだが、その道はどこへ向かっているのだろう。

「じつは将来やってみたいことがあって、今の仕事は全部そのための準備かもしれないとも思っているんです。それは、地元の道の駅や廃校で新しい事業をやること。今ある道の駅も楽しい場所ではあるけど、もっと機能的で、気持よく過ごせる場所になるといいなと思っていて。例えば、機能面でいうと、今は売れなかった野菜を生産者が持って帰らないとならないしくみですが、残った食材を加工して販売できるといいし、飲食店も重要なファクターになります。空間づくりにしても、今回の『THE STANDARD BAKERS』では、スタッフの制服、BGMから庭のディレクションまで、これはぜひこの人に、と思うアーティストや専門家に依頼して一緒につくっています。そうした商業施設の手法を応用して、道の駅ももっと魅力的な場所にできるかもしれない。廃校も同じで、シェアオフィスにするような方法だけでは雇用を生むのはなかなか難しいんじゃないかなと思っていて。ちゃんと収益を上げながら、かっこいいことができたらいいなと思いますね」

やはりモチベーションの発端は「今あるものを、もっとかっこよく」なんだなと思った。こうすればよりよくなるし、できると知っているから、自分で形にして見せたいと思う。

「まぁでもやっぱりまちのためというよりも、自分があったらいいなと思えるものを仲間と一緒につくっていて。それを来てくれたお客さんに喜んでもらえたら、それだけですごく嬉しいです」

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編集協力:宇都宮ブランド推進協議会

今お寺にできることはもっとある。ふたたび、まちに開かれた場を目指して。

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お寺をまちの人たちの集う、
開かれた場に

朝6時15 分。宇都宮光琳寺の本堂に、一人また一人と集まり始める。若い女性、幼い娘の手を引く父親、家族4人連れ。訪れる人びとを「おはようございます」とよく通る声で迎え入れるのは、副住職の井上広法さん。光琳寺では、毎月1日に「ラジオ体操&朝参りの会」を開催している。

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「多いときには50人近く、3歳から80代までのご近所さんが集まります。今日は20人くらいかな。駐車場の整備が追いつかなくて、しばらく告知を控えていたのですが、近所に借りられるスペースが見つかったので、また4月から大々的にやっていく予定です」

お寺をまちの人たちが気軽に集まれる場にしたい。井上さんの提案で2年前に始まった「ラヂヲ体操」は、すっかり光琳寺の月行事として定着している。

一体どんな人たちが、どんな目的で、こんなに朝早くから集まってくるのだろう。

「毎月一度ここへ来ると気持がすっきりするんです」すぐ近所から来たという年輩の男性や「車で20 分くらいの隣町から。いつも友達とここで会って帰りに近くのパン屋に寄るのが楽しみで」という女性も。出勤前に立ち寄る大人も多い。早朝から体を動かして新しい月のスタートをきることが、日常のハリになるのだとわかった。

「ラジオ体操って一見ポップですが、仏教に通じるところがあるんです。身体を動かすことで集中力が高まるし、体操のあとはみなで朝のお勤めをして、みんなで声を出して読経をします」

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時計の針が6時30分に近づくと、井上さんは鐘を衝くために慌ただしく境内へ出ていった。外でごーんと鐘の音が響く。と同時に、堂内には軽快な音楽が流れ始める。「あったーらしい、朝がきたー」お馴染みの曲に誘われるように、みな身体を動かし始めた。

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ラジオ体操は屋外の境内で行う日もあるが、雨の日や寒い日は本堂の仏前で。ラジオから流れる音楽に合わせて精一杯胸を開くと、清々しい気分に。

ラジオ体操は屋外の境内で行う日もあるが、雨の日や寒い日は本堂の仏前で。ラジオから流れる音楽に合わせて精一杯胸を開くと、清々しい気分に。

まちのプラットフォームとして広がる、
お寺の可能性

“お寺にできることは、もっとある”。

寺の仕事を継ぐと決めた時から、そのことだけを考えてきた。昔のお寺は「寺子屋」とも言われたように学びの場であり、子どもたちが駆け回る遊び場。結婚式や七五三など人生の節目に関わることもあれば、悩みごとを気軽に相談できる心の拠り所でもあったのだ。それが今では、葬式や法事など特別なときにだけ訪れる場所になっている。井上さんはそのことを「僕らの怠慢だとも思うんです」と話した。

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25 歳で佛教大学を卒業して、住職である父親とともに寺で働き始めた。お寺をかつてのように開かれた場所にするために。光琳寺の本堂は毎日開放されていて誰もが自由に出入りできる。ラジオ体操のスピンオフ企画として、休日にお寺主催のバーベキューも行われた。

「“遊びながら防災訓練をしてみよう”と、朝バーベキューをしました。いざとなったら、お寺はみなさんの避難所になりますよって伝えたかったんです。ここにはインフラとしての水もあるし火もある。何かあったら頼ってくださいねと。でも普段から接していないと、いざという時に頼りにくいですよね」

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ラヂヲ体操と朝参りに参加をすると、スタンプがもらえる楽しみも。

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近所のドーナツ屋さんが主催の食とワインを楽しむ会「満月バー」には、会場としてお寺の境内や本堂を提供。この時は1,100人ものお客さんが訪れ、境内が埋め尽くされるほどのにぎわいだった。

「昔の縁日が復活したようでした。市内の個性的な飲食店が出店して、みんなでおいしいものを飲んだり食べたり。本堂内でライブもやったんです。若い人ばかりでなく父親の同級生たちも集まって。お客さんのほとんどはご近所さんなので、みんな一度家に帰って椅子を持ってくるんですよ(笑)。境内に椅子を設置してみんなで喋って飲んで。普通のイベントなら怒られると思うんだけど。昔のお祭りのような雰囲気が懐かしかったのかもしれないですね」

ワイワイと賑やかでも落ち着きがあり、安心してくつろぐことのできる聖域。お寺という場所には不思議な包容力があるのかもしれない。

お寺がもう一度人びとの拠り所になれたら。井上さんがそう思うようになった大きなきっかけは、2011 年3月11 日の東日本大震災だった。

「避難場所としてのハード面もそうですが、精神的な面でもお寺のできることは大きいのではないかと感じたんです。いまの時代、みんなが漠然とした不安を抱えて生きていて、震災が起きてますますそうなった。これからを生きていく上で心の支えになるような考え方やビジョンが必要になる。仏教ならそのヒントを提供できるんじゃないかなって」

ただし従来のやり方のままではなく、現代に合った新しい伝え方が必要だと井上さんは考えるようになる。

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大切そうに木魚を抱えて仏前に座る3歳の男の子も。大人も並んで座り、木魚を叩きながらの読経。井上さんに続いて読み上げるにつれて集中力が高まる。

大切そうに木魚を抱えて仏前に座る3歳の男の子も。大人も並んで座り、木魚を叩きながらの読経。井上さんに続いて読み上げるにつれて集中力が高まる。

時代に合わせて
仏教をリノベーションする

子どもの頃から「坊さんにだけはなりたくない」と思ってきた。その理由の一つが、世間一般にある「坊主丸儲け」といったネガティブなイメージ。小学校で友人に野次られた思い出が「お坊さんになったらカッコいい大人にはなれない」と井上さんを僧侶になることから遠ざけた。それでもこの道を選んだのは、大学生の頃、先代の祖父が亡くなった時に、遺品の中から見つかった折り紙がきっかけだった。

「僕が幼稚園生の頃に祖父にプレゼントしたもので、折り紙の裏に、将来は立派なお坊さんになりますって書いてあったんです。それがとても大切にしまってあるのを見た時に、やっぱり一度は坊さんになろうと決めました」

勉強し始めると、仏教のおもしろさにのめりこんだという。佛教大学を卒業後も、僧侶としてより社会にきちんと向き合えるようにと、臨床心理学を学ぶためにさらに4年間東京の大学へ通った。

今を生きる人たちに、仏教をより身近なものとして感じてほしい。震災は、井上さんの背中を押した。まず始めたのは「hasunoha」というインターネットサイト。全国のお坊さんが悩みに応えてくれるというサービスで、誰でも気軽に投稿できる。サイトを覗くと、障がいを持つ子の親、娘を亡くした悲しみなど簡単に周囲には相談できないような悩みが切々と綴られている。相手がお坊さんで、しかも匿名だからこそ吐き出せる悩みがあるのだとわかる。このサイトが話題になり、時折テレビからも出演オファーが入るようになる。ある深夜番組は、井上さんの出演がきっかけで「ぶっちゃけ寺」という番組に昇格しゴールデンにも進出した。今までにないリアルなお坊さんの像が新鮮に映ったのだろう。井上さんは番組の企画に携わりながら自らも出演し、「お坊さんブーム」の立役者にもなっていった。

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寺やお坊さんのイメージを刷新するチャレンジをしながら、一方で仏教を伝える手法にも工夫を始めた。説法の代わりに、訪れた人が主体的に参加できるワークショップ型の瞑想など、日常から離れてさまざまな研修をするリトリートを取り入れるように。ちょうど世の中ではマインドフルネスなどの言葉が出始めた頃。心と頭を空っぽにして無に向き合う瞑想は、仏教の本質にも通じる。毎週一度東京の恵比寿でワークショップを始めると、参加者が途切れることはなかった。今もこの延長で企業研修に講演、ワークショップなど、全国を飛び回る日々だ。

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新しい事業や活動を始めるとき、
宇都宮はブルーオーシャン

それでも「自分の本拠地はあくまで光琳寺」と話す井上さん。外から持ち帰った情報を宇都宮でこそ生かしたい。住職として先代の跡を継ぐことになるとき、光琳寺がこのまちでどういう存在になりえるか。志を実現できるかどうかは、そこで問われる。

「宇都宮は、ある意味でブルーオーシャンだと思うんです。どんな分野でもまだ誰も手をつけていないことが多いので、新しいことを始める時とてもやりやすい」

外に出れば宇都宮が地元だが、市内では、お寺のある「もみじ通り」近辺が井上さんの“地元”にあたる。ここ数年で古い物件をリノベーションした小規模の店が増え、注目され始めているエリアでもある。

立て続けに鳴る電話に応じる井上さんは、僧侶兼プロデューサーといった印象。

立て続けに鳴る電話に応じる井上さんは、僧侶兼プロデューサーといった印象!

5年前に移転してきた不動産屋ビルススタジオの塩田大成さんとは、もみじ通りの忘年会で知り合った。その後、年に一度この通りで開催される「あ、もみじずき」という商店街のお祭りに井上さんも加わることになった。塩田さんは、ここ数年で近隣の17 軒の開業に携わったエリアの火付け役ともいえる。だが「まちをつくっている意識はないんです」と笑う。

「ここにあるお店はそれぞれが粛々と営業しながらゆるくつながっていて、年に一度だけイベントをやっているような状況です。ただ僕たちはみなよそ者なので、仲間うちに地元に密着したお寺の井上さんがいることは、地元の人たちへの大きな安心感につながっている。有事のときには絶対的な信頼になると思っています」(塩田さん)

「ぼんやりしていたら忘年会やる機会を逃しまして」という塩田さんに「また集まりましょうよ」と声をかける井上さん。近隣の物件についてなど、情報交換は尽きない。

「ぼんやりしていたら忘年会やる機会を逃しまして」という塩田さんに「また集まりましょうよ」と声をかける井上さん。近隣の物件についてなど、情報交換は尽きない。

カフェやお惣菜屋、ドーナツ店など数ある魅力的な店が並ぶなかでも、井上さんがよく訪れるのは、通りから一歩奥へ入った2階にある子ども服のセレクトショップ「saihi」。オーナーの山口明子さんは、ご主人の地元である宇都宮に居を構えてから数年間、東京の職場へ通勤する2拠点生活を送ってきた。子どもに手がかからなくなった5年前に独立して、今の店をオープン。「大人も着たくなる子ども服」をコンセプトにした品揃えは、可愛いばかりでないセンスの光るセレクトで、市外から訪れるお客さんも多い。

井上さんとの話題は歯医者や子どもの受験の話までざっくばらんに話せる、文字通りの“ご近所さん”。

「新しい商品をインスタグラムでアップすると、井上さんがすぐにチェックしてくれて、買いに来てくれるんです。井上さんも子育て世代なので、うちのお得意さんですね。宇都宮は東京に比べて暮らしにまつわる情報が伝わるのが早いんです。誰かに何かを相談すると、その人の知り合いの知り合いくらいですぐにものごとが解決するような感じで」(山口さん)

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同じく、もみじ通り沿いにある人気のドーナツ店「dough-doughnuts」オーナーの石田友利江さんも、東京からUターンで宇都宮へ戻ったひとり。店を始める際に、東京よりも宇都宮の方がチャンスがあると感じたという。

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休日には行列ができるほど人気のアンティークとドーナツの店「dough-doghnuts」。注文を受けてからカスタードを入れるという、おいしさへのこだわり。それも納得の味だ。

休日には行列ができるほど人気のアンティークとドーナツの店「dough-doghnuts」。注文を受けてからカスタードを入れるという、おいしさへのこだわり。それも納得の味だ。

この地でお店をはじめる人たちの多くは、井上さんと同じくほかの都市に身をおき、めまぐるしく変わる時代の中で切磋琢磨してきた人たちでもある。だからこそ一軒一軒に底力があり、個人の力でお店を育てていくことができる。その点と点が線になったとき、まちの魅力となり周りの人を引き寄せるのだ。

今も頻繁に都心へ出て感度のアップデートができるのも、アクセスがいい宇都宮の強みかもしれない。

お寺をまちのプラットフォームとして気軽に出入りしてもらえる場所にすること。そのために日々邁進する井上さんを見ていると、場所を生かすのは人だと改めて思う。魅力的な人が集まるこの場所だからできることがある。

仏教のこれからとまちのもつポテンシャル。その両方をつなぐ役割を、井上さんは今まさに築き始めている。

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編集協力:宇都宮ブランド推進協議会

選択したのは、歩いて過ごす日常。 自分のペースで暮らし働き、楽しむ宇都宮。

歩いて回るからこそ、見える風景。

掛川さんの職場と家は歩いて10分ほどの距離。自宅マンションの目の前には国内の若手デザイナーのセレクトショップがあり、いつも食べに行く中華料理店「珉亭」は会社からすぐそこ。掛川さんの普段の行動範囲は、半径1km以内にほぼ収まるという。

「車を持っていないので、ほとんど歩きで移動していて。いま住んでいるところが宇都宮の中心部なので、歩いて行ける範囲に何でもあるんです。もちろん仕事柄、宇都宮市内のいろいろな場所に行ったりもしますけど、僕の日常はこの範囲でまかなえちゃいますね(笑)」
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週に何度か通うというお気に入りの中華店「珉亭」。おすすめはラーチャン(ラーメン&チャーハン)。「世界で三番目に旨い」のは、下北沢にある「珉亭」からのれん分けだからとか。

週に何度か通うというお気に入りの中華店「珉亭」。おすすめはラーチャン(ラーメン&チャーハン)。「世界で三番目に旨い」のは、下北沢にある「珉亭」からのれん分けだからとか。

中高校生の頃、よく遊んでいたというオリオン通りには「めちゃくちゃおいしい」というカレー屋さんがあり、どこかホッとする昔ながらのコーヒーショップへも時々ふらりと訪れるという。かつて古着屋がいくつもあったユニオン通りには、人気セレクトショップ「ARK」が立ち並び、買い物には事欠かない。

車社会だといわれる宇都宮市は、駐車場の数が圧倒的に多いそうだ。市街地を歩けば、その数に驚くほど。空き店舗になった物件を取り壊し、それがどんどん駐車場になっていくからだ。だが、しばしそこに車を停めて、歩いて回ってみると、普段見えなかった風景が目に入ってくるだろう。路地裏にあるワインバーの手書きのメニューをのぞいたり、小さなカフェの中にはこんがりと焼き上がった焼き菓子を見つけては一息ついたり、年季の入った洋食店からはいい匂いが漂ってくる。そうやって掛川さんが歩いて回って初めて知ったという宇都宮という街は、生まれ育った町の記憶にあった宇都宮とは違っていた。

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オリオン通りにある「カレーハウスフジ」では、カツカレーかAセット食べるという掛川さん。古いお店と新しいお店が共存している。

オリオン通りにある「カレーハウスフジ」では、カツカレーかAセット食べるという掛川さん。古いお店と新しいお店が共存している。

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県庁近くにある「ブラジルコーヒー商会」は昔ながらの喫茶店。掛川さんが初めてお店に訪れた時、店員さんが亡き母に雰囲気が似ていて驚いたという。心温まる接客で居心地が良い。

県庁近くにある「ブラジルコーヒー商会」は昔ながらの喫茶店。掛川さんが初めてお店に訪れた時、店員さんが亡き母に雰囲気が似ていて驚いたという。心温まる接客で居心地が良い。

県庁近くにある「ブラジルコーヒー商会」は昔ながらの喫茶店。掛川さんが初めてお店に訪れた時、店員さんが亡き母に雰囲気が似ていて驚いたという。心温まる接客で居心地が良い。

「宇都宮に戻って4年が経ちました。昔知っていた宇都宮とはぜんぜん違っていましたね。実家も小中高も半径1km内にあったから、ほとんど宇都宮の街なかと実家周辺しか知らなくて。高校を卒業してすぐに上京したので、こっちに戻って来て初めて、宇都宮にもいろんなお店や場所があることを知ったんです」

生まれも育ちも宇都宮という掛川さん。高校を卒業して音楽関連の仕事につきたくて東京の音響やレコーディングが学べる専門学校へ進学。その後、青山にある「CAY」へライブに訪れ、この空間で働きたいと、アルバイトを始めることに。レストランでありながら、ライブスペースとしても知られるこのお店で、アーティストの窓口やブッキングなどイベント業務に携わった。7年ほど働いた後、ウェブの制作会社へ就職。そこではイベント制作などを手がけた。仕事も順調だった矢先、母親が体調を崩し、宇都宮へと戻って来ることに。母親の看病をしながら、ウェブ制作の仕事を請け負うようになり、それがいまの仕事につながっている。

「いまの仕事はディレクター兼営業ですね。僕の場合は行政にまつわる仕事と、テレビとか出版、ラジオ局などメディア系の仕事が中心。宇都宮市の観光PR動画『RIGHT NOW!宇都宮』や、宇都宮のシティプロモーションサイト『宇都宮プライド』ダブルプレイス(※)』などのディレクションを手がけています。これらの仕事を通して、宇都宮の人々や地域を再発見するきっかけになりました。大人になって初めて知ったことも多くて(笑)。その取材を通してわかったことは、場所よりもやっぱり人がおもしろいということ。そのエリアに集まる人だったり、いま僕たち世代の30代で宇都宮に戻って何かを始めようとしている人たちがいることが宇都宮の魅力なんじゃないかなと。まさに新しい宇都宮を作っている最中なんだと思います」

※ダブルプレイスとは、2つの地元を楽しむ生き方。いま住んでいる土地に加えて、もうひとつ気軽に帰れる場所を持つ画期的なライフスタイル。
掛川さんがディレクションを手がけたウェブサイト『宇都宮プライド』

掛川さんがディレクションを手がけたウェブサイト『宇都宮プライド』

宇都宮でお店を開くということ。

掛川さんがいま一番話しをしてみたかったという高橋健太さんのもとへと向かった。高橋さんは、東京で自身のブランドを立ち上げ、デザイナーとしてのアトリエ兼セレクトショップとなる「SONAR」を4年前に宇都宮でオープン。宇都宮から国内の若手ブランドを発信するユニークなセレクトショップだ。

高橋さんも宇都宮市出身。白鴎大学を経て、東京の専門学校に進学し、服飾デザインを学んだ。卒業と同時に自身のブランド「NICK NEEDLES」を立ち上げ、3年半くらい東京で営業し、本拠地を宇都宮に移した。

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「いろいろあって戻ってくることになったんですけど、将来を考えた時に宇都宮でやるのも悪くないかなと思ったんです。東京で高い家賃を払って生活するよりも、そのお金でこっちでお店ができるかもしれない。僕がセレクトしているような若手ブランドを取り扱っているお店が宇都宮にはなかったというのもあって、やってみようと。都市のスピード感に合わせるのではなく、自分のペースでのびのびでできていますね」(高橋さん)

服を作るためにもスペースが必要なため、奥がアトリエになっており、作業しながらお客さんを待つ営業スタイル。「SONAR」のあるエリアは大通りには面してはいないものの、パルコからも歩いてすぐながらも広さがあって家賃も安い。服の販売自体はオンラインショップでもやっていこうと考えていた高橋さんにとって、立地はまったく問題なかった。

「なかったら作るしかないんですよね。良くも悪くも東京が近いから行こうと思えばすぐに買いに行けちゃう。でも、高橋さんのように地元のほうがいいんじゃないかと考えて、戻って来ている人が確実に増えてきている気がします。まだ飲食店が多いですけど、だんだんと賑わってきましたね。市街地にはマンションも近々できるそうですし、今後はLRT(次世代型路面電車システム)も整備される予定なんですよ。ますます市街地で暮らしやすくなるんじゃないかな」(掛川さん)

「SONAR」の高橋健太さんと。高橋さんが手がける「NICK NEEDLES」のほか、東京の若手のブランドをセレクト。雑居ビルの6階にあり、隠れ家のようなお店。

「SONAR」の高橋健太さんと。高橋さんが手がける「NICK NEEDLES」のほか、東京の若手のブランドをセレクト。雑居ビルの6階にあり、隠れ家のようなお店。

車を持つという選択は「いまのところないですね」という掛川さん。一人暮らしする分には全然必要ないという。1日一緒に宇都宮を回ってみても、必要十分なほどバスも通っていた。JRの駅までも遠くなく、生活もしやすいと感じる。車がなくとも暮らせるならば、そういう選択もあっていいのではないだろうか。

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最寄り駅は東武宇都宮駅。都内に出るときはJRで。駅までは車で10分くらいなので、歩くか会社の人に送ってもらったり、バスに乗ったり。十分歩いて回れる。

最寄り駅は東武宇都宮駅。都内に出るときはJRで。駅までは車で10分くらいなので、歩くか会社の人に送ってもらったり、バスに乗ったり。十分歩いて回れる。

「いまはカーシェアリングもあるし、たまに乗るぐらいだったらそれで十分。月に1,000円ほどで始められるし、維持する大変さを考えたらよっぽどいいなって。車はあったほうが便利ですけど、持たなくても生活できる。これからはLRTもできるし、車がなくても住みやすい地方があってもいい。適度な距離感にいろいろあるから、街中から離れて行くのはもったいないなって感じるんです。個人が経営する酒場やバーも充実していますし、もしかしたら宇都宮は、30歳過ぎてからのほうが楽しめるのかもしれないですね」(掛川さん)

宇都宮への愛が強いからこそ。

現在、ともに仕事をする機会が多いという新朝プレスの萩原和人さんにも会いにでかけた。掛川さんは宇都宮の自治体のウェブサイトの制作などを手がけており、萩原さんはそのパートナーの一人。一緒に手がけるプロジェクトのひとつである「ダブルプレイス」には、宇都宮の「愉快ランキング」が発表されている。そこには、宇都宮が「住みよさ全国1位」とある。

安心度(医療を受けやすい、子どもを産みやすいなど)や利便度(よく売れている、集客力の高い小売店が多い)、快適度(下水処理が行き届いている、転入者が転出者より多い)など5つの観点から、人口50万以上の都市の中で住みよさが5年連続1位に!(東洋経済新報社「都市データパック2017年版」より)

また、若い人たちに市街地に住んでもらうために「中心市街地における若年夫婦・子育て世帯家賃補助制度」があり、月々の家賃補助が出るという。結婚してからはその制度を使って資金を貯め、いずれは郊外に一軒家を建てるために使う人も多く、子育て世代の萩原さんも利用していたそうだ。

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「僕は静岡市から大学で宇都宮に進学して、そのまま就職して以来ずっと宇都宮に住んでいます。都内で就職しようと思ったこともありましたけど、結果、宇都宮が生活しやすかった。すべてのバランスがいいんです。都心との距離、自然と都会との近さ、宇都宮ってどこからも真ん中にあって、どこへ行くにしても行きやすい。車があれば、那須とか日光とか観光スポットや自然豊かなところにもすぐに行けちゃうんですよ。だからオンとオフのメリハリがつけやすいんです。子育て環境もそう。子どもにかかる医療費のサポートもあり、とても助かっています」(萩原さん) 

また、掛川さんがディレクションを手がけるウェブサイト「宇都宮プライド」には「愉快市民」なる制度がある。「宇都宮が好きで、宇都宮を愉快にしていきたい」人ならば誰でもなれる宇都宮ファンクラブのようなもの。登録するとピンバッジがもらえ、現在7,666人(2018年1月末現在)が認定されている。宇都宮市が手がけるプロモーションの一貫で、誰でも自由に参加でき、宇都宮への愛をアピールすることができるのだそうだ。

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41年目を迎えるタウン誌「monmiya」をつくっている新朝プレスで、自治体や企業のセールスプロモーションなどに携わる萩原和人さん。「地方都市を元気にするプロフェッショナルを目指したい」と全国の地方都市と連携し、プロジェクトを進めている。

「宇都宮愛が強いのは県民性だと思っていて。宇都宮は人のつながりがめっちゃ強い。宇都宮を一度離れたことで客観的に見てみると、それがすごくいいなと思うんですよ。宇都宮への思いがある人が多いから、この人だったら僕ができることをやってあげたいなとか、そういう関係性があることが仕事をする動機のひとつになっていますね」(掛川さん)

「実は僕、人見知りなんですよ」という掛川さん。でもだからこそなのだろう。「人のことめちゃくちゃ好きなんです」とも話してくれた。好きだから、人と人をつなげたり、橋渡しする、いまの仕事を掛川さんは心底楽しんでいる。

「宇都宮に住んでいる人も、外の人も、遊びに来る人も、いろんな人の力を借りて、宇都宮で何かしらかたちにしていけたらいいですよね。これから宇都宮で何か生まれることになったらいいなと思っています」(掛川さん)

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編集協力:宇都宮ブランド推進協議会

<鎌倉⇔スペイン、ポルトガル> 旅で得た感覚を、地元で表現する、“よく休む店”の循環。

作っている人の顔が分かる店。

鶴岡八幡宮の参道、たくさんの観光客で賑わいをみせる小町通りとは反対方向の海側に位置する、大町。古くからあるパン屋、蕎麦屋、精肉店、酒屋が立ち並び、下町情緒ある風景が続く。

昼はお惣菜、夜はお酒とつまみの店「オイチイチ」は、そんな場所に5年前オープンした。けれど5年前というのが意外なくらい、その店構えにはこの町をずっと見てきたかのような佇まいがある。内装も、椅子や食器、飾られている絵など、「拾ってきたもの、もらいもの、友だちが作ったもの」がほとんど。それは、暁さんが考える“理想の店”にも通じている。
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「やっぱり料理でもなんでも、作っている人が分かるものっておいしいですよね。これは誰それが作った米、これは誰それが釣ってきた魚、これは誰それが作った酒だって。全部そんなものだけで店がやれたらすごく幸せなことだなと思っていたし、今も理想としてます」。

そう話す暁さんは、ここ鎌倉の出身。20代前半は、アジア、オセアニアなど各国をめぐり、農園で働いたり、路上で音楽を演奏したりしながら、世界各地を放浪してきた。そして、三重県に生まれ、東京で料理の仕事をしていた妻のいくよさんは、週末に鎌倉へ通う生活を経て移住。二人が思い描いていた理想の店を現実的に考えはじめたとき、運よくこの物件との出会いがあったのだという。

「知り合いの不動産屋さんが紹介してくれた物件が、ボロボロの日本家屋だったんですけど家賃がすごく安くて、これなら店がはじめられるかもしれないと思った」と、周りの友人たちに手伝ってもらいながら、ほとんどを手作りで内装を仕上げて「オイチイチ」をオープンさせた。

逗子の小さなビール醸造所「ヨロッコビール」の手作りサーバー。

逗子の小さなビール醸造所「ヨロッコビール」の手作りサーバー。

つながりがつながりを呼ぶ。

「オイチイチ」は、定休日以外に“よく休む店”としても知られている。普通に考えたらお客さんを逃すダメな例のようだが、「来るたびに閉まっててやっと入れた!」と、憧れの店化しているようなところもある。それに地元のお客さんが中心なので、たとえ閉まっていてもそれを理由に足が遠のくことはなさそうだ。

「この5年で、どんどんオープンする日が減ってきてます(笑)。でもサボってるわけじゃないんです。店以外に料理教室もしているし、ケータリングを頼んでもらう機会も増えています。僕自身は、映像の制作、地元の湘南ビーチFMで音楽番組の企画・構成、内装の仕事、『シネマキャラバン』という移動式映画館のプロジェクトの活動もしているんです」(暁)

「それで、この間みたいに1カ月旅するとなると、ますますオープンできない(笑)」(いくよ)

今回、家族4人で最長の1カ月を超える旅をした先は、スペイン・バスクとポルトガル。この旅のきっかけを作った出来事の一つに、8年前から暁さんが活動に参加している移動式映画館のプロジェクト「シネマキャラバン」がある。

2017年10月13日〜15日、スペイン・バスクで開催されたシネマキャラバン。約500名の来場があり、ミュージシャンの演奏とともに、暁さんが編集した映像も上映された。

2017年10月13日〜15日、スペイン・バスクで開催されたシネマキャラバン。約500名の来場があり、ミュージシャンの演奏とともに、暁さんが編集した映像も上映された。

「毎年『シネマキャラバン』が主催して、『逗子海岸映画祭』を開催してるんですけど、代表のカメラマンがバスクを旅した縁で、4年前から料理人やアーティストなどを招待する『バスクの日』を設けるようになったんです。逆に2013年には『サンセバスチャン国際映画祭』にシネマキャラバンを招致してもらって向こうでイベントも開きました。
そのつながりから、映画祭がない時期でも日本に遊びに来てくれたり、僕らがバスクに行ったりして、関係性が発展していったんですよね」(暁)

暁さんといくよさんが“お父さん”と慕うチュスと、娘のオイアナとマギーとは、家族ぐるみで仲がよく、彼らは何度も鎌倉に来ているという。そして、逗子映画祭が開かれる今年のゴールデンウィークには、彼らの唯一のオフの日に、いくよさんが「いつもバスクへ行った時にお世話してもらっているお礼に」と、オイチイチで和食を振る舞った。

右から、チュスと、娘のマギー(妹)とオイアナ(姉)。

右から、チュスと、娘のマギー(妹)とオイアナ(姉)


「関係性は長いけど、ちゃんと料理をふるまったのははじめてで、チュスがすごく感動してくれたんです。『秋の美食倶楽部(※1)のきのこの会で、ぜひいくよに料理してもらいたい!』って、その日のうちにバスクに呼んでもらえることになりました」(暁)

そしてさらに、オイチイチ一家がバスクに行くことを知ったポルトガルの友人たちが、「こっちでも日本料理を作って欲しい」と招待してくれることになり、一家4人の1カ月海外巡業が決まった。

※1 美食倶楽部:プロの厨房並みのキッチン設備を設けて倶楽部会員同士が料理の腕を競い合う。会員になれるのは男性のみという、バスクに古くからある文化。

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料理を媒介に、言葉がなくても分かり合えること。

スペイン・バスクの中心地、世界一の美食の街としても知られるサンセバスチャンが最初の“仕事場”。暁さんが、「きのこ料理をつくるなら、自分たちできのこをとりに行きたい」と話したら、チュスは喜んできのこの森を案内してくれた。きのこ狩りのプロと一緒に入ったのは、馬や牛が放牧され、見たことのない数十種類のきのこが育っている森。そこでとれたポルチーニなどの新鮮なきのこと、日本から持って行った干し椎茸や手づくりのなめたけと合わせて、いくよさんは80人分のきのこ料理のコースをつくった。

ディナー以外にも、持参したかんぴょう、黒米、白米、ゆかり混ぜごはんや、現地のきゅうりを使った巻き寿司ワークショップ、だし巻き卵のデモンストレーションも行い、日本食に興味津々のバスクの人たちに好評だったという。

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その後、レンタカーで2日間かけてポルトガルの南へ移動。スペインとポルトガルの国境近くの街・ベルモンテに立ち寄り、オーガニックファームを訪ねて野菜を調達し、友人のゲストハウスでは巻き寿司のワークショップを行った。

ポルトガル最南端の町、アルゴスのオーガニックファーム。

ポルトガル最南端の町、アルゴスのオーガニックファーム。

巻き寿司のワークショップ。ワークショップに集まった参加者は日本食に興味津々だったという。

巻き寿司のワークショップ。ワークショップに集まった参加者は日本食に興味津々だったという。

そして、ポルトガルの首都リスボンでは、フランス人のシェフといくよさんのコラボレーションで2日連続コース料理を作るイベントを開催。
暁さんは日本酒の利き酒を担当。いつも店で提供しているつながりある蔵のものを8銘柄手持ちで運んだ。

「日本酒を知らない彼らにとっては、作られる課程のイメージが沸かないぶん、わかりづらいだろうなと思うんです。だから今回も、スペインに輸入されていないような大量生産できない日本酒を飲んでもらって、どんな場所で作られているかを伝えることで、人の手が生み出した味を知ってもらえたらと思いました。みんな先入観からハードリカーだと思っていたみたいでしたけど、飲むとすごく気に入ってくれましたね」

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いくよさんが作った料理は、現地の白身魚の朴葉焼き、アジの南蛮漬け、だし巻き卵、あさりの味噌汁。アジとアサリはポルトガルの名産でもあるそうで、朴葉は以前にシネマキャラバンで訪れた白川郷の人たちから送ってもらったものを使った。ただ日本らしいものを作るだけではない。オイチイチで彼らが紡いできたストーリーも一緒に知らない国の人たちに食べてもらうのだ。

「ポルトガルもバスクも、日本食にはみんな興味があって、ヘルシーでおいしいってイメージはあるんだけど、ちゃんとつくられた和食を食べる機会がないんですよね。だから余計に喜んでもらえた」(暁)

「私は英語もほとんど話せなくて、フランス人シェフのルカと一緒に料理をしてほしいと言われても、はじめはどうすればいいか想像もつかなかったんですけど、2日間やっているうちになんとなく通じ合えるようになってきて。2日目のデザートでは、私が小豆を煮て抹茶パンケーキを作ったら、ルカがその上に自分のメレンゲを載せてくれたんです。料理を媒介に、言葉じゃなく分かり合えたことが嬉しくて、得るものが大きかったです」(いくよ)

真ん中が、フランス人シェフのルカ。夏だけ海のそばにオープンする屋外レストラン「TROPISMO」のオーナーシェフのひとり。

真ん中が、フランス人シェフのルカ。夏だけ海のそばにオープンする屋外レストラン「TROPISMO」のオーナーシェフのひとり。

暁さんにとっては、バスクもポルトガルも、何度も旅してきた場所。今回旅をしたことでまた違った発見はあったのだろうか。

「結局場所はどこでもいいというか、どこもすごくよかったからこそ、人のつながりがあればどこでもやっていけるなと思えました。あと、もう一つよかったことは、旅の終わりに子どもたちが『日本ってすごいんだね』って再認識できたこと。帰ってきてからは世界地図に興味を持ちはじめて、スペイン語や英語に対してもポジティブになりましたね」

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人との出会い、文化との出会いを
拠点に持ち帰る。

「いつでも旅がしたいし、どんなところでも旅してみたい」。その思いが夫婦の大きな共通点。けれど、放浪がしたいわけではない。「旅をして吸収した感覚を、戻ってきて表現できる場が必要なんです。欲張りなのかも知れないけど、インプットとアウトプットが循環できること。それが私たちが旅を求める理由なんですよね」(いくよ)

「そうだね、自給自足へのリスペクトはあるけど、大草原の小さな家に自分たち家族だけ、というのは考えられない。やっぱり人と関わっていたいし、コミュニティがあってこそだと思います」(暁)

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身軽にどんなところでも暮らしていける逞しさは、今の時代、誰もが必要性を感じていることなのかもしれない。これからを生きる術として、子どもたちに伝えていきたいことがあるという。

「どこへ行ってもちゃんと挨拶ができること。僕も彼女も、子どもの頃から親にきっちり仕込まれてきました。挨拶はすべての始まりだと思っています」(暁)

外へ出て、多様な価値観の人たちと出会い、その感覚を地元へと持ち帰る。世代もジャンルも越えた幅広い層の人たちが集うオイチイチの居心地のよさは、さまざまな土地で重ねてきた“挨拶”の感覚から生まれている。

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世代ごとの知恵を持ち寄る。 「淡河ワッショイ」が目指す、 まちづくりのかたち

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「生まれ育った淡河をなんとかせなあかん」
という思いから始まった、淡河ワッショイ

鎌倉時代には城下町だったという淡河。その後、豊臣秀吉の時代には宿場町となり、江戸時代には参勤交代の際に大名たちが泊まる大旅館「本陣」が作られた。この立派な本陣跡には、50年前まで人が住んでいたというが、その後はずっと空き家に。2015年、この本陣跡を活用したいと動き出した人たちがいる。それが「淡河ワッショイ」のメンバーだ。

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立ち上げのメンバーの一人であり、副代表も務めた吉村研一さんは、淡河町で明治15年創業という老舗和菓子店「満月堂」の五代目。淡河ワッショイが立ち上がった経緯から、まずは聞いていこう。

淡河ワッショイを立ち上げたメンバーの1人でもある吉村研一さんは50代。若いメンバーの良き理解者であり、ワッショイを引っ張るリーダー的存在でもある。

淡河ワッショイを立ち上げたメンバーの1人でもある吉村研一さんは50代。若いメンバーの良き理解者であり、ワッショイを引っ張るリーダー的存在でもある。

「いまから5年前くらいですかね。ご覧のとおり地域がどんどん衰退していく中で、常々どうしたもんかと考えていた。田舎ですからいろんな会合とか寄り合いがありますよね? そこで代表の相良さんと会った時、どちらからともなく、何かできたらいいねという話をしたんです。そこで相良さんの奥さんが同窓会で『主人が何か始めたいと言ってるんだけど』と話してみたら賛同者が2〜3名ほどいたそうで。40代からもメンバーが加わることになって、それで『淡河の明日を考える会』を立ち上げようかということになったんです」(吉村さん)

それぞれが違う問題意識を持っていた。子育てに関すること、交通の便のこと、空き家のこと、高齢化のこと……。そのどれもが淡河というまちが抱える問題であり、中には見逃すわけにはいかない切迫した問題もあった。けれど同じまちに住む者同士、抱えている問題はあっても、それらを共有する場がなかった。そこでまずは人を集めて、問題や課題を出し合う場を作ることから始めることに。2011年12月、初めての会議を開催し、その後「淡河町まちづくりワークショップ」を開いた。

「最初10名前後で集まった時に、テーマがあったほうがいいという話になって。ワークショップを2回ほど開いて、そこで出た意見をもとに“子育て世代の奥様にも住みやすい環境づくりを目指す”という大きなテーマを決めました」(吉村さん)

ワークショップに参加した人は、チラシを見て来た人たち。今は主要メンバーとして活躍する鶴巻耕介さんも、当時、まだ移り住んでいないまま、淡河町で生まれ育った奥さんに誘われ、この会に参加した。50名ほど集まったというこのワークショップを機に、次々とメンバーを集めていく。現在、本陣跡保存会の代表を務め、淡河に事務所を構える一級建築士の村上隆行さんは、代表の相良さんに声をかけられた。

40代の村上隆行さんは淡河ワッショイの世代をつないだり、間に入ってはなだめたりする調整役。若手も相談もしやすい兄貴分。

40代の村上隆行さんは淡河ワッショイの世代をつないだり、間に入ってはなだめたりする調整役。若手も相談もしやすい兄貴分。

「僕も40代でまさに子育て世代。なんとかせなあかんという意識はあったんですけど、実際どう動いていいのか分からなかった。村を動かしてるのは自治会のもっと上の世代で、僕らは何も言えないでしょう。どうしようもないなと思っているところに声をかけられたから、よっしゃ!行ってみようかと」(村上さん)

まず初めは、幼稚園と小学校のグランドを芝生に変えることから始めた。淡河ワッショイは有志で集まった任意団体でしかなかったが、行政を巻き込み、助成金を受けてなんとか実現させた珍しい事例だ。

「末っ子が幼稚園に通っていたこともあって、保育所と小学校の環境を良くしたくて。そのためにはグラウンドを全面芝生にしたらいいんじゃないかと言ったら、みんな『いいね』と言ってくれた。それからは、あっという間に動き出したんですよね。僕が設計などの事務仕事をやって、代表の相良さんが行政と交渉してくれた。それから数ヶ月後には芝生になっていたんです。思っていたことが現実になったことにも驚きでした。アイデアを持っていても一人じゃできないことが、みんなの力を持ち寄れば実現できる。ワッショイのすごさを感じましたね」(村上さん)

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メンバー間の風通しをよくする、
世代や性別を問わない関係性

「僕が参加し始めた頃の会合は、お酒を飲みながらいろんなことを話して、夜12時くらいまでやってたんですよ。でも最近はメンバーも増えたので、時間を短縮してひとまず21時30分には区切りをつけるようにしました。まずFacebookのグループページで事前に議題を上げて、資料を作って、ちゃんと決議していくように、変えて行ったんです。こういう風にかっちりした方がいいのかどうかはまだ分からないですけどね。試行錯誤中です」(鶴巻さん)

この町へ移住してきた鶴巻耕介さんは30代の若手。50代のベテランの先輩方ともフランクに話し合えるのが淡河ワッショイの魅力。

この町へ移住してきた鶴巻耕介さんは30代の若手。50代のベテランの先輩方ともフランクに話し合えるのが淡河ワッショイの魅力。

若いメンバーが入ることで、自然と仕切り直すことができたというわけだ。ある時期から女性も加わってくれる方が出てきて、男性だけじゃない視点が入ることで広がりが生まれたという。その中の一人の片山美奈子さんは、淡河生まれ淡河育ちのいちご農家。明るいキャラクターで場を和ませる。ワッショイに入って驚いたのはその実行力だった。

いちご農家の片山美奈子さんは、高齢者の足となるボランティアタクシーの運転手としても活躍。おじいちゃん、おばあちゃんに可愛がられる人気者。

いちご農家の片山美奈子さんは、高齢者の足となるボランティアタクシーの運転手としても活躍。おじいちゃん、おばあちゃんに可愛がられる人気者。

「こんなんいいよねって言ってたら、一週間後にはプロジェクトが始まってるんです。すごいバイタリティですよ」(片山さん)

もう一人、前川暁子さんは、「chawan」というユニットで料理を作っており、本陣跡に設けられたカフェで土日だけ店に立つ。メンバーにはお米や野菜を作れる人はいたけれど、料理をできる人がいなかったため、待望の人材だった。

「chawan」のランチには、淡河で採れた食材がふんだんに使われている。淡河ワッショイメンバーの鶴巻さんが育てたさつまいもや北野さんのお米なども。手前の一品は、「蒸しれんこんまんじゅうと野菜のあんかけ」。

「chawan」のランチには、淡河で採れた食材がふんだんに使われている。淡河ワッショイメンバーの鶴巻さんが育てたさつまいもや北野さんのお米なども。手前の一品は、「蒸しれんこんまんじゅうと野菜のあんかけ」。

「食の仕事をしていたら、自分で食べものを作りたくなって畑のある淡河へ行き着きました。神戸市民だったけど、淡河の場所さえ知らなかった。でも来てみたらむっちゃいいところで。景色もいいし、自然ってすごいなって毎回感じるんです。ずっと淡河で料理がやりたいと思っていたので、声をかけていただいてすごくうれしかった。それ以来、ワッショイにも入れていただいて。本当にご縁ですね」(前川さん)

料理ユニット「chawan」の前川暁子さんと大門知里さん。前川さんは平日は満月堂で働きながら、イベント時などに本陣跡のカフェ「chawan」で料理をふるまっている。

料理ユニット「chawan」の前川暁子さんと大門知里さん。前川さんは平日は満月堂で働きながら、イベント時などに本陣跡のカフェ「chawan」で料理をふるまっている。

こうして世代ごとに、人材豊富な淡河ワッショイのメンバーは、20代から50代まで各世代にメンバーが揃い、12~15名程度で緩やかに構成されている。40代の村上さんは若手と上の世代をつなぐクッション役だ。

「僕も昔は若手やったんですけどね。いつのまにか間に立ってた(笑)。僕自身は、それぞれの世代に対して、言ってることもやってることもすごいなという尊敬の思いがあるんです。間にいるから分かることもありますしね。地域が抱える問題はいろいろあるし、役割もいろいろで、得意なことも違います。いろんな立場の人がいるほうがいいですよね」(村上さん)

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「君たちが考えなさい、それを僕たちが支えるからというスタンスでいてくれるから心強いですね。若手だけだと、アイデアはあっても地域の調整とか許可をもらうのが難しいというのもあるけれど、“今までのしきたりや在り方を変える”というようなことは、やっぱり上の人たちが動いてくれるからこそできることであって。子育て世代の僕らがイベントでは前に出て喋ったり動いたりして、いろんな世代がいるからこそできることだと思います」(鶴巻さん)

移住者が入りやすい、
コミュニティのかたち

淡河に移住してきた鶴巻さんは、この地域にとけ込み、仕事を見つけることができたことを、“淡河ワッショイがあったからこそ”だと考えている。

「移住してから、その地域の人たちとどうやって関係性を作るかというのは、実はすごく難しいと思うんです。たとえば同じ世代だけで固まっていても、そこにも入りにくいですし。でも、淡河ワッショイみたいに、何かのミッションで集まっているいろんな年代の人たちがいれば、それに賛同して一緒に活動できる。しかも、そこで何かしらの役割があって、相談したり話せる場所があるということが本当にありがたかった」(鶴巻さん)

淡河ワッショイのメンバーたち。月に一度開催される会合でざっくばらんに話し合う。議題をまとめたり、議事録を作るのは鶴巻さんはじめ若手の役割。

淡河ワッショイのメンバーたち。月に一度開催される会合でざっくばらんに話し合う。議題をまとめたり、議事録を作るのは鶴巻さんはじめ若手の役割。

前川さんも日々「自分を受け入れてくれている」と感じるという。淡河には移住者だけが集まるコミュニティはなく、移住者も淡河の人たちも入り交じっている。そのフラットさ、風通しの良さを誰が作ってるのかといえば、やはり50代の上の世代がその雰囲気を作ってるようだ。生まれも育ちも淡河の吉村さんは、現在50代。守りに入ることもできる年齢だが、自身を“異端”と言うだけあって、考え方が柔軟で、若い人たちをおもしろがる良き理解者だ。

「当たり前のなかに答えってあると思うんですよね。鶴巻くんの言うことって我々からしてみれば、すごく新鮮なんです。自分たちがどうでもいいと思っていたことに対して、すごい価値を持ってくれたり、当たり前にあることに問題意識を持ってくれたり。何か変えていこうと思うとね、当たり前をちょっと考え直さんとあかんなと思うんです。でもずっと生まれ育った僕たちみたいな人間はね、どこから考え直していいのかわからない。そもそも変えられるとも思ってなかったりするしね。まちづくりって、私たちの世代の価値観よりも、これからの人のほうが絶対優先されるべきでしょう? だけど、僕らもまだ余裕があるから、先頭を走ってしまうんだけど、それでは先がないっていう思いがある。だからあえて、今のうちに下の世代へ任せていきたいと思ってるし、40代はもちろん、30代、20代の子たちにも見ておいてほしいなと思ってるんです」(吉村さん)

「でもまだバトンは渡せてないんですよ」と吉村さんは笑う。いまはまだ、助走期間なのかもしれない。けれど、世代を越えた多様な人材がいることで、淡河の未来は明るいように思える。

「この本陣の改装でも、設計とか図面が引ける一級建築士がいて、ガーデンデザイナーがいるから庭の方向性も見えてきて、イベントをやろうとすればHPやチラシをアートディレクターが担い、当日には美しい花や、おいしいおまんじゅうやお菓子も出てくる。メンバーの農家さんが作った米や野菜を使って料理ができる人がいて、敷地にある茅葺きの神社は職人さんが作ったり、ガス屋さんはイベントの時のガスや電気などの裏方の準備を担ってくれたり。地域に暮らすお年寄りの移動手段として地域交通を担う人もいて、イベント時には連れてきてくださり。この地域で暮らすそれぞれのメンバーが一人ひとり出来ることをすると、おのずと大きいことができる。今まで外注ばかりしていたけれど、ここには人がいて、誰かに聞けばなんとかなるんです」(鶴巻さん)

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アイデアを出す人がいて、実現する人がいて、人を集める人がいる。その循環がまた新たな人を呼ぶのだと思う。

それぞれの人が持つ力やリソースを最大限発揮するためにも、ざっくばらんに話せる場が何よりも必要だ。各々が感じている問題点や課題をとことん話し合い、やりたいことを気兼ねなく話せること。それを否定することなく、おもしろがって「やろう」と言ってくれる人がいること。そんな人がいることこそが、淡河の最大の魅力であり、財産なのだろう。

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編集協力:神戸市

インタビュー|つるまき農園・鶴巻耕介さん
「現代の百姓になるために、自分にできることを増やしていく」

現代の百姓になるために、 自分にできることを増やしていく。

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たどり着いたのは里山だった。       

この家、めっちゃいいでしょう? 一目惚れしたんです。ここに住みたいって。

妻が淡河出身なので、彼女の同級生に移住したいと話したら、空き家の情報を知っている方を紹介してもらって。物件をいくつか見せてもらったんですが、あとは自力で大家さんと直接交渉してと言われて。電話しても「貸す予定はない」と冷たくあしらわれたり、なかなか借りられなかったんですが、たまたま「これはどうや?」と教えてもらったのがこの家だったんです。

2014年に家族3人で淡河に引っ越してきました。その前は西宮に住んでいたんですが室内の湿気がすごくて、子どものためにも引っ越そうと話していた時、突然「淡河はどうやろか?」という話になって。妻の実家には何度も行っていたけれど、妻も僕も、淡河に住むなんてまったくイメージしていませんでした。そもそも物件が不動産屋に出てないですし(笑)。でも妻の勤務先が遠かったので、お互いの勤務先の中間あたりに住むなら「淡河でいいんちゃうか?」と。「家ってあるんかな?」ということで聞いてみることにしたんです。

神戸・三宮から車で30分で来れるのんびりとした農村地帯。このエリアでは家と畑がセットになっていることが多い。

神戸・三宮から車で30分で来れるのんびりとした農村地帯。このエリアでは家と畑がセットになっていることが多い。

僕はもともと東京の品川区で生まれました。高校まで東京に住んでいて、大学で西宮へ。学生時代はNPO法人ブレーンヒューマニティーに所属して、子どもたちとキャンプに行ったり、不登校の子どもの家庭教師をしたりしていました。そこは単なるサークルではなくて、学生も真剣に関わっていて、本気になれる場所でしたね。結局4年間そのNPOに入り浸っていました。

学校が大好きだったから、先生になりたかったんです。でも、初めてリーダーとして参加したキャンプの時、子どもたちと関わっている時間がなかなか楽しめなくて、僕は教師に向いてないんだなってことがわかりました。それで直接子どもを相手にする役割ではなく、入ってくる後輩ボランティアたちをどう成長させていくかという学生の人材育成を担当することになりました。いま考えれば、早々に挫折して、自分の適性がわかってよかったなと思います。「教育」とひとくちにいっても、いろいろな関わり方があるんだということがよくわかった。だから卒業後は教師よりも一般企業で働くほうがおもしろそうだなと思っていましたね。

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昨年、家の前の畑で「つるまきサツマイモ農園」を立ち上げ、今年からは奥さんの実家がやっていた農園も一部引き継ぎ、幼稚園や保育所の子どもたちを受け入れている。

昨年、家の前の畑で「つるまきサツマイモ農園」を立ち上げ、今年からは奥さんの実家がやっていた農園も一部引き継ぎ、幼稚園や保育所の子どもたちを受け入れている。

一般企業といっても、教育以外の分野には興味がなかったので「KUMON」に入社しました。「一歩後ろから現場を支えるところで教育に携われる仕事だ!」とピンと来て。最初の配属先は宮城県の仙台事務局。僕の担当エリアには、淡河みたいな農村地域も含まれていました。

初めて訪問した時、この人里離れた環境のどこに子どもがいるんだろうって思って教室へ行ってみたら、子どもたちがうじゃうじゃいた(笑)。その地域の半分くらいの子がKUMONに通っていて、みんなそこで楽しそうに勉強をしていて。その時に初めて“地域”というものを意識したような気がします。そして、先生が地域の教育を担っていて、地域に根ざして生きている。すごくかっこいいなって思いましたね。

数年後にはまたどこか違う地域に転勤するかもしれない自分とは違う生き方に惹かれたというか、自分の決めた場所で根を張って生きてみたいと思うようになったきっかけでした。

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2年ちょっと働いて、大学時代にお世話になったNPO法人に戻ることになりました。学生時代からつき合っていた今の奥さんとはずっと遠距離恋愛だったので、結婚を機に僕が西宮に戻ることに。給料が良いわけではないけれど、共働きだったこともあってなんとかできるかな、と。反対したのは父親くらいでしたね。大企業に勤めたのに辞めるなんて!と。両親も高校時代の友だちも大好きですが、東京に戻る気はなかったので(笑)。僕は東京で働いたことはないけれど、高校の通学で毎日満員電車には乗っていたので、あの地獄のような環境は経験済み。その頃から、大人になってもこうして会社に通うのかぁ……ちょっと嫌だなと感じていて。そういう思いがあったから無意識に東京で就職することを避けていたのかもしれないですね。

自分の生活を立て直したい。
働き方を変えるために移住を決意

2010年、26歳の時に西宮に帰ってきました。家を借りて結婚生活を始めると同時にNPOでの仕事が始まりました。僕の仕事は学生ボランティアたちが最後までやりきれるように伴走するコーチのような役割で、2015年の9月まで丸5年働きました。

学生時代に関わっていた頃と比べると、子どもを取り巻く社会課題が深刻になっているように感じました。東北の震災もありましたし、子どもの貧困の問題や両親が共働きなために子どもが1人で食事する“孤食”の問題も。そうした問題に取り組みながら思ったのは、そもそもの暮らし方や生き方を根本的に変えないと解決しないんじゃないか、ということでした。たとえば、月給16万くらいでも家族みんなで普通に楽しく過ごせるような生活があるんじゃないかとか、孤食の問題も、子どもを集めてみんなで食べる時間を作るのもとても大事なのですが、それでは家族とバラバラなことには変わらないし、親の残業も常態化したまま。表面的には手助けできでも、根本的な原因は何も変わっていないんじゃないかと思って。だからこそ働き方や暮らし方を変えるべきなんじゃないかって。

そういう思いに至ったのは、自分に子どもが産まれたことも大きかったと思います。仕事で子どもたちの支援をしているけれど、毎日家に帰るのも遅いし、土日も仕事のことが多くて、子どもとの時間が全然取れなかった。そういう仕事だって分かってここに帰ってきたし、僕も同じように時間をかけて育ててもらってきたから次の世代に恩返しがしたいって思っていた。でも、子どもが大きくなるにつれて、色々なことが噛み合わなくなってきてしまったんです。

息子の洸哲(こてつ)くんは木に登ったり、さつまいもを掘ったり、元気いっぱいの6歳。

息子の洸哲(こてつ)くんは木に登ったり、さつまいもを掘ったり、元気いっぱいの6歳。

ちょうどその頃、地域に移住してその土地の環境に沿って働きながら暮らしている人たちがいることを知りました。手当たり次第、本を読んだり話を聞いたりして、地域活性やまちづくりに興味を持つようになって。だんだんと“いつかこういうことをやってみたい”という思いと、実際に感じていた社会課題が自分の中でつながりはじめたんです。「たとえばもし、里山の暮らしを成立させることができたら、いろんなことのバランスがそれなりに取れるようになるんじゃないか。里山での暮らしの中に、これからの生活のヒントがたくさんあるんじゃないか」と思って、淡河に移住してみようと思ったんです。あと僕は高校時代からパンク・ロックの洗礼を受けていますから(笑)、インディーズな場所から戦いを挑むみたいなのが好きで。

娘の依音(よね)ちゃんはもうすぐ2歳。淡河に移住してから生まれた淡河ネイティブ! 鶴巻さんも子育てを堪能中。

娘の依音(よね)ちゃんはもうすぐ2歳。淡河に移住してから生まれた淡河ネイティブ! 鶴巻さんも子育てを堪能中。

そんな時、いま僕が携わっている「淡河の明日を考える会(通称・淡河ワッショイ)」という有志のまちづくり団体がちょうど立ち上がった頃で、妻の同級生がメンバーにいるつながりで行ってみることにしたんです。そこには20代〜50代まで幅広い年代の人たちが集まっていて、よそ者の僕でもすんなり入りやすかった。このメンバーとだったら、今まで考えてきた地域活性ができそうだなと思えました。それでようやく本腰を入れて家を探し始めたんです。同じ志の人が淡河にもいるんだということが移住の後押しになりましたね。

住む場所も無事に決まり、2014年4月に引っ越しました。ここから約30分で三宮に行けますし、15分ほどで大きなショッピングモールへも行けますから、不便さはまったく感じませんでしたね。時々ラーメンが無性に食べたくなるんですが(笑)、行ける距離ですしね。もともと東京出身なので、都会的なものもやっぱり僕には必要で。里山でありながら都会ともうまく折り合いがつけられる淡河での生活というのは、自分にとって一番合っている気がします。

引っ越してからも車で1時間ほどかけてNPOの仕事を続けていました。学生時代からの居場所なので自分のアイデンティティーでもありましたが、里山に住んだことでもっともっと顔の見えるローカルな地域活性に携わってみたかったし、自分の働き方そのものを変えてみたくなりました。なかなか家にいられない暮らしに区切りをつけて、いましかできない子育てをちゃんとしてみたかったんです。ひとまず5年で一区切りをつけようと、淡河に来て一年後、NPOの仕事を辞めようと決めました。淡河の人とだんだんと顔見知りになって、淡河の地域づくりの活動にも携わっていたから、このまま何とか淡河で働けないかなと思っていたんですよね。

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秋は芋掘りのシーズン。学生時代から子どもの野外活動に関するボランティアをやっていた鶴巻さんにぴったりな仕事。

秋は芋掘りのシーズン。学生時代から子どもの野外活動に関するボランティアをやっていた鶴巻さんにぴったりな仕事。

そんな時、「月3万円ビジネス」を提唱している、非電化工房の藤村靖之さんの「地方で仕事を創る塾」に行ったんです。ひとつの仕事で20万稼ぐのは地方だと無理かもしれないけれど、3万円くらいで人のためになる仕事を10個やれば30万になると。それを聞いた時、そんな無茶な……と思ったんですけど、実際、淡河にはフルタイムで働ける仕事はなかったし、考え方を変えざるを得なかった。ちょうどその頃、神戸市が移住支援を地域でまかなう委託事業が始まって、「農村定住促進コーディネーター」を募集したんです。でもみんな本業の仕事があるし、報酬も7~8万円。一体誰がやるんだという状況で、すかさず「やりたいです」と手を上げました。自分自身も移住した身ですし情報発信はうまくできるはずだと。NPOを辞める前に、地域でやれる仕事が1つ見つかった。その仕事が決まってなかったら前の仕事を辞めるふんぎりがつかなかったかもしれないですね。

同じ頃、淡河ワッショイで一緒に活動している淡河かやぶき屋根保存会くさかんむり」の茅葺き職人相良育弥さんに「僕、仕事辞めるんですわ」と話したら「だったら現場に来たらええやん」と言ってもらえて。職人さんは屋根の上で作業するんですけど、下から屋根の上にススキなどの茅と呼ばれる束を上げたり、上から出てくる茅クズを捨てたりする、準備兼後始末係みたいな人が現場には何人か必要なんです。「手伝い」がなまって「てったい」って言うみたいなんですけど、茅葺き職人のてったいが足りないからと、週に2回ほどてったいをすることになりました。これで2つの仕事が見つかって月15万くらいになったんで、これはなんとか生きていけるぞと(笑)。見通しないまま移住したわりには奇跡ですよね。家も見つかり、仕事も見つかって。

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芋掘りでやって来たお客さんに自宅の一部を解放している。「いもぶんこ」と名づけられた本棚には、鶴巻さんが集めた地域や街づくりに関する書籍がずらり。

芋掘りでやって来たお客さんに自宅の一部を解放している。「いもぶんこ」と名づけられた本棚には、鶴巻さんが集めた地域や街づくりに関する書籍がずらり。

さらに、同じ頃に移住した村上敦隆さんが「はなとね」というベークル屋さんを淡河でやっていて。そこで「アルバイト募集」と書いてあったんで「31歳のおっさんでも働けますか?」と聞いてみたんです(笑)。「パン屋の店番ですけどいいんですか!?」って驚かれましたけど、何でもやるって決めたから、土日はここで働くことにして、3つめの仕事が決まりました。その後、前職のNPO時代の知り合いであるNPO法人生涯学習サポート兵庫」の山崎清治さんから学生のインターンシップのコーディネート団体を立ち上げるから一緒にやろうと誘っていただき、メインの仕事のひとつになっています。比較的場所を選ばずにできる仕事なので、18半頃に家に帰って来てみんなでごはんを食べて、子どもをお風呂に入れて寝かせて、21時からパソコン開いて仕事して。働くのは全然苦じゃないんですよ。子どもと過ごす時間が確保できているので。

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茅葺きの立派な家で営業するベーグル屋「はなとね」の店主村上敦隆さんと。移住時期もほぼ同じくらい。鶴巻さんも大好きだというベーグルは遠方からも買いに訪れるという。

茅葺きの立派な家で営業するベーグル屋「はなとね」の店主村上敦隆さんと。移住時期もほぼ同じくらい。鶴巻さんも大好きだというベーグルは遠方からも買いに訪れるという。

いくつもの仕事を組み合わせる、
地方での働きかた

「地方には仕事がない」ってよく言いますよね? でも、農業だったら収穫のこの時期だけ人がほしいとか、週のこの日だけならほしいとか、そういう仕事をかき集めたらなんとかなる気がします。以前、あるおじいちゃんに話を聞いた時に、昔の働き方ってどこか一箇所に所属するのではなく、いろいろ兼業していたんですよね。春から秋は稲作や畑作をして、冬は日本酒の杜氏として出稼ぎに行ったり左官や茅葺きのてったいをやってたりとかね。会社に入って特定の分野の仕事だけをする現代の働き方そのものを改めて考えてみると、もっといろんな仕事をしながら人間の幅を広げることができるんじゃないか。昔の「百姓」みたいに100の知恵を持っているようなね。現代版の「百姓」ならば、100の技の1つにエクセルが使えるとか、写真がきれいに撮れるとか、ウェブサイトを作れるとかが入ってくるかもしれない。持っているといい技術ってなんだろうなって考えながら、自分に何ができるのか探しているところなんです。

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できることが増えていくのはおもしろいですよ。お金を稼ぐというのとは別に、自分の体の中にどれだけの知恵とか技術を蓄えられるか。知恵はお金じゃ買えないし、時間をかけて身につけていくものですから。もし大きな災害や国の破綻なんかが起きた時に、自分の力でどこまで生きていけるだろうってよく思うんです。生きるか死ぬかの時に、生き抜く技術、何かを作る技術が大事になってくる。実際、東北の被災地に行ってそれを痛感しましたね。お金が意味をなさなくなった時、やっぱり米を作れる人が強いと思うし、繋がりがあれば争うのではなく助け合える。家族を守るってそういうことなんじゃないかな。

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僕は自分の手で何も生み出せないということがずっとコンプレックスだったんですよ。パンが焼けるとか服とか鞄が作れるとかそういう技術を何も持っていないし、ずっと口だけで生きてきた。でもどうやら、僕みたいな役割の人も必要とされるんだということが最近わかってきたんです。自分はしゃべったり発信したりするのが得意だから、その得意分野で地域の役に立ったり、仕事になればいいかと開き直りました(笑)。得意なことで少しずつ仕事を増やしていく、そんな働き方を目指したい。でもやっぱり何か作れるようになっておきたいから、いま米や芋も育てているんですけどね。

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編集協力:神戸市

「絵が売れない」と嘆く時代を終わりにしたい。画家として、絵を取り巻く社会を切り拓く。

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「あなたの仕事は、
自分を天才だと信じること」

画家は誰もが知っている職業だけど、どうやってなるのか、あるいはどうやって生計を立てているのかなど、その世界にいない人にとってはイメージしにくい職業といえるかもしれない。横浜市六浦出身の本間亮次さんは、5年ほど前から逗子のマンションの一室にアトリエを構え、自らの作品に囲まれながら、日々絵を描いている。

もともと本間さん自身も、画家が職業として成立するなんて考えたこともなかったし、だからこそ美大で絵を学ぼうと思ったこともなかった。それでも絵で食べていけたらという思いを捨て切れなかった本間さんは、一緒にライブペインティングをしていた友人の紹介で、著名な洋画家・山川茂さんのもとに2010年から2年間、住み込みで弟子入りすることになる。

静岡県伊東市にある山川茂さんのアトリエ兼ご自宅。部屋、階段や廊下など、あらゆる場所に山川さんの絵が飾られている。

静岡県伊東市にある山川茂さんのアトリエ兼ご自宅。部屋、階段や廊下など、あらゆる場所に山川さんの絵が飾られている。

「一度あいさつに行ったら、次は親と来るように言われて、伊東の山奥にあるアトリエに父親と二人で行ったんです。そうしたら、初対面だったマダム(山川さんの妻の陽子さん)にいきなり、『あなたは自分のこと天才だと思ってる?』って聞かれて。その強烈な一言に戸惑ったんですけど、たしか、人生は楽しいと思ってますみたいに答えたら、『今日からあなたの仕事は、自分を天才だと信じることよ』って言われて。翌日にはアトリエに引っ越してました」

2015年に90歳で亡くなられた山川茂さんは、絵を描きながら横浜港で働いていたが、1972年、47歳のときに会社を辞めて単身フランスへ。その2年後には350年もの歴史を持つ国際公募展「ル・サロン」で金メダルを獲得し、1978年には「カチア・グラノフ」というパリの格式高い画廊で初個展を開催する。日本人としては藤田嗣治氏、荻須高徳氏に次ぐ快挙だった。

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画家になりたい一心で、フランスへ旅立った頃の山川さん。

フランス時代の山川さん。

本間さんを含む4人の弟子たちは、山川さんのことを「ムッシュ」、陽子さんのことを「マダム」と親しみを込めて呼ぶのだが、マダムは初めて会ったときの質問の真意を、こう説明してくれた。

「絵描きになるような人は変わり者ばかりだけど、どこまで才能を掘り下げられるか、自分を信じることのできる人は伸びるんですよ。リョウ(本間さんの愛称)は何を考えてるかよくわからなかったけど、自分のことを好きなら大丈夫だと思ったの」

写真上:「マダム」こと、山川陽子さん。写真下:山川家では13匹の猫を飼っている。他の家の猫が紛れ込んでくることもあるのだとか。

山川家では13匹の猫を飼っている。他の家の猫が紛れ込んでくることもあるのだとか。

生きるために描くこと

ムッシュは全身全霊で絵を描き続けた画家だった。本間さんが弟子入りしたとき、ムッシュはすでに80歳を超えていたが、自らの内面に入り込むかのように絵を描き続け、創作意欲はまったく衰える気配がなかったという。

同じアトリエでムッシュと背中合わせになってイーゼルを立て、気迫を常に感じながら一日16時間絵を描く日々は、本間さんにとってまさに修行だった。

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亡くなった今もそのままの形で残されている、山川さんのアトリエ。修行時代、本間さんはこの空間で山川さんと一緒に絵を描き続けた。窓の外には緑が広がっている。

亡くなった今もそのままの形で残されている、山川さんのアトリエ。修行時代、本間さんはこの空間で山川さんと一緒に絵を描き続けた。窓の外には緑が広がっている。

「ごはんと寝るとき以外はずっと絵を描いてました。最初の数カ月は本当につらかった。何がつらいって、絵を見る力もまだなかったから、ずっと描いてはいるんだけど自分の絵がよくなっているのか、悪くなっているのかもわからなくて、それがとにかく不安だった」

アトリエには、常に目に入る位置にムッシュ直筆の画家としての心得が貼られている。山川家には、絵は売らなくてはいけないという教えがあった。本間さんはここで、画家が生きるか死ぬかギリギリの精神状態で絵を描いていることを体感する。

「もちろん表現自体はお金のためではないですが、副業していたり趣味ではなく、職業として画家である以上、それは当たり前のことなんですよね。生きているだけでお金はかかるから、絵が売れないと、ただ単純に生きていけない。

絵が売れないのは努力不足、個展は赤字で帰ってくるなと、そこはみっちり教えられました。どんなに体調が悪かろうが、筆が進まないと感じる日でも、絵で生活していくためには、ただひたすら描くという選択肢しかないんです」

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だからこそ、マダムから最初に言われたように、自分の才能を信じなければ描き続けることができなかった。

「絵描きだから無茶苦茶でいいっていう考えを私は持っていなかったから、言葉づかいや礼儀作法など、これから社会に出てもみっともなくないように、この子たちをしつけようと思ったの」

自身も絵描きであるマダムは、弟子たちがいずれ巣立って、画家として世の中を渡っていけるよう、さまざまな面でその準備をしていたのだった。

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日本は絵が売れない、
と嘆く時代を終わりにしたい

修行を終えて独立したのは、2012年。以来、もともと馴染みがあって知人も多い逗子市にアトリエを借りて絵を描いている。本間さんのような専業の画家は同世代、あるいは上の世代を見ても多くなく、絵を売って食べていくことは、現代の日本において決して容易ではない。

事実、本間さんも家賃7万5千円のこのアトリエを借りて間もない頃、個展が終わったらまとめて払うという約束で8カ月滞納したことがある。

画家はなぜ絵だけで食べていくことがこれほどまでに難しいのか。「いい絵を描けば売れる」というのは正論だが、いい絵を描くことだけに没頭していても、環境そのものは変わらない。本間さんは、絵で食べていく覚悟を決めた画家たちが生きやすい社会にしていくためには、どうしたらいいかを考えはじめた。

「『日本人って絵に興味ないよね』とか、『海外の方が絵を買う文化があるよね』って言われることが多いんですが、僕は今の状況を悲観したり嘆く時代を終わりにしたいと思っています」

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絵を買う行為はいまだごく一部の人に限られている。画家の置かれている状況や、絵画を取り巻く環境をどう変えていくべきか。本間さんは、マーケットを耕していく必要があると考えている。

「絵の価格って、最初から何十万円もするのではなくて、大半の画家は10万円以内からスタートすると思うんです。これって、一般の人たちにも手が届きやすい価格帯なんですよね。絵だけで生活する手前の段階の画家たちにとって、そういう層の人たちにファンになってもらったり、注目されることはすごく大きな意味がある。
だけど、多くの一般家庭の人たちは普段、ギャラリーや百貨店などの絵が売っている場所に行かないですよね。だから、マーケットを広げていくためには、今まで興味がなかった人たちに興味を持ってもらう機会が必要だと思ったんです」

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画家としての役割。
壁から文化を変えていく

そこで本間さんが着目したのが、普段絵画に触れる機会のない人たちが訪れる地域のカフェやレストランなどの飲食店であり、空いている“壁”だった。壁を、お店とお客さんと画家がつながるひとつの“場”ととらえ、飲食店へ絵の展示販売の営業をはじめた。

「いつも行くお店に、絵が飾ってあって、『この絵を部屋に飾ったら気持ちいいかも』とか、最初は絵に興味を持てなくても、入れ替わったことで『雰囲気が変わったな』とか、気づきのきっかけがつくれたらと思ったんです。長期的なスパンで考えているので、そういう人たちに、いつかお金を貯めて自分の部屋に絵を飾りたいなって思ってもらえれば、たとえ僕の絵が売れなかったとしても意味があると思っています」

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逗子駅から徒歩約5分ほどの場所にある、ダイニングバー「想 SOU」の店内。2階のスペースで、本間さんの絵が展示販売されている。

逗子駅から徒歩約5分ほどの場所にある、ダイニングバー「想 SOU」の店内。2階のスペースで、本間さんの絵が展示販売されている。

そんな活動をしているある日、逗子市にある昼はラーメン専門店、夜はダイニングバーの「想 SOU」のオーナーに、「壁に絵を飾りたいんだけど、いくらくらいで買えるのかな?」と声をかけられた。

「空間に絵を飾りたい店側と、絵にそれほど興味のない人にも見てほしい僕の思いがうまく合致して、飾ってもらっています。お店側にもそういう需要があるってことにこの時気がつきました」

現在は他にも、飲食店経営者のお客さんが多い横須賀のスナックで、そして夏には「宮越屋珈琲 町田店」でも展示販売することが決まっている。ゆくゆくは大手コーヒーチェーン店でもこうした取り組みができればと考えている。

「今の僕が言うと傲慢に聞こえるかもしれないけれど、作家側が消費者の感覚を育てていくことも必要だと感じています。それに、画家の絵がギャラリー以外の場所でも評価されていけば、絵画業界全体も活性化されていくと思うし、もっとおもしろくなっていくんじゃないかな」

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経営面や将来のヴィジョンを見据えるのは、芸術活動とは対極のことかもしれない。しかしその両方に挑戦しようとするのが、本間さんの才能なのだ。

「画家として絵を描くことも、それ以外の活動も、自分の役目だと思ってやっています。今はもう競争したりひがみ合ったりするんじゃなくて、それぞれが得意なことに真剣に取り組むことで、職業としてもっといい環境をつくっていけたらと思います。生活に困窮せずに絵が描ければ、もっと絵を描く人が増えるし、そうしたら業界全体ももっとよくなっていくんじゃないかな。簡単なことじゃないですけどね」

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人が集まれる場をつくるには? 学生時代に生まれた夢を、 地元で形にしていく 

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「街の人にとっては山の入り口であり、山の人にとっては街への出口である」といわれる天竜区二俣町。商店街の一角に、山ノ舎がある。

お酒を呑むことよりも、
お酒のある場に興味があった

2015年にオープンした「山ノ舎」は、中谷さんが「人が集まれる場をつくりたい」という高校生の頃からの思いを形にした店だ。昼間はカフェで、夜はバーになる。オープンした年、中谷さんは24歳。店を始めることを決めて、東京からUターンでこの天竜区に戻ってきたという。そう聞いて、早い時期から目指すものを見つけ、それに向かって着実に歩んできた——そんなイメージが浮かんだ。

「生まれたのは浜松駅から数駅のところなので、厳密にはここが出身地ではないんです。子どものころ小児喘息を患っていたので、両親が空気の良いところで暮らそうと場所を探してくれて、中学入学と同時にこの天竜区に引っ越してきました。でも、その頃の、祖父に教えてもらった釣りや友だちとの川遊びなど、自然の中での楽しい出来事が鮮明に残っていて、自分にとっての地元はこの天竜区だという感覚もあります。このエリアは祭りの伝統が色濃く残っていて、祭りのための寄り合いがウチの家で開かれることも頻繁にありました。大人がお酒を呑みながら楽しそうにしているのを近くで見てきたことで、呑むことそのものよりも、“お酒のある場”に興味が沸いてきたんだと思います」

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そうして中谷さんが選んだ進学先は、酒造りから醤油、味噌など発酵食を学ぶ東京農業大学・短期大学部の醸造科。お酒のある場づくりに興味を持ち、酒造りから学ぼうとするのは、中谷さんの好奇心の強さからくるのかもしれない。

「いつかバーで働こうと決めたら、まずお酒がどうやって作られるのかが知りたくなったというのと、短期大学を選んだのは、できるだけ早く働き始めたかったんです。そして、実際に大学に入ってお酒が飲める年齢になり、飲む機会が増えてくると、よりその思いが強くなっていきました。僕はあまり人とのコミュニケーションが得意なほうではないけど、お酒はわかりやすく相手との壁を取り払ってくれる。自分はやっぱり酒造りではなく場作りがしたいんだなと確信しました。でも、卒業してすぐバーで働き始めたんですけど、バーテンダーの世界も想像以上に職人気質だったんですね。個人競技のようなもので、自分が思い描いている仕事とは違うことに気が付きました」

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求めているイメージはあるのに何を学べばよいのかと、悶々としていた矢先、霧を晴らせてくれるような、ある本に出合う。ようやく見つけた学ぶべき仕事だった。

「たまたま、青山ブックセンターで『東京R不動産』の本が目に入って、立ち読みをし始めたら止まらなくなり、買って帰って最後まで一気に読みました。自分が求めていた場作りは、酒の専門分野ではなくて、こういうところから生み出されているのだと。それで次の日には、この会社に入りたい!と思ってバーには退職願いを出して、東京R不動産には履歴書を送り付けたら面接をしてもらえることになり、奇跡的に採用していただけたんです」

思い立ったら即行動、というのが中谷さんのバイタリティ。単なる不動産ではなく、建築的なアプローチからコミュニティ形成を考えるという東京R不動産での仕事は、中谷さんの「いつか自分でも実践したい」という意欲を膨らませていく。そうして、ついに「山ノ舎」の物件との出合いがやってきた。

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「もともと僕の前にここを借りていたのが、静岡のロースタリーとしても有名な『ヤマガラコーヒー』さんだったんです。それが、1年前の5月ごろ、実家に帰ってきたときに、“移転しました”という張り紙がしていて驚きました。ふと『ここで店ができるかも』というのが浮かんできて、何でも思い立つとすぐ電話するクセがあってその場で不動産屋に電話してみたら、家賃が結構高かったんです…。冷静になって考えようと。マーケティングが必要かな、などとあれこれ考えたけど、結局この場所にそんなデータ的なことを当てはめても意味のないことだと思い直し、せっかくのチャンスだから、やってみるしかないと。自分の思いとやりたいことをまとめて大家さんに家賃交渉とプレゼンをしたら、共感していただいて、安く借していただけることになったんです」

山ノ舎の自家製ジンジャーエール。近所のお肉屋さんで仕入れる天竜ハムを載せたクロックマダムも人気。

失敗しながらも、
新しい道をひらいていく

「山ノ舎」という名前は、“みんなのもうひとつの家のように思ってもらえるような場がつくりたい”という思いからつけられた。家とは、人が集まっては出ていく場所。人が情報も一緒に山から街、街から山へと運んでいく。当初は、東京R不動産に在籍しながら天竜と東京を行ったりきたりしようと考えていたのが、実際に始めてみると東京に帰る隙もなく、オープン後の1年は、一瞬のうちに過ぎていった。

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そこから1年弱。再び「山ノ舎」を訪ねる機会があった。1年まるまる経っていないにもかかわらず、前回はまだおろしたての新品のような空気感だったのが、日々を刻む味わいのようなものがうっすらとまとわれていた。穏やかな時間が流れているように見えるこの場所でも、中谷さんにとっては初めての経験や挑戦の連続だったに違いない。

「9月には、オープンから2年を迎えようとしていますけど、正直こんなに大変だとは思いませんでした(笑)。1年目は、東京から戻ってきたばかりで、東京R不動産で得た経験をここで実践したいと、気持ちばかりが先走ってしまって。イベントも頻繁に開催していたし、カフェ以外にも地元の不動産と組んでシャッター商店街をなんとかしようと息巻いてました。いろんなことを同時にやろうとしていたのもあって、ふと振り返ったら誰もついてこれないところまで走っていて……去年の秋にスタッフがみんなやめてしまったんです。焦っては何も生まれないんだと、ハッとしました」

そこから、偶然に再会した同級生の岡部さんが、スターバックスで働いていた経験から、店長を引き受けてくれることになり、お客さんだった池野谷さんが「いつか自分でカフェをやりたいから」と新しいメンバーとして加わった。

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左から、中谷さんと、店長の岡部さん、スタッフの池野谷さん。

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面積の91%が森林という天竜区。その中心を流れる天竜川と、北遠五名山と呼ばれる山々は、絶好のアウトドアフィールドでもある。

「ちょうと、スタッフがいなくなったころに、車の免許をとってサーフィンを始めたんです。単純かもしれないんですけど、この2つが何かを大きく変えてくれたような気がします。車があることで、この天竜区の周辺には、まだまだいろんな魅力や可能性が詰まっていることに気づけたし、サーフィンは自分であれこれ背負ってしまっていた肩の荷をおろしてくれました。今は、いろんな層の人が楽しめる場がつくれるように、毎日の営業や月数回のイベントをコツコツと重ねていて、もうひとつには、ある縁から旅行業の資格を持った方との出会いがあって、『山ノ舎』の派生事業として、この6月から新しい旅を提案できる観光窓口を始めることになりました。秋葉街道という歴史あるトレッキングルートも整備すればもっといいアクティビティになるし、真冬のキャンプなんかも企画してみたいですね」

いつも自分に湧き出る興味に対して、直感的に従ってきた中谷さんは、失敗もするけど、その分だけよりよい道が開けてきた。次に来たときには、どんな中谷さんに会えるだろうか。そして、この天竜の自然を味わう旅もしてみたいと思う。

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初めて暮らす“山形”で、 ひたむきにデザインを考える

“デザイナー”という働き方を
もう一度考え直す。

難波知子(以下、難波)東京工芸大学芸術学部のデザイン学科を卒業して、デザイン会社ではなく印刷会社に就職してデザイナーになりました。紙が好きだったんです。アシスタントを経て、4年目からは1人でカタログや冊子、チラシなどを作るようになりました。

佐藤裕吾(以下、佐藤) 僕は仙台のデザイン学校を出て、デザイン制作会社に入社しました。その制作会社は東京にも支社があったので、1年仙台で働いてから東京に行きたいと希望を出しました。デザインを仕事にするなら東京だと思ったんですよね。仙台にいた時は、デザイン力を問われるデザイナーというよりも、指示通りに作業するオペーレーターの仕事が多くて。おもしろいことをやるなら、東京に行かなきゃなと。でも、東京に行ったら、クライアントの会社の規模が大きくなっただけで、仕事は変わりませんでした。

難波 私も印刷会社での仕事は、思い描いていたデザイナーの仕事ではなかったですね。カタログ制作を担当していたので毎年似たようなものを作るし、部分的なところを担当するだけで仕事が細分化されすぎていたんです。ある時、月刊の情報誌を担当することになって、写真やスタイリングも含めてデザインできることが楽しくて。もっと自分なりにデザインをしてみたくて、会社を辞めました。ウェブの仕事に興味があったので、次は通販サイトを運営している会社に入って、バナーやチラシを作っていました。そんな時、知人が、アカオニでデザイナーを募集しているよと教えてくれたんです。

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とんがりビルの2階にある「アカオニ」のオフィス。ひとつの大きなテーブルをスタッフみんなで囲んで仕事をする。

とんがりビルの2階にある「アカオニ」のオフィス。ひとつの大きなテーブルをスタッフみんなで囲んで仕事をする。


佐藤 
兄が山形にある芸工大(東北芸術工科大学)出身なので、山形にもデザイン会社があるよと、アカオニの存在を教えてくれました。2014年の山形ビエンナーレ第1回の時に「みちのおくつくるラボ」という市民講座があって、それに東京から参加したのですが、そこでアカオニのアートディレクターの小板橋さんと会って。第1回目の芸術祭は、荒井良二さん、いしいしんじさん、梅佳代さん、坂本大三郎さん、トラフさんなどが参加していて、宣伝美術をアカオニが担当したのもあり、自分が興味ある作家たちが一同に集っていました。だから、どうしても参加したくて、東京から山形に通うことにしたんです。

2016年にアカオニに入社した難波さんと佐藤さん。初めてづくしの山形での暮らしとアカオニでの仕事を楽しんでいる真っ最中。

2016年にアカオニに入社した難波さんと佐藤さん。初めてづくしの山形での暮らしとアカオニでの仕事を楽しんでいる真っ最中。


難波
 アカオニが作るデザインは、いままで自分がやっていた仕事とはまったく違いました。いままでは、情報を整理するためのデザインが多かったのですが、アカオニのデザインは感情があるというか、見て楽しいとか、明るい気持ちになったり。わかりやすいとは別の“何か”があって。デザイナーってもっと自由でいいんだ! って思ったんです。



akaoni works

まなびあテラス

東根に新しく建てられた図書館・美術館などを含む複合文化施設のロゴマークデザイン。膨らむ想像力と東根のシンボルである、大ケヤキが、遊びのある自由な曲線で表現されていた。簡単にかけそうでかけない。(難波)

東根に新しく建てられた図書館・美術館などを含む複合文化施設のロゴマークデザイン。膨らむ想像力と東根のシンボルである、大ケヤキが、遊びのある自由な曲線で表現されていた。簡単にかけそうでかけない。(難波)

ささ結

ササニシキを継承する、新しいお米の品種「ささ結び」のロゴマークとパッケージ。名前がストレートに力強く伝わり。白とシルバーのコントラストが目をひく。かっこいい。(難波)

ササニシキを継承する、新しいお米の品種「ささ結」のロゴマークとパッケージ。名前がストレートに力強く伝わり。白とシルバーのコントラストが目をひく。かっこいい。(難波) 写真:akaoni

赤鬼豆カレー

2016年の山形ビエンナーレ「みちのおく商店」で販売した「赤鬼豆カレー」。真室川産の伝承豆や古代米、スパイスなどが赤い紙で包まれています。商品名は一枚ずつ手書き。にじみ出る味が素敵。(難波)

2016年の山形ビエンナーレ「みちのおく商店」で販売した「赤鬼豆カレー」。真室川産の伝承豆や古代米、スパイスなどが赤い紙で包まれています。商品名は一枚ずつ手書き。にじみ出る味が素敵。(難波) 写真:akaoni

 


 

佐藤 2015年の春に、アカオニの求人を見て応募しました。本当は前の会社を辞めて、カナダにワーキングホリデーに行こうと思っていたんですけど、アカオニに行きたくて予定を急遽変更しました。応募の時、エントリーシートが4枚ぐらいあって、根掘り葉掘り、いろいろ聞かれましたね。

難波 私も募集を知ってからすぐに応募しようと思ったんですけど、エントリーシートを書くのに、ものすごく時間がかかってしまって。パーソナルな内容のものが多かったです。職歴よりも人柄重視というか。休日の過ごし方を教えてくださいとか、好きな本を3つあげてくださいとか、理由も考えなくちゃいけなくて。〆切りまでの時間をフルに使って、自己を見つめ直すじゃないですけど、「私ってなんだっけ?」と考えたり、「29歳まで生きてきちゃったけど、だれかに紹介するほど“自分”ってあるかな?」とか、「なんで、この仕事してるんだっけ?」とかまで考え始めてしまって、結構大変でした(笑)。このエントリーシートを書くことで、暮らしとか仕事とか、自分自身を考えるいい機会になりましたね。

憧れのデザイン会社へ入社。
デザインの捉え方の違いへの戸惑い


佐藤 
アカオニに入ってから、仕事しかしてないですね。この1年、あっという間でした。アカオニが手がけるデザインは、僕が東京で見てきたデザインとは違っていて。ここに来てみたら、僕はぜんぜんデザイナーでも何でもなかった。そう思うくらい、デザインというものを扱う、人としてのレベルの高さを求められる。その現実に打ちのめされながらも、デザイナーとしてどうやっていけるのかというのを毎日考えています。

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難波
 アカオニでの仕事は楽しいです。自分で考えて、形にするっていうのが、単純におもしろい。ひとつの仕事に毎回課題があって、それに対して、どうすればいいのかを考える時間がすごく増えましたね。

佐藤 作業する時間じゃない、考える時間のほうがめちゃくちゃ多いんです。アカオニの人たちは考え方が緻密というか、あらゆる角度で客観視する。だから考える量が僕らとはケタ違い。“ある程度いいのができたな”っていうふわっとしたところでは終わらない。とことん客観視して、いいのか悪いのかというジャッジをしようとする。だから、いろんな人の意見を聞けって言われるんです。デザインをやっている人かそうでないかにかかわらず。

難波 とは言っても、消化しきれないことはしょっちゅうあります。でもやっぱりいろんな意見や材料をもとに、自分で考えるしかないんですよね。見た目がかっこいいからとかじゃなくて、何のためにデザインしているのかというのがまずないと、ただ手を動かしてるだけになる。それってなんの意味もないんです。デザインしたものでちゃんと表現しないと。

佐藤 アカオニにいると、デザインに関して意図や説明をすごく求められます。そもそもの意図が間違っているってこともありますし、その解釈は効果的じゃないんじゃないかと指摘されることもあります。東京にいた頃は、そこまで掘り下げることはなかったですね。

難波 たとえば、ロゴデザインだとみんなで案出しすることがあって。頭の中だけで考えていたことに、デザイナーたちの手が加わって、実際の形になっていく。そのプロセスがおもしろいし、楽しいですね。

佐藤 この仕事のおもしろさはまさにそこで。いままで名称だけだったものが、デザインされて、ロゴができてウェブサイトができてという過程がすべて見られること。いままでは、ロゴが支給されて「こういうブランドがあるから、そのイメージで作ってください」という仕事の流れが多かった。けれど、ここでは、社会に出していくものすべてを骨格から作っていくというか、考え方から形になるまでのプロセスに携われるのがおもしろい。



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工房ストロー

山形県真室川町を拠点に藁細工文化の発信をつづける、工房ストロー。 ロゴデザイン、WEBデザイン、パッケージデザイン(現在鋭意制作中)をアカオニで担当した。 写真:◯◯◯◯

山形県真室川町を拠点に藁細工文化の発信をつづける、工房ストロー。ロゴデザイン、WEBデザイン、パッケージデザイン(現在鋭意制作中)をアカオニで担当。(佐藤)

 

山形七煎(結城米菓)

読み方は「山形七煎(やまがたななせん)」。山形らしい七つの味と形が、一度に楽しめるお煎餅。パッケージも紅花色に仕上げ、まさに山形づくし。「やまがたおみやげ菓子開発プロジェクト」のひとつ。(佐藤) 写真:akaoni

山形の野菜と果物のチップス(モミの木)

こちらも「やまがたおみやげ菓子開発プロジェクト」のひとつ。 山形県産の野菜と果物を、風味や素材感を損なわない低温真空加工で仕上げたチップス。新鮮な作物と同じように、パッケージも段ボール箱を採用。(佐藤) 写真:akaoni

 


 

難波 いまやっている仕事は、病院の広報誌、市役所の展示の企画とか。やったことないことばかりで楽しいですね。残業はありますけど、自分で調整してバランス取るしかないので。

佐藤 僕もウェブ、紙問わず、いろいろやれてうれしいですね。忙しいですけど、修業だと思ってやっています。山形にいると、終電の感覚がないんですよ。チャリで通っているので、10分あれば家に着くし、すぐに会社にも来られる。東京で残業していた頃は、我慢して仕事していたから辛かったのかなって。山形には来たくて来て、やりたい仕事を好きな人の下について仕事をしているのでストレスはないですね。

難波 私もそうですね。

佐藤 東京より忙しいんです(笑)。東京のほうがスローですよ。

難波 分業じゃなく、あらゆることをやりますからね。

佐藤 でも、帰り道に一歩外に出ちゃえば、車も通ってなくてほとんど人もいない。山に囲まれたのどかな場所なので、オンとオフのメリハリがあって、切り替えがしやすいんです。

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佐藤くんのお気に入りは、山形名物「鬼がらし」の納豆ラーメン。残業中の夜食としてしょっちゅう食べにくるのだとか。

佐藤くんのお気に入りは、山形名物「鬼がらし」の納豆ラーメン。残業中の夜食としてしょっちゅう食べにくるのだとか。

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とんがりビルの横にある「大福まんじゅう」は、おばちゃんが毎日手焼き。小腹がすいたら買いにくる。

とんがりビルの横にある「大福まんじゅう」は、おばちゃんが毎日手焼き。小腹がすいたら買いにくる。

難波 私は考える時間がどうしても長くなってしまうんです。図書館に行って調べたりもしますし、紙に書きながら考えたり、家でテレビを見てる時にふと思いついたり。でも、ぜんぜん考えが足りないってよく言われますね。アイデアの数も足りないし、もっといろんな角度から考えられるでしょうって。

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週末は近くの温泉まで車を走らせるという難波さん。1人でゆっくり長風呂を楽しむ。お風呂上がりに食べる、玉こんにゃくは1本100円!

週末は近くの温泉まで車を走らせるという難波さん。1人でゆっくり長風呂を楽しむ。お風呂上がりに食べる、玉こんにゃくは1本100円!

佐藤 僕もそうですね。PCに向かって考えるだけっていうのは、あまり良しとされないので、手を使って、ものを見て。

難波 だから仕事の間も、そうじゃない時間もずっと考えているんです。もっと器用にやりたいんですけど。

佐藤 今はまだ、何十個、何百個考えてアウトップトしていきながら、自分のオリジナルがだんだんとできていくのかな。だから頭はいつもフル回転です。でも、外に出ればすぐ山が見える。だから、やっていけるんでしょうね。

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大森克己(写真家)×夏目知幸(シャムキャッツ)「浦安の団地のはなし」

 

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「#うちの近所」より ©大森克己

 

大森克己(以下、大森) この写真、夏目くんに見てもらおうと思って。

夏目知幸(以下、夏目) おお! すごいっ! きれい。

大森 羽田空港に着陸する時、ふと窓の外をみやると「おーっ、うちじゃん!」って(笑)

夏目 え〜っと、今僕らがいるのはここ(写真を指差して)ですね。

大森 さっき、海を見た公園がここで、僕の家がココ……改めてみるときれいだけど、同時によくここにたくさんの人が住んでるなって思うね。海岸線をみると、浦安市の3/4くらいは埋立地なんじゃないかな?

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——生活しながら、「ここは埋立地である」と実感する瞬間はありますか?

大森 もう一目瞭然だから(笑)。でも、最初から住んでいる人にとっては、埋立地云々より、ただ故郷だよね。

夏目 うん、故郷ですね。僕は生まれて、物心ついた時からここだから。阪神・淡路大震災が起きた時、小学生だったんですけど、その時初めて“液状化現象”を知りました。それから学校の授業で「この土地もいつかこうなる可能性がある」って言われ続けてきて、東日本大震災で目の当たりにして、「ああ本当だったんだ」って思った。それまでは、授業で震災のビデオを見ても現実味がないし「ここは埋立地だ」って思って住んではいるけれど、体感して初めて、うけた衝撃は大きかった。

大森 大規模な震災の被害を直接的に受けたというのはすごい体験だった。でもここが日本の風土の“平均ではない”っていう感覚はどこかにあるかな。新しく作られた町だから。そういう土地がもつ“実験的な側面”におもしろさは感じているな。

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夏目 僕は都内の高校に通うようになって初めて東京を知ったんです。そこからやっと相対的に浦安の土地をみることができたかな。

大森 そうだね、団地住まいじゃない友達の家に行くと「あ、全然違う」って思うよね(笑)。

夏目 そうなんです(笑)。コラムにも書きましたけど、団地の友だちってどこの家も同じような環境だし、友だちとのコミュニケーションも、関係が近いから雑なんです。どんどん土足で踏み込んで行っても良くて(笑)。

大森 家に行ったことがなくても、何号棟か聞くだけで、間取りが分かったり。

夏目 そうやって開けっぴろげなコミュニケーションでやってきたから、高校で友だちと話してた時、団地の時と同じテンションで話すと、「失礼なやつ!」ってちょっと怒られたして。これまでとは違うんだなって。

大森 なるほどね(笑)

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——大森さんが幼少期に関西で暮らしていた団地はどんなところだったんですか?

大森 兵庫県の明石市と神戸市にまたがる明舞団地といって、県営、分譲、一戸建てが混ざっていて、すごく巨大な団地でした。3歳くらいから中1までいたかな。子どもの頃の遊び方は、夏目くんとすごく似ていると思う。夏目くんが住んでいた団地のほうが新しいけど、まあ基本構造は……

夏目 変わらないでしょうね(笑)。

大森 団地の敷地内に商店街があって、小学校のクラスの友だちは全員団地暮らしだし。良くも悪くもそういう環境で育ったから、大人になって浦安に住むことに抵抗はなかったのかも。自然の中で育っていたら違っていたと思うけれど。

夏目 そうだと思います。いる環境のすべてが新しくて、人が作ったものしかないから、東京に出た時、自分の街のほうが“最新版”だと思うこともあって。「ここ、未来じゃん!」って(笑)。

大森 エリアによっては本当にそうだよね(笑)。


故郷と自分の距離
離れるからこそ見えること

 

——写真家として多忙になっても、都内に移ることを考えなかったのですか?

大森 うん、そうだね。でも、ある時ふと「都心にいないとダメなんじゃないか」って思ったこともあるけど、自分が撮っている写真の種類を思うと、ずっと代官山に暮らしてないと撮れない、ってわけじゃないしね(笑)。都心に行くには電車でも車でも片道一時間弱はかかってさ、そのあいだに考えごとしたり、車だったら音楽を爆音で聴いたり出来るじゃない?  そうやって日々移動しているほうが、自分には合っているなって。結局、それが心地よくて住み続けているのかも。

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夏目 僕も高校に片道1時間半かけて通っていたから、その時間で音楽を聴きまくってたんです。音楽ってずっとひとりで聞くものだと思ってたから。バンドやり始めると、コミュニケーションの中で音楽を聞くことも増えて。「あのバンドいいよねー」とか「このバンドの新作聴いた?」とか。ライブを観に行ったりもして。そういう流れの中に音楽があるから、音楽との関わり方が全然違うなあって。僕にとってそれまでCDやMDで聴く音楽がすべてだったから、とにかく移動中にひたすらひとりで聞くっていう、静かなものだった。でも、そういう環境から離れたところに身を置かないと、この世界で食べていけないかもなっていう気持ちで、浦安を出ていったのもあったかな。

大森 うん、めっちゃわかる感覚。いったん、親とか地元から離れないと客観的になれないことはすごく大きかった。僕も高校を卒業して写真をやろうと思った時、東京に出て来た訳だけど、関西で芸術なんてムリ!って(笑)。もちろん人によるけど、僕は関西弁の距離感とか、友だちとの関係性も身近で、そこで芸術のことを考えるのが想像できなくて。だからまず“関西”から脱出したかった。今はまた関西弁でデートしたいなあって思うけど(笑)。一度リセットして故郷から離れることは、自分にとってすごく必要だった。でも結局、団地で育って、また大人になっても団地暮らし(笑)。
あと、僕は執着があまりないから。住む場所に対してもそうで、中目黒に住みたいとか、新宿に住みたいとかなくて。行けば好きな街はたくさんあるけれど、根が団地だから(笑)、新宿とか浅草とかのちょっと古い部分に違和感がある時も……

夏目 うん! とってもわかります。

大森 で、なおかつ小洒落た街への憧れもリアリティもない。団地のことを、埋め立て地で人工的で……ってクリティカルになろうとすれば、いくらでもなれるし、まったくその通りだよなって思うこともある。街への執着がない分、反対にどこに行っても楽しいんだけど。

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——夏目さんは、この団地から引っ越して行く時のことは覚えてますか?

夏目 この街にしか住んだことがないから、都内で物件を探している時に団地っぽい建物を避けたのは覚えてる(笑)。駅から離れていて、鉄筋コンクリートで、安い物件とかあったけど、ドアが鉄で重かったりすると、急に家のこと思い出して「こりゃだめだ、団地と一緒だ!」って。何年か経った今、また団地のような建物に住みたいなあって思いもあります。団地って集合住宅で隣近所との距離が近いように感じるけど、ドアを閉めれば“ひとり”って感覚が強い。アパートだとそういう感覚ってないから。浦安は寝るところ!っていう感覚で、東京は遊園地みたいな場所だって思ってたな。アパートに住むことも、遊園地の中に間借りして住むような感覚があって。街に参加したまま過ごし続けるっていうか。バンドでツアー回っていて宿泊することも多いけど、ドア閉めればひとりっていう感覚を常にもとめているかも(笑)。

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街が一度壊れてしまう前の
キラキラした記憶を残しておきたかった

 

——2014年にリリースしたシャムキャッツのフルアルバム『AFTER HOURS 』では、この街で過ごした記憶について描かれていますね。

大森 この言葉が褒め言葉になるかわからないけど、懐かしい気持ちになった。

夏目 ありがとうございます。あの作品を創るまでは、自分が住んでいた街について歌おうと思ったことは一度もなかったんです。震災が起きた1年後くらいに、実家が千葉の奥のほうに引っ越して。多分、当時はそうやって、たくさんの人がそれぞれの判断で、故郷を離れていった。そう感じた時に、この土地のことを曲として残しておきたいなって気持ちが湧いてきたんです。僕自身も、震災のあとすぐに家を出たから。だから、この街の記憶は、震災直後に流れていた空気のまま、どこかストップしている感じがあって。

大森 分断された道路とか。

夏目 そうです。街が一度壊れてしまう以前の、楽しかった記憶、自分の中でキラキラしていた小中学生時代のこの街みたいなものを曲で残しておいたほうがいいんじゃないかなって思って。

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——大森さんも、インスグラムでは「#うちの近所」というシリーズで、暮らしている街の風景をアップしてますが、この街の景色を残していくという意識はありますか?

大森 う〜ん、半分くらいあるかな。でも半分はフィクションだと思っています。この街の写真は、インスタ始める前からずっと撮ってた。インスタを通すからおもしろいと思うのは、「おっ!」て思った瞬間、向こうから来たものを撮っているだけの写真に「#うちの近所」っていう言葉をつけることで、写真そのものの意味よりも、その写真を分類したり、語るための機能になるなって。写真から言葉を引き出す手段としておもしろい。自分の暮らしを考えるきっかけのアーカイブなんだよね。“#うちの近所”ってついてる写真、多いからねえ(笑)。

「#うちの近所」より ©大森克己

「#うちの近所」より ©大森克己

「#うちの近所」より ©大森克己

「#うちの近所」より ©大森克己

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「#うちの近所」より ©大森克己

「#うちの近所」より ©大森克己

「#うちの近所」より ©大森克己

「#うちの近所」より ©大森克己

「#うちの近所」より ©大森克己

 

——今後、生活してみたいと思う土地はありますか?

大森 僕は、昔からどこが好きかって言ったら「友だちの家」だったの(笑)。高校の時、福田くんという友だちがいて、放課後に福田くんの家に行って勉強をして、ごはんをご馳走になって帰ってきたり。居心地がよくて(笑)。自分の仕事柄、別に家がなくてもいいかなとも思っていて。「未来永劫ここにいます!」って決めて、ここにいる必要はまったくないなって。とは言っても、30年以上仕事の本拠地にして来、今、東京っておもしろいところだなって思って。どこへ行ってもリラックス出来るようになってきたし、知り合いがいてもいなくても「このスナックおもしろそうだから、入ろうかな」って思ったら入れるし。だから、地方でも海外でも“友だちの家”と呼べる場所と、この街を行き来して。死ぬまでそれでいけたら楽しいなあって。

夏目 僕は、「ここが家だよ」って決められたら、どこでもよくて。郊外でも都会でも、街も景色もどこでも大丈夫だなってよく思う。とにかく家が好きなんです(笑)。今はバンドやっているし、現実的に活動の拠点として住む場所を決めているけれど、そうじゃない限り、自分がどこへ住みたいかって考えるつもりもないって感じかな。その場の流れにまかせる。まあ、わかんないけどねえ、全く言葉の通じないところに住んでみるのも楽しそうだなって思うこともあるけど。

大森 今から、すごく電撃的な恋をして、相手がユダヤ教の人で、自分も改宗してエルサレムに住む、とかね。それくらいのジャンプ感ね(笑)。それくらい振り幅があってもいいような気もするけどね。可能性としてあるわけでしょう。

夏目 うん、そうですね。ゼロじゃないっすね(笑)。

 

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心と体で学ぶ、人生にとって大切なことvol.03| 五感で感じる芸術の実験場 アートギャラリー〈ものかたり〉で「自由」を育む

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子どもたちの未来のために、
「自由な発想力」を培う場を

ショーウィンドウごしに見える一面の本棚には、一見して「絵本屋さんかな?」と見まごうほどの絵本が並んでいる。

ここは五城目町のアートギャラリー〈ものかたり〉。五城目町出身の小熊隆博さんがUターン移住してこのアートスペースをオープンしたのは、2016年4月のことだった。

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五城目町は県庁所在地である秋田市から車で約1時間ほど。ここ五城目町でインデペンデントのアートスペースをはじめる人がいる、というニュースは、秋田県内のアートファンを喜ばせた一方で「本当にやっていけるのだろうか」という声も少なからず聞こえてきたと小熊さんは笑う。

小熊さん「大きな箱物は今後このまちにはできないだろう、では箱がないところにアートがないのか、ということを考えたんです。五城目のような規模のまちなら、むしろ美術館などの公的な施設ではできないことを、もう少し柔軟に挑戦できるのではないかと」

こう語る小熊さん自身も、6歳のはるくんと3歳のあけるくんの二人の男の子の父親でもある。

小熊さん「五城目町だけでなく、全国の地方で同様に起こっている現象ですが、これから人口がどんどん減少し、地域が縮小し、今までの考え方の枠組みでは維持できないことがいっぱい出てくるでしょう。そういうときに必要なのは、考え方を変えるということだと僕は思うんです。状況が変わったときに柔軟に対応できる、自由な発想力をいかに培っておくかが大事ではないかと思って。

僕自身ももっと自由に変わりたいと思っているし、子どもたちにはよりいっそう、自分で考える力や感性が必要です。ここで行っていくアートプロジェクトは、そういう自由な発想力を養うプログラムであるといいと思っていますし、そういったプログラムを提供する場として、ここ〈ものかたり〉を開いていきたいと思ったんです。それは例えば学校のテストで高得点を取るという価値観とは異なるもの。学校のカリキュラムだけでは補えない教育の一端を、民間としてこうしたアートスペースが担うことができるのではないかと考えました」

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「エレクトロニコス・ファンタスティコス!」で体感する、“音以前”の音が紡ぐ音楽の世界

2016年5月5日、子どもの日にアーティストでミュージシャンの和田永さんのワークショップが行われたのは、ものかたりがオープンしたわずか1ヶ月後のこと。

小熊さん「不要となった旧式のテレビや扇風機や、短波ラジオ、黒電話などの家電類をレトロに再生して楽しむのではなく、DJマシンやエレクトーン、シンセサイザーなどと組み合わせて、数々のオリジナル楽器を創造していくんです。そうして生み出された楽器でユニークなパフォーマンスを繰り広げるプロジェクトが『エレクトロニコス・ファンタスティコス!』です。参加者をどんどん巻き込みながら新たな楽器を創作・量産し、奏法を編み出して、最終的にはオーケストラを形づくっていくプログラムで、和田さんご自身だけが表現するだけにとどまらず、その輪を広げみんなで表現を生み出していく試みです」

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和田永(わだ・えい) 1987年東京都生まれ/在住 アーティスト/ミュージシャン。2009年より、古いオープンリール式テープレコーダーを演奏するグループ「Open Reel Ensemble」として活動し、注目を浴びる。2015年より、役割を終えた古い家電を新たな電子楽器として蘇生させ、合奏する祭典を目指すプロジェクト「エレクトロニコス・ファンタスティコス!」を始動。eiwada.com

和田永(わだ・えい) 1987年東京都生まれ/在住 アーティスト/ミュージシャン。2009年より、古いオープンリール式テープレコーダーを演奏するグループ「Open Reel Ensemble」として活動し、注目を浴びる。2015年より、役割を終えた古い家電を新たな電子楽器として蘇生させ、合奏する祭典を目指すプロジェクト「エレクトロニコス・ファンタスティコス!」を始動。eiwada.com


小熊さん
「和田さんは、いろんなものを楽器にして新しい音楽を作ることができる人なんです。これはシマシマを感知して音を奏でる『ボーダーシャツァイザー』というものです。シマシマにカメラを向けると、電子音が鳴るんです。初めからボーダーの服を着てきた人もいれば、黒いTシャツに白いテープをはって、自由に自分のシマシマを作ることもできます」

一人ずつにカメラを向けて、距離を変えたり、動きをつけたり。微妙な感知の差によって、音も微妙に変化してく。

一人ずつにカメラを向けて、距離を変えたり、動きをつけたり。微妙な感知の差によって、音も微妙に変化してく。

小熊さん「普通の音楽スクールや音楽教育で学ぶのは楽譜があって、それに沿って演奏するというものじゃないですか。ここでは音楽以前の音、音階の間に無限の音があるということを示してくれたんじゃないかと。音楽って、ここまで自由でいいんだよということを、感性が柔らかい子どもたちにこそ感じてほしかったんです」

人口3,000人の直島で見た、
地域とアートの可能性

小熊さんは、2008年京都造形大学大学院を卒業後ベネッセに入社、アートサイト直島の事業に参加。そこで「瀬戸内国際芸術祭」を目の当たりにしたことが、地方におけるアートの可能性を感じた経験になった。

 小熊さん「直島は人口約3,000人の小さな島で、高松からも小豆島からも船で1時間はかかるような不便な場所にあります。そんな場所に美術作品を見るために世界中から人が訪れるんです。今では通常年でも交流人口が年間10万人以上。五城目町の人口の3分の1の島でそんな現象を目の当たりにしたことが、五城目町でアートギャラリーをやろうと思ったきっかけです。

アートサイト直島は地域の資源をアートに活用した早いほうの事例でした。たとえばその中で行われた『家プロジェクト』。直島でも古くから存在する集落の一つである本村地区に現存していた古民家を改修・改造し、現代美術作品に変えてしまおうという試みでした。300年ほど前からある古い町並みを安藤忠雄、内藤礼、杉本博司、ジェームズ・タレルら錚々たるアーティストが、全く新しい景色に変えていく。しかもその作品の解説をするボランティア・スタッフは、地元のおばあちゃんだったりして。つまり、先端のアートを80代の地元のおばあさんが解説している。そのギャップに皆やられていくわけですね(笑)。それって、観光とは違うなと思っていて。

僕もいずれは五城目町に戻って、何か自分にできることをやってみたいと思っていたのですが、アートギャラリーというイメージはずっと持てませんでした。五城目町は観光の要素はあまり多くないし、そもそも僕は地元の人間で、地元に魅力がないと思って出て行った人間なわけですから。でも、『家プロジェクト』を通して、地域の人が知っているようで知らない魅力を掘り起こす役割はアーティストなど外の人が持っているのだろうな、ということを体験的に知ることができたんです」

地域おこし協力隊として
生まれ故郷に再び、足を踏み入れる

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五城目町は、2015年にはシェアビレッジ町村ができ、旧馬場目小学校を五城目町地域活性化支援センターというインキュベーションセンターにするなど、今、秋田県内で、もっとも新しい動きが生まれている場所の一つ。しかし、小熊さんは実はその動きを帰郷する直前まで知らなかったといいます。

小熊さん「いずれ、生まれ故郷の五城目町で何か自分にできることをやってみたいと思っていたものの、ギャラリーというイメージはまだなかった。いざ帰郷しようとしたら、今の五城目町には県外から若くておもいろい人たちが集まってきているではないですか」

彼らと意気投合し、ギャラリーを始めるのと同時に、五城目町の地域おこし協力隊として、生まれ故郷に新たに入り直すことになったのだそう。

小熊さんが所属するのは、空き家の利活用を担当する住民生活課という空き家の情報が集まる部署。そこで空き家の活用例を先行事例として、自分の活動拠点を〈ものかたり〉のリノベーションの過程も公開した。

小熊さん「僕は1981年生まれです。僕らの世代では古い建物をリノベーションして、新しい用途を与えて命を吹き込むということを評価する、共通の価値観を持っていると思いますが、僕らの上の世代の人たちは、今でもスクラップアンドビルドで新しいものを建てるということがよりよいことである、という根強い考え方がある。それは間違っていないかもしれませんが、僕らからしてみると非常にもったいないなと思うんです。〈ものかたり〉でリノベーションという手段をとったのは、そういうスクラップアンドビルドをよしとする価値観に挑戦するという試みでもあったと思います。

声高に自分の主義主張を叫ぶやり方ではなくて、この場所がただあるということで、あえて言わずとも伝わっていくものがあると思って、この場所を開き、そして続けていこうと思っているのです」

そう語る小熊さんの口調には、静かな中にしなやかな強さが宿っていた。

ミュージアムとライブラリー。
両方の機能をもつ空間を

 

小熊さん「もともとはミュージアムとライブラリー両方の機能を持った場所を作りたいと思っていました。町には小さな図書室はあるけれど、絵本のコーナーも小さい。『ギャラリーです』なんていっても、なかなか入りにくいだろうなと思ったので、絵本を陳列することで、子ども連れのお母さんも入りやすいだろうと思ったんです」

〈ものかたり〉は妻・美奈子さんによる絵本の選書も魅力の一つだ。通常、ギャラリーといえば子連れお断りのところも多いが、〈ものかたり〉は、まるで絵本が子どもに手招きしているようなウィンドウも特徴的だ。

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美奈子さん「子どもの頃からずっと絵本が好きでした。親がよく絵本を読んでくれたのかもしれないです。そういう環境をこのまちの子どもたちにも提供したいと思って、デザイン的に優れている絵本、絵本作家以外の職種の人が挑戦した絵本、目にしたときにはっとした気持ちになるものを中心に選書しました。絵本の魅力は、赤ちゃんから大人まで訴えかける力があるところ。長く読み継がれているものは、自分も小さい頃に読んどった! という思い出が浮かび上がってくるじゃないですか。子どもができて読み返したときに『この絵本、こんな話だったっけ?』と新たな発見があったりする。子どものときに理解できなかったことを大人になって再度発見したり。お気に入りの絵本を100回も読んだはずなのに、101回目にびっくりするような発見をする、とか。子どもと一緒に見ると、着眼点とか、ものの見方が違うから、そういうのがいいところだなと」

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絵本のある本棚のオープンな印象とアートが両立している〈ものかたり〉。しかし本とアートは生活必需品ではないから、触れる機会がなければ、存在すら知らずに暮らしは回っていってしまう。その先に広がる豊かな物語の入り口に立つための場所として、まちのギャラリーの役割を考えた結果のミュージアムとライブラリーの融合だったのかもしれない。

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豊かさの尺度は自分で決める。
そんな自由を、取り戻す

小熊さん「ギャラリーって、壁に飾ってある絵を見にいくイメージが強いでしょう? でも実は現代アートにはもっと多様な展示が存在するんです。アートは五感で感じるもの。普段見ている目線から、今一歩引いて物事を新たに捉え直す視点というのがアートの一つの機能。そういう機能を持った場所がこのまちにあってもいいんじゃないかと僕は思っています。地方の暮らしは経済的な尺度で都会と比較されることが多いけれど、人口が減っていて、若い人がいないから豊かでない、ということではなく、豊かさの尺度自体を変えたいし、そんな問題提起ができるのはアートの力だと思うんです。最近はね、『石高で豊かさを測ろう』なんて、仲間と話してるんですよ(笑)。はっきりした正解だけじゃない。別のところにも案外正解はいっぱいあるんじゃないか、ということを探せる力を養うのは教育の役目です。でも、自由を体験したことがないと、自由にふるまうことができなくなってしまうかもしれない。『さあ自由にしていいよ』と手を離したときに、ちゃんと自己決定できるかどうかは、これからの世界を生きていくためにとても重要です。

“自由を育む”ってすごく難しいんです。でも、学校の先生になんでも任せてしまうのはやはり違うと思う。そう考えたときに〈ものかたり〉はアナザープレイスとしての役割を果たすこともあるかもしれません。学校が『これをやってきなさい』『今はこれをやる時間です』と決められたことをこなしていくことが求められる場所だとすれば、子どもが自分で自由に、自分の興味の向いたものを、ある日すっと手にできる場所。そういう自然な向き合い方ができるような場所として、ここにあり続けるのが〈ものかたり〉の役割かもしれません。

例えば絵本を入り口に、楽しんで読んでいるうちに、詩やデザインなど別のジャンルにいつの間にか関心を持つようになっていたとか、関心を持った一部分が実はこういう音楽とつながっていたのか!というようなことを発見できるとか、そんなことがここで起きてきたらいちばんいいんじゃないかと思っています」

 

編集協力:秋田県

土地の味覚と旬に出会える場所。 四季を味わう“まちの食卓”を作る。

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和食一筋の職人の道へ。
30歳を目前に転職

今年、33歳になります。地元は宮城県の田舎の方の生まれです。高校の調理コースを卒業しました。県内でも珍しく専門分野がある高校で、被服、保育もあって、調理コースは1クラス。男子はたった3人で、あとは全員女子でした。卒業後は、秋保温泉のホテルに日本料理の調理師として就職して、4年間ほど働いていました。

親方の紹介で東京へ拠点を移した後は、都内のホテルや懐石料理店で働いていました。けれど、30歳を前にして「そろそろいいかな」と思ったんです。日本料理とは違う世界を見てみたくて。ずっと裏方の仕事をしていたので、お客さんを目の前にして、料理を出すということがほとんどなかった。お客さんが見えないことで、誰のために作ってるんだろうと思い始めた時があって。料理長のために仕事しているのか、ただ店をまわすために働いているのか、なんでこの仕事をしているのかさえわからなくなってきてしまって。どうして料理人を目指したのか、そんな根本的な問いまで持ち始めてしまったんです。

自分の父親が板前だったので、小さい頃からずっと料理人になりたいと、それしか考えていませんでした。幼い頃からずっと憧れていた仕事について、ずっと真っすぐ思い続けて来た気持ちが、30歳を前にして初めて迷いが出てしまって。

ちょうどその頃、震災があって、僕は東京にいたんですが、何もできなかったという想いも強くありました。ただ料理を作るだけじゃなくて、もう少し人の役に立つような、貢献できる仕事ができたらいいなと思うようになったんです。けれど、レストランや料理屋では、まずお客さんに満足してもらうのが最大の目的だったので、そこからもう一歩先まではなかなか難しかった。

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ケータリングを通してみた、
いままで知らない料理の世界

東京の大きいホテルにいた頃、比較的自分の時間が作れる仕事環境だったので、Facebookで見つけた「CUEL」というケータリング会社で、料理の手伝いをしていました。板前の世界は専門性が高いこともあって、いつのまにか考えが似てきてしまう。だから、いままで会ったことがない人たちから外の話を聞けることはとても新鮮で、料理に対する考え方が変わるきっかけになったように思います。

ケータリングという仕事のおもしろさに出会い、仕事の休みの日には必ずヘルプの仕事を入れていました。お客さんのリクエストに合わせた料理提案と空間作りがケータリングの仕事ですが、毎回お客さんによって違うので新鮮で。人に合わせてメニューを考えるのもはじめてのことでしたし、現場に行って準備をしたり、サーブしたり、料理人が厨房から飛び出すなんて、それまでなかった経験なので、すごくおもしろかったですね。

ホテルの調理場で働きながらフードコーディネーターの学校に通って、スタイリングを勉強したり、週末にはケータリングの手伝いに行ってということを2年くらい続けていました。一度、転職したのですが、もっと仕事の幅を広げたいと思っていた時、フードデザイナーズネットワークの中山晴奈さんのFacebookで、「nitaki」のスタッフ募集を見かけたんです。中山さんは料理だけじゃなく、食にまつわるさまざまなことをしているのは知っていたので、きっとおもしろい食堂になるに違いないと、直感ですぐにメッセージを送りました。中山さんと会って、「すぐに来て欲しい」と言われて「じゃ、行きます」と返事をしました。

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未知の食材と向き合う
その土地ならではの料理

「nitaki」のオープンが4月1日だったのですが、前職のこともあり、すぐには引っ越しできませんでした。オープンに立ち会った後、一度東京に戻ってから、自分1人で来ました。その後、奥さんも2カ月遅れで山形へ。実は、猛反対されていたんですよ(笑)。奥さんには相談しましたけど、僕が押し切ったというか。仕事をやるなら、自分がやりたいと思えることをしたい。それにはもうここしかない、ほかにはないからと説得しました。

人の役に立ちたい。その気持ちが一番強かった。地元のためになる仕事ができたらいいなとずっと思っていましたし、もっと自分の料理を食べてくれる人に近いところに行きたかった。いまは、お客さんを目の前にして料理を作っていて、おいしいとか、来て良かったって言ってもらえるし、肌で感じられるのが素直にうれしい。料理人として、お客さんからの反応を見られて、おいしいって言ってもらえることが、一番うれしいことなんだなと改めて感じています。

もちろん、いい反応だけではないわけで。どこが良くなかったのかを見直しながら、いままでとは違う方法を考える。お客さん目線での考え方、技術の押し売りじゃなくて、お客さんに「おいしい」と思ってもらう料理って何だろうって考えるようになりました。まだ東北に貢献しているとかぜんぜん言えないんですけど、自分自身の気持ちのありようが変わったかなと。だからこそ、やっぱりここに来てよかったなって思います

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厨房からは店内の様子が見える。お客さんとの距離が近くなった分、料理に向き合うことが多くなったという。

料理人としてのこれから。
父の味の記憶を引き継ぐ

「nitaki」で扱う食材は、ほとんどが山形の地場のもの。食材の買い出しは自転車で産直へ。地物の野菜がたくさんあって、ほしい野菜を伝えると取り置きしてくれたりするんです。ほかにも、真室川という地域で伝承野菜を作っている農家「工房ストロー」があって、週に2回ぐらい直送してもらっています。その時に採れるいいものをとお願いしているので、何が来るかは当日までわかりません。届いてからメニューを考えています。

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伝承野菜ってどうやって食べるんだろう? どんな味なんだろう?とわからないことだらけなので、農家さんにおいしい食べ方を聞きます。作っている人に聞くのが一番ですから。「勘次郎きゅうり」は、生じゃなく火を入れるとおいしいよとか、煮ても煮くずれしないので、スープとかの具で使うとおいしいよと教えてもらったり。すごく色がきれいなので、ちょっと焼くとさらにきれいになったり。知らない食材を扱うのは単純に楽しいです。いままでの経験もフルに使えますから。

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買い出しに訪れる産直へは自転車で向かう。並ぶ野菜は季節ごとに違うため、野菜の旬を通して季節を感じる。

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とんがりビルの横にある八百屋さんにも地物の新鮮な野菜が並んでいるため、ちょくちょく顔を出しては、店主と野菜の話をするという。

もともと食べることが好きでした。父親は料理人でしたが、家では母が料理を作っていたので、“父親の味”の記憶がなくて。料理の話をしたこともないんですよ。それなのに料理を仕事にする父にずっと憧れていました。せっかく一緒の仕事をしているのに、会ってもお互い気恥ずかしくて。もっと話ができたらおもしろいのにと、いまになって思うようになりましたね。

父親が仕事から帰ってくると、手が生臭かったのをよく覚えています。でも全然嫌じゃなかった。自分自身が魚を触って匂いを嗅いだ時に、こういう匂いだったなって、やっぱり父親も仕事してたんだなって思いだしたり。木の芽の匂いを嗅ぐと、「もう春なんだな」って日本料理をやっていた頃を思いだします。料理って、匂いや見た目で記憶をよみがえらせるもの。この食堂で出している料理も旬のものを扱っているので、移ろう四季に合わせて変化していきます。

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旬の地物野菜を使った人気のnitakiプレート1000円は日替わり。この日は、真室川の伝承野菜「八角オクラ」を使ったサラダを含むお惣菜が6種と、山形産の白米「さわのはな」、具沢山のお味噌汁つき。

これからは生産者さんに会いに行くとか、外に出たり、食材についてちゃんと勉強したい。自分が調理したものを食べていただき、おいしいねって言葉をもらうまでが料理だって思っています。若い頃は作るだけで楽しかった。いまはその先ですよね。食材がどういうふうに育っていて、どういう人が作っているのかが気になります。だから、山形に来てからというもの、時間がぜんぜん足りないんですよ。

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心と体で学ぶ、人生にとって大切なことvol.02| 大人も子どもも田んぼで育つ。 今日からここは「野育園」

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田んぼをオープンソース化することで
農家も外に開かれていく

菊地晃生さん(以下、晃生さん) 「〈野育園〉というのは、もともと僕が自分の子どもたちとのあいだで使っていた呼び名です。我が家では子どもたちを、小学校に入るまでは家庭で見ることにしたんです。我が家は農家なので、必然的に子どもたちを連れて、田んぼに出ていました。当時長女・ひなたは3歳、次女・つきは1歳。最初はずっと見ていないといけなくて、田んぼの作業をしながらそれは結構大変で。毎日田んぼに連れて行っていても、興味を持って自分から田んぼに入ることなんてなくて、足に水がついただけで、びえ~っと泣いていたり。ただ連れていくだけでは、ダメなんですよね。泥で遊ぶ、木の実を採ってみる、水に触れてみる、そういう体験を何度も繰り返して、初めて『自然は楽しい』ということがわかるというか。遊ぶという体験を通してでないと、わからないことがあるんだと思うんです。こうやって子どもたちと田んぼで過ごしている様子をフェイスブックにアップしていました。そうしたら『うちの子どもにもやらせたい!』という反応を多くいただいたんです。

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僕は当時、「自然耕塾」という名前で勉強会も主催していました。自然耕で農業を営む次世代の人たちが育ってくれればいいなという思いをこめて始めた、自然農のための専門的な知識を身につける塾だったので、そこでは自分の子どもたちが走り回ったり、子どもの笑い声が聞こえることはNGにせざるを得ない。もっと子どもたちも参加できるかたちにシフトチェンジしよう、と思い立って、始めたのが〈たそがれ野育園〉です。田んぼ自体をオープンソースとして開くことで、自分自身も場として開かれるようなイメージを持ちました。田んぼ自体の目的の変更ですね。そういうことのなかに、子どもをそこで育てる、子どもの自然体験と農体験というのが要素として入ったわけです。

農業に携わっていると、田んぼが次第に生産工場のように見えてきてしまって、人が集うっていう目的なんて実はなかなか考えられないんですよ。でも、こうして設計変更することで、田んぼの可能性がもっともっと見えてくるのではないかと思ったんです」

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「あの一粒が、こんな風に実ったんだよ」
生き物のパワーを感じてほしい

晃生さん「それで、〈たそがれ野育園〉のメンバーには、自分で自由に区画を決めてもらって、一年を通してその田んぼの土作りから苗床づくり、雑草取りなどすべての行程をやってもらうことにしました。僕は農家だから、代わりにやってあげることはかんたんなんですけど、それをやらない、と決めたんです。それは子育てと同じですね。〈たそがれ野育園〉ではやるもやらないもその人次第。それなりに手を抜けばそれなりの収穫量になるし、でも隣の区画の人が足しげく通って、まめに草取りをしていれば、ああ、うちもちゃんとやろうと思えたり、余裕があれば、ほかの人の田んぼまで手伝って草取りしてあげるような共助の精神が生まれたり。菊地家の田んぼを手伝っている、という感覚ではなくて、『うちの田んぼ、大丈夫かな、見に行かなきゃ、手入れしなきゃ』という感覚になる。それはプチ農家というか、農家の感覚そのものなんです。そういったことまで伝えられたらいいなと思っていました」

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菊地みちるさん(以下、みちるさん)「〈たそがれ野育園〉を始めるにあたって、単なる稲刈り体験のような形で終わらせたくないよね、という話を夫としました。田んぼの作業は田植えと稲刈り以外の部分が圧倒的に多い。〈たそがれ野育園〉に来てもらう方たちには、ぜひ自分たちで田んぼのすべてに関わってもらえるような場所にしようと。種まきからお米を収穫してお米の袋に詰めるまでの生き物の一生を見てもらえれば、というふうに思っていましたね。農家と同じように、あの一粒がこんな風に実ったんだよ、というあのパワーを感じてもらえるはず、と」

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みちるさん「それに、保育園でも、学校でも、家庭というコミュニティでもないところで、年齢の違う子どもたちがたくさんやってきてくれるのも、なんだかいいなって。我が家の子どもたちは3人姉妹なので、〈たそがれ野育園〉に来てくれる男の子たちの遊び方がとても新鮮だったりするみたいです。うちの田んぼには裏山があるんですけど、山登りがすごく上手な子どもがいたり、ヘビを平気で触る子がいたり。そうやっていろんな子どもたちがやってきて、いろんなところを探検したり、木の実を潰しておままごとをしたり、いろんなことを一緒にやってみる。それはうちの子どもたちにとっても大きな学びになっています」

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もっとみんなが田んぼに関われるようになれば……
不耕起栽培は“自給力”を養うのに向いている

晃生さん「僕はもっとみんなが自分でお米が育てられるようになってほしいんですよ。1990年に400万人だった農業従事者が2015年に200万人を割ったんです。25年で半減です。これは、今後加速度的に20年や25年で限りなくゼロに近いところまで行きかねないペース。日本中の田んぼが耕作放棄地になっていくというどうしようもない現状があって、そういうこともみんなで考えていきたいというのが裏テーマでもあります。

例えば、行政が耕作放棄地を買い取って、全員に配るなんてこともあってもいい。“皆農”システムです。会社員でも、1日何時間は田んぼにいく、などという新しい農の形態が必要だと思うぐらいです。すべての人が田んぼを少しずつ持つことって、50~60年前では当たり前だったので、そんなにバカげた話ではないですよ。自分が1年間食べるお米が穫れる田んぼ。一反歩あれば多いです。300キロもとれちゃったら余るので、それを3家族で分業しながら自給するということもできると思うんですよね」

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晃生さん「不耕起栽培のメリットは、トラクターなどの大型機械を入れずに、すべて手作業でできるところです。体と鎌などのちょっとした道具さえあればできるという原始的なスタイルですけれども、まずそこからはじめるんだったら普通の人でもできる。そういう自給する能力をつけるのも、〈たそがれ野育園〉が目指していることの一つです。

〈たそがれ野育園〉の活動を始めて3年目の今年は、参加者は20組50名になりました。作業日には、もみがらを燃料にしてご飯を炊く「ぬかくど」でご飯を炊いて、メンバーにはおかずを一品持ち寄ってもらうというスタイルで続けてきましたが、お昼に炊くご飯の量も今は三升になりました。ご飯をおいしそうに食べてくれるこどもたちの笑顔が見られるのは僕らにとって、大事な心の栄養になっています。

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うちは田んぼも畑もあるので、〈たそがれ野育園〉のメンバーがやってみたいと思ったことはどんどん挑戦してみよう、と話しています。実際、有志で始まった藍と綿花の手しごとクラスでは、藍の栽培から煮出し染めを中心とした染色の挑戦と、綿花の栽培からの綿繰りと糸紡ぎまで。マメミソクラスではリュウホウという秋田の大豆の種まき、草取り、土寄せから収穫後の脱粒と乾燥、そしてうちの米を使っての麹づくりと味噌づくりまで。路地野菜クラスではジャガイモの栽培を行いました。たんぼや暮らしは、一人で行うことでなく、たくさんの人の知恵やアイデア、想像力、結束力でもっともっとおもしろく、楽しく、美しくできるのではないか、ということも〈たそがれ野育園〉を通して実感しています。

自分でもできる、もっとやってみたいという感覚を育てるのは子どもに限らず、大人にも当てはまるかもしれません。僕ら家族も含めて、そういうふうに大人も子どもも一緒に育つのが〈たそがれ野育園〉だと思っています」

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生き物がいっぱいいて、
子どもの笑い声する田んぼを、未来につなぐ

晃生さん「田んぼは祖父から譲り受けたものです。もともとは北海道でランドスケープデザインの仕事をしていましたが、祖父が交通事故にあったのを機に秋田に戻ることにしました。」

みちるさん「私は愛知県の出身で、夫とは大学時代にやはり愛知で知り合いました。家具製作の技術職として働いていましたが、結婚を機に秋田へ。夫が就農する前におじいちゃんも亡くなってしまったから、農業を誰かに教えてもらうということがなかったんです。結婚も、農業も同時に始めているから、暮らしそのものが農業というか、自分たちで手探りでやっていくしかないねという形で始めて。だから毎日が実験ですよね(笑)」

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晃生さん「僕らにとってはそれが良かったのかもしれないです。今の畑作化した田んぼでは、大型機械を入れるために乾かした田んぼにして、土に養分がない分、化学肥料を補って、病気が出たりすればそれを薬で対処すればいいというふうなやり方なんですけど、そういう近代農法の結果として、ヨーロッパやアメリカなどでは土地が砂漠化している事例もあるほど。そういうやり方は未来に何も残さないのではないか、と危惧しています。

近代農法は人の手がいらないんです。だから、田んぼに人の声がしない。僕らがかつて美しかっただろうと思う農村は、秋田出身の舞踏家・土方巽が見たような、田んぼの脇で笑っている人たちがいて、その隣で酒を酌み交わす人がいて、という明るい農村じゃないですか。そういうものがなくなっていくことの不安があります。僕が子どもの頃だってそういう風景はなかったんですから」

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みちるさん「農家ってね、意外と孤独なんです。私も最初はそんなイメージはなかったけれど」

晃生さん「特に近代農法はそう。農業をやっている若手なんて数少ない仲間しかいないんです。だから僕自身がコミュニティがほしかったということもあると思います。昔は家族みんなで助け合って、子どもたちだって忙しいときは田んぼの手伝いをやっていたんでしょうけど。でも、大勢いるって楽しいじゃないですか。子どもがそこらじゅうで駆け回っている田んぼ。そういう風景を再生したいけれど、今、農村には人がいないからできない。だったら地域の枠を越えててでも、新しいコミュニティのあり方を模索しなきゃいけないんじゃないかと、真剣に考えた結果が、不耕起栽培であり、〈たそがれ野育園〉だったんです」

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愛とは、相手のために
時間をムダにすること

みちるさん「私たち夫婦と、子どもだけではじめた〈野育園〉も、最初の1年間は試行錯誤の連続でした。子どもたちを家で見ると決めたはいいけれど、仕事と子どもたちと過ごす時間のはざまでせめぎ合いがあったと記憶しています。親にとっても、子どもにとっても、ですね」

晃生さん「日々の仕事と子どもたちとの時間との間で気持ちも交錯する日々でした。田んぼにいるときに、たびたび『お父さん』って呼び止められたり、見守っていなきゃいけないことが多くて、やらなきゃいけない作業が全然進まないときもあるんです。〈たそがれ野育園〉を始めてからは、子どもたちと一緒に過ごすために時間を使おうというモードに自然となってきました。農家としての田んぼの仕事は休みだけど、いつもと同じように田んぼにいて、子どもたちと過ごしている時間が〈たそがれ野育園〉なんだって思えるようになってきました」

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みちるさん「子どもが思い切り遊べるようにしてあげるためには、親も大変ですよね。『汚すなよ~、汚すなよ~』と思っているところにぴちゃっとやられると、はぁ~とため息の一つもつきたくなりますけど、田んぼにいるんだから、汚れるのは当たり前。最初はちょっと気にして『風邪ひくよ』なんて声をかけたりしていたこともあったんですけど、それって自分の都合だったなって。もうね、洗濯とか、後片付けとか、そういうあとのことは考えない!(笑) 子どもたちに対しても、『行け』って思うように気持ちを切り替えました」

晃生さん「辻信一さんが『星の王子さま』の一節を引用して、『愛とは相手のために時間をムダにすることだ』とおっしゃっていたのを講演会で聞いたことがあります。

子どもたちは、ずっとおんぶしていなきゃいけない状態から、少しずつ距離がとれるようになってきて、自転車に乗るようになったらそれが楽しくて、もう親の姿が見えないことなんておかまいなしになるんです。もう今は僕の姿が見えるとイヤだとまで言う(笑)。そういうふうにして親と離れていくんだろうなというのを見るのは、おもしろいです」

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みちるさん「『見て見て』というのが、だんだん遠くなってくるんですよ。最初は近くで何度も『見て見て』『うん、見てるよ』というやりとりだったのが、だんだん遠くから『見て見て!』というようになって、それが次第に『見ないで!』に変わっていって。『大人は見ちゃダメ、こっちは子どもしか入れません』というように、自分たちの世界を作っていく」

晃生さん「〈たそがれ野育園〉は我が家にとっては小さい社会でもありましたし、子どもたちとの幼少期の濃密な親子の時間にもなりました。長女・ひなたが今年から小学校に入ったので、新しく学校というコミュニティができて、別の世界や遊びがあるということを知って、田んぼ以外のものにも興味が向いている様子もあるんですが、僕はそれでもいいと思っていて。小さいころに田んぼで泥だらけで遊んだとか、そういう記憶だけ残ってるだけでも意味があると思っています。将来的に、子どもたちが成長してからも、子どもたちが興味を持てる何かを見つけられる場でありたいなとも思っていますが。

農業をやっていると、暮らしと仕事ってまったく一緒なんだと感じます。家のことも、仕事のことも、子育てのことも、百姓の仕事のうちの重要な一部であるという認識ですし、お米や農産物を育てるということも、農業をやる現場や消費者とつながる場が変容していることや、〈たそがれ野育園〉という場を開いていることも、全部同列で大事だと思っているんです。現代の百姓としてフェイスブックもやるし、東京出張もある。その出張にはぬかくどと杵と臼を持っていったりするんですけどね!(笑)」

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編集協力:秋田県

移動しながら見えるものを大切に。 山伏として、いまの暮らしを考える

人と自然から生まれた文化を
伝えるお店「十三時」 

お店に並ぶのは、人と自然のかかわりのなかで生まれてきたもの。たとえば「カゴ」。いまお店に並んでいるのは、ボルネオ、九州、千葉で実際に使われていたもので、ほかにも雪のなかで歩く「かんじき」や「草履」もあります。

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商品を見て「これって何ですか?」と聞かれることも多いですね。猟師さんに譲っていただいたイタチや熊の毛皮、大峰山に転がっていた鹿の頭蓋骨、そしてこれは熊の背骨。誰に見せるわけでもなく、個人的にずっと集めていたもので、こうしてお店というかたちで人に見せるのは初めて。僕がいままで旅して集めてきたものなので、1点ものが多くて、その時にしかないものが結構あります。なかには売り物じゃないものも……。

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坂本さんがお店の奥から出してきてくれた、冬虫夏草を研究していた米沢市在住の故・清水大典さんの絵。ネズミのヒゲを使った自作の筆で描かれているという。お店のあちこちに貴重な資料が大切に保管されている。

坂本さんがお店の奥から出してきてくれた、冬虫夏草を研究していた米沢市在住の故・清水大典さんの絵。ネズミのヒゲを使った自作の筆で描かれているという。お店のあちこちに貴重な資料が大切に保管されている。

お店を持とうと思ったきっかけは、こうした山の文化を伝えたかったから。山形で暮らしているうちに、だんだんと暮らしの技術や山の知識がついてきたので、いつか何かの形でアウトプットしたいなと思っていました。いま自分が拠点にしている月山の周辺は、限界集落みたいなところも多くて、山の文化がなくなってしまう前にどうにかしないといけないなという気持ちもありました。

坂本さんは時間があれば、山に入る。カゴを肩から下げ、迷いなく、ずんずんと奥へと分け入って行く。自分で作った小屋で仕事をすることも。

坂本さんは時間があれば、山に入る。カゴを肩から下げ、迷いなく、ずんずんと奥へと分け入って行く。自分で作った小屋で仕事をすることも。

かつて「奥参り」という文化があって、昔、「西の伊勢参り、東の奥参り」といわれていたんですが、出羽三山は、たくさんの参拝者が訪れる場所でした。でも、いまはそういうことを山形の人自体も忘れてしまっています。そういった豊かなものが眠っている場所に、いまはお年寄りしか住んでいなくて、もう地域が無くなってしまう寸前にまできているんです。そうなってしまったら、山の文化や自然との関わりのなかで生まれて来たさまざまなものがついえてしまう。その波にどうやったら対抗できるかと考えた時、やっぱり経済だと思ったんです。山にずっと続いてきた文化を、経済的な価値に変化させる場所を作ってみたくて。

わらじを編むおじいちゃんがいるんですが、ものすごく高い技術を持っていて、普通の人がやると3〜4時間かかるのを、そのおじいちゃんは10分やそこらで作っちゃう。でも、1個作っても400円くらいにしかなりません。技術があっても、それがお金にならないとやる人がいなくなりますし、後継者も生まれない。そうした問題をどうにかお金に換算できる仕組みづくりを、実験的にやってみたいんです。

まるで博物館のような店内。さまざまな道具や民俗学などの本が並ぶ。立ち読みは自由。「nitaki」の店内で読んでも構わないという。

まるで博物館のような店内。さまざまな道具や民俗学などの本が並ぶ。立ち読みは自由。隣の食堂「nitaki」の店内で読んでも構わないという。

山伏なのに「店なんかやって」と言われたりすることもあります。昔の山伏は、「半聖半俗」と言って、聖は山、俗は世間のことですが、その間を行ったり来たりしていました。山にいながら、里にも下りて、山と里を行き来しながら、自然と人を結びつけていたんですね。たとえば、山のものを里のものと交換したり売買したり、市場の原型のようなものを始めたのは山伏ですし、山伏は物流や貿易にかかわりを持っていました。さまざまな所に移動しながら、薬草や珍しいものを交換したりもしていました。「富山の薬売り」は、立山修験道の山伏と関係が深いといわれています。

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また、出羽三山にお参りに来る農家の人たちは、宿坊に集まり、自分たちの種を持ってきては良い種と交換したり、農業の情報交換をしたりしていたそうなんです。山伏や山の文化というのは、そういったある種のメディアとして情報伝達の機能が生まれる場所であり、そこでは知恵の交換が行なわれていました。僕もお店でいろんなものづくりのワークショップをやっているんですが、カゴや縄編みなど、「自分たちのところではこういう編み方もやっているよ」と教えてくれたりして、いまに生きた知恵の交換が行なわれています。

かつての山伏のように、
何でもこなしていく

千葉で生まれ育って、東京でイラストレーターとして活動していました。いつしか山伏の文化っておもしろいなと思い、山形に通うようになったんです。山の文化や手仕事、自然のなかで生きていく技術や知恵を学びたくて、山形に住みたいと思うようになりました。肘折温泉にある「つたや旅館」の柿崎雄一さんに相談したら、「うちの屋根裏部屋使っていいよ」といわれて居候することになって。山形に住んでから結婚することになり、去年、子どもも生まれました。

静かで美しい晩秋の山の風景。山にはいろんな知恵や物語がいまも残る。だからこそ、絶やしてはいけないと坂本さんは考えている。

静かで美しい晩秋の山の風景。山にはいろんな知恵や物語がいまも残る。だからこそ、絶やしてはいけないと坂本さんは考えている。

出羽三山で修行している山伏なので、山形は僕にとって大切な拠点のひとつです。けれど、仕事で移動することが多いので、いまは山形に住みつつ、実家の千葉と日本各地を移動するのがおもしろいですね。子どもがもう少し大きくなれば、一緒に連れて行けるなと思っています。山伏も昔はいろんな場所に移動していたそうです。いまみたいに短時間では移動できないので、歩いていたので大変だったと思いますが、いまは安く、早く動ける時代だからこそ、移動することに抵抗はないですね。

決まった仕事があるわけではないので、生業は何かといわれると困るのですが、雑誌や新聞に原稿を書いたり、「アカオニ」と一緒に仕事をする時は、絵を描いたり版画をしたり。最近は写真も撮っています。今年は、芸術祭や美術展で、ダンスの公演をやったりも。もちろんお店も運営しています。

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実は、昔の山伏も、いろんなことをやっていました。たとえば、山に入ったら、わらじを編めないと困りますし、お祭りがあれば芸能もやります。僕は自分が興味あることを、これまでの山伏たちの生き方と同じようにやっているだけ。山伏だったら当たり前のことなんですが、現代だとユニークに見えるかもしれません。

出羽三山には、信仰や狩猟の文化、土地に伝わる生活の技術が残っていて、いまもその土地の暮らしに影響を与えています。けれど、そこだけにずっといると見えないことがある。

たとえば、注連縄は、僕の住んでいる地域だと作る人が決まっています。だからほかの人が作ってはいけないという人がいる。けれど、違う地域では、地元の人が集会所で作っていたり、誰でも作れるんです。そういう文化の違いを知ることで、自分はどういう選択をしていけばいいのかを考えることができます。自分が生きて行くなかで、もしくは自分の子どもたちに何かを伝える時に、どういうふうに伝えればいいのか、僕なりに答えを出すためにも、いろんな角度から物事を見たいんです。

朝露に濡れた木の葉の下にはきのこが。同じ山でも、山に入るたびに変化があり、発見がある。同じ風景はないからこそ、飽きることがない。

朝露に濡れた木の葉の下にはきのこが。同じ山でも、山に入るたびに変化があり、発見がある。同じ風景はないからこそ、飽きることがない。

僕にとっていろんなことをやることも、いろんな場所に移動することも、自然なこと。山形はおもしろくて学ぶべきことがまだまだありますが、これからももっと移動していきたいと思っています。

土地に根づく文化を
責任を持って引き継ぐこと

僕は自分が文化の継承者だとは思っていません。ある面から見れば、壊してるといえるかもしれない。山伏はかつていろんなことをやっていました。だから僕にとっては、雑誌に原稿を書くことも山伏的な仕事だと思っています。でも、いま現在の山伏の人たちからみれば、かなり異端なのかもしれません。そういう人たちにとって僕は、破壊者なわけです。僕が山伏のはじまりの姿に戻りたいと思っておこなっていることが、違う山伏からみれば破壊と捉えられてしまう。とても難しい問題です。

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時代によって、文化のかたちは変わっていくもの。けれど、表面的に変わっても、根っこの部分というのは変わらないものがあると思っています。時代によって変わりながらも、その中から変わらないものをどうやってつかみ取るか。それが自分のテーマでもあります。昔からこうだったと言うだけじゃなくて、自分はこう思うということを必ず添えたいと思っていて。情報がさまざまに氾濫している時代なので、後世の人たちを惑わせてしまわないようにと考えています。

文化って単純にずっと続くものではなくて、時代によって新たに生み出していかないといけないと思っています。文化の根源にある普遍的なものは変えずに、表面を時代に合わせて変えていく、そうでないと力が生まれないし、続いていかないですから。単なる継承者じゃなくて、新たな文化を生み出す力強さを持ちたいと思っています。ただ、その時々の人が都合良く文化を隠したりごまかしたりすることはあってはならないことです。いまは経済的な理由や力を持った人たちの都合で文化が隠されて、過去と断絶させられてしまうことが多いように感じています。変える時にはきちんと「自分はこう思うからこうしたんだ」と署名をする。それが、僕がやっていることの責任を負うことだと思っています。いままでのこうあるべき、みたいなものから逸脱していると、型破りに見えるのかもしれません。けれど、昔にはいまとは違う山伏の生き方がありました。そうしたことを伝えていくためにも、僕なりのやり方で山伏を引き継いでいきたい、そう思っています。

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ブラジルから浜松へ。 言葉も文化もかけ離れた地で 木工作家になるまで

ブラジルから静岡へと
移住してきた10代のころ

静岡県は、日本で2番目に在日ブラジル人の多い地域だと言われている。その静岡県の中でも、ヤマハやホンダなどの生産拠点でもあった浜松市や磐田市には、特に多くのブラジル人たちが暮らしていた。
その背景には、ブラジルの経済が悪化した1984年頃、日本ではバブル景気の真っ只中であったため、日本への出稼ぎブームが起こったこと。そして、ブラジル国債がデフォルトした1990年には、日本で「出入国管理及び難民認定法」が改正され、日系2世の配偶者やその子ども(日系3世)に、新たな在留資格が与えられたことなどがあった。けれども、2008年のリーマンショック以降、日本におけるブラジル人の人口は、年々減り続けている。

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工房の入り口。母屋の脇に、キャンピングカーの姿も。

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工房のキッチンに並ぶ、ロベルトさんの木の器たち。実際に使ってテストを繰り返す。

木工作家の湯浅ロベルト淳さんの工房は、浜松市の天竜区にあたる山間にあった。自分で少しずつ手を加えていったという古民家の縁側は見晴らしよく、その向こうには鬱蒼とした森が広がり、味わいのある木の壁に囲まれた居間では、ロベルトさんがつくる木の食器や小物がよく映えていた。その雰囲気からどことなく、ロベルトさんにはブラジルの血が少し入っているようにも見えたけれど、聞くと「両親ともに日本人。生まれ育ったのがブラジルだからかな。ハーフと言われることが多いんです」と、微笑んだ。

お父さんは高松、お母さんは青森出身。両親は、ともに日本からの移民としてブラジルで出会い、結婚をした。そしてロベルトさんは、日系ブラジル人二世として、サンパウロで生まれ育った。
「ずっと日本のことは、ただ遠い異国としか思っていなかった」というロベルトさんが高校を卒業したころ、ちょうどブラジルでは日本へ移り住む人が増え始めたところだったという。

「先に日本へ渡っていた従兄弟から、『日本はいいところだよ』という話を聞いて、なんとなく気軽な気持ちで日本に行くことを決めたんです。その当時はまだ若かったから、親元を離れてみたかったのもあって、1年くらい働いてお金が貯まったら帰るつもりで……。それが90年の3月のことでした。でも、実際に日本に来てみると、初めてのひとり暮らしで、給料もきちんともらえて自由に使える。それがもう楽しくて、いつの間にか帰らなくてもいいかなと思うようになっていました。当時はスズキやヤマハの工作機械をつくる仕事をしていて、もともと子どものころから何でも自分でつくるのが好きだったので、溶接、旋盤、組み立て、メンテナンスまで、僕にとってはどれも楽しい仕事だったんです」

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母屋のすぐ隣にある、離れの作業小屋。

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作業小屋の中には、少しずつ揃えていった木工機械が並ぶ。

受け身ではなく、自分の力で何かはじめよう

何かを手作りすることが好きになったのは、お父さんが看板屋さんだったから。学校帰りにお父さんの仕事場へ行き、機械を借りて木を切りおもちゃをつくるのが大好きな時間だった。
日本で働き始めて10年ほどが経ったころには、派遣から正社員になり、そのまま続けていくつもりだったのが、2008年にリーマンショックが起こり、ロベルトさんは会社から突然自宅待機を言われてしまう。
「一年間は、自宅待機でも給料がもらえるということでした。だから、いつよくなるのかわからない景気の回復を待つよりも、自分で何かを始めようと思ったんです」。
そうしてロベルトさんは、子どものころから興味があった木工を自分で調べながら独学を始めることにした。

「でも、形あるものを作れるようになるのには、結構な時間がかかりました……。最初は流木を使った大きな家具を作ったりしていて、本当は家具職人を目指したかったのだけど、それにはしっかりとした設備も知識も必要だったし、その頃には結婚して子どももいたので、大きなリスクを背負うことはできなかった。それで必然的に、小さな暮らしの道具を作るようになりました」

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木の葉をモティーフにした箸置きは、人気のアイテム。

バターケース、器、スプーンと、身近で毎日使えるもの。きめ細やかな木彫りのテクスチャーはとても手触りがよく、バターケースは蓋の丸みと木彫りの風合いを丘に見立て、その丘の上に小さな家を付けた。そんなさり気ないあしらいがロベルトさんの作品らしさでもある。最初は地元の小さなクラフトマーケットに出店することからはじめ、徐々に日本各地のマーケットへと足を伸ばすように。そうして少しずつ評判が評判を呼び、イベント側からも声がかかるようになっていった。今では、お店からのオーダーも加わり、制作が追いつかないほどめまぐるしい毎日を送っている。

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本文中にある、ロベルトさんのバターケース。丘の上に建つ家がイメージされている。

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「初めて出店した時は、2010年ごろだったので、まだ今のようにたくさんクラフトマーケットは存在しなかったんですけど、ここ5〜6年でずいぶん増えました。実店舗ではなく、マーケットで売りはじめてよかったと思うのは、お客さんのリアクションがダイレクトにもらえるということです。以前に買ってくれたお客さんから意見をもらったり、SNSで僕の器に料理を載せてアップしてくれているのを見ると、『もう少し微調整してみよう』『もっとこういうものを作ってみよう』と、より使いやすく進化させていくことができる。何より、ずっと使い続けられるものを作れないと、この仕事は続けていけないと思っているんです。だからこそ、作っては実際に使ってみて、意見を聞いて、更新していく。実はそれも、僕にとっては楽しい作業なんです」

実店舗を持たないというスタイルは、何かに縛られず、より自由に生きていくための、ひとつのあり方。企業が行うようなマーケティングも、売ることと同時にできてしまう。顔の見えない誰かに向かって物を作る不安定さよりも、ずっと風通しが良さそうに見えた。

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オーバルボックス、木彫りや漆塗りの器、カトラリーなど、作品の種類も豊富に揃う。

「それに、マーケットに出店し続けているもうひとつの理由は、旅ができるから、というのもあります。いつもキャンピングカーに乗って行くんですけど、会場では僕と同じようなクラフトマンたちがいて、夜になると車に集まってみんなでお酒を呑むんです。それも楽しみのひとつになっています。それに、こうして地方へ頻繁にでかけるようになってはじめて、浜松という土地の良さを実感することもできました。雪も降らないし、海も山も川もあって、いい風が吹く。この気候や環境が、浜松の人たちの穏やかさとつながっているのかもしれないとも思います。田舎暮らしがしたい人にとっては、とてもいいバランスの環境なんじゃないかなと、少し自慢に思っていますね(笑)」

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今では、どこでも暮らしていける

「今ではもう、ポルトガル語をちょっと忘れつつある」と笑うロベルトさんに、ブラジルに帰ろうと思ったことは一度もなかったのかと訊いてみた。

「もちろん、若い頃はありましたよ。言葉の壁も大きかったし、何より国民性がまるで違っていましたから。よくしてくれる人もたくさんいたけど、言葉が通じない分、差別されているのかもしれないと勘違いしてしまうこともあった。そうなると被害妄想が止まらないんですよね。今思うと、なんてことないようなことばかりなんですけど(笑)。ブラジル人は、日本人のように迷惑をかけちゃいけないとか、時間を守らないといけないといった気の遣い方はあまりしないんですよね。でもその分、周りの目を気にせず自分を自由に表現できる明るさがあって、おおらかで誰とでもすぐに友だちになれる。どちらにもいい部分はあります。

でも、日本に残ろうと強く思ったのは、子どもができたからでした。子どもにとってブラジルの環境は、治安という意味でとてもハードですから。そうした側面から見れば、日本は本当に安全で楽しい国だと思います。

以前は、ブラジルから出稼ぎで日本に来て、稼ぐことが目的だから休みの日にも遊ぼうとせずに、ブラジルに帰ってしまう、というような話も聞くことがありました。休みの日にちょっと出かければ、日本にはいいところがたくさんあるのに、それを知らずに帰ってしまうのはもったいことだなと……。でも、今ではすっかり日本に馴染んで定住するブラジル人も増えてきているそうです。

僕自身のことで言えば、こうして日本という文化のかけ離れた国で26年も楽しく暮らすことができたんです。いつか子どもたちが大人になって独立した時には、日本ではなくても、どんな国でも暮らしていけるだろうと、漠然と思っています。何事も行けばなんとかなる、という自信がついたのだと思います」

新しい縁を深めて生まれる “もうひとつの故郷”

人とつながることが
日常の中に組み込まれている

金木犀が香る、小雨が降る週末の土曜日。普段着姿の人たちが行き交う宇都宮駅には、休日のゆるやかな時間が流れていた。この街は、人と出会える場がとても多い。週末になると広場や寺など街のいたるところでイベントが行われている。駅を降りればジャズコンサートが行われていたり、商店街に隣接するイベントスペースであるオリオンスクエアからは、カラオケを楽しむ老人たちの歌声が聞こえてきた。ひと月前はビアフェスティバルが開催されていて、取材で訪れた私たちもついつい夕方からビールを愉しんでしまった。この広場を自由に活用している人の姿は、いつも大きなエネルギーが漂っている。

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この日、平田さんと待ち合わせした場所は、中華料理店「芳香(ほうか)」。行きつけの店だというこちらは、創業40年ほどの老舗中華店で、平田さんが滞在するシェアハウス、カマリビから歩いて5分ほどにある。暖簾をくぐり扉を空けると、なんとも芳ばしいゴマ油の香りとジュージューという調理している音。そして、人懐っこい笑顔で平田さんが迎えてくれた。

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平田さんお薦めの揚げ餃子とスタッフののりえさん。芳香の料理はすべて、カマリビメンバーのソウルフード。

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ひと口食べると忘れられない、麻婆チャーハン。もう一度宇都宮を訪れたくなる味。

「これ!本当に美味しいんです。熱いうちに食べてください。この揚げ餃子はマヨ胡椒で、焼き餃子は酢胡椒で。のりえちゃん。黒こしょうもお願いね!」

こんな風に、店のスタッフの女性を“のりえちゃん”と呼び、仲睦まじい姿が印象的だった。

平田さんが初めて宇都宮に来たのは、約9年前。前職の仕事の関係で何度も訪れ、1年ほど住んでいたこともある。平田さんにとって宇都宮は働くために訪れる街。5年前、地元千葉の知人から「宇都宮でシェアハウスを始める友人がいるから会うといいよ」と、今のカマリビのオーナー・林さんを紹介してもらう。2年後にカマリビがオープンしたことを知り、改めて林さんに会いに行った。その時に出合ったのがカマリビの住人である後呂孝哉(うしろたかや)さん。こうして、カマリビの住人たちと平田さんのつながりが生まれていく。

「私は、料理を通して人と人をつなげることがやりたくて、5年前に地元千葉で『ひらたばー。』をはじめたんです。最初は、友だちを招いて手料理を食べてもらっていたのですが、それでは物足りなくて、友だちのアーティストを招いたり、生産者を紹介したりとテーマをたてて広げていきました。そうすると、友だちから友だちへと、興味を持つ人たちが集まり、私の知らないところで輪が広がっていったんです。そんな風に人と人が自然とつながって行くのを見ているのが楽しくて。

カマリビで開催しているイベントは、後呂くんが中心になって企画していました。ある時、私がやっている『ひらたばー。』をカマリビでやらない?と、誘ってくれて。それをきっかけに、カマリビの人たちとより深いつながりができて、私は頻繁に宇都宮に遊びに来るようになったんです。

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料理上手な平田さんがカマリビの住人に料理を作ることも多いそうだ。

カマリビのメンバーだけで遊ぶのももちろん楽しかったのですが、イベントでは、新たな人とのつながりが生まれる。自分たちだけで終わるのではなく、外に広げていくカマリビのみんなとイベントを企画することが楽しくて、今年に入ってからはほとんど毎週末宇都宮に通っていましたね。それならばここをもうひとつの拠点にしようと、6月から部屋を借りることにしました」

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春にはカマリビ近くの小川で川床が作られみんなでお花見ができる。

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カマリビの共有スペースには数々行われて来たイベントの写真がたくさん貼られていた。

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住んでみて気がついた
宇都宮の人たちとの心地よい距離感

「今までイベントをいくつか開催して来ましたが、最も印象的だったのは “流しそうめん”。1本が6メートルのロングそうめんを流して食べる。イベントの企画を立ててから、必要な人・モノをさがすために、周りのつながりを駆使して人を誘いました。友だちに軽トラとチェーンソーを借りて、知り合いに竹やぶを紹介してもらい竹を切り、製麺所の社長に6メートルの麺を作ってもらって。知り合いを通してつながると、誰でも快く協力してくれる。そんな人との距離感もこの街の良さなんです」

数々のイベントを企画し、学園祭前夜のような週末を送る中、平田さんとカマリビがつくる輪は宇都宮餃子会の事務局長さんや市の職員さんまで広がっていく。イベント企画を通じて、出会った街の人々は、損得ではなく、もちまえの能力を生かし、喜んで参加してくれる。その懐の大きさに驚くばかりだった。

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近所にオープンした店の内装がすごかった!とジェスチャーを交えて報告するカマリビの仲間たち。

カマリビ発のイベントの輪はひろがり、上海、インドネシアまでつながっていった。そうやって、どんどん輪が広がっていっても、平田さん自身のイベントに対する想いは変わらない。

遊びの場で、新たな人とのつながりが
生まれるよろこび

平田さんが宇都宮で実現したかったことは、“大人数が一つの場所に集まって、みんなで本気になって遊び、楽しみの時間を共に過ごすフェス”。水面下で考えていた願いは、ある理由から派生して、実現されることに。

この10月、後呂さんが宇都宮を発つことに決まった。

「 宇都宮でたくさんの人が参加できるフェスができたらいいなってずっと思っていたんです。後呂くんの送別会をしようか考えた時、『フェスにしたい!』って思って。お別れではあるけれど、テーマは“前向きな後呂(うしろ)フェス”。私たちの馴染みの場所であるオリオンスクエアで、最後にみんなで集まって後呂くんを驚かせたくて」

平日は東京で働き、千葉へ帰る。そして週末は宇都宮へ。そんな日々の中で、フェスに参加してほしい人にひとりずつ会い、イベントを丁寧に作りあげていった。後呂さんへの感謝の想いをこめ、温かい時間にするために。

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平田さんがずっとやりたかったフェス。それを実現させていく中で、この街には手を差し伸ばせば大らかに応え、協力してくれる人たちが多くいることを改めて実感した。さらにうれしい驚きだったのは、その場に集う人と人が、想像以上の速さでつながっていったことだったと言う。

「私たちがやっている企画に興味をもってくれた人が、いつか自分の街に呼んでくれて、ほかの街とコラボレーションイベントができたらうれしいなと思っています」

この街でつながった“私たち”の中心にいた平田さんは、これから先もたくさんの人の協力のもとに、新たなつながりの場を築こうとしている。一人ひとりがもつ力のすごさを信じているからこそ、平田さんはこれからも人と街、さらに広く、街と街をつなげる存在になっていくのだと思った。

協力:宇都宮市

農産物とお客さんをつなぐ、 カクテルバーから“一歩先”にある挑戦

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u_733 一面の蕎麦畑。市の中心から車で20分ほどで豊かな農地が広がる

 

生産者が近い宇都宮だからこそ
感じられること

「この前生産者さんに教えてもらい、初めてメロン果樹園に行きました。恥ずかしながら、栃木でメロンを作っていることを初めて知りましたよ」
原さんはお店でふるまう無添加の自家製リキュール作りのために、より身近な地域の農産物を探して県内を巡る。
同じ生産者の商品でも、時期ごとに品種や旬のおいしさのピークも変わる。四季折々のライブ鑑賞を楽しむように、原さんは新しい発見を求めて、季節ごとの変化を楽しみに産地へ何度も出向く。そのうちに、信頼できる生産者が、また別の生産者を紹介してくれるかたちで、次々と広がっていった。

採りたての果物をその日のうちにお店でお客さんにふるまいながら、果樹園のことも紹介する。生産者さんにとっては、カクテルとして味わってもらうだけでなく、手塩にかけて育てた果物そのものを紹介してもらえる喜びは大きいはず。中には、農家の友だちを連れて店に訪れ、実際にカクテルを味わってくれる人もいると言う。
「“俺がつくった果物のカクテルが一番おいしいんじゃない?” なんて言いながらうれしそうに飲んでくださったり。農産物をサービスに変えて、お客さんに付加価値を提供する。そうやって橋渡しできるのが、この仕事の醍醐味だと思います」

原さんはカクテルをツールに栃木県の生産者さんを紹介する、案内人。
「栃木県には、本当にたくさんの果樹園がありますが、まだまだお付き合いは少ないです。里山地域へ行くと、聞いたことのない果物の名前がでたりするんです。それを知ることにも興味があって。宇都宮は栃木県の真ん中に位置するので、さまざまな果樹園とつながる拠点になりますね」

今回訪れた山口果樹園は宇都宮市の東端、清原地区にある。
「この辺りは広い平地を生かして、本田技研をはじめとする工場がたくさんあります。地元でもすっかり工業団地のイメージが定着していますが、宇都宮の中でも代表的な農業地区なんですよ」
豊富な野菜はもちろん、米も生産、地域のレストランが監修し、地域の生産物で作ったピクルスなど加工食品の販売もしている。

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訪ねた時期、出始めたばかりの『あきづき』という品種

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笑顔で話す原さんと山口さん夫婦。『山口果樹園』:宇都宮市上籠谷町2937 ☎︎028-667-0523

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直売所には東京からのお客さんも。ネットやFAX注文を受けた新鮮な梨の出荷準備で11月末までは繁忙期が続く

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山口果樹園のある清原区の生産者さんやレストランと共同開発した加工品や、オリジナル商品。

取材で伺った9月下旬、果樹園には旬の梨、『新星』がたっぷりと水分を蓄えて、輝いていた。清原地区は、日照時間が長く、寒暖の差が大きいので農地に適しているのだそう。山口果樹園は化学肥料を控え、微生物や完熟堆肥によって3世代に渡り作り上げた肥沃の土地で梨作りに取り組む。

果樹園に着くとすぐに奥さまの美輝さんが試食用の梨を剥いてくださり、品種の特徴を教えてくれた。「もう『幸水』は終わり、今は実が固めの『新星』が旬。上品な『あきずき』が出始めていて、10月中旬には栃木県が品種改良した『にっこり』が出て来るのよ」

原さんは『新星』を購入。「今日はおいしい梨のカクテルを作りますね!」と、とてもうれしそうに農園をあとにした。

人とつながることで
描かれていく夢

その夜、「Bar fleur-de-lis(フルールドゥリス)」へ訪れた。
ビルの3Fにある店のエントランスには、博物館の標本のように美しく光りに照らされたリキュールの瓶が並んでいた。

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ビルの3Fにある店のエントランスに着くと、博物館の標本のように美しく光りに照らされた果実の瓶が、迎えてくれた

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まるで博物館の中にいるかのよう。カウンターに並ぶ、薬草酒や果実酒たち。2012年のオープンから4年、その間に作った果実酒は160種をこえる

バーテンダーの服に着替えた原さんが改めて迎えてくれた。
早速作ってくれたのは、山口果樹園さんの新星の梨と、栃木の日本酒を合わせた和カクテル。キラキラに輝く乳白色のカクテルはほんのり甘く、梨とお酒の旨味と香りがうつくしく中和されて軽やかにスーッと喉に入って行く。一杯のんだら、もう一杯のみたくなる。とってもおいしい!

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梨はジューサーで粉砕し、果肉をこして果汁をカクテルに。 こした果肉は肉料理のソースにぴったり合うのだそう。

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ジン、ウイスキー、ウォッカと多種の銘柄のボトルの中にはその蒸留酒で漬けた梅酒が入っている

「“無着色のカクテルを作る”というアイデアから、リキュール作りを始めました。この店をオープンして果実のリキュールをつくり続けるうちに、栃木の豊かな自然に気がついて、この地域のことをもっと知りたいと思うようになって。『この土地の魅力を発信していきたい』という想いを抱きながら、バーで働いていました」

“カクテル文化の街・宇都宮”で、お店を営む日々の中で、バーと生産者さんが一緒に盛り上げていく事業はないだろうかと考えるようになっていった。

「生産者さんやお客さんを通じて、もう一度今の足元を見つめ直したら、果樹園とカクテル文化という二つの資源をもつこの土地は、リキュール作りに最適な土地であることに改めて気がついて『リキュール製造業』を始めたいと思ったんです。さっそくそれをお客さんに話したら、実現性の不安や資金を心配する意見がありましたね。そんな中でも、私の夢に自身の夢を託して一緒にやりたいという生産者さんの声もいただきました」

その夢を実現させるため、地域銀行主催のビジネスプランコンテストに応募したところ、最終審査に残った。

「来月、母校の宇都宮大学で最終の公開プレゼンに臨みます。その練習を常連さんに見ていただいて、いろいろな視点でアドバイスをいただき、協力をしてもらっています。県職員、大学教授、学生、商社マンの常連たちが集まるバーだったので、情報交換がしやすかった。私が始めるリキュール製造業は、このお店をきっかけに出会った人たちとのつながりから、導かれて生まれたもの。製造業は初めてですが、農産物に付加価値をつけてお客さんに届ける橋渡し役は、今の仕事と同じです。未来へと続く地域産業を用意したい。だから、お客さんをはじめ、生産者のかたなどの意見を聞きながら、必ず実現させていきたいと思うんです」

取材後、そのビジネスコンテストで、原さんは見事最優秀賞に輝いた。
「リキュール製造業は長期覚悟で大切に育てていきたい。そして、この地域を大切に思って一緒に歩んでくれる人がもっと増えると、本当にありがたいですし、うれしいです」

「いっぺん食べたら病みつきになりますね」|ひのかげの、眩しいほどにいい話その④最終回

さて、日之影を旅した僕らは「左近」さんで、そんなスペシャル飯に出会った。

「太陽と橋と渓谷の町」である日之影の切立つ山々の間を抜ける主要道路沿いにある居酒屋の左近さんは、いつも多くの人で賑わっていた。隣町の延岡市からも高千穂町からもお客さんがわいのわいのと集まってきている。団体客にはバスの送迎サービスもあるのだ。よそからお客さんが日之影に訪れたなら町の人が必ず連れてきてしまうお店でもある。常連さんのことなら、お店の人たちはもうその人の好みを覚えてしまっているので、その人がなにも頼んでいないのに好みのメニューが勝手にどんどん出てきていた。居心地のよさと溢れんばかりのホスピタリティがさりげなく提供されているのが素敵だった。

初夏に日之影の「左近」さんを訪ねた僕らの前に並んだのは、お皿いっぱいの天然のヤマメの天ぷら。カリッと香ばしく、身はホロホロとして実に美味。いま思い出してみてもヨダレが出て来てしまうほどだ。

初夏に日之影の「左近」さんを訪ねた僕らの前に並んだのは、お皿いっぱいの天然のヤマメの天ぷら。カリッと香ばしく、身はホロホロとして実に美味。いま思い出してみてもヨダレが出て来てしまうほどだ。

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ゴーヤとワタと種の天ぷら盛り合わせ。旬の味わいを閉じ込めて揚げた揚げ物たちは、とにかくジューシーで旨いのだ!

ゴーヤとワタと種の天ぷら盛り合わせ。旬の味わいを閉じ込めて揚げた揚げ物たちは、とにかくジューシーで旨いのだ!

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しかし何と言ってもスペシャルなのはその素材と料理だった。壮大な山々の間を流れだす清流・五ヶ瀬川で獲れたピッチピチの川魚たち。僕らは幸運にもこの店で、初夏の鮎やヤマメの塩焼き、天ぷらに出会うことができた。天然の鰻なんか、身だけでなく、頭もベロンベロンに舐めながら食べるという経験をさせてもらった。

それらは前もって約束された食事ではなかった。天候次第のものだったり、漁の具合だったり、収穫や保存の量次第だったり、いろんな偶然によって出会うことができた一期一会のものたちだった。店主の田中さんは、時期がよければヤマタロウガニにも出会えるとか、ラクマエビに会えるとか、いろいろな食材のことを教えてくれた。田中さんは、子どもの頃から川に遊び、川と魚の生態を知り尽くしているベテランの漁師であり、川の美味しさを知り尽くした料理人であり、美しい川魚をモチーフに絵を描くアーティストでもある。そして、川の美味についていくらでも語ることのできる素晴らしい語り手であるのだった。

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ということで、以下、つれづれなるままに田中さんが日之影弁(?)で熱く語ってくださった、この町の自然の美味・珍味の物語の一部を、口語文でお伝えしたいと思います。どうぞお楽しみください。

〈左近という店名の由来の話〉

うちの店のすぐそばに橋がありますね。あそこのずっと上にお稲荷さんがおられるとですよ、商売人が一番崇拝しとるお稲荷さんが。うちの玄関の左上の谷にお稲荷さんがいる、「左にきつねのコンコンさんがいる」っちゅうことにあやかって「さこん」て名づけたんです。そしたらおれの友だち、宮崎の友だちっちゃけど、いちばん最後に「ん」がつく店は必ず繁盛するっちゅうんですよ、どこにいっても繁盛しちょるって。それはいいネーミングつけたねえって。じゃけど、まあ、うちの息子なんかも店のお客さん大事にしますわ。もうどげんなお客さんでもものすごぅく大事にしますわ。おれ? おれは足引っ張るだけで。酔っぱろうて。

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〈ラクマエビ(手長エビ)の話〉

川の状態が良かったらね、おれがもう最高に面白いところ連れて行けるのに、残念。夜のラクマエビ突きがおんもしろいですわ。おんなんこはもうものすごぅく喜びますね。水の深さがね、膝よりちょっと低いぐらいの流れのないところで、懐中電灯で探していったら目が「キラーッ」て光りますわ、エビの目が。だからすぅぐどこにおるかはわかりますわね。それをカナ突きで上からコツコツって突いていくとですよ。こう一匹ずつカナ突きで突いていって、漁が終わる頃にはカゴが重くなるくらいになりますよやっぱり、150匹も突いたらね。ラクマエビは市場では高値がつく高級食材です。もし水の状態が良ければ今夜にでも行きますけど、もう今日は川の水が多いからムリなんですね、残念。

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〈ヤマタロウガニ(モクズガニ)の話〉

ヤマタロウガニは塩茹でです。まっかかになりますわ、カニが。味も見た目も、上海ガニ、あれといっしょです。カニのなかでは一番おいしいですね。ズワイとかタラバとか毛ガニとかいろいろあるけど、味は川のカニには勝ちきらんです。ただ、小さいからめんどくさいんですよね、味噌から、足の爪の先まで、ほじくるのに。で、まあ、それこそ絶品ちゅうのは、そのカニをですね、甲羅を剥いで、小さく半分くらいに切って臼で突くんですよ。ぐっちゃぐちゃになるほど突くんですよ。潰すだけ潰したらそこに味噌を入れて一緒に混ぜてまた突くんですよ、なじむように。そしてそれを大鍋で煮るんですよね。煮えたらそれを大きなザルに空けて、また別の鍋に移してそれを漉すんです。カニの殻やらは全部そのザルに残るんですよね。あと食べるところだけが下の鍋に移って、そこに白菜とか野菜を入れてそして炊き直してそしてそのままおつゆで食べるんですね。これまたな~ん杯でも食べたくなるほどの絶品です。ちょうどヤマタロウガ二が採れる時期じゃったら、みんな喜んじゃったろうにね、残念。

〈天然の鰻の話〉

鰻を獲るためには、まずアブラメっちゅうのを釣りに行かなきゃならんですよ。鰻のエサになるのを。それを2、30匹釣ってくるんですよ。だいたいそれだけで1時間とか1時間半かかりますわ。そのアブラメを生かしちょってそして夕方それを包丁で切ってから針に繋いで「はえ縄」をつけに行くんですね、新鮮なエサで。じゃから、なかなかヒマがないとできんですわね、そういうことは。今日はもうムリです、残念。

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田中さんの生け簀には天然鰻やすっぽんがいた。見せてもらった鰻は太く、ものすごい勢いで動き回った。その強烈な生命力は、都会者(?)の僕らを大いに驚かせたのだった。さすがの「左近」であろうとも、天然鰻のメニューには滅多なことでは出会うことはできない。僕らはその幸運に感謝しつつ、天然鰻の身の弾力の強さに驚きながら、肝そして頭までしゃぶり尽くした。

田中さんの生け簀には天然鰻やすっぽんがいた。見せてもらった鰻は太く、ものすごい勢いで動き回った。その強烈な生命力は、都会者(?)の僕らを大いに驚かせたのだった。さすがの「左近」であろうとも、天然鰻のメニューには滅多なことでは出会うことはできない。僕らはその幸運に感謝しつつ、天然鰻の身の弾力の強さに驚きながら、肝そして頭までしゃぶり尽くした。

 

〈クマバチの話〉

クマバチは目をつぶって口に入れたら、いっぺん食べた人はもう病みつきになりますね。ただ、見た目はちょっとね、ああいう虫を口のなかに入れるちゅうのは抵抗がある人はなかなかムリかもしれんけど。成虫は唐揚げです。高温の油でばーっと揚げてそしてシオを振って食べるんです。これはもうエビセン感覚です。カリカリになるから。針も刺さっても気にならんです。

だんご状のクワガタの幼虫みたいなあれが幼虫です。あれがもうちょっと大きくなってさなぎの格好になったのが真っ白の乳白色になったのがおります、これが一番おいしいですね。それはボイルしてザルに上げて、シオ振って食べるんです。食感は「ぐちゃーっ」ちゅう感じです。その味がもうたまらんです。これはもう最高においしい。

幼虫もやっぱしおんなじようにボイルします。ただ、そういう食べ方はちょっと贅沢なんですよね。じゃから、もやしとかネギとか大根葉とかいろんな野菜を入れて伸ばすんですよ。ちょっとしかない蜂を、野菜をもっと入れて和えて伸ばすんですよね。食べるときに野菜とハチノコ1匹みたいな感じで食べます。ハチノコだけならもうすぐ食べてしまうので。それか、そうめんに入れて食べるんです。そうめんを湯がいて、そのハチノコと一緒にそうめんに入れて絡めて食べるんですよ。ハチノコのそうめんもやっぱりこれはもう絶品です。今日のお店にはないけど。残念。

お店の方は息子さんに任せて、お客さんの輪に溶け込む田中さん。このお店は、日之影の人たちのコミュニケーションの場であり、憩いの場であり、そしてまた笑いの場であった。イベントの打上げも、成人式も、お祝いも、スペシャルな出来事のときにも、日之影の人たちはここに集い、酒を交わし、語りあい、一夜の記憶と思い出を重ねていくのだった。

お店の方は息子さんに任せて、お客さんの輪に溶け込む田中さん。このお店は、日之影の人たちのコミュニケーションの場であり、憩いの場であり、そしてまた笑いの場であった。イベントの打上げも、成人式も、お祝いも、スペシャルな出来事のときにも、日之影の人たちはここに集い、酒を交わし、語りあい、一夜の記憶と思い出を重ねていくのだった。

 

〈くさ(な)ぎむしの話〉

くさ(な)ぎという木ともツルとも言えんような木があるんですよ。そのくさ(な)ぎの木の芯にその虫が入っているんですよ。虫が入っているところだけはそこがちょこっとプクっとふくれているんです。そこをポキっと折ってね、するとこんなんながぁい、ちょうど小指一本くらいの虫が出てきますから。それを串に刺して焼くわけですね。火であぶって。もう脂がジリジリ出ます、そのくさ(な)ぎ虫から。もう焼いたら真っ黄いろになります。それは最初は真っ白。焼いたら真っ黄いろになります。それは脂があるから黄色くなるんですよ。これにシオ振って食べたらもう最高! これ、ハチノコよりおいしいですね。こどもにいっぺん食べさせたらもう奪い合いになります。それくらいおいしいです。これはわざわざ採りに行かんと。いまくさ(な)ぎ虫をとって食べる人はほとんどおらんです。昔はやっぱり、農家の山の上の人たちが晩の酒の肴やらにしたものです。じゃからそれをいくつもとってきていろりで焼いてつまみにしてたんですね。

じゃ、今日はまた別においしい素材を仕入れたから、お店で待ってます。

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街のコミュニケーションが生まれる入り口に

醸造に適した街・宇都宮で
好奇心を仕事に

JR宇都宮駅の西口から東武宇都宮駅方面へは徒歩で約25分。西に向かうほどに街の濃度は高くなっていく。また、オリオン通り、ユニオン通り、いちょう通り、中央通り……と通りごと、エリアごとに表情が変わり、魚屋、食堂、バー、中華屋、喫茶店など個人商店の看板が多く並ぶ。大通りから一歩横道に入ると、スナックや酒場横丁に水路が現れて来て路地裏歩きが楽しい街だ。そんな街の中心を縦断するオリオン通り近くにあり、クラフトビールの醸造も隣接しているビアパブ「BLUE MAGIC」の店長・中尾真仁さんは、この街を作り出す人の一人。 “誘いビール”で宇都宮へと人々を導き、周りのお店の人たちとイベントも企画。スタンプラリーや、出張「BLUE MAGIC」と題して、そのお店と相性のよいビールサーバーを運んで店頭で販売したり、ワークショップなども積極的に行う。
中尾さんは、2010年、大学卒業後に勤めた不動産会社を退社。“自分らしく働ける仕事”を探しながら、もともと興味のあった飲食店をめぐるために、宇都宮や栃木県南の街へ毎日のように通った。そこで様々な人と出会い話を聞いていく流れの中で、栃木市の酒蔵で働く男性と何度かい合わせて話をするようになった。

「そのかたから酒蔵が今、若手不足だという話を聞いていたんですよね。1年のうちの180日間仕込みをして、残りの180日間は仕事がないという酒蔵の特殊な労働環境が理解されにくく、それも原因のひとつになり若い作り手がいなくて困っている、と。僕は、もともとお酒を呑むのが好きだったので、ある日『それなら自分がやる!』って言ったんです。ものづくりが好きだったので、お酒もその一つ。この仕事なら自分らしく働けるんじゃないかって」

それから、酒蔵で働くことを通して、栃木県が醸造に特化している土地だということを知る。「栃木県は、酒蔵がたくさんありますし、ビール麦の二条大麦の生産量が日本一。大手飲料メーカーのビール工場も県内にあるんです」

 

酒蔵で働き醸造の世界に魅了されていくうちに、街中で飲めるビールを作る夢を抱きはじめた。そんな時に出合ったのが、「BLUE MAGIC」の母体である宇都宮ブルワリー社長の横須賀貞夫さん。横須賀さんは複数のビール会社の経営とビール醸造を学び、宇都宮にクラフトビール「宇都宮ブルワリー」を立ち上げた。“街中で作り立てのビールをそのまま飲める場所を作りたい”そんな想いを抱く横須賀さんに惹かれ、3度目の酒造りを終えた2013年の春、横須賀さんの元で、ビールの醸造を学びはじめた。そして、7月に「BLUE MAGIC」をオープンした。

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ビールの概念を“変える”とブルワリーのブルーをかけて「BLUE MAGIC」。他にもいろいろな想いがこの名前には含まれている。

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10ものタップが並ぶ。常に栃木のクラフトビール10種が飲める。

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宇都宮をはじめ栃木の地酒がすべて飲める。「姿」は以前中尾さんが働いていた蔵元の酒。

 

宇都宮と繋げるために“誘いビール”を各地で広め
コミュニティーの絆を深めて行きたい

この日、中尾さんに逢いに「BLUE MAGIC」に向かった。アーバングレイスホテルの北側にあるお店の横には、老舗洋裁具店や食堂が並ぶ。近くの魚屋から流れる演歌や、出汁の仕込みをしているのだろうか、カツオ出汁の香りがほわ〜っと漂う。BEERの文字と青いカエルが目印。

店の扉を開けると視線のずっと奥まで続く長いカウンターと10本のタップ。壁には宇都宮をはじめ栃木の地酒のボトルが並び、カウンターからは奥の醸造所の様子をうかがえるガラス窓がある。ビール好き、お酒好きにはたまらない景色だ。醸造所はとてもコンパクトな空間で、中尾さんの背丈よりも低いタンクが4つ並び、中央に麦芽がどんと置かれている。その部屋の中央で、にこやかな表情の中尾さんが迎え入れてくれた。

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毎年宇都宮では、アジア一のロードレース「ジャパンカップ」が開催される。今年は10月21日〜23日に行われた。世界中から選手やスタッフ、そして大勢の観客が宇都宮市を訪れ、街中は至る所に屋台が並び、熱気に包まれる。街をあげて行われるこのジャパンカップの公式ビール「涼風(すずかぜ)」の作り手こそ、中尾さん。依頼されたイメージは「爽快に飲むビール」。この仕上がりのイメージを受けて、毎年、他にはないオリジナルの味へと中尾さんが組み立てて行く。今年の「涼風」はレースのコース上にあるゆず農家さんの旬のゆずを使って300 ℓ作ったのだそう。

同じレシピでも、使う機械、作る人が変わることで味が異なるのが、クラフトビールのおもしろいところ。これまでも地域の特産品であるフルーツやスパイスなどをとりいれ“ここ”でしか飲めない独特のビールを造ってきた。栃木産の生産物を使って、オリジナリティー溢れるクラフトビールを造り続けることで、豊かな自然がある“農産県栃木”を伝えたいという想いがある。

「ビールを名刺代わりに、クラフトビールフェスに出展しては、宇都宮をPRして来ました。『どこで飲めるの?』と聞かれるたびに、『宇都宮の自分の店「BLUE MAGIC」で飲めます!』とみんなに名刺を配りながらクラフトビールの魅力を紹介していく。こんな風に、日本中を駆け巡りながら、“誘いビール”の営業に力をいれて来た。なぜなら、“宇都宮でしか味わえないおいしさ”があることを伝えたかったから」

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「涼風」の仕込み開始。300ℓの仕込みに、麦は60kg。

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少し経つと糖化がはじまる。

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麦とお湯だけなのに、糖化され1時間も経つと甘くなる。

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クラフト&バル両方を学ぶスタッフが、現在3人。

2013年にオープンしてから3年。今では、出張で宇都宮を訪れた人や宇都宮で働く外国人、そして“誘いビール”の効果もあり、東京から週末に飲みに来る人も増えている。県外のお客への配慮で週末はお昼の12時オープンにし、宇都宮のご当地ご飯も食べてもらおうと食事は持ち込みを推奨。界隈のお店にテイクアウトが出来るようにと、自ら交渉してまわった。そのリストを『まちかどグルメマップ』にし、オススメのお店のとっておきの一皿も紹介している。

「このお店は、“街中で作り立てのビールをそのまま飲める場所”であるとともに、栃木県初のクラフトビールのアンテナショップを目指そうと横須賀社長と話しました。店では常に他社ふくめた栃木のクラフトビールを10種類飲むことができるんです。好みのビールを探していただきながら、地酒も楽しんでいただくことができます」

この街はバーが多いことでも有名。中尾さん曰く、チェーン店が少ないのでオールラウンダーな店は少ないそう。だからこそ一軒では終わらず、ハシゴをして街を巡り、さまざまな店と人に出会うのが楽しいのだそう。

「カウンター文化が根ざしているので、お店に通うたびに店主に顔を覚えてもらったり、カウンターに並ぶお客さん同士とのつながりも生まれます。自分がこの仕事についたのも、カウンターで飲んでいたことがきっかけで生まれた縁。店主もお客さんもすぐに顔なじみになるほど距離が近い。お客さんも含めお店同士が顔馴染みになれば、この界隈のお店がまとまって、何かをはじめることができる。この街をくまなく楽しむための入り口として、うちのお店に来てもらえたらと思っています。広げるだけではなく、同時に深めることもしていきたいんです」

宇都宮でしか味わうことができない時間を、中尾さんは「BLUE MAGIC」を通して伝えている。

 


 

中尾さんに、宇都宮に来たら食べてほしいビールに合うオススメの一皿を紹介していただきました。

「PIYO PIZZA」栃木の野菜を使った今日のミックスピザ1枚1250円
ししとう、燻製にした那須豚のベーコンがやわらかくて美味!ビールに合う!ワインにも合う!

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注文を受けてから生地を伸ばす。自然派ワインとクラフトビールとピザを楽しめるお店。東京永福町の「ラ・ピッコラ・ターヴォラ」で働いていた店主髙橋克仁さんが地元宇都宮に戻り、最初は東口に2年ほどお店を開き、今年の8月に西口へと移転してきた。こちらの店先で「Blue Magic」の生ビールを販売するコラボ企画などもこの夏に開催した。

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「PIYO PIZZA」
住所:宇都宮市馬場通り4-2-13

電話:028-600-5030
営業時間:11:30〜14:00/17:00〜23:00(平日)、11:30〜23:00(土・日祝)
不定休
https://www.facebook.com/piyopizza

 

「味一番」 餃子一皿200円
一皿では物足りない。軽やかで美味。皿も、お箸もタレは持ち込みのお客様用に常備。

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「味一番」
「BLUE MAGIC」から歩いて1分。街の老舗中華屋さん。中尾さんは週に3回は食べに来るという馴染みのお店。モツ煮込みもオススメ。お土産用の冷凍餃子も購入できる。
住所:宇都宮市江野町2-7
電話: 028-634-8363
営業時間:11:00〜20:00
定休日:不定

 

「みよしや シンボルロード店」 元祖かぶと揚げ 一皿 540円
カラッとクリスピーな食感。見た目はボリューム感たっぷりだが、女性一人でも一つ食べられてしまう。手でちぎって食べるのが中尾さんのオススメする食べ方。

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「みよしや シンボルロード店」
宇都宮の銘店、元祖かぶと揚げのお店。半身を豪快にいただきます。1ジャンルで勝負する銘店に出合えるのが宇都宮。オールマイティーではなく、一ジャンルに全力入魂。
住所:宇都宮市池上町2-11
電話:028-612-5889
営業日:17:00〜23:00
定休日:無

 

最後にこちら!
「BLUE MAGIC」栃木4種の飲み比べビール 1030円
中尾さんが一日何度もメニューを変えて行く。色、味、特徴を確認して飲み比べる。界隈のおつまみと合わせてカウンタースタッフや隣席のお客さんと話して行くと、4杯目を飲み終える頃には「二軒目一緒に行きますか?」と、お友達になることも。

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『BLUE MAGIC』
住所:宇都宮市池上町3-8
電話:028-307-0971
営業時間:15:00〜22:00(月〜金)、12:00〜22:00(土)、12:00〜21:00(日、祝)、
定休日:火曜日、第3月曜日
http://bluemagic-brew.com

農業経験ゼロの地点から、 ピーナッツバターメーカーに なるまでの軌跡

想像もしなかった新しい扉は、
ある日突然に現れた

わからなければ、調べよう。なければ、つくればいい。自分の人生を思い描く方向へと切り拓いていくには、そうする以外に方法がないことを杉山さんはよく知っているようだった。

ダンサー、会計士、ピーナッツバターメーカーと、全くかけ離れたフィールドへと移る度に、またゼロから向かい積み上げていく。中途半端ではなく、納得がいくまで突き詰める。杉山さんが“ピーナッツバター”にたどり着くまでの道のりについて聞いていると、実際には今話している何倍もの苦労と努力を重ねてきたことも想像ができた。

「ダンサ—になろうとニューヨークに渡ったのは、高校を卒業してすぐの頃でした。でも、実際はダンスをやりながらも生活費は別で稼がないといけなくて、レコード屋で働いていたんです。そのレコード屋の本社が大きな音楽レーベルで、著作権を扱う会社でもあったのですが、本社のほうで働かないかと誘っていただいて。そこで働くうちに数字に強くなっていって、だんだんと社会にどうお金が流れているのか、その仕組みに興味を持ち始めたんです。それで、自分にはもっと知識が必要だと思って、大学に入って働きながら会計士の勉強をして、卒業と同時に公認会計士の資格をとって監査法人に入りました。そこでは法人税を担当して、企業の経営戦略や買収なんかの案件に関わっていました」

浜松市舞阪町にある、杉山さんのピーナッツ畑。

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そのまま会計士の仕事を続けていれば収入も先々まで安泰と、普通なら迷うことのないような道筋だった。けれど杉山さんは、ワーキングビザが切れるタイミングが迫ってきたころ、グリーンカードを申請して会計士としてニューヨークで暮らし続けるか、日本に帰るのか、この先の人生について迷い始めていた。そんな時、偶然目にしたのがアメリカの経済新聞、「ウォール・ストリート・ジャーナル」に載っていた、とある記事だったという。

「ある日曜日、新聞に目を通していたら、ピーナッツバターにまつわる記事が書かれていました。ピーナッツバターは、ニューヨークでは毎日食べるくらいの大好物だったので、自然とその記事が目に留まったんです。そこには、1904年のセントルイス万博で賞をとったという、遠州の落花生のことが書かれていました。僕自身も自分の地元である遠州地方が落花生の産地だったことなんてまったく知らなかったですし、“遠州”と言ってわかるアメリカ人なんてほとんどいないはずで……この遠くはなれた街で“遠州”という名を目にしたことも含めて衝撃だったんです。

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「遠州半立ち」。通称・遠州小落花は、その名の通り普通の落花生よりも一回りほど小さく、その分旨味が詰まっている。

そこから、ふつふつと興味がわき始めて、アメリカのピーナッツバターの文化と遠州の落花生をかけ合わせたらおもしろいんじゃないかと考えが浮かんできました。向こうでは、オーガニックスーパーの「ホールフーズ」なんかへ行くと、その場で欲しい分だけピーナッツをペーストにできるマシンがあって、つくりたてが買えるんですけど、これがびっくりするくらいに美味しいんですよ。日本でもやり方次第でもっとおいしいピーナッツバターがつくれるんじゃないかと。そこから、遠州小落花について調べたり、休日にはスーパーでピーナッツを買ってきて自分でピーナッツバターの試作をするようになりました」

そうこうしているうちに、いよいよビザの更新が間近に迫ってきた。その時にはもう、「実家に帰ってピーナッツバターづくりに挑戦してみたい」と、杉山さんの心は決まっていた。また再び、真っ白なフィールドでのゼロからのスタート。農家の家系だったわけでも、どこかで畑を学んだこともない。農業についてまったくの素人だった杉山さんは、浜松に戻ると、とにかく遠州小落花にまつわる文献を読み漁り、借りられる農地と種を探し始めた。

「実際に遠州小落花の種を求めて、地元の農家さんを訪ね歩いても、栽培しているところがほとんどありませんでした。育てていたとしても、売るのではなく自分たちで食べるためのもので……。そんな中でも『これが遠州小落花だ』というものを見せてもらったりもしましたが、どう見ても自分が調べてきた遠州小落花の特徴とは違っていました。それでも諦めずに探し続けていたら、ある農家さんが『亡くなった祖父母が栽培していた落花生が今も自生しているから、それでよければ持っていっていい』と言ってくれたのが、探し求めていた遠州小落花だったんです。全部で2キロくらいでしたね。それと同時に畑も探していたのですが、きれいな畑は農業資格がないと借りられないので、荒れた耕作放棄地をまずは約100坪借りて、耕すところから始めました」

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新しい経験の連続という日々の中で、杉山さんは結婚し、双子のお子さんを授かった。実家で両親と同居しているとはいえ、家族を背負った上での挑戦。その分プレッシャーもある。

「荒れた農地を耕して、種を増やしていくのに約2年。トラクターは外国車くらい高いし、ピーナッツの焙煎機など、あれやこれやで貯めていたお金もほぼ使い果たしました。最初の年は、二畝から始めたんですが、一畝を全部カラスに食べられて……。カラスは頭がいい分、こちらが策を講じてもしばらく経つと破られてしまうから、知恵比べがずっと続いている。落花生自体はもともと砂漠地帯で生まれたタフな作物ですけど、やっぱり一人でやるにはわからないことだらけで、何度も畑で泣きたくなるような局面がありました。自然相手だから、これで完璧ということはない。一つ解決したら、また次の問題が生まれてくるんですよね。落花生の脱穀機なんかも、日本は栽培する人が少ない分、機械が進化していないんです。使っているとすぐ動かなくなるから、必要に迫られて溶接も勉強して自分で機械を改良するようにもなりました」

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落花生は、春に種を撒き、秋に収穫する。冬の間は、浜名湖で採ってきた海藻と牡蠣の殻、米農家さんから分けてもらった収穫後の稲や籾殻を混ぜて肥料をつくる。落花生栽培のスタンダードは、ビニールをかぶせて土の温度を上げて育ちを早くするのだけれど、杉山さんはそれをせず、じっくりと育てていく。そして収穫を終えた11月、“遠州のからっ風”と言われる西風が吹いてくると、収穫したピーナッツを天日干しして、その風に晒して乾燥させるのだという。これは、遠州小落花がセントルイスで賞を取ったときの栽培方法が記された文献「国の光」から得た有機栽培法。漢文で書かれたこの文献を調べながら読み解いていった。それに加えて、「自然の運行に合わせて栽培したい」という思いから、種撒きは満月、苗植えは新月に行っている。

畑を案内してもらいながら話を聞いていると、気の遠くなるような手間ひまが浮かんでくる。会計士としての感覚とはかけ離れた採算の合わないやりかたなのでは?と訊いてみた。

「そうですね、手間という部分は勘定していないですからね(笑)。もっと効率よくできたらと考えるんですけど、少しでもオートマチックにしようとするとすぐ味にでてしまうので、どうしても今のやり方から抜け出せない……。味が落ちてしまってお客さんをがっかりさせたら、これまでの苦労が水の泡じゃないですか。それに、アメリカで自分がほんとうに美味しいピーナッツバターに出合ったときの感激をシェアしたいという思いも強いんです」

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ピーナッツの焙煎機。この工場で焙煎から瓶詰めまでを行う。

「杉山ナッツ」のこれから

畑を始めて3年目となる今年から、ようやくピーナッツバターの製造販売をスタートすることができた。「杉山ナッツ」のピーナッツバターは「プレーン」と「ハニーロースト」の2種類。「プレーン」は、「ピーナッツだけでも甘みがあるから」と、ピーナッツそのものの風味が味わえるように、砂糖は入れない。最初にピーナッツの甘みがほんのり感じられて、その後ほのかに香ばしさが感じられるように、調整しながら杉山さんが自分で焙煎も行っている。「ハニーロースト」は、白砂糖ではなく、蜂蜜と塩を少し加えて仕上げたもの。同じ浜松にある内山養蜂所でオーガニックに作られている非加熱でフレッシュな、みかんの蜂蜜を使っているという。そして、手間ひまかかっているのは、農業の部分だけでない。製造に至るまで徹底されていた。

「普通なら一気にペーストにして小分けにするのですが、それだと偏りがでてきたしまうので、ひと瓶ずつ粒を残すようにペーストしてから詰めています。だから、一瓶にきっちり100個のピーナッツが入っているんです。一日で詰められる量は、頑張って100瓶。お客さんには、できるだけ作りたてを食べてもらいたくて、卸先のお店にも少量を仕入れてリピートしてほしいとお願いしているんです」

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蓋を開けた瞬間、ピーナッツの香ばしい香りが。粒が残った滑らかなテクスチャーも杉山ナッツの特徴。

まだ「杉山ナッツ」が市場に出回り始めて1年経たないうちにも、地元では少しずつ販売店も増え、噂が噂を呼んでリピーターがつくようになってきた。ここから先には、どんな展望を持っているのだろうか。

「まだまだ日々試行錯誤が続いているし、栽培や製造だけでなく、一人ではネット販売まで対応しきれないから、売り方という部分でも考えるところが多いですね。でも、もっとその先にイメージしていることはあります。一番の理想は、コーヒーミルのように家庭でもピーナッツをペーストにするマシンを使う人が増えていくこと。その時、食べる分だけベーストにするのが一番美味しいんです。そうなれば、自分は落花生の栽培と焙煎に注力ができる。日本には他にも古くから落花生を栽培してきた地域がいくつかあるんですが、産地や栽培、焙煎方法によって、ピーナッツバターにもさまざまな味わいがあることを知ってもらって、もっと広く楽しんでもらえるようになればと思っています」

まちの未来を照らす陽の光のように|ひのかげの、眩しいほどにいい話その③

偶然辿り着いた日之影を
だんだん好きになっていった

日之影に来たのは大学卒業後すぐ。東京のNPOの〈緑のふるさと協力隊〉という制度を利用してのことです。これは、活性化を望む自治体に若者が1年間住み込んで、町おこしの手伝いをさせてもらう、というもの。私は大学で農業土木を学んだこともあり農業に興味があったので、自然環境のいい地域に暮らしながら農業を学べたらと思って応募したのです。自分が希望した場所とはかけ離れた、宮崎県の山奥のまちを紹介されたわけですが、山が大好きでしたし趣味は登山でしたのでまあいいかな、と。初めてこの町に来たときに目にした、切り立つ山々の急な斜面や膨大な緑にはものすごく驚きましたね。

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最初の頃は、花の苗を育てるフラワーパークという施設のお手伝いでした。春にはパンジーやビオラの苗の世話や水やり、イベントの手伝い、夏には草刈りを。時の経過とともに、稲刈り、ゆずの収穫、しいたけ原木運びなど、お手伝いする場所も少しずつ増えていって、まちのいろんなものに触れて過ごした1年間でした。〈緑のふるさと協力隊〉の任期はその1年だけだったのですが、2年目からは日之影の町役場の方から「集落支援員という仕事があるからやってみないか」と声をかけて頂きました。町のなかでも特に過疎化が進んでいるような奥地の集落をまわり、住民の方々の暮らしぶりや要望を役場に伝えるという仕事です。最初はお互いさぐりさぐりという感じでしたけど、集落の方とだんだん仲良くなっていくうちに酒飲みに誘われたり、畑仕事を手伝うようになったり、地元の名物である「たけのこ寿司」の美味しさを教えてもらったり、農村歌舞伎に参加したり。美味しいものや素晴らしいものにいっぱい出会って「日之影って、いいなあ」と思うようになっていったんです。

地元の果実の有効活用をめざして
独立を決意

集落支援員としての仕事は5年ほど続きましたが、だんだんと自分の意識も活動の内容も変化していきました。きっかけは、柚子です。日之影とそのまわりの地域は山間農業が盛んで、世界農業遺産の認定も受けたほど。柚子や金柑といった柑橘系の果実や栗なども多く生産されています。ある年、柚子が豊作になったのですが、豊作すぎて値崩れの可能性があるため農協が買い取らないということになり、大量の柚子を山に捨てなければならなくなりました。もったいない、なんかやれないだろうか、と思って始めたのが、ジャムやシロップなどの柚子の加工品づくりだったのです。

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まだまだPRされていない日之影産の農作物に光を当てて「照らす」のが、岡田さん仕事のテーマ。取材日だったこの日は、商品開発のパートナーでもある戸髙ひろみさんの仕事場で、できたばかりのヤマモモのシロップ漬けをみんなで試飲した。初夏の陽射しのような、爽やかな味がした。

また、日之影産の栗だって、味わいや品質の評価は全国有数と言われるくらいに高いのに、その割には世の中にうまく知れ渡っていないなあ、と疑問に思うようになりました。これも、栗の加工品を作って通年で売ることができれば「日之影といえば栗」っていうイメージをもっと定着させられるんじゃないか、と考えるようになりました。

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そこで、よし、本気で食品加工をやろう、と思って、福岡から食品加工の専門の先生を呼んで、日之影のまちでセミナーを企画して勉強して、ジャム等の加工品を自分で作るようになったのです。作ってみたらまわりからは意外と好評だったので「いける」と思って。2014年頃にはもう独立の計画を立てて〈旬果工房てらす〉という名前を決めました。2015年は、起業のための下準備を進めて、加工場を整備したり、機材を揃えたり、新しい素材の研究をしたり、日之影産の柚子、栗、金柑、梅、ヤマモモでジャムやシロップ漬けを作って販売しようと年間スケジュールを立てたりしました。そして2016年3月をもって集落支援員を卒業し、日之影で起業独立して頑張っていくことにしたのです。

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山の斜面に広がる、日之影の栗畑。おそらく全国一なのでは、と噂されるほどにも広大なこの畑から、全国有数とも言われる品質の栗の実が成る。収穫間近の季節になると、木々の枝の下にネットが張られる。このネットが、枝から落ちた栗をぜんぶ拾い集めてくれ、さらに斜面の下の方まで転がしてくれるので、回収は一網打尽。山の農業の知恵が凝縮された、実に合理的な仕掛けなのだ。

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日之影を照らすような、
成功モデルをつくろう

起業からまだ3ヶ月くらいしか経っていませんが、単品ごとの商品はすごく評価してもらっていますし、「ウチのお店に置いていっていいよ」と応援してくださる方も多いので、これから販路をもっともっと開拓して安定させていくことが課題だと思っています。この先は、この〈旬果工房てらす〉をビジネスとしてちゃんと軌道に乗せていくってことが当面の目標になるでしょう。

「旬果工房てらす」の商品たち。果実の美しい色がぱっと目に入る。このほかにも、和栗やゆずなど、季節ごとに変化する品揃えも楽しみのひとつ。パッケージデザインはakaoni。

「旬果工房てらす」の商品たち。果実の美しい色がぱっと目に入る。このほかにも、和栗やゆずなど、季節ごとに変化する品揃えも楽しみのひとつ。パッケージデザインはakaoni。

やっぱり、自分としては、日之影の町の人口がどんどん減っているという現状の歯止めになるようなことがしたいですね。最近は、こういう田舎が注目されてきているなっていうことを肌で感じますし、同世代の人たちがこれからこの町に移住してくる可能性はすごくあるんじゃないかなって思っています。

だから、移住してもらえるように、移住希望者の受入れ体制を整備することにも関わりたいし、自分がこうして起業して仕事をしていくということがひとつの成功事例として取り上げられるようになれば、また次の人が現れて、こういうことをやりたいとか、そういう人とか事例がどんどん生まれてくるんじゃないかなって。

まちの人たちにも協力してもらいながら、そういうふうになればいいなあって、そういう想像を毎日しているんです。

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竹かごの「用の美」の伝統を継ぐ|ひのかげの、眩しいほどにいい話その②

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暮らしのまんなかに「竹かご」があった

日之影の町のほとんどを占める急峻な山々には、美しく壮大な棚田が広がっている。驚くほど見事な石垣が積まれている田んぼもある。地形をうまく利用した畑もある。農業は昔から今に至るまで日之影の町の重要な産業のひとつだ。

この「険しい山の斜面において営まれる農業」において重要な役割を担う道具、それが〈かるい〉と呼ばれる竹の背負いかごである。〈かるい〉は「背負う」という意味の方言「からう」に由来している。この背負いかごにはお弁当や鎌も入るし収穫物も入るからすごく便利で、畑へ行くときには欠かすことができない。背負いカゴであればいつでも両手が空いているので、山の斜面の上り下りなどのときにも手が使えるから都合が良い。仕事をするために、生きていくために、なくてはならない必需品なのだ。この〈かるい〉はずっと昔からこの町の竹を原料に、この町で作られてきた。いつしかそれを専門とする竹細工職人も生まれた。「こんな大きさの、こんなふうなカゴを作ってほしい」という依頼人それぞれの要望に合わせて、竹細工職人はひとつひとつ手づくりしていったのだという。職人たちは各々が技術を競い、究めていったので、彼らが作る竹細工はとても実用的で、丈夫で、繊細で、美しかった。実際、この取材の間にも、何十年も前に作られた竹かごが今も大切に使われている場面に出くわすこともあった。〈日之影町竹細工資料館〉に展示されている道具の数々の芸術的な美しさは感動的だ。竹かごを愛する人なら、この町の有名な竹細工職人であった、廣島一夫さんと飯干五男さんの名前を聞いたことがあるかもしれない。彼らは日之影が生んだ竹細工の名匠であり、全国さらに世界にまで名を馳せたスターであった。

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日之影が誇る日本の名工、故・廣島一夫さん。15才の頃から約80年に渡って竹細工づくり一筋に生きてきたレジェンドだ。

移り住んで、この町の伝統の技を継ぐひと

美しい竹かごの町・日之影に育まれたこの技と伝統を継ぐ、おそらくただひとりの現役の職人である小川鉄平さんは、2000年に単身日之影にやってきた移住者だ。日本中の職人さんの手仕事を見て学び巡る旅をしていたところ、日之影で〈かるい〉づくりの名人である飯干さんに出会い、弟子入りを決意し、暮らし始めた。3年ほどのあいだ飯干さんから直接の手ほどきを受け、その技術を学んだ。ときにはもう一人の名匠・廣島一夫さんとも会って言葉を交わすこともあったという。

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名匠ふたりの技を知り学んだ職人は小川さんの他にはほとんど見当たらない。小川さんはのちに独立し、以来、お客さんからの注文に応じた竹細工づくりで暮らしている。日之影で結婚もした。お子さんも生まれた。仕事も途切れることはない。都会からの注文も多いけれど、日之影とその周辺の村にはいまだに「かるい」の注文をくれる人が少なからずいて、なかには「かるいがなくては外出する気にもならない」という年配の住民もいるのだという。〈かるい〉をはじめとする竹かごはナイと困る、欠かすことのできない暮らしの必需品であり、これだけモノの豊かなはずの現代においてさえ他のナニモノにも代えがたい代物なのだ。小川さんが日之影を初めて訪れたときに見た光景もそうだった。山道を歩くおばあちゃんが〈かるい〉を背負っているのを見て感銘を受けたことを小川さんは今もはっきりと覚えている。「〈かるい〉は今も、暮らしのなかに生きている現役の道具なのだ」と。

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集落を巡り、竹かごに出会い、記憶を探って

私たち取材チームが日之影を訪ねた2016年の夏、小川さんは秋から始まる展示会の準備で忙しかった。「日之影の竹細工職人 廣島一夫さんの仕事」と題されたこのイベントでは廣島さんや飯干さんの竹かご約30点を、東京のギャラリーで展示する予定なのだという。この日、小川さんは、廣島さんの暮らした家があった樅木尾(もんぎゅう)という集落へと車を走らせた。標高700メートルにある、それはそれは山奥の、5軒ほどの家があるだけの小さな集落。昔から今に至るまでずっと使い続けられている竹かごを見るため、そして竹かごの持ち主に、展示会への協力をお願いするためだ。

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廣島さんの甥にあたる善正さんご夫婦は、時々こうして顔を見せる小川さんを、その日も笑顔で出迎えてくれた。まるで自分の息子を迎えるかのように〈あくまき〉や〈たけのこ寿し〉を作って待っていてくれた。廣島さんの竹かごづくりについていろいろ質問する小川さんにニコニコとして答えてくれていた。一夫さんの写真を見せてくれたり、昔話を聞かせてくれたりした。しいたけの選別につかう〈なばとおし〉という竹かごの話もしてくれた。「鉄平クンのような後継者がおるから(廣島一夫さんの)カゴの価値がこれからも伝わっていく」のだと、喜んでいた。

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まるで息子のように、小川さんを温かく迎えてくれた廣島善正さんご夫妻。食卓には、日之影の名物である「たけのこ寿司」が並んだ。話題の中心は、廣島一夫さんの竹かごづくりのこと。古い写真もたくさん見せてくれた。

隣の家の、うたこさんも、小川さんが来るのを、竹かごをいくつも用意して待っていてくれた。いつごろから、どんなふうに暮らしのなかで使われてきたものなのか、小川さんは質問し、うたこさんから昔話を収集していた。たくさん話すうちに、うたこさんは古い屋根裏部屋にもカゴがあることを思い出して、そこにあった別のカゴを見せてくれた。小川さんは目を輝かせながら「展示会の前に、改めてお借りしに伺いますね」と挨拶した。

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私たちがその日に見た小川さんは、職人というよりも、暮らしに息づく竹かごの文化や歴史をリサーチするフィールドワーカーだった。そして、移住者というよりも、竹かごを愛する日之影の人たちに愛されている地域の若者だった。

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山に学び、森に学び、先人に学んで

小川さんは今、竹細工職人として働くだけでなく、移住者としての自身の経験を生かして、日之影町の「移住定住支援コーディネーター」の役割も担い、行政の手伝いをしている。日之影町への移住を希望する人からの相談に応じたり、移住者の住居となりうるような空き家の調査をしたり、というようなことをする。移住して15年にもなる小川さんの豊富な経験が、移住を希望する人と移住者を増やしたい町とを繋ぐチカラになると期待されているのだ。

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さらに、小川さんがいま、こころのなかに温めているテーマは「子どもの教育」に関わることだ。「こどもの学びの場として、日之影の自然のなかで『森の学校』のようなものが作れたらすごくいいだろうなあと考えています。この町が世界農業遺産に認定された理由は、昔からの暮らしがある程度そのままに残っているからでしょう。おじいちゃんやおばあちゃんや昔の人たちが、山でどんなふうに暮らしていたのか。その知恵を学びながら、自分の足や手や道具を使って、火をおこしたり、食べ物を見つけたり、料理をしたり、失敗したりという体験を自分の体に刻み込んでいく。そんなことを、いつか、やっていきたいんです。子どもの教育は、移住を決める際の大きなポイントですしね」と語ってくれた。

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のどかな田舎の風景のなかには、ずっと昔から伝えられてきた知恵や豊かさが潜んでいる。日之影には大きな商店街もスーパーもないけど、それが一体なんだろう。目の前にある、たったひとつの丈夫で美しい竹かごに目を凝らせば、そこには素晴らしい知恵と伝統がギュッと凝縮されて命を宿しているのがわかるはずだ。もしその価値が時代とともに見えづらくなっているのなら、その靄を振り払って、もう一度見つけ出さなければならない。脈々と受け継がれてきた知恵と文化こそ地域の財産だ。それを先人たちから受け継ぎ次代に伝えることが、地域に生きる私たちの大事なつとめなのだと、僕らはもうすでにこころのどこかで気づいていると思うのだが、どうだろう?

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一度も踏み入れたことのない土地へ。住むことでしか描けないもの

日本の地方に可能性を感じて、一路鳥取へ

藤田さんがドイツから鳥取へ来たのは、2016年6月。鹿野のことは、ドイツ東部の都市・ライプツィヒのプロジェクトスペース「日本の家」(※1)で会ったアーティストから聞いた。その人によると、鹿野では地元の人たちと外から移り住んできた人たちが協働でまちおこしを行っていて、おもしろいことが起きているという。

※1ライプツィヒ日本の家」:ライプツィヒにある空き家をセルフリノベーションしたスペース。空き家を「日本」というテーマを用いて人々が集いアイデアやものが生み出されるクリエイティブな「家」として再生することを目的としたプロジェクトに取り組む。

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「ドイツの大学を卒業した後、日本のどこに住もうか迷っていたんです。住むなら都心や実家のある千葉でなくて、一度も足を踏み入れたこともない山陰や瀬戸内に魅力を感じていました。ドイツにいた時に、日本の若い人たちが地方に移りはじめているという話が聞こえてきて、それはゆっくりな動きかもしれないけれど、自然な流れだと感じていて、私もちょうどその時、日本の地方で何か新しいことができるんじゃないかなと思っていたんです

そんな時に、以前鹿野に住んでいたアーティストの宮ちゃん(宮内博史さん)から、『鹿野に行ってみなよ』って言われて、すーっといいなと思えたんです。空き家がたくさんあって、アトリエを安く借りれるというのも魅力的でした」

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ミュンヘン造形芸術大学では、現代アートの世界で活躍するアーティストでもある教授に師事していたという藤田さん。大学内は教授の意見が絶対、という世界。「ドイツのスタンダード」を教えこまれ、みんなの前で絵を酷評されたことも度々あった。それでも、ドイツと日本のはざまで自分の表現を探り続け、卒業制作は良い評価も受けた。「鹿野にいこう」と思ったのは、約6年間の学生生活が終わり、ほっととひと息ついて「自然の流れにまかせていきたい」と思った頃だった。

移住者と地元の人が混ざり合う町

鹿野の町は、山と田んぼのなかにある。町の中心部には城跡があり、その周りをお堀と町屋地区が囲む。町のここそこには京格子の町屋や白壁の家があり、家々の間を400年以上昔につくられた水路が流れる、優しい空気に包まれた静かな町だ。

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藤田さんは今年の4月、宮内さんをはじめとする「日本の家」のメンバーたちと共に鹿野へ来た。藤田さんは住む家を探しに、日本の家の面々は鹿野のまちづくりをリサーチすることが目的だった。そして彼らと「八百屋barものがたり」という飲食店を訪れた時に、その後一緒に暮らすことになるひとりの女の子と出会う。

「町のほぼ真ん中に八百屋barものがたりという移住者の方がはじめたお店があって、そこが外から来た人や町の人たちが集まる場所になっていたんです。そこでまこちゃんという女の子と出会い、話しているうちにお互いに家を探しているということがわかって、『じゃあ、一緒に家を探して住もうか』という話になりました。まこちゃんは鳥取環境大学に通う学生で海外のことやドイツにも興味があったので、はじめから話が合ったんです」

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さまざまな出会いを生んだ場所「八百屋barものがたり」。料理は鹿野を代表する食材を使った料理を提供している。赤いシャツを着ているのが店長の成瀬 望さん。

さまざまな出会いを生んだ場所「八百屋barものがたり」。料理は鹿野を代表する食材を使った料理を提供している。赤いシャツを着ているのが店長の成瀬 望さん。

その後藤田さんは一旦実家へ帰り、二人はそれぞれに引っ越しの準備を進めていた。それからしばらくして、まこちゃんから家が見つかったという知らせが届いた。

「不思議な縁なんですけれど、今住んでいる大家さんとまこちゃんは、大学で出会ったんです。大家さんは、鳥の卵の引き取り手を探していて、相談に行った大学でまこちゃんと知り合って。

それからいろいろ話しているうちに大家さんが息子さん夫婦のためにリフォームした家が空き家のままになっているということがわかって。その後は、あれよあれよという間にその家に住むことが決まっていきました」

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その家は城下町から自転車で数分のところにある、山と田んぼのあいだにあった。2人で暮らすには十分すぎるくらいの広さだけど、藤田さんも野中さんも一目見て気に入り、借りることに決めた。

「鹿野には空き家から出た家具や家電を集めて置いてある場所があるんですけれど、必要なものは全部そこで見つけて、鹿野のお父さんたちにトラックで運んでもらいました。大家さんは、敷金や礼金は0円、家賃は1万円でいいといってくださったので、新生活をはじめるための費用はほとんどかかりませんでした」
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タイミング良くよい物件にめぐり会えたふたり。それにしても、これほど移住者に開かれた町も、めずらしいのではないか。鹿野には、廃校になった学校に旗揚げした劇団「鳥の劇場」や古民家を利用したパン屋さん、雑貨屋さんなど、移住者に空き家を貸し出し、活用している例がたくさんある。また、「BeSeTo演劇祭 鳥取」や「週末だけのまちのみせ」など、年間を通じてさまざまなイベントを行っている。

移住者のサポートを行っているNPO法人「いんしゅう鹿野まちづくり協議会」の理事・大石進さんは、昔からまちづくりに関わってきた。鹿野に若い人たちが集まってくることをどう思いますか?と聞くと「うーん。若い人でも年寄りでも、いいんじゃない」とおおらかに答えてくださった。
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同団体の活動にたずさわる向井健太さんは、自身も大阪、沖縄をへてこのまちへやって来た、移住者のひとりだ。

「僕は学習塾を主催しながらまちづくりに関わっています。鹿野は、誰かひとりが町を引っ張っていっているという感じでもなくて、何人もキーマンがいるという感じなんです。町のなかに『みんなでまちづくりをしていこう』という雰囲気がありますね」

このまちでは、本当に多様な人たちが、主体的にまちづくりに参加している。そのつながりのなかに、藤田さんもいた。

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駅まで30分の自転車通勤
山と町を行き来する暮らし

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仕事帰りに、農作業の合間に休憩していたおじいさんたちに遭遇。お茶をすすめられ、ちょっと休憩。瞬く間に溶け込んでしまう。

駅から自宅までを自転車で移動中、農作業の合間に休憩していた地元のお父さんたちにお茶をすすめられて。瞬く間に溶け込んでしまう。

アーティストとしてひとり歩きをはじめたばかりの藤田さん。今は、鳥取駅近くのホステル(素泊まりの宿)とパブを併設する施設「Y Pub & Hostel」でアルバイトをして生計を立てている。Yまでは、自宅から最寄り駅まで自転車で30分(!)、電車で20分。通勤は結構ハードだけど、仕事仲間と過ごす時間や町から受ける刺激など、得るものは多い。

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宿泊客の臼杵貴志さん。「鳥取の山と町と人が好きで、30年間神戸から通っています。老後は鳥取に住みたいですね」

宿泊客の臼杵貴志さん。「鳥取の山と町と人が好きで、30年間神戸から通っています。老後は鳥取に住みたいですね」

「ここにはいろんな人が集まってくるので、スタッフと話すのも、お客さんと話すのも楽しいですね」

Yはゲストハウスとカフェを併設する「たみ」を運営する「うかぶLLC」が運営する施設。今年の1月にオープンしたばかりだが、すでに旅行者や地元の人たちが集う拠点になりつつある。

ふらりとパブにやって来た近所のレコードショップ「ボルゾイレコード」の店長・前垣克明さんは「今まで、外から来た人と地元の人が集まれるような場所がなかったので、こういう場所ができて良かった。若い人たちが集まって、リアルな情報がやりとりされているのがいいですね」と話してくれた。スタッフの中には「何か新しいことをはじめたい」という人たちも多い。

Yのスタッフ、小林巧三さん。「来年、Yの目の前に飲食店を開きます。ずっと店をやりたいと思っていたんですけれど、Yで働いたことが決め手になりましたね」

Yのスタッフ、小林巧三さん。「来年、Yの目の前に飲食店を開きます。ずっと店をやりたいと思っていたんですけれど、Yで働いたことが決め手になりましたね」

Yのスタッフ、中居磨美さん。「普段は広島に住んでいるのですが『中国地方わかもの会議』に参加したことがきっかけで鳥取に友達ができたので、夏休みの間だけアルバイトに来ました」

Yのスタッフ、中居磨美さん。「普段は広島に住んでいるのですが『中国地方わかもの会議』に参加したことがきっかけで鳥取に友達ができたので、夏休みの間だけアルバイトに来ました」

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住むからこそ、向き合えるもの

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藤田さんが借りているアトリエは、鹿野城跡公園のすぐそばの廃校になった小学校の中にある。かつて教室として使われていたアトリエに入ると、しーんとした静けさに包まれた。窓の向こうにはお寺の森があり、そのもっと奥には、標高921メートルの「鷲峰山(じゅうぼうさん)」がある。

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「ドイツにいた時は『見えない未来を探る』というテーマで、ライプツィヒのまちづくりを森の中にたとえて描いていました。何もないところから自分たちで探り、未来をつくっていく若者たちを、森の中で家をつくっている子供たちにたとえていたんです。日本に来てからも森の中にインスピレーションを感じているんですけれど、鹿野の森には、畏れを感じます。鳥取出身の水木しげるが鬼太郎を描いたのがよくわかる気がしますね。ここには、私のモチーフの森がすぐそばにあって、絵に集中できる環境がある。絵をかくのにすごく理想的な環境です」

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鳥取へ来て、まだやっと2カ月が過ぎたばかり。でももう少しずつ、藤田さんのなかで新しい扉が開きつつあるような気がした。これから鹿野で、どんな作品をつくっていくんだろう。

「よく『どこにでも順応できるね』っていわれるんですけど、全然そんなことないんです。人見知りなところもあるし、落ち着いて絵が描けるようになるまで、3カ月はかかると思っています。今はまだ、土地に馴染むので精一杯ですね。

最近は、アーティストが一定期間その土地に滞在し制作をする「アーティスト・イン・レジデンス」も増えていますが、決められた期間内に作品をつくるのは私には難しいと思っていて。
住んでみるとその土地の良いところも悪いところも出てくるし、ここへ来て大変な思いもしたけれど、それは住んだからこそ思うことだし、それも大事なことだなと思っています。私は住んで、じっくり腰を落ち着けないと、描けないんです

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編集協力:鳥取県

なんとなく選んだけど性にあった。 漆作家の直す、つくる暮らし

家を育ててみたい

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倉吉は古代より伯耆国(ほうきのくに)の国府がおかれ、栄えた町。三方を川に囲まれた町には支流が入り込み、あちこちに江戸時代末期から戦前につくられた白壁土蔵や町家が残っている。その町のここそこに、歴史ある骨董店や若い人がいとなむ店があり、今と昔の文化が同居している。河井さんが暮らす倉吉市関金町の山の上までは、倉吉の町なかから車で1時間弱。家の西側には伯耆国の富士山と呼ばれる大山があり、もう少し南、蒜山(ひるぜん)の向こうは岡山県だ。

関金町へ越してきたのは、2015年の春。この場所に移住してきた1番の理由は、直観的に「この家を育ててみたい」と思ったことだった。そして引っ越してから、少しずつ家に手を加えてきた。大工さんに頼んだところもあるけれど、漆喰の塗り変え、襖と建具の入れ変え、作業机や棚などの家具づくり、トタン屋根のペンキを塗りなどはすべて自分ひとりでやってしまったという。

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この家のもとの持ち主は、以前「雛形」に登場いただいたことがあるゴロゥちゃんというデザイナーの女の子だ。ゴロゥちゃんは結婚を機にこの家を引っ越していき、その後に越してきたのが河井さんだ。2人はもともと面識があったわけではなく、Instagramを通じて知り合った。

「私はゴロゥちゃんの山の暮らしが好きだったんです。典型的な田舎暮らしではなく、山で『ふつうの暮らし』をつくっている感じが私の感覚に近くて。ゴロゥちゃんのInstagramを見ていたからここに住みたいって思えたんですよね」

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デザイナーのゴロゥちゃんが描いた、家のイラスト。河井さんはひとりで屋根にのぼり、赤だった屋根を白に塗り変えた。「当時はなんでもできる人になりたいという気持ちがあったんです。でも屋根に登るのはさすがに恐かったので、もうやめようと思いました(笑)」と、河井さん。

デザイナーのゴロゥちゃんが描いた、家のイラスト。河井さんはひとりで屋根にのぼり、赤だった屋根を白に塗り変えた。「当時はなんでもできる人になりたいという気持ちがあったんです。でも屋根に登るのはさすがに恐かったので、もうやめようと思いました(笑)」と、河井さん。

投稿を見ていくうちに、その家が鳥取の山奥にあるということ、近くに温泉があること、冬にはどれだけ雪が降り、雪かきがどれぐらい大変かといったことなどを知っていく。しばらくたってゴロゥちゃんが家主を探していると知った時、河井さんはすぐにメールを送った。

「メールで周囲の環境や家の値段を聞いてみたらすぐに返事が返ってきて『家は70万円ぐらいで売れたらと思ってるんですが改修にもお金がかかるだろうし、キリよく50万円ぐらいにした方がいいかなあと思っているところです。もっと安くする気もあります。車がない方だったら車を置いていこうかなとも考えています』と書いてあったんです。それからやりとりをしているうちに、結局45万円になって。メールの感じもすごく魅力的だったし、45万円で家を買うなんておもしろすぎる(笑)と思って、ゴロゥちゃんにも会ってみたいと思いました」

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当時河井さんは、京都で漆と蒔絵の専門学校に通いながら、修復師として働きはじめていた。Google Mapsで調べてみると、京都から鳥取までは車で4、5時間。行き来できない距離じゃない——そう思い、家を買うことにしたという。当時はペーパードライバーだったというけれど、なんとかなるという気持ちだった。そして普段は鳥取に暮らし、月に2度車を走らせ、京都へ行くという生活がスタートした。

「2拠点の生活は、自分のなかの通りが良くなる感じがします。1カ所に居ると滞ってしまうところが、呼吸がしやすくなるというか。出会う人も多くなるし、定期的に京都へ行くことでリズムも生まれるし。もともと意図していたわけではなかったのですが、自分のしたかった生活スタイルが手に入ったという気がしますね」

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それから鳥取にいる時は、漆喰を塗り替えたり、薪で風呂を炊いたり、畑を耕したり、はじめてのことに挑戦する日々。自分で暮らしをつくっていくこと、家を育てていくことのおもしろさを噛みしめていた。河井さんは「漆はというのは不思議な素材で、いろんな表情があって、生きもののように変化していくんです」という。彼女にとっては、家も生きもののようなものなのかもしれない。

教室の部屋に窓がほしくて、大工さんに取り付けてもらった窓。古材を利用した不均一な厚みのガラスが美しい。「まだまだ直したいところがたくさんあるので、家はまだ育て中です」と河井さん。

教室の部屋に窓がほしくて、大工さんに取り付けてもらった窓。古材を利用した不均一な厚みのガラスが美しい。「まだまだ直したいところがたくさんあるので、家はまだ育て中です」と河井さん。

家を買ってから動き出した、
山あいの暮らし

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引っ越して数ヶ月後には倉吉市の支援を受け、自宅で金継ぎと漆塗りの教室もスタートさせた。

「引っ越してくる時に、市役所の移住をサポートしている課の方が、『この辺りは限界集落なので事業をはじめると補助金が出ますよ』と薦めてくださって。当初は家で教室をすることは全然考えてなかったんですけど、補助金のおかげで教室をはじめることができたんです。家を買うって決めてから、いろんなことがスムーズに進んでいって、もともと鳥取に知り合いはいなかったのに、ここの土地に縁があったというか、恩恵を受けているような気がしますね」

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教室の日は、普段は静かな山の奥に、1時間以上かけて生徒さんたちが通ってくる。河井さんの教室では、生徒さんが金継ぎか漆のいずれかを選び、習えるようになっている。ほとんどの生徒さんが「壊れたうつわを直したい」と、金継ぎを学びにきているようだ。
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金継ぎは陶磁器の割れたところを漆で継ぎ、継ぎ目に金の粉を定着させる修理方法。「漆は塗料として使われるほか、強い接着力があるので昔から接着材としても使われてきました。金継ぎは漆を使う技法なので、金継ぎをすることで漆のことを知ってもらえるのがいいですね」(河井さん)

金継ぎは陶磁器の割れたところを漆で継ぎ、継ぎ目に金の粉を定着させる修理方法。「漆は塗料として使われるほか、強い接着力があるので昔から接着材としても使われてきました。金継ぎは漆を使う技法なので、金継ぎをすることで漆のことを知ってもらえるのがいいですね」(河井さん)

「この家は人生で1番いい買い物だったんじゃないかと思っています。周りの環境もいいし、お水もいいし。この辺りは集落の雰囲気も良くて、外でペンキ塗りをしていると近所の方がおすそ分けを持ってきてくれたりするんです。

私が間違って人の家の山葵をとってしまった時はちゃんとそれを教えてくれるし、いつも程良い距離から見守られている感じがして助かっていますね。周りに見習いたい暮らしをしている人たちがたくさん住んでいます」

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漆が教えてくれたこと

河井さんが漆をはじめたのは、些細なきっかけからだったという。

納屋を改装してつくった仕事部屋。窓から山や山葵畑が見える。

納屋を改装してつくった仕事部屋。窓から山や蕎麦畑が見える。

「京都市立芸術大学の専攻を選ぶ時に、陶芸・染織・漆があって、そのなかで漆だけがどうやってつくられているのかわからなかったんです。それと、漆の科にはおもしろい作品をつくってる先輩も多かったし、自由な雰囲気がしたんですよね。

それから大学、大学院を卒業して3年間ぐらい、当時は作家志望だったので京都造形芸術大学で副手の仕事をしながら、作品をつくって発表したりしていました。でも、何か違うなと思っていたんですよね。作品をつくっていても、あんまり社会とつながっている実感がもてなくて。

そんな時に入った茶道具の卸会社で古美術品の修復にたずさわることになって、その仕事をしているうちに『修復で食べていきたい』と思って、漆と蒔絵の学校に入り直したんです。漆って一度かたちをつくったら、変えることができなくて、だから漆を塗り重ねていく作業には根気がいるんですよね。なんとなく専攻したのですが、自分の性に合っていたんだと思います」

鯛の歯でつくった、金を磨くための道具。「固すぎず、柔らかすぎず、湾曲面を削るのに調度いいんです。道具はつくるものという感じですね」(河井さん)

鯛の歯でつくった、金を磨くための道具。「固すぎず、柔らかすぎず、湾曲面が磨くのに調度いいんです。道具はつくるものという感じですね」(河井さん)

漆を塗るための刷毛。柄の奥まで毛が入っており、鉛筆を削るように、柄の先を削りながら使っていく。毛は、なんと人毛。コシのある海女さんの髪の毛が適しているそうだ。

漆を塗るための刷毛。柄の奥まで毛が入っており、鉛筆を削るように、柄の先を削りながら使っていく。毛は、なんと人毛。コシのある海女さんの髪の毛が適しているそうだ。

鶴の羽からつくったゴミとり。漆塗りの仕上げに、ゴミを取り除く時に使う。

鶴の羽からつくったゴミとり。漆塗りの仕上げに、ゴミを取り除く時に使う。

漆の作業をするための机。机のなかに道具を収納できるようになっている。三角形の板は鯨の髭からつくった、筆をしごくための道具。

漆の作業をするための机。机のなかに道具を収納できるようになっている。三角形の板はヒノキの板や鯨の髭からつくった、下時をつけたり筆をしごくための道具。

河井さんはこれから「共直し(ともなおし)」という技法に力を入れていきたいと思っているという。共直しは、古美術品の欠けたところや剥落してしまったところを、まわりの質感に似せて直す修復方法だ。「古美術品を現代の新品のように直してしまう修理屋さんもいるのですが、私はもとの時代感を現出させながら直したいんです」と、河井さん。共直しは、その作品が生まれた時代や先人の仕事にふれられる貴重な機会でもある。

河井さんは数年前から、東京との縁もつないできた。暮らしに寄り添う品々を扱うショップ「縷縷(るる)」で、金継ぎのワークショップをしに行ったことをきっかけに、今年の秋から東京にも部屋を借り、修復のスタジオ兼漆と金継ぎの教室を開くことにした。

「毎日使うものは、自分で直せた方がいいんじゃないかなと思っています。美術品の修復はプロにオーダーするのが一番いいと思うんですけど。なので、私に金継ぎをオーダーしてもらうなら、教室に参加してもらって、自分で直せるようになってもらった方がいいかな、と。教室をやっているのはそういう理由です」

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河井さんの暮らしのなかでは、日用品を使うことも、直すことも生活の一部になっている。そんな毎日が、一本の芯が通った有機的な暮らしを編み上げていく。それはもしかしたら、とても合理的なことなのかもしれない。

今年は東京で、もうひとつ楽しみなことがある。河井さんの漆の作品がキヤノン写真新世紀(第39回公募)の優秀賞に選ばれたのだ。入賞作品は、10月末に開催される「写真新世紀 東京展2016」に展示される予定だ。

キヤノン写真新世紀の入選作は漆の板に感光性をもたせ、ピンホールカメラで風景を焼きつけたもの。写真は入選作と同じ方法でつくったテストピース。光を反射させると、漆黒の板の上に風景が浮かび上がる。

キヤノン写真新世紀の入賞作は漆の板に感光性をもたせ、ピンホールカメラで風景を焼きつけたもの。写真は入賞作と同じ方法でつくったテストピース。光を反射させると、漆黒の板の上に風景が浮かび上がる。

既製品の「ジップロック」のケースの上に麻布や漆の下地をつけて張り子のように脱型し(脱乾漆技法)、漆を塗り重ねた作品。もってみると意外に重みがある。

既製品の「ジップロック」のケースの上に麻布や漆の下地をつけて張り子のように脱型し(脱乾漆技法)、漆を塗り重ねた作品。もってみると意外に重みがある。

土に還る素材からつくられた紙の器「WASARA」に漆を塗り重ねた猪口とタンブラー。こちらは持ってみると、びっくりするほど軽い。

土に還る素材からつくられた紙の器「WASARA」に漆を塗り重ねた猪口とタンブラー。こちらは持ってみると、びっくりするほど軽い。

漆の作品をつくることと、漆を用いて直すこと。その両方の経験を積んできた河井さん。今の暮らしのなかでは、漆と対話すること、直すこと、つくること、そのすべて関係し合っているようだった。そんな日々の積み重ねが新しいひらめきにつながっていく。

「私は、ものづくりも、山で暮らすことも、どれも同じように工芸の視点で見ているように思います。一つひとつの行程を積み重ねて、その経験を自分の肌で知覚して、つなげていく作業というか。いまの暮らしをはじめてから自然と仕事もひろがっていったので、これからも楽しみです」

編集協力:鳥取県

赤いバックパックを背負って、 屋根裏にお引っ越し。 自分で自分を守れる場所へ

“安全”だと思える場所

小さな温泉町、湯梨浜町は鳥取県の真ん中に位置する東郷湖のほとりにある。この湖の底からは温泉が湧き出していて、寒くなると湖面から湯けむりがたつそうだ。冬は一面雪景色になるというけれど、雪のなかにある湖の底からこんこんと温泉が湧いているなんて、不思議な感じがする。

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湯梨浜町へは、鳥取砂丘コナン空港から車に乗り、日本海に面した道路をひたすら西へ走り、40分ほど。駐車場に降り立つと、一瞬にして温かい光と静けさに包まれる。湖へとそそぐ水路のへりを歩き、吸い込まれるように町のなかへ歩いていくと、通りには大正、昭和の頃からそのままの姿を保つ家屋や商店が並んでいる。

内山さんが働くゲストハウス「たみ」は、古い家が並ぶ通りにあった。なかにはカフェがあって、宿泊客やシェアハウスの住人、近所の人たちが集う場にもなっている。玄関を入ると、女の子がひょっこり顔を出し「こんにちは」と迎えてくれた。内山さんだった。

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内山さんは沖縄県立芸術大学を卒業し、一旦故郷の浜松に戻った後、この町に越してきて住居兼アトリエをかまえた。最近は、半日仕事をして、残りは作品制作という生活だ。

大正元年に建てられた家屋の奥に入り、木でできた簡素な階段を上がっていくと、顔を出したところに天井の高い屋根裏部屋が広がっていた。そこが、内山さんの家だ。壁際には天井まで棚が築かれ、懐かしいおもちゃがぎっしり詰まっている。奇跡的に残されていた、昔と今のはざまに浮遊しているような空間だった。 img_9831
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ソファや冷蔵庫、机など、足りないものはほとんどすべてご近所さんからもらい受け、シンクは、解体したばかりの家から貰ってきたものを大家さんと仲良しの水道屋さんに取りつけてもらった。ほかの土地からやってきた女の子が、長いこと閉ざされていた倉庫の奥に自分の場所を見つけて住みはじめるなんて、誰が想像していただろう。

細長い部屋を二つに分け、半分はアトリエ、もう半分はキッチン、リビング、寝室として使っている。

細長い部屋を二つに分け、半分はアトリエ、もう半分はキッチン、リビング、寝室として使っている。

旅のそばにある暮らし

内山さんは、大学生の時からあちこちを旅していた。旅をすると、いつも作品のこと考えてしまう。沖縄の大学へ行くと決めたのも、「こんなところで絵を描いたら気持ちがいいだろうな」と思ったことが大きな理由のひとつだった。でも、鳥取へ越してきた時はそんな感覚だけではなかった。

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「大学を卒業してしばらく、どうしていいかまったくわからなくなってしまった時期があったんです。当時は沖縄でアルバイトをしながらひとり暮らしをしていたのですが、生活費を稼ぐのに精一杯で、絵を描いてもなんだかうまくいかなくて。結局、卒業して1年後ぐらいに『このままじゃダメになる』と思って泣く泣く実家に帰りました」

その時内山さんは、持っていたものをほとんど手離したという。
「もう『こんなもの』みたいな感じで、売り払ったり捨てたりしました。大好きだった本もバックパックも、母からもらった浴衣まで。たぶん、すごく追いつめられていたんだと思います」

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それから浜松の実家に戻り派遣の仕事をはじめたけれど、事務仕事が性に合わなかった。心のなかは喪失感で一杯で、作品をつくる余裕もなかった。そんな時、瀬戸内に住む人から「浜松に行くので会いませんか」という連絡が舞い込んだ。

「その方は瀬戸内にある宿のオーナーで、大学生の頃、瀬戸内芸術祭に行って会った時以来だったんですけれど、喫茶店で会うことになって」

そこで内山さんは、久しぶりに会ったその人に『千と千尋の神隠し』の「カオナシ」みたいだといわれる。

「『昔はあんなに楽しそうに笑っていたのに、なんて顔しているんだ』って。その言葉を聞いた時に、初めて自分は元気がないんだと気づいたんです。頬をパシーンと叩かれたような感じでした。それで、その方に『鳥取に、「たみ」っていうおもしろい場所があるから、一度行ってみなよ』といわれて。浜松に帰ってきて初めて、そうだ、どっかに行こうって思ったんです」

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その時は、鳥取に行って絵を描こうと思っていたわけではなかった。

「それまで、いつも作品をつくらなきゃと焦っていたんですけれど、そういう思いも全部捨てて、とにかく自分がやりたいことを素直にやってみようと思ったんです。

その人にも『作品をつくるだけがアーティストじゃない』といわれて、絵を描く前にひとりの人間として地に足を着けないと、と思って。それで絵を描きたいという気持ちが湧いてこないんだったら、もう描かなくてもいいじゃんって」

すぐにバックパックを背負って浜松を飛び出し、それから1か月間、「たみ」でヘルパーとして働く。ヘルパーの仕事は、半日程度ゲストハウスの仕事をすれば滞在費が無料になり、空いている時間は自由に過ごしていていいというものだ。

「出かけたい時は出かけるし、何もしたくない時は何もしないし、おいしいご飯も食べるし、人と喋りたくなったら喋るし…そういう風に過ごしていたらどんどん心が落ち着いてきて、次のことにクイッと頭が向いたんです」

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1カ月後。元気を取り戻した内山さんは、「たみ」の仲間に見送られ、また旅に出る。大阪、台湾、城之崎、一旦実家へ戻り、東京——その頃、内山さんはまた焦りだしていた。

「鳥取でのんびり過ごしていた時に『やっぱり自分は作品をつくりたい人間なんだ』と気づいて、そのためにはアトリエが必要だと思ったんですけど、着地点が見つからなかったんです。それで東京にいる時に、もうどこに住むか決めなきゃ、と必死で考えて……その時にはっと『鳥取だ』と思ったんです」

「鳥取に行って参ります」
赤いリュックひとつでお引越し

「鳥取に住む」と決めた内山さんは、すぐに実家へ戻り両親に「鳥取に行って参ります」と告げ、「たみ」の共同代表のひとりである三宅航太郎さんに「鳥取で家を探そうと思います。そのためにヘルパーをさせてください」とメールを書き、鳥取へ向かった。それから「たみ」に戻ってきた時の安堵感は、今でも忘れられない。

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「鳥取に夜着いて車を降りた時に、暗闇のなかにふわっと「たみ」の明かりが灯っているのが見えて『あ、ここだー』という気持ちになって、その時は涙が出るほど嬉しかったです。それで、必死で涙をこらえてヘコヘコしながら入っていったら、キッチンでいつものように料理をしていた女の子と男の子が『あ、依津花さんおかえりー』といってくれて」

でも、なぜ鳥取だったのか。内山さんに尋ねると、ひと呼吸おいて次のように答えてくれた。

「たぶん、私が知っている場所のなかで、鳥取が1番静かな場所だったんです。でもまったく静かなわけではなくて、『たみ』のような、新しい人が行き来する場所もあって、ふと刺激が現れては消えていく——そういう距離感が心地良かったんです。自分で自分のことを守れる安全な場所だ、鳥取なら大丈夫だ、という気持ちでした。」

引っ越しの荷物は、バックパックに入る分と、画材の入った段ボール2箱だけ。
「前に持っていたものはほとんど手放していたので、荷物はなかったんです。旅していたときも、このポケットには洋服、ここには飲み物とか、バックパックを部屋みたいに使っていました。この赤いバックパックは、鳥取にはじめて来る1週間前ぐらいに買ったんですけど、そのときに、この子と一緒に行くぞーって思って、特別な愛着があります」

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そして気持ちも新たに、鳥取でヘルパー生活を再開。今度は家を見つけるという目的がある。それからしばらくして、今住んでいる家と出会った。

「三宅さんから、いい倉庫があるよというのは聞いていて。ある日、偶然その建物に入ることができたんですけど、一目見て気に入ってしまって。すぐにここに住みたいと思いました」

もともと倉庫だったその場所は、もちろん人がすぐに住める状態ではない。それから大家さんを説得すること、約1か月。大家さんがついに「うん」といってくれると、すぐに内山さんの家づくりははじまった。
近所の人たち総出で取り組んだ片付け作業は、2日間ほどで完了してしまったという。
その後1カ月かけて、細かい部分を掃除したり、拾ってきたシンクを取り付けたり、トイレをつくってもらった。長い間締め切られていた物置きは、地元の人たちの協力のもと、少しづつ住空間へ変化していった。

旅をするように

内山さんは松崎駅前の「あすこっと」という喫茶店で新聞を読むことを日課にしている。テレビもインターネットもほとんど見ない生活を送っているだけに、社会で起きていることをじっくり眺める、大事な時間だ。

img_2185 img_2114img_2147 その日、翌日からはじまる個展の準備に追われている内山さんは「あすこっと」にいた。展覧会のタイトルは「Traveling Exhibiton(=旅をする展覧会)- それはもう こなごなの 粒子になって気流にのって飛んでいってしまった」。

「もっと自分が好きな旅をするように、柔らかく絵を描けないだろうかと思って、鳥取、浜松、沖縄を旅しながら制作を続け、発表していこうと思っています。でも今、展示のレイアウトにちょっと悩んでいるので、ご飯が喉を通らなくって…」
そういって、内山さんはお腹をおさえた。でも、これはきっと、いい緊張。

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次の日の朝、会場へ行くと、松崎駅の隣にあるはわい・東郷温泉観光案内所の前に子どもたちと内山さんが座り込んで蟻を眺めているのが見えた。この観光案内所が、今回の展覧会のひとつめの会場だ。近づいていくと、内山さんがぱっと顔を上げた。その顔は、昨日とは打って変わって晴れ晴れとしていた。

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これから鳥取、浜松、沖縄をめぐる制作の旅が始まる。今の内山さんには、生まれ故郷があって、大学時代を過ごした大切な場所があって、帰っていく場所がある。だからこそ強く、しなやかに生きていけているように思った。

建物のなかには白い布が張られ、透明のシートが重ねられている。内山さんはそこへ、新しく線を重ねていく。

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編集協力:鳥取県

東京に暮らしながら、地元とどう関わりを持ち続けていくか。 浜松にて、写真家・若木信吾さんの大規模な写真展がはじまる。

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浜松市美術館にて9月5日から始まる展覧会「Come & Go」の設営風景。

浜松市美術館にて9月10日から始まる展覧会「Come & Go」の設営風景。

 

ーー浜松に「BOOKS AND PRINTS」の最初の店をオープンさせたのは、2010年でしたね(現在の場所に移転したのが2012年)。商店街のアーケードの中にある、小さな小さな本屋さんで、若木さんのお父さん“キンヤさん”が店番をされていた。どこか外国にある本屋さんのような佇まいもありました。地元で本屋を始めようというときに、どんなイメージを持たれていたのでしょうか?

「本屋になりたいわけではない。あくまで自分は写真家という本分があった上でのやってみたいことでした。サンフランシスコに住んでいたころ、近所のバス停から家まで歩いていく間に、小さな本屋が3、4軒あったのだけど、品揃えにもそれぞれ個性があって、暇を見つけては覗きに行く、一番落ち着く場所で。サンフランシスコは“本の街”と言われていますけど、僕にとってはそうした本屋の存在があるというだけで理想的な街だった。だから、自分で本屋をつくりたいと思ったのも、浜松の街をもっとよくしたいとか、個人の利益を追求したいということではなく、ただ自分が好きだった本屋のある街の風景がつくれたらいいなという、夢のような思いだけだったんです」

ーー風景を作りたいというのは、ある意味、写真家的な発想かもしれないですね。なぜ、自分が暮らしている東京ではなく、離れた地元だったのですか?

「単純に、この夢見がちな話を実現する場所として、家賃の高い東京の街は現実的ではなかったんです。やるなら浜松しかないと。地元だから全く土地勘がないわけではない。その頃にはすでに、浜松はドーナツ化現象の研究対象になるくらい、中心はシャッター街で人がいなくて、その周りに大型ショッピングモールが次々とできて、みんな家族で1人1台車を持って郊外型の生活をしていました。空洞化したシャッター商店街で店を借りたのは、まず家賃が安かったのと、浜松駅から近くて徒歩で来られる立地だから、県外からも来てもらえるようになれば、店としてなんとかやっていけるんじゃないかと思ったんです」

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2010年にオープンした最初のBOOKS AND PRINTS。下の写真の一番左に写っているのが、若木さんのご両親。 写真:下屋敷和文

苦肉の策から生まれた、
理想的なコミュニケーション

ーーそうした街の実情もわかった上で選んだ場所だったんですね。

「でも、実際始めてみると、持っているつもりだった土地勘もずっと過去のものだったとすぐに気が付きました。ある程度予想はしていたけど、自分が思い描いていたイメージと、浜松の人たちとの間にはギャップがあって、どこまでなら受け入れてもらえるのか、というのをやりながら調整していくしかなかった。その調整役になってくれたのが父でした」

ーー昨年、浜松の「鴨江アートセンター」で開催された若木さんの写真展に伺ったときにも、若木さんのお父さんが地元の若者たちから「キンヤさん」と慕われているのが印象的でした。なんだかいい光景だなぁと。

「今の場所に移るまでの2,3年は、定期的に父が店番をしてくれていたのでね。店で若い人たちと接するから、背筋が伸びてずいぶん若々しくなりましたよ(笑)。でも、オープン当時は父と意見が合わずに、何度かぶつかることもありました。浜松の人たちの好みは父のほうがわかっていて、『普通は店の名前が入った袋を用意するもんだろ』とか『ショップカードつくれ』とか、いちいち文句を言われて(笑)。僕自身、これまでカメラマンとして名刺やDMをつくって営業してきたけど、それが役に立ったような実感はなかったですから。そういう印象のつくり方ではダメだと思っていたんです。本屋をやるなら、もっと人と人とを面と向かってつなげていくようなことをしていくべきだと考えていました。って、偉そうなこと言っても、自分が店に立つわけではないんですけど……(笑)」

ーー(笑)でも親子だからこそ、率直に言いたいことを言い合ってお店の土台が作れたのかもしれないですよね。ぶつかっても健康的な感じがするというか。

「確かにそうですね。そうこうしているうちに、僕がハンコもショップカードもつくらないことにしびれを切らした父が、ショッピングバッグに絵を手書きするというのを独自に始めたんですよ。『せっかく本を買ってくれた人に、無地の袋じゃなんだか申し訳ない』と言って。一つひとつ違う絵を描いていた。それが結果、僕が求めていた一対一のコミュニケーションで、実際にも功を奏して常連のお客さんが増えていきました」

ーー押し問答の末にでてきた苦肉の策が……。でもこれは、都会の本屋さんには真似できないことですもんね。

「そう、田舎的発想なんだけど、今の都会の人からしたら、すごく洗練されたやりかたですよね。なんだかんだいって、振り返ってみても最初の店は父の存在が大きかったと思います」

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現在の店舗があるKAGIYAビルの入口。本の形をした看板が目印。

松で、街への新しい視点を持って
おもしろいことをはじめていた人たちとの出会い

ーーお父さんは、現在の場所、KAGIYAビルに移転するときに退かれたのですか?

「KAGIYAビルでは2階のフロアだったので、階段の登り降りが大変というのもあったし、店の広さも倍以上になって、お客さんとの一対一の関係というのが築きづらい環境になったことも退く理由だったと思います。僕自身は、小さな店のときも、今の店の広さも、本屋としては両方にいい部分があると思っていました。小さい店だと、店とお客さんの関係性は深まっていくけど、サイン会や朗読会のような、作家とお客さんをダイレクトにつなぐようなことはできないですから。そんな思いもあって、もう少し広めの場所はないかと探していたときに出会ったのが、KAGIYAビルのオーナーで、浜松ではよく知られる丸八不動産の社長・平野啓介さんでした。平野さんは、当時お父さんから代替わりされて社長に就任されたばかりで。東京での生活も長くて僕と世代が近いこともあって、話してみると感覚も合うし、街に対しても共通の価値観がありました。彼との出会いも、自分にとって大きな出来事でした」

ーーKAGIYAビルは、浜松の街中に多く残っている共同建築のひとつだそうですね。戦後すぐのころ、お金はないけど燃えないビルが建てたいと、オーナー数名でお金を出し合って建てていったのが共同建築と呼ばれるビルだった。それが、今ではネックとなって、オーナーの意見が一致しないと建て替えられないし、貸しづらいという状況に陥ってしまっていると聞きました。平野さんがKAGIYAビルを共同オーナーから丸ごと買い取って、若い世代にテナントとして安く貸出しはじめたというのは、そこに風穴を開けるような動きでもあったということでしょうか。

「大半の不動産屋は、会社の利益のために不動産を回していくにはどうすればいいか、という部分しか考えないじゃないですか。平野さんは、若い人たちがビジネスにチャレンジできるような場をつくり、それがやがては街に還元されていくんだというビジョンを持っているところが、他のディベロッパーと大きく違っていました。今は高額な家賃が支払えなかったとしても、ここで若い世代がビジネスを経験して次につなげていけたら、それが浜松で起こっていることならば、やがては街の財産になっていくはずですから」

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現在の店舗。広々とした店内で、座ってゆっくり写真集や本を見ることができる。おいしいドリップコーヒーも飲めます。

ーー大きなお金をかけて建物だけをつくり変えて終わり、ではなくて、もっと地道に、土を耕すような長いスパンで都市開発を考えているということなんですね。KAGIYAビルに移ってからはイメージの通り、トークショーやイベントを積極的に展開されて、この時期から「BOOKS AND PRINTS」の認知度もグンと上がっていったような気がします。

「そうですね。それで県外からのお客さんが増えたのはありますね。あとは、同じ駅前のエリアで「手打ち蕎麦 naru」を営んでいる石田貴齢さんや、ヘアサロン「enn:」の林久展さんも、僕と同世代で、KAGIYAビルに移ったころは、毎週のように彼らが東京からおもしろいアーティストを呼んだり、地元の若いアーティストをピックアップしたりして展覧会やイベントを企画して、活気が生まれてきているような時期でした。その勢いに便乗させてもらったようなところもありますね(笑)。うちのスタッフも、父から地元の若い人に世代交代したときだったから、横のつながりもできやすかった。自分がいつも浜松にいるわけではないので、彼らの存在は心強かったし、ずいぶん助けられました」

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©若木信吾 「Come & Go」写真展より。浜松の遠州灘海岸にて撮影。

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©若木信吾 写真集『Takuji』より

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©若木信吾 写真集『英ちゃん弘ちゃん』より

元と関わりはじめてから
6年目に開催される大規模な展覧会

ーーそうした流れがあり、昨年は「浜松ゆかりの芸術家賞」を受賞したことを機に、市のサポートもあって「鴨江アートセンター」での展覧会に続き、今年の「浜松市美術館」での展覧会が開催されることになりました。浜松の街で若木さんの存在感が少しずつ大きくなっているような気がします。

「浜松で有名になりたいという思いはないんです……。でも、いわゆる写真愛好家ではないような人たちにも見てもらいたいという気持ちはあるし、そのいい機会をいただいたんだと思っています」

ーー今回の写真展の中には、新作である“写真家のポートレイト”シリーズが加わりました。この新作は、どんな思いからスタートされたのですか?

「新しいシリーズは、編集者の後藤繁雄さんからの助言があって始めたことでした。『写真家のポートレイトを撮ってみたらどうか』と言われたとき、写真家と聞いて自分が思い浮かぶ人たちは、自分より上の世代の大御所ばかりで、おまけに同業者となるとオファーをするのも自分でモチベーションを上げていかないとできないことだなと思った。でも、自分自身、自然発生的に生まれたものが作品になってしまうような年齢ではなくなってきているし、そうしたちょっと面倒なことを腰を据えてやることに意味があるように思ったんです」

石内都_2015

荒木経惟_2016

©若木信吾 新作のシリーズより、石内都さん(上)、荒木経惟さん(下)

ーー実際に撮り始めてみて、いかがでしたか?

「意外と断られなかった(笑)」

ーーそれだけですか?(笑)

「今回は、短く編集していますがインタビューを映像に収めていて。インタビューで話してくださることが、同業者だから身にしみて理解できるんですよね。どんな思いでシャッターを切っているのか、(写真家を)どう始めて、どう終えるのか。大先輩でも悩んでいることは、そんなに変わらないんだな…っていうのが知れたことも自分にとってはよかったことだし、もうちょっと自由にやってもいいかもな、という気持ちも生まれましたね」

ーー浜松の街と、関わりはじめてからこれまで、について伺いました。“これから”についてはいかがですか?

「今、KAGIYビルの周辺は特に、ちょうど時代の狭間にあると思うんです。共同建築自体、街並みとしてはレトロで味わいがあっていいとは思うけど、やっぱり老朽化は止められなくて、大きく建て替えないといけない時期がもうそこまで来ている。そんな時期だから、僕らは古いビルを安い家賃で借りられているんですよね。たとえば10年後、真新しいビルがずらっと建ち並んだとき、今の倍以上の家賃になったとしたら、本屋としては立ちゆかなくなるだろうなと。そしたら、また別の“狭間”を探して移動して、新しい風景をつくればいい。そんなふうに、街を泳いでいけたらと思っています」

BOOKS AND PRINTS
静岡県浜松市中区田町229-13 KAGIYAビル201
電話:053-488-4160
営業: 13:00〜19:00
休:火・水・木

縄文から続く文化をどう伝えていくのか。 写真家・僧侶の梶井照陰さんたちの挑戦

自然、文化、歴史…… 可能性を秘めた佐渡島と、 そこにかかわる人々。
第4回 佐渡の旅はまだまだ続く。

「かんじーざいぼーさつぎょーじんはんにゃーはーらーみーたー……」。祖父がポクポクと木魚を鳴らしながら読み上げる般若心経と一緒に、何を読んでいるのか意味もわからず経典のルビをニヤニヤしながら読む。これが、私の夏休みの朝の日課であった。

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上は冨月寺の入り口。下は境内。(2014年帰省時の写真、以下同)

上は冨月寺の入り口。下は境内。(2014年帰省時の写真、以下同)

母の実家である冨月寺(ふげつじ)は、佐渡の両津という町にある曹洞宗の小さな小さなお寺。毎年夏になると、お盆の手伝いのために佐渡に帰省した。祖父は、自分たちのご先祖様だけでなく檀家さんみんなのご先祖様に祈らねばならないので、夏はとても忙しい。檀家の人たちが訪ねてくる「御霊」という祭事の日には、親戚総動員で食事の準備をし、おもてなしをしていた。その祭事以外の日は、カエルを捕まえたり、オニヤンマにヒモをくくり付けて散歩してみたり、浜辺でスイカ割りをしたり、海に潜ったり、夜の境内で肝試しをしたり……。夏休みの典型のような素晴らしい日々を過ごした。般若心経は祖父から昔話のように聞かされていたので、今でもそらで言うことができる。

しかし、祖父母が他界してからは、とんと足が佐渡から遠のいてしまった。仕事が忙しかったり、他の地域や外国ばかりに目が向いていたという理由ももちろんある。また、現在叔父が冨月寺の跡を継いでいるが、島外在住のため仏事がない時に出入りすることができなくなったのも大きい。そして、叔父の後の継ぎ手がいないため、数年前に同じ宗派の方に家を譲ることが決まっている。だから、祖父母の家だった寺は、ゆくゆくは他の人の手にわたってしまう。そんなこともあって、佐渡はいつの間にか、行きたくても簡単には行けない場所になってしまっていた。

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上の茶室の壁は、祖父のこだわりで佐渡の赤土が使われている。お茶の先生であった祖母からここで茶道を習った。下は玄関に置いてある橇付きの篭?(名称不明) 昔は茅葺きの屋根で囲炉裏があったが、修繕が非常に困難なため普通の屋根に改装してしまっている。

上の茶室の壁は、祖父のこだわりで佐渡の赤土が使われている。お茶の先生であった祖母からここで茶道を習った。下は玄関に置いてある橇付きの篭?(名称不明) 昔は茅葺きの屋根で囲炉裏があったが、修繕が非常に困難なため普通の屋根に改装してしまっている。

第1回目にも書いたが、佐渡に再び興味が湧いてきたのは最近のことだ。その理由のひとつはジャンマルクさんたちのお陰、なのかもしれない。「La Barque de Dionysos (ラ・バルク・ドゥ・ディオニゾス)」の取材で、周りの仕事関係の知人たちが立て続けに佐渡を訪れて、その感想を直接聞いたり、SNSなどで見て、佐渡にそんな洒落た店ができたのかと驚いていた。その後、アーティストの泉イネさんから熱量のこもった佐渡話を聞いて、少しずつ奮い立たせられた。

とはいえ、イネさんのように作品を作ったり、ジャンマルクさんのように農業ができるわけでもない私は、はたと考えてしまった。故郷のために何ができるんだろうかと。

梶井照陰さんのお寺。佐渡の北端、鷲崎という地域にある。天気がいいと海の向こうに、山形県の鳥海山が見えるという。

梶井照陰さんのお寺。佐渡の北端、鷲崎という地域にある。天気がいいと海の向こうに、山形県の鳥海山が見えるという。

一方、今回旅の素晴らしき案内人としてお世話になった写真家・僧侶の梶井照陰さんの祖父の家も観音寺というお寺である。こちらは真言宗。佐渡では一番多い宗派だ。ちなみに曹洞宗は二番目。偶然にも梶井さんと私は同い年(1976年生まれ)である。梶井さんは福島県郡山市生まれ。ご両親は別の仕事をしており、僧侶の祖父の姿を見て育った。

昆虫少年だったという梶井さんのコレクションの一部。

昆虫少年だったという梶井さんのコレクションの一部。

郡山で生まれたが、すぐに千葉へ移り、その後新潟で幼少期を過ごした梶井さんが幼い頃熱中していたのは、昆虫採集だった。最初はいろいろな昆虫を採っていたが、蝶の魅力にハマった。境内のそばにある段ボールには、コレクション箱がいくつも入っていた。しかし、中学生になると、昆虫を殺すのが嫌になり、蝶の写真を撮るようになったのだという。

「父が使っていなかった一眼レフのカメラがあり、昆虫を撮りながら学んでいきました。ずっと昆虫を撮っていくと、種類ごとに顔が違うんです。その違いがおもしろくて、最初は蝶で、その他の昆虫も撮るようになっていきました。どうやったらうまく昆虫の写真が撮れるかを、昆虫写真家の海野和男さんの本や今森光彦さんなどの写真集を見たりしていました」

高校時代は登山部に入部。昆虫好きな梶井さんにとって、それは自然な流れだったようだ。そして大学進学の時、高野山大学の密教学科を選択する。すべてを受け入れるという仏教の考え方に漠然と惹かれるものがあったからだという。

観音寺の境内。

観音寺の境内。

「密教は考え方がとてもおもしろい。ブッダだけが仏様なのではなく、仏様は宇宙全体を指します。ブッダも宇宙すべてを構成する部分のひとつであって、仏陀は宇宙を通して教えを得て悟りを啓いた。だから、その大本となる宇宙を信仰し、宇宙からの教えに耳を傾けようというのが密教。真言宗の場合は、輪廻からも離れるのが目的なので、即身成仏して死からも解放される」

大学時代は、宿坊で住み込みをしながら真言宗の勉強をし、修業をしながら阿闍梨(あじゃり)という位を得る。卒業論文は「カンボジアの大乗仏教」。かつてクメール王国が君臨していたカンボジアやベトナムのあたりには、大乗仏教の名残がある。ベトナムやカンボジアを巡り、写真を撮りながら、大乗仏教の軌跡を尋ねて回った。

「バラモン教やヒンズー教には神様がたくさんいますが、佐渡のお寺で普通にご祈祷する時にヒンズー教の神様にお唱えしたりする。念仏もサンスクリット語で真言を唱えたりもしますし、その点でアジアと日本と繋がっている感じがして。真言宗だと想像力を働かせて、結界を張って印を結び、そこに仏様を迎え一体となって即身成仏を目指す。真言宗や天台宗は、山伏とかと似ていて呪術的な側面が大きいのも興味深いです」

大学卒業後、祖父の具合が悪くなったこともあり、佐渡に移り住んで真言宗の住職となった。『NAMI』の写真を撮り始めたのは、鷲崎に住んでからのことだ。実際に鷲崎の近くで海を見たが、私が知ってる佐渡の海とは全然違うものだった。私が知っているのは、一年のうちの一番いい時期、夏休みの海水浴の海だけだ。梶井さんの写真集を見ていると、まったく人を寄せ付けないどす黒いような海や、激しく猛々しい波がそこにはある。それが佐渡の真実の姿なのだ。

写真:梶井照陰

写真:梶井照陰

「波を俯瞰する感じではなく、没入する感じで波を撮影したいと思い撮り始めました。佐渡の冬は、秒速30メートルくらいの風が吹くこともあって、そうすると海が見えなくなるくらいに波しぶきが立つ。でも、その風が止む瞬間があって、視界が晴れる時がある。佐渡の海は海底の地形が複雑で、どんな波が来るかはわからない。波には一つとして同じものはない。その予測できない偶然の部分がおもしろい」

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岩屋山石窟。縄文時代に生活空間だった場所が、中世以降に神域になったと考えられている。左が梶井照陰さん、右が坂本大三郎さん。私の今回の旅の目的のひとつは、この二人を会わせることでもあった。

岩屋山石窟。縄文時代に生活空間だった場所が、中世以降に神域になったと考えられている。左が梶井照陰さん、右が坂本大三郎さん。私の今回の旅の目的のひとつは、この二人を会わせることでもあった。

賽の河原。子どもの霊が集まる場所と言われる信仰の場所。

賽の河原。子どもの霊が集まる場所と言われる信仰の場所。

鷲崎の梶井さんのお寺まで行く道中で、佐渡の北側にある大野亀、二つ亀という奇岩を巡り、縄文時代の遺跡や佐渡にまつわる伝説の場所などに連れて行ってもらった。佐渡は予想をはるかに上回る大きな島だ。ジャンマルクさんがビストロを構え、現在移住者が増えつつあり少しばかり活気のある南の方と、北では雰囲気はがらりと違う。手入れされずに朽ちていく畑や、使われずにボロボロになっていく家は外から見ていてもよくわかる。梶井さんの住む鷲崎の集落も、どんどん人がいなくなっているのだという。確かに、住むには厳しい場所かもしれない。しかも、観光で友人たちと連れ立ってきゃっきゃと訪ねて楽しいというよりは、静かに深く考えさせられるような場所でもある。今回訪ねたのは、そんな場所ばかりだったように思うが、個人的にはその両方を見られたのが非常に興味深かった。

泉イネさんが、何度となく「佐渡に連れて行きたい作家がいっぱいいる」と話していたのも納得だ。この場所には、生々しい生と死の営みがあり、過去から現在までの時間の紆余曲折が刻まれている。佐渡金山のようなラピュタ化してしまった産業の遺構からは、エネルギー盛衰の時間の流れが見てとれる。

梶井さんは、波の写真撮影を継続するほか、限界集落の写真を各地で撮ったり、アジアには足茂く通い、大乗仏教の名残も撮影している。そして、今年の8月から始まった「さどのしま銀河芸術祭」の実行委員長を務めることになった。佐渡で? 芸術祭? 初めて聞いたときは、不安の二文字しか浮かばなかった。全国各地で芸術祭が行われるのは悪いことだとは思わない。芸術祭を開けば人が来て地域おこしにつながるという、安易な幻想を抱いている地域もさすがに多くはないだろうし、実際に独自のおもしろい試みをする地域も少なくない。しかし、乱立しているのは事実で、よほどのことをやらなければ独自性は打ち出しづらいだろう。梶井さんは、芸術祭という言葉にどんな思いを持っているのだろうか。

「予算も僅かな中で、今年芸術祭を始めることは無謀だとの意見もあったのですが、まずは予算内でできる事から、佐渡にインスピレーションを得て制作した島内外の作家の作品等を展示したいと考えています。今回は第1回とは言っても0回みたいなもので、3年後の2018年に本開催できるよう築き上げていきたいと思っています。規模は小さくても、作家も見に来てくれる人たちも、何か新しい発見、出会いが見つかる芸術祭になればと思います」

新潟には越後妻有や水と土の芸術祭といった大型の芸術祭があるが、今回は敢えてディレクターは立てずに、すべて自分たちで運営を行うのだという。もちろんどんな形になるのかはわからないが、少しずつ動き出したようである。

冒頭の自分に何ができるか、ということへの回答はまだわからない。しかし今回の旅で、佐渡の魅力を味わうとともに、厳しい現状や、人物相関図などもよくよくわかった。同い年で、しかも祖父の家が佐渡の寺という似た境遇の梶井さんに会えたのも偶然ではない気がしている。

梅原猛は『日本の霊性』の中で、佐渡を独特な文化を形成した場所として紹介し「流罪者にとって佐渡は住みにくい辺境の地であったが、島人にとってそれらの人びとは憧れの都の文化を運んでくれるまれびと(客人)であった」と書いている。ひょっとしたら島国である日本にも同じことが言えるかもしれないが、佐渡の歴史を見るにつけ、外から入ってきたものを受け入れて自分たちの文化にしてしまう、許容の深さには驚かされる。その「まずは受け入れる」という気質は、梶井さんが言っていた仏教の思想にも通ずる。流入してくるオルタナティブな文化を受け入れつつも、根底にはそれまで長く続いた縄文文化が流れている。梶井さんは佐渡の地名とアイヌの言葉に共通点があるという話をしていた。古代の人たちは、この小さくて大きい島にどうやって渡ってきたのだろうか。また、自然や神とどうつながって生きてきたのだろうか。そういえば、今回は山毛ガ欅平山の杉の巨木郡を見に行くことは叶わなかった。気になることはまだまだ多い。

ひとまず私は今回の旅で坂本大三郎くんを連れてきたように、また他の人を連れて佐渡を訪れて、もう少し佐渡について探っていきたい。

 

ボルダリングが、人と町との心をつなぐ|ひのかげの、眩しいほどにいい話その①

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クライミングのスキルを、
町づくりに生かす

武井あゆみさんが日之影町の〈地域おこし協力隊〉となったのは、2016年4月のこと。着任からわずか数ヶ月という現在は、観光協会で〈癒しの森の案内人〉を務める高見昭雄さんなど、先達の方たちにこの町の歴史や文化や地理などを教えてもらい、それを吸収することにせいいっぱい力を注ぐ日々を送っています。広島出身の武井さんは10年前に熊本に暮らし始めるとともに、そこでボルダリングのキャリアをスタートさせました。九州のボルダリング・エリアをぐるぐる回りながらスキルを磨き、やがては国体の山岳競技にも出場するほどの実力をつけていきます。その熊本時代には何度も日之影にも足を運んだそうです。

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「初めて日之影に来たときには、緑も、川も、岩も、すべてが大きくて、すごく感動的だったことをいまも覚えています。日之影ボルダーは、特に、岩場だけじゃなく、川があり水があるのが他のボルダリング・エリアとは全く違って面白いところですよね。時には泳いだり水遊びしたり、すごく癒されますね」

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武井さんは熊本で3年間を過ごした後、東京へ行き、スポーツクライミングのインストラクターとしてクライミング・ジムに勤務。そして6年後の2016年、娘さんの小学校卒業のタイミングに合わせて、再び九州への帰還を果たし、新しいキャリアを日之影の町でスタートさせた、というわけです。

「東京にいる間も、九州に帰りたい帰りたいっていつも思っていました。そのくらい、九州の自然がもう本当に大好きなんです。だから、こうして日之影に来ることができてとっても嬉しいです。まさか自分が〈地域おこし協力隊〉になるとは思いもしませんでしたけど。本当はインストラクターとしての転職をめざしていたので。これも、ご縁というものなんでしょうね」

都会では必要とされた職業がローカルでそのまま必要とされるとは限らないけれども、しかし、町おこしという切り口からなら、特殊なスキルがうまく仕事としてハマる可能性があるということかもしれません。壮大な自然を町の観光資源にしていきたい日之影の町と、九州に戻ってクライミングのスキルを生かして仕事をしたいという武井さんとの思惑が一致した奇跡みたいなこの出会いがまさにそれであり、とても幸運なマッチングだったのではないでしょうか。

雨の日の場合の、ボルダリング風景

さて、この記事の取材日、残念ながら、日之影にはどどどっと大雨が降りました。武井さんと取材チームは、巨石が点在する日之影川の川辺に立つこともできなかったため、日之影のボルダリング・エリアのひとつである〈仲組〉という地区へ行きました。ここでは、廃校となった〈仲組小学校〉を室内トレーニング施設として活用し、クライマーの皆さんが利用できるようにしています。ボルダリング初心者である(というか呆れるほどになにも知らない)取材チームは、どんなふうに壁をのぼるものなのか、早速、武井さんにお手本を見せてもらいました。

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かつて九州でスタートさせたクライミングのキャリアによって、再び九州への帰還を果たした武井あゆみさん。そのスキルや知識を日之影のまちづくりに活かそうと、日々、奮闘中だ。

壁に打ち付けられたポイントを、ルールに従って、手足だけを使いながらのぼっていきます。体全体の使い方やつま先や指先の使い方を解説してくれながら上へ上へとぐいぐい進んでいく武井さんの姿があまりにスムーズでイージーなので「まじでか!」と驚嘆しながら、そのしなやかなカラダの使い方にほれぼれします。

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これを見て、「試しに、ちょっとやってみようかな」と、〈癒しの森の案内人〉である高見さんもチャレンジ宣言。(いやいや、ご年配の高見さんには少しキビシいのでは?)という私たちの心のうちの心配をよそに、意外にも、ぐいぐいとスムーズにのぼっていきます。聞けば生粋の日之影人である高見さんは、子どもの頃から木登りが大好きだったらしく、日之影の自然のなかで永年蓄えてきた恐ろしいほどの身体的ポテンシャルを、私たち取材チームに見せつけてくれました(ちなみに取材チームは、その後チャレンジしたもののほとんどのぼることができず、残念な結果に終わります)。〈地域おこし協力隊〉もすごいけど、〈癒しの森の案内人〉もすごい! おそるべし、日之影の人びと。

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着任まもない武井さんをサポートし、日之影の地理や文化や暮らしについてアドバイスするのは〈癒しの森の案内人〉の高見昭雄さん。日之影の大自然で育った、ナチュラルボーンの木登り人だった。

人と地域を絆で結び、町を元気に

「日之影のエリアはトップクライマーによって開拓され、トポ(トポグラフィー:岩をのぼるための地図のようなもの)もたくさん公開されていますし、いまや九州でもトップクラスのボルダリング・エリアとして高い人気を集めています。難易度の低いものでも面白さがあったり、難易度の高いものでもチャレンジしたくなるようなワクワクがあったり、初心者から上級者までどんな人にもどんなふうにも楽しめるのがいいんです。そして日之影がなにより素晴らしいのは、町ぐるみでボルダリングを応援してくれているということです。じつはボルダリングというスポーツは、地域の人たちとの関係性がとても重要で、エリアによっては『知らない人が黙って山に入って勝手なことをしている』ということをきっかけに地域の人たちとのいざこざに発展するというケースも少なくありません。それに対して日之影は町の人たちの理解がすでにありますし、クライマーを快く受け入れてくださっているんです。

私のこれからの仕事は、そうした関係性をこれからも大切にしながら、さらに多くのクライマーと地域の人たちとをより多く、より深く繋いでいくための架け橋のような存在になることだと思います。まだまだ具体的なことはこれからですし、悩みながらではありますけどね」

と、武井さんは語ってくれました。

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奇しくも、巨石の多いこの地区のちかくは昔から鉱山として栄えた場所で、とくに明治の頃にはイギリスから鉱山技師が来て開発が進められたり、多くの労働者が各地から集まったり、町の人口が最高潮を迎えるきっかけとなった場所でした。そしてまた、1,969年に鉱山が閉山してから人口がぐんぐんと減少していったという、日之影の栄枯盛衰の象徴のような場所でした。

いま、こうして「日之影ボルダー」としてこのあたりの場所が再び注目を集め、人を呼び寄せ、甦ろうとしているのは、新しい再生の物語の始まりなのかもしれません。なんといっても美しく素晴らしい自然にあふれた、神話と伝説の息づく町ですから。きっとこれから、この地で、巨石に魅了されたクライマーと地域とが、より深い絆で結ばれていくことでしょう。

というわけで、ボルダリングの町・日之影に、ようこそ。

ボルダリングというスポーツをぜひやってみたい、今まで以上にもっともっと楽しみたい、自然を感じたい、そこでめいっぱいチャレンジしたい、ボルダリングで盛り上がりたい。そんなみなさんのお越しをこの町は待っています。その指先、そのつま先に至るまで、日之影の自然のパワーをじぶんの体に刻んでいってください。2020年東京オリンピックには、スポーツクライミングが追加種目として選定されたというニュースも流れたことですし。

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能文化が根ざす土地・佐渡島に “通住”しながら、アーティストが滞在できる場を作る

自然、文化、歴史…… 可能性を秘めた佐渡島と、 そこにかかわる人々。
第2回 泉イネさん(美術家)

 

泉イネさんは、東京生まれ。幼い頃は東京近郊で育ち、二年ほど京都に住み、また関東に戻ってくる。海外には一度も行ったことがなく、日本国内も数えるほど。本人曰く「動くタイプの人間ではない」という。佐渡のことを知るきっかけとなったのは、大学の頃に所属していた能クラブ。合宿で佐渡を訪れた経験が、彼女の脳裏に引っかかっていた。

「美大に入る前から、何かを作っていくには日本文化を知りたいとずっと思っていて、専攻は油絵だったのですが、本当に油絵でいいのかという疑問も常に持っていました。予備校の先生に相談をしても、日本画より自由に何でも作れる油画の方が私には合っているだろうと言われて疑問ももちつつ油画科へ。今はそこまで日本人であることを強調したいとは思いませんが、その当時は、自分の拠り所としての“日本人性”みたいなものを探していたのだと思います。それで日本文化を学べるクラブに入ろうと思い、最初は茶道と思ってたんですが、人気が高くて、人がたくさんいるところが苦手だったので能部へ行ったんです。そうしたら卒業間近の先輩が一人しかいなくて、そのまま部長になってしまい。こうなったらやるしかないなと。月に一度、喜多流の先生をお招きして、最初は一対一で教えてもらっていました。今考えると贅沢です。その後、少し部員が増えてきて、勢いで合宿に行くことになったのです」

そして初めての佐渡へ来ることになった。

お能で何故佐渡かというと、いま日本国内にある能舞台の約3分の1が全部佐渡に集中している。それほど能文化が色濃く残っている土地だからだ。古くは、室町時代に能楽を大成した世阿弥が流された(1434年)という人もいるが、当時の世阿弥は71歳、能楽を普及するにはちと年齢がいきすぎている。佐渡全土に渡り能楽が普及したのは、江戸時代。江戸から派遣された金山奉行、大久保長安(ながやす[ちょうあん]、1545-1613)の力が大きい。父が武田信玄のお付きの猿楽師であったことから、能楽衆としてた武田家に仕える。変わり者だが頭脳明晰だった長安は、後にに兄・新之丞とともに年貢の課徴・金掘りを司る蔵前衆に抜擢され武士の道に進み、金山開発にその才能を発揮する。

武田家が滅びた後は、徳川家に仕え、家康の元で検地や徴税などの地方巧者として能力を認められ、佐渡へと渡ることになった。彼は、他にも石見銀山、伊豆金山などの開発に携わり、江戸奉行の財政におおいに寄与することになる。大久保長安が佐渡に渡った時に、シテ方、囃子方、狂言方といった能役者を連れて行ったのだ。そして、佐渡の各地の神社や寺で能を奉納したことから、武士だけではなく農民たちにまで広く能の文化が伝わっていった。明治時代までの最盛期は、島内に200もの能舞台が立てられ活況を呈した。その後、少なくなったとはいえ人口6万人弱の島に現在でも30あまりもの能舞台が残っており、市民たちが能を演じているのだというからその文化は色濃いといって差し支えないだろう。

草刈神社能舞台。毎年6月15日に薪能が行われる。

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佐渡の宿坊に泊まり、簡素なご飯をいただきながら、能の台本である謡本を朗唱する「謡い」や、演目の部分を舞う「仕舞」の稽古をし、能舞台を見に行く。謡いや仕舞を実際に体感することで、泉さんは能の魅力を感じていった。

演目『猩猩』演じているのは、地元の方たち。佐渡では能が生活に密着している。

「何もない処を暗示させたり、何もしないことで何かを表す、そういう能の美学に日本文化の中でも研ぎ澄まされた部分があると思い惹かれました。主張したり発言することで何かを表現するのではない表現方法は、自分の絵や空間づくりをする時の考え方に近いし、そう在りたいなとも思っています。また、能に登場する主人公って亡霊が多くて、敗者を讃えるための怨念を鎮めるために舞う。すごくいい美学だなと思います。佐渡という場所で能が流行ったというのは、敗者の気持ちを受け入れる土壌があったからなんじゃないか、と最近では思っています。流されてきた人もきっと多かっただろうし。そういう能の中にある、悔しさや悲しさみたいなものを眺めたり、昇華させるという観点で能について改めて考え直している最中です」

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今回の旅では、年に一回6月15日に草刈神社で奉納される薪能を見に行った。記録によると草刈神社では1863年から能が舞われているのだという。今年の演目は『猩猩(しょうじょう)』、演じているのはすべて地元の人たちで、猩猩役をしたのは今年高校を卒業したばかりの女の子だった。暗闇の中で薪を燃やし、舞台が浮かび上がり、笛や太鼓の音に虫や鳥の声が入り交じり、森の中へと響き渡っていく。平日でしかも通り雨が降ったというのに、ほとんど地元の人だったのだろうか観客も多かったことに驚いた。

“アート”への違和感や疑問と
向き合いながら、感覚が動くほうへ

そして、泉さんの話に戻る。大学時代に能の魅力にハマりはしたものの、それを作品に反映させたりすることはなく、卒業後は絵画を中心とした美術家としての忙しい毎日を送っていた。しかし、泉さんの中で大学に入る前から抱えていた、えもいわれぬ違和感は徐々に大きくなっていった。

未完本姉妹 灰色い部屋  油彩  2008

「会いたい人と会って作品を作ろう」と思い、当時の生活環境の変わり目も重なって、名を泉イネに改め、2008年から「未完本姉妹」というシリーズに取りかかり始めた。それまで絵を描いて売ることで忙しく、旅にも出ず、ほとんど人と会わなかったことの反動のように。実在する6名の本好きな女性をモデルにした制作で、彼女たちは“本姉妹”という架空の呼びなで呼ばれている。6名は泉が個人的に憧れを持ちかかわりのある様々な職業の女性たちで共通点は本が好きなこと。彼女たちへのインタビューを元に紡がれたテキストや、実際に持っていたモノの断片、そして泉さんの絵や写真が展示の際にインスタレーションされ、虚と実がないまぜになった物語が進んでいく。このシリーズは2013年まで続けられ、その間に本繰り広げられる姉妹たちのプライベートな状況の移り変わり、泉さんとの関係性の変化なども作品に反映されていく。

ダンスセッション 2011 / higure17-15cas   photo : Hideto Nagatsuka

泉さんは、このシリーズを始めてから「アート」そのものに疑問を抱くようになった。

「それまでは、人と接するためにアートを媒介物にしていたんですけど、アートだからって絶対的にこれは素晴らしいものだと言えるんだろうかと考え始めてしまって。人に接したいと思って作品を作っていたのに、でも結局は最終的にアート作品にしなきゃいけないんだっていう意識が働いてしまう。作品は思うように作れなくなるし、せっかくかかわってくれた人との関係性も変わってしまった人もいて。それまで自分がいいと思ってきたアートって本当に素晴らしいんだろうか、という自信がなくなってしまったんですね。未完本姉妹の制作からすこし距離を置いて、ダンサーとの共同制作にシフトしました。それと同時に、2012年に体調を崩してしまって。医者に行ったら、案の定休んでくださいと言われて。自分の前に「休む」という言葉がつきつけられたんです。しばらくは何もできないので、病床で考え続けていました。少し体調がよくなってきた時に、納得できないことはできないけど、これまでとは違う何かを見たくなって、ちょっとでも感覚が動く方に行こうと思って、キュレーターの友人に話をして、上條さんと会ったんです」

泉イネさん(左)と、数年前佐渡に移住し自給自足の生活をしているという男性。

「休む」という言葉が目の前に突きつけられた時、泉さんは考えた。美術家が休むって何なんだろうかということを。泉さんの世代では、美大を卒業後にギャラリーに所属し、日本や海外で個展を行い、作品を売り、美術館で個展をする= 働いている ──それがアーティストとして生きていくためのひとつのロールモデルだった。けれどもそれは海外のモデルを取りいれているだけのことが多く、そのアートシステムの限界を肌で感じつつ、どうやったら無理のない方法で自分のやりたい表現が続けていけるか、まずは休みながら考えたいという。その活動の一環として取り組み始めたのが、「sadogaSHIMA ART MISTLETOE(サドガシマ アート ミスルトゥ)」である。「Mistletoe」というのは宿り木という意味だ。

 

地域おこしのアートではなく、横からぽんと作品をもってくるアートでもなく、審査されて課題やレポートを提出しなければならないアートでもなく、できれば何もしないいまそこに残っているもの / ことをみつけたり、活かしたりを個々のペースでできるようなこと。

いつか、いろんな表現をする人たちが気が向いたときにそこへ行って、ゆっくり時間を過ごせるようになったら。

佐渡島というひとつの島、環境、歴史を知ることで、自分へ還ってくるものを見ることができたら。

そこから、何かその島へ還すことがことができたら。

いいような気がする。

sadogaSHIMA ART MISTLETOEより 泉イネさんによるステートメント

 

佐渡にアーティストが長く滞在できるような場所を作りたい。レジデンスと言ってしまえば格好はつくのだけど、観光のためとか集客のためとかいう前提をすべて取り払って、佐渡に滞在したことが、その後の活動に影響するかもしれない(しないかもしれない)くらいの気構えで、作家をもっと佐渡に呼びたい。私が泉さんに話を聞いた時には、そんなニュアンスだった気がする。

私は編集者という仕事柄、地方のアートフェスティバルにもわりと行く方だし、仕事で地方の芸術祭にかかわったこともある。もちろん素晴らしいアーティストの人たちがかかわっている芸術祭もあるが、自治体がかかわっている以上、なんとなくいくつかの形に収束してしまうなという感もある。別に何が悪いわけでもない。アーティストであれ、運営する側であれ、観客であれ、たくさんの人がかかわればかかわるほど、角の取れたバランスのよい、アートの批評性や鋭さを好む人にとっては物足りないものになる。そりゃそうだ。だけど、いわゆるアート通の人(ってどれくらいの人口がいるんでしょうかね)が好む作品を集めたって、人は見に来ないし、見てもわからないと言われてしまう(作品じゃなくて伝え方の問題が多々あるが)。個人的にもモヤモヤが募っていたこともあり、佐渡っていう場所に思い入れがなくもなかったので、協力することにした。とはいえ、現在の活動としてはタンブラーでそれぞれのリサーチや佐渡のレポートをアップするくらいで、今回の旅が3名(泉イネ、梶井照陰、上條桂子)一同に介する初めての場となった。

佐渡で「宿り木」のような場所を作ることが実現可能なのか、まずは梶井さんに相談をし、泉さんは昨年一度下見に訪れた。梶井さんと一緒に佐渡の各地を巡ることで、自然や歴史、食、人……、さまざまな可能性を強く感じながらも、同時に泉さんの中で「移住」という文字は消えていった。

今回の旅でお世話になった真言宗の宿坊弘仁寺。

梶井照陰さんの写真集『NAMI』(フォイル)より

“移住”ではなく、“流住”しながら
作家の視点や行動を緩くつないでいく

「昨年訪れた時に地域起こし協力隊の方などにも会わせてもらって、空き家の資料も何軒か見たんですが、まずは十分な予算ありきなので、納得いくものには出会えなかった。地元の方と話したら、住むより時々来るほうがいいとアドバイスもあった。自分の体調のこともあるので佐渡に定住するというイメージは、いまのところありません。とはいえ、急がず焦らず可能性を探って行きたいです。佐渡は本当にポテンシャルがある、アーティストの創作意欲を非常にかき立てる島だと思っています。タンブラーでは、私が誘って佐渡を訪れた友人のアーティストやダンサーの人たちにも寄稿してもらっていますが、するとまったく違う視点が見えてくる。アートというもの自体に懐疑的にはなっていますが、作家の視点や行動力、考える力は素晴らしいと思います。そういう人たちが行きやすい、滞在しやすい仕組みと、それを緩く繋げていくことが大事なんじゃないかと。なので、私は移住というよりも“通住”というか“流住”というか。実際に場所を作れるかはわかりませんが、今はウェブサイトで緩く作家同士と佐渡を繋ぐことと、自分の作品に、再び見直そうと思っている能のエッセンスを加えていけたらと思います」

弘仁寺での夕食。右側手前より泉イネさん、ダンサーの神村恵さん、料理家のyoyoさん。左側手前より、坂本大三郎さん、美術家の寺田かおさん、ライター上條、住職の日下敞啓さん。以上が、今回のツアーのメンバーだ。

地方での芸術祭が乱立している中で、一人の美術家泉イネさんが持つ問いはきっと多くの人が感じていることでもあるだろう。「生きる」と「作る」そして「住む」ことへの問いでもある。答えがすぐに出るわけではないので、私もじっくり一緒に考えていきたい。

 

フランスから佐渡にやってきたワイン醸造家

自然、文化、歴史…… 可能性を秘めた佐渡島と、 そこにかかわる人々。
第1回 ジャン・マルク・ブリニョ(ワイン醸造家)

まずは佐渡という場所について簡単に触れておこう。アルファベットのSの字に似た佐渡島は、日本海側最大の島と言われており面積は約855平方キロメートル、東京23区の約1.5倍あるという。かなり大きい。新潟から佐渡への入り方はいくつかのルートがある、東京方面から行くのに一番メジャーなのは新潟港から船で両津港へ向かうことだろう。カーフェリーなら2時間半、ジェットフォイルなら1時間半で着く。その他は割愛する(ネットにも情報はいっぱいあるのでね)。

今回の佐渡ツアーのメンバーは、山伏の坂本大三郎さん、アーティストの泉イネさん。急きょ料理家のyoyoさんも加わった。そして現地では写真家で真言宗の僧侶・梶井照陰さんと合流。何故このメンバーになったかは追々説明したい。一行がまず腹ごしらえへと向かったのは、ワイン醸造家でフランスから移住した、ジャン・マルク・ブリニョさんのビストロだ。

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ジャン・マルク・ブリニョ&聡美夫妻が営むビストロ「La Barque de Dionysos (ラ・バルク・ドゥ・ディオニゾス)」は、両津港から車で40分ほどの真野というエリアにある。佐渡島のS字の左サイドのくびれた部分だ。海のほど近くにあり、店からは真野湾に沈む夕陽が一望できる。

ワイン好きの方、特に自然派ワインが好きな方だったらジャン・マルクさんの名前を聞いたことがあるかもしれない。彼はフランスのジュラ地方でワインを作っていた世界的にも著名な自然派ワインの醸造家だからだ。小さな頃から自然が大好きでワイン職人に憧れていたというジャン・マルクさんは、フランス各地のワイナリーで経験を積んだ後に2004年にアルボワに土地を購入し、自身のワインを作り始める。妻の聡美さんは、ジャン・マルクのワインに惚れ込んで一緒にワイン作りをしていた。

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美しい自然がある場所、
都会化されたところから遠い場所へ

ジャン・マルクさんと聡美さんが佐渡島に降り立ったのは、2012年11月。移住を決断したきっかけは、長男の誕生だった。「家族が全員で一緒に暮らすのが一番いい」というジャン・マルクさんのアイデアで、茨城県にあった聡美さんの実家から父と祖母を呼び、一族全員で、しかも誰も住んだことのない島に一緒に暮らすことになった。事前の下調べは、友人からの情報とインターネット。佐渡には友人も知人もいなかった。下見に訪れることもなく、荷物はスーツケース4つだけでフランスからこの地に降り立ったのだ。ジュラのぶどう畑や醸造所などはすべて売り払った、所有するものはなにもない。そんな話を聞いて驚いている私の顔を見ながら、ジャン・マルクさんは笑顔でこう言った。

「身軽だよ。フランスには何も残ってない。今回の移住で条件にしていたのは “美しい自然があるところ”と“都会化されたところから遠い場所”。この二つ。日本の中で九州と佐渡と北海道の3つが候補だった。その中でジュラ地方と気候が似てるということで、佐渡か北海道が残って。気候だけで言えば北海道の方が近いんだけど、僕は海の近くで生まれたから島がいいなって思ったんだ。専門的な話をすると、降雨量や地質──古い時代の粘土質が佐渡にはあって、それはヨーロッパのものとは質が違うんだけど、ブドウづくりによさそうだと。あと、佐渡ってインターネットで探しても情報が少なくて。忘れられた土地って感じで、ミステリアスなところにも惹かれたんだ」

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一家が島に来た11月は、観光客もまばらなオフシーズンだ。「最高のシーズンに来たね」ジャン・マルクさんは言った。寒くて人も少ない時期なのに? というと。

「だって春や夏はどこに行ったって楽しいだろうけど、冬の始まりに来て『良い場所だ』って思ったら、本当にいいってことだから。佐渡の冬は本当によかった。冬は日本海が荒れるからひどくなると2、3日船が欠航することもある。すると、誰も来ない孤立した島になる。まるで世界から隔絶されたように。だから冬はそんなにたくさんの人に会わず、ゆっくりと体を休めて、今年のことを振り返ってじっくり考えて、次のシーズンに備える。素晴らしい時間だったね」とジャン・マルクさん。

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見知らぬ島ではじめた暮らし、
店づくり、畑づくり

お店の物件探しには少し手間取った。島に移り住んでから60軒以上の物件を見てまわったという。会う人、会う人にお店や畑の構想を話し、やっとのことで現在の蔵付きの物件に出会った。改装などは、地元の工務店にイメージを伝え少しずつ進めていった。島にやってきてから約1年は、店づくり、畑づくりに時間を費やした。そして、2014年3月に「La Barque de Dionysos」はオープンした。

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現在は、木・金・土の3日間は聡美さんと一緒に自然派ワインを振る舞うビストロを営み、それ以外は畑仕事と自由な時間に費やしている。休んだり、スポーツを楽しんだりするのも、彼らにとって生きて行く上での大事な時間なのだ。

肝心のぶどう畑も状態はすごくよいという。翌日の朝、3つ持っている畑のひとつを見せてもらうことになった。

料理は聡美さんが腕を振るう。素材は豊富だ。彼らの畑で採れたもの、地魚をふんだんに使って、ワインに合う食事が食べられる。この日にいただいたのは、きゅうりとミントのポタージュとイワシのディップ、サバのフリット、お腹にオレンジやハーブを詰めた鯛のオーブン焼きにパルミジャーノチーズをまぶしたご飯だった。

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1本目はキリッと冷えたピノノワールの白ワイン、2本目には「Moonologue」というジャン・マルクさんがヨーロッパで醸造したワインをいただく。モノローグではなくムノローグというのは言葉遊び。南仏の自然派シラー種のぶどうを使い、月の満ち欠けを意識しながら醸造したという。さっぱりと飲みやすく、ぶどうの生き生きとした生命力が感じられる。もちろん酸化防止剤などの添加物は使用せず、瓶詰めする時にもポンプを使わず自然法則にのっとって、果実のエネルギーを最大限に活かし、丁寧に作る。

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自然とコネクトしている人々との
ダイレクトな人間関係

佐渡に来て3年が経った。あくまでマイペースというか自然のペースに寄り添いながら、土、植物、野菜、動物、昆虫、そして人びとと向き合う日々。何か問題や困ったことはないですかと尋ねると、ジャン・マルクさんはゆったりと口を開き語り出した。

「何の問題もないよ。敢えてひとつ挙げるとすれば、言葉の壁くらい。その他の問題は、佐渡に住んでいなくたって生きていたら誰もがぶつかるような取るに足らないこと。どうにかなる。佐渡の人たちの一番の魅力は、自然とコネクトしている人たちが多いこと。みんな畑をやっていて、食べ物がどこから来るのかが分かってる。見栄を張るような人がいないっていうのもいいね。あとは、人付き合いもどこか動物的というか、ダイレクトなところがいい。特にお年寄りと子ども。彼らは言葉の壁なんかまったくなくて、畑仕事をしてると気軽に『何作ってるの?』『この野菜何?』って近づいてくる。それが本当の人間同士の付き合いだよね。言葉なんか関係ないんだ」

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聡美さんも今の島での生活を楽しんでいるようだ。

「佐渡の生活はすごく充実しています。今までいろんな場所で生活をしてきたけど、佐渡でよかったねとジャン・マルクともよく話してます。本州の他の田舎町だったら逃げ出してるんじゃないかって。ぶどうも順調に育っているので5年後くらいにはきっと美味しいワインを届けられると思う。その他にも佐渡には自然や文化、いろんな可能性を感じています」

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畑をつくり、森をつくること。
佐渡の土地に潜む可能性を明日につなぐ

そして翌朝。ジャン・マルクさんの畑を見せてもらった。ジャガイモ、ニンジン、ズッキーニ、カブ、タマネギ、カルドンなどの野菜類、からし菜、ルッコラ、タンジー等のハーブ類、フランボワーズ、いちご等の果実……。品種の数は数えたことない、というほど多品種を相性を見て寄り添わせ、少しずつ植えている。ジャン・マルクさんは、グリンピースの種を自作の定規を使って、一粒一粒優しく土に植えていた。手袋もせずに直接土を触って状態を確かめるのが大事なんだと教えてくれた。

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「ひとつの作物のシーズンが終わって、次は別という風に何も土に還さずに化学肥料を与えてしまうと、化学的に合成された土になり見た目だけしか栄養分が補えない。私たちは育てたものを土に還し、別の作物の肥料にして、ということを繰り返しています。いわゆるパーマカルチャーですね。最初の土作りは堆肥も必要ですが、年数を重ねるだけだんだん肥料も必要なくなってくるし、やることが減って楽になるんです」と聡美さん。

虫に食べられたナスを見て「みんなで分け合っているのよね」と言いながら、いくつかのナスを収穫する。モンシロチョウ、テントウムシ、イモムシ、みんな共生しているが、混植をしていると虫も大発生するようなことはないという。聡美さんはこう続けた。

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「ぶどう作りも同じです。フランスにはアグロフォレストリーという考え方で、森と畑を共存させようという動きがあって。ぶどうもそれだけを植えるのではなく、他の樹木や果樹やハーブと一緒に育てること。佐渡には森も多いし、それが実現できる土壌があるような気がしています。佐渡にはまだまだ、可能性を秘めた土地も空き家もたくさんあるし、最近はパーマカルチャーを夢見る若者の移住者も増えてきてます。そういった財産を活かして未来に繋げていけるといいなと思います」

畑を作りながら森を作っていく暮らし。現状では、跡継ぎ手のいない空き農地や空き農家を手放したがらない人も多く、残念ながらダメになっていく土地も多いという。彼らが60軒以上見て回ったようにマッチングがうまくいっているとは言えない状況だ。しかし、少しずつ考え方がシフトしてきているのも事実だ。佐渡産のジャン・マルクさんのワインができる頃には、幸せな循環が始まっていたらいいなと思う。

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土地の力を紡いだ『美の基準』は、 真鶴をなにも“変えなかった”

『美の基準』が生まれる
“以前”の真鶴の記憶

三木邦之さん(以下、邦之さん):昭和30年代、私が子どもの頃に暮らしていた真鶴は、ブリがよく獲れて、“ブリバブル”なんて呼ばれる時代がありました。

三木葉苗さん(以下、葉苗さん):戦後は、ブリの恩恵が大きかったようですね。真鶴は漁師の町だったからこそ、どの家も海が見えるように建てられている。毎朝、家から海の状況を確かめたんですね。掘っ立て小屋とかトタンの家が多くて、趣のある古民家とかは少なくて。坂道に小さなお家が並んでいる素朴な街並みが魅力です。景観に対する美意識などなくても、海と共に生きる暮らしそのものが、美しい街並みに一役買っているんです。

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邦之さん:家は小さいけれども、必ず海が見えるから、その景色が自分の庭のように感じられて、気持ちが大きくもてるわけですね。

葉苗さん:海は世界に繋がっていると思うせいか、小さな町に住んでいても、閉塞感があまりないんです。若い頃でさえ、「この田舎を出なければ」というような焦りは感じていなかった。実際、東京からもそう遠くないですし。でも90年代になると、真鶴にも、古くから続いてきた町並みを壊してしまうような開発の波がやってきました。そこからこの土地を守ったもののひとつが、『美の基準』だと言えます。

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三木邦之さんと三木葉苗さん。Bonamiのアトリエにて。

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邦之さん:『美の基準』は、国の基準から“ハミ出している条例”なんですよ。当時は、「裁判になったら負ける」とか「訴訟の山になる」と、散々おどかされました。しかし私は、この条例を引っ提げて町長に当選し、「これは真鶴町民1万人の意志である」と、宣言しました。何かあったらもちろん私が責任を取ると腹をくくって。そうすると開発業者も「真鶴はいろいろとめんどくさい人たちがいる町だ」と避けるようになっていった気がします(笑)。

葉苗さん:それで、開発業者もここから湯河原や熱海に目的を移していった。今でも湯河原にはマンションがたくさんあります。それを受け入れてしまったから。真鶴のケースは、小さな町がバブル、つまり“経済の大きな価値観“に逆らった、数少ない一例だと思う。

邦之さん:真鶴は漁業や石材業が中心だったから、理論立てていたわけではないかもしれないけれど、人それぞれが、町を守る作法を持っていました。『美の基準』は、町がこれまでずっとやってきたことを忘れないように、明文化して残しただけなんです。

葉苗さん:『美の基準』が真鶴のすべてを完璧に守っている、ということではなくて、それ以前から町民に息づいていた作法が、すでに真鶴を守っていたのだと思う。『美の基準』は何かを変えたのではなく、何も変えなかったのです。

 

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真鶴町まちづくり条例『美の基準』より

 

『美の基準』が語りかける、
まちのあり方

葉苗さん:Bonamiとしてともに活動している私の妹は、自閉症で、言葉を持っていません。それだけに、私は誰よりも言葉というものに対して考えてきたという自負があります。でも『美の基準』を初めて読んだとき、ものすごく感動して。それは、文章の表現力がどうこうではなく、私はこれまで、こんなに大事なことを文章にしたことがあったのだろうか?と。『美の基準』は、私にとって大事なものだけど、同時にコンプレックスでもある。まだまだ父には敵わないと思い知らされたものなんです。

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Bonamiのメンバーは、三木葉苗さん、杉山聡さん、 三木咲良さん。猫のカトリも大事な仲間。

Bonamiのメンバーは、三木葉苗さん、杉山聡さん、三木咲良さん。猫のカトリも大事な仲間。

穏やかな時間が流れるBonamiのアトリエ。印刷から製本まですべて手作業でていねいに作られたオリジナルの本が並ぶ。

穏やかな時間が流れるBonamiのアトリエ。印刷から製本まですべて手作業でていねいに作られたオリジナルの本が並ぶ。

 

Bonamiの一番最初の絵本『かみきりサックル』を発表したときに、アトリエに『美の基準』も置いておいたんです。すると、訪れる人の多くが『美の基準』に惹かれて本を手にする姿を目の当たりにしました。真鶴や建築、まちづくりなどに興味があったわけではない人でも、見た瞬間に引き込まれていくんです。そしてみんな自分のまちに照らし合わせ読み込んでいくんですよね。

『美の基準』は、決して“雰囲気のいいまちづくり”の話ではないし、“景観条例”でもない。これは政治の話だなって。みんなが真剣に、町の姿を考えていくこと。それはどんな町にも、必要な姿勢だと思うんです。

邦之さん:どんなにいい化粧をしても、元がいい人には敵わないんです。けれど「美しい」というのは外見だけの価値観じゃない。真鶴のように、何もないように見える小さな町でも、独自の美があるんです。自分たちの良さを見つけて、ひとつひとつ引き出していけばいい。『美の基準』は、飾ることではなく、物事の本質に目を向けています。だからこそ、どの町にも響く内容になっているんだと思います。

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邦之さんが教えてくれた、とっておきの場所。

父娘、ふたり。
それぞれの真鶴を感じながら、まちを歩く。

邦之さん:私が子どもの頃は、港が遊び場だったんです。コンクリートで護岸されていない自然港でした。先の方に小さな入り江があって、真鶴の子どもたちはみんな、そこで泳ぎを覚えた。町の発展が子どもたちの遊び場を奪った。私はその分、子どもたちの遊び場を返したい気持ちで町長になったんです。

葉苗さん:私が子どもの頃はすでにコンクリートだったから、遊び場という認識はなかったかな。そういう時の重なりや変化は、自覚がないまま生きている部分もありますね。“『美の基準』のおかげで真鶴は昔の風景が失われていない”なんて説明されることもあるけれど、実は失われているものはたくさんある。

今日、父と歩いてわかりましたが、父の記憶の風景は私が知らない風景。同じ場所なのに、見てきたものが違う。でも、私が子どもの頃に見ていた風景は、まだたくさん残っています。「この道は歩いたことないなあ」と思っていたら、突然ハッとして「やっぱり歩いたことある!」って。子どもの頃の記憶がふとよみがえってくることがあって。土地のなかに時間が溶け込んでいるんだなと。自分が実際に見ている景色と、子どもの自分が見ている景色が層になって重なってくるんですね。

人は、一見なんでもないようなことにでも、ちゃんと情緒を見つけながら生きていくことができると思うんです。父や私のように、同じ場所にずっと住んでいる人間にとっては、その土地が良い悪いでも、好き嫌いでもなく、そこに溶けている時間が大切なんだな、と。私はこの土地に溶けた記憶を持ったまま、続いていく時間のなかで生きています。

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政治家の父の背中から見えた、
まちを思う真剣な姿勢

葉苗さん:『美の基準』について、私の視点で伝えられることがあるとするなら、それは、町のために奔走していた父の背中です。「人の真剣な営みは、大きな力に打ち克つことができる」と教えてもらった。

邦之さん:当時、この町は隣の湯河原から水を買っていてもギリギリの水源状態で、これ以上開発したら生活用水が足りなくなってしまう。そこで私が町長就任直後の1990年に、『水の条例』を制定して、一旦、開発の波は止みました。でも「時代は巡って、必ずまたバブルのような無茶な時代が来るから、そのときのために、今、『美の基準』を定めて準備しておくんです」と住民を説得して回ったんです。

葉苗さん:父と選んだ道は違いますが、Bonamiの活動も真剣に取り組んで、自分にとっても、ほかの誰かにとっても大事だと思えることを、手渡ししていきたい。真面目に、真剣に取り組む姿勢から伝わることがあると、信じています。

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それぞれのまちに
育まれてきたものが、必ずある。

葉苗さん:それぞれのまちに、それぞれの『美の基準』があると思うんです。

邦之さん:雪国には雪国なりの、海辺には海辺なりの、その土地々々で生まれ育ったものがあるはずです。それを大切にすれば、若者がUターンして帰ってくると思いますよ。そういった文化や風土は、簡単には消えやしない。

葉苗さん:人々の気性とか、小さな文化が今も失われないのは、理屈ではないのかもしれません。暮らしていれば、知らないうちに土地の影響を受けます。

少し前に父が「地域は消滅するのか」というテーマで講演会をしたんですが、「消滅しない」という結論でした。自治体が消滅していく可能性はあるけれど、祭りとその土地に根ざした文化があれば地域は消滅しない。それならば開発とか合併とか、そんなに恐れなくてもいいのかな、と。先人たちが築き上げてきた文化を、もっと信じていいんだと。それが『美の基準』そのものだと思うんです。

毎日、この場で、貴船神社を眺めながら、真面目にものづくりをしていく。ホントにそれだけの毎日。そういうことを大切にして、これからも真鶴で生きていきたい。その営みが『美の基準』の精神から外れていなければ、この町はこうして続いていくんじゃないかなと思っています。

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見知らぬ港町でつくった居場所を みんなの居場所に変化させていく

真鶴に移り住んできて6年目になります。実は生まれが三浦半島で。大きな環境の違いはなく……半島またぎの女と言われたことも(笑)。ここに来る前は、横浜の開発地のマンションで暮らしていました。最初は湯河原に住みたいなと思って物件を探していたのですが、途中で今の家に巡り合って。すごく気に入ってしまい、家はすぐに買ったのですが、移り住んできたのはそれから2年後。子どもたちの進学のタイミングに合わせたんです。その間は遊びにくる感覚でこの家に通っていましたね。実家の三浦に帰るっていう選択肢もあったけれど、もしかしたら将来行くかもしれない土地。だとしたら、それまでの間は違う土地で暮らしてみようっていう気持ちはあったかな。

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「蛸の枕」オーナーの山田朋美さん

都会は都会で色々な人がいるから好きだし、そこにいるだけで楽しい時もある。だけど、開発地のマンションに暮らして、一向に終わらない工事とクレーン車に囲まれながら、“こういう暮らしってどうなんだろう?”って思い始めたのは確かですね。そこにいると、環境に対してもですが、なんだか人に対する不満が増えてくる気がして。満員電車、混雑した駐車場、スーパーの行列、そこにいる人たちに不満が出てくる。自分もその中のひとりなのに。そういうことにだんだん違和感が出てきて、便利な場所じゃなくても生きていけるんじゃないかと思ったんですよね。

暮らす人々にとって必要な場所をつくる
小さなサイズではじめる“観光業”

真鶴は、縁もゆかりもなく、知り合いが一人もいない町。だから“ここじゃないといけない”理由はなかった。自然が豊かで静かで、行った時に「いいね」って思える場所だったら、それだけでよかったんです。ここは、家の下がみかん園で、空と海の美しい境目を毎日見ることができる。夕方や、夜の海に散歩に行ってのんびりすると、すごくリラックスします。とっても静かな時間で。もう、この静けさがないと生きていけないなって思う。今はお店が忙しくてあまり行けていないからなおさら「なんて贅沢なありがたい時間なんだろう」って思います。忙しい時は、買い物の合間に海によって、砂浜の上に立ってみたり(笑)。同時に自然の猛威も感じますよ。特に台風の時は海がすごく荒れます。風の音もすさまじくて。でもこの海のそばで暮らしていて、日常でこの光景を見ていると、恐怖と同時に「ああこういうものか」とも思うんです。

 

 

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ここに暮らし始めて4年目の2014年、「蛸の枕」をはじめました。今年で3年目かあ ! ここを始める時に描いていたイメージは「みんなの居場所」であること。移り住んできてすぐに子どもを幼稚園に入れたので、真鶴に暮らす“お母さんたち”と関わることが多くて。みんな仕事をしていて、なかなか時間がない。やりたい事があったとしても場所もない。もっとみんなが気軽に集まれる場所が必要だなと思ったんです。それと、私自身、何もだれも知らない町で“人間関係をつくっていく”という意識もあったかもしれない。新しく生活をしていく場所で、自分の家以外の居場所をつくりたかった。新たな人に出会うこと、何かを発信することが同時に起こる場所が。今、自分が移り住んできた場所で、お店をもってイベントをすると、その場所に人を呼ぶことができる。それって小さな小さな“観光業”をやっているような気もするんです。

 

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お店の2階の“手芸部屋”には、羊毛を紡ぐ糸車。イベントで使ったり、山田さんも時間があるときに使っているそう。

 

ゼロから生活をはじめるために
“なにもない場所”へ移り住んできた

私には、ふたりの息子がいます。結婚した時、夫には子どもがいて、そしてまた新しく家族が増えて。3人家族から4人家族になった頃、みんなで新しく暮らしていける所を自然に探し始めていました。その環境を考えた時、なるべくゼロに近い状態からみんなが生活する場所を探していたんだと思います。だからと言って東京や旦那の実家の大阪に行くという選択肢はなくて。意識的に“なにもないところ”を選んでいたかもしれない。子どもたちは、ある程度の歳になれば自分で行きたい場所へ行くでしょう? だからその前に環境的にも気持ち的にも真新しい土地で暮らしてみるのも楽しいかなって。便利すぎないところ。自給自足がしたいとかそういうことではなくて、毎日生活する中で、自然に緑や海や空や温度などに意識が向かうことができる環境。体にそういう感覚が入ってくる体験は子どもの頃にあったほうがいい。それはここに来て改めて感じたことだし、自然と表れてきた感情です。 

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私、こんな感じなので子どもたちには、勝手者とか自由人って言われています(笑)。私は何より子どもたちが大事。自分が落ち込んでいる時は子どもの顔を見ます。そうすると、与えられているんだけど、自分が与える立場なんだっていう確認にもなるんです。守らなくちゃいけないなって。それこそ自分の居場所ですね。そういう場所を彼らは私に教えてくれているから。家族の中にいると、じわぁっと「よかったなあ」って思う。この感情は何にも代えられないなって、本当に心底からそう思う時がある。最近、私が子どもに突然「ブロッコリーの犯罪が多いから気をつけてね」って言ったらしくて。多分お店の仕込みのことでブロッコリーが頭にあったんでしょうね(笑)。そんなのばっかりで、いつもだいたい笑っているかも。

地域に向かっていく行動が
コミュニケーションを生み出す

お店を2年やって、お客さんを見ながらお店のあり方を考え続けています。客観的に見ることができるようになってくると、どう行動していくべきかも見えてくる。その時に、自分のスタイルを尊重することも大切だけど、もっと自分と地域が関わっていかないといけない。そう思うと、行動を起こす要因を見つけたって感じがして。

真鶴は観光でくる方も多いので、おいしいお寿司が食べられたり干物を買って帰れたり、名産を伝えていくお店も必要。だけど、その中にスタイルが決まっていないお店があるのもいいかなって。なにか強い特徴があるわけではないかわりに、息抜きになるようなお店。ここでイベントをやることで、宣伝をしたり、駐車場スペースが足りなくてご近所さんに相談にいったり。それまで特に関わりはなかったんだけど、「蛸の枕です」っていうと、地域の人は知ってくれている。その時に、自分がどれだけ地域に向かって動けていなかったかを痛感しました。ここに暮らして6年目になる今、改めて思う。もっとやっていくべきなんだなって。「お店をやっているんで来てください」ではなくて、「私はこの場所でこういうことをやっています」って話すことで、コミュニケーションがはじまる。もっと自分が地域と関わっていくために行動をおこさないと。

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“ふつうのおかあさんがつくる家庭料理”をモットーにしたカフェのメニュー。この日のランチは魯肉飯。

全部自分で選んできたこと。土地に慣れるまで時間はかかるけど、今は次の段階にいるような気がします。いろいろなことを勉強させてもらって、自ら行動することが大事だなって。すごく勇気がいることだし、うまくいかないこともあるけれど、自分で“良いように”していきたい。そうやって動いている場所が、今私が選んで暮らしている真鶴という感じかな。

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夜に2階スペースで開かれたワインのテイスティング会。近隣に住む女性たちが集まり、あれこれおしゃべりしながらリラックスできる時間。

これからは、このお店のスペースをどう使いたいか、利用してくれる人からいろんなアイデアが生まれてきて、自然とこの場所が動いていくようになったらうれしい。みんなの居場所として機能していくこと。クラフト市やったり写真館やったり。一つひとつ物事を軽んじずに、新しいことを発信していきたいなと思っています。ここがこの町の文化的な場所になったらいいなあ。近所の人、学生さん、学者さん、外国の人、音楽家や俳優さんが来たりとかね!(笑)。小さな町だけど、そういう拠点になれたら楽しいなあって思う。あくまでもニュートラルな存在として。周りから「なんか変わった場所だけどおもしろそうだな」って思ってもらう、でもこちらからすると「それが日常ですよ」って言えるような場所がつくっていけたらいいな。

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真鶴を伝える、真鶴に迎える。 地域出版とゲストハウスで描く未来

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フィリピンから即、真鶴へ
移住を決めたのは熱意と縁

川口瞬さん(以下、川口さん):僕は山口県で生まれました。その後小学生の時に千葉に引っ越してきて、東京の大学へ。卒業後は、大手インターネットプロバイダーの会社に入社しました。

來住(きし)友美さん(以下、來住さん):私は、東京出身です。それから埼玉を経由して、小学校6年生から横浜で暮らしました。川口くんとは大学で出会って。私は大学卒業後、青年海外協力隊のプログラムを利用して、タイの地方で2年間、高校生に日本語を教えていたんです。その後、知り合いがNGOをやっていて、フィリピンのバギオでゲストハウスを始めたということで、勉強も兼ねて働いていました。

川口さん:僕は彼女がフィリピンに行くタイミングで、当時勤めていた会社を辞めることにしました。周りには反対されましたが、以前から自分ひとりで事業をやってみたいという思いがあったので、僕のなかではすごく自然なタイミングだったんですよね。それで、フィリピンへ英語留学に行きました。

來住さん:フィリピンにいたときから、帰国したら都市ではなく地方に住みたいと考えていました。帰国後に日本でゲストハウスをやりたいと思っていたので、訪れる外国人をゆっくり迎えられる場所がよかったんです。だから帰国後は、日本の地方を周ってみるつもりでした。そんな話を以前からお世話になっていたフォトグラファーのMOTOKOさんに相談しているうちに、真鶴という町を紹介してくれたんです。MOTOKOさんは積極的に地域活動をしている人で、真鶴でも活動をしていて。そこで真鶴町役場の卜部直也さんを紹介してくれました。ちょうどその頃、町でも移住に向けた「くらしかる真鶴」という試住プロジェクトを始めようとしていたんです。2週間、お試しで町に住み、暮らすことのできる仕組み。実は、私たちはそのプロジェクトの第一号だったんです。だから町にとっても、“お試し”なので、お互い探り合いで(笑)。でもそれが幸いして、すごく熱意を持って、かつ丁寧に対応してくれたんです。その2週間で、卜部さんは商店街を一軒ずつ紹介してくれたし、プロジェクトを運営している役場と住民、商店街の人々、色々な人たちと交流して、愛着がわいていきました。勝手に縁を感じましたね。

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川口さん:試住期間は、自分たちで物件探しもしました。知らない土地での物件選びは、いろいろ迷うと思うんです。でも時間をかけて探すよりも、とりあえず住んでみようと。ご縁もあったし、ふたりで住めれば十分だった。もし合わなければその時に考えればいいと思って。でも、不動産屋さんに案内されるアパートやマンションなどは、どれもしっくりこなくて……最後にポロッと「平屋に住むのが夢なんです」と言ったら、いまの家に出会ったんです。

“東京を経由しない”
出版を目指して

川口さん:2015年4月に移住して9ヶ月。現在は「真鶴出版」という団体を立ち上げて、出版事業と「airbnb」を利用したゲストハウス事業を展開しています。そのふたつを一緒に運営することがおもしろいなと考えていて。

出版事業では、まず『ノスタルジックショートジャーニー in 真鶴』という町歩き冊子を発行しました。町の人に対しても、ぼくたちが何者なのかわかってもらうために、まずはご挨拶のようなものです。掲載するお店も、自分たちの足で、目で、耳で見つけた、本当に良いと思ったものを紹介していきたい。真鶴のようなコンパクトな町だからこそ、濃い内容をつくれると思っています。

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ポケットサイズで町歩きにぴったりな『ノスタルジックショートジャーニー in 真鶴』 写真:本人提供

 

出版事業を通して、外に向けて真鶴の魅力をアピールしていくのか、内に向けて真鶴の良さを再認識させていくのか。今は正直いって、どちらがいいのか迷っています。どちらもメリットとデメリットがあると思いますが、町の現状をもっとよく知ってからでないと、安易に軸足を決めることはできないので。今はまず、ゲストハウスという受け皿もあるので、都市に暮らす人や外国人などいろいろな人に来てもらいたいと思っています。

來住さん:私たちの発信が、東京経由ではない点もおもしろいと思っています。メディアなど発信源のほとんどが、今は東京に集約されています。でも、地方から地方に直接発信してみたい。例えば真鶴から小豆島とか、真鶴から海外とか。というのは、いま運営している、「airbnb」のゲストハウスを通して出会う人たちを通して、“世界中には自分たちと感覚の合う人たちがたくさんいる”と感じます。それは世代区切りではありません。大量生産ではなく、サステナブルな生き方を目指しているような層。そこに共感してくれる人たちにコンテンツを届けるのならば、必ずしも東京を経由する必要もないのかなあ、と。

川口さん:これからは“東京/地方”という二項の構図ではなくなっていくと思う。どんどん地方に移住していって、その人たちが現地で宣伝やコミュニケーション、デザインなどその土地特有の仕事ができるのならば、東京の会社に依頼する必要がありません。そうやっていくと都市と地方の区別があいまいになっていきますよね。だからこそ、今自分が暮らし働く場所を能動的に選んでいるかどうかが重要だと思います。能動的に都市を選択しているのであれば、もちろんそれでいいですし。
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ゲストハウスで出会う関係を
丁寧に紡いでいく

來住さん:『ノスタルジックショートジャーニー in 真鶴』は、都市の人に真鶴に来てもらって、1日で歩いて周れる規模にしました。この動きはゲストハウスともリンクしていて、ゲストにも時間が合えば私たちが町を案内しています。真鶴港に行って干物を買ったあとに、三ツ石という景勝地に行ったり。夜は買ってきた干物を一緒に調理して食べたりもするんです。

これからは、もっとゲストと町の人をつなげていきたいと思っています。箱根が近く、外国人が訪れることも多いので、外国人と真鶴に暮らす地元のおじちゃん・おばちゃんがふれあう。それを楽しんでいる姿を見たくて。でも急に町にたくさん外国人が歩き出したら、恐いと思う人もいるだろうな、とか。まだまだ日本人、特に地方では、外国人を敬遠してしまうところがあるので。でも、きっかけをつくってあげると意外とすぐ仲良くなれる。だから私たちは、つなげる役目を担えばいい。そういう意味でも、真鶴くらいの小さな規模感がいいかなと。小さい町なら、お店にも歩いてすぐに挨拶に行けるし、一緒に行くこともできる。

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「町の将来をこうしていきたい」というビジョンも必要だと思いますが、あまり大きく考え過ぎると足元が見えなくなる気がしています。考えることよりも、まずは体験していこう、できることからやっていこうと。まずは、小さくてもいいから名前を覚えるくらいの関係性を一人ひとり築くような丁寧な交流をしたい。

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真鶴出版のふたりによる、
真鶴のこと。

來住さん:私は、真鶴に暮らす人たちが好きです。『ノスタルジックショートジャーニー in 真鶴』に掲載しているお店は、個人的に好きな場所が中心ですが、「福寿司」さんも、「高橋水産」の辰己敏之さんも、最初はよそ者扱いされていたような気もするけれど(笑)、何回か訪れると、すごく仲良くなって歓迎してくれるようになって。人情味もすごく感じますね。「福寿司」さんは、よくゲストを連れて食事に行きますが、すごくよろこばれます。地魚定食や握りなど、すべておいしくて。そういえばこの前、大将がfacebookで私に友だち申請してくれました(笑)。

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「高橋水産」さんは、現在は店主の辰己さんがおひとりで製造から販売までやっていて。自家製造している干物屋さんは、真鶴にもう3軒しか残っていないんですよね。地魚の干物であることを大切にされていて、そんなこだわりにも惹かれます。最近買って食べたトロアジと塩サバも、脂がのってふっくらしていてすごくおいしかった!

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川口さん:僕は『美の基準』に惚れた部分もあります。『美の基準』は、真鶴町が制定したまちづくり条例です。これのおかげで、80〜90年代の都市開発の波に飲まれず、今も真鶴には美しい風景が残っている。真鶴で最初に僕らを案内してくれた町役場の卜部直也さんも実は、『美の基準』に惚れて移住した大先輩です。卜部さんが連れて行ってくれた『美の基準』をめぐる町のツアーでは、建物や道、景観の意味などを教えてくれました。“背戸道”と呼ばれる細い裏道があって、その道にはお花がたくさん置いてあるんです。それは「さわれる花」という項目に書いてあります。町が置いたのではなく、住民が積極的に置いているものなんです。このようなことが『美の基準』にはたくさん定められています。

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大阪出身の卜部さん。学生時代に出会った真鶴町の『美の基準』をきっかけに、2000年に移住。現在は、真鶴町役場に勤務。

大阪出身の卜部さん。学生時代に出会った真鶴町の『美の基準』をきっかけに、2000年に移住。現在は、真鶴町役場に勤務。

真鶴に移り住んでくる人の
入り口としてできることを探して

川口さん:真鶴町では、去年(2015年)から本格的に移住促進の動きが始まりました。その一部の事業を僕たちに委託してもらって、移住希望者にとって役に立つようなウェブサイトを制作しています。また、今は真鶴のメインストリートである大道商店街の元和菓子屋さんをみんなでリノベーションして、お試し暮らしができる施設を作っています。

來住さん:その土地にすごく詳しい地元の人も必要だけど、なかなか移住者の目線に立つことは難しい。私たちのように最近移住してきた立場でも、できることがあるんじゃないかなと思っていて。きっとこの町に初めて来た人にとっては気軽に話しやすいだろうし、いい距離感で接することができると思うので。

川口さん:今後は、ほかの地方や海外に向けて、少しずつ出版物を増やしていきたいです。

來住さん:私はタイにも拠点がほしいですね。しかもバンコクではなく地方。そこと真鶴がつながっていくのも、おもしろそう!

川口さん:でも、まずは出版とゲストハウスで生活の基盤をつくることで一生懸命です(笑)。

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編集協力:神奈川県

多様な“個”を小さな村で継いでいく 今この土地を選んだ僕らの役割

吉野の木材を使った、父・和之さんのアトリエ。国内外からさまざまな人が訪れる交流の場にもなっている。

吉野の木材を使った、父・和之さんのアトリエ。国内外からさまざまな人が訪れる交流の場にもなっている。

“生活”をしに東吉野へ
両親のそばで、暮らしを見直す

坂本大祐さん(以下、大祐さん):学校を卒業して、和歌山でデザイナーをしていた頃、夜も昼も関係なく仕事して遊んで……。

坂本邦子さん(以下、邦子さん):遊んで、遊んででしょ(笑)。だって、引っ越した時の段ボールをそのまま開けることなく何年も暮らしてたものね。

大祐さん:めちゃくちゃな生活してたんですよ(笑)。その頃、親がちょうど東吉野に移住することになって。その後、僕が身体を壊してしまったこともあって、後を追うように東吉野に移住することにしました。しばらくは、本を読んだり、映画を見たり、この辺をゆっくり歩いたり。「生活する」っていう当たり前のことをないがしろにしてしまってたから、一から始めてみようと。両親が毎日当たり前に生活しているのを見て、僕もそう思うようになったんです。

奥から長男の大祐さん、母の邦子さん、父の和之さん。会話を聞いていると、親子関係以上の、特別な親密さを感じる。

奥から長男の大祐さん、母の邦子さん、父の和之さん。会話を聞いていると、親子関係以上の、特別な親密さを感じる。

邦子さん:私たちが東吉野村に移住したのは、息子たちが東吉野に山村留学をしたことがきっかけなんです。大祐が中学校1年で、三男は小学3年生のとき。うちのおばあちゃんが「蛍が飛んでいて鮎がつかみ取りできる学校があるんだよ」と、新聞で読んだ山村留学の記事の話を息子たちにしたら「行ってみたい!」と。それ以来、私たちも東吉野に来るようになって、ここにどんどん惹かれていったんです。

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坂本和之さん(以下、和之さん):息子たちの1年間の山村留学中に、村の人たちから土地を借りられることになりましてね。僕は絵を描いていたので、そのためのアトリエを建てて。それからは家のある大阪と行ったり来たりしながら、2003年に本格的に移住しました。

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邦子さん:静かに余生を過ごそうと思って東吉野に来たのに、大祐も来て、移住者も増えて、ずいぶん賑やかになりましたね(笑)。あの頃、息子たちが「山村留学をしたい」と言わなければ、こんなふうに暮らすこともありませんでした。子どもたちが突然言い出した時はとまどいましたけど、その意思を大事にしてよかったなと思っています。

和之さん:僕たちは、子どもは“預かりもの”だと思っているから、最大限サポートはするけれど、何かを与えたり、押し付けること自体、おこがましいと思っています。反対に子どもたちから僕たちがいろいろ勉強させてもらいましたね。

邦子さん:子どもを育てる時、私たちが大事にしていたのは、“感じる子ども”になってほしいということでした。勉強ができるようにとか、スポーツマンになってほしいとかじゃなくて、感じて自分で考えることができるようになってほしかった。だから、小学5年生の時に2~3週間学校を休んで大祐を1人でフランスに行かせたことがあるんです。その歳になると飛行機に1人で乗れるから。

大祐さん:すごいおもしろかったですよ。でも、全部自分で決めないといけないのは大変でした。自由っていいように思うけれど、すべて自分の責任になるということですから。僕は早い段階で海外を見させてもらって、逆に日本のことに興味を持つようになりました。海外に行った時に、自分の国のことなのに何にも話せなくて。日本は今どんな政策なんだとか、どういう文化があるんだとか、「クロサワ」は観たか?とかいろいろ聞いてくる。それに対してちゃんと答えられなかったことが恥ずかしかった。それ以来、日本の文化を知りたいと思いました。長く受け継がれてきたものには確かな意味がある。だからそれを大切にしたいなと思ったんです。

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パリで見た、質素だけれど
豊かな暮らしを求めて地方へ

和之さん:僕も若い頃、外国に長く住んでましてね。その頃、ファッション関係のデザイナーをしていて、1960年代の終わりにアメリカで1年ほど暮らしました。一度日本に帰ってきて、今度は単身パリへ。デザイナーを辞めてアーティストになろうと思って。というのもデザイナーとして働くことへの限界を感じたんですね。お金は入るけれど、どうしてか心が満たされない……そんな自分は、とことんアートをやるべきやと思って、すべてを捨ててパリへ行きました。それが28歳の時。そのまま7年間住みました。

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中央に飾られているのは、2013年に描かれたいう和之さんの作品「Saint」。毎日欠かさず筆をとり、絵を描き続けているという。

中央に飾られているのは、2013年に描かれたいう和之さんの作品「Saint」。毎日欠かさず筆をとり、絵を描き続けているという。

邦子さん:当時、私もパリに住んでいたんです。ちょうどバブルの頃で、私たち団塊の世代って、若い時はファッションやさまざまなカルチャーが、アメリカのほうばかり向いていて。でもある時ふと、大量生産/消費の社会に飲み込まれていることに気がついて、何かおかしいんじゃないの?という感覚が生まれたんです。それをきっかけに、ヨーロッパに渡ってみたらその感覚は間違ってなかった。『フランス人は10着しか服を持たない』という本にも書かれているけれど、「ファッショナブル」であるということの意味がまったく違っていた。質素だけれど、豊かな生活を営むライフスタイルに衝撃を受けて。持っていった自分の荷物をほとんど捨ててしまったほど(笑)。大学で勉強し直そうとお金を貯めるために、航空会社の客室乗務員として働いていて。その頃、突然、サンジェルマンの教会の前にあるカフェで、この人と出会っちゃって。彼は屋根裏に住みながらすごく貧しい絵描きをしていたの。何も持っていないないのに、やたら幸せそうな顔をしていました。その出会った日の夜に、私のアパートに訪ねて来て……

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和之さん:絶対、結婚せなあかんなと思たんですよ。直感っていうのかな、この人と結婚しないとダメだ!と。

邦子さん:私はまだあなたの名前しか知らないからと言っても、それが何か問題あるんですか?と強引で。なんかそういうのって魔法にかかっちゃいますよね(笑)。それで結婚しちゃった。そして、私たちはヨーロッパの人たちの「日々の生活をいかに大切にして生きるか」という価値観にすごく影響されて、日本に帰って来たんです。でも日本はまだバブル真っ盛りの時代で、日本人の生活に対する豊かさの価値観が私たちとは違ってた。都会にはいっぱいものがあるけど、本当に大切なものはあまり見当たらなくて。地方は不便だしものも少ないけれど、こここそ無限大というか無尽蔵だと感じたの。先人たちの知恵がいっぱい残っているのが地方だと思ったんです。目に見えない世界をすごく大事にして暮らしてるなって。

和之さん:ここには、おいしい空気とおいしい水がふんだんにありました。それってどちらも人間が生きる上でなくてはならない大事なもの。都会にあるものの多くは、人工的なもので、お金がないと手に入らない。自然にあるものや、この土地で採れたものいただいて暮らすことの喜びみたいなものを、この村で感じられたんです。

邦子さん:どういう家に住んで、どういう車に乗ってとかいうことじゃなく、自分の身の丈にあった生活があって、それ以上のことをのぞまない。与えられたなかでどうやって豊かに暮らすのかということを教えてもらいました。

大祐さん:僕も「OFFICE CAMP」で朝、菅野くんと、「今日、川きれいやね」とか「あそこにこんな花咲いてたよね」みたいな会話をしてて。これって今まで都会に住んでた頃には絶対になかった感覚で。「今日の空きれいやね」とかあんまり言わないでしょ? そういう話を日常的にしてる。それに気がついて僕もびっくりしました。東吉野に来てからは、それが当たり前になった。それは、まさに両親がそういう暮らしをしているのを身近に見ていたから。こういう環境を源泉として生み出されるものはやっぱりある。どういうところを基盤にして働くのかということからにじみ出る説得力というか。それがないと仕事も生み出せない時代がくると思う。

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地域に残る多様性を
守るためにできること

和之さん:世界中いろんな場所に行ったけれど、日本人ほど感性豊かな民族はいないですよ。やっぱり土地が持ってる空気やエネルギーとか、目に見えないものを感じる力がある。この近くにある「丹生川上神社」という場所は、天皇が何十回も行幸に来ている水の神様が祀られてる日本の総社なんです。人間をつかさどる「水」という一番の基本がここにある。

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邦子さん:海外の人がここに遊びにくると、エナジーを感じるってみんな言う。このすぐ近くの山にも、神武天皇が八咫烏(やたがらす)を見た場所があるそうなんです。まさに神話が根づいている場所。

和之さん:知れば知るほど、この村の奥の深さというか、土地の記憶があることがわかります。だからここを選んで住んだ僕らにも何か役割があるのかなと思う。
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和之さんが手際よく作ってくれた朝食。毎朝家族みんなでテーブルを囲み、たっぷりの朝食を食べるのが坂本家の定番。

和之さんが手際よく作ってくれた朝食。毎朝家族みんなでテーブルを囲み、たっぷりの朝食を食べるのが坂本家の定番。

大祐さん:そういう、土地が持つ魅力にひかれて移住する人もいると思います。だけど、僕にとっての移住はやっぱり人。両親が切り拓いたところで、僕は何をするのか。いわば“移住2代目”の僕ができることって何なのかをいま考えてますね。
世代間のつながりが分断されているので、特に都会では同じ年齢層の人だけで集まりがちですよね。でも、この小さな村には僕の両親がいて、僕がいて、青木くんぐらいの年齢の人がいて、菅野くんの子どもの間太もいる。“ダイバーシティ”というか、“多様性”がないと新しい発想も生まれにくい。均質になるって何がダメかというと、問題が生まれないんです。自分たちがこの先どうあるべきなのかを考えるには、ほかの世代がいることで初めてわかることがある。近くに住む90歳になるおばあちゃんがいまも畑に行ったり、自分の暮らしを生きている姿を見ると、そこには未来があるなって思う。そのおばあちゃんを“老人”として一括りに見るんじゃなくて、一個人として見ること。僕自身も親から“子ども”としてではなくて、一個人として見てもらってきたから、今こうしてここにいるんだと思います。個として扱われるとことで、初めて他者とつながれる。まわりと良好な関係をどう築けるかは、個として立って初めて可能になっていく。最初からまわりとつながろうとしたって難しいので。個として生きるために、まわりとつながるために、こういう地方のような場所が適してるんじゃないかなって思うんです。

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移住は、ないものをねだるのではなく自分の暮らしをつくるためのプロセス

地域を足場に
“ここ”から生まれる仕事をする

僕の場合、積極的、能動的な移住じゃないんですよ。身体を壊してしまったので、働き方を変えざるを得なかった。和歌山から東吉野に移住してからは、仕事が激減してしまって、数カ月間ほぼ何にもしていませんでした。ずいぶん経ってから、もともと仕事をしていた人たちから「いまどうしてるの?」と、連絡が来るようになって。いまでは、地方に住んで仕事しているデザイナーはめずらしくないかもしれませんが、当時は少数でした。だから「東吉野に住んでいるんです」と話すと驚かれましたね。でも、そのなかには東吉野まで遊びに来てくれる人がいたり、僕がどこにいようと仕事をくれる人もいた。仕事は減ってしまったけれど、もう一度受け入れてもらえて、何とか食っていけるようになりました。

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東吉野での仕事も少しずつ増えていったけれど、その頃はまだ県外の仕事がメインで、大阪に行ってやる仕事のほうが多かったんです。だんだんと「東吉野にいるからこそできる仕事」が増えてきたのは、友人の菅野くんが移住することが決まった2013年から。その時に奈良県庁の福野さんと知り合ったことで一気に県内の仕事が増えたんです。

福野さんは「地域の仕事は地域の人でまかないたい」とずっと思っていたそうで、地元のクリエイターに仕事をまかせたいと考えていた。奈良県内の印刷会社や知り合いに頼んでは、次々と仕事を紹介してくれました。そうやってつないでくれたり、さらにはクリエイターがよりよい仕事ができる環境としてシェアオフィス「OFFICE CAMP」も生まれることになりました。

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いま手がけている仕事のひとつは、奈良県と三重県にまたがる大台ケ原・大峯山が「ユネスコエコパーク」に認定されることが決まっているんですが、それをPRする仕事のアートディディクレションを担当していて、パンフレットやホームページをつくっています。ほかにも東吉野村のそうめん屋さんや、近くの山添村で耕作放棄茶畑を活用してつくられている「大和高原茶」のパッケージ、宇陀市にある、廃校になった木造校舎を現代美術館にするというイベントを主催させてもらったり……だんだんプロジェクトの根本から携われる仕事が増えてきましたね。デザインだけじゃなく、仕組みづくりというか、プロジェクトの骨格をつくることが多くなってきました。それは、やっぱり「OFFICE CAMP」が、ひとつのかたちになったというのが大きいと思います。

仕事はひとつづき
すべては自分に返ってくる

地方で働くデザイナーは、何でもやらないと食えないというか(笑)。もともと和歌山にいてこの仕事を始めた時も何でもやっていました。 ディレクターがいて、ライターがコピーや文章を書いて、カメラマンがいて、デザイナーがいて、と普通は分業ですよね。でも、ここでは全部やらないといけないんです。

実際、地域からいただく仕事も「いい感じにしてほしい」みたいなざっくりとしたオーダーがあって、予算がふんだんにあるわけではないから、各部門ごとコピーライターやカメラマンに仕事を頼めるほどじゃない。そうなると、全部自分でやらざるを得ないんです。写真も撮ればコピーも書くし、デザインもする。売り上げをあげたいというオーダーがあれば、必然的にブランディングや企画から携わることになる。地方を拠点にするということは、何でもやらないとダメなんです。でもよく考えてみると、作るものは1つで、すべてはひとつづきの仕事。自分がどこのパートをやるとしても、全体を見る必要があって。いろんなポジションの仕事をするから、それぞれの立場わかる。そういう意味で全体的にやっていたことが、結果として自分のスキルになってるし、自分の仕事の幅も広げることになりました。

僕らみたいに“何でも屋”として仕事をしていたら、たとえ都会でも仕事はできると思うんですけど、逆は難しいかもしれないですね。そもそも、そんな予算じゃ無理ですよってなるだろうし(笑)。決まった予算のなかでできることをやらないとダメなのが前提なんです。そういう仕事の仕方だからこそ、どこにいってもやれるって思っています。

山奥からダイレクトに海外へ
ボーダレスに在るおもしろさ

田舎とか都会とか、もっと言えば日本という垣根そのものがボーダレスになってきているように思います。たとえば、最近はインターネットを通じて、こんな山奥にある東吉野にも海外から人が来てくれるようになりました。海外と東吉野が、東京を介さなくてもつながっていく。いま全国各地に「OFFICE CAMP」のような人が集まる場所が生まれていて、そういうところとつながって、互いに行ったり来たりできるようになっています。兵庫県の丹波篠山加古川とか岡山の梶並大原、長崎の小浜も。おもろい人がいるということをきっかけにしてどんどんつながっていっていますね。

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この間、僕の家に、中国の建築家の人が遊びに来ていたんですが、中国も日本と同じ社会状況らしくて。資本主義が入ってきて、都会にどんどん若い人が出て行ってしまっている。みんな名声を得るためとかお金を得るために働いているんだけど、若い世代はだんだんとおかしいと感じているらしいんです。だから、いまの東吉野のような地域でのライフスタイルを知りたいと。いまの社会の流れから“スローダウン”するというか、世界的にそういうライフスタイルになりつつある。資本主義だとか競争主義のシステムの行き詰まりに気づき始めた人たちが、何らかのかたちで抗うために、別のオルタナティブな方向に向かおうとしている。そういう流れが世界中で生まれていることが、東吉野にいながらにしてわかるっていうのがおもしろいなって。

坂本さんのご両親が東吉野に移住して建てたアトリエ兼自宅。大きな川を見下ろすアトリエには国内外からさまざまな人が訪れる。

坂本さんのご両親が東吉野に移住して建てたアトリエ兼自宅。大きな川を見下ろすアトリエには国内外からさまざまな人が訪れる。

移住は、ないものをねだるのではなく
自分の暮らしをつくるためのプロセス

たとえば、「OFFICE CAMP」という場所も、単純に移住者が増えることだけを目的でやってるわけじゃなくて。シンプルに「おもろいやつが来てくれたらいいな〜」と思ってやっています。今日もこうやって雛形編集部が取材に来てくれて、一緒に温泉に入って、飯食って。そういう人との出会いがここにいながら日々ある。場所にとらわれず、おもしろいことがありそうだという嗅覚で動く人にとって、場所は関係ないんですよね。

前のめり気味に移住したい!という人に対しては、「そんなにいいもんじゃないかもよ」と言うし、移住にすごく不安を感じている人には、「そんなにこわくないよ」って話します。移住とか地域暮らしって、合う人には合うけど、やってみないと結局はわからないことも多いんです。どこで暮らすかよりも、誰と暮らすかで変わってくるとも思いますし。移住はあくまでもプロセス。都会じゃなくて、こっちに何かあるんじゃないかと、求めるのは違うと思う。

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青木真兵さんとともに東吉野を案内してくれた坂本さん。一緒に温泉に入り、地元の中華屋でみんなで夜ごはんは、彼らの日常の一片。

青木真兵さんとともに東吉野を案内してくれた坂本さん。一緒に温泉に入り、地元の中華屋でみんなで夜ごはんは、彼らの日常の一片。

都会と田舎、両方に住んでみて思うのは、どっちにも偏らない中庸の部分が一番居心地がいい場所なんじゃないかなって思ってて。両方を知ってるから“真ん中”がわかるんです。都会と地方どっちも良くて、どっちもしんどい。どっちの良さが合うか、どっちのしんどさだったら耐えられるかというのを自分なりにわかったほうがいい。両方見ることで初めて見えてくる新しい生き方だったり、自分らしく暮らしをつくる方法があるんちゃうかなと。移動した結果、それに気づき始めた人が今、地域にいるんじゃないですかね。

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[vol.2]山に学び、地に根ざす。 田舎と都会と世界をしなやかに 編みつなぐ人【後編】

自由な発想を引き出す場

晴れ間と雨が入り混じる気まぐれな空が覆う、金沢の裏通り。隠れるように佇む「SKLO」の店主・塚本美樹さんは、アンティークを買い付けるため定期的にドイツとチェコに通っている。曇りがちで陰影がある風景が、金沢と似ているのだという。

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店内の片隅に並べられた、形状やデザインが少しずつ異なる銀色の箱をひとつ手にとってみると、見た目よりもずっしりとしている。ピルケースやソーイングケースにしてはサイズが小さく、どう使われていたものか聞いてみると、1900年初頭のペン先を入れるためのケースだと教えてくれた。先入観や固定概念を解きほぐし、自由な発想を引き出す場にしたいという想いから、「SKLO」には“答え”が置かれていない。

「この箱もそうですが、お店には一見用途が分からないものも置いています。どう使うんだろうって想像するのも楽しいですし、背景を知るとその時代の景色が浮かび上がってきますよね」

買い付けをするとき、土地の風景を感じられるものを選んでいる塚本さんが、時間を見つけては通っている場所があるという。それは生まれ育った津幡町にある、農耕具と民具が揃う歴史民俗資料収蔵庫だ。

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石川県・津幡町では、民俗資料を後世に残すため、約30年前に廃校になった旧吉倉小学校校舎を「津幡歴史民俗資料収蔵庫」として利用している。

「ここに展示されている民具からは、人のぬくもりを感じるし、その時代の生活感が伝わってくる。機械によって生まれた時間の短縮や作業の効率化は、農家の人が生き抜くためのまさに革命だと思っています。でもこの集落で、生きるために長い間使い込まれた道具たちには、時間が経っても錆びない人間の知恵が宿っていると思っていて、僕はそこから学ぶことが多い。

古いものって、つくられた当時は、当たり前にありふれたものだったとしても、現代にとってはまったく新しいものに見えるんですよね。アンティークはその最たるものだと思っています」

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光があたらないものの、新たな役目

LED電球の普及で、使う人が減り続けている白熱電球は、発明された当時「世界から夜が消えた」と言われるほど、人々の生活に多くの恩恵をもたらした。そんな白熱電球を塚本さんは職人さんと共につくり、販売している。
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「白熱電球は、エジソンがフィラメントに日本の竹を使ったことで完成されたんです。僕は、価値が失われそうなものや、まだ世の中で知られていないものに光をあてていきたいと考えていて、キャンドルに光の明るさを求めないのと同じで、白熱電球も照らす役目でなくてもいいんじゃないかと思ったんです。“見て楽しむ”という視点を提案することで、そのものとの付き合い方が変わってきますよね」

最近では、管理が行き届かず放置された竹林が植生を乱してしまう「竹害」があるなど、新たな活用方法も求められる竹を商品として販売しはじめた。馴染み深いものでも提案する方法を変えるだけで可能性は大きく広がる。

「商品化した『竹炭』以外にも、竹で籠をつくってみたり、ランプシェードを編んでみたりしています。こういった昔からある資源は田舎に行けば行くほどあると思うし、活用しないのはもったいないですよね。
すでに先人たちが生み出してきたものが世の中にはたくさんある。だから、僕は見方や用途を変えたりして、編集しながら新しいものをつくりたいと思っています」

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写真上:脱臭・空気や水質浄化効果がある竹炭(100g / ¥864)、写真中:アスファルトでできた指輪(¥5,400)写真下:石川県能登島でとれる珪藻土でつくられたブックエンド(¥11,880)。普段価値を認識しにくい存在や脇役に、新たな命を吹き込んでいる。

写真上:脱臭・空気や水質浄化効果がある竹炭(100g / ¥864)、写真中:アスファルトでできた指輪(¥5,400)写真下:石川県能登半島でとれる珪藻土でつくられたブックエンド(¥11,880)。普段の生活の中で価値に気が付きにくい存在に、新たな命が吹き込まれている。

山とオーストラリアで学んだこと

農作業をしているとき、山を歩いているとき、車にのっているとき、塚本さんの中で、小さくても新しい発見が毎日あるという。

「『何をしようかな』ってわくわくする気持ちって、山で遊んでいた時の感覚に近いのかなと思っています。金沢市の隣の津幡町という田舎で育った僕は、学校が終わってから日が暮れるまで毎日山で遊んでいました。山ではすべてが学べるんですよね。危険もあるから、手足や五感をフル稼働させて自分で道を拓いていく。きっとそこから、工夫することを学んだんだと思います」

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金沢の中心街から車で30分ほどの距離にある津幡町で、お米以外にも、木のリズムに合わせ、柚子、柿、梨、いちじくなどの果樹も栽培している。

すでにあるものをとらえ直し生み出された塚本さんの商品には、ハッとする発見や遊び心が隠れている。その発想の原点は、意外にも高校卒業後に留学したオーストラリアにあった。

「少し寂しげで、曇りがちな気候で育った人間が、思いがけず、陽気で楽しいことが大好きな人たちが多い環境に入っちゃたんですよね(笑)。山や海とか自然が大好きで、遊ぶために生きる欲求がものすごい。毎日楽しく生きるためのユーモアに満ちていたオーストラリアは、自分にとって大きな影響を与えてくれた場所ですね」

役割と向き合い、ひろげていく

「田舎でお米をつくることと、都会で遊ぶことは同じぐらい楽しい」と話す塚本さんは、金沢の街でまだまだおもしろいことがつくっていけると感じている。

「例えば、パリの街中には絵描きさんがたくさんいますよね。それが風景となって、街の魅力につながっている。僕は、そんな風に街に溶け込んだ金沢らしい風景を日常に変えていけたらいいなと思っていて、最近では、「SKLO」があるせせらぎ通りで、暮らしにまつわるアイテムや農産物、金沢らしいものやことなどを集めた『SESERAGI SUNDAY MARKET』というマーケットを企画しています」

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生まれた環境、集落での立場、農家の長男、お店の経営者として。塚本さんは常に自分の役割と向き合い、静と動をもって、日々お店や田んぼ、土地との関わり方を考えている。

「今までは、お店の中で田舎や田んぼの話をしてこなかったし、田舎でもお店の話をしてこなかったんです。地に足をつけて生活することがまずは大前提だと思っていましたから。でも、お店と田んぼを始めて11年、やっとこれまでやってきたことがひとつにつながってきた感覚があります。関わるいろいろな人と価値を共有できるようになってきたし、これからはもっとひろげていく時期だと思っています。山で遊ぶ感覚と同じように、これからも楽しくユーモアをもってやっていきたいですね」

前編はこちらから

[vol.2]山に学び、地に根ざす。 田舎と都会と世界をしなやかに 編みつなぐ人【前編】

時間をとらえなおし、
3拠点を移動する

石川県・金沢駅から能登半島方面に向かって車でわずか30分ほどで、のどかな山里の風景が姿をあらわす。稲作を中心に暮らしが営まれてきた、津幡町の七黒(しちくろ)という集落だ。この村で生まれ育ち、現在は米づくりをしながらお店を経営する塚本美樹さんは、お店のある金沢と田んぼのある津幡町を毎日往復している。

「1日の中で、田舎と金沢の移動時間を大切にしていて、金沢へ向かうときはお店のことを、田舎へ向かうときは農業のことを考えるようにしています。たった30分ですが、毎日意識を向けることで、気になっていることややらなくちゃいけないことが明確になってくるんです」

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塚本さんの1日は、だいたい4つに分けられている。7時〜13時は田んぼ、13時〜19時はお店、19時〜25時はプライベート、25〜7時は睡眠。年に2回ほどアンティークの買い付けにドイツとチェコへ、月に1回は空間デザインの仕事をするために東京へ行く生活を続けている。

「一カ所にとどまっていると、見えないことってあると思うんです。田舎に暮らしているからこそ見えることがあるし、東京でしか見えないものもある。だから、場所と内容を変えながらバランスを保っているんだと思います。今は、移動時間も情報をやりとりする時間も短縮されているから、こういう暮らしができるのかもしれないですね」 27

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歴史に幕を下ろさないために。
楽しく、優雅に

集落と金沢と東京を自由に行き来する今の生活に行き着くまで、「時間がかかった」と塚本さんは話す。

「農家の長男として『継がなくてはいけない』というプレッシャーがどこかにあったんだと思うんですが、高校を卒業したあとにオーストラリアに留学したんです。そのあともニュージーランドやヨーロッパへ行ったり、お店を始める29歳までに営業の正社員やアルバイトなど、たくさんの仕事を経験しました。世の中にどんな仕事があるのかに興味があったし、とにかくいろいろな立場や視点から世の中を見てみたかった」

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さまざまな仕事を通じて頭に浮かび上がってきたのは、自分の役割は何か。今から11年前、「後継ぎだから」ではなく、「農地があるから」でもなく、生まれ育った土地と向き合うために、実家の農業を継ぐ覚悟を決めた。

「みんなが街に住み始めたら、何百年、何千年と集落で受け継がれてきた農業の技術や知恵が、ここで終わってしまうと思ったんです。歴史に幕を下ろすんじゃなくて、今やらなくちゃって。やりたいことをやるって実は不安定だと思っていて、好きなだけではなかなか続かない。でもやらなくちゃいけないことには責任感や義務感が伴うし、継続性があるんですよね。僕はやらなくちゃいけないことを、いかに楽しくいかに優雅にやり抜くかが大事だと思っています」

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米農家を受け継ぎ、集落のコミュニティを存続させる。そう覚悟を決めたときと、金沢でアンティーク小物や家具を扱うお店「SKLO」をはじめるタイミングが重なった。

片手間で農業をやるのか、片手間でお店を経営するのか。“半分”に分けるやり方ではおもしろくないと感じていた塚本さんは、“時間”と向き合い出す。

「それで思いついたのが、1日を4つに分ける考え方でした。頭の中の切り分け方次第で、生活は変えていけるんじゃないかなと思ったんです。それに、稲作は春から秋にかけての作業になるので、冬の使い方が自由なんです。1年の1/3を休んでもいいし、別の仕事に充ててもいい。海外に滞在して何もしない毎日を過ごすことだってできる。今は、仕事も働き方も多様化しているので、田んぼって実は、時代に合った働き方ができるんじゃないかと思っています」

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稲作ですべてがつながっていた集落

豊作祈願や収穫感謝の祭りごとなど、集落は稲作ですべてがつながっていた。当時は、必要なときに必要な分だけ田んぼに水が入れられるかがもっとも重要な問題で、水の権利で地域やコミュニティが分かれていたという。

「いまの時代、集落が不要だと思っている人もいますが、一つひとつの地域コミュニティがなければ、のどかな景観は保たれないし、自然と人間の共生が失われてしまう。日々土を触っていると、集落の秩序を守ることの重要性を実感します」

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塚本さんの田んぼでは、農薬の量を1/3以下におさえ、有機肥料のみでお米を栽培している。お父さんが定年してからつくりはじめた黒米は、昔ながらの農法を取り入れて完全無農薬で機械を使わずにすべて手作業でつくっている。

雲の切れ間から光が差し込む中で、土壌づくりのためにわらを土の中に入れる「くれおこし」という作業がはじまった。トラクターに乗る塚本さんをお父さんが鋭い眼差しで見つめている。 11

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「農業じゃなくてもいい。好きなことをしてくれ。息子にはそう言った。一緒に作業をし始めて10年ぐらいになるけど、まだまだ。ものをつくるってことは奥が深い。でもまあ二人でやっている方がああだこうだいい合えて話し相手ができるし、効率もいいから、田んぼにとっちゃいいことかもしれん」

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掴もうとしても掴めない
お金で買えない価値

津幡町で「古美術 茶房 古楽屋」を営む古本さんの自宅は、塚本さんの実家から見えるほどの距離にある。アンティークを扱う塚本さんにとって、古本さんは以前から気になる存在だった。最近初めて盃をかわした二人は世代を越えて即座に打ち解けたという。

「古美術 茶房 古楽屋」の建物や置いてある骨董は、古本さんが時が経つほど価値が高まるものを選び抜く目利きであることを物語っている。

「古美術 茶房 古楽屋」の建物や置いてある骨董は、古本さんが時が経つほど価値が高まるものを選び抜く目利きであることを物語っている。

「僕が小さい頃から古本さんの家の前にはいつもたくさんの木が積んであって、いつ何に使うんだろうと思っていたんです。そうしたら、古本さんは自分で山を選び、木を育て、木を寝かせ、その木材を使って、17年もの時間をかけて家を建てられたんです」

津幡町では、家を建てられない男は男として認められない言い慣わしがある。

取材の前夜、古本さんの自宅では、お月見と称し、能の舞台が催されていた。

取材の前夜、古本さんの自宅では、お月見と称し、能の舞台が催されていた。

「遊びながら生きるのっていいよね。そんなことばっかしやって生きてきた。お金を稼いでいる人が、お金を使わず全然遊んでいない。僕らは「佐々木道誉」っていう遊び人に見立てた掛け軸を御神体のように飾って、『これをかけている時は思う存分呑んでいい』ってことにしてお酒を楽しんでる。漫画の世界みたいやろ?」と、古本さんは声高らかに笑う。

山に生える花を生け、気の置けない仲間と集い、満月を酒器に浮かべて季節を愛でる。そこはお金では買うことができない価値と時間をかける豊かさで満ちていた。

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「田舎は時間の流れ方が違うんですよね。現代社会は、切り替えが早く、人間がすべてをつくれると思っている。でも今その限界に気がついている人が増えていますよね。田舎は言葉の間にゆったりとした時間が流れていて、ひとつの対象を愛でる豊かさがある。でもそれは、追い求めるものでもつくるものでもないし、掴もうと思っても掴めない。だから僕は一緒にその時間を過ごすことが大事だと思っています」

木と泥と土で家をつくった古本さん。「俺は塚本くんの風景やから」と快く取材に応じてくれた。

木と泥と土で家をつくった古本さん。「俺は塚本くんの風景やから」と快く取材に応じてくれた。

架け橋となり、つないでいく

「高度成長期、自分たちの親世代は、乏しい日本から豊かな日本へと持っていってくれた。それはひとつの仕事を一生かけて全うした功績だと思っています。でも彼らがやってこなかったことがひとつあるとすれば、それは“引き継ぐこと”だと思うんです。現代のタイミングで、地域の文化や風習、伝統がすぱっとなくなってしまうのは、とても怖いことだと感じています」

塚本さんは、忘れ去られそうになっている集落の歴史や、活用できる土地や建物を、古い書物を読んだり、地域のお年寄りから話を聞いたりしながら探りはじめている。

「幸いにも、今生き方の問いがもう一度はじまっていて、田舎や農業に興味を持つ人が増えてますよね。自分自身田舎で育って、田舎の人の気持ちがわかる以上、僕は田舎と世界の架け橋でありたいなと思っています。若い人とお年寄り、歴史が育んできたものと現代の感覚。だから今、金沢のお店や農業を通して、先人たちが生み出してきたものをいろいろな角度から見つめなおして、新たな視点を提案しています」

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後編へつづく】

“山”と“地域”の仕事を両立させ、 地域と子どもの新しいコミュニティのかたちを描く

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“第三希望”だった北海道へ
女性でもできる山の仕事

以前から山が好きで、大学では農林業や森林環境の勉強をしていました。将来も森林関係の仕事がしたかったので、「女性でもできる山の仕事って何だろう」って探していた時に、林野庁の国有林を管理する仕事を見つけたんです。
ただ全国組織なので、勤務地はどこになるのかはわからなかったんですよね。それで、勤務地の第三希望欄に書いた、高校の修学旅行で一度だけ行ったことがあってイメージがよかった「北海道」に、いきなり赴任になりまして(笑)。

北海道では、木の販売や土地の管理、山の木の調査などをしていました。5年間勤めたんですが、最後の1年は山の現場が8割、事務仕事が2割で、大雨や雪で行けない日以外は毎日山に行っていましたね。

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人間関係を広げるために、
学生時代を過ごした鳥取県へ

ずっと北海道で生活するつもりはなかったので、20代のうちにと思って、転職することを決めました。
鳥取の大学在学時にNPOの地域活動に携わっていたんですが、北海道では働きながらそういった活動をなかなか探せなくて。土地柄が田舎の方だったというのもあるんですけど、職場以外の人との人間関係が広がらなかったのも、ちょっと物足りなかったのかもしれないですね。

また行政で山の仕事をしようとしたんですけど、都道府県の試験日って全部同じ日なんです。東京都だけ違うんですけど。だから、ひとつの県の試験しか受けられないので、出身地の滋賀県か、大学時代を過ごした鳥取県かで考えていて。山の作業っていうと鳥取県の方がさかんかなと思って、2011年の春に鳥取県に移住してきました。

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現在の職場、鳥取県八頭事務所の前で。山に入る時は、作業着とヘルメットを身につける。

子どもたちがよりよく暮らせるための
コミュニティ活動

週末や平日の夜の時間を使って、NPO法人「遠足計画」の地域活動に携わっています。
大学時代に、子どもたちと自然体験をする活動をしている先輩に「人が足らんから手伝って」って言われたのが、地域活動に関わるきっかけでした。その時は、子どもへの接し方も分からないし大丈夫かなと思ってたんですけど、参加してみたら、子どもたちとすぐ仲良くなれたし、あまり経験のなかったキャンプやハイキングがすごく楽しくて。

そんな風に子どもや自然と関わるうちに、「遠足計画」の前身である「とっとり冒険きち」の代表と出会ったんです。それから、ボランティア活動やNPO活動をしていらっしゃる方に話を聞いて冊子にまとめる事業を手伝ったり、子どもたちとキャンプへ行く活動をしていました。
いまは「とっとり冒険きち」という活動名で、“地域との交流”をテーマに、子どもと自由に遊ぶ活動をしています。

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夕方になると「遠足文庫」の庭には、近所の子どもたちが遊びにくる。

 

地域で暮らす安心感を生み出す「遠足文庫」

「遠足計画」の事務所を、イベントができて、子どもたちが集える、拠点となるような場所にしたいなと思って、2011年から鳥取市・河原町の今の場所を借りはじめました。もともとは保育園だった場所で、裏は田んぼ、目の前は川と山。時間の流れがゆっくりしていて、とても気持ちのいい場所です。

この場所を借りたことをきっかけに、2012年に「遠足文庫」という本と思い出をつなぐ古本屋をはじめました。本を売ることではなく、“つなぐ”ことを目指していて、「遠足文庫」に置いてある本にはすべて、その本の贈り手の思い出や感想が書かれています。人同士が会わなくても、本のスリップを読んで、人となりがわかったり、趣味が似ている人を見つけたりして、そういう地域の中での出会いが、ここで暮らす安心感につながっているのかなと思います。

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読まなくなった本に、本との思い出を書いて「遠足文庫」で委託販売をする仕組み。次に本を手にする人と、以前の持ち主との間に新たな接点がここで生まれる。

私たちは子どもたちの遊び場づくりやコミュニティ活動を中心にしていますが、地域には他にも大事な活動がたくさんあるんですよね。例えば、移住定住促進や障害をもっている方の支援とか。私たちが実践できている活動はほんの一部分。だから、地域でそういう活動をされている方のホームページやチラシをつくるお手伝いする「広報支援」という活動をはじめたんです。他の活動をしている人たちを応援することで、子どもたちがよりよく暮らしていける地域づくりの役に立つことができたらと思っています。

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2枚の名刺を持つ生活
ネットがあればどこででも

平日は山の仕事、週末や自宅で「遠足計画」の作業をするという生活です。行政の仕事が忙しくなるのは、年度始めや年度終わり。あとは、雪になると山の作業ができなくなるので、冬の前の時期。なので、そのバランスを見ながら「遠足計画」の仕事は週末に事務所にきて作業をしたり、平日はけっこう家でやっていますね。ネットさえつながれば、ほとんどの作業はどこでもできるので。

でも、どちらの仕事もやりたくてやっていることなので、大変だと思ったことはないですね。
「地域活動の企画をいつ考えているのか」って聞かれることもあるんですが、人とのつながりが活動に結びついています。人と出会うとアイディアが生まれて、企画が生まれて、やりたいことが生まれる。鳥取って人口も少ないので、知り合いの知り合いは知り合いで(笑)。「あーあの人だ。まだ会っていないけど知っている」っていうのがよくあります。

林野庁の山の仕事を終えた後、「遠足文庫」に仕事をしにくる日もある。

山の仕事を終えた後、「遠足文庫」に仕事をしにくる日もある。

多世代が集える場を目指して
地域の課題と向き合う

やはり山が好きなので、林業の知識はまだまだ浅いんですが、技術がもっと身についてきたら、技術系のサポートをする仕事に就きたいなと思っています。山で作業をするための機械の使い方、道路のつけ方、木の切り方など、そういう技術を伝えていく立場になりたいですね。

「遠足計画」の活動に関しては、今までは、自分のやりたいことや人との出会いから生まれたアイディアを実現してきたんですけど、せっかくこういう郊外で活動させてもらっているので、これからは地域の課題に目を向けられたらいいなと思っています。
子供が少ない地域のご年配の方が、「子どもの声が聞こえるのが一番地域活性化だ」、「自分たちも元気が出る」っておっしゃっていて、地域を盛り上げるとまではおこがましくて言えないんですけれど、「遠足文庫」がお年寄りも子どもも多世代が集える場所になって、暮らしやすくなったらいいなと。

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消費者としてできること
お金との付き合い方

これからは、持続可能な生活というのもちょっと考えているんですが、今の生活をしながら山の方に住んで、農業や林業をするのは実際には難しいので、せめて消費者として、顔が見える人からものを買ったりだとか、その人を思いながら生活をしたりとか、そういうお金の使い方をしていきたいと考えています。

あとは、お金を地域で回していきたいですね。お金とか人の思いとか資源とか、全部顔が見えて、気持ちが伝わるかたちでやりとりができるようになったら、地方ってもっと素敵になっていくんじゃないかなと思っています。

奈良の山村と東京。 二拠点で生活を作りながら 土地と深く関わる写真を撮る

都市を拠点にしながら
10年間探し続けてきた移住先

今から4〜5年前、とある雑誌の撮影の仕事で、初めて奈良県東吉野村に来ました。移住者の暮らしの取材だったのですが、その頃は大阪に住んでいて、東吉野村と聞いても、どんなところかまったく知らなくて。たしか2月だったかな、めちゃくちゃ寒くて。ものすごい山道を通って来たので、こんなところには絶対住まれへんなと思ったのを覚えています(笑)。

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大阪と東京を拠点に仕事をしながら、10年間ずっと移住先を探していました。日本各地、仕事で行った先々で探す中で、奈良県に来ることがよくあったんです。奈良は知り合いも多いですし、歴史も古く、史跡や聖地もあちこちにあって、個人的にずっと興味がある土地でした。母方も以前、三輪山の近くに住んでいたこともあって、お墓もあるから、いつか奈良に住みたいなとは思っていたんです。だけど、どこか迷いがあってなかなか動けなかった。そんな時、東吉野に「OFFICE CAMP」ができて、これからここがおもしろくなりそうな感じがしたんですよね。遊びに来てみたら、すぐに奥さんがこの場所を気に入ってくれたんです。川がとてもきれいだって。ずっと決めきれずにいたけれど、彼女が「行こう」と言ってくれたのが大きかったですね。

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潔さんが好きな場所だという、丹生川上神社の下を流れる2つの川が1つになる珍しいポイントへ。「朝靄のなかに大きな鷺が止まっていた時があって、まるで水墨画のようでした」

潔さんが好きな場所だという、丹生川上神社の下を流れる2つの川が1つになる珍しいポイントへ。「朝靄のなかに大きな鷺が止まっていた時があって、まるで水墨画のようでした」

1日をがむしゃらに生きる
自然のなかで営む暮らし

西岡愛さん:付きあっていた時から、『いつか奈良に住みたい』と聞いてはいたけれど、その“いつか”はいつなんだろうって思っていて(笑)、こんなにすぐに移住することになるとは思っていませんでした。私は千葉県出身で、ずっと関東で育ってきたから、奈良に来たのは修学旅行以来。でも、なんとなく奈良に住むのも楽しいだろうなって思っていて。学生の頃、新潟に住んだり、秋田では化学肥料を使わずに畑をやっていたこともあって、その時は、朝起きたらまず雪かきから始まるような生活を送っていました。

たった数ヶ月ですけど、そういう自然と共存する暮らしを体験した時に、“生きてる感じ”がすごくしたんですね。人間の暮らしって、もっとこう、がむしゃらだよなって。ただ漫然と過ごす1日じゃなくて、1日を迎えるための1日みたいな、1日の価値に重みがあった。もちろん大変でした。でもその生活のほうが、生きてることを感じられたというか。そういう暮らしもいいなと思ったけれど、自分1人で行く勇気はありませんでしたね。

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東京以外の土地で暮らしてみたい気持ちは、結婚する前からありました。住む場所に合わせて仕事も変えればいいと思っていたので、暮らす場所を変えることに躊躇はなくて。でも私は会社員の経験しかないので、仕事を探す時に、せっかくなら地元の会社で働きたいと思いました。東京にいる時から、ハローワークで東吉野の求人を探していたけれど、3社しか情報がみつからなくて。でも、まずはそのなかの1社に応募してみたんです。

とある会社の総務なのですが、資材を輸入するのに英語も必要だということで、自分が今までやってきたことをちょっとは活かせるんじゃないかと応募してみたら、採用が決まりました。2年ぐらい求人を出していたそうなんですけど、ずっと応募者がいなかったそうで、まさか30代の人が東京から来るなんて!と驚いていました。お互いによいタイミングでしたね。

最初に面接を受けた時に、工場の見学もさせていただいたんですけど、都心での働き方とぜんぜん違っていて。お祭りの日には、仕事の途中で、パートのお母さんが家に提灯を下げる時間だからと家に帰るそうなんです。それを聞いて、なんだかゆるくていいなあって(笑)。他にも、お餅を用意しないといけないから明日は休みます、とか。暮らしと仕事が近いというか、こっちでは提灯もお餅も、生活のなかの大事な一部。だから、もちろん休む理由になるし、休む時はお互いさまなんですね。私もここに住んでどういう働き方ができるのか、いまからすごく楽しみです。

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震災後、大阪から東京へ
自分自身の“写真”と向き合う

5年前までは大阪に住んで仕事をしていましたが、2011年2月に東京に拠点を移しました。大阪で駆け出しの頃からずっとやっていた『L magagine』という雑誌がなくなって、ほかにもどんどん雑誌が休刊したりするなかで、次のステップがみつからなくなってしまったんです。雑誌が好きだから、この仕事を続けたいという思いが捨てきれなくて。これからを考えるタイミングで、東京で借りている事務所が空くから使わないかと知り合いから声をかけてもらって3人で借りることになったのですが、先に僕が引っ越しをした直後に震災が起きてしまった。それで結局、僕だけが借りることになりました。

震災後はもちろん営業に行けず、身動きがとれない日々で。だけど、ここでじたばたせずに、自分にできることをするしかないと思いました。東北に行って現状を知ること、これまで自分が撮ってきた作品を整理すること……その中のひとつとして、ニコンが主催する「Juna21」というコンテストにも応募しました。「マトマニ」という作品シリーズだったのですが、テーマは目的地にならない場所にある“間”のような風景のなかに、ある種のイメージなのか、記憶のなかの風景なのか、不思議に心惹かれる場所。そうした“間”のある風景をテーマに10年間ずっと撮り続けてきた作品でした。それで、初めて賞をいただくことができたんです。

第14回三木淳賞奨励賞受賞作品「マトマニ」の一作品。写し出される風景は、時間や場所も曖昧な、“間”と“間”に存在するどこでもない場所。見ている人の記憶を刺激する。

第14回三木淳賞奨励賞受賞作品「マトマニ」の一作品。写し出される風景は、時間や場所も曖昧な、“間”と“間”に存在するどこでもない場所。見ている人の記憶を刺激する。

それまでは、カメラマンとして仕事をしながらも、自分自身の作品となる写真も撮っていて。どちらに対しても撮影する自分の意識は変わらないけれど、仕事か作品かによって、写真の扱われ方が変わってしまう。その状況を変えたいと思いつつも、自分の表現では伝えきれないのかと葛藤があったんです。だけど、賞をいただいたことで、これまで自分が長い間撮ってきた写真が間違ってなかったと認めてもらえたような気がして。評価されたこともありがたいけれど、それ以上に、写真を通して社会とコミットできているという実感から、自分がシャッターを押すこの感覚に自信が持てた。それからは、自分の作品を通して撮りたいものを理解してもらった上で仕事をもらえるようになりました。賞はきっかけのひとつですし、まだこれからですが、写真家として自信を持って踏み出すことができたんです。

東吉野に引っ越してからは、奈良での仕事もクライアントとより良い信頼関係をもってできるようになりました。写真でも、自分の暮らしもそうですけど、もっと自発的に動ける場所が欲しかったから、移住したのは正解でしたね。いずれはもっと見晴らしのいいところに、アトリエ兼スタジオをつくりたいなと思っています。気持ちがいいところで仕事したいと強く思っているので、ここでしか撮れない空間を見つけて、みんなに来てもらえる場所をつくりたいんです。他のカメラマンにも、「ここで撮りたい!」と思ってもらえるような、特別な場所がつくれたらいいですね。

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仕事場には、ポラロイドやフィルムのカメラなど愛機がずらり。カメラも自作するそうで、「いらない機能が多すぎて。使う機能だけ付いてればいいから自分でつくったほうがいいんです」

仕事場には、ポラロイドやフィルムのカメラなど愛機がずらり。カメラも自作するそうで、「いらない機能が多すぎて。使う機能だけ付いてればいいから自分でつくったほうがいいんです」

地域で生きていくために
写真という形を残して伝えていく

都会に住んでいる時は、個人で自由に生きてきたから、人とのつながりが希薄だったんですよね。今年で39歳なんですけど、この歳になると、これからどうやって生きて死ぬのかなということをよく考えるんです。だから漠然と、“何か”を残しておきたいなというのがあって。目に見えないものでもいいんですけど。

たとえば、地方にいると都市と違って、人との関わり合いが自然に生まれるじゃないですか。さっき家の近くの駐車場で、なわとびをしていた子どもたちがいましたけど、毎日顔を合わせていると自然としゃべるようになるし、もっと仲良くなったら、いつか写真を教えてあげることもできるかもしれない。地域に根ざしながら生きていくためにも、僕なりの関わり合い方で、いい関係が築けていけたらいいなと。それがいつか形として残っていけばなって。

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写真って、“間”をつなぐツールだと思っていて。言葉もそうだと思うんですけど、人に何かを伝えるのに、写真ってわかりやすいじゃないですか。土地の魅力でも、ここに生きる人でも、写真を撮って形に残すことで、何かを伝えることが僕にはできる。写真ってどこの土地でも必要とされるものだからこそ、地域に住んでいる人が撮ることで、より伝わる写真になればいいなと思う。ここでしか撮れないものは確実にあって、ここに住んでるからこそ撮れることもある。“住む”って、そういうことだと思うんです。それは儲けるためにやるのではなくて、ここに住みながら、その関係性のなかで自然にできたらいいなと思っています。

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地方発信の媒体もいつかつくってみたいですね。東京発信の媒体って膨大な情報をセレクトしているから、編集しすぎずに、さまざまな情報がごちゃまぜになった媒体があってもおもしろいのかなと思う。たとえば、近所のおっちゃんの他愛のない話の隣のページには、村外の写真家が撮ったかっこいい写真があったりとか。そうやってこの土地から発信できるものがつくれたらいいねと、「OFFICE CAMP」の坂本大祐くんたちとよく話をしています。

「やろうぜ」って言えば「やろうよ」って言ってくれる人がすぐ近くにいるって、めちゃくちゃ心強いですよ。東京はある意味すごく自由だけれど、自分でできることと、できないことがあって。だけど、ここにいても何でもやれるんじゃないかなって思えるというか、地方にいるのにものすごく可能性を感じるんです。東京に住んでいると、仲のいい友人がいてもなかなか会えなかったりしません? なんだかんだ忙しかったりして。でも地域にいると、みんな近くに住んでいるからすぐに会えるし、お互いの持っているものを分け合うのが当たり前だから、アイデアも出し惜しみしたりしないし、もらってもまたお返ししての繰り返しで。こういう、この土地に住んだことで生まれた感覚も活かしていきたいと思っています。

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どこにいても学び続けること 文化的拠点の“ない”場所で 「知」をどう生み出すか考える。

ニュースの本質を探ることから
古代地中海史を学びはじめる

10年間もの学生生活のなかで、ずっと古代地中海史を研究していました。なぜ、地中海なのかとよく聞かれるんですけれど、きっかけは、9.11のアメリカ同時多発テロでした。その当時、僕は高校3年生で、受験勉強をしていたら、あのニュースが入ってきた。ムスリム(イスラム教徒)が悪の存在と報道されていたけれど、本当にそうなのか?と、トルコに行って確かめてみたいと思ったんです。一神教の宗教はすべて地中海沿岸部から生まれているけれど、一神教が生まれる以前は、多神教の世界があったということを知りました。それは一体どんな世界だったのかを知りたくて、古代地中海史を学び始めたんです。

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兵庫県・西宮市にある青木さんの自宅にて。現在も、古代地中海史を専門にする若き研究者でもある。

兵庫県・西宮市にある青木さんの自宅にて。現在も、古代地中海史を専門にする若き研究者でもある。

今のチュニジアの首都チュニスの位置に「カルタゴ」という消滅してしまった古代都市国家があって、フェニキア人が建国したといわれています。カルタゴはローマと3回戦争して、3回目に徹底的に破壊されてしまうのですが、フェニキア人について史料が残っていないために謎も多くて。どうして滅ぼされてしまったのか、その知られざる歴史を研究したいなと思ったんですよね。

青木さんの愛読書のひとつ、リビア中央部の発掘報告書。(D. Mattingly ed., The Archaeology of Fazzan, London, 2007.)

青木さんの愛読書のひとつ、リビア中央部の発掘報告書。(D. Mattingly ed., The Archaeology of Fazzan, London, 2007.)

東吉野に来たのは今年の3月のことでした。吉野町で地域おこし協力隊として住んでいた後輩のところへ、ネットラジオをやっている仲間と一緒に行った時、東吉野にOFFICE CAMP」という新しい場所ができたと聞いて、急遽行ってみることにしたんです。その時、初めて坂本大祐さんや菅野大門さんと会いました。初対面だったんですけど、読んできた本だとか、お互いに個人的な話をするうちにシンパシーを感じたんですよね。僕が地方に文化的な拠点をつくりたいという話をしたら、坂本さんは「ええやん」と言って、一緒にアイデアを考えてくれたり、人を紹介してくれたり……。

それから、2週間に一度、西宮から東吉野に通うようになって。まだ移住するかも決めていない時に、空き家になっていたこの家を見せてもらったんです。この空間だけまるで別世界のように感じて。橋を渡った所にこの家しかなくて、杉の木立を通り抜けると家に着くなんて、おもしろいなと。大家さんもすごくいい方で、家賃もびっくりするほど安くて。この家に出会って「これは借りねばなるまい」と思ってしまった(笑)。ここでどうやって暮らして行こうかというのは、実は後付けなんです。

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青木さんが東吉野で借りた家は、山と川に囲まれた静かな場所にひっそりと建つ平屋。思索にふけるには格好の場所。

青木さんが東吉野で借りた家は、山と川に囲まれた静かな場所にひっそりと建つ平屋。思索にふけるには格好の場所。

西宮から東吉野に移り住んだあとも、もちろん研究は続けます。自分の研究ができる拠点を地方につくってみたくて。今、地方の大学から人文系の学部をなくそうという動きがあって、お金を生み出さないものは切り捨てられようとしている現状がある。もし「意味がない」ものでも存在できるとするならば、それはいわゆるコストを下げた場所じゃないと存在し続けられない。だから、たとえこの先、研究する環境として大学がなくなってしまったとしても、自分が学び続けられる場所を地方に持っておきたかったんです。

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僕は、作家ではないし、場所を選ぶ仕事をしてきました。教育にしろ文化的なことにしろ、人がいる場所、つまり都市部でしかできない仕事なんです。でも、村には文化的拠点もないし、そもそも人が少ない。でも、多くのものが“ない”、不自由だといわれる場所だからこそ、できることもあるんじゃないかと思う。僕が趣味で続けている合気道もそうなんですが、相手がいて型があることで、反対に自由になれることってあるんですね。以前、体を壊したことがあるのですが、それからはあれもこれも何でもできると思っていたことができなくなりました。けれど、自分の“不可能性”を知ったことで、今度は違うレイヤーで物事が見えてくる。そうすると、別の視点で考えることができるんです。できないことを知ることは、新しい可能性を手に入れることでもある。そう考えられるようになったら、ラクになったし、自由になれました。
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地域に暮らす自分たちに必要な学びの場とは?
個人図書館から、大学構想へ

地域で僕に何ができるだろうと考えた時、当初思い描いていたのは、マイクロ・ライブラリーでした。奥さんが図書館司書をやっていたこともあって、大量にある蔵書や、とてもお世話になっている内田樹先生からいただいた人文系の本を集めて、個人図書館を始めるのはどうだろうと。そんな時に、来年4月から障害者の方の就労支援をするNPOが東吉野に支所を開くことになり、そこで働くことが決まったんです。就労支援をするならば、もっといろんな人と関わり合いながら、何かできる場所をつくれないかと考え、東吉野村に大学をつくる「東吉野大学」構想へとだんだんと移ってきました。都市部では、シブヤ大学や自由大学など、自主的に学べる大学っていくつもあるじゃないですか。そんなふうに、村全体をキャンパスにした学びの場をつくってみたいなって。

古代ローマ、フェニキア人……古代地中海史の文献がいろいろ。そのなかには『東吉野村郷土誌』も。

古代ローマ、フェニキア人……古代地中海史の文献がいろいろ。そのなかには『東吉野村郷土誌』も。

玄関から入ってすぐの板の間に蔵書を並べて閲覧室にし、いろんな人が訪れるパブリックスペースとして活用することも将来的には考えている。

玄関から入ってすぐの板の間に蔵書を並べて閲覧室にし、いろんな人が訪れるパブリックスペースとして活用することも将来的には考えている。

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都市部と違って、地方はそのエリアごとに自然環境も違うし、固有の環境のなかで暮らすために人の気質も違います。そこで生きていくためにはどうしたらいいのか?を考えるためには、まず、その地域を知ることが大事なんです。僕自身、研究者でもあるから、東吉野村の歴史や文化を分析して、ほかの地域との違いを比較文化で捉えてみたい。イタリアのサルデーニャ島の山岳部と東吉野はどう違うのか、フランスのアルプス国境近くの山岳地帯の人たちはどういう生活しているのか。土地を知ることで見え方が違ってくるし、比較することで、いい悪いじゃなくて、その土地の特徴が見えてきます。

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そうした「学び」を、地域のなかだけで完結するのではなく、アカデミズムとつなげていくことも僕にならできるし、いろんな研究者を招いて東吉野の人たちに研究成果を発表してもらう場ができたらいいなとも思っていて。東吉野大学には、誰か1人、えらい先生がいるのではなく、生徒と先生の垣根なく、互いが師となって教え合えるような、持っている知恵のシェアをしたい。そして、それを講座という形でその場で終わらせるのではなく、アーカイブして出版もしていきたい。そんなふうに“知の循環”が生まれたら、すごくおもしろいんじゃないかと思っています。

人文知の拠点としてのマイクロ・ライブラリー「ルチャ・リブロ」と、東吉野大学構想のメモ書きには、奥さんの書いたイラストも。

人文知の拠点としてのマイクロ・ライブラリー「ルチャ・リブロ」と、東吉野大学構想のメモ書きには、奥さんの書いたイラストも。

この村で、少しでも長く気持ちよく
人々が暮らすためのコミュニティを考える

室町時代には分国法といって、国ごとに法律が違ったそうです。この辺は、いわゆる田舎の山村ですけど、田んぼがないでしょう? 段々畑のある懐かしい里山の風景はどこにもなくて、山と川しかない。広く平坦な土地がないから作物を栽培するのが難しいんです。そうすると、ほかの地域からお米をもらうしかないから、ほかの地域と友好にやっていく必要がある。あるいは、お米と交換できるくらい価値のあるものを作る必要がある。そうした固有の環境に合わせて、人間関係やコミュニティのあり方が変わるのは当然だし、変える必要があると僕は思っています。そのためにも、そもそも「地域って何なのか?」ということを、きちんと分析することからスタートしないといけないと思っているんです。

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人が大量に都会に流出してしまったせいで、地域のコミュニティがどんどんなくなってしまいました。今、新たに地方に移住する動きがあるけれど、都会と違って個人で誰にも頼らず生きていくことは難しいと思う。そうした時に、人づき合いはどうしていくのか。僕ら都会で過ごして来た人間にはわからない地域でのコミュニティのあり方を、一から考えなくちゃいけない。僕が考えている大学構想も、何のためにやるのかといえば、この村で少しでも長く、人が気持ち良く暮らせるようにするためなんです。だから、それがほかの場所でも応用できるようなシステムを考えているわけではなくて、あくまで東吉野でできることをまずはきちんと考えたい。

仕事や経験をもって、どこでも暮らしていけるような能力がある人が移住して、地域の核になるのはいいと思います。けれど、その力で地域を消費して、飽きたらほかの地域に行くっていうのは、違うんじゃないかとも思っています。だから僕がやろうとしているこの大学構想と、障害者の就労支援という仕事はマッチするなと思っていて。社会的包摂、ソーシャルインクルージョンっていいますけど、強い人だけじゃなく、いろんな立場の人がみんなでともに暮らして行くにはどうしたらいいのかっていうのを、絆とか優しさとかじゃなくて、もっと現実的に、実際的に考えていかないといけない。その時に、必要なコミュニティはどういうものなのか、生活していくのに何が必要なのか。もともと東吉野に住んでいる人と移住した人たちとの間で、さまざまな知恵をシェアして、お互いに持っているものを分け合いたい。そうすることで、新しい関係性を生んでいきたいと思っています。

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プロダクトを開発して作って売る。 拠点を定めずに動きながら 奈良の山奥で、今現在を営む 

通い続けた村で惹かれた
美しい川沿いの一軒家

今暮らしている物件は、この川が決め手でした。2階からの眺めもすばらしくて、訪ねて来てくれる人もよく窓際のソファに座って外の景色を眺めていますね。やっぱりきれいな川が目の前にあるのは、東吉野で暮らすひとつの特徴でもありますから。

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子どもが生まれてからは、環境がいいところ、広いところに住みたいと思っていました。そんな時、友人の坂本大祐さんがすでに東吉野村に住んでいて、何回か遊びに来ているうちに、いいところだなって思って。坂本さんに「家を探してるんです」と話をしたら、「じゃ、物件一緒に見に行こうや」って言ってくれて。すぐには見つからなかったんですけど、ある時、役場の情報でいい物件があるらしいということを坂本さんから聞いて、見に行ってみたらこの物件で、即決したんです。

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息子の間太くんが生まれたのをきっかけに東吉野へ移住。奥さんの真理奈さんと、ここにきて野生を取り戻した(!?)愛犬たちと。

息子の間太くんが生まれたのをきっかけに東吉野へ移住。奥さんの真理奈さんと、ここにきて野生を取り戻した(!?)愛犬たちと。

坂本さんとのそもそもの出会いは、僕が大阪府堺市でデザイン事務所兼ショップにいた時、その近所で坂本さんの弟さんがコーヒー屋をしていたのがきっかけですね。その時、すでに坂本さんは東吉野に移住していたんですが、うちのお店にも遊びに来てくれて、すぐに仲良くなりました。その縁があって、僕も東吉野に遊びに行くようになったんです。

それまでは“東吉野村”の位置さえ知らなくて(笑)。堺から東吉野までは車で1時間30分くらいかかるんですけど、坂本さんは一度東吉野に帰っても次の日には堺に来ていて。すごい頻度だったので初めは驚きました。けれど、今では僕も移動は全然苦じゃなくて、車中で音楽を聴きながら考えごとをしていると、思考が整理されてくるというか、リセットされるいい時間でもあるんですよね。だから、たとえ距離があったとしても、行く気があればどこにだって行けると思えました。それを、そばで実践してる先輩がいてくれたから。半年に1回くらいのペースで2〜3年通って、この物件と出会って、2013年11月に東吉野に移住しました。

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どこにいるか、より
だれといるか、が生む自信

堺では、好きなものを集めた雑貨店をやりながら、自分でものを作って売るというプロダクト・デザインを生業にしてきました。自分で作ったものを展示会に出して、バイヤーさんが買ってくれるのですが、だんだんと「欲しい」と言ってくれるバイヤーさんと出会うことができて、全国に販路ができていったんです。徐々に商売が軌道に乗り出してくると、今いる堺以外の場所でもできるんじゃないかと思い始めて。

デザインコンペでグランプリを取り、プロダクトデザイナーを始めるきっかけになった、喜怒哀楽のいろんな表情が作れる顔のハンコ「faces stamp」。

デザインコンペでグランプリを取り、プロダクトデザイナーを始めるきっかけになった、喜怒哀楽のいろんな表情が作れる顔のハンコ「faces stamp」。

展示会場はほぼ東京がメインでしたが、ほかにも人づてで少しずつ販路を見い出だせたのも大きくて、人とのつながりがあれば生きていけるという自信も生まれました。だから、東吉野に来る時も、誰もいなかったら来てないと思いますよ。坂本さんがいたから、なんかおもしろいことが一緒にできるんじゃないかなって思えた。

移住する時の不安……ですか? 僕自身、この仕事はどこででもできるって思えた時点で不安はなかったですね。それに自分の工夫次第でなんとか生きていけると思っていたので、たとえお金がなくても、仕事を選ばなければなんとかしてお金は稼げるだろうと。そうやって生きていこうと思えたら、すごく自由になれたというか。

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隣の吉野町の集落を見渡せるお気に入りの場所。川を囲むようにして家が建ち、どこからでも、美しい川の流れが目に入る。

隣の吉野町の集落を見渡せるお気に入りの場所。川を囲むようにして家が建ち、どこからでも、美しい川の流れが目に入る。

僕の中では「都市/地域」という分け方もないし、東京でも、地方でも、なにかおもしろいことがありそうな場所だから、住んでいるだけ。東吉野村に住もうと思ったのも、坂本さんがゆるくてのんびりしてる人だから、自分と重なる部分があって、一体どんな生き方をしてるんだろうっていう興味もありました。自分では、お金がなくても生きていけると思ってるけれど、果たしてほんまかな?という思いもどこかにあって。だから、ここで暮らして体験してみようという思いもあったんです。

作って、試して、使って、作る。
暮らしあってのプロダクト

東吉野村に来てからは、仕事の時間は圧倒的に少なくなりましたね。お金を稼ぐために働く感覚がなくなりました。でも、やらなきゃいけないことはたくさんありますよ。薪を集めて、薪割りしをして、子育てもそう。いまは、商品がコンスタントに売れているので、その間に次の商品を考えている感じです。

自宅の脇にある小さな工房にて。デザインを考え、ここで試作を何度も繰り返し、時間をかけて形にして商品化していく。

自宅の脇にある小さな工房にて。デザインを考え、ここで試作を何度も繰り返し、時間をかけて形にして商品化していく。

移住してから作った和紙のプロダクトは、隣の吉野町に住む、植 貞男さんという和紙職人さんとの出会いがきっかけでした。この辺一帯は、「吉野和紙」で有名な土地で、きれいな川がある吉野では何百年も前から和紙が作られていたそうなんです。奈良県庁職員の福野博昭さんという方に「おもろい作り手のおっちゃんがいるから紹介するわ」と軽いノリで紹介されたのが植さんで、ほんまにおもろいおっちゃんで(笑)。「こんなん作りたい」というアイデアを話したら、「いっぺんやったろか」と次の日には試作ができていて。こっちが追いつかないぐらいエネルギッシュなので、2人でいろいろ試作した中から和紙のコースターと照明が生まれました。

吉野和紙の職人、植貞男さんの工房。和紙の原料となる木から栽培し、昔ながらの方法で和紙づくりを行う。

吉野和紙の職人、植貞男さんの工房。和紙の原料となる木から栽培し、昔ながらの方法で和紙づくりを行う。

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「和紙の照明」は菅野さんとのコラボレーションで生まれた。和紙の柔らかさで自在に形が変えられる。

「和紙の照明」は菅野さんとのコラボレーションで生まれた。和紙の柔らかさで自在に形が変えられる。

植さんは楮(こうぞ)という和紙の原料を育てるところからやっていて、紙になるまでの工程を見ると本当に手間ひまがかかっています。実際に作る現場を近くで見ることで、プロダクトのアイデアも湧いてきますし、作って、使って、試して、そこからまた反映して、そうやって自分の暮らしの中から生まれる商品作りが、こっちにきてからできてるように思いますね。

こちらのグローブも和紙製! 伝統を守りながらも、和紙の新しい可能性を常に考える植さんの柔軟な姿勢が今までにない商品が生み出すきっかけに。

こちらのグローブも和紙製! 伝統を守りながらも、和紙の新しい可能性を常に考える植さんの柔軟な姿勢が今までにない商品が生み出すきっかけに。

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拠点を定めず仕事を生み出す
いまの時代に生きる僕らの特権 

学生時代に、あるコンペに出品したプロダクトがグランプリをもらって、その賞金を資金にデザイン事務所を設立したんです。その時はまだ21歳で、右も左もわからず事業を始めてしまって。資金もだんだんと底をつき、最初は4人いたスタッフも最後には2人だけに……。プロダクト・デザインって、試作から商品になるまで最短でも3カ月や6カ月、年単位で商品ができていくので、それまでお金が入ってこないんです。だから、小さいノベルティを数万円で請け負ったり、そうやってつないでいたんですけど、それもだんだん苦しくなってきて。

それで、まずは人に来てもらって商品を見てもらえる場所を作ろうと、2009年に堺で事務所兼ショップをオープンしました。会社からデザインの発注を受けて、プロダクトを作る仕事もいくつかしましたが、僕らが仕事を受けていた中小企業のメーカーは何かを作っても販路を持っていなかったので、販売できなかった。たとえいい商品ができたとしても、その商品が世に出ることがないということが度々あって。だったら、自分で販路を開拓していこうと、積極的に展示会に出てみることにしたんです。

学生の頃、仲間同士で小さな雑貨を作ってはガチャガチャのカプセルに詰め、知り合いのお店で販売。「自分の作ったものが売れる喜びを味わいたくて」始めたこの活動がプロダクト・デザイナーの原点。

学生の頃、仲間同士で小さな雑貨を作ってはガチャガチャのカプセルに詰め、知り合いのお店で販売。「自分の作ったものが売れる喜びを味わいたくて」始めたこの活動がプロダクト・デザイナーの原点。

とある展示会で、サンプルで作ったカードケースを自分で使っていたら、それを気に入ってくれた東京の雑貨店のバイヤーさんが、後日連絡をくれて取引が始まりました。その後も頻繁にオーダーをくださって。その頃から、自分が個人的に欲しいと思って作ったものだとしても、販路に乗せることができれば、きちんと売れるんだという手応えを感じました。

牛革を2ツ折にしたシンプルなカードケース「MINIMUM CARD CASE」(全5色・3240円)。自分たちで使うために作ったサンプルを商品化したもの。

牛革を2ツ折にしたシンプルなカードケース「MINIMUM CARD CASE」(全5色・3240円)。自分たちで使うために作ったサンプルを商品化したもの。

今では国内外に130店舗くらいの販路を持っているので、今度はその販路をいろんな人に使って欲しいと思っていて。たとえば、今まで販売先のなかった中小企業のメーカーも、僕に依頼をくれたら、その販売ルートを使えるし、友だちの商品も一緒に販売できる。これまで築いてきた販路を、いろんな人の商品を売る販売ルートとして使ってもらいたいなと考えています。

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今は、奈良県大和八木にある福祉作業所に発送業務を外注もしています。全国の130店舗との取引は、FAXかメールで注文が入って商品を発送するのですが、結構な作業量になるんです。自分一人ではできない部分を地元の作業所に発注することで、少しでも地域に還元できるんじゃないかと考えて、在庫の管理や発送だけでなく、商品の組み立てや梱包もお願いしています。そうしたシステムを作り上げるまでには、何度も作業所に通って、時間をかけてやりとりしながら、少しずつ課題をクリアしていきましたね。今では安心しておまかせできるようになったので、とても助かっています。

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いま開発中の、廃材を使った積み木のプロトタイプ。面と面を合わせて積み上げる多面体だから同じ形はなく、すべて手作業で削っていく。

いま開発中の、廃材を使った積み木のプロトタイプ。面と面を合わせて積み上げる多面体だから同じ形はなく、すべて手作業で削っていく。

2015年春からは、新しくできたシェアオフィス「OFFICE CAMP」の運営にも関わっていて、入り口付近のスペースで、オリジナル商品も販売させてもらっています。この場ができたことで、東吉野にいながら全国だけでなく海外からもいろんな人が遊びに来てくれるので、毎日がものすごく刺激的。

シェアオフィス「OFFICE CAMP」にて。友人でもあり、共同運営者でもある坂本大祐さんと。

シェアオフィス「OFFICE CAMP」にて。友人でもあり、共同運営者でもある坂本大祐さんと。

こんな山奥の集落に住んでいても、道路などのインフラが整っているので、東京からの荷物も翌日に届くし、インターネットがあるからどこからでも注文を受けることができる。これって昔だったら考えられないことで、何もない山村で生きていくには、食べ物ひとつ自分で作っていかないといけなかった。でも、今は必ずしもそうじゃない。地域にいながら僕のような仕事や暮らしも成り立つし、やり方次第ではどこでだって生きていけると思うんです。それは、ずっとここで生きてきた人や関わってきた人たちが、美しい川を守りながらも必要な利便性も高めてくれたからこそで。すごく感謝しています。なんていい時代にいるんだろうって(笑)。そう考えて、動くほどに、長い人類の歴史のなかで僕らが生きている今が一番おもしろい時代だなって思うんです。

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思い通りにならない部分を取り入れる。ガラス窯をつくるため、来春、能登島へ移住

ものに宿る「時間」への憧れ

僕は叔母の影響もあって、子どもの頃から古いものに触れる時間が多かったんです。だからなのか、現代のものも好きなのですが、特に絵画に描かれているような器や、発掘されるようなガラスなど考古学的なものには昔から興味がありました。つくった人がすでにこの世にいない古いものには、今それを見ている自分との間に時間的な隔たりがある。自分のところに来るまでにかかった時間には、自分が考えている以上にきっといろんな要素が詰まっていて、そこに思いを巡らせるのが好きなんです。

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僕はもしガラスをやっていなかったら、織物をやっていたと思います。布の質感も好きなのですが、何よりも織物が持つ「時間」が好きで。織物というのは、作業時間が数分間の吹きガラスとは違って、完成までにとても長い時間がかかる。そうやって時間をかけてつくられていくものに、憧れがあるんですよね。

だから「gaze(ガーゼ)」という作品では、ガラスのなかに細かい線が織り込まれているような模様をつくりました。早さが求められるガラスの手法のなかに、織物が持っている「時間」を込めたかったんです。

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思い通りにならない部分を残す
作家としてのものづくり

僕はずっと目標にしていた自分の窯を持つために、来年の春から本格的に能登島へ移住することにしました。そして、そこで自分の窯をつくることができたら、僕は自分の生活から出るものを作品に転化していきたい。例えば、ガラスの色は釉薬と同じで、自分で調合することができるので、そこに生活から出たストーブの灰を使ってみても面白いなって。それに、薪の種類が違えば灰の色も違ってきますから、毎年同じやり方でつくっても、決して同じものにはならない。

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僕は作家として同じものをつくり続ける必要性は感じないですし、そのときに一番いいと思うやり方で、一番いい形を表現できたらいいと思っています。例えば、ピンブロウという技法を用いたワイングラスのシリーズでは、自然のなかに発生する泡のように、一つとして同じ形にならないような作り方も考えました。
どうやっても自分の思い通りにならない部分を製作工程に入れていく。それによって、器一つひとつに個性が生まれますし、自分も飽きずにつくり続けることができるんです。

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自分のスタイルを見つめ
慣れ親しんだ場所を離れる

僕は石川県に来る前、東京の新島にあるガラス工房でスタッフとして働いていました。僕の好きなガラス作家で工房のディレクターをしていた野田收さんから声をかけてもらい、7年くらいお世話になりました。新島は「新島国際ガラスアートフェスティバル」など、世界的なイベントを開催している場所で、海外の作家さんとのつながりも大きいところ。広く活動している工房の手法はとても勉強になりました。

島の人とも仲良くなって、子どもも生まれて、そこでずっとやっていくという選択肢もあったのかもしれません。でも、離島という環境が、僕には少し動きにくかった。
地元だけで作品を売っていくには、販路が少ないですし、そもそもガラスはたくさんの量が売れるものではありません。僕の作品はつくるのにも時間がかかりますし、外に展示をしにいくにも、島を出るだけで時間もお金もかかってしまう。作品づくりと生活のバランスが取れなかったのです。

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もっと自由に作品づくりと向き合える環境を求めて、次の場所を探していたとき、叔母が亡くなって5年間ほど空き家になっていた能登島のこの家に辿りつきました。能登島は島ではあるけれど、2つの大きな橋で半島とつながっているから、ほかの地域への移動もしやすい。北陸はガラス工房も若手を育てる教育機関も多く、より環境が整っているところに身を置きたいと思い、2009年に一度ここに来たんです。フリーの作家として活動する一方で、島のクラフトマーケット「のとじま手まつり」などでも作品を発表しながら、工房の専門員になって金沢に移動するまでの約2年間、この家に住んでいました。

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次の世代につなげる「小さな窯」

ガラス窯には熱量が必要で、1000度以上の温度を24時間キープしないといけません。大きい窯だとそこまでの温度に上げるためには4〜5日、温度を下げるためにも同じくらいの日数がかかります。温度の上げ下げだけで、時間も光熱費もかかるというなかで、大きな窯を使って個人が仕事をしていくのは非常に大変です。だから、僕は1日単位で火を止められるようなコンパクトな窯をつくりたいと思っています。

僕たちのようなガラス作家のつくるものは、生活に即したものでありながら、決して安いものではありません。大量生産された商品は世の中にあふれていて、消費者にとって“これじゃなくてもいい”という部分がどうしても大きくなってしまうなかで、どういう風に作品を使ってもらうかを考えていくことは、作家活動を続けていく上で大切なことだと考えています。

石川や富山には、若いガラス作家も多いのですが、彼らの多くは、今の僕と同じで1日貸しのレンタル工房を使っている。僕が能登島に小さな窯をつくり、それを使って、自分がコントロールできる範囲の仕事を生み出していければ、後から始める人たちもきっとスタートを切りやすくなるんじゃなかなと。

能登島は工房や美術館もあって、ガラスと縁が深い。金沢から車で1時間半で来れる近さですが、刺激にあふれた都会とは違って、静かに集中してものづくりと向き合える環境がある。次の人たちのことも考えて、僕がこの島に、ガラス作家としての前例をつくっていけたらいいですね。

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[vol.1]暮らしの一部に、 お金に頼らない部分を持つ コンパクトな生き方

ワンルームマンションでも、卑屈にならない

近年日本でも、オルタナティブな暮らしとして注目を集めるようになった、“小さな家”という意味を持つ「タイニーハウス」。1999年にアイオワ大学の美術教師ジェイ・シェイファーさんが約6畳分の広さの「スモールハウス」を建てて、それが翌年に雑誌の賞を獲得したことが、全米にムーブメントを広めるきっかけになったと言われている。必要以上にものを持つことなく、小さな家でシンプルな生活を楽しむ。それは「大きな家に住むこと=豊か」としてきた従来の価値観に一石を投じるものだった。

発達・知的障がい者の就労支援を行っている「NPO法人はぁもにぃ」(千葉県千葉市)の農園内に建てたタイニーハウス。室内の広さは畳4枚分ほど。「みんな違う窓がお気に入りになるといい」との思いから、それぞれに景色の異なる小窓を計6か所設置した。

今、全国でタイニーハウスづくりのワークショップを行っている竹内さんも、この思想に共感を覚えた一人。樹の上や原っぱ、車の上など、あらゆる場所に小屋を建てるタイニーハウスビルダーとして、旅をするように全国を駆け巡っている。

「タイニーハウスは、大きさや広さなど、ハードの部分に注目しがちなのですが、僕がいいと思うのはそこにある精神性です。例えば、ワンルームマンションに住んでいる多くの人は、できれば大きな部屋に住みたいけれどお金がないとか、移動時間を短くしたいとか、いろんな条件のなかで、仕方なく選択をしていると思います。でも、これでいいじゃん、これで十分だよっていう気持ちで住めたら、ワンルームでも卑屈になることなく、ポジティブに暮らすことができますよね」

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限られた生活のなかで、何を選択するか

竹内さんが昨年から行っているワークショップでは、10〜15人程度の参加者が集まって、約3か月間で実際に移動式のタイニーハウスをつくる。タイニーハウスの広さは一般的なワンルームマンションと同程度の10〜20平米。しかし、普通の部屋と違うのは、それが誰かに用意されたものではないということ。自分でつくる小屋には、自分の好きなように暮らしの構成要素を配置できるのだ。

「タイニーハウスの暮らしは、“選ぶ暮らし”です。トイレを流すにしても、どこからか引いてきた水を流すのか、貯水槽に貯めた水を流すのか。風呂をつくって沸かすとしたらガスを買ってきて給湯器をつけるのか、誰かから薪をもらうのか、そもそも風呂はつくらないのか。限られた暮らしのなかで何を選択するか、真剣に頭を働かせることになる。タイニーハウスは自分がどう暮らしたいか考えるきっかけを与えてくれるんです」

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発達・知的障がい者の就労支援を行っている「NPO法人はぁもにぃ」(千葉県千葉市)の農園内に建てたタイニーハウス。室内の広さは畳4枚分ほど。「みんな違う窓がお気に入りになるといい」との思いから、それぞれに景色の異なる小窓を計6か所設置した。

発達・知的障がい者の就労支援を行っている「NPO法人はぁもにぃ」(千葉県千葉市)の農園内に建てたタイニーハウス。室内の広さは畳4枚分ほど。「みんな違う窓がお気に入りになるといい」との思いから、それぞれに景色の異なる小窓を計6か所設置した。

減らして考える。 そして、次の暮らしへ

竹内さんは20代のほとんどをヨーロッパで過ごし、クリエイターのもとでプロダクトデザインを学んだ後に帰国。日本でツリーハウスに関わる仕事に就いたことから本格的に小屋づくりに興味を持ち、会社を設立。タイニーハウスビルダーとして、全国各地で多くのタイニーハウスやツリーハウスをつくってきた。

最小限の持ち物と、最小限の機能を持った部屋さえあればいいという移動生活。消費社会へのカウンターとしてアメリカで同時多発的に広がったムーブメントの存在は、できるだけ“持たない”自身のライフスタイルに照らし合わせても、自然に受け入れられるものだった。

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「僕はたくさんのものに愛情を注ぐことができないんです。鉛筆が10本あると、愛情が10分の1になってしまう。だから、自分が持つのは本当に大好きなものだけでいい」
しかし、竹内さんはこうした考え方も「すべての人に共感してもらえるものじゃない」と続ける。

「ものに囲まれた暮らしもひとつの文化。持つ人がいて、持たない人がいるという多様性のなかで、このムーブメントは生まれました。だから、この哲学もすべての人にフィットするかというと、そうじゃない。タイニーハウスは、持たない暮らしを楽しめる人にとって、一回自分のものをどれだけ減らせるか、減らしたなかでどういうことを考えられるか、というのを実験する場なんだと思っています。一生、住み続ける必要はないし、そこで得られたものを、次の暮らしに生かしていければいい」

小さいから、できること

設計図を描かず、その場にいる人とまるで音楽のセッションを奏でるように、材料を組み立てていく竹内さんのタイニーハウスづくり。小さくつくることにも、さまざまなこだわりを持って取り組んでいるという。

「アメリカのタイニーハウスのほとんどは2階にロフトが付いている。なぜかというと、彼らにはベッドルームが必要だから。でも、日本人ってひとつの部屋で食事をすることもあれば、寝ることもあるし、くつろぐこともある。狭い国土のなかでコンパクトを考えてきた日本の暮らしの知恵を、タイニーハウスにも取り入れることができたら面白いですよね」

現在、竹内さんはワークショップを手がける一方で、アメリカ西海岸を中心に広がるタイニーハウス・ムーブメントのパイオニアや、実践者の暮らしぶりを追ったロードームービーを制作している。いずれは海外に向けて、まだ情報が少ない日本のコンパクトな暮らしも掘り下げて発信していくつもりだ。

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暮らしの一部に、お金に頼らない部分を持つ

タイニーハウスでコンパクトを追求する上で、忘れてはならないこともある。それは“持たない暮らし”の一部をシェアすることによって、足りないものを補うということ。竹内さんは、ムーブメントのパイオニアの一人で、自身の心臓の病気をきっかけにタイニーハウスを建てたDee Williams(ディー・ウィリアムス)さんの例を挙げる。

「彼女は体を動かすのが好きだけど、家にはシャワーがない。だから、友達の家にビールを持っていき、一緒に飲んでシャワーを浴びて帰る。おたがいさまの関係性をつくっていければ、持っているものは少なくていいよねって、彼女は言っています」

友達にシャワーを借りられなければ、スポーツジムや公共施設のシャワーを使うこともできる。家に本棚がなければ、図書館やインターネットを使うこともできる。ないものを外に委ねることができる時代では、暮らしのすべてを自分だけで完結する必要はないのだ。

「僕は、お金がある循環もいいと思っている。ただ、全部お金で解決しない部分も、暮らしの一部に持っておきたい。それが自分の人生を支えてくれるから。暮らしの豊かさって人から授かるものじゃなくて、自分でつくりだしていくものなんだと思っています」

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イタリアから能登島へ。 田んぼを耕しながら 生活とデザインをつないでいく

ベネチアみたいな能登島で
生活の中からデザインする

7年間暮らしたベネチアから、能登島に移住してすぐに「能登デザイン室」をつくりました。でも、それは移住してから決めたようなもので、能登島に来て何かやりたいとか、初めから考えがあったわけじゃないんですよね。石川県七尾市出身の妻が能登島でカフェを開いていて、イタリアから遊びに来たときにいいところだなって思ったので、とりあえず動いて、あとはできることをやろうって感じで。僕、あんまり深く考えないタイプというか(笑)、悩まないんですよね。

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今は能登半島を中心に、設計とデザインの仕事をしています。能登の特産品のパッケージのデザインやネーミングを考えたり、会社のホームページをつくったり、能登でこれから新しいことをやりたいという人からデザインの相談を受けたり。工芸の盛んな土地なので、地元の素材を使って、地元の職人さんたちと一緒にものづくりをすることも多いですね。僕は生活のなかで自分が使いたいもの、ここにあったらいいなというものを考える。だから、生活とデザインはすごく自然な感じでつながっています。

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能登島の陶芸工房「独歩炎」とのコラボから生まれた「フカイアサイ土鍋」。「独歩炎」の藤井博文さんが独自に調合した釉薬「鉄釉」を使った、黒く渋い光沢が特徴。上蓋をひっくり返すと浅い調理鍋として使うことができる。

能登島の陶芸工房「独歩炎」とのコラボから生まれた「フカイアサイ土鍋」。「独歩炎」の藤井博文さんが独自に調合した釉薬「鉄釉」を使った、黒く渋い光沢が特徴。上蓋をひっくり返すと浅い調理鍋として使うことができる。

田植え道具の形状から着想を得てデザインした、原稿用紙のマス目を描くことができるスタンプ「わく」。富山県高岡市の木型職人が無垢の木を削り出して、金具や接着剤を一切使わない精密加工で仕上げている。

田植え道具の形状から着想を得てデザインした、原稿用紙のマス目を描くことができるスタンプ「わく」。富山県高岡市の木型職人が無垢の木を削り出して、金具や接着剤を一切使わない精密加工で仕上げている。

2年前に自分たちで設計した自宅。構造材に釘や金物を使わない伝統工法で、地元では「アテ」と呼ばれている能登ヒバを全体に組み合わせている。2階は『能登デザイン室』の事務所。

2年前に自分たちで設計した自宅。構造材に釘や金物を使わない伝統工法で、地元では「アテ」と呼ばれている能登ヒバを全体に組み合わせている。2階は「能登デザイン室」の事務所。

東京には設計の仕事で、月に1回くらい行っています。都会は僕、すごい好きで……やっぱり何でもあるから、楽しいじゃないですか。でも、ないものがないというか、余白がないし、自分が何かそこに付け加える余地もない。ただ消費して楽しむ分にはいくらでも楽しめるけど、子どもを育てることも考えたら、都会はもういいかなって。仕事の合間に田んぼやったりとか、そういうのが東京じゃできないから。うちの子たちはこっちで、毎日叫んで跳ね回ってます。

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田んぼを始めたのは、当時住んでいた家の大家さんが紹介してくれたから、ちょっとやってみようかなって。でも、せっかくやるなら農薬を使わないでやろうと思って、自然農法の本を読んだり、能登で実践している人にも教えてもらいながら少しずつ勉強して。そうこうしているうちに、なんか農業のある暮らしが普通になっていたというか。仕事が煮詰まったときの気晴らしにもなるし、何より、田んぼやってると安心するんですよね。

ベネチアからこの島に遊びに来たとき、島のいろんなところで実っている田んぼを見て、とりあえずここに来れば飢え死にすることはないだろうなって思ったんですよ。食文化は豊かだし、手仕事を生業にしている人も多いし、温泉もあるし、海に囲まれた穏やかな風土や、道端でおじいちゃんやおばあちゃんが何気なく話してる風景もベネチアみたいでいいなって(笑)。でもいきなり行こうとは思わなかったですけどね。漠然とすごくいいとこだなって思っていたんです。

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田んぼに行くのは、仕事の合間や保育園のお迎え後など気が向いたらいつでも。「特に夕方になると働くのが嫌になって……気持ちいいですよ、田んぼ」。

田んぼに行くのは、仕事の合間や保育園のお迎え後など気が向いたらいつでも。「特に夕方になると働くのが嫌になって……気持ちいいですよ、田んぼ」。

ここじゃないと思った瞬間
海を越えて能登島へ

大学を卒業してベネチアに行ったのは、カルロ・スカルパっていう好きな建築家の作品を見たいと思ったからですね。カルロ・スカルパは建築家だけどガラスのデザインもやっていて、僕もものづくりが好きだったから、当時は観光気分でいろんなガラス工房を見て回っていたんです。

そのとき、ムラーノ島という、工房が100軒ほどある町中がガラス工房みたいな島で、すごく気に入った作品に出会ったんです。それがたまたま土田康彦さんという日本人の作品で。純粋にどうやってつくっているのか知りたくて「つくり方を見せて欲しい」と言う話から、いつの間にか働かせてもらえることになっていて(笑)。作品の写真を撮ったり、展示のお手伝いをしたり……気付いたらその工房には2年間もお世話になっていました。

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ただ、僕はもともと建築を勉強していて、将来的には設計をやりたいと思っていたんです。だからその後は、設計事務所を土田さんから紹介してもらって、そこでは主に教会の修復の仕事をしていました。ベネチアの教会は建てられた年代によって、壁の崩れ方も違うので、それを写真で残したり、教会の屋根裏に登って測量したり。単調な仕事ではあったけどそれがすごく面白くて。もっと知識を深めたいというのもあって、ベネチア建築大学に通いました。そのときに同じ大学のイタリア人の建築家と一緒にデザインの仕事をしようということになり、プロダクトデザイナーとして仕事を始めたんです。

当時は割とモダンというか、言ってみれば東京にあるマンションでも使えるような商品を考えていました。でも、それは築数百年のアパートに、当たり前のように住んでいるベネチアの人たちが、日々の暮らしのなかで使うようなものじゃなくて……。自分が住んでいるところに提案できないものをつくっていることへの違和感というか、逆に言えばそれが一致した方がもっといいものができそうだって、思うようになったんです。

自分が地に足をつけてものづくりができるところはどこかなって考えたときに、ぱっと思いついたのは能登島だった。それからすぐにベネチアのアパートを引き払う準備を始めて、ひと月後には能登島に来ていました。29歳のときでしたね。

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デザインのなかった島に
デザインの芽を広げていく

能登島で会社を立ち上げたけど、タウンページをみたら「デザイン」のカテゴリーがなかった。当然初めは仕事もなかったので、しばらくはベネチアのつながりで紹介してもらった富山県高岡市にあるタカタレムノスという時計メーカーでアルバイトをして。そこでは自分のデザインの提案っていうよりは、その会社に関わっているデザイナーから提案されたデザインを商品化するために、どういう材料を使って、どこの工場でつくればいいか、ということを考えていました。プロダクトデザインは、最終的にどうしても値段が付いてくるもの。値段の出し方は、外のデザインだけをしていたら分からないことなのでとても勉強になりました。

ただ、僕が事務所を開いた能登島はそもそもデザインのない土地だった。例えば、印刷物をつくるにしても、印刷屋に頼めばデザイン費込みでやってくれるわけで、デザインに対して別にお金をかけるということが、ほとんど理解してもらえませんでした。それが少しずつ変わってきて、自分たちにデザインの仕事を頼んでくれる人が増えてきたのは、移住1年目から妻や地元の人たちと一緒に始めた「のとじま手まつり」というクラフトマーケットの存在が大きかったと思います。

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今年で10回目を迎えるクラフトマーケット「のとじま手まつり」。毎年100組以上のクラフト作家が集まり、芝生広場で作品を展示販売する。昨年は2日間で約5千人の来場者が訪れた。【写真提供:のとじま手まつり実行員会】

これが全国各地から人が集まる大きなイベントになったことで、多くの作家ともつながりが生まれたし、地元の方にも自分たちの存在を知ってもらえるようになりました。その一方で、やりたかった設計の仕事もするようになってきて、家具や木工、ガラスや金工など、自分が何かをつくりたいと思ったときに頼める職人さんともたくさんつながるようになりました。

石川県はもともと工芸が盛んで、いろんな職人さんがいる。隣の富山県もものづくりが盛んだけど、小さな工房や個人のつくり手が多い石川県ともちょっと違う。それが面白いなと。自分がどんなものをつくりたいかによって、頼むところも変わってくるんですよね。

能登は僕たちが来た後くらいから、伝統産業の世界で世代交代が始まっていて、僕たちと同じくらいの年代の人たちがメインになりつつあります。今までやってきたことじゃない、何か新しいことをしようという人も増えているので、これからもっと面白くなると思いますよ。

この島には何もないよっていう人もいるけど、島の人が当たり前に感じていることは僕にとって新鮮なことだったりもする。僕はこれまでいろいろと移動してきて、今も地方にあちこち遊びに行ったりもするんですけど、やっぱりこの島に帰ってくると思うんですよね。ここが一番いいなって。

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デザイナーから職人へ。 家族で移住した別府で 竹細工を生業にする。

ものづくりへの思いをあきらめ、
グラフィックデザイナーの道へ

別府に住んで1年半が経ちましたが、毎日、竹細工と温泉三昧です。別府には山と海があって、何より環境がいい。実家の松本にどこか似ているような感じもあって、落ち着くというか。家族で過ごす時間も多くて、今の収入は訓練校から支給される給付金だけですが、仕事に追われていた東京での生活よりもずいぶん暮らしやすいですね。

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横山さんの自宅にて。自身がつくった作品など、竹細工がいっぱい。編み方によって種類もいろいろ。

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高校までは長野県の松本市に住んでいました。卒業後は、靴の職人になりたくて、東京にある靴の専門学校に行こうと考えていたんです。今までスニーカーしか履いたことがなかったから、高校生になって初めて、しっかりした革靴を履いたとき、ものすごく感動して。革なのに足にフィットするはき心地や、形の美しさに驚きました。けれど、靴の専門学校は不合格。どうしてもあきらめきれず、浅草の靴職人さんを訪ねたりもしましたがすべてダメでした。そこで発想を変えて、靴にも活かせるであろう設計やデザインを勉強しようと、デザインの学校に入ることにしたんです。でも、なぜかコンピューターグラフィックス専攻に入学してしまって(笑)。デザインの勉強が楽しくて、靴職人への道はいつのまにかうやむやになり、卒業後はデザイン会社で働くことになりました。

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自分らしい生涯の仕事とは。
これからの働き方を手探り

小さなデザイン会社だったので、広告もパッケージもエディトリアルデザインも、いろいろやりましたね。デザインの仕事って、自分がつくりたいものをつくるのとは違うし、制約があるのが前提。でもだからこそやりがいもありました。けれど、広告のデザインって影響力はあっても、あっという間に消費されてしまうのがくやしかった。そんなこともあって、30歳を前にして、デザイナーの仕事をこれからも続けるべきなのか迷いが生まれてしまったんです。

ちょうどその頃、大きな仕事を手がけることになりました。とあるゲームソフトのパッケージデザインだったんですが、ゲームの開発から関わってアートディレクションを担当しました。2~3年かけたこのプロジェクトが終わったとき、やりきった感じがあって、「もういいかな」と思えたのも大きかった。

僕は誰かに指示を出すことより、自分で手を動かすほうが好きなので、どちらかというと職人気質。長いスパンで世の中に残っていくものがつくりたいと思っていたし、もっと直接的なリアクションがほしくて。だんだんと、ものづくりがしたいと思うようになっていったんです。

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竹を細く裂いて、素材となる“ひご”をつくり、ひたすら編んで形にしていく。横山さんが1年目につくったざるは、昔からある定番の形。しっかりとしたつくりで長く使える。

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民藝への興味から
再び、ものづくりの職人を志す

実家のある松本は、昔から民藝の文化が根付く町。でも実際に民藝ってなんだ?といわれると答えられなくて。調べていくと“クラフト”という外見ではなく、奥にある民藝運動や精神性に興味が湧いてきたんです。

何をやりたいかと考えていたとき、東京・表参道にある「Zakka」というお店で、とてもきれいな竹かごに出会いました。それが「別府竹細工」でした。竹かごというと、荒っぽくて野趣的な農具のイメージが強かったんですけど、頑丈でありながらしなやかなさもあって、何より美しかった。その佇まいに衝撃を受けて、どうしたら竹細工職人になれるのか調べたら、別府に訓練校があることを知ったんです。

奥さんに「別府に行きたい」と話をしたとき、「仕事にしないといけないの? 趣味じゃダメなの?」と言われました。けれど、一生の仕事にしたいという思いを伝えたら、最後には「なんとかなる」と励ましてくれました。結婚して10年、僕の意思が固いことはよくわかっていたみたいで。早速、お互いの両親にそのことを伝えると彼女の両親は猛反対。子どもができたばかりだったので「これからどうするんだ?」と。訓練校に通っている間は給付金がもらえるんですが、奥さんもしばらくは子育てで働けなくなるし、親が言うことももっともでした。一度保留にして、きちんと納得してもらえるよう準備してから、もう一度チャレンジしようと考えたんです。

それから、東京で期間を2年と決めて、まずは貯金。次に別府の組合がやっている東京の竹細工の教室に通ったり、竹細工の産地・岩手県一戸市にある鳥越地区に何度も通って編み方を教えてもらったり……。その2年間の集大成として、今後どうやって竹細工を商いにするかを「創業決起書」としてまとめて、彼女の両親にプレゼンをしたところ、正式にお許しをいただけて(笑)。いまではすごく応援してくれています。

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訓練校の定員は10名で、倍率は2~3倍くらいでしたが、無事合格。受かっても落ちても、別府に移住しようと思っていたので、その3日後に引っ越してきました。東京の教室に講師で来ていた伝統工芸士の森上仁さんにそう伝えたら、「うちに来ればいいよ」って言ってくださって、いまも学校が終わった後に通って教えていただいています。

竹細工をつくるだけじゃなく、
これからの“あり方”を考える

平日の朝8時~夕方4時まで学校で実習を受けて、その後は師匠の森上さんのところに行って試作する毎日です。2年目の今は、自分のオリジナル商品を考えながらつくる実習をしています。職人のアイデア次第で何でもつくれるのが別府竹細工の魅力なので、技術の高さだけじゃなく、デザインを生み出す独創性も必要。

それが2年目の課題ですね。実は、一昨年から訓練校が2年制になりました。卒業後は独立する人が多いのですが、1年目で習う基礎訓練だけで、その後自営していくのは厳しいらしくて。だから、2年目は、商品開発や企業経営、会計など、商品づくりから販売まで、竹細工を生業としてやっていくためのスキルを身につけることができるようになっています。

かごやざるなどの竹細工は、かつてはどこの家庭にもある日用品でしたが、昭和30年代に安価なプラスチック製品が登場してからは買い手が激減、いまでは作り手も全国的に減少しています。岩手の鳥越も一番若手で50代、伝統工芸に指定されている岡山の勝山竹細工の作り手もあと1人しかいなくて、松本は6年前に最後の方が亡くなられたそうです。作り手は高齢の方が多く、どこの産地も危機的状況なのですが、そのなかでも別府には訓練校があるぶん、若い作り手が育っています。けれど、みな職人になれるかというとそうでもない。ほとんどが続けられなくて辞めていってしまっている厳しい現状があるんです。

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訓練校での作業風景。「壁面空間を飾る」という課題で「ハンガーフック」をつくる横山さん。

もうひとつ、難しいのは値付け。定番のかごやざるをつくるのに3日ほどかかりますが、商品の価格が3日分の工賃になるかというとそうではありません。販売価格を単純計算で決めることができない。その手間を買い手の方に知っていただくのも必要だけど、それを強く打ち出し過ぎても、なんだかかっこ悪いじゃないですか。だから、まず何より「買いたい」と思ってもらえる“商品力”をつけないといけないなと思っていて。つくっても買ってくれる人がいないと始まりませんから。

自分がワクワクするものをつくることが大前提ですが、竹の素材としての可能性を、もっともっと深堀したいと思っています。現代の暮らしにも受け入れられる竹細工って何だろう?と考えたとき、僕は「求められているもの」ではなくて、「欲しくなるもの」をつくりたい。ニーズに合わせたものだけではなく、相手の欲している、その先にあるものを提案したい。それはいままでの需要になかった、新しい形になるのかもしれません。まだこれからですが、僕なりの挑戦です。

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1本の竹を曲げることで水引のような形を自在につくり上げる。

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「誰かの心に響くものをつくりたい」
デザイナーだった自分にできること

かつて僕が竹細工を見てそうだったように。誰かの“衝動”を起こしてみたいという願望があります。本のデザインも、たくさん並んでいるなかから、その一冊が目に留まるように考えられていますが、それと同じように竹細工も思わず目が留まって、「素敵だな」と心をぎゅっとわしづかみにするような、デザインとしての魅力も必要なんじゃないかと思っていて。好きな人、興味がある人にだけ向けてつくっていてもやっぱり買い手は増えていかない。だから、竹細工を使ったことのない人や、いままで触れたこともない人たちに「いいな」って思ってもらえるような、心に響く何かを与えられる商品をつくっていきたい。それは、デザイナーとして仕事をしてきた自分だからこそできることだと思っています。竹細工をつくっていると、ほんとに気持ちがいいんですよ。つくったぶんだけ形になっていきますし、何かをつくって、それが誰かに届く仕事っていいなって。見えない何万人に届けるよりも、顔が見える1人に届けたい。まだ学校に通っている身なのでこれからですけど、自分が楽しんでつくったものを買ってくれる誰かがいて、その方も喜んでくれる。そういう実感がある仕事ができるというのは、やっぱりいいものだと思うんです。

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自分で見て、歩いて、町の記憶をたどりながら 別府に根ざして暮らす【後編】

別府の人たちが集まる
キッチンのある空間

別府駅から数分のところにある北高架商店街のはずれに、「スタジオ・ノクード」というキッチンスタジオを構えています。別府で自分の“場”を持とうと思った時、キッチンは絶対にほしいと思って。食を通して人が集まれる、自由な場所をつくってみたかったんです。
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この日用意してくれたのは、ナス餃子、焼パプリカとトマトのサラダ、ひじきの煮物、ニンジンのラペ、ピリ辛キュウリなど、地元の市場で買った野菜のプレートランチ。

当初は、ひとりで運営していこうと思っていたのですが、いざ準備が始まると町のいろんな人が気にかけてくれて。スタジオにあるものは、ほとんどがもらいものだし、テーブルやキッチンも、近所の大工のおじさんと一緒にDIYしました。2013年にオープンした時のパーティには、100人くらい来てくれたかな。私が住んでいる浜脇のおじちゃん、おばちゃんや子どもたち、スタジオの近所の人たちも遊びに来てくれたんです。

スタジオをオープンしてから、近所に住む74歳の“きよちゃん”と知り合いになったんです。きよちゃんはとてもおしゃれな人で、いつも私が着ている服を「かわいいわね」ってほめてくれるんですが、今ではスタジオで一緒にお茶を飲んだり、ほぼ毎日会う親友に(笑)。きよちゃんの娘さんとお孫さんとも仲良くしていて、お正月もクリスマスもお誕生日会も一緒にお祝いしました。お孫さんもこのスタジオに遊びにきてはお手伝いしてくれたり、なんだか急に子どもがたくさんできたみたいで(笑)。

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パーティ会場にもなるほど広々としたスタジオ。電車が通過する時に響くガダンゴトンも日常。地元の人と一緒につくったDIYな空間。

私にとっては、別府の町全体が家みたいな感覚。キッチンがここにあって、お風呂も外にたくさんあるし、リビングは町中のお店や家のなかにあって、それぞれの場所に団らんがある。別府はとても居心地が良くて、懐かしさを感じるんです。それは、私の幼少の頃の記憶ともつながっていて……

生まれは熊本県の天草で、3歳になるまでそこで育ちました。東京で暮らしていた父と母が子育てに集中したいと仕事を辞めて、天草へ引っ越してきたのですが、無職だった両親は商店街にあったおばあちゃん家の下のテナントで、突然うどん屋を始めたんです。忙しく働く両親に代わって、私をかわいがってくれたのは商店街の人たちでした。大学時代に別府に通い始めた頃、商店街もあるし、周りで世話を焼いてくれる人がとても多くて、なんだか懐かしい感じがしたんですよね。それもあって「ここでなら生きていける」と思えたというか。
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2009年に、大学のまちづくりプロジェクトで教授について別府に来たのがそもそもの始まりなんですが、その年に開催されたアートイベント「混浴温泉世界」のボランティアとして運営に携わるなかで、別府への興味がさらに湧いてきて。一番の決め手になったのは九州大学の田北雅裕先生のトークショー。彼自身、大学院生のときに、熊本県のさびれた温泉街になってしまっていた「杖立温泉」にたった1人で移り住んで、どこのコミュニティにも属さずに自分で町づくりに関わったという話を聞いて、私にもできるかもしれないと思いました。その土地でお嫁さんをもらって町の住人になろうとしたという話や自分がもともと持っているスキルを活かして町に入り込むという話にも共感して、トークショーが終わってすぐに、別府に行くことを決めたんです。

その場にいた「混浴温泉世界」のアートディレクターの芹沢高志さんに「別府に行きたい」と話をしたところ、「BEPPU PROJECT」というNPO法人を紹介してくれたんです。「platform04 BOOK CAFE」というショップの店長を探していたようで、すぐに別府に引っ越しました。その後は、「platform04 SELECT BEPPU」の立ち上げを担当したり、ショップで取り扱う大分の伝統工芸などの商品プロデュースを手がけたりと、3年の間にいろんなことをさせてもらったのですが、だんだんと自分が本当にやりたいことって何なんだろうって考えるようになっていって。

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人が出会う「建築」と
記憶をつくる「食」

別府に来てから「建築」についての考え方も変わってきました。別府の浜脇で出合った古い建物を通して、そこに住んでいた人の記憶も建築だと思うようになってからは、“記憶はどうつくられるのか”ということが気になり始めて。人が集まって、みんなでおいしいものを食べれば自然と会話が生まれるし、きっと思い出に残るはずだと。もともとごはんをつくることが好きだったし、大学時代に農業をやっていたこともあって、人が集まる装置としての「食」からも建築が生み出せるんじゃないかと考えるようになったんです。

たとえば、アートを見てその印象を人と理解し合うことってすごく難しいですよね。それぞれがどう思うかは自由だけど、その感想を伝えたり、言葉にするのは難しい。だけど、食べ物だったら、まったく知らない人とでも「これおいしいね」ってすぐに話ができて気持ちが共有できる。「食」こそが、人が集まる場の中心になるものなんです。

建築を学んできた私にとって、食卓を囲むこと、そこで出される料理やパーティさえも建築だと思えた。だから、私は別府で暮らしながら、“フードアーキテクト(たべもの建築家)”として、“記憶に残る食卓”という場をつくっているんだと思います。

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2014年5月に行われた「スタジオ・ノクード」1周年記念パーティの様子。カラフルで楽しい仕掛けがいっぱいの料理がテーブルに所狭しと並べられた。写真:本人提供

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スタジオのなかにテントを張り、初めて会った人たちがそこで一緒に食卓を囲んだ「テントの中でお食事会」。美しい料理の数々とおいしい記憶を共にする。写真:本人提供

人の暮らしから生まれる
“建築”じゃない“建築”

建築を学び始めた頃は、まだ“食も建築”だとは思っていませんでした。大学1年の頃、課外活動でベトナムのハノイに1カ月間滞在したんですが、道ばたにはたくさんの屋台があって、そこで女の子がいきいきと働き、子どもたちだけで、みんな仲良くごはんを食べていました。そこには壁も屋根もなくて、建築の要素は何もないけれど、人の生活が確かにありました。その時初めて、建築家がつくるものだけが建築じゃないんだと気がついたというか。私は小さい頃、鍵っ子で1人でごはんを食べていたから、そんなコミュニティっていいなぁってうらやましく思って。

関東に住んでいた頃は、隣にどんな人が住んでいるのか知らなかったし、家族以外との社会的なコミュニティに属したこともなければ、触れたこともなくて、とても寂しかった記憶がある。でも、別府に来てからは人が集まる場所——共同浴場や湯治場、研究していた遊郭など、人と人が出会うコミュニティの場そのものに、だんだんと興味が移ってきたんです。

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だから、このスタジオは誰でも使うことができるオープンスペースになっています。62歳のおじちゃんたちの同窓会とか、立命館アジア太平洋大学(APU)の学生たちのパーティ会場としても使ってもらいました。「いつ誰と何をどうやって食べるか」をテーマに、地域に暮らす人と食材で、記憶に残る料理を提案しています。

料理をつくるときはいつも即興で、今自分が食べたいと欲するものと、季節の食材とコミュニケーションを取りながらつくっていく感じです。味付けもいつも目分量だから、レシピにおこせなくて(笑)。最近、おかゆにハマっているんですけど、それも今、自分の身体が欲しがってるから。中華街で中華がゆを食べたときの感動を思い出しながらつくるんです。

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この日の中華がゆは、鶏ガラに海鮮だしを合わせたという贅沢な味わい。

料理もコミュニティづくりも、私にとっては「自分がどう生きるか?」ということにつながっている。別府に住んでもう5年が経って、私もすっかり別府の人間になってきたなぁって思うんです。時々、東京に遊びに行っても1週間も経たずに別府に帰りたくってしょうがない(笑)。だから今度は“別府の私”として、新しい人生が始まるのかなって。これからは“巣づくり”というか、自分が帰って来る場所をきちんとつくりたい。いつかオランダに住んでみたいし、ほかにご縁がある場所があったら、そこに行くかもしれません。だけど帰ってくる場所は、別府しかないって思っています。

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自分で見て、歩いて、 町の記憶をたどりながら 別府に根ざして暮らす【前編】

歩いてこそ、浮かび上がる
別府の多彩な魅力

“別府”という名前、よく考えるとすごいと思いませんか? 別の府、つまり国が定めた「府」とは別の、異次元ワールドなんじゃないかと思っていて。

別府のいたるところで湧いている温泉は何もかもを流してくれる聖域であり、温泉自体が神様みたいなもの。なくしたり壊したり誰も手をつけることはできないから、古くなっても今もこうして、そのまま残っている。すごく特殊なところだなって思います。

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別府市内のなかでも古くから湯治場として知られる「鉄輪(かんなわ)温泉」。町なかに源泉があり、湯けむりがいたるところから湧き上がるその景色は、まさに別府ならでは。

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5年前、私が別府に来た当初は、時間が止まったかのような別府の古い町並みの何もかもが目新しくて、町を歩いているだけで驚きの連続でした。とにかく楽しくて、自分が歩きまわった場所の写真を撮って、「人目線地図」というものを作ってしまったほど(笑)。でも、そこに写っている古い建物や細い道のいくつかは、この5年でなくなってしまいましたね。古いものに価値をもつ人が少なくなっているのか、別府の風景は年々変わってきている。きれいに整えられていく街は確かに住みやすいかもしれないけれど、街が均一になっていけばいくほど、魅力がなくなっていくと思うんです。

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別府市内の路地裏には自然倒壊した家やレトロなお店がいくつもあり、歩くだけでもたくさんの発見がある。

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町の公衆浴場は
人が集まるコミュニティ

「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」という言葉があります。別府には町のなかに100以上もの公衆浴場があって、たいてい100円で入れる! お風呂がない家に住んでいる人も多いので、みんな毎日だいたい決まった温泉に入りに行きますね。公衆浴場ごとに来る人も違えば、泉質も違う。おばちゃんはすっぴんで、おじちゃんは上半身裸で道を歩いているなんて光景も日常(笑)。道路が自分の家に続く廊下みたいになっている感じかな。別府の人が何でも受け入れてくれるのも、裸のつきあいだからですかね。お互いに隠すものは何もないですから(笑)。

浴場のなかにも独特のルールがあって、みんないつも同じ洗い場を使うから、そこじゃないと洗いにくい。私も初めはいろんな浴場に行っていて、あいている洗い場に座っていたら「そこは私の場所よ!」と常連のおばちゃんたちに言われて(笑)。決まった場所なんてないから自由に使ってもいいんですけどね。でも、私も、いつも通っている温泉では定位置があるので、そこを誰かに使われていたりすると、なんだか1日、心地悪い感じがしちゃうのはわかります。

この土地にはたくさんの温泉があるから、どこもかしこもエネルギーが充満している。だからもし自分のエネルギーが枯渇してしまっても、大地のエネルギーをすぐに補給できるんです。いつも近くにあるものだけど「なんて贅沢なんだろう」ってよく思います。

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別府発祥の地“浜脇”で
始まった別府暮らし

大学4年生の時に、かつて湯治場として栄えていた「浜脇」のまちづくりの研究をすることになって別府に来ました。来るたびに1カ月ほど滞在するので、大学の先生から月1万5千円で安く住めるアパートを紹介してもらって何人かで住み始めて。そこには中庭があって、迷路みたいな不思議な造り。しかも築100年は経っている古い建物……。ここは一体、何だったんだろう?と思っていたら、元遊郭の宿だったんです。遊郭は、政府公認で売春宿を集めた場所で、昭和30年代に廃止になりました。当時の私は遊郭と聞いてもわからない、超ウブな学生で(笑)。でも、そこに住むようになって興味が湧き、遊郭の研究を始めたんです。

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別府・浜脇にある元遊郭の宿の中庭が好きだという宮川さん。学生時代、ここの2階に1カ月ほど住んだという。「ここは私のルーツ」

浜脇は“別府発祥の地”ともいわれている場所ですが、今は再開発されて、ほとんどの建物が建て壊しになってしまいました。かつては集落の中心に温泉があって、商店、旅館、そのまわりを囲うように遊郭の宿があったそう。この集落には、遊郭にいる人々に必要な商店しかなくて。本屋とかメガネ屋、おもちゃ屋はなくて、焼肉屋、化粧品を売る薬屋、着物屋、貸し布団屋などがありました。

私が住んでいた元遊郭の建物には、2帖くらいの小さな部屋もあれば、人気の遊女が使っていただろう大きなお部屋もあって。ぐるりとコの字につながる廊下からは中庭が見下ろせる。その回遊性はお客さんと出会うためのもので、そんな風に人が集まる仕掛けがある遊郭のことを知れば知るほど建築物としておもしろいなと感じるようになったんです。

管理人のおばあちゃんに話を聞いたら、私たちが住む前に取り壊すことも考えていたそうなんです。でも、私たちが住む時、すみずみまで丁寧に掃除をしたら、建物が喜んでいるのを感じました。その時に“死にたい建物なんてない”、そう思った。今も1階には88歳になるおばあちゃんが住んでいて、この場所を守ってくれている。私も時々こうしてのぞきに来ているんです。

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ほかにも、もう一軒遊郭だった建物に住んでいました。そこはもう壊されてしまったのですが、当時住んでいた103歳のおじいちゃんは、そこで暮らした70年の間に自分の結婚式も家族のお葬式もその家で行ったそうで。そういう建物と人の記憶、街の記憶も含めたすべてが建築物になって残っている。それまで私が東京で学んできた建築学とは全く違ったけれど、ここで暮らして「記憶そのものが建築なんだ」と思えたんです。

別府の町に今も残る
海洋文化の名残り

別府には海の文化が色濃く残っています。私は海洋民族に興味があってその歴史も調べているのですが、大阪と別府を結ぶフェリー「さんふらわあ号」の航路は、昔の海賊の航路といわれていて、米などの食糧だけでなく、“女”も運ばれていたそうなんです。かつて京都にあった「島原遊郭」は、天草と島原の女たちがこの航路を使って京都まで渡っていたからそう呼ばれていたとか。

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別府にある住吉神社には、拝殿に龍と波の模様が彫られています。住吉の「住(スミ)」は「海に潜る」という意味で、海洋民族がいたとされている土地には住吉神社が祀られています。ご神木の楠は、船をつくる材料になる木。だから、7月に神社で行われるお祭りの御神輿のかけ声も「ワッショイ」じゃなくて、「ワッサ」という海の音なんですよ!

そんな風に、今もここに残るモノを通して、歴史やストーリーを紐解くことを、別府出身の写真家・藤田洋三さんに教えてもらいました。私は別府が好きだから、もっといろいろ知りたい。でも、歴史的なことや民俗学的なことをふまえて、別府の町を見ている人はあまりいないかもしれませんね。別府に旅行に来た人は、なかなかこんなところまで来ないだろうな(笑)。

暮らしのなかにある
別府のいつもの風景

私は、こうしてよくいろんな人に別府の町を案内しているんです。それは私が魅力に感じていることをダイレクトに知ってほしいから。地元のおじちゃんたちは、浜脇という町に誇りを持っている。だから私も誇りを持って浜脇という町を紹介したいし、別府という町をもっと深く知ってほしい。

海と山がこんなにも近くて、町を歩いていると山並みがきれいに見える。坂を上って滝で涼んだり、高台から海を眺めて、湧き水を飲んで、温泉に入ったら、市場でお買い物したり……。それらは観光名所ではないけれど、私自身が好きだと思って移住した別府の“いつもの風景”を見せたい。私がこんなにも惚れ込んでいる場所を、みんなにも好きになってほしいなって思うんです。

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鳥居のようにそびえ立つ2本の大きな杉の木が印象的な朝見神社。浜脇集落に住むきっかけになった大切な場所。

 

アイデアと行動力を 湧き出るエネルギーで繋ぎ、 別府の町を変えていく

本物の温泉が持つ
土地のエネルギーに心惹かれる

「音泉温楽」という音楽フェスティバルを2009年からやっています。全国の温泉地を舞台に、「湯」をテーマにした新しいコミュニティをつくる活動なんですが、この「ホテルニューツルタ」に入社する前は、もともと、音楽関係の仕事をしていたんですよ。
大学を卒業した後、レコード会社で3年ほど勤めてから、音楽配信や音楽著作権の管理をやるベンチャー会社に入ったんです。その頃はITバブル真っただ中で、今考えると、僕もその波に乗ってバブリーな暮らしをしていたなあと(笑)、ですがそんな時期はあっという間に終わり、業界自体も斜陽に……。このままではいけないと思い立って、30歳のときに独立しました。

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新たな会社は制作系のプロダクションで、メインは映像作品のプロデュース。ある時、温泉をテーマにリラックスできるような映像作品をつくってほしいという依頼があり、温泉に詳しいDJ/クリエイターと、下見と称して全国の温泉地を一緒に回りました。ロケーションを選ぶ基準は、純粋な源泉から湯が湧き出ている掛け流しの“本物の温泉”。そこではエネルギーが常に満たされていて、都市とは違う特別な時間の流れがありました。お湯は数百年もの間、日々変わることなく湧き出し、そこで暮らす人たちはお湯の恵みをありがたくいただく。そんな生活を代々繋いできていた人、土地。

土着の温泉映像とアンビエントサウンドを融合させた「Naturally Gushing(ナチュラリーガッシング)」という環境音楽映像集をプロデュースしました。1作目は長野県の渋温泉、2作目は石川県の中宮温泉、3作目が宮城県の鳴子温泉を舞台にしています。
その作品集の発売記念パーティをやることになり、せっかくなら温泉地で開催しようと、『千と千尋の神隠し』の油屋のモデルのひとつといわれている渋温泉の温泉宿「金具屋」の大宴会場を借りて、音楽フェスティバル形式で行いました。それが2009年11月に開催した「音泉温楽」の第1回目で、それから毎年12月頭に開催する、恒例の温泉冬フェスになったんです。

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長野県・渋温泉にある老舗温泉宿「金具屋」で開催された温泉フェス「音泉温楽」は、この旅館の大宴会場が舞台。

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オフィシャル手ぬぐいがイベントのパス代わり。宴会場の畳の上で浴衣姿、日本酒片手に音楽を楽しむのが「音泉温楽」。

夏フェスの楽しみがアウトドアやキャンプだとすれば、冬フェスは温泉で宴会。日本人が長く続けてきた「温泉」という昔ながらのエンターテインメントを、音楽フェスの手法でアップデートする試みでした。当初、山奥の温泉地のフェスなんかにお客さんが来るわけがないといわれたけれど、事業としてきちんと初年度から利益も出せた。なので、そのフォーマットを生かして、ほかの温泉地でも開催したのですが、温泉地が持っている泉質も町のルーツも、そこで暮らす人たちの意識も違う。同じフォーマットを水平展開することはできなかったんです。結局ノウハウをすべて持ち込んでも、そこで暮らす人たちに求められるものでない限り、一過性のもので終わってしまって、新しいコミュニティとして根づかないということを痛感しました。

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そんな時に、東日本大震災が起こって。あの状況の中で、東京で暮らすことの意味を僕なりに考えていた。震災前にさまざまな温泉地に行くようになってわかったのは、都市とは、人が外から持ち込むエネルギー、アイデアとか情熱、活動の源になるものと時間を掛け合わせることで、効率的にお金や電気に変えるシステムを内包しているということ。けれど温泉地は、土地そのものがエネルギーを持っているので、人が持ち込むエネルギーは少なくて済むし、時間の概念が都市とは異なります。
この理論でいくと、都市に住んでいてすり減っていくのは当たり前。大半の人はエネルギーを吸い取られつつも、それがお金という対価に変わっているから、納得している部分があると思うけれど、僕は自分の時間や活動が「都市」というシステムに組み込まれて消費されるのが嫌だったんですよね。それが震災、原発事故を通してはっきりわかったんです。

何かに導かれるかのように
たどりついた別府という町

2012年に実家のある福岡へ戻り、福岡と東京の2拠点をベースに生活を始めました。そして、地方にある温泉地の観光産業を盛り上げる事業を興すため、NPO法人YUKAIを設立。まず下見に訪れたのが大分県の別府でした。実は小さい頃、親族の別荘が別府にあって、年末年始に親族で集まって、温泉に入って、ごはんを食べて、遊んで、お年玉をもらって……家族ですごくしあわせな時間を過ごした場所が別府でした。僕にとっての温泉の原体験はここだったんです。

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別府には「立命館アジア太平洋大学(APU)」という国際大学があります。「音泉温楽」を手伝ってくれていたスタッフがそこの学生で、ぜひ別府でもフェスをやってほしいと言われていて。彼の案内で、別府に来た初日からたくさんの人に会いました。そこで出会ったひとりが、実は今の奥さんなんです。スナックでアニソンを歌っている姿が「かわいいなあ」と思って(笑)。まさか彼女が「ホテルニューツルタ」の一人娘だなんて知らず。けれど、その時点で、別府の町と彼女に恋をしてしまっていた。きっとこれはもう別府に住むんだろうなと覚悟していました。出会ってすぐにプロポーズして、1年足らずで結婚。2013年の春に移住してきました。

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「ホテルニューツルタ」のロビーにて。

 

別府の人の行動原理は
楽しい、おもしろい、心地よい

別府に住んでみてわかったのですが、僕の周りの人たちは、世代にかかわらず人と人との垣根がない。ノーボーダー。まったくと言っていいほど境界がないんです。
別府は九州の東海岸にある港町ですが、西にある福岡や熊本からは山があって来づらく、地勢的には瀬戸内海の西の端っこに近い。だから山を越えて陸路で来るよりも、船に乗って海から来る方が楽だったんです。140年前に港ができてからは、船で四国や中国地方、関西の人たちが来て湯治をするという「船湯治」の文化があったそうで、温泉に行く人たちのために港が開かれていたんですね。別府には、「ひと」「もの」「こと」「かね」が、全部「外」からやってきた。ただの港町でしかなかった場所に、海の向こうから人がやってきて、温泉という資源をベースに「一大温泉文化都市」になったという歴史があるんです。だから、観光のために開かれた港町特有の、どんな人をも受け入れてきた土地が持つマインドが、別府の人にもありますね。

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ホテルの正面に広がる、緑の景色。その奥は港につながる。

ある意味、僕はよそ者で、“コンテンツプロデュース”というわけのわからない仕事をしているにもかかわらず、そんな人間の話を周りの人が聞いてくれるんです。別府の人たちの行動原理は「楽しい」「おもしろい」「心地よい」とシンプル。みんなワクワクしたくて、何かしたいし、楽しく生きたい。おじいちゃん、おばあちゃんもハイカラでお洒落な方が多くて、みなさん「楽しけりゃOKよ」って。それは昔、別府が栄えていた楽しい時代を知っているからなんでしょうね。

外国人留学生のやりたいことが
別府の町を変えるきっかけになる

さらに、別府を特異な町にしているのは、「APU」という大学の存在。全学年で6,000人近くいて、そのうちの半数程度が世界80カ国から来た外国人留学生なんです。別府の人口は約12万人なのですが、外国人留学生居住率は京都に次ぐ人数で、東京都港区と同程度。これは地方都市としては考えられないくらい国際色豊かな町だということ。しかもそのほとんどは10~20代の若い世代なんです。2年前くらいから、学生たちが町にもっとコミットしたいと僕に相談してくれるようになりました。たとえば、空き地を活かして学生達がシェアして住める物件をもっと増やしたいとか、町が衰退していくことに対して、何か具体的にアプローチをしたいとか、観光産業の手伝いがしたいという学生もいます。

今、そこから生まれたプロジェクトが2つあり、1つはAPUの学生たちと地域におけるさまざまな課題を改善するためのコミュニティづくり。
ネットワーク上の「結節点」を意味する「node(ノード)」というプロジェクトで、この町に住むあらゆる国と世代の人たちが出入りする“場所”をつくりたくて。まずは、別府にたくさんあるスナックの空き店舗を使ってコミュニティをつくる実験をしています。また、7月からはじめたソーシャルスペース「スナックわたりどり(仮」では、東京から来た僕の知人の蔵人(くらんど)君が、9月中旬までの期間限定で女将をやっています。彼はゲイですが、強烈なパーソナリティを持つ、とても文化的で繊細な人物です。彼に会おうといろんな人が関東やさまざまなエリアから別府に訪れるようになりました。これからは、そうした「人に会いに行く旅」が増えていくと思うし、人がその土地の魅力になるべきです。

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「スナックわたりどり(仮」 にAPUの学生と集合!

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東京から夏季限定の短期移住者として別府に滞在中の蔵人さんが、女将として切り盛りするソーシャルスペース「スナックわたりどり(仮」。毎夜、彼に会いにさまざまな人が集う。

もうひとつは、APUを卒業する学生や現役の学生たちと進めている「Experience Beppu」というベンチャープロジェクトです。主に外国人ツーリストや日本の新しい世代のツーリストをターゲットにした観光アクティビティ開発をしています。日本では、観光地に行ってその土地のことをより深く楽しむオプショナルツアーがとても少ないのが現状。特に温泉地では、宿で「ゆっくりすること」が主目的で、基本はそれで終わり。別府を世界的な温泉リゾートにするために、温泉以外の特色のあるアクティビティを提示していく必要がある。

たとえば、別府を拠点に車で90分圏内、少し北には国東(くにさき)半島という原初的な日本の仏教文化が色濃く残る自然溢れるスピリチュアルなエリアがあり、少し南に行けば沖合に野生のイルカが群生する手付かずの島があったり。別府には、日本一の湯量と泉質を誇る温泉と、そして幸いにもAPUがあり、世界中から来た若者たちがここで暮らしています。国が違えば、観光に求めるニーズも変わってきますから、彼らの視点を活かして国際的な価値にまで地元の観光資源をブラッシュアップして、引き上げていくことを目指しています。

別府から車で約1時間で行ける国東半島・真玉(またま)海岸の美しいサンセット。別府とは異なる文化圏でスピリチュアルなエリア(写真:本人提供)

別府から車で約1時間で行ける国東半島・真玉(またま)海岸の美しいサンセット。別府とは異なる文化圏でスピリチュアルなエリア(写真:本人提供)

APUの学生たちのやりたいことが、この町を変えるきっかけになれば、それはとても素敵なこと。彼らが目指すものと、この町がこれから求めるべきことがイコールになれば、お互いにとって「心地よい」と考えています。僕らが目指すべきことは、ローカルの強化だけではなくて、“グローカルな場”を作ること。APUの学生たちのグローバルな意識を、別府というローカルな町に落とし込んでサービスに変えていくことが、別府の新しい価値につながっていくはず。そしてその手法は日本各地にあるまだ手付かずの観光資源や、ひとつのサイクルを終えたと思われている観光資源を、再びそのエリアの新たな価値に変えていけると信じています。

ここ数年、別府の町にはヨガのマスターや、SUPなどのマリンアクティビティのスキルを持ったさまざまな人が移住して来ていたり、マクロビオティックやナチュラルフードを提供するレストランやラボが出来たり、昭和が色濃く残る商店街のど真ん中にAPUの学生たちを中心としたスタッフがエレクトロ・ダンス・ミュージックをガンガンかけるナイトクラブをつくったりと、カオス的に町の意識が急激に増幅している実感があります。

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温泉フェスの仕事を始めた当初は、1年365日あるなかで、イベントを開催する日だけが華やかであれば良いと思っているところがありました。その1日に人が多く集まれば、地域が喜んでくれるだろうと。だけど、観光地で実際に暮らしてみると、そうしたイベントは365日分の1日でしかなくて、その1日の売上がいくら大きくなったとしても、継続的にこの町に富をもたらすわけではない。そこに暮らす人たちの日々の暮らしに根ざしていないと価値は続いていかないんです。

以前、「音泉温楽」で成功したフォーマットを他の温泉地に持ち込もうとして失敗、挫折しました。だからこそ、その経験を活かし、焦らず、別府の地でともに暮らす人たちと一緒に、日々の「暮らし」を“観光”という「ビジネス」に変えていく1人の移住者/プレイヤーとして、自らのスキルを活かしていきたい。そうして、ここにしかない新しい成長のためのモデルをつくり続けていけたら、それはとても幸せなこと。

僕は、長期移住だけでなく、短期移住もあっていいと考えています。「ここに一生暮らさなきゃいけない」ってハードル高いですよね。必要な時に、必要な場所にいればいい。うちが管理しているビルが2つあるのですが、来年、そこの一部フロアをゲストハウスにリノベーションする計画をしています。同じビル内にスナックとして貸していた空き物件がいくつかあるので、期間限定で貸し出すポップアップストアにもしようかと。短期移住者が一定期間そこで商売してみて、自分のスキルを発揮できる場所として開放してみたらおもしろいんじゃないか。

たとえば貿易だったら、ものがないところに、ものを移動させることで初めて価値が生まれるでしょう? だったら、スキルがある人は、そのスキルが求められるところに移動すればいい。世界中からバラエティ豊かなスキルを持った人が集まって交易をしていけば、別府という町がもっともっとおもしろい場所になっていくはずです。そうだ、雛形編集部も何か一緒にやってみませんか(笑)?

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ゆるく元気でタフな土地。 移り住んだ神山町で始めた “実験する宿”

専門性を極めるよりも
ひとつの“好き”を続けていく

徳島に来てはじめて本場の阿波踊りを見た時、めちゃくちゃかっこいいなぁって感動しました。もし、ここに移住したら阿波踊りがしたい!と思い、神山町に移り住んでからすぐ、ここに唯一残ってる「桜花連(おうかれん)」に入りました。連って、ひとつの家族みたいなんです。年齢問わず、ちびっこからおじちゃんおばあちゃんまでいて。踊ればみんな一緒になれるところが好きなんです。

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生まれも育ちも東京です。2011年に神山町に来たので、ここでの暮らしも5年目か……あっという間でしたねえ。
大学は、東京の美術大学に通っていて、空間デザインを専攻していました。その後、ゲームやおもちゃを制作している会社のネットワーク部門に就職。キャラクターのモバイルサイトや、ECサイト、ウェブコンテンツの企画・制作などに携わっていました。遊び心やエンターテインメント性を大切に考える会社ならば楽しく働いていけるのではないかと。安易ですね(笑)。空間デザインは好きで、大学で勉強もしていたけれど、職業にして「この道を極めるぞ!」というよりは、趣味でずっと何かやっていれば良いかなあと思っていた。特に理由なく、自然とそう思ってきたんです。

自分が働く場所は、自由に選ぶ
思い描く方向へ

会社を辞めてからは、半年ほどあちこちあれこれしながら動いていました。そのあと、もう一度就職を考えて、どこで働こうかと考えた時に、「どこに行ってもいいんだよな」と思えた。会社員の時は、誰に何を言われるわけでもなくずっとこの場所にいるものだと思っていたけれど、どこにも就職しないでいた経験が、働く場所はどこだっていいんだって自由にしてくれた。
もともと旅が好きで、知らない場所に行くと「ここで暮らしたらどうかな?」って想像することが楽しくて。でも、“暮らす”という体験にまで踏み込むことはなかった。でも働く場所が自由だと思えた時、地方でも海外でも、自分が思い描く方向に行きたい!と思いました。そこからまた仕事を改めて探していた時に、日本仕事百貨神山塾の存在を知りました。

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人との距離、風通しの良い町の空気
神山町が教えてくれた暮らし

私が神山町に来た頃は、まだサテライトオフィスはなくて。ちょうど古民家を改装して、wi-fiを飛ばして企業にサテライトオフィスの希望を募集するような流れが出てきた頃でした。そんな時期だったこともあって、「なんかおもしろそう!」といろんな想像がふくらんで(笑)。最初のイメージでは、もうちょっと手つかずの場所だと思っていたので。とは言っても「ここに転職するぞ」と思うと、すごく大きな決断で、不安やプレッシャーも大きかった。「神山塾」は期間が半年だったので、その間に地方でどんな働き方や動きがあるのか勉強できるのはすごくいいなと思って。
「神山塾」を終えたあとも、神山にもっといたいという気持ちが強くて。人と人との距離感とか、アーティスト・イン・レジデンスがあるので、外の人が出入りしている町の空気が本当に居心地よくて。まあ、うまくいかなければ出ていけばいいし……って全然出て行くつもりはなかったんですけど(笑)。これまで思い描いていた暮らしや、働き方が神山塾で経験した半年間でどんどん現実のものに変わっていった。だから、住まいさえあればなんとか暮らしていけるだろうと思って。仕事はそれからでいいかなって(笑)。一人暮らしもしたのですが、2軒目に借りた家の状態が良くなくて、修繕しながら住んでいたんですけれど、私ひとりの力ではとてもじゃないけど住めなかった。

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この土地で暮らし続けて
誰かを“迎え入れる”存在になる

東京にいる頃は常に自分がどこかに“行く”存在だったのが、ここにいると“迎える”存在になる。いつもどこかで迎え入れてもらっていたので、その立場に憧れていたから、この神山で暮らしていきたい気持ちが強まったのかもしれない。私が移れば、みんなも遊びに来れるので、そういう拠点をつくりたいなと思っていました。旅の行き先に知っている人がいると全然違うものになる。私も“人”がきっかけで旅に行っていたので、自分がここにいることで、誰かにとって動くきっかけになってくれたらうれしいなと思っています。「親は反対しなかった?」と聞かれることがありますが、うちは両親や姉家族が一番喜んでくれているんです(笑)。

神山塾のあとは、「グリーンバレー」に就職して2年間働きました。その頃、古民家を都心の企業に貸し出す「サテライトオフィスプロジェクト」が県主導で発足して、グリーンバレーを拠点にPRしていくことになって。私はその担当で、県内外の問い合わせの窓口やプロモーションをする中で、本当にたくさんの人に出会いましたね。サテライトを開設したいという企業の方が全国から視察に来てくれるので、そのアテンドをすることで、この土地のことをより深く知っていきました。

私は「宿をやりたい」なんて大きなことは考えてなくて、自分の親しい人たちにとっての旅の拠点がつくれたらいいな思っていたんです。まずは自分の家から、その延長でいつか場づくりができたらなと漠然と思っていて。名前のついた場所じゃなくて、自分のできるペースで自由にできる空間。それもあって、山の上の家を借りたのですが、家のメンテナンスや仕事をやりながら空間をつくることは、なかなかむずかしくて。

そんな中で、神山で宿をつくる話が持ち上がり、代表の隅田に声をかけてもらって、一緒に会社を立ち上げることから始めました。それは、自分が想像しているよりも開かれた大きなつながりのある「宿」。でも、学生時代に空間デザインをやっていたこと、旅を続けてきたこと、この神山に来たこと、これまでの経験がここにきて役立つのかも!?(笑)という予感がして、やってみようと思いました。

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「WEEK 神山」の裏には山々が広がっている。オーナーの隅田徹さんと。

「WEEK 神山」の裏には山々が広がっている。オーナーの隅田徹さんと。

こだわりの器たちは、徳島市内の民藝店「東雲」さんのセレクトによるもの。手前の青い器は、もともとこの家に眠っていた骨董品。

「WEEK」の食卓を彩るこだわりの器たちは、徳島市内の民藝店「東雲」さんのセレクトによるもの。手前の青い器は、もともとこの家に眠っていた骨董品。

新しく、変わリ続ける
これからの仕事・働き方を実験する宿

宿の名前は「WEEK 神山」(以下、WEEK)です。コンセプトは、“いつもの仕事を違う場所で”。宿泊つきのワークショップや、テレワークとかサテライトワークを始めたばかりの人に向けたレクチャーや、セミナーもやりたいなと思っています。いろんな仕事、働き方をしている人たちにとって“実験”の場になっていけたらなと。ひいては自分たちにとっても仕事の実験の場になる。宿はどんどん変わっていくと思うので、それを楽しんでいきたいと思っていて。私たちスタッフは全員宿経営の経験がないので、設計も、家具もなにもかもそれぞれプロの方にアドバイスをいただいて、つくっていきました。なるべく神山の作家さんのものを使って、近い関係性の中で生まれる空間を目指しています。

キッチンスペースのプレイベントでは、西海岸のバークレー「シェ・パニース」のシェフ、ジェローム・ワーグが訪れ、料理のワークショップを行った。

キッチンスペースのプレイベントでは、アメリカ西海岸のバークレー「シェ・パニース」のシェフ、ジェローム・ワーグが訪れ、料理のワークショップを行った。

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WEEKでは、食事をすごく大事に考えています。使う食材は、なるべくこの近くで収穫できるもの。神山は生産者さんが近くにたくさんいるので、そこを活かしたいです。素材をいろいろな調理法や味わいで楽しんでいただきたいので、夜の食事は日替わりでシェフを変えていこうと思っています。自分たちも移り住んできて、いろんな方に料理を食べさせてもらって季節の味わいをより深く身近に感じる喜びを知ったので、その体験はここに宿泊してくださった方にもしてほしくて。それと、私たちは単純に食べること飲むことが大好きなので(笑)、神山で場をつくるなら、食を通して伝えられることがあると思っているんです。

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スタッフはみんな移住者なので、自分たちがここに来て受け入れてもらってきました。だから神山の人と土地に恩返しをしていきたい。なので、地域にひらかれた存在−−−もちろん“宿”という顔をしているけれど、人がいて場所がある、その関係はシンプルでありたい。あと、神山はごはんを食べるところが少ないので、訪れた人が安心して食べて飲める場所にしていきたいです。感覚としては、私が神山でホームステイをしていた家が大きくなって、公共の場になっているイメージでつくっていきたいな。神山の外から来る人だけじゃなくて神山の人も入れられる場所にしたい。だから一階の食堂は、地域のダイニングテーブルにしよう!って話したり。宿って旅の中でも滞在時間が長い場所だと思うので。生活に近いというか、だからこそ、自分たちが触れてほしい地元のものづくりに出会う場所になればといいなと思っています。

この日の夜は、近くの農園の野菜をたっぷり使ったサラダやニョッキ、かつおのタリアータ、すだち鶏の炭火焼など土地のうまみがたっぷり味わえるプレートを。

この日の夜は、近くの農園の野菜をたっぷり使ったサラダやニョッキ、かつおのタリアータ、すだち鶏の炭火焼など土地のうまみがたっぷり味わえるプレートを。

そのままの土地の姿が
生活することを教えてくれる

移住するには、大きな覚悟とか生きていく目的みたいなものが明確でないといけないと思われがちですが、私はそういう強いものはなくここにいます。地方によっては「ここに骨を埋める覚悟はあるのか?」と言われることもあるようですが、神山町はとてもゆるくて寛容な人が多いので、移住してきた人たちがすんなりと入れるような居心地のよさがあるんです。

神山では、生活する家の状態が整っていないことが多いので、一からつくっていくようになるとおのずとタフになっていくんです。すべてお膳立てされた環境が用意されている都会にあるような物件だったら、人は来やすいかもしれないけれど、定着はしないかもしれないですね。今、暮らしている人たちは、ないものはつくる、ということを楽しめる人や、あるものをおもしろがれる人が多いんじゃないかな。神山のそのままの姿が、人が定着しやすい状況をつくってくれているのかもしれない。過剰なサービスもなければ、環境も整いすぎていない。町を支えるグリーンバレーもおっちゃんたちが始めた組織だし、根底は楽しいからやっている。過疎化・高齢化の課題もあるけれど、周りのおばあちゃんたちはすごく元気だし、淡々と暮らしている人も多いです。

生まれも育ちも神山町!有機農業に取り組む「里山の会」のみなさん。右端は「WEEK」の大家・南さん。

生まれも育ちも神山町!有機農業に取り組む「里山の会」のみなさん。右端は「WEEK」の大家・南さん。

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現実的に未来を考えると一番“人”が必要。どんなに豊かな自然があっても人がいないと、住めなくなる。神山が続いていくには、若い世代が気づいていくことが大切だなあって。30代前半くらいで、自分の働き方とか生きる場所を考えると思うのですが、地域に興味持つ人たちを見ていると、そう考える年齢がどんどん若くなっている気がします。学生の中にもいますしね。「WEEK」は、働き方の実験の場なので、これからを考えて動く人の背中を押すような、若い世代の人にとってそんな存在になっていきたいと思っています。

街並みにとけこむショップから、 アートを通じて別府の魅力を発信

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休学して自由に動き回って
見えてきた「働く」ということ

大学を卒業するまでは大阪で実家暮らし。いまはもう大阪大学に吸収合併されてしまった大阪外国語大学に通っていました。東アフリカで話されるスワヒリ語というマイナー言語を学びながら、環境・開発を専攻し、途上国の教育問題や環境問題について考えたり、カンボジアにスポーツ振興のボランティアで行ったり。夏休みには、インドやタンザニアにも行ってましたね。

在学中に、大阪大学と合併したので、文学部のいろいろな授業を受けられるようになって、知り合う人も興味も、いままでとは違うジャンルに広がって。演劇をやる人や、アートの学芸員を目指している友だちができました。アートやサブカルは好きでしたが、現代アートに興味を持ち始めたのはこの頃からです。

実は大学4年の秋から1年間休学をしたんです。就職活動があまりうまくいかなかったこともあるけど、学生という自由な身分をもう少し満喫したいという気持ちもあって。「こういう仕事がしたい!」というのは特になかったのですが、せっかく仕事するなら、お金のためだけではない仕事がいいなと思っていました。
大学時代、開発や環境問題を学ぶなかで「sustainable development」(持続可能な開発・発展)という言葉に出合いました。より良い生活を求めるあまり、発展が行き過ぎることってありますよね。土地欲しさに森林伐採、食糧確保のための乱獲、富を求めすぎた結果の貧富の格差といった社会問題が現実にある。それは遠い国の極端な社会問題に思えるかもしれませんが、私たち個々人の生活も、積み重なれば大きな変化をもたらすことができるんじゃないかなと思っていて。

「sustainable development」という言葉を意識しながら、環境や地球に負荷をかけない生き方をするにはどうすればいいんだろう。どんな働き方があるんだろう。そんなことについてずっと考えていました。お金を稼ぐだけならいくらでも手段はあると思うけど、その仕事によって自分の人生や、時間を犠牲にするのはどうなのかなと。そうやって考えているうちに答えのでないまま、就活が始まってしまったので、一度ゆっくり考えてみたくて。

卒論では、有機農業のCSA(コミュニティ・サポーテッド・アグリカルチャー/地域支援型農業)について書くつもりだったので、休学中は沖縄で新しくCSAを立ち上げようとしている人々のもとを訪ねたり、指導教官が有機野菜を育てていて、その畑の手伝いがおもしろくて、鹿児島県の沖永良部島にある菊農家さんのところへ「ボラバイト」に3カ月間行ったり。また大阪・十三にある「カフェスロー大阪」というオーガニックカフェのボランティアスタッフや、大阪・中之島にある「アートエリアB1」というアートスペースのお手伝いをしてみたり。

自分の興味のおもむくままに過ごしてみると得ることはたくさんあって、まだまだ自分の知らない職業や働き方があることに気がつきましたね。でも結局、大学を卒業するまでのタイミングでは就職先が見つからなかったんです。

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京都での街暮らしから
地方での田舎暮らしへ

卒業後はアルバイトをしながら、ネットで求人情報をチェックしていました。そこで京都精華大学の広報課の職員の募集を見つけて。前に一度受けて落ちていたから、迷ったんですけど、受けてみたら採用してもらえることに。

京都精華大学は人文学部や芸術学部だけでなく、マンガ学部があったりカルチャーに強い大学でユニークなんです。広報課では、大学の広報誌の制作、ウェブサイトの更新、SNSでの情報発信などをしていました。ブログを書くための授業取材では学生に交じって授業を聞くこともあったり。とてもためになる授業内容ばかりで、なんだか学生の続きをやっているような感じで、2年間、嘱託で働きました。

仕事に不満はなかったんですが、ずっとこのまま街なかで暮らしていくことにストレスを感じていて。次々に新しいものが生まれて、何となく追われている気分になるし、カルチャーもたくさんあって、自分の好きなものもたくさんあるのに、なんだか息苦しくて。

学生時代から、漠然と地方で暮らしてみたいなと思っていました。そんなとき、学生時代からつきあっていた彼の地元が、大分県竹田市の久住町(くじゅうまち)というところだったんです。いろいろ煮詰まっていたし、移住も考えていたから、遊びに行ってみようと。山がとてもきれいで、水もおいしくて、暮らしていくにはとてもいいところでした。旅の最後にお土産を買いたくて、別府に「platform04 SELECT BEPPU」というお店があることを知って、寄って帰ることにしたんです。

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築100年の古い長屋をリノベーションした「platform04 SELECT BEPPU」。1階に大分県内や別府在住のアーティスト作品などを扱うショップ、2階には作品を展示。

その時に、別府がアートの町だということや、「BEPPU PROJECT」というNPO法人があって、地域で活動しているおもしろい人たちがいることを知りました。そしてちょうど、この「platform04 SELECT BEPPU」の求人を偶然見つけて。その時はまだ京都で仕事をしていたのですが、後先考えず履歴書を送ってみたら、働けることになりました。

このお店で働くことは、別府に移住することが前提ではあったんですけど、全然深刻には考えていなくて、一大決心をした気もありませんでした。みんなには「よく来たねー!」って言われるんですけど、私自身は「嫌だったらまた動けばいいや」ぐらいの軽い気持ちでしたね。

先に私が仕事をみつけて、無職だった彼を「一緒に帰るよ!」と連れ帰って来た感じです。仕事を辞めてから、1カ月もたたないうちに別府へ引っ越してきました。決断が早いように思われるかもしれないけれど、それまでかなり煮詰まっていたので、パッと道が開けたような気がしたんです。

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彼の広瀬翔太さんはフリースペース「PUNT PRECOG」で、3カ月限定のカフェをオープン。現在は、地元・竹田でライダーズハウス&カフェを企画中!

ずっと続けているライフワークは
自分の暮らしの記録

とはいっても、私自身が実現したいことは、実はあまりなくて。これといった特技もないですし。でもただひとつ、自分でストレス発散のために絵や文章を描いて「MAMI’S LIFE REPORT」という壁新聞のようなものを作っていて、それは大学時代からずっと続けています。

小さい頃から、イラストレーター・おおたうにさんのイラストエッセイ『チェリーコーク』を見ていて、日常や、お洋服のことなどをイラストと文章で綴っているものが好きで。もっと人のことを知りたいっていう気持ちもありましたし、もしかしたら、自分のことを人にわかってもらえていないもどかしさもあったのかもしれません。

それを手で描いてコピーして、友だちに手配りしていました。就職してからはいろいろな場所で働く友人たちに手紙代わりに近況報告として送ったり。最近読んだ本だとか、あった出来事とか、たわいもない話なんですけど、日記ではなく、私が感じたことや考えていることを伝えるために誰かに向けて描いています。移住してからも続けていて、今は別府に暮らしていない人に向けて「別府ってこんなところだよ」と伝えていくものにしています。これは、自分の暮らしをどうやってつくっていこうかな?という、自分なりの“記録”なのかもしれません。
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別府へ移住が決まった2014年5月の「MAMI’S LIFE REPORT」には、「誰でもない、自分自身の手で暮らしを組み立てていくという、とても貴重で幸せな体験を、この夏始めます」と書かれていた。

別府のいいものや良さを
伝える仕事

お店では、2カ月に一度「platform04 SELECT BEPPU」のニュースレターを作って、別府市内のショップなどに置いてもらっています。自分で写真を撮って、SNSで発信して。広報活動は私の得意分野ですから。

お店に遊びに来る近所のおじちゃんの長話につき合うこともありますし、観光客の方に観光案内もしています。お客さんによって、求めているものが違うので、その人に合わせた商品をオススメしたり、興味がありそうなもののお話をしてみたり……。もちろん、お店のことを考えれば売り上げを上げるのが一番なんですけど、来てくださるお客さんのことを考えると、それだけじゃない“やりとり”も大事なんじゃないかなという気持ちがあります。

お店は、商品を販売すると同時に、情報を提供する場でもあって。個人的に「いいな」と思ったものをほかの人に伝えることは、ずっと趣味でやってきたことですし、大学の広報課でやっていたことの延長でもあって、このお店のコンセプトも、“別府や大分のいいもの”を紹介することと、別府のおもしろさを伝えること。どちらも、私のやってきたことと同じなんです。

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別府の伝統工芸品である竹細工や、つげ細工、作家ものの器など、別府ならではのプロダクトが並ぶ。既存の商品を独自の視点でセレクト&プロデュースするのも「platform04 SELECT BEPPU」の仕事。

別府は大阪や京都と違って、いろんなお店自体の数も少ないなか、「platform04 SELECT BEPPU」には、イベントのDMやフリーペーパーをたくさん置いているので、観光客にとっても、地元の人にとっても、アートやイベントの情報が集まってる貴重な場所。だから、別府という小さな町だからこそ、伝えがいはありますね。

ほかにも毎年開催されている「ベップ・アート・マンス」という市民参加型で、文化祭のようなアートイベントがあって、そのプログラムを手描きで描かせていただいたり。そのイベントに参加していた別府在住の彫刻家マーク・トラスコットさんの作品も、最近販売を始めました。アーティストとのつながりから、その商品を扱うこともありますし、新たな作品を商品化していくことも大事な仕事です。

私はアーティストではないし、専門家でもありません。あくまでも“外野”でいたいといつも思っています。ものや人に対して「好き」って気持ちが人一倍ある。だから、私は専門的に深堀りしていくよりまずは“ファン”でありたい。その気持ちがあるから、多くの人と同じ目線で伝えることができるんだと思います。

別府は、時間がゆるりと流れているので、時間に追われて、急かされるようなことは全然なくなりました。私の周りにはストレスを感じて働いている人よりのびのび好きなことを仕事にしている人が多いから、「自分もマイペースでいいんだ」「好きなことを貫いていいんだ」って変な自信がつきました(笑)。私は地域で何かを成し遂げたいという思いよりも、のびのびと自分のペースで暮らしたいという気持ちのほうが強いんです。でも、その夢は別府に来たことでもう叶っているから、何かをやりたいことがある人のサポートがしたいなと思っています。私にできることといえば、物事の良さを伝えていくこと。それが地域であれ、人であれ、ものであれ、そのものの良さを見出だして、広く発信していくことができればいいなと思っています。

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編集協力:大分県

長野県の小さな集落を拠点に、 日本全国を飛び回って “今”を撮り続ける写真家

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目の前にある出来事を
撮り続ける

砺波さんは北海道育ちの36歳。長野県諏訪郡富士見町に奥さんの志を美さんと2人の娘、愛犬・雨太郎とともに暮らしている。八ヶ岳南麓の雄大な山々に囲まれた小さな集落。この土地に軸足を置いて、写真を撮りながら生活を始めたのは2010年。

「今の家は、妻が保育士として働く『森のようちえん ピッコロ』の関係で、知人から紹介してもらったんです。初めはかなりボロボロで、大家さんからは壊してもいいと言われていたんだけど、直すことにして。僕たちは今あるもので工夫しながら暮らすことが大切だと考えているし、ずっとそんな感じでやってきたから」

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かつては青森県の十和田市で、「お化け屋敷のようだった」という古家を直しながら、戦前生まれの人しかいない小さなコミュニティのなかで、暮らしていた砺波さん夫婦。

大工仕事が得意な志を美さんが家を直し、その作業を手伝いながら、砺波さんは日々、目の前に起こるあらゆる出来事を撮り続けてきた。それは写真家として、生きている実感を得られる“濃い時間”でもあった。

「大変なときも、二人の関係が崩れそうになったときも、それも含めて日々の暮らしだと思ってシャッターを切っていました。写真って決してポジティブなものだけを表現するものじゃないから、精神的には大変でしたけどね」

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そんな砺波さんにとって、写真を撮ることは「自分の足下を見ること」でもあるという。それは自然や人の営みを撮る写真家で、師匠でもある細川剛さんから学んだことだ。

「細川さんには毎日怒られていました。お前は憧ればかりを表現しようとして、足下の世界を見ていないって。僕にはその意味がずっと分からなくて……。でもあるとき、ふと何気ない日常が美しく見える瞬間があったんです。それを捉えることができたときに、初めて細川さんに認めてもらえて。それから僕はあの人みたいになりたいとかこうなりたい、みたいなものは全部捨てて、素の自分から見える世界を切り取ればいいんだ、と思えるようになったんです」

憧れを捨て、欲求を捨て、人と比べて生きることをやめたとき、砺波さんは「初めてまともに写真が撮れるようになった」と振り返る。すべてを取り払って、ありのままの自分で写真を撮ること。それはフリーのカメラマンになった今でも、大切にしていることだ。

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2年前の冬に「やっと出会えた」という富士見町高森区の水源にて。愛犬・雨太郎を連れて、雨の日も雪の日もこの場所を散歩し、撮影するのが砺波さんのライフワークになっている。

長野にいるのは月の半分
日本各地を飛び回る

「お金がないと、廃材をもらったり、物々交換をしたり、必要なものを工夫しようとするから、本当はずっとお金に頼らない暮らしをしたかったんだけど、子どもができて、職業として写真をお金に換えていかなくちゃって思ったんです。でも、僕は細川さんのもとで、ずっと写真家としての在り方に向き合ってきたから、自分がちゃんと社会に通用するような写真が撮れるか分からなくて」

仕事としての写真を学ぶために、一度は東京に出ることも考えたという砺波さん。しかし、青森の濃密な暮らしを捨てて、東京で暮らすイメージはどうしても持つことができなかったという。

そんなあるとき、砺波さんは山梨の別荘地に、志を美さんの家族が所有していたもののまったく使われていなかった山小屋があることを知る。縁もゆかりもなかった山梨へ来たのは、2007年のことだ。

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そこで砺波さんは仕事としての写真を学ぶために地元の写真館に就職。料理、ポートレート、スナップ、ウェディングまで、あらゆる撮影仕事を経験する。

「このときの経験が、自分に少しずつ自信を付けさせてくれたと思っていて。僕は結構慎重なタイプなので、いきなりフリーになるとか、思い切ったことってできなかったんです」

約2年間の写真館勤務を経て、砺波さんはフリーのカメラマンになる。“みつばち先生”の愛称で知られるローカルデザイン研究者の鈴木輝隆さんとの撮影や、「細川さんが連載していて大好きな本だった」という季刊誌『住む。』の撮影など、声がかかればどこへでも全国各地を飛び回る日々。志を美さんが働く「森のようちえん ピッコロ」との関わりのなかで、今の住まいにも出会うことができて、仕事の拠点は長野の自宅と東京・八王子に構えた事務所になった。現在、長野にいるのはひと月の半分ほどだという。

日本の住まいをテーマにした季刊誌『住む。』(農山漁村文化協会)。表紙の写真は、砺波さんが撮影した美術史家・鈴木廣之さんの自宅。[写真:本人提供]

地域の仲間から刺激を受けながら
写真と向き合う

しかし、砺波さんはフリーのカメラマンとして手がけた写真が社会に認められる喜びを感じる一方で、仕事には自分の作家性と距離を置いている部分もあるという。

「仕事は全然否定してないんです。僕はみんなで何かひとつのものをつくるという活動も好きだし、いろんな人と関わりながら仕事をしてくことで、自分を客観的に見られるようにもなるとも思っていて。自分一人の世界観もいいけれど、それだけだと自己満足みたいになっていくから。でも、最近は気付くと仕事に偏りすぎてしまう自分がいる。だから、そろそろ個人のことをちゃんとやりたくて」

作家としての芯から少し離れていっている。そう感じたとき、砺波さんは“会いたくなる存在”として、北杜市にある「ギャラリートラックス」を作った木村二郎さんの弟子で、現在は長野県在住で、空間設計や家具制作などを手がける徳永青樹さんと迫田英明さんの名前を挙げる。

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砺波さんの自宅からもほど近い、建築家・迫田英明さん(写真手前右)が設計したビニール張りの建造物「Physis+」。クラシック音楽が無限ループで再生される室内では、大量の多肉植物が日々成長している。

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建築ユニット「ground line」の代表・徳永青樹さん(写真中央)が、パン職人・西村公孝さん(写真左)のために、廃材を組み上げて設計したパン小屋「Santeria」。トタンに描かれたダイナミックなグラフィティはアーティストKAMIさんによるもの。

「彼らは誰にも媚を売ることなく、自分が信じているものをきちんと表現してきていると思う。師である木村さんから学んできたこと、独立してそれぞれに体得してきたことを、曲げずにやり続けているんですよね。そんな彼らに会うと、僕も原点に立ち戻れる」

身近な環境に刺激を受ける存在がいること。それは写真家である砺波さんにとって、この土地に暮らすことで得られたかけがえのない財産だ。

「僕はいつも写真家としての自分の姿に揺れ続けてきたような気がする。でも、最近はそうやって揺れている感じもいいかなって思うんです。それもまた素の自分であることに違いはないし、自分のなかのひとつのストーリーでもあると思うから。それは家族との暮らしも同じこと。これから先、我が家も良いことばかりではなく、悩んだり悲しんだりすることもあると思う。それでも僕は写真を撮っていきたい。それが、写真家としての自分の宿命なのかなって思っています」

地域の人との関係性を築くフィールドワーク。編集とデザインを ローカルに落としこんでいく

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雑誌づくりを学ぶため、
山梨を出ていく

東京でフリーのアートディレクターとして活動していた土屋さんが、家族とともに八ヶ岳南麓の山梨県・北杜市に移り住んだのは約2年前。山梨の石和温泉に実家がある土屋さんはそこで24歳まで暮らし、その後10年間の東京生活を経て、Uターン移住した。

「東京での暮らしが長くなってきて、そろそろ戻りたいなという気持ちが出てきたんです。子育ての環境も自然が多い方がいいし、僕自身、実家がぶどう農家で自然のなかで育ったので、四季の移り変わりを感じられる暮らしがしたいと思っていて。よく“『BEEK』をつくるために戻って来たの?”なんて言われるんですけど、そういうわけじゃないんです」

山梨ののんびりとした空気が自分に合っていると感じ、地元を出る気はまったくなかったという土屋さん。「温泉が好きで、仕事帰りに温泉入れるなんてすごい幸せだなと思っていたので(笑)」と、山梨の大学を卒業した後も県内に残り、地元でしばらくアルバイト生活を続けていた。
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「ただ、昔から雑誌が好きで、雑誌をつくれるようになりたいっていうのがあったんです。当時の『relax』や『STUDIO VOICE』にはすごく影響を受けていて、雑誌がつくれる職業って何だろうって。そのとき編集の仕事とか分からなくて、とりあえずデザインからはじめてみようと思って」

その後、土屋さんは地元の企業に就職しタウン誌のデザイナーになるも、雑誌の仕事は東京で幅広く経験を積む必要があると考え上京。デザインの仕事をはじめたが、雑誌好きが高じて気が付いたら企画や編集、撮影の業務にも携わるようになっていた。そして6年間の会社員時代を経て2011年、デザイナーとして独立する。
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顔が見えない仕事から、
誰かの手に届けるものづくりへ

「当時はとにかく声をかけられた仕事は断らずに受けてたんですけど、2年目にあまりの忙しさに体を壊してしまったんです。街で自分がデザインしている雑誌を見ている人にも会わないし、反響も届いてこないから、誰のためにやっているのか分からなくなってしまって。ただひたらすら消耗されるものをつくっているような感じがしたんですよね」

体調を崩したことをきっかけに仕事をセーブし、少しずつ自分の暮らし方、仕事の在り方を見つめるようになったという。

「2人目の子どもが生まれる頃、よく山梨に帰ってきていて、こっちでもなんかやれたらいいなって。山梨と東京なら移動もすぐできるし、場所が変わってもそんなにやることは変わらないんじゃないかなと思ったんです」

現在の住まいと子どもの保育先を見つけて、山梨に移り住んだのは2013年5月。フリーランス3年目、34歳のことだった。
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森を散策する土屋さんと子どもたち。家の前にあるこの場所には、ほぼ毎日訪れているという。

森を散策する土屋さんと子どもたち。家の前にあるこの場所には、ほぼ毎日訪れているという。

関係づくりのための
“フィールドワーク”

「こっちに住みはじめて、山梨の地に根ざした暮らしや人のことが、県内や県外の人に伝わっていないなと感じたんです。東京だと埋もれてしまってできないことも、ローカルな場所だからこそできることがあるんじゃないかなって思って、山梨の日常を発信するメディアをつくりたいなと。それに、メディアをつくれば、それを持っていろんな人に会いにいける。地域の人との関係性を築くひとつのツールになるんじゃないかと思ったんです」

半年に一回発行している『BEEK』。今までのテーマは、「発酵」「本」「週末」「仕事」

半年に一回発行している『BEEK』。今までのテーマは、「発酵」「本」「週末」「仕事」。

フリーマガジン『BEEK』を本格的につくりはじめたのは、移住の2カ月後。知りたいテーマを特集し、会いたい人に会いにいく土屋さんの“フィールドワーク”が始まった。

「実際に住んで自分の足を使って調べてみなければ山梨の本当の“今”は分からなかったですね。同年代で活動している人がこんなにいると思っていなくて、刺激を受けました。地域の生産者さんや職人さんに出会うなかで、昔は当たり前だと思って価値が分からなかったことも、それがものすごいことなんだって気付かされて。うちで使う調味料が全部山梨のものになったのもフィールドワークのおかげです」

バイオダイナミック農法を実践する「マル神農園」の取材風景。撮影費は採れたての野菜との物々交換で。

バイオダイナミック農法を実践する「マル神農園」のリーフレット作成のための取材風景。撮影・原稿執筆・デザインをすべてひとりで行う。

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地域で暮らす人々を取材し、記事にし、山梨のことを学びながら完成した本は、できる限り自分の手で届けに行く『BEEK』のフィールドワーク。そのときの出会いをきっかけに、県内に暮らす人や企業、自治体などから、リーフレット、カタログ、ウェブサイトのデザインや編集の相談を受けることが増えていった。

「東京だと、仕事をお願いしてくれる人との間に“人”が入ることがほとんどだったけど、こっちは100%直接話ができる。まったく関係ない話で盛り上がったり、そこから“何か一緒にやろうよ”と声をかけてもらえたり、写真を撮らせてもらう代わりに野菜やコーヒーをいただいたり。東京じゃ考えられないことだけど、そういう関係をつくれるってすごく豊かなことだなと思います」

ホームページ用の写真を撮影したコーヒー店「豆玄」。こちらも報酬はコーヒー豆30回無料券。

ホームページ用の写真を撮影したコーヒー店「豆玄」。撮影費は、コーヒー豆30回無料購入券と物々交換。

“編集とデザイン”を
ローカルに落とし込む

気付けば、東京よりも山梨の仕事が多くなっていた土屋さん。少しずつその土地に暮らす人との交流が育まれ、お互いの顔が見える関係性のなかで、地域の仕事がつくられていった。土屋さんにとって、『BEEK』をつくることも、地域でデザインや編集の仕事をすることも、“山梨を伝える”という目的は同じ。それを伝えるツールが、たまたま経験のあった、デザインや編集、写真だったという。

「編集とかデザインって本当はもっと身近なものだと思うんです。でもなんか敷居が高くなってしまっていて、頼みづらい状況が生まれている。デザインって“かっこいいものをつくること”と思われがちだけど、僕は地場にあるものをそのままのいい形で人に伝えていくことだと思っています。地方だと、販路や流通方法、設置先とかのアウトプットも自分たちで開拓しなくちゃいけない。だから、メディアである『BEEK』があることで、広めていく手助けもしたいし、僕みたいな人に気軽に相談してもらえたらうれしいなと思っています」

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撮影した写真の中から使用カットを選び、取材した内容を原稿に起こす。そして、それらをリーフレットのデザインにおとしこんでいく。

山梨に戻ってきて2年。一度この地を離れた土屋さんには、時間をかけてでもまだまだ知りたいことがたくさんある。

「『BEEK』が個人的な動機からはじまったインディペンデントな活動である以上、広めていかなければ意味がないと思っていて、5年はこのフィールドワークを続けたいと思っています。こっちでは“仕事”という単位ではなくて、自分のできることをやって生活をしている人たちが多くて、オン・オフの境界もあまり感じません。僕自身もそういう感覚で動いていて、日々出会う人や会話の中からどんどんアップデートされています。目標は、生まれ育った山梨を語ることができるデザイナー。それができるようになるまで、地道につくり続けていきたいですね」

フィールドワークでつながった同世代の人たちと。打ち合わせはいつも、お酒やごはんを持ち寄ってご飯の会になるのだそう。

地域で活動するメンバーとの打ち合わせは、自然と持ち寄りの会になるのだそう。この日は、北杜市職員・齊藤ゆかさん、五味醤油・五味仁さん、洋子さん、パン屋山角・内藤亜希子さんが集まった。

 

「スローライフは忙しい!」“今、神山町で暮らすこと”座談会

木内康勝/徳島県出身の26歳。香川県で電気設計の技術職をしていたが、「まちづくりに関わりたい」と考え、神山町のNPO法人グリーンバレーに転職。事務局スタッフとして、コンプレックスの管理・運営のほか、全国から訪れる視察者への対応など、幅広い業務に従事する。今回の座談会メンバーでは唯一となる生粋の徳島人。

木内康勝/徳島県出身の26歳。香川県で電気設計の技術職をしていたが、「まちづくりに関わりたい」と考え、神山町のNPO法人グリーンバレーに転職。事務局スタッフとして、コンプレックスの管理・運営のほか、全国から訪れる視察者への対応など、幅広い業務に従事する。今回の座談会メンバーでは唯一となる生粋の徳島人。

寺田天志/カーモデリングなどを手がけるフリーの3Dモデラー。何となく「楽しそう」という直感から神山町を訪れ、2014年にグリーンバレーを経由して知人から紹介された古民家物件に入居。コンプレックスで仕事をしながら、同町で鹿肉の解体、マムシ酒づくりなど、野性味あふれるアクティビティを満喫中。

寺田天志/カーモデリングなどを手がけるフリーの3Dモデラー。何となく「楽しそう」という直感から神山町を訪れ、2014年にグリーンバレーを経由して知人から紹介された古民家物件に入居。コンプレックスで仕事をしながら、同町で鹿肉の解体、マムシ酒づくりなど、野性味あふれるアクティビティを満喫中。

鈴木麻里子/2015年7月にオープンする短期滞在型宿泊施設「WEEK神山」の立ち上げスタッフ。千葉県出身。2014年2月、同町で行われていた半年間の人材育成プログラム「神山塾」へ参加。プログラム終了後も同町に残ることを決め、「WEEK神山」を運営する株式会社神山神領に就職。

鈴木麻里子/2015年7月にオープンする短期滞在型宿泊施設「WEEK神山」の立ち上げスタッフ。千葉県出身。2014年2月、同町で行われていた半年間の人材育成プログラム「神山塾」へ参加。プログラム終了後も同町に残ることを決め、「WEEK神山」を運営する株式会社神山神領に就職。

本橋大輔/株式会社ダンクソフト所属のプログラマー。埼玉県出身。前職の仕事を通じて、14年前に徳島市に移住。2年前に転職した同社がサテライトオフィスの実験プログラムを行っていたことから、コンプレックスへの入居を提案し、自身も神山町に転居。上司も部下もいない“一人サテライトオフィス”を立ち上げる。

本橋大輔/株式会社ダンクソフト所属のプログラマー。埼玉県出身。前職の仕事を通じて、14年前に徳島市に移住。2年前に転職した同社がサテライトオフィスの実験プログラムを行っていたことから、コンプレックスへの入居を提案し、自身も神山町に転居。上司も部下もいない“一人サテライトオフィス”を立ち上げる。

中の人はいたって「平熱」
内外の温度差がある神山の“今”

木内:神山町は人口約6,000人の小さな町ですけど、一昨年は1,700人、昨年だけで2,200人の視察者が来ました。グリーンバレーで働いていて実感するのは、この町ってすごく注目されているんだなってことで。

本橋:元々、お遍路さんで観光客が来るところではあるけれど、それに加えてビジネス客も増えたという感じですよね。お花見の時期とか、シーズンごとに人がたくさん来るんですよ。

木内:近くの道の駅が視察者でいっぱいになってしまうこともあるんです。なるべくそういう風にならないようにするのが僕の仕事でもあって……。でも、基本的には静かな町です。昔から住んでいる人からすれば、雰囲気は変わったと思うんですけど。

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コンプレックスは、地域発の先進的なサービスやビジネスを生み出すことを目的としたコワーキングスペース。町内を基盤にクリエイティブ産業に関わる事業を展開している利用者が多く入居する。技能を持った個人と地域住民がフラットにつながる創造的な空間。全国各地から視察者が訪れる。

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鈴木:メディアからは注目されていますよね。でも、町の人はずっとマイペース。自分たちが楽しくなるように、長い時間をかけてコツコツと形にしてきた。それが今このタイミング、この時代にマッチして注目され始めた、ただそれだけ、という感じがする。だから、中と外の雰囲気に温度差みたいなものを感じていて。

寺田:自分は毎日が忙しすぎて、そういうのあんまり考えたことないですね。「鹿を解体しないか?」とか「マムシ持ってけ!」とか、神山にいなくちゃ経験できないようなことが多すぎて、それやってるだけで、毎日パツパツなんすよ(笑)。みんなマイペースに好き勝手やってる感じがいいんじゃないかなって。

一同:笑

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寺田さんがつくっているマムシ酒。体内の老廃物を抜くため、生きたまま水につけているところ。マムシは生命力が強く、この状態でも数週間は生きているとか!

寺田さんがつくっているマムシ酒。体内の老廃物を抜くため、生きたまま水につけているところ。マムシは生命力が強く、この状態でも数週間は生きているとか!

専用のソフトを使ってモデリング作業をする寺田さん。壁に貼ってある写真は、現在改装中の住まいの“理想型”をCGで表現したもの。

専用のソフトを使ってモデリング作業をする寺田さん。壁に貼ってある写真は、現在改装中の住まいの“理想型”をCGで表現したもの。

目的意識と行動力をもつ人々
都会以上に、誰かとつながる町

本橋:そうなんだよね。神山の人ってなんかみんな自由で。スローライフっていう言葉があるとしたら、むしろそれに追いかけられてるような感じ。都会と同じように仕事ができるIT環境は整っているし、自然も豊かでいろんな遊びも満喫できる。さらに日々さまざまな人がやってくるから、コミュニケーションの機会も多くて。こんな田舎なのに、毎晩のようにどこかで飲み会やイベントがあるってすごいよね(笑)。

鈴木:確かに面白い人が集まる場所ですよね。ほかの町がどうなのかは分からないけど、こんなに全国からいろんな目的を持った人がやってくる町もないのかなって。しかも、みんなアンテナの感度が高くて、行動力もある人たちで。東京にいると自分の趣味嗜好に近い人にしか会わなかったりするけど、こっちにいると思いがけず面白い人に出会うことも多くて。

木内:町もコンパクトだからすぐにみんなが顔見知りになりますよね。僕も徳島市内にいた頃より、いろんな人に会うようになりました。それは移住に関心のある人が国内外から来るところだからっていうのもあるけど、神山の人たちがすごくフレンドリーで優しいから、というのもあると思います。困っている人がいたらそれをみんなでサポートするような、支え合いの精神も感じて。ただ、毎日あんまりいろんな人と会うので、話すだけで「今日一日終わった」なんてときもありますけど(笑)。

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寺田:神山ってお遍路文化があるし、昔から人が交差する場所だったみたいですよね。そのせいか分からないけど、とにかく人が集まる。人が集まるから情報も集まる。そういうなかでそれなりにアンテナを張って生きていると、仕事も生活も遊びもすべてのことをスーパーマルチタスクで裁いていかないといけなくなるんですよ。3Dモデリングしながら、家の回りをうろついている猟犬からどう身を守るかを考えたり……。

本橋:まあ、それは寺田君だけかもね(笑)。でも、コンプレックスで仕事をしているだけでいろんな人に会いますよ。それも、都会以上に。僕の会社は本社が東京にあるのですが、東京の営業よりプログラマーの僕の方が名刺を配ってる(笑)。そんな田舎ってなかなかないんじゃないかなと。

大家さんからの依頼を受けて、そろばんのごみ取りをする本橋さん。ふらっと立ち寄る地域住民との交流も多い。

大家さんからの依頼を受けて、そろばんのごみ取りをする本橋さん。ふらっと立ち寄る地域住民との交流も多い。

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複数台のモニターを使い分けながら、立ち仕事をする本橋さんの“一人サテライトオフィス”。デスクの回りにはOculusやドローンなど最先端のガジェット(おもちゃ)がゴロゴロ。

仕事も生活も混ぜちゃってOK!
「楽しくなる」方向に身を委ねる

鈴木:普通に仕事をしていても、何気なく町の人が関わってくること多いですよね。最初は「ちゃんと仕事しなくちゃ!」と思ってたから、誰かが来ると「え、話しかけてくるの? どうしよう」みたいな(笑)。でも、やってくうちに「あ、これも仕事の一部なんだ!」って思うようになって。

木内:いきなり町の人から「間伐するから手伝って」とか、声かけられますからね。それで手伝うとご飯をお腹いっぱい食べさせてくれるという(笑)。まちづくりに関わりたいと思ってここに来たけど、ここまで周りの人のお世話とか、生活面に入り込むことになるとは思わなかったから、始めはそういう人付き合いにびっくりしましたね。でも、お陰ですごく生きる知恵が付いたなって。

本橋:物々交換じゃないけど、労働力の交換っていうか。そういうのが自然に生まれるような空気があるよね。

寺田:そうですね、ここにいたら飢えることはないだろうなっていうのはありますよ。仕事が無くなっちゃったら、誰かの家を訪ねて「木、切りますよ」みたいな。そしたら多分ご飯食べさせてもらえるから(笑)。

鈴木:自然にそういう循環型の関係ができていくようなところがあるような。そんな人付き合いのなかで暮らしていると、いつの間にか仕事も生活も全部ごちゃ混ぜになっていて。でも、ここでの暮らしって、それを分けて考えるのが難しいんですよね。とにかく「混ぜちゃってOK!」とした方が楽しいなって思う。

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本橋:みんな、自分が楽しいと思うことをひたすらやっている(笑)。仕事も遊びも全部そう。だからこれだけやったら終わりっていうのがない。“田舎暮らしはのんびりスローライフ”なんて思う人もいるかもしれないんですが、神山のスローライフって超忙しいんです。

寺田:ただ、流れにまかせてひたすら転がっていくだけ。そして、雪だるま式にやることがどんどん膨らんでいくという。楽しいことがありすぎてヤバいんですよ、この町は。

一同:笑

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築100年の古民家で自給的な暮らしを目指し、 土地の恵みでピザをつくる

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お店兼自宅の軒先に立つ塩田ルカさん、舞さんご夫婦と3人の子どもたち。

全国の農家を巡りながら
自給的な暮らしに惹かれていく

大阪で、10年ほど自然食品を仕入れるバイヤーをしてたんです。親戚が自然食品の問屋をやっていたのでそうした食材に触れる機会が多く、自分も興味を持ったのがきっかけです。義姉からマクロビオティックの考え方を教えてもらったり、自分が好きだったアメリカのスケーターからビーガンのことを知ったり、高校生の頃からずっと「食」のカルチャーを身近に感じながら育ちました。

仕事では全国各地を回りながら、いろんな無農薬農家さんに会いました。こだわりを持って農業をしている人たちって、ほんと個性的で。その暮らしにお金では計れない豊かさを感じたんです。自然に身をまかせて生きているような暮らしが自分にはすごくしっくりくるところがあって。

都市は自然も少ないし、人も多くてせわしないでしょう。僕も妻もちょっとスローなところがあるから、畑仕事をしながら、子どもたちも田舎でのびのびと育てる方が、自分たちには合っているんじゃないかって思っていたんですよ。でも、暮らすところを田舎にしても、仕事をするところは街になるだろうなと、ずっと思っていて。そんなときに仕事を通じて、和歌山で自給的な暮らしをしていた米一農園の高橋洋平さんという方に出会ったんです。今は宮古島に移住されてるのですが、その暮らし方に衝撃をうけて。初めて伺ったとき、家の目の前にある田んぼで高橋さんの子どもたちが素っ裸で、泥だらけになって遊んでたんですよ。そんな光景見たことなかったからびっくりして。しかもみんな目がきれいでね。なんや、インドみたいやなって(笑)。

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高橋さんの農場は「WWOOF(ウーフ)」っていう、有機農法を体験したい旅人を受け入れる仕組みに登録していて、世界中からいろんな人がやってくるとこでした。高橋さんはここで野菜と小麦と米をつくって生活していたのですが、週末と祝日のお昼の2時間だけは住まいを開いて、現金収入を得るためにピザ屋をやっていました。そこのピザが本当においしくてね。自家製の小麦で生地をつくって、そこに自分たちの畑で採れた無農薬の野菜をたっぷりとのせて、手作りの窯で焼いて……。周りに人がほとんど住んでいない田んぼのど真ん中みたいなとこなんですよ。でも人気があって、お店が成り立っているわけです。

あ〜こういうスタイルもあるんや、住まいと仕事場が一緒で……こういうのも可能なんやって思ったんです。もしかしたら、高橋さんのような暮らし方に自分の新しい生き方があるのかなって。それで、高橋さんのところに何度も通うようになって、本格的に移住をするためにピザの作り方や農業のやり方、考え方を教わるようになったんですよね。

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薄く伸ばした生地に具材をのせ、石窯で一気に焼き上げる。もちっと食べごたえのある生地は、すべて手捏ね。

薄く伸ばした生地に具材をのせ、石窯で一気に焼き上げる。もちっと食べごたえのある生地は、すべて手捏ね。

子どもたちが気に入った町で
家探しをするということ

ただ、高橋さんをはじめいろんな生産者さんと会っていくなかで、移住をしたいという気持ちは高まっていくものの、具体的な移住先は決められませんでした。というのも、子どもたちが引っ越しをしたがらなくて……。仕事で地方に行くときに一緒に連れていったりもしたのですが、ずっと田舎の暮らしが受け入れられないような感じだったんですよ。

そんなとき、友だちが徳島に神山っていうおもしろいところがあるよと教えてくれて。仕事で仲良くしてくださっている方にも徳島の方が多かったですし、水がきれいな土地だとは知っていたのですが、町のことは全然分からなかった。調べていくと、「グリーンバレー」という地元のNPOがやっている「イン神山」というサイトに出会ったんです。代表の大南信也さんにコンタクトを取ったら「一度会ってみましょう」と言ってもらえて。家族を連れて初めて神山町に来たのは2012年の冬でした。ただ、そのときに見せてもらった物件はあまりにも痛みがひどく、これを直して住むなんて到底できそうになかったんです。だから、仕方なく諦めかけて……。

でも、うちのチビたちは不思議なことに、初めての神山をすごく気に入った様子で。大阪に戻ってからも「また行きたい!」なんて言うんですよ。町の人が優しくて安心したんでしょうかね。今までまったく引っ越しをしたがらなかった子どもたちの見たことのない反応をみて、諦めずにこの町で家が見つかるまで探そうと思いましてね。_NMC1925

建物の佇まいに合わせた店づくり。 心に作用するものを伝える 萩市のギャラリー&カフェ

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山口市にある短大を卒業後、親の勧めのまま、地元の企業で働くこと5年。企業に就職して、結婚したら専業主婦になると当然のように思っていた万里さんだったが、「もっと自分の可能性を試したい」と、会社を辞める決断をする。

大阪に住んでいた妹の家に居候しながら、デザイン会社のアシスタントとして働き始めた。ある日、コピーを書いてみないかと言われ、その後はコピーライターの仕事をまかされるようになった。

「仕事を進めていく中で、まわりの人たちとの情報量の違いにがく然としました。たとえ今から自分が寝ずに知識を詰め込んだとしても、彼らには到底追いつけない、その時はそう思っていました」
それから1年半後、大きなプロジェクトのメンバーにも選ばれた万里さんだったが、突然、萩に帰ることを選択する。

「萩でタウン誌をつくっている人に、記者を探しているから帰ってこないかといわれたんです。デザイン会社での仕事はおもしろくてやりがいもあったんですが、あともう少しというところで、踏ん張りきれませんでした」

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ご主人との出会いが
思いがけない方向へ

萩にUターンし、タウン誌の記者兼編集者として働き始めた万里さんは、車夫の中原省吾さんと出会い、人生が大きく変わっていく。インターネットもまだない時代に、25歳で人力車で千葉県から萩市にやって来た省吾さんは、地方紙にも大きく取り上げられる有名人だった。

自分の人生を自分の力でコントロールしようとしていた当時の万里さんは、枝葉ばかり気にしていて、風が吹くたびに自身が揺れ動いていたという。

「でも、彼はそういうものには目もくれず、幹や見えない根ばかりを見てる人。そんな彼に憧れ、自分にないものに惹かれたんだと思います。急に自分を変えることはできないけれど、自分のいいところ、悪いところに自覚的になったんです」

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現在高校生の息子さん、環さん。忙しい時期は、省吾さんの人力車の手伝いをする。この日も電話でお父さんから呼ばれて、走って向かっていった。

お互いに町づくりに関心があって、友人としておつき合いしていくうちに、気がついたら結婚していたという。万里さん32歳、省吾さん34歳の時だった。

その後、萩の観光地である城下町で、省吾さんの人力車の休憩所兼待合所となる場所を探していたところ、20年間放置されていた立派なお屋敷がみつかり、すぐに入居できることになった。人力車を引く車夫という仕事は、一生安定して稼げる仕事ではないと思い、万里さんは仕事を辞めず働き続けるつもりだった。けれど、思いがけず借りられた広大なスペース。ここから何ができるだろうと考えはじめた。

「2人とも手づくりの器や和紙などが好きだったんです。萩は観光地ということもあって、萩焼だけを置いているお店が多かったので、私たちは他県のものも含めて、長く使える雑貨を販売できたらいいなと、仕事を辞めて、思い切ってお店を始めることにしたんです」

萩の古い街の佇まいを知ることができる貴重な場所。150年もの間この場所が辿って来た年月や、守り続けて来た人の営みがいまに残っている。


場所の佇まいに合わせたお店づくり

今から20年前にオープンしたお店「俥宿」は、風情ある建物と丁寧に選ばれた品々で多くの人を惹きつけた。しかし、入居して1年後に建物が文化財に認定され、出なければいけなくなる。

再び物件探しをする中で、いまの場所となる古民家と出合い、平成8年、「俥宿 天十平」としてリニューアルオープンを果たす。2ヶ月に1度展示内容が変わる和室のギャラリー兼ショップ・スペースでは、海外や日本の作家さんの作品が立ちならび、大正時代に増築された洋館はティールームになっている。

「場所が持つ空気を壊さず、建物の佇まいに合わせたお店づくりや使い方をしたいという思いは、20年前から今も変わっていません。時代がつくってきた奥行きは、20年やっただけでは到底醸し出すことはできませんので、そういうところが古いものの魅力ですね」

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大正モダンの洋館はティールームに。イギリス仕込みの焼きたてスコーンと紅茶がいただける。

作家さんと出会って知った、
“ものはものだけじゃない”

「自分がお店をやるなんて思ってもみなかった」という万里さんだったが、思いがけずお店をやることで、天職かもしれないと、後から気がついたという。

「自分がいいと思っているものを人にも共感してもらえることが、こんなにうれしいことだなんて、お店を始めるまで知りませんでした。
色んな作家さんを通じて感じるのは、ものはものだけじゃない、ということ。人によっては些細なものかもしれないけれど、その人のライフスタイルや価値観を一変させてくれたり、生活に何かをもたらしてくれるものというのは確実にあって、そういうものをひとりでも多くの人に感じてもらえたらと思っています」

日本の各地域に出向き、一緒に仕事をしたいと思う作家さんの作品を展示・販売している。


心に作用するものとの
出会いを分かち合う

知人がくれたという、店名の「天十平」という名前は、天は空、十は卍(まんじ)で交わるということ、平は地で、直訳すると、天と地が融合するという意味。いろんなものが溶け合って平和な地になるという思いを込めた名前だった。

「名前をいただいた時はまだそんな風に思っていなかったんですが、私はいろんなものや人を紹介するという役目をもらったのかなと。特にこのお店は、ものを扱っているから、ものと人をつなげること。ものだけど、ものだけじゃない、心に作用するもの。これからも、そういう出会いをいろんな人と分かち合えればいいなと思っています」

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萩出身のカメラマン、下瀬武雄氏の写真集『人間万才』。簡素で美しい暮らしの営みが記録されている。ティールームではこの貴重な一冊を読むことができる。

バッティングしない
地域の可能性

ゲストハウス、美容室、カフェなど、最近萩では志を持った人たちが様々なことに挑戦し始めている。20年前にUターンしてお店をはじめた万里さんは、彼らにとっては先輩にあたる。

「塩ちゃん(塩満直弘さん)たちが「ゲストハウスruco」を始めて、私自身もこの場所が持つ力を再認識するようになりましたね。
誰かがチャレンジして新しいことを始めて、それを違う人がマネをして始めたら、バリエーションはどんどん広がっていきますよね。地域にはチャンスがあると思います。やる気さえあれば何でもできる。だから、もっとチャレンジする人が育っていったらいいなと思っています。私も塩ちゃんたちとは違うかたちで、がんばらないと!」

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“創造的過疎地”で、 流れに身をまかせながら、 世界に一足の靴を作る

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「靴をつくりたい」と言い続けて
「整形靴」の学校へ

靴に興味を持ったのは高校1年生のとき。テレビの番組と番組をつなぐちょっとしたコーナーで靴デザイナーの仕事が紹介されていて、それがすごく印象的だったんですよね。体に身につけるものとして、服はつくることができるイメージがあったけれど、靴にはなかったから。

親に「将来は靴をつくりたい」と言ったら、「大学に行け」と。やっぱりな、と思いつつも、どうしても靴がつくりたくて何度もそのことを言っていたら、進路相談のときに担任の先生が自分の母親にこう言ったんです。「この子が3年生まで同じことを言っていたら、お母さん、諦めなさい」って。だから、僕は3年生までずっと「靴をつくりたい」と言い続けました(笑)。

進学したのは、神戸医療福祉専門学校の整形靴コース。足に障がいを持つ人の靴をつくることを教えている学校でした。一般的に整形靴はデザインや色など一目でそれと分かるようなものが多いのですが、この学校では整形靴を普通の靴と同じようにおしゃれなデザインでつくる、ということを日本に根付かせようとしていました。

整形靴には足の裏にかかる圧力などを調整するためにインソールと呼ばれる中敷きが入っているのですが、こうしたそれぞれの足の特徴に合わせたつくり方って、普通の靴にも応用できるんです。さらに素材やデザインにもこだわることで、より多くの人に履いてもらえる足に優しい靴がつくれるんじゃないかなって。

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自分の店でものづくりをすること
それを核に、なんでもやってみる

学校を卒業して、整形靴の本場ドイツ・ブレーメンに留学しました。きっかけは卒業した学校からたまたま留学先を紹介してもらえたこと。ドイツ語はまったく話せなかったのですが、「今しかない」という気がして、直感的に。
ドイツでは1年間、研修生として靴づくりの考え方などを学びました。日本ではあまりないことですが、ドイツでは健康診断のときに足のサイズを図るんですよね。足の状態によって、必要な人にはインソールが処方されることも。靴は体を支える土台で健康に直結する、という考え方が浸透しているんです。でも、日本って元々は下駄とか裸足の文化だから、健康というよりも、おしゃれを優先した靴が多い。知らず知らずのうちに足を痛めているのに、それに気付いていない人もたくさんいます。

僕はそんなドイツの靴に対する考え方がもっと日本に広まったらいいと思って。だから、まずは自分の靴づくりでそれをやっていこうと思ったんです。でも、自分にはまだまだ技術が足りないから、日本に戻っても、さらに学びが得られる環境で仕事をしていきたくて帰国後は、神奈川県の義肢装具会社で2年半働きました。それから、専門学校時代からの付き合いだった彼女と結婚するために、実家のある愛知県へ戻って、そこでも別の義肢装具会社で働いたんです。

でも、医療系の靴だけじゃなくて、誰がみても魅力的に感じる靴づくりで、靴の大切さを広く知ってもらえる仕事がしたかったんです。だから愛知県の会社では、ドイツでの経験も踏まえて、靴づくりだけではなく、子どもたちに靴が身体に与える影響を伝えるための講演もしました。イベントを企画したり、資料をつくったり、チラシを配ったり、広報的な仕事も……とにかくなんでもやりましたね。すべて、自分にとっては大切な勉強だったなと思います。

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ドイツ式の考え方をもとにした金澤さんの靴づくり。採寸・採型したデータをもとに、木型とデザインを調整しながら皮を張り合わせていく。細かな作業の積み重ねが必要な根気のいる仕事。

ドイツ式の考え方をもとにした金澤さんの靴づくり。採寸・採型したデータをもとに、木型とデザインを調整しながら皮を張り合わせていく。細かな作業の積み重ねが必要な根気のいる仕事。


仕事が終わってから、隣の市に借りていたアトリエにこもって、自分の好きな靴をつくる日々でした。自分がつくった靴を多くの人に知ってもらうために、個展を開いたり、友達と一緒にクラフトフェアに出展することもありました。そんな暮らしを何年か続けて……。
目標はいつか自分の店を持って、自分のものづくりをすること。そのために必要だと思えることは、すべてやっていこうと思っていました。

15年かけて集めた廃材を使って、 暮らしの中から、 家と家具をつくり出す

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元作業場だった空間に少しずつ手を入れた、ショールーム兼アトリエ。屋根裏には住まいがある。

仕事が続かず、飲み歩く日々

実家は、山口県・萩市郊外にある中原木材工業。忠弦さんは4人兄弟の長男だったが、家業は継がず、高校卒業後は都会に憧れて大阪へ出た。その頃、大好きだったバンドがレザーブーツを履いていた影響で、“靴”の仕事に携りたいと思っていた。

「靴の会社だと思って入ったのに、一足も扱っていなくて。入社してから気がついたんですが、『靴』と『鞄』の漢字を読み違えて、『鞄』の会社に入社してしまったんです(笑)。いまはもう笑って話せますけど、このことは30歳になるまで恥ずかしくて誰にも言えませんでした」

鞄の卸問屋で勤めはじめて1年半が過ぎた頃、実家に台風19号が直撃。現在の忠弦さんの住まいとなっている倉庫の屋根が吹き飛ぶ被害が発生した。

「一回リセットしようと、その台風を理由にして、萩に帰って来たんです。だけど、特にやりたいこともなくて、飲み歩いてばっかりでしたね。」

広島で働いていた友人のもとへ遊びに行った時、自分も何か技術を身につけようと、家電製品の販売や修理をする会社へ入ることにした。しかし、ここも1年半であっさり辞めて、再び実家へと戻ることになる。

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屋根裏の住まいにて。映画のDVDや書籍、珈琲やお酒の瓶などが雑多に並ぶ。

家にあったゴミから生まれた家具

今度は、親の勧められるままに、職業訓練校のインテリアデザイン科へ行くことに。けれど、バンド活動に励み、毎晩朝まで飲み歩く毎日。授業はほとんど居眠りしていて覚えていない。「ノミやカンナの研ぎ方だけ覚えてますね(笑)」

そんな時、実家の木材所から出る4cm×60cmの端材を使って、何かを作ってみないかと親から提案された。倉庫には何千本とあり、廃棄するしかない中途半端な端材。それを使って棚や椅子を作ってみた。

「いま考えるとどうしようもないものでしたけど、テレビの取材が来たりして少し話題にもなりました。」

木材所には、端材のほかにも壊れた機械がたくさんあって、その中から使えそうな機械のサビを落とし、使えるように修理したりしながら、細々と家具を作りはじめたら、「家具を作って欲しい」と頼まれるようになった。端材ではなく、きちんと木を仕入れて、新たに家具を作り始めた。

忠弦さんの手にかかれば、送風機はストーブに変わる。廃材は見事に新たな命を与えられ、その空間になくてはならないものになる。

シンプルな椅子の精妙さ

その頃もう30歳を超えていた忠弦さんは、やりたいことだけをやる時期はもう終わったと感じていた。家族からも稼ぐことを求められた。

「いろんな家具を一度ちゃんと見ようと思って、萩出身の家具デザイナーが京都にいると聞いて、会いに行ったんです。そうしたら、まずはきちんと家具の構造を知った方が良いと教えてもらい、そのためには家具を一度バラしてみろと言われました」

早速、ヤフーオークションで、ボロボロの椅子を一脚買った。シンプルな4本足の椅子。シンプルなかたちなのに、バラして見ると、一本一本足の形が異なり、何mmかずつ微妙に大きさが違うため、寸法を取るのに時間がかかった。複雑な作りをしているのに、組み立てるとシンプルな形ができあがる。「すごいな」と、家具の奥深さに驚いた。

肘掛けは絶妙なカーブを描いている。出来上がった家具を自分で実際に使ってみては、変化を加えていく。

肘掛けは絶妙なカーブを描いている。出来上がった家具を自分で実際に使ってみては、変化を加えていく。

インスピレーションの源は、バンド、映画、キャンプ

「それから、作るものには、今までの自分の好きなものや経験を詰め込もうと思ったんですよね。ぼくは、バンドと映画とキャンプが好きで。バンドといえば革ジャンだから座面にレザーを使ってみたり、『スター・ウォーズ』や『ターミネーター』が好きだったんで、ロボットの形をまねてデザインしてみたり、キャンプ道具は軽くて機能的だから、重ねて持ち運びしやすいものにしたり」

そうやって、自分だけのオリジナルの家具ができあがっていった。東京へ行った時、ほかの高価な家具と自分が作ったものを比較してみると、「自分で作ったもののほうが断然よくて」不思議に思ったという。流行や常識にとらわれず、「自分の好きなものを作ろう」と心に決めた。

忠弦さんオリジナルの椅子。左の椅子は、スタッキングができるため、車に積んでキャンプにも持って行ける。ロボットの形を真似たフォルムがユニーク。

左の椅子は、スタッキングができるため、車に積んでキャンプにも持って行ける。ロボットの形を真似たフォルムがユニーク。

暮らしの中から生まれるもの

「家具は道具だから、時代が変わっても、何年も使い続けられる無駄のないデザインが一番いい。それに、作り手が実際に使ってみたものじゃないと、お客さんの信用は得られない。ものを作る人にはその責任があると思うんです。商売は信用が一番ですからね」

家具は使う人がいて初めてわかることがある。忠弦さんは、家具が暮らしにどうとけ込むか、どうやって使われるかが大事だと考え、「見て、使ってから買ってほしい」と、自宅の倉庫をショールームとして開放している。

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「ぼく自身がちゃんと説明できるものを売りたいんです。今ここに住みながら、家や家具を作っていて、ぼくの暮らしを見てもらうことで、家具の魅力を伝えられたらと思っています」

忠弦さんが住むこの空間にあるものは、作った家具以外、すべて人からもらった廃材。ゴミとして捨てられていたものを「何かに使える」と思って15年間かけて集めた廃材がいま、忠弦さんの暮らしを作っているのだ。

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家具のアイディアや気になる言葉はすぐにメモをする。植物を使った鼻風邪の治し方など、暮らしのメモも。

家具がなくても豊かな世界

「ここに住み始めてから、音とか光とかが研ぎ澄まされている感覚があります。太陽の光や月の位置、風とか雨とか、そういうものに敏感になってくるんです。暮らしの中で、何が本当に必要なのかなと考える時、作るものが変わっていくような気がします。それがわかるまで、ずいぶん時間はかかりましたけど」

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ものがあふれる時代にものを作るということ。そのことに対して責任を持つ。
「ぼくにとって家具は手段のひとつ。究極、家具はなくてもいいと思っています。家具は生活をちょっと豊かにするものだから、家具がなくても豊かな生活って何だろうって思っていて。実はぼくは地べたに座るのが一番好きなんですよ」そう言って笑う忠弦さんは、少年のようだった。

アトリエ兼住まいになっている倉庫の外観。「この近くに、人が住めるような住居を作って、もの作りができる村を作ってみたい」と、忠弦さんは話す。

憧れていた都会からUターン。 組織にとらわれず働くために 自分の店をひらくまで

地域で見つけた、自由で
こじんまりとした空間

山口県・萩市で生まれ育った中村理恵さんは、都会へ憧れ、高校を卒業後に上京。デスクワークよりも販売の仕事がいいと接客業を希望し就職。千葉県にあるショッピングセンターに配属された。

「東京で就職できると思っていたのに、配属された場所は想像していた都会ではありませんでした。会社の寮で生活し、職場と行き来する毎日。時間に追われるばかりで、仕事に面白さを見出だすことができなくて。休みの日にストレス発散をして、なんとかバランスを取っていましたね。3年間はなんとか頑張りました」

地元の萩市に一旦帰ってきてからは、仕事をしながら、休日に山口県内のおいしいお店をまわるのが楽しみだったという。

「田舎ですから、カフェのスタイルもいろいろ。こじんまりしていて、いつ営業しているのかわからないお店も多くて、やっとたどり着いたらお休みだったり。でもそれが、すごく自由だなと思って。いい意味でスローで、マイペース。気ままに好きなことをやってもいいんだと思ったら、組織に向いていない私でも、カフェならできるかもと思えたんです」

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発想を変えて、
自分なりの方法を探る

カフェをやるのに必要なことを学ぼうと福岡県のカフェで働こうとしたものの、その時、理恵さんは29歳、しかも飲食業は未経験。その条件ではいくら探してもカフェでの求人はみつからなかった。

「落ち込んでいても仕方がないので、その時自分の考え方を変えようと思いました。カフェで修業できなくても、開店資金を貯めるために会社に就職して、休みの日にカフェをまわり、自分でお店を研究をすればいいんだって。
いまどんなカフェがあって、どんな料理をいくらで出しているのか、キッチンまわりはどんな造りになっているのかなどを見てまわりました。あと、自宅ではごはんを作って、いろんな人に食べてもらって感想を聞いて、メニューを考えていきました。それが、自分なりにやりたいことに近づくための方法でした」

4年半が経ち、再び萩へ帰り、飲食店で働きながら、物件を探し出した。そしてその1年後、いまのお店がある場所に出会う。

「元釜飯屋さんの物件で、サイズ感も設備も問題なく、そのまま使うことができました。お店を1人で始めることに少し不安はありましたけど、家族が『やってみれば』と背中を押してくてくれましたし、やっとやりたいことができるという気持ちのほうが強かったですね」

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萩市に灯りがともりはじめた

そして、萩市に自身のお店「patra cafe」をオープン。ゆったりと配されたアンティークの家具や温かみのある雰囲気で居心地のいい店内は、男性1人でも来やすく、長居して眠ってしまう人もいるほど。
お客さんは地元の人がほとんどだが、萩市の観光地である城下町の入り口という好立地な場所柄、観光客も訪れる。

「萩市でお店を出してから、この1~2年で交友関係が10倍くらいに広がりました。ゲストハウス『ruco』バー『coen.』ができたことで、夜、暗かった萩の街に灯りがともったんです。東京にいると気づきませんが、灯りって人の心を温かくしてくれるんですよね。いま、それぞれのお店が自立して頑張っていて、いい連鎖反応が生まれています」

patracafe

月に1度、お店の定休日にマーケットを開催。この日は、美弥市にあるパン屋「プチラボ」さんが出張販売に。オープン前には長蛇の列ができるのだとか。

おかわり殺到の秘密は
料理好きのお母さん

野菜中心のおかずをつけあわせにした定食は、意外にも男性のお客さんの胃袋も満足させ、1杯まで無料のおかわりを4杯する常連さんたちのおかげで、炊飯器のごはんがなくなってしまうこともあるのだとか。そんなおかわり殺到中の料理の師匠はお母さん。いまもメニューの試作はお母さんと一緒に行っているという。

「母は料理が好きで、昔から家にはレシピ本や、新聞の切り抜きがたくさんあって。そういう中からおいしいものを見つけ出すのが母はすごく上手でした。私は母の影響を受けて、家庭で食べるようなオーソドックスなメニューを少しアレンジしたり、意外な食材を組み合わせて炒めものにしたりして、やり過ぎない程度に私なりのオリジナリティを出しています」

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作って食べて、おいしい料理を体得していく。そうやって少しずつ、お母さんの姿勢から学んでいった理恵さんのごはんは、食べてどこかほっとする家庭的な料理ばかり。おなかがいっぱいになると同時に、心も満たされる、そんな愛情たっぷりの料理は、地元萩市だけでなく、近隣の市からも通う人がいるほどの人気ぶり。

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週替わりのランチメニュー「パトラごはん」は、メインのおかずに、サラダ、4種のおそうざい、ごはん、お味噌汁、お漬けものがついて、なんと800円。

見つけたら、
前に進むだけ

2014年3月にオープンしてから約1年。「この1年は大変というより、とにかく楽しくて仕方がなかったですね」と、理恵さん。

「萩では、やりたいことがあるという若者にいっぱい出会うんです。そういう人には、『やっちゃいなよ!』って言いたくなる。私はやりたいことが見つかるまでとても時間がかかったし、悩みっぱなしでした。いろんなことをかじっては捨ててきて。でも、カフェだけはやりたい気持ちが消えなくて、本当にやりたいことなんだなって。みつかったら、あとはひたすら前に進むだけ。やりたいことがあるというのは、それだけでラッキーなことだと思うんです」

自分の心に決めてからは、『カフェをやりたい』といろんな人に言っていたという理恵さん。自分にプレッシャーを与えながら、モチベーションを維持してきた。迷いながら探し続けた先にみつけた、カフェをオープンするという夢。「料理を作ることが大好きだから、いまは毎日がほんとに楽しい」とにっこり笑う理恵さんのごはんを心待ちにしている人が、今日もたくさんお店を訪れることだろう。

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郵便局員の小田信吾さんは、休日に車で30分かけて食べに来る常連さん。「普段おかわりしない彼が3杯もおかわりしたと聞いて驚いて一緒に来てみたんです。食べてその理由がわかりました」と奥さんも納得の様子。

若きUターン組が経営する、新たなコミュニティの場

多世代が集う新しい“場”

「coen.」を訪れると、その年齢層の幅広さとキャラクターの多彩さにきっと驚くだろう。たとえば、話をするのが好きだという地元の高校生(飲むのはジュース)が家族で遊びに来ていたり、地域活性 に取り組む60代の男性が来ていたり、萩で起業しようとしているUターンの若者だったり、いつのまにか萩についての白熱した議論が交わされることもある。地元の人、里帰り中の若者や観光客で、週末の夜ともなれば小さな店内はいつもぎゅうぎゅうになる。

誰もが分け隔てなく、居心地良く過ごせる空間を作っているのは、店主の秋本崇仁さんと原田敦さん。初対面の人同士を紹介したり、テーブル席の人をカウンターに座るよう誘ってみたり。そうした2人のさりげない気遣いは、お客さん同士の会話を自然と生み、人をつなぐ。

「お客さんとはよく話をします。話を聞いてるうちに、その人が萩でやりたいことだったり、迷っていたりすることを話してくれることもあって。そんな時は、この人に聞いてみたらどうですかってアドバイスすることもありますね。内に秘めた想いを話してくれる人はけっこう多いです」と秋本さん。

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萩に住んでいる人、萩に遊びに来た人、萩を通過点にして次の街に行く人など、「coen.」は、いろいろな立場の人が立ち寄る場所になっている。
「初対面の人や世代が違う人でも、話をすれば何かしらの共通点がありますし、観光客の方と地元の人が話すことで、ガイドブックとは違う萩が見えたりもする。お互いに違う立場だからこそ、別の見方ができて、話は広がっていくんだと思います。そんなふうにして、お客さん同士が縁を結んで、次にまた違う縁を運んできてくれるんです」(原田さん)

“小さい縁から大きなご縁へ”と店名に込めた思いは、着実に実現に向かっているようだ。

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取材した日は、転勤で萩に来ていた男性の送別会だった。「coen.」のお客さんみんなで彼の旅立ちを見送った。

Uターン組が増加中
若き店主たちの影響力

大学進学で秋本さんは東京、原田さんは大阪へ出た。原田さんは大学で応用化学を学び、そのまま大阪でシステムエンジニアとしてIT企業に就職し、5年間働いた。かたや、秋本さんは大阪の飲食店でバーテンダーとして働き始める。学生時代に旅先で訪れたとある飲食店で、1人のお客さんの誕生日をスタッフ総出でお祝いする場面に立ち会い、おいしいものを提供するだけじゃなく、人を喜ばせることができる飲食店の魅力に惹かれたのだという。2009年にはバーを経営するまでになっていた。そんな大阪で順調にキャリアを積んでいた2人だが、地元に戻ることへの不安や躊躇はなかったのだろうか。

原田さんは、まったくなかったときっぱり。
「5年間、SEとして働いてきたんですけど、だんだんとやりがいを見い出だせなくなっていたのかもしれません。いずれは故郷の萩に帰ろうと思っていたけれど、帰るタイミングは全然考えていなくて。そんな時、『coen.』を立ち上げた塩満直弘くんに、一緒にやらないかと誘われて、萩に戻るいい機会だなと思ったんです。彼とよく電話で話してたんですけど、『あっくん、いま活きとん?』って言われた時にはっとしたんです。いまの会社でちゃんと自分を活かした仕事ができてるか考えたら、全然ダメなだって。それで帰る決心をしました」

秋本さんも、塩満さんからバーを始めると聞いた時、Uターンすることをすぐに決めた。
「萩で飲食店をやりたいなって学生時代から思っていたので、迷いはなかったですね。大阪で働いていた飲食店での経験は、今の自分の土台です。お酒をつくることも僕の仕事の大事な部分ですけど、それ以上に人との関係性を大事にしたくて。人を喜ばせることの楽しさと大変さを、大阪にいた時に学びました」

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しっかり者の秋本さん(アッキー/左)と、癒し系の原田さん(あっくん/右)

また、秋本さんは飲食店での経験のほかに、手広く事業を手がける若き実業家のもとに弟子入りしたこともある。

「会ってすぐすごい人だなと思って。この人に教わりたいと、半年間無給で働かせてほしいとお願いしました。その方は、飲食店のノウハウだけでなく、イベントの立ち上げや物件のまわし方、どういうものを仕入れてどうやって売るのかという流通や販売についてなど、本や学校では教えてくれない知識と経験を、惜しみなく教えてくれました」
その時の教えを書きとめたノートは、今も秋本さんの大切な資産だ。

「だから、僕も次に続く人たちに道を作りたいという思いがあります。こんな僕たちでもお店ができるというのを見てもらうことで、『おれたちもやってみたい』と、萩で何かを始める人が増えてくれればうれしいですね」(秋本さん)

実際に今、萩の街には、Uターンをする20〜30代前半の若者たちが続々と増えているという。「coen.」という集う場ができたことで、人のつながりが広がったこと、そして何よりそれらをつくっている2人のいきいきとした姿もその一因になっているのだろう。

「地元を出て都会へ行きたい」と多くの若者が都心部を目指した時代から、若者たちの意識は少しずつシフトし始めている。慣れ親しんだ街は「自分が自然におれる場所」と話してくれた原田さん。自分たちの生まれ故郷に戻ってくることは、彼らにとってとても自然なことなのだ。
山口県 萩市 coen 原田敦 秋本崇仁 井上商店 バー Uターン

食から接点を広げる、
萩の魅力の伝え方

萩の地酒や、オリジナルカクテルが充実している「coen.」。萩の日本酒と、萩名物の夏みかんやだいだいなどの柑橘系のジュースとソーダで割った「萩ボール」や萩産のじゃがいもに、萩の塩を振ったパリッパリの「自家製ポテトチップス」など、萩の食材を使ったおいしいメニューが盛りだくさんだ。

_SEN9220「萩産のメニューを出しているのは、萩の方はもちろん、市外から来られた方に少しでも多く萩の食に触れてほしいから。萩は、海、山、川、良い土があるので、食材が豊富なんです。生産者の方と知り合いになって、食材の良さだけでなく、人や背景までもをちゃんとお客さんに紹介できるものを使っています。

たまに、生産者の方が『coen.』に飲みに来てくれて、お客さんに直接説明してくれたりすることもあります。実際に食べて飲んでもらって、『萩のものはうまい!』とお酒やつまみが、萩の良さを体感するきっかけになってくれたらうれしいです」(秋本さん)

メニューひとつをとっても、観光客には萩の良さに、地元の人には改めて萩のポテンシャルに気づいてもらう、そんなきっかけになる。原田さんも「高校までしかいなかった萩っていう街を、大人になって改めて見てみると、いろんな発見があるんです」と話す。地元を一度出た2人だからこそ、萩の魅力を新たに掘り出すことができるのかもしれない。

柚子屋本店さんの柑橘系のジュースをウォッカで割った「HAGIサワー」もさわやかで飲みやすい人気メニュー。

柚子屋本店さんの柑橘系のジュースをウォッカで割った「HAGIサワー」もさわやかで飲みやすい人気メニュー。

東京と日光に軸を置き、 「書院造」を通じて 日本と世界をつなぐ宿

photo_06「書院造」と「宿」の可能性

“北海道で生まれて、大学のときに東京に来ました。大学では建築の勉強をしていて、特に日本らしい文化を感じられるものに興味を持っていました。でも、日本の建築は古いものを壊すという考え方。僕はヨーロッパの建物のように、古いものと新しいものを融合させて、快適に暮らすという考え方がいいと思っていて、そのなかで日本の建築様式「書院造」に興味を持ったんです。”

「書院造」は室町時代以降に成立した住宅の様式。ふすまで仕切られた畳敷きの床の間や明り障子、座敷から張り出した付書院と呼ばれるスペース、縁側などが設けられているのが特徴。現代和風建築の基本となっている。

「書院造」は、室町時代に成立して以来現代まで続く住宅様式。畳が敷かれ、天井が張られた座敷は、襖や障子といった開放的な建具で仕切られ、床の間や縁側など付属しているのが特徴。地域には今でも多く残っている日本の建築様式。

“「書院造」って特別なものじゃなくて、かつての日本にはどこにでもあった「型」のようなもの。これに現代的な解釈を加えて設計すれば、日本らしさみたいなものを分かりやすく伝えられるんじゃないかなって。だからもっと「書院造」を学んで、残していく可能性を探りたいと思って、就職はせず、大学院に進むことにしたんです。

“宿”の可能性を考え始めたのもその頃でした。宿なら最低1泊だから、少なくとも半日以上「書院造」を体験してもらえる。たくさんの人に興味を持ってもらうきっかけにもなるし、何より自分が設計した宿で、自分の好きなことを追求できるのがいいなって思ったんです。

大学院で勉強をしていてしばらく経ったとき、栃木県・日光市で、「日光イン」の原点になる老朽化した日本家屋に出会いました。築70年以上で、中はボロボロだったのですが、これがきれいに「書院造」の様式を押さえていました。”

木村さんと日光をつないだ物件。縁側でまどろみたくなるような趣ある佇まい。

木村さんと日光をつないだ物件。縁側でまどろみたくなるような趣ある佇まい。

“そこで、学生で時間もあったので、研究の一環としてこの建物を改築させてもらうことにしました。そのときは学生で東京に住んでいたから、週末になると日光に通って、地元の大工さんと一緒に作業をして、という生活。これを3年近く続けていました。”

あるものを生かす
駅舎の保存活動

“でもその間、ひょんなことから老朽化した駅舎の保存運動に関わることになって。下小代(しもごしろ)駅は普段ほとんど人がいない無人駅なのですが、ある日通りがかったら、駅員さんが10人くらい集まっているんです。話を聞いてみると、どうやらこの駅舎を壊すということのようで。

特に思い入れがあったわけではなかったのですが、古い建物だしちょっともったいないなと思って、地元の人にその話をしたら、みんなそのことを知らない。でも、いろいろ聞いているうちに、残したい人がいるということは分かってきて。”
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“それで、東武鉄道に「地元の人は残したいと思っている人もいるようです」と意見メールを出してみたら、「工事をストップするので、話し合ってみてください」と思いもよらない回答が。保存活動に興味があったわけではないのですが、工事は止まっちゃったし、後には引けない感じになってしまって(笑)。

それから改修工事のかたわら、夜な夜な地元の人と話しながら保存するためにできることを考えたり。でも、結局それも行政との折り合いが付かず、時間切れ。建物はくれるというので、駅前の広場に移築して保存することにしたんです。

それが今、「日光イン」のフロントのある建物の隣に立っている駅舎。古くて貴重な建造物をどう生かしていくか、今その活用方法を考えているところです。”

映画のワンシーンに登場しそうな旧下小代駅舎。2009年に国の登録有形文化財に指定された。

映画のワンシーンに登場しそうな旧下小代駅舎。2009年に国の登録有形文化財に指定された。

東京で仕掛けていく
受け身にならない冒険へ

“30歳のときに建物が完成したので、学生をやめて、本格的に宿の仕事をするために、栃木県・日光市に移住をしました。建築家としてキャリアがあったわけではないので、初めての仕事が自分の宿でした。

始めて半年くらいはほとんどお客さんが来なかったのですが、少しずつ部屋が埋まるようになってきて。でも、軌道に乗り始めたかなというときに、あの震災が起こりました。その影響でお客さんが全然来なくなってしまって。東電から賠償金が出たから何とか食いつないでいたけれど、このままだったら廃業しかないという状態でした。”
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“そんなときに、東京の小岩で建築家として、あるテナント物件の設計を手がけたんです。飲食用の小さな物件だったのですが、自由に設計をさせていただき完成したら、何だか自分が気に入ってしまって(笑)。

誰かに貸すくらいなら、自分で借りたいと思って、そこで立ち飲みバーを開いたんです。活気のある街だったし、それがすごく面白かった。「書院造」の宿を体験してもらうというのは、自然環境に恵まれた日光でしかできないこと。でも、そこに留まっていては受け身になってしまう。東京なら仕掛けていける。面白ければ人が来てくれる、ということを感じたんです。

やっぱり東京につながりがないと引きこもりみたいになるし、完全な田舎暮らしになってしまう。「日光イン」がこれから巨大な宿泊リゾートになっていくことはないだろうし、将来的に田舎でのんびり暮らすペンションの親父みたいになるのは抵抗がありました。

日光の暮らしは気に入っていたけれど、東京は東京で、まだまだ冒険していきたいと思ったんです。”

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理想の「書院造」を求め、
新棟を設計

“東京で飲食業をやったり、建築の仕事を請け負ったりするなかで、東京との接点も次第に増えていきました。気付けば、「日光イン」の方にも少しずつ客足が戻ってくるようになって。

そこで、安定して経営を続けていくにはもっと客室を増やさないといけないと思い、新たに3棟を設計して、建てることにしたんです。今度は最初の建物と違って、一から設計することができたので、自分が研究してきた「書院造」の世界観を100%形にすることを考えて。だから、すごく面白かったですね。”

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“「書院造」は外と中を一体的に楽しむことができるようになっていて、そのポイントとなっているのは縁側です。家の中から外の景色を楽しむ、風を感じる、月を眺める。これはやっぱり空間にゆとりのある田舎でなければできないことです。
新棟が完成したのは2012年。宿を立ち上げて5年目のことでした。”

新棟の自炊用キッチン。調理に必要最低限の道具がそろっている。フロントでは、七輪のレンタルや小分けにされたお米や調味料も販売している。

新棟の自炊用キッチン。調理に必要最低限の道具がそろっている。フロントでは、七輪のレンタルや小分けにされたお米や調味料も販売している。

日本と世界をつなぐ、朝食の「型」

“宿の仕事を通じて、外国のお客さんとコミュニケーションする機会も増えていったのですが、そのなかで面白いなと思ったのが、世界の朝食でした。お互いの文化を説明するときに、朝食ってすごく分かりやすいんですよね。

日本人だったらご飯が主食で、そこには必ずみそ汁がセットになっていて、とか。「書院造」が日本建築の「型」であるように、朝食も日本の文化におけるひとつの「型」だなって。元々外国にも興味があったし、朝食を通じて、世界の文化に出会うきっかけが生まれたらいいなと。”

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定番メニューの「イングリッシュ・ブレックファスト」(¥1,500)。週末のブランチに食べられることが多いというイギリスの伝統的な朝ごはん。 [写真提供:WORLD BREAKFAST ALLDAY]

“それで、新棟ができた翌年に、東京で世界の朝食を提供する「WORLD BREAKFAST ALLDAY」を開いたんです。その後、小岩だけじゃなくて、神田にもお店を開いていたのですが、それらはすべてたたんで、飲食業はこの店で集中してやることにしました。

 

 

 

短期間にいろいろと大きな動きをしたので大変だったのですが、今はそれが一段落した感じ。店に手応えも感じているし、やっと一歩引いて考えられる余裕もでてきたように思います。”

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[写真提供:WORLD BREAKFAST ALLDAY]

当たり前にある「型」を
生かし、伝えていく

“僕はもともと、日光に拠点があるなかで、何とか東京にもつながりたいというところでスタートして、結果的に二拠点生活になりました。「型」を通じて、日本の文化を伝えていけたらという思いで考えてきたことが、たまたま日光と東京で形にすることができたという感じです。

自分の興味・関心を形にしていくなかで思うのは、やっぱり「型」っていいなということ。障子や座敷など、誰がデザインしたというわけではない、当たり前にある「型」の良さをこれからも伝えていきたいですね。”

木村さんと、除草係の「ゆきちゃん」

木村さんと、除草係の「ゆきちゃん」

山形・仙台・東京を移動しながら、 “手仕事”のデザインを探して 山に向かっていく

山形 吉田勝信

山形で体感する縄文文化
“頭より身体”のデザインに惹かれていく

3年前に山形市内から川西町に越してきました。このあたり遺跡がけっこうあるんです。最近、石器の鏃(やじり)の破片を採集に行きましたよ。抽象系の記号とかマークとか文様とか、デザインとしてみてもおもしろい。縄文文化が好きなんです。特に勉強したわけではないし、何かに影響を受けたわけでもないけれど、山形に住んでいるからっていうのは大きいかなあ。論理的じゃなくて身体的な縄文人のクリエイティビティを尊敬しているので、そこに近づけるように身をおいていたいんです。基本的にデスクワーカーですけど、同時に山に入ったり、草木染めをしてみたり、体感していきたくて。

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PCひとつあれば、作業はどこでも。こちらは自宅にて。

母が、25年くらい前から家の台所で草木染めをする「台所草木染め結工房」を営んでいて。繭から糸を紡ぎ、染めて、布を織っています。染料は、月見草とかビワの葉っぱとか。家の庭に生えているやつもあれば、河原で採集するものもあります。綺麗ですよー。母が作業をしている姿は小さい頃から見ていたけど、最近ちょこちょこ手伝い始めています。工房のロゴとか、tumblerを作るだけじゃなくて、染めの作業もやるようになって。グラフィックで型を作って染めて、てぬぐいを作ってみたり。風呂敷とかテキスタイルも作ってみたいなと思っているんです。

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仙台の実家の工房にある、歴史ある美しい織り機。

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母であり、染めの先生でもある信子さんと。作業はすべて実家の工房にて。

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ビワの葉の、あざやかでやわらかい色合い。

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吉田さんが型紙を作り手刷りした、3色の藍染めてぬぐい。 写真:本人提供

大学3年の時に、廃校を使って展覧会をすることがあって。開催にむけて地域の人と話していたんです。一度はすごく批判されたんですけど、一緒にお酒を飲んで話したり、縄綯いを教わったり、おじいちゃんやおばあちゃんと同じ文化を共有した上でこちらがやりたいことを話すと、希望が通りやすかった(笑)。そこで周りの環境のこととか土地の歴史に興味がわいてきました。

おじいちゃんおばあちゃんの生活を見ていると、今自分が暮らしている世界が捨ててきたものが見えてくる気がする。彼らがもっている時間軸とか、仕事のスピードを間近で見ていると、なんか忙しそうじゃないのに忙しそうだな〜って(笑)のんびりしているようで、日が昇って暮れるまでやることがたくさんあって働いている。手間と暇ということだと思うんですけど、それがおもしろくて。僕自身すごく影響をうけるんですよね。

文化、歴史、手仕事、民話
消え去ってしまうものを記し残す

2年前くらいからアトツギ編集室という山形を拠点にしたリトルプレスの編集もやっています。4人でやっているのですが、東京在住がひとりと、あとは山形県内でもバラバラの土地に暮らしています。みんな興味のあることはそれぞれなのですが、地域の食とか生業、手仕事とか暮らし。今、記しておかないと消えてしまいそうな物事を聞き書きしながら、冊子や旅を企画して自分たちなりに残していってるんです。

アトツギ編集室企画ツアー「森の晩餐」のロゴ・Web制作

アトツギ編集室企画ツアー「森の晩餐」のロゴ・Web制作

アトツギ手帳 vol.01 初版(現在は第2版販売中)写真:吉田勝信

アトツギ手帳 vol.01 初版(現在は第2版販売中)写真:本人提供

日本の社会が成長して豊かになったけれど、2006年頃急激に人口が減ってきた。そういう現実を考えた時に、成長曲線が上がっている時ではなく、下がってきた時にこれからの暮らしの方法論があるんじゃないかなと思うんです。成長曲線の方法論を見ていたとしても、それは下降していく世界だから。その時、じゃあどこを見るか?というと、“成長してきた世界がないがしろにしてきたもの”だと思ったんです。地域とか、村社会、手の技とか……そういうところから模範を見出していくのがいいんじゃないかと最近思っていて、自分の仕事でも意識している部分です。学生の頃は、ただ地域のおじいちゃんおばあちゃんと話せてたのしいな〜くらいにしか思ってなかったですけど(笑)。

自分自身が山に囲まれた環境の中でやっているプロジェクトや仕事を見返して思うのですが、社会や自然との関係性、もっと近いところだと暮らしも、“進歩”という名前で常に変化している。便利になること、物事のスピードがあがっていくこと、簡略化していくこと……いろいろあるけれど、本当にそれらが進歩なのかわからない。そこに小さな摩擦や、些細な嫌悪をいくつも感じています。この今の選択が本当に発展につながるのかな?ってどうしても斜め目線でみてしまうところがあって(笑)この“進歩”という流れに身を任せてちゃいけないんじゃないか、と。ちゃんと自分が納得して入り込める流れを選びたい。そう問いをもっていることが、今のデザインのスタンドポイントかなと思っています。アトツギの動きや表現も、そういうポイントから派生しているのかなと感じることが多いから。

「ヘアスタイルを変えると、 誰かに会いたくなる」 人の流れをつくり出す美容室

決意したのは15年前
地元・萩に美容室を開く

「kilico」のオーナー・内田直己さんが美容師を志したのは、中学校1年生の時。「ヘアスタイルを変えると印象も変わるし、そうすると服装にも気を配るようになる。そうやって萩の若い人たちの意識改革ができたら」と、美容師を一生の仕事にし、大好きな地元・萩で美容室を開くことを決意したのだそう。

写真右:近くにあるバー「coen」のオーナー秋本崇仁さんに作ってもらったという、シザーケース。

写真右:近くにあるバー「coen」のオーナー秋本崇仁さんに作ってもらったという、シザーケース。

「髪の毛を切ったら、誰かに見せたくなるし、誰かに会いたくなる。そうやって人の流れができたら、萩の街が活性化するんじゃないかと思っています」と、内田さん。
29歳で独立しようと決めていたが、1年早い、2015年3月に、地元・萩の街に自分のお店をオープンした。これから先も多店舗展開することなく、萩のこの場所でずっとお店をやり続ける覚悟だという。

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そこかしこにちりばめられた
“めんどくささ”

元は古着屋だった場所をリノベーションした「kilico」の個性的な内装は、ゲストハウス「ruco(ルコ)」を手がけたアズノタダフミさんが担当。
「1人で店をやるということはすごく大変なこと。だから、めんどくさいことを丁寧にやっていくことが大事。」と、ある大工さんに言われたことから決定した「kilico」のコンセプトは、「めんどくさい店」。

たとえば、タオルひとつとっても、通常ならば見えないように隠しているものだが、「kilico」では、ふわっとしたタオルが1枚ずつきちんと畳んでトレイの上に置かれている。バックヤードの扉には、パタパタという開閉音がお客さんに聞こえないように、そして丁寧に開け閉めができるようにと、ドアノブがつけられている。ちょっとしたことだけど、そういうお店のつくりや内田さんの所作から、いい気持ちになれたり、仕事への姿勢や想いが感じとれる。「kilico」には、効率のよさや便利さよりも大事にしている、そんな「めんどくさい」ことがお店のいたるところにちりばめられているのだ。

店内の大きな機械式時計は、ネジを巻かないとすぐに遅れてしまう。そのため、毎日きちんと巻くことから、内田さんの仕事がはじまる。

店内の大きな機械式時計は、ネジを巻かないとすぐに遅れてしまう。そのため、毎日きちんと巻くことから、内田さんの仕事がはじまる。

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ひとつの席でひとりのお客さんと
ひとりで向き合う

「kilico」は、シャンプー台もカット台もひとつだけ。シャンプーから、パーマ・カラー・ブローまで、内田さんがすべてひとりでこなしていく。もちろん、予約がとれるのもひとりずつ。

「今までの美容室は、たくさんのお客さんを獲得するために回転率を良くし、一つひとつの仕事に対してスピードが求められていました。そういう効率性よりも、美容室に来たお客さんに気持ちよく過ごしてもらい、そして目の前にいるお客さんに100%集中したいので、このスタイルにしました」と内田さん。その想いは、ロゴの中にある「Always carefully」にも込められているという。

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誰でも遊びに行ける
ヘアサロン×図書館

入ってすぐの左の壁には、マンガや雑誌だけでなく、絵本がズラリ。
「僕が小さい頃、ゲームボーイが流行っていたんですけど、どんな内容だったか実はあまり覚えていなくて。でももっと小さい頃に読んだ本は、ストーリーや絵柄など、しっかりと記憶に残っているんです。絵本は、大人になって読み返してみても、なつかしくておもしろいんですよね」と、内田さん。子ども連れのお客さんの待ち時間に、絵本を読んでほしいという願いから置いているのだそう。
いずれはもっと本を増やし「髪を切る人以外も、誰でも来られる図書館のようにしたい」のだとか。

地元の家具職人・中原忠弦さんによる特注の大きなソファで、ゆったりくつろぎながら読書が楽しめる。

地元の家具職人・中原忠弦さんによる特注の大きなソファで、ゆったりくつろぎながら読書が楽しめる。

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モテカットに
オーダー殺到中?!

オープン直後から、“「kilico」で髪を切るとモテる”と男性たちの中でたちまちウワサが広まり、萩市はもちろん他市や他県から訪れる人がいるという、内田さんのカット。以前勤めていた美容室でも、内田さんがカットすると、「面接に受かった」や「モテるようになった」という声が聞かれ、しあわせになれるカットと言われていたことがあったというから、納得です!

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萩名物「しそわかめ」で有名な井上商店に勤務する、神田崇さんのビフォアー&アフター。「kilico」でカットしてすぐ、4人の女性に連絡先を聞かれた伝説を持つ。

萩名物「しそわかめ」で有名な井上商店に勤務する、神田崇さんのビフォアー&アフター。「kilico」でカットしてすぐ、4人の女性に連絡先を聞かれた伝説を持つ。

萩の風景を変えたゲストハウス「ruco」。そこから生まれる連鎖反応とは?【後半】

まず、はじめてみる
“バー”という“場”を持つ

“萩に帰ってきてすぐ、ゲストハウスの物件を探しはじめたんですけど、2〜3カ月経っても一向に見つからなくて。若い奴がわけわからんことをしようとしてるって思われたのか、不動産屋さんもあんまり取り合ってくれませんでした。

そんな時、昔アルバイトをしていた萩で人気の居酒屋「MARU(マル)」の店主の小祝さんが、「いきなり宿をやるのもいいけど、最初はお金をかけんほうがいいし、今ちょうど隣が空いとるから、そこで何かやってみたら?」とアドバイスをくれたんです。

飲食業態の経験もあんまりなかったから、大阪の飲食店で働いていた中学の同級生の秋本崇仁くんに相談したら、前向きにとらえてくれたし、秋本くんの知り合いの人からも、「塩満くんがやりたいのは“バー”じゃなくて“場”やろ? まずは場を持ってみればいいんや」って言われて。ここからはじめてみようと思うきっかけをくれました。”

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中学校の同級生とはじめた
バー「coen」

“2011年から、バー「coen(コエン)」をはじめました。オープンから半年後には、今、店を切り盛りしてくれてる秋本くんが、1年半後には、同じく中学の同級生のあっくん(原田敦さん)が帰って来てくれました。”

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左から、秋本崇仁さん、原田敦さん、塩満直弘さん。3人は中学の同級生。「いつか萩で何かやりたい!」と思っていた3人の夢が、バー「coen」として実現。写真提供:ruco

“いま考えても、あの「coen」を開く選択肢は間違っていなかった。「coen」で得たお金や信用は、「ruco」をはじめるための軍資金にもなったし、何より、たくさんの人との出会いがあって、その縁が「ruco」にもつながっています。”

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3人が着ているTシャツは、萩出身の「大屋窯」の長男・濱中三朗さんが、自身のブランド「roar」で作ってくれたもの。写真提供:ruco

萩になかったのは街のハブ

“バーが軌道にのったものの、ゲストハウスのことはあきらめていませんでした。もう「やる」って決めていましたから。とはいえ、物件は相変わらず全然決まらなくて。
元旅館、元ホテルなどもあったんですけど、広すぎるとか、建物の傷みがはげしすぎるとか。

あと、物件の情報を教えていただく時に、「それでゲストハウスって何なの?」って聞かれることが多かったですね。共有スペースがあって、安価で泊まれてとか、わかりやすいキーワードで伝えて、素泊まり中心で、海外の方も泊まれるような民宿と説明していた気がします。

そんな中、いくつかあたっていくうちに、今の物件がありました。元楽器屋さんの4階建てのビルで、「ここ、めっちゃいい!」と思ったんですが、不動産に関して僕は素人だったので、親しくしてもらっている建築や不動産関係の方に、どういう風に話をもっていったらいいかなど、交渉方法を教えてもらいながら、進めました。”

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4階建てのビルの改装前の様子。1〜2階は楽器店、3〜4階は住居だった。写真提供:ruco

“宿の場所を、海が見えるところや古民家などの観光視点の「環境重視」にするか、「街のハブ」になるようなところにするか悩んでいたんですが、今、萩にないのは「街のハブ」だなと。宿は旅の拠点となる場所だから、バスセンターからも、飲食店からも、城下町にも近いほうがいい。そう考えると、あらゆる面でこの物件の場所は、自分の考える宿のかたちとしてベストでした。”

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2階にもともとあった防音室だった部屋を、ツリーハウス調に大胆アレンジ。現在は、スタッフルームとして利用中。写真提供:ruco

“ゲストハウスの内装は、はじめて会った時からアズノタダフミくんにお願いすると決めていました。ちゃんと約束を覚えてくれとったから、時間をつくって萩まで来てくれました。”

2階に上がる階段の壁一面には、萩にちなんだ素材がぎっしり埋め込まれている。萩焼の窯元「大屋窯」オリジナルのタイルや、萩ガラス、大漁旗のハギレなど。

2階に上がる階段の壁一面には、萩にちなんだ素材がぎっしり埋め込まれている。萩焼の窯元「大屋窯」オリジナルのタイルや、萩ガラス、大漁旗のハギレなど。

“デザインは基本的にはおまかせだったんですけど、宿としての“安らぎ”がある中に、ちょっとした緊張感を持てるような空間にしたいと思いました。背筋を延ばして、人と人が向かい合える、そんな場所にしたかった。”

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名前は、萩の街の水路から。
人の流れを変えた「ruco」

 “三角州の中にある萩という街には、水路が縦横無尽に流れていて、荷物を運搬したり、洗いものをしたり、生活用水として、水は昔の萩の街に欠かせないものだったんです。萩の日常の中で、非日常に触れる選択肢ができたら、新しい流れと交わりを持つ“交流の場”になってほしいなと思って、「ruco」=「流」「交」から名づけました。”

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塩満さんが通っていた中学校の体育先生だった三好先生もふらりと顔を出す。「ぼくも萩が好きやから、一生懸命やってるやつを応援したい」

“お客さんの9割は県外からの観光の方ですが、「萩に来たい」というより「rucoに来たい」と言ってくださって、最近は県内の方も増えてきました。1人旅の人や女性のお客さんも多いですし、リピーターの方が多いです。”

神戸から1人で遊びに来たという女性。塩満さんにおいしいお店を教えてもらって、萩の街へお出かけ。

神戸から1人で遊びに来たという女性。塩満さんにおいしいお店を教えてもらって、萩の街へお出かけ。

“改装にかかる費用に関しては、融資を受けました。4階建てのビルを全面改装したんで、結構かかりましたね。オープンから1年半が経って、稼働率も上がってきて、オフシーズンの週末も埋まることも多くなりました。”

3階には共用のキッチンやシャワールームなど。大きな洗面ボウルは「大屋窯」にオリジナルで作ってもらったもの。

3階には共用のキッチンやシャワールームなど。大きな洗面ボウルは「大屋窯」にオリジナルで作ってもらったもの。

「人の感覚を起こす」空間
そこから生まれる連鎖反応

“カフェなのか宿なのか、何をしているかわからないから、入りづらいと言われることもあります。けれど、「ruco」はいつでも開いているし、琴線に触れたり、興味を持ってくださった人には、1人でも飛び込んできて欲しいなと思っています。能動的に自分で動いて出会った人から伝わることってあると思うから。

最近「ruco」の近くに、美容院の「kilico(キリコ)」ができたり、もうすぐパン屋さんもできる予定で、萩という街に、人の流れや連鎖が少しずつ生まれている気がします。各々がやりたいことをして、そういう一個人の動きが、生きた街をつくっていく。街ってそういう多様性の集まりだと思うんです。

「人の感覚を起こす」というか、人の感性のアンテナをもっと立たせたいと思っていて。自分1人では無理やから、それが空間として、そこに集まる人の空気感とか一体感とか、かたちには見えなくても、自然と連鎖反応を起こしていけばいいなと思っています。”

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“僕は、“土の人”と“風の人”の境というか、土地の人でもあるし、外に出て戻ってきたというのもあるので、新しい風を吹き込みながら内と外をつないでいく役目になれたらいいなと。

想いが強すぎて、萩だけをなんとかしたいとか、盛り上げるということじゃなくて、“萩支部”を担いたいと思って動いてる感じです。
萩みたいな地方都市が個々にあることで、日本っていう色が残っていくと思ってるんです。
日本の他の地域にも、同じような意識やモチベーションを持ってる人たちがたくさんいるから、彼らと一緒に、日本の色を少しでも残していきたいと思っています。”

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萩の風景を変えたゲストハウス「ruco」。求めていたお客さんとの距離感とは?【前半】

“他”を知らなすぎて、
苦手な海外へ

山口県 萩市 塩満直弘 ruco toco. nui ゲストハウス

 

“萩で生まれて、萩で育ってきました。萩が好きで、「萩で何をするか」ということをずっと考えてきたんですけど、それを見つけるために、一度外に出ようと思ったんです。このままやったら絶対、その範疇でしか物事は見えんやろうし、何か新しいことを始められん。そう思ったんです。

高校を卒業後は、山口県内の大学へ進学しました。運動が好きで、汗をかくのが好きだったんで、体育の先生になろうと思ったんです。とりあえず、教職を取っておけば生きていけるんじゃないかって、安易に思ってましたね。
その時は自分で何か事業を起こそうなんて、思ってもみなかったです。

けど、大学2年の時に休学して、カナダへ留学することにしました。生まれ育った萩や山口は好きだったんですけど、なんかずっと息苦しさがあって。それをうまく言葉にできるほど、“他”を知らなさすぎたんだと思います。

その環境から、逃げるというより、「出なきゃな」という欲求が高まったんです。
僕は、気にしいだし、根が日本人だから、自分の性格的に海外の生活は合わないだろうなっていうのは自覚していました。でも、それがいいと思ったんです。
自分の範疇外のことをしたくて、一回外に出てみようって。”

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目的を持って集まった
異国の人たちとの出会い

“せっかく行くなら、学校も行けるし、働ける、ワーキングホリデーがいいと思い、ビザを取って、カナダに行きました。通っていた語学学校には、いろいろな国の人がいました。お金持ちの人もいれば、一生懸命稼いでやっと来たという人もいたし、韓国人の家族で来ている人とか、ブラジルから来たおばあちゃんとか。

たくさんの国籍の人が、それぞれ目的があって来ている人ばかりやったから、同じような感覚で話ができたり、想いを共有できたんです。それは、日本ではなかった出会いでした。

1年間のカナダ生活のあと、ニューヨークでも1年半働きました。みんなギラギラしとるし、生きようとしているというか、それぞれの主張を感じる街やったから、いい経験になりました。

山口県 萩市 塩満直弘 ruco toco. nui

 

海外での暮らしは、英語力や特殊技能を身につけるということよりも、自信を積み重ねるいい機会になりました。今の僕があるのは、間違いなくカナダとニューヨークでの経験があったからだと思います。”

必要な経験を通じて
つかんだ感覚

“そろそろ日本に戻ろうかなと思って、ニューヨークにいながら就活をしていた時に、
ある人と出会って、帰国後は、興味のあったスポーツメーカーで働くことになりました。

東京の店舗で販売から始めたんですけど、どうしても、僕はお客さんと向き合うと時間が長くなってしまうから、それに対して、会社からは効率化を求められたりして。きつかったですね。

いずれ、萩で何かをするために必要な経験をすることが、僕が萩を出た目的だったんやけど、いろんな経験をしたからこそだんだんと見えてきたし、何かをつかんでいく感じがありました。

それで、自分たちが萩に帰った時に、安心して行きたいと思える場所だとか、休めたりする場所がないなというのは思っていて、それって何なんやろうなと。そうしたら「宿はどうだろう?」って思い浮かんだんですよ。萩って観光地やけど、民宿とかビジネスホテルしかなくて、人を招きたくなるところがなかった。だから、そういう宿が萩にもあったらなって思ったんです。”

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求めていたお客さんとの距離感

“萩で宿をやるためにどこかで修業しようと思って調べていたら、鎌倉と逗子の間にピンとくる宿があるのを見つけて、即、電話したんです。そしたら、「実は今日から求人を載せるんです」って言われて。早速、面接に行って働き始めました。

その宿は、ごはんがおいしくて有名な旅館で、配膳から予約の管理まで、旅館業にまつわるいろいろなことをやらせてもらって、とてもいい勉強になりました。

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挨拶をかかさない塩満さん。取材中も、通りすがりの車に手をふる光景が何度もありました。

けれど、その旅館は、カップルとか家族が、ゆっくり過ごすための時間と場所を提供するためにサービスを尽くすスタイルで、その場所の中だけですべて完結していた。だから、僕とお客さんがどんな関係性かとか、どういう風につながっていくかというのは求められませんでした。それは、自分が求めてた距離感ではなかったんですね。

僕は、萩の人の魅力をどうやったら外から来てくれる人に知ってもらえるのか、旅行者と一緒に話をしたりする時間が持ちたいなとか、漠然と考えていました。
そんな時、カナダで帰る前に旅した時に使った、ゲストハウスとかB&Bはどうだろうって思ったんです。

みんなでごはんを食べる場所があったり、1階にバーがあったりして、地元のノリのいいおっちゃんに話しかけられてたりして、コミュニケーションをとれる環境があった。一軒家で経営されている方も多かったので、ゲストハウスだったら、自分でもできるんじゃないかなって思ったんです。”

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地元の人も宿のお客さんも一緒になって楽しめるのが「ruco」。自然と会話が生まれ、つながっていく。

“何か”を求めて集まる空間

“早速、ゲストハウスを調べ出したら、東京にある「toco.(トコ)」というところがみつかったんです。彼らが持つストーリーとか目指しているものとか、その時の自分に合致して、すごく響くものがありました。まずは行くしかないと思って、次の休みの日に行きました。

建物は、大正時代の古民家。フロントがバースペースになってて、そこは地元の人も来れるオープンな場所でした。「あらゆる境界線を越えて、人々が集える場所を」というコンセプト通りの場所。

山口県 萩市 塩満直弘 ruco toco. nui ゲストハウス

東京・入谷にあるゲストハウス「toco.」。2号店に東京・蔵前の「Nui.」、3号店に京都府・河原町の「Len」がある。写真提供:「toco.」

「toco.」には、みんな何かを求めてやってくるんです。その場で生まれる何かを期待して来る。僕自身もそうだったし、行くと誰かに出会えるのが楽しくて。今までは、自分の感覚がフィットするような場所がなかったから、「toco.」に来て、ストンと腑に落ちました。長い道のりでしたけど、「見つかった!」って思いましたね。

同世代のスタッフの人と仲良くなって、どういういきさつで宿を始めたのか、いろいろ教えてくれました。「ruco」の空間デザインをしてくれたアズノタダフミくんともここで出会ったんです。出会った時、彼はまだフリーになったばかりで、作ったものも見たことがなかったんですけど、その時、僕が宿をやる時の内装は彼にお願したいと話しました。直感でした。絶対に合うと思って。
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そんな感じで、毎週休みの日に遊びに行くようになって、意思を持って生きている人や同じような熱量を持つ人たちといろいろな話をするうちに、決意しましたね。
「絶対に萩でゲストハウスをやるって!」”

【後半】「萩の風景を変えたゲストハウス「ruco」。そこから生まれる連鎖反応とは?」>>

“旅の恥はかきすて”を信じて…… 2週間のつもりだった旅の道中に 移住を決意!

2週間の旅のつもりが、そのまま帰らなかった

——いつ山形県・蔵王に来たんですか?
6年前ぐらいに、愛知県から自転車を飛行機につんで岩手県に行って、青森県と秋田県に行って、最後に山形県に行って、帰ろうかなと思って、帰らなかったんです。

最初の岩手県から後ろ髪引かれる感じ満点のまま、その道中で道先案内人がちょこちょこ現れて、最後に行った蔵王にもっといたいなと思って、2週間で帰るつもりが、“気が済むまで”に変わっていって。

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——なぜ東北を旅しようと?
前職の美容師を辞めた直後、縛られてたっていう感覚がすごく強かったみたいで、「今までやってこれなかったことをやってみたい」っていうのが一番にあって、旅に行こうって。

愛知県に住んでると、沖縄とか北海道は旅行先として容易に行くことができるけど、その他の地域って、親戚とかの関係がないと行く機会ってなかなかない。東北は縁もゆかりもなかったので、仕事をしていると、行こうとしないと行けないな、今だ!と思って。

 山形県 蔵王 パン屋 マルモ 岩間元孝

——帰るのをやめるきっかけになることがあったんですか?
いろんな出会いがあったけど、お店があるこの場所との出会いはミラクルだった。すぐ近くに「オトチャヤ」というカフェがあって、そこをやっている友達が、旅の道中で「ここを生かしてくれる人いないかな~」って言っていて。しかも、この場所は、居ぬき物件で。おおっ!てなりました。

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心も体も、食べているものからつくられる

——なんでパン屋さんをやろうと思ったんですか?
美容師時代に思っていたことが絡んでくるんですけど、仕事が大変なのもあるんだけど、同僚が、精神からか体からか体調を崩してお店に来れない状況になると、本当に大丈夫?って心配したいけど、こっちも仕事に追われているから、困るなー!ってなっちゃったりして、そういうのってすごく悲しいなって思ってたんです。

考えていくと、食べる物で体はできているから、心も体も食べているものが大事なんだなって感じていて。ちょうどそんな風に感じていた頃、佐藤初女さんのお話を聞きに行ったんです。人は食べ物の持つエネルギーをいただいているってこと、あと、初女さんが、これだ!っていう意識に従って続けてるってこととか、面倒っていわれることを面倒がらずに1個ずつやってるってことに影響を受けました。僕はじいちゃんとばあちゃんと一緒に暮らしていたから、畑から鮮度のいい野菜をいやでも食べていたので、自分の中で彼女の考え方がしっくりはまった。

それにその頃、しゃれた食事系を扱う雑誌とかが出はじめてきて、昔から“おしゃれに~”みたいな感じが好きで(笑)。僕も天然酵母のパンとか作れたらいいなとおぼろげながらに思ってた。

旅先でしゃれたパン屋さんってあったらよくない?蔵王にもあったらよくない?っていう話から、“えっそれやってみたい!!”みたいな感じで。初期衝動が単純すぎなんですけど。

 山形県 蔵王 パン屋 マルモ 岩間元孝

出会いから広がった、パン作り

——パン作りはどこで勉強したんですか?
鎌倉にある「パラダイス・アレイ」っていうパン屋さんで4か月間修行しました。

蔵王でパン屋をするためにパンの作り方を教えてもらいたいっていうことで、その日は挨拶のつもりでお店に行ったんだけど、30秒後には、パンをこねてる自分がいました(笑)。名前も中途半端な状態で、お手伝いの子、ここやってみたいな。

その日の仕事が全部終わったあとに、ゆっくり話しましょうって時間をもうけてもらった。その時、自分で思ってたけど、言葉にならなかったことを、店主にさらっと言われて。楽しいとかつらいとか悲しいとかっていう感情は、全部自分の中から生まれてくるものだから、自分が生んでいる感情を楽しいと思えれば、何がきても楽しいし、そう考えていたらいつも楽しいよねって。分かるー!ってなって。それにみんな気がつけばいいのになって。うぉー!いい人に会えた!よろしくお願いします!ってなってりました。僕は、端的に言うと、人とのつながりの中で生きている感じですね。

山形県 蔵王 パン屋 マルモ 岩間元孝

“旅先”だと思って、思い切り

——お店をオープンしてから5年。振り返ってみるとどうですか?
流れに身をまかせてきた感じです。“旅の恥はかきすて”って言葉があるじゃないですか。それって、旅人は、先へ先へと行くから、その場その場で、かきすていけばいいから、思い切りいけばいいじゃんって意味なのかなと自分なりに思ってて。次、次って。

僕は派手なタイプじゃないので、どうしても売る!というのが、いやらしいかなとか思っちゃう。もうこの人とは会わないかなとか思わないと、自分からいけないタイプで……。そういうところがあって、だから“旅の恥はかきすて”って言葉を信じて、自分からパンいかがすっかー!って、ここまでなんとかやってきています。

 

“村八分”が持つ別の意味

——地域で働く中で意識していることはありますか?
何もかも思い通りにいくわけじゃないけど、こういう地域で、ご近所づきあいとかで難しいなと思うときもあるけど、“来るもの拒まず去るもの追わず”と思ってやっています。

2週間で愛知県に帰ろうと思ってたのを、気が済むまでにしようと切り替えるきっかけになった人がいて。
彼が、「“村八分”っていいイメージの言葉として受け止められないけど、考え方によってはいいよ。人に邪魔されないで、自分のやりたいことをやれるから、悪い方だけじゃないよ」って。そういう発想を聞いて、ものはいいようだし、とりようだなと思いました。

あまりにヘコヘコするのも気持ち悪いし、仲良くなれる人は仲良くなれるし、彼のおかげでそこらへんの感情がさらっとした感じになれた。
だから、僕はあまり外に求めないようにして働いています。求めている自分がいるから、つらくなる。そういう風な考えです。気楽!ははは。

山形県 蔵王 パン屋 マルモ 岩間元孝

やってみたいから、やってみる!

——今後やってみようと思っていることはありますか?
ゴールデンウィーク明けから、週末のみ営業で、月に1回の週末はイベントに出店するスタイルにして、平日はパン屋さんをやらずに、農家さんをやってみようと思っています!

ここ2・3年、平日の人がくるタイミングじゃない時期に、山の方を見ながら、この時間を何にまわしたらいいかな、時間があるんだったら、もっと違うことを覚えたいなって。それで、支出の少ない、豊かな暮らしにしようって思って。
やってみたいから、やってみようと! やれるかな?やってけるかな?と思ってたらやっていけないけど、やりたい!って思ってたらやれるから。

新鮮なものを食べられるようにして、この先も生きやすくなるために、パン作り、土いじり、つくれるものはつくるようにしていきたいなと思っています。土があるところでは生きていける、それって強いじゃんって。ただそれだけ。人が生きて行くための必要最低限を、みんなが持てればいいなぁと思っています。

 

 

会社じゃなくて“地域”に属す。 バンドマネージャーから 小さな集落の移動販売員へ

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 季節によって変わる仕事

ーー現在のお仕事内容を教えてください。
第三セクター「さじ弐拾壱」という会社で働いています。僕たちの会社は、民間と行政の間なので、地域の仕事がメインです。生活用品や食品を車で販売しに行く移動販売から、農作業委託、子供の林間学校、自然体験、農村体験のセッティングをする事務局、郵便物の集荷などもしています。

あとは、季節によって仕事が変わるんですよね。冬だったら、除雪作業とか、夏は指定管轄施設のキャンプ場「山王谷キャンプ場 たんぽり荘」の仕事がピークで、週末には必ず何かイベントが入っているので、それの準備をしたりしています。僕は、週の前半は移動販売で、週の後半は会社の総務的なことや、会社で新しく取り組む事業の担当をしています。会社の雰囲気は、個人商店みたいな感じで、入ってから知ったんですが、同級生のお父さんやお母さん、弟さんがいたりします。笑

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移動販売車両から流れる音楽を聞いて、おばあちゃんたちが集まってくる。

“ここが自分の町だ”という生活がしたい

——都市部から山間地域へ。移住しようと思ったきっかけはありましたか?

音楽が好きで、バンドマンたちについていって日本のいろんな地域をまわっていたら、地域がすごく楽しそうだったんです。地域だったら、自分が仕事以外の部分で楽しめる気がして。あと、そこで生活している人が、暮らしを“積み上げている”感じがいいなと思った。子供が生まれたら、「ここが自分の町だ」という生活をしていきたいなって。

だから子供ができたことをきっかけに、地域でなんとか仕事を見つけて、子供と家族を安定させて、あわよくば楽しい仕事をやりたいなと思ってました。住んでみると、鳥取には楽しいことがすごくいっぱいあるなって思うんですけど、その時はなんもねーだろうなって思っていて、京都もいいなと思っていました。でも鳥取に戻ってきて4年目を迎えるんですけど、全然退屈しないです。

鳥取 移住 佐治町 竹村

車を停車させると、積んである商品をあっという間に車外に並べ、数分で小さな“商店”が誕生する。

どんな所でも、働けたら楽しい

——以前は会社勤めだったそうですが、働き方に変化があったタイミングはありましたか?

新卒から4年間務めていた会社を辞めてあとに、インディーズのミュージシャンのマネージャーや、アルバイトや日雇い労働をしていたんですけど、その時はパッとと解放された感じでした。

ずっと同じ会社に勤めていると、前の会社以上の条件が前提だったりして、転職がしにくいと思っていたんですけど、辞めてみたら、そういうしがらみがなくなった。どんな所でも働けたら楽しいなって思うようになっていったんです。そんなバイト生活も楽しい間に終われたのもよかったのかもしれませんけど。笑

鳥取 移住 佐治町

——移住先はどうやって決めたんですか?

鳥取県にこだわっていたわけではないんです。どこに住んでも楽しい生活ができるなと思っていたので。鳥取は子供を育てるのにいいなと漠然と思っていて、あんまり調べたりせずに決めました。

もし自分が独身だったら、もっと色々な場所を探したかもしれないけど、家族がおるから、自分だけその土地を気に入っても、奥さんが住みづらかったら生活していけないなという思いが強かったです。だから一緒に行ってみてそこが良かったら住んでみようとなって。それで、自然が近くて子育てに良さそうな、僕の実家にも近い鳥取県佐治町になりました。

鳥取 移住 佐治町 竹村

ゴミ袋などの生活用品から、納豆やお肉などの食材を、慣れた手つきでかごに入れていくおばあちゃんたち。一番の人気商品はアロエヨーグルトだそう。

——仕事はすぐに見つかりましたか?

偶然見つかりました。「買い物代行」の緊急雇用の募集で、はっきり覚えていないんですが、確かその日が応募の締め切りで、証明写真を取りに行って履歴書を書いた気がします。2011年2月に前職の本屋さんの仕事を辞めて、3月末から鳥取のハローワークで仕事を探し始めて、4月には鳥取に来ました。まわりからのプレッシャーを感じる前に、ほどよく見つかりました。

こっちに来てみて思うんですけど、2、3年若い人が地域で存在感を出していたら、働かないかっていう話が出てくることがあるんじゃないかなという気がしています。地方に仕事がいないから地方に若者がいなくて、会社もいい人がいないから採用しない、そういう悪循環があるんかなあと思います。

“会社”じゃなくて、“地域”に属している感覚。納得しながら働いている

——東京から鳥取へ。働き方は以前と変わりましたか?

楽しくやっています。ふと見上げると、窓の外の景色がきれいなのがいいですね。やっぱり環境がいい。以前東京で働いていたときよりも、今のほうが仕事量は多いんですけど、働きやすいです。家にも帰りやすいし。休みの日も働くんですけど、強制されている感じがないから楽しいです。

あとは、前は“会社に属している”って感じだけど、今は“地域に属している”って感じがしています。自分の住む場所をよくするための、やらなきゃいけないことをやってお金をいただいているので、やりがいもありますし、地域とつながっているという感覚もあります。自分の中で納得して働けている。今はもう働き出して3年なので、言いたいことも言いやすいですしね。だからダメなんだよ~って。笑

鳥取 竹村智行 移動販売 佐治町

家族ができたことでの変化

——家族と過ごす時間に変化はありましたか

新卒で勤めてた会社や東京で働いていた時は独身だったので、仕事や好きなことだけしていたらよかったんですが、鳥取に戻ってきてからは、住む環境の変化もそうですが、家族ができたことでの変化が大きいです。小さな子どもや鳥取に住んだことのない妻との生活になるので、仕事と家庭での生活のバランスをどうとっていくか、というのを一番考えないといけなくなりました。なので、色々と融通がきく今の会社がすごくありがたいです。

夕方の子どもがお風呂に入る時間とか、ご飯の大変な時間帯はなるべく家にいた方がいいので、できる限り早く帰ることを意識してます。他のみんなが残って仕事をしていても、帰りにくいっていう同調圧力みたいなものがないのが良いですね。仕事はいくらでもあるので、夜は早目に帰って、比較的動きやすい朝の時間帯に会社に来て仕事をするとか、自分で時間を調整してます。そういうことが、昔の職場ではできなかったので、鳥取にきて、というか、今の会社で働いて一番よかったなと思うところです。

鳥取 移住 佐治町 竹村

——10年ぶりに地域で暮らしはじめて、とまどいなどはありませんでしたか?

大丈夫でした。子供が生まれて引っ越しをしたんで、出産でばたばたしたのか、引っ越しでばたばたしていたのか、どっちがどっちだったか分からなかったです。笑 免許もあったし。

大衆居酒屋で飲むのが好きだったんで、お酒が飲みたいなと思っても、仕事帰りに繁華街まで車で片道30分かかるのが面倒くさいなと思って、飲みに行かなかくなったことぐらい。でも、飲みに行ってもお金はたまらんし、子供ができてそういうのをやめないといけないタイミングだったし、まあいっかって。

鳥取 移住 佐治町 竹村

若い人が移り住む影響力

——これから地域で取り組もうとしていることはありますか?

少し役場の人っぽいんですけど、佐治町の地域のことをやっていく会社に所属しているので、空き家をどうにかしたい、移住・定住をどうにかしたいと思っています。

あと、最近若い人が住むだけでも地域がよくなるのを特別感じています。鳥取でライブをしてくれたミュージシャンの友達が、佐治町の地域おこし協力隊として、最近東京から引っ越してきたんです。彼が来たことで、東京から会いに来る人がたくさんおるし、地元だけのつながりじゃなくて、新しいつながりができたりもする。だから、今後は人が新しく住んで面白くなることをしたいと思っていいます。今はそれで町がもっと楽しくなればいいなと思っています。

“ちょっと遠くへ引っ越す感覚”で、東京から鳥取の山奥へ。ふつうを重ねて生活をつくる。

移住というよりも、
ちょっと遠くへ引っ越す感覚

わたしの大体の生活リズムは、
朝、6時から8時くらいに起きる。
掃除、支度、お茶を沸かしたり、洗濯したり、朝ご飯を食べる。
そのあとは、だいたい仕事。
12時、お昼の支度をしてごはん
家で仕事、もしくは外(ミスタードーナツかモスバーガーか葡瑠満)で仕事。
買い物があれば、先にしたり(100円ショップや本屋、ホームセンターなど)。
夕方ぐらいまで仕事して、ディスカウントショップとスーパーに寄って温泉へ。
(お腹が空いてたら、夜長茶廊でカレーを食べてから行ったり)
1時間半くらいゆっくりして帰る。
家に戻ってビール。
仕事をしたり片付けしたり、やる気が出たら何かやったり。
やる気状態によって23時~2時くらいに眠る。
というような感じです。

ゴロゥちゃんは、こちらが取材に行く前にこうして1日の流れをメールで教えてくれた。
電話もうまくつながらない鳥取の家からテキストで届いた日々を思いうかべてみる。この暮らしがスタートしたのは、2013年、長い冬がはじまる直前の11月初めだった。

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「東京にいる頃から、違うところで暮らしてみたいなあと思いつつ、踏み出せずにいました。30歳に近づいてきて、ちょっと修行……じゃないけど大人になって違うところに住んでみたいなと思って鳥取に引っ越してきました。地域では私みたいな人に対して“移住”とか“田舎暮らし”っていうキーワードが強くあるから、そう聞かれることが多くて。でもその度に違うんですよって言ったり、まあ言わなかったり。私の中ではちょっと遠いところへ引っ越しをする、というくらいの気持ちで来たから」

東京ではできない“暮らし”

待ち合わせをしていたコンビニエンスストアに白い軽自動車で現れたゴロゥちゃんに乗せられて、家に連れていってもらう。街をぬけて20分、30分……目の前の山にむかって、道を進んでいく。思わず車の窓をあけてしまうような、きれいな緑の中をずんずん走っていった。

4020002840200025「あ!この道を抜けると、風の流れが変わりますよ。ここに来て約1年ですけど、どの季節も本当にきれい。緑が濃い時期もいいし、雪山もすごくかっこいい。今日みたいに街に出ていくことは、いい気分転換になります。車の中で音楽を聴くのも好きになったし。街まで40分かかるから、そんなに頻繁に出られるわけではないので」

道のりはとてもシンプルだった。途中から信号もほとんどない、田んぼや山に囲まれた道中、心地よく響く音楽を聞きながら、ゴロゥちゃんのマネをしてちょっと風の流れを気にしてみたり。すると、はじめて来た場所なのに不思議と愛着がわいてくる。

「あそこに見えるのが家です」

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目の前に現れた山の中の一軒家。「お、大きい…」とひるむこちらに、にっこり。どうぞどうぞと招かれ、玄関に上がらせてもらうと、二匹の猫が出迎えてくれた。

「家はいろいろ周って決めようと思っていたけれど、知り合いに一軒目でここに連れてきてもらって、すぐに決めました。大家さんのおじいちゃんは雪下ろしを手伝ってくれたり、すごく親切にしてくれます。どこの場所で暮らしたいとか、どんな家に住みたいとかよりも“生活をしよう”と思ってここに来たんです。自分がやってみたい生活。猫を飼うこと、車を運転すること、家の中を好きに改装すること……すべて、東京の暮らしで私ができなかったこと」

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ひとりの移動が
だれかの行動範囲を広げる

職業はデザイナー、という肩書きになることが多いけれど、イラストや文字を書く仕事も多い。ウェブサイトも作るし、5センチくらいのはにわも台所の戸棚も作る。

「ありがたいことに鳥取の仕事も増えてきましたね。お仕事をくれる地域の人たちは、電話とかメールだけで済ませずに、会いたがってくれる人が多くて。東京にいる時よりも打ち合わせの回数が増えたかな。だから私も直接会う時の伝え方を考えるようになりました。仕事の量も増えて忙しくなってきたけれど、この先もずっとデザイナーでいたいというより、まず暮らしがあって仕事をする、という感じかなあ」

ゴロゥちゃんは、ウェブサイトの日記で文字を綴り、Instagramで日々の暮らしを写し続けている。そこに描かれているのは、半径5メートルくらいの目線でのぞけるような毎日。

「人の生活がのぞけるInstagramがすごく好き。生活っていっぱいあるんだなあって(笑)。もうすぐ30歳になるんですけれど、周りの友人たちにもいろいろな動きがあるみたいで。この年頃の変動っていうのは、20代の時にあったものとはまた違っておもしろい。あの頃よりも仕事とか暮らしに対して重みがあるから、動き方への力もかかる。だからこそ、ばーんっと大きく変化することもあると思うから、自分の感覚で動いていけたらいいなと思うんです。そしてその感覚を友人と共有できたらいいなと思ってInstagramで生活の風景を写しているのもあります。もちろん自分のためにやっていることでもありますけど。楽しいですしね、単純に」

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移動、移住はむずかしくない

暮らしをとりまく細かな景色、日々の調子。猫たちの行動、今日食べたごはん。その写真に添えられる飾り気のない言葉も一緒にアップされ続けている。友人も見知らぬ人もこの便りをどんな風に見ているのだろう。

「反応は人によってばらばら。でも、今の時代はこういう暮らし方をしたいと思っている人が周りに多いなと感じるから、『自分も興味があるから、行ってみたい』って言われることが多くなったかな。たとえば最近いろいろな地域でイベントとかフェスとかおもしろいことをやる人が増えているから、そのために移動するじゃないですか。同じように鳥取に行くことに対する意識も、昔だったら『遠くなるね、いつかまた会おうね』って悲しい話になるけど、今は『へ~鳥取に行くんだ!遊びに行くね』ってなる。だから、私の移動をきっかけに誰かの行動範囲が広がっていくような感じなのかな。時間や距離って実際に測れるものより、その人の感覚で伸び縮みする感じだと思っていて。飛行機もふえているし、移動手段があれば、すぐに行ける場所も多いから。そりゃあ住み始めたらいろいろな問題は出てくるけれど、それは、遠くに引っ越すことが大変だということよりも、その場所に自分が合うか合わないか。選んだ家がいいかどうかっていうところかな。なるべく『むずかしくないよ』ってみんなに伝えたいと思っています」

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動いてはじめて、できることとできないことがわかる

この家の生活水はすべて山の水。淹れてくれたおいしいお茶をごくごく飲みながら、最初に聞いた“生活をしよう”という言葉の意味を実感する。お金や仕事を中心に向上していくだけじゃなく、衣食住、今ここで暮らしをつくる力が、空間から伝わってくる。

「ほんと、ちょっとずつですよ。やってみてはじめて、できること、できないことが分かるから。『この土地に来てもやっぱりできないんだな』って思うこともあります。だらだらしちゃうし。もっと畑仕事やれるかなって思ってだけど、やってみたら全然興味なかったり(笑)」

お昼に作ってくれたゴロゥカレー、畑で収穫した野菜を使ったゴロゥカレー、ゴロゥカレー!とっても美味しかった!また食べたいです!!

「いや、興味ないじゃないか(笑)。自分でやるにはもっと小さい規模でやろうと思ったんです。たくさん収穫できても食べきれなくて無駄にしちゃうし、畑も今は家から離れているけど窓からすぐ見える場所にあったらいつも行けるかなとか、自分ひとりのためにはできないなって。やってみることで、イメージが前よりもっと具体的になって、自分にあったやり方が見えてくることがいいかな。私は、動きながらじゃないと本当にわからないので」

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毎日の“ふつう”を重ねて
生活をしていく

実家がある茨城、学生時代から過ごした東京、今の鳥取。そしてこの春から、結婚を機に茨城へ行くことが決まっている。図らずも生まれた土地に戻ることになった。ゴロゥちゃんは、山奥の家からまた次の暮らす場所へ引っ越しをする。

「昔から手放すことに執着はなくて。ここでできたことは、きっと別な土地に行ってもできること。鳥取での暮らしも作ってきたけれど、だからといって手放したくないとは思わない。仕事でもそうですけど、過程がすごく楽しいんですよね。できなかったことがひとつできた瞬間、それが“ふつう”になっていく。そのふつうが増えていくことが生活をするってことなのかもなあとも思います。自分でも茨城に行くなんて思っていなかったから、不思議だけどすごく楽しみです。また新しく暮らしがスタートするから、ここでの暮らしはその練習とか、準備期間だったのかもなあと今は思っています」

たくましく、いさぎよく、軽やかなゴロゥちゃんの姿に、雛形、感動。

「生まれたばかりの時は、めちゃくちゃ病弱でしたよ! 外に出るとすぐに風邪ひいちゃうくらいだったんだって。でも子どもの頃高熱を出してからはずっと元気らしい。あの時なにか細胞が変わっちゃったのかもしれないです(笑)」

鳥取の民芸にふれる場をつくり、 土地と暮らす人に近づいていく

鳥取の民芸にふれるきっかけを作りたい

瓦屋根に漆喰壁、キラキラと揺れる川で鯉が泳ぐ。目線の先にある山との距離が近くてはっとする。鳥取県の真ん中に位置する倉吉市は、かつて城下町だった時代の名残ある、伝統的建造物群保存地区。観光地ではあるけれど、道をはさむ小さな川の向こうには民家が並ぶ、暮らしの風景がある街。夕暮れ時に歩いていると、軒先で水を撒いている人と目があった。
この街並みの入り口に「COCOROSTORE(ココロストア)」というお店がある。そのたたずまいはさり気なく、街に溶け込んでいるように見えるけれど、人を招き入れる存在感のあるお店。丁寧に棚に並べられた陶器や、カラフルなアクセサリーが白い壁を彩る店内で、商品説明のポップをいくつか見ながら、鳥取を中心に山陰地方の民芸・工芸品があつまる場所だと気がついた。
「最初は家具職人になりかったんです」と、恥ずかしそうに笑うこの店のオーナー田中信宏さん。鳥取の大学を卒業したあと、民芸の地、長野県松本市にある家具会社に入社。そこで修行をする中で、田中さんの夢の方向は少しずつ変わっていく。

「最初は畑仕事をしたり、検品から梱包、配達までなんでもやりました。古いものであれば室町時代の家具や英国のもの、開拓時代のアメリカの家具などを日々数百点拭き掃除をしたり……。9年かけてやっとかんなけずりができる厳しい職人の世界の中で、ああ自分は職人になる覚悟がなかったなと思い知ったんです」

そんな自分自身の心境の変化を感じる中、新たなる目標がはっきりと見えてきた。そのきっかけとなったのが、ある展示会だったとか。

「毎月のように全国で展示会があったんですが、ある日接客している時、木工スタンドが欲しいというお客さんがいて。そのスタンドの形が、鳥取民芸木工の職人・福田豊さんが作ったものと同じだった。松本でも同じ形のものがあって、価格も一緒。幼いころからなじみのある鳥取民芸木工のものが目の前にあるのに、その時僕は松本の民芸の店員として、松本のものをすすめました。仕事だし仕方のないことだけど、そういう経験を重ねていくうちに、鳥取の民芸に触れられる機会がすごく少ないことに気がついたんです。そもそも知る場所もない。だから、そういうきっかけを作りたいと思いはじめました」

倉吉市の中心から一本路地裏へ。小川がせせらぎ、ゆったりとした時間が流れる。

倉吉市の中心から一本路地裏へ。小川がせせらぎ、ゆったりとした時間が流れる。

「鳥取にはいずれ帰ってきたいと思っていた」という田中さん。だから、そのきっかけ作りをしたいと思った時、生まれ故郷の倉吉市ではじめることは、自然な流れだった。どこにいても目的はひとつ、ひとりでも多くの人に鳥取の民芸にふれてもらう機会をつくること。でも、その場づくり=お店を持つことではないとも話す。場所を定めることには、どうも興味がない様子。

「もともと、体を動かしていることが好きなので、常に自分自身が動いていたいんです。だからお店をはじめることも“動き”のひとつ。気に入る物件もあったし、まずはここから始めてみる、という感じでしたね」

そんな気持ちが根底にある田中さんにとって、お店は“動く自分”が出入りする玄関のようなものなのかもしれないなと感じた。

心ひかれる人、作品との出会いを
日常の中でつないでいくこと

2012年「COCOROSTORE(ココロストア)」のオープン時、どうしてもお店に置きたいものがあった。それは、鳥取県の手仕事を紹介するホームページで知ったという鳥取県智頭町の大塚刃物鍛冶。手打ち鍛造の包丁の魅力にぐっと惹かれ、直接工房に訪れたという。

「まだ長野にいる時だったんですけど、どうしても実物がみたくて連絡をしました。工房にうかがって、その場ですぐに購入(笑)。その2年後くらいにお店をはじめることが決まって、職人の大塚義文さんにまた会いに行ったんです。一度お会いしているとは言っても、僕はどこの馬の骨かも分からないような時だったので、取り扱わせてもらうのはむずかしいだろうなと。でも、『この土地と、この土地で暮らす人に密着した場所を目指しています』と話しをしたら『がんばれ』って通常小売店に卸す数とは違う設定で卸してくださって。それがすっごくうれしかった」

今も「COCOROSTORE」のレジ横のガラスケースには、大塚刃物鍛冶の作品がずらりと並んでいる。田中さんのアイデアで、包丁の柄を桜の木に変えてオーダーできたり、最近では、鳥取在住のジュエリー作家池山晃広さんとコラボレーションして、鹿の角を柄にした包丁もオリジナルで販売している。

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地域の人とのつながりが仕事となる

お店の定休日は、だいたい水曜日。“じっとしていられない”田中さんは、お休みがあると職人さんを訪ねたり、気になっていた工房に行ってみたり……と、暮らしの真ん中に民芸がどっしり腰をおろしている。

「職人さんが職人さんにつなげてくれることが多いですね。会話の中で『そういえばこの前こんな人に会ったよ』と聞くと、それを憶えていて。別な用で近くに行った時に連絡して会いに行ってますね。地域で何か動こうとすると人とのつながりがとても大事だけど、不思議とつながっていくものなんだなあと感じています。そういうつながりの中で作品にも出会って、お店にも置かせてもらうようになることが多いですね」

出会いはすべてタイミングまかせ。胸のうちに熱い情熱を秘めていながらこの肩の力の抜け具合。あくまでも流れに身を任せているような……この日の晴れでも曇りでもない濃い青とグレーがまざった空のような“鳥取らしい天気”がよく似合うなあと思った。

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変化にあわせた暮らしかた

倉吉生まれの倉吉育ち。瓦屋根が美しい築90年ほどになる実家の表札には、田中さん含め4世代の家族の名前が書かれていた。今はこの実家にお姉さんと二人で暮らしている。生活の大半の時間をお店で過ごす日々で、家にはほとんど寝に帰るようなものだと笑う。

「お店をはじめても、特に大きく暮らしは変わってないですね。ごはんの回数は減りましたけど……朝も昼もほとんど食べない(笑)」

いや、それはちょっと仕事に夢中になりすぎでしょう!!!ごはんは食べましょうよ!と全力で止めてみた。

「え?おかしいですかね?。そうかな~。今、お店をはじめる前の自分にあったら、だいぶ変わっていると思うけれど、僕の仕事はよく動くので、そのたびにいろいろな変化があるから、その環境にあわせて自分も変わっているんだと思います。自分ではあまり気がつかないですけどね」

06地域や人とのコミュニケーションが
自分の思考とスペースを広げてくれる

最近では、もっと地域をまきこんで鳥取の民芸をたのしめるイベントの企画にも携わっている。たくさんの作家さんを束ねたり、コラボレーションをしたり、土地に根ざしながら、これから新しく生み出すことも決して忘れていない。お店をもつことも、イベントを企画することも、すべて最初は地域とのコミュニケーションが大事だと話す。

「自分自身が、人と地域とどう関わっていきたいのか、いくのか。それが一番大事ですね。大変なことも多いけれど、そこから生まれていくものは、めちゃくちゃやりがいがあります。なにか大きなことがしたいとか、人を動かしたいとか、そういう気持ちはまったくなくて。自分の感覚で“このふたりが話したらおもしろそうだな”って思う人をつなげる場所をつくる。まずは最少単位から始まる感じです。そうすることで、自分はもちろん、その人たちが動くスペースが広がっていくかもしれないなあと思うし。そういう連鎖が生まれたらすごく楽しいですよね……といっても本当は人と話すのが苦手なんです。家から一歩も出たくないほどで(笑)さすがに慣れてきましたけど、動くことでしか得られないものに喜びも感じているので、そこはがんばって割り切っています」

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東京・大阪・台北など、この数か月の間でも移動する場所はさまざま。多くの場所に行くことは、改めて鳥取らしさ・良さを再確認していくものになるのだろうなと思い、聞いてみた。

「う~ん、どこの土地もいいと思うけど、鳥取もいいなあって感じですね(笑)」

でました、これぞ田中節。

「もちろん、生まれ育った場所に対しての想いはあるけれど、固執しているわけでもないんです。お店をずっと持ち続けることが目的じゃないし、次の拠点を考える時が来るかもしれない」

地方には、掘れば掘るほど魅力的なものがある

こちらが思うよりもはるかに軽やかに“地域”を見ていて、そこから動くことに自覚的。その視点で“これから”をどう描いているのだろう。

「器や鍛冶など今は日常雑貨を中心に扱っているけれど、すべて食や住まいなど生活に密着するもの。僕はもともと家具職人になりたいという想いからはじまっているので、家具を中心に考えた時、雑器がないと家具が活きないし、展示会の時でも、カーテンや絨毯など室内空間がないと活きない。暮らしにまつわるものってすべてトータルでつながっているんですよね。それを、日常の中で使われていく「用の美」として考えた時に民家など一軒まるごと作ってみたいなと思います。これまで出会ってきた作家さんと一緒に。あとは地方が好きだから、ほかの土地のものと鳥取のものを融合させていけたらおもしろそうだなあと思う。都市よりも、その土地ならではの匂いがするところが好きなんです。掘れば掘るほど魅力的なものが出てきますから」

はじめての北国・山形で、 金属と食材に囲まれながら、 食卓を彩るものを作る

はじめて体感する、北国の暮らし

「こんにちはー、川地ですー!」カラフルな壁のアパートの窓から笑顔がのぞく。最初に話した時から、パーンと明るく響く声が印象的だった。
はじまりは3年前の大雪の日。山形に引っ越してきた川地さんを迎えていたのは、容赦なく積もり続ける雪だった。初めての北国。期待と不安が入り混じる新生活は、“不安”の圧倒的勝利でスタートした。

「もう半べそ(笑)。あんなに大量の雪をみたのも初めてだったし、雪かきなんてしたことがない。私も田舎育ちなので地方で暮らすイメージはあったけど、雪がふらない土地だったから全然違った。家族以外知り合いはいないし、外にも出られない。もうこの先どうなっちゃうんだろうって不安ばかりで。山形の暮らしも3年目になって居心地はよくなってきましたけど、やっぱり冬は……。まだ修行中ですね。本当に四季の変化が激しい土地だと思います」

自宅の窓から顔を出す川地さん。色合いがかわいらしい建物は築20年弱の建物。

自宅の窓から顔を出す川地さん。色合いがかわいらしい建物は築20年弱の建物。

心奪われた、きびしい自然から生まれるゆたかな食材

出身は岐阜県多治見市という海のない工業の町で生まれ育った川地さんが山形にトキメキを感じたポイントは、山海のみずみずしい食材たち。

「多治見も同じ田舎だけど、食で有名なのはご当地グルメだったりします。山形の人みたいに、春は山菜、初夏になったらさくらんぼ……と季節のものを贈る習慣がないんです。東京に暮らしている頃から食に興味があったけれど、まだまだ知らない食材がたくさんあって。栗やラフランスをいただいたり。東京にいる時は贅沢する時に食べていたものが、今は『あまっちゃってどうしよう!』って困るほどです。高級なものを買ってきて消費するのではなくて、いただきものをどうやって消費するか考える。そんな風に贅沢をする感覚が変わったことは新鮮でした」

美術作品よりも、生活の道具を作りたい

多治見市は工業の町、陶器の町として栄えている土地。川地さんの実家もまた、陶器の卸業を営んでいたそう。金属工芸作家としての今があるのは、この町で生まれ育ったルーツがあるのかと聞いてみた。

「漠然と陶器作家になりたいなあとは思っていました。でも大学に入ってさまざまな素材にさわってみると、金属に惹かれていってしまって。陶器は作品を展示したり販売したり、教室を開いたり……いろいろ仕事にしていけるけれど、金属は、材料が高い・量産できない・そもそも人に馴染みがない。実際に制作をはじめてみてもその壁はあったのですが、同時に作っている人が少ないことはいいこともあるなと思って。とにかくたくさんの人が趣味や仕事で陶器を作っている環境で育ったから、その中で個性を出すことがいかにむずかしいかも知っていたし。あとは、陶器は焼き終わったら完成するけれど、金属の場合は出来上がってから『カーブが浅いかな』とか『ここを少し曲げたらもっとかわいくなるかも』と思ったら、また打ち直せる。永遠に“素材”なんです。私自身、性格が優柔不断だからちょうどよくって(笑)、大学では金属工芸を学びました。お菓子作りは趣味でやっていたのですが、そのお菓子の型を金属で作ったらおもしろいなと思って、卒業制作ではケーキ型とか調理器具を作りましたね。美術作品を作ることには興味がなくて生活の中で使う“道具”を作りたいなとずっと思っていたから」

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理想と現実の中をぐるぐる廻る
手さぐりで過ぎていく日々

卒業後は、アルバイトをしていた飲食店に就職。同時に金属工芸の制作やケータリングなど「今やりたいこと/できること」をがむしゃらにこなしながら、東京での暮らしのスピードは増していく。寝食をおろそかにしてやっと制作にありつくことは果たして自分に合っているのか、という思いが心にちくちく刺さる。

「就職活動をせずに大学を卒業してしまって。自分で選択したことだけど、将来を考えた時に一度しっかり社会経験をしてみるのもいいかなと思ったんです。仕事は一生懸命やっていたけれど、心は常に金属工芸を制作することでいっぱいで。今よりもっともっとせまい部屋に暮らしていたし、寝て起きて働いて制作をしていたので、とにかく生活はギリギリ。部屋に散らばっている金属を踏んで『痛いっ!』とかしょっちゅうやってました。体も健康だったので、無理な働き方もしていたなあ。やりたいことがあってもまずは家賃を払うために働く……それを3年くらい続けてもういいかなと思いました。東京は大好きだし今もよく行くけれど、長く暮らすイメージが持てなくて。あと、その頃作り始めていたホームページ経由でお仕事をいただくこともあり、今の時代だったらどこに行っても距離があるようでない感じだし、東京じゃなくてもいいかも知れないと思うようになりました。それとは別で、このままだと家の更新料が危険!という切実な理由もあったんですけれど(笑)」

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月一回の山形視察を経ての移住

東京以外の“どこか”が山形だった理由は、今の旦那さんの実家があること。出会いは職場、でも、まずはじまりは“彼”ではなく“山形”に興味があったと笑って話す。

「実際に付き合いだしてからは、月一回くらいのペースで山形に行って、その度にいろいろな場所を巡りました。2~3年通ってすこし土地の雰囲気をつかめたかな。その間は『もしかしたらここに住むのかもしれない』と想像しながら山形を見ていたから、ただ旅行にくる感覚ではなくて生活をするっていう目線で見ていたかもしれない。そのうち、より現実的に『ああ、東京じゃなくてもいいのかも』と思うようになっていきました」

その後、結婚をきっかけに山形へ移住。制作できる場所、時間。これまでとはまったく違う時間の流れや環境へ入り込み、最初から大雪の洗礼をうけた川地さんの手をひいたのは、地元で開催されているマーケットへの参加だった。

「どうやって地域に入っていこうか考えていたのですが、ちょうど私が来た時期くらいにマーケットやマルシェがよく開かれるようになったらしく、生産者さんや作家さんが集まる場所があって。私も紹介で一度出店してから誘ってもらえるようになりました。地域のコミュニティに入っていくにはすごく時間がかかるだろうと考えていたし、むしろ東京に売り込みにいかないといけないと思っていたんです。山形でこんなにおもしろいマーケットがあることも知らなかったし、私が作っているものにも興味をもってもらえないと思ってた。でもいざ来てみると、同世代の人がやっているお店もたくさんあって。そういう場所に実際に行ってみることで、東京に売りにいかなくても山形内でできるかもしれない、ここで作って売ることができるのかもしれないと体感できたんです。それがうれしくて最初の1年くらいはいろいろな場所にでかけていきましたね」

自分のペースで土地を知り、人に会う
アウェイの視点を、オリジナルに変える

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金属の器やカトラリーとあわせて、室内の小さな作業スペースでお菓子作りも行っている。その名も「カワチ製菓」。最近はマーケットで知り合いになった山形の果樹農園「蔵王ウッディファーム」とコラボレーションしたオリジナルのグラノーラも作っている。

「ぼんやりとですが『山形の食材を使った何かがつくれないかな』と思い始めた時、ウッディファームさんと出会って。作っているドライフルーツをいただいて食べた時、初めてのおいしさに感動しました。ウッディファームさんにも私の作るお菓子に興味を持ってもらえたので、そこから一緒になにか作りましょう!と話が進んでいきましたね。私が前から作りたかったグラノーラに赤すももやラフランスのドライフルーツを混ぜて……ってそんなドライフルーツめずらしくないですか?地元の人は驚かないけれど、県外から来た私はその種類にいちいちびっくり。でもその感覚をいかしていきたいと思っています。柿のドライフルーツをクッキーに練り込んでみたり。生産者さんとつながって、あれこれ相談しながら作り上げていくのはすごく楽しくて何よりおいしい!」

 

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誰かが山形を訪れるきっかけとなるような場所を作りたい

川地さんが作る金属工芸品やお菓子は、ひとつの食卓に集まるようにできている。どちらかひとつでは完成しない風景。お皿やカトラリーも実際に使ってみて、足りないものを補ったり、棚の奥にしまっておいてしばらくながめて作りかえたり。それは、気がつかないようでいてほんの少しずつ変化していく日常の暮らしとよく似ている。リビングにある黒板にふと目をやるとは旦那さんが書いたであろうスケジュールが……。

09「最初は私が書いていたんですけど面倒くさくなっちゃって。今は夫がひとりで書いていて……ああ、字が間違ってますね~。本人は一生懸命書いているみたいですけど字が雑だとか、びっくりマークが多いよ!って注意しています」

これもまた、愛しい家族の風景。

「今はこじんまりやっているけれど、いずれは山に工房を持ちたいなあと思っています。金属の作業はものすごく大きな音が出るので、山奥へ行って思い切り作業がしたいと思えばすぐに行けちゃう距離がここならでは。お菓子を売る場所も持っていないので、工房近くに小屋を作って販売もできたらいいなと思っています。早くてもきっと5年計画くらいですけれど。こうして私が今山形に偶然いるように、その場所がだれかにとって山形を訪れる小さなきっかけになれたらうれしいですね」

海外居住経験を経て、雪深い山形の「旅館」を入り口に、土地の営みを案内する

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Q.家業を継ぐ前は、どのように過ごしていたんですか?

今も昔も旅が好きで、しょっちゅう海外に行っていました。東京の大学を卒業後、1年間カナダに行って、その後メキシコに行ってから帰国して。次は韓国とアメリカに行きました。その間は、通訳の仕事をしたり、韓国では山形に誘客をする営業プロモーションなど観光に関わる仕事をしていました。ずっと海外に住むものだと思っていたので、ここに帰ってくるなんて考えていませんでした。

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Q.山形県で働こうと思ったきっかけを教えてください。

別の仕事をしようかなと思っていたときに、東日本大震災が起こりました。家族と全く連絡がとれないという状況が2、3日続き、親戚とも1週間連絡がとれませんでした。「つたや」でも地震直後から3ヶ月くらいはお客さんが全く来ない状況で、被災者の受け入れをやっていました。私は、震災から1年間、山形と東京を行き来していて、これからどうするかを考える時間でした。その時、私にもここで手伝えることがあるんじゃないかと思って、働いていた東京のアウトドアの会社を辞め、「つたや」の営業担当として働きはじめたんです。私は、ここに来た人をどこかにつれていく、そういう役割で関われたらいいなと思って、その年から山伏の修行に入りました。ずっと他のところに住むと思っていたので、地元のことを全然知らなくて、そこから地元の歴史を調べていきました。

料理に添えるもみじを、旅館の裏の山にとりにいく。

料理に添えるもみじを、旅館の裏の山にとりにいく。

Q.今取り組んでいらっしゃることを教えてください。

もともとこの西川町・志津は行者さんたちの宿場町で、行者さんたちのお世話をしてきた歴史があるんです。だからここに来たお客さんを旅館だけでお出迎えするのではなく、この「つたや」を拠点に、月山を案内していきたいと考えています。

特にここで何かをしようとして来ているのではない人が、ここに来てから「山に行きたい」と思ったら気軽に参加できるように、ウェアなどは全部こちらで準備しています。ここにしかない厳しい冬を体感してもらいたいですし、冬の時期しか体験できないことなので。

あとは、お客さんと一緒にかんじきを作ったり、作ったかんじきを履いて、一番大きいタカを扱える最後の鷹匠と言われる方と一緒に山を入るツアーなどを企画しています。ここは湯殿山信仰が栄えた頃にできた村で、当時ここから湯殿山まで続く古道を歩いて滝行をして参拝していた歴史があるので、滝行ツアーもしています。あと、かまくらに一日泊まる雪中キャンプというのもしていて、寒くなったら温泉にかけこめるし女性に人気があります。

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何気なく並べられた山の恵みから、月山の季節が漂う。

Q.ツアーやワークショップなどを積極的に企画しているのはなぜですか?

たとえば、今この地域でかんじきを作れる方は一人しかいないんです。この辺りで作るかんじきは、クロモジという木を使っているんですが、かんじきを作るにはクロモジを育てるところからやらなきゃいけないんです。今その方が70代後半で、他にやる人がいないんです。だから、誰か後継者が出てほしいなという思いや、みんなに知ってもらいたいという思いでやっています。既にこの村でも、戦後いろんなことが忘れ去られてしまっていて、私が知りたいことも両親に聞いても分からないことがいっぱいあって、おばあちゃんに聞けば少しわかったり。次につなげられなくなってしまうから、今おばあちゃんに色んなことを聞いています。私がそういう流れを止められるわけじゃないんですけど、何か少しでもという思いがあってやっています

旅館のすぐ裏手にある、五色沼。うしろには、厳しい冬目前の月山。

旅館のすぐ裏手にある、五色沼。そのすぐうしろには、厳しい冬目前の月山。

Q.山形県に戻ってきて2年。山形で働くことを今どのように感じていますか?

正直、今までは山形県に対してあまりいいイメージも持っていなかったんですが、震災のあとに東京と行き来しながら山形をみていたら、山形のいいところにたくさん出会ったんです。長年地元から離れ、海外などのいろんな地域を見てきて、ここは何が他の地域と違うのかというのを考えた時に、ここが特徴的でめずらしいものがすごく多い場所だって気が付いたんです。そしたらすごく楽しくなってきた。あと、私が帰ってくるときに、Uターン、Iターンの人たちとたくさん出会ったのもあって、それもあって今とても充実しています。山に住みたいという思いもあったので、山形に住んでよかったと思っています。

Q.これから取り組もうとしていることはありますか?

この辺りに残っている文化的なものを絡めた企画をやっていきたいと思っています。この場所は海と内陸のちょうど真ん中なので保存食が発達していて、多様な保存食がある地域なんです。だから、保存食の料理のことをおばあちゃんから教えてもらうワークショップツアーをやりたいなと思っています。

うちの宿は「いつでも旬がある」がコンセプトなんです。お客さんに「いつが一番いいシーズンですか」とよく聞かれるんですが、目的によっていいシーズンというのは違ってくると思いますし、ここに住んでいる私たちは常にこの土地の良さを見て感じながら暮らしているので、それを伝えていくのが役目だと思っています。あと、せっかくここまで来てくれたんだったら、外に出ないのがもったいないなと思っていて。外に出る敷居を低くして、いろんなところを案内できたらと思っています。地域性みたいなものを感じてもらえると、「だから、ここにはこういう食文化があるんだ」とつながっていくと思うんです。そういうことを言葉で言うこともあるんですけど、一番はお客さんに感じてもらえたらいいなと思っています。

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冬場は、もんぺとちゃんちゃんこ、ぞうり姿でお客さんをお迎えする。

 

「からだはすべてを知っている」 東北の地でボディワークの未来をひらく

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経験と時間がすれ違った
トレーナー時代

僕は、メジャーリーグのトレーナーになることが目標だったので、大学卒業後はインターンで1カ月ほどアメリカに行き、その後、尊敬しているトレーニングコーチに紹介してもらった、神戸の整形外科で働き出しました。

そこの院長は、野球のチームドクターだったんですが、兵庫県は野球が盛んということもあり、一日中患者さんが絶えないほどとにかく忙しかった。

そこで経験を重ねていくと、「この人は肘を痛がっているけど、問題は下半身だろうな」とか、問題点が見えてくる。そうやって自分の目は育っていくけれど、忙しくてひとりの患者さんにかけられる時間は減っていく。それは自分が引き裂かれるような思いでした。それで、独立をしようと思ったんです。

歯車が噛み合い出す
ロルフィングとの出会い

そんな時、アメリカ在住のトレーナー・佐藤博紀さんが、大阪にセミナー講師として来ることを知りました。彼はトレーナーとしてすごい方で、ずっと会いたいと思っていた。だからすぐに会いに行って、「来年また日本でセミナーする時は教えてください」と言ったら、「10年間アメリカにいたけど、もう日本に戻ってきて活動するんだよ」と。「トレーナーとしてですか?」と聞くと、「ロルフィングっていうのをするんだ」と。

その時、「ロルフィングって何だ?」と思い、一度受けてみることにしました。そうしたら、自分のからだがものすごく変化したんです。僕はずっとヨガをやっていたんですけど、例えば「背骨を一個ずつ動かす」ということを、「きっとこういうことなんだろうな」と頭ではなんとなく理解していたけど、ロルフィングをやってみて、自分のからだでちゃんとできているという実感があった。ロルフィングは本物だと。求めていたものはこれかもしれないと、ビビビときました。

おもしろいのは、これまでメジャーリーグのトレーナーという目標に向けて行動をしても、なぜかうまくかみ合わなかったことが、一気にがしゃんとはまっていって、半年後にはもうアメリカでロルフィングの勉強をしていました。

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内臓やからだの声を聞く
ロルファー™の仕事

人のからだの形や姿勢って、楽器みたいなものなんです。楽器の形が違えば、音質や音色も変わってきます。だから、からだの形自体をちょっと変えてあげると、いつもとは違う質の動きができたり、違う気持ちになったりする。例えば、上を見上げれば気持ちが楽になるような。

人が生まれたばかりのころは、からだの感覚、もっと言うと内臓感覚に従って生きているんです。「おなかすいた」は胃が空腹、「うんちしたい」は腸が老廃物でいっぱいになったから出したいということだった。素直にからだからのメッセージや要求を聞いているんですね。でも、いつからか僕らは、頭でそれらをコントロールして、「しちゃけない」と我慢することを覚えるんです。

ロルフィングは、触っている人の頭に話しかけるのではなく、からだそのものに話しかけます。それで、生まれたばかりのころのようなからだの素直な反応が出てくるのを待ちます。

「からだはすべて知っている」というのが、僕のロルフィングの基本的な考えで、からだはちゃんと自分で整っていく術を持っているんです。それをさせない制限があったら、それを取り除いていくというのが僕らロルファーの仕事です。

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からだと重力とが調和の取れた関係にあると、動くことがいつもより心地良く感じられたり、からだの不調が改善されてきたり、からだの声が聞こえやすくなるという変化が起こる。

自分と一体化した肩書きや実績を
はがしていく作業

ロルフィングを学ぶ上で一番障害になったのは、昔の自分、トレーナーだった自分です。たとえば、「某野球チームが優勝したときに3年間トレーナーをしてました」、「ワールドカップでだれだれを世話していた人の友達です」という実績や人脈だったり。そういうことで自分を大きく見せていくのが、いいトレーナーだと思っていたんです。

でも、ロルフィングの授業では、人のからだを「ただ触ってください」と言われるんです。トレーナーだった僕は、せっかくだったら治してあげたいと思ってしまう。そういう思いがあるほど優秀だと信じていたから。だから、“ただ触る”ってことがなかなかできなかったんです。でもそうすると先生が後ろからきて、「自分を空にしてやりなさい」と。

肩書き、実績、資格、人脈も含めて“自分”になっていたから、肩書きひとつ取るのも、自分の身を引きちぎられるような感じですごく痛かった。僕たちは、そうやって自分の周りにある余計なものがすべてはがして、ロルファーになっていくんです。

「からだは自然だ」
本質を追求するために山形へ移住

神戸などの都市部では、頭が喜ぶことを優先されるところがあり、一種のステータスになっているところがありました。
だから、頭よりからだが本当に喜んでくれる本質的なことを、もっと追求したい、“からだは自然”と自分で言ってるんだから、もっと自然が多いところでロルフィングをやりたいと思って、山形県に移住してきました。

ここにきてから、“自然”の概念自体も変わりはじめています。神戸での自然は、整頓されたきれいなものだったけど、こちらの自然には厳しさもある。東北の信仰も、いろんな考え方が混ざり合っていて、それが文化なんですよね。この土地の流れや文脈の中で、ロルフィングができることってなんだろうと、今は東北でのロルフィングを模索しています。僕自身のタッチも変わってきていて、それはおもしろいところだなと。

山形県 ロルフィング 大友勇太 フェスタ rolfing festa

住む場所の選択肢は
もっと軽やかでいい

日本は、土地の縛りつけが、良くも悪くもあるなと感じています。ここで生まれたんだから、ここで暮らしていかなきゃみたいな。

アメリカでは、会社勤めをずっとしていたけど、自然に還りたいからコロラドに移り住むという人がよくいましたし、そういう人が気軽に借りられる家もたくさんあった。家を建ててもこの家に一生住もうと思っていない人が多くて、日本でいうと中古車の感覚に近い。ひとつの車に長く乗る人もいるし、昔からジープにこだわってずっとジープに乗る人もいるし、ころころ変える人もいる。住む場所もそういう選択肢があってもいいんじゃないかなと僕は思っています。

指先や手のひらを使うさまざまなタッチに、自分のからだがどんな反応をするか観察するのもロルフィングのおもしろさのひとつ。

指先や手のひらを使うさまざまなタッチに、自分のからだがどんな反応をするか観察するのもロルフィングのおもしろさのひとつ。

“からだに働きかける”ボディワークを
もっと身近な存在にするために

ヨガやピラティスなど、“からだに対して働きかけをする”ボディワークを、東北で仕事にしている人はいるけど、それだけで生活ができている人はなかなかいません。僕はそこにもうちょっと動きが出てくればおもしろいなと思っているんです。岩手の人に山形でやってもらったり、僕が青森にいったり、人がちょっと動くだけでも違ってくるかなと。何か特別新しいことをしなくてもいいから、ちょっと動く。

僕は最終的にはロルフィングだけをやりたいと思っているんじゃなくて、ボディワークに携わっている人たちみんなが、もうちょっと循環するようになって、この業界が元気になったらいいなって思っています。

「今回は整形外科にまで行かなくても、からだをちょっと動かしたら楽になりそうだからヨガを受けよう」とか、もうちょっと踏み込んで、気分でヨガじゃなくてピラティスを選べたりとか。ボディワークを、その時の自分のからだに合わせて気軽に選べる、みんなの身近な存在になったらいいなと思っています。

 

農家存続のため、牛肉店を起点に食の“流通”を変えていく

 

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着目したのは食の“流通”
農家が存続していくために

テレビ局を辞めて、お店をはじめようと思ったきっかけは、畜産農家の実家の弟が8年前に家業を継ぐことになったのが大きかったのかもしれません。うちはあまり裕福ではなかったので、幼い時から農家は大変だと思っていました。農家が今後存続していくためには、ある程度の収入がないといけない。

野菜だったら自分で値段をつけて売ることができますよね?だけど、お肉は衛生環境が整った施設で屠畜(とちく)・解体されないといけないという設備的な問題があるんです。加えて、値付けは“格付け”という全国一律の方法でおこなわれてしまう。一般的にあまり知られていない肉の流通ですが、値付けから販売まで、農家が思ったとおりにできれば健全な流通形態になるのではないか、という仮説からでした。でも農家には販売をする余力や営業力がなく、弟にやれやれと急き立てるのも違う気がしてきて、自分がするべきだと、だんだん思うようになっていったんです。

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お客さんの注文に合わせて、手際よくお肉をカットし小分けしていく。右胸の赤い丸いブローチは、店名の「あかまる」をイメージして地元の布アクセサリー作家・川和真紀さんが作ってくれたものだそう。

広島の短大を卒業した後、鳥取のテレビ局に受からなければ、東京か海外に行こうとしていたんですよ。東京は好きでちょくちょく行っていて。でも、地元テレビ局で働いたことで、出て行きたい一心だった鳥取のことを徐々に好きになっていったんです。経験がなくてへたくそなアナウンスを地域の人たちが聞いてくれて、さらに応援までしてくれたことが本当にありがたかったです。その恩返しをこれからしていきたいと思って、地元鳥取の倉吉でお店を開くことにしました。

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どのような世の中になっていくかを
見極めながら進めた起業の準備

まず、地域に密着している信用金庫からお金を借りました。信用金庫からこれに書いてくださいって事業計画書を渡されたんですが、それは履歴書に近い感じで、A3用紙1枚のものだったんです。でも、自分の中でもっと色々詰めて書きたかったし、融資を受けやすくするためにも、ネットでフリーの事業計画書のテンプレートの中から一番難しそうな15ページぐらいのものをダウンロードして書きはじめました。
この地域やまわりの郡部の人口や、地域別の肉の消費量を調べたり、あと売上計画の部分は、数年前から参加している経営塾で学んだことが参考になりました。

その経営塾では、月の売上と経費、人件費、光熱費などの固定費、仕入など、具体的な数字をとにかく1年分出すように、そうしたら次の年が見えてくると教えられていたので、1年間の数値目標をびっしりたてました。

小売りだから、1日の売上の差が激しいので、自店の商品の価格構成から客数と客単価を考えました。肉の部位は30以上あるので、それぞれにどのぐらいの評価をつけるか。まず、以前の職場の隣にあったお肉屋さんに何度も何度も通ってどう値段をつけているかをみていました。

あとは西と東とで肉の評価が違いますし、流行などもあるので、今後どのような世の中になっていくかを考えながら値段を決めていきました。値付けは、色んなことがまったく分からない状態で一番最初に決めなきゃいけない、その時すごく大事なことをこれから決めなきゃいけないんだなと思いました。
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対面販売でしかできないこと
価値を伝え、調理方法を提案する

うちは和牛が中心なので、スーパーマーケットなどよりも値段が少し高い肉を扱っているんですね。お客さんにそれなりのお金を使っていただくので、価値を伝えていくことが必要だと感じています。自分自身、料理をするのが好きというのもあって、調理方法も提案しています。対面販売でしかできないことですし、この店の強みだと思っています。

それは、うちで作っている惣菜なんかもそうで、これだけでひとつの商品でありながら、食べ方の提案でもあるんです。同じように、飲食店さんともたびたび連絡を取って提案しています。いい部位がありますよとか、こうして使うといいですよと提案していく、そういう信頼関係が必要ですね。今、自分が提案した調理のやり方を喜んでくださって、2店の飲食店さんが「和牛の炭火焼き」を提供してくれているんです。

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流通への問題意識を根底に、
農家とお客さんをつなげていく

どこに問題があって、どうやって流通を変えていくのかという問題意識は常に根底にありますが、まず今は、お客さんと農家さんをつなげていくことが大事だと思っています。

お店のオープン時に開催したレセプションパーティでは、来てくださった方々に農家さんを紹介したり、『ある精肉店のはなし』という生産者を紹介している映画上映会をやったり。また、自分で新聞も作っています。1号目は私の実家である和牛農家の記事ですが、これは徐々に豚、鳥、野菜などの他の農家さんのものも作っていこうと思っています。この規模では大きいことはできないけれど、お店がこの地域のどういう存在になっていくかが大事で、イベントや上映会で、お客さんとのつながりを強めていき、一方で農家さんたちともつながりを深めていけたらと思っています。

そんな思いもあって、昨年(2014年11月)、お店の隣に飲食スペースをオープンしました。お客さんの滞在時間が長くなることで、店の顔でもあるショーケースを見ていただく機会が増えるというのが大きな狙いです。それによって肉のこと、農家のこと、店の姿勢など、トータルでお客さんの理解を得ていけたらいいなと思っています。みんなが素通りしていたこの場所にお店ができると、役割が生まれるんですね。今はその役割に徹することが大事だと思っています。

真ん中に貼られているのは、鳥飼さんが制作している新聞。一緒に、愛情がこもったたくさんの手書きのお知らせも。

中央に貼られているのは、鳥飼さんが制作している新聞。一緒にたくさんの手書きのお知らせも。

大きな課題解決のために、
“事業”として取り組む

僕が店をやろうと思ったきっかけは、農業や畜産業の流通を変えていかなきゃいけないと思ったことがはじまりなので、自分だけ儲けたいとか自分だけ食べられればいいという感覚ではなくて、事業なんです。自分の実家の畜産だけよくなっても問題は全然解決されない。もっともっと大きな問題のはずなんです。

だからこの地域に限らず、もっと広い単位で考えていて、今後は商圏も都心や海外に目を向けてやっていきます。でもまずは、食べる側の人が分かってくれないと意味がないので、飲食展開も必要と考えています。お肉をもっと違うアプローチでおもしろがってもらって、おいしく食べてもらえたらいいなと。お肉はもともと西洋文化だから、日本人が知らないことは多いんですね。惣菜料理も徐々に増やしていって、お客さんにどんどん提案していきたいですね。031

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