見えないものが、見える世界を支えている。料理家・高山なおみさんが語る、体の言葉。記憶の話。
見えないものの向こう側
ぐーんと角度をつけて、長い坂道を車が登る。神戸の街や港を見渡せる高台に立つ建物の一室。チャイムを押すと、高山なおみさんが柔らかな声で出迎えてくださった。玄関から廊下の先に見えるお部屋のつきあたりには、大きな窓があり、レースのカーテンがパタパタとなびいている。外の強く明るい夏の日差しで火照る顔に、吹き抜ける風が気持ちいい。
「あぁ、ここですね」、窓辺で思わず声をあげた。
高山なおみさんと、画家で絵本作家の中野真典さんによる絵本『それから それから』の一場面そのままの風景が広がっているのだ。
『それから それから』には、日常の風景にも、災禍の只中にも、祝祭の宴にも、確かに息づいている人や生き物の営みが描かれている。
この絵本は、高山さんが見た、ある夢から生まれた。
「夢の中で、私はラジオから流れる歌に耳をすましていたんです。それは、かすれた女性の歌声で、聞き覚えのある昔の流行歌のようでした。
サビって言うんでしょうか、『それから それから』と歌詞を、繰り返し歌っていました。『あぁいい歌ねぇ』、そんな風に思いながら耳を傾けているうちに、気がついたんです。これは、受胎の物語を歌っているんだって。女の人の体に生命が宿るその瞬間、その人はぐるぅと、海に重なったり、空に重なったり、地に重なったりしながら、それそのものになっていくんです。海や空や地の粒のひとつになるみたいに。そしてここに戻ってくる。そういう歌だったんです」
「夢の話ですから、何でもありですよね」高山さんはそう微笑みながら、「でも私、昔から夢をよく見るし、夢のことを大切にしているんですよ」と付け加える。そして、夢の中の歌は、現実にある歌ではないけれど、その歌声は耳に残り、目覚めた後も口ずさむことができたという。
2年前、印象的だったこの夢の話を、高山さんは中野真典さんに話した。
「七夕の頃だったと思います。雨が降り続いて、関西空港が水浸しになったことが大きなニュースになった、そういう時があったんです。この部屋から窓の外を見ても、大雨で霧が立ち込めたように真っ白で、目の前の建物も何も見えないような日でした。私の家にいらしていた中野さんが、長い間2階から降りて来ない。見に行くと、正座をして、そこにあった束見本(*)に絵を描いてらしたんです。お茶でもどうですか?と声を掛けても、今は結構ですって」
(*本をつくる際、大きさや紙の厚み、形状がわかるようにつくるサンプル冊子。何も書かれていないためノートのようでもある)
その時、中野さんが描いた絵が『それから それから』の元となった。
雨のせいで帰れなくなった中野さんは翌日も、次の場面、また次の場面を描き続け、描き上がった絵を見て、高山さんは言葉をつけた。
そこから絵本として『それから それから』が生まれるまでの間、言葉はさまざまに変わっていった。中野さんの絵に呼応して言葉が変わり、言葉に呼応して絵も変わっていった。そうして、変化を繰り返す中で、最後まで入れるかどうか、迷った一文があるという。
「『みえないものたちが みえるせかいを ささえている』っていう言葉を入れようとしていました。『それから それから』はそういう物語なんです」
そして、高山さんの子どもの頃の話に移っていく。
脳みそから出てくる言葉でなく、
“体の言葉”を使いたい
「私には、“見えているものだけで、この世界ができているわけではない”って思いが、小さい頃からあったんです。学校の先生って、ハンカチを忘れたら怒ったり、表面的なことばかり気にするでしょ。どうしてそれしか見ないのかなって。
そんなことよりも、この世界は、もっといろんなものでできているのにと、思ってました。言葉にはなっていなかったけれど、私の中には、木や風やそういうものと友だちだと感じたり、猫と会話はしなくても通じ合っているという実感があって、そういう“見えないものを見ること”、“見ているものの向こう側を感じること”が得意でした」
だから、誰かに「早くおいで」と呼ばれても、道端にいる虫を見たり、草を味見したり、なかなか動かない子だったという。
「じーっと見ていると、わかるものがあるでしょ。雨が降ると、葉っぱの色が濃くなるなとか、匂いがするなとか。そういうことって、おもしろいし、どこか自分の体に近いと感じるんです」
でもその思いは、言葉にしようとすると、言葉には収まりきらない。
「だから、言葉が遅かったんだと思います。私には双子の兄がいるのですが、兄は3歳の頃にはすっかりおしゃべりになっていたのに、私はなかなか言葉を話さなかった。話す必要がなかったくらい、じーっと見ていたんじゃないかな、この世界のことを」
感じていることを伝えるのに、ちょうどいい言葉がないと、口が止まってしまうのは今も同じだと高山さん。
「どこか別のところから持ってきた言葉ではなく、自分の体に近い感覚の言葉を使いたい。私にとっては、体と言葉とがぴったりであることは、とても大切なことなんです。話をするとき、自分の“感じ”にぴったりの言葉がないと、咄嗟にごまかしてしまうようなこともあって。それが時々すごくもどかしくなります。私が、日記や絵本を書くのはそのせいかもしれません。
体の感覚にぴったりだと感じる言葉を、探して、探して、書くことができるから。それに、そういう“体の言葉”は、普遍的なものと近づくのではないかと思うんです。体は誰もが持っているから、同じ感覚を共有することができる。だから、脳みそから出てくる言葉ではなく、体の言葉を探すのだと思います」
大好きなものがあると、
そのものになりたくなる
じーっと見る。そして、見ているものの向こう側を感じること。そのことは、高山さんの言葉と同様に、料理にもしっかりと繋がっている。
「野菜って、同じ野菜でもみんなそれぞれ違いますよね。だから、きゅうりにしても、茄子にしても、買ってきたものをじーっと見て、触ります。それで、水分がどういうふうに入っているかなとか、どうやったらおいしいかなと、イメージする。それも、見ているものの向こう側を感じるってことなんだと思います。
例えば、おいしい茄子はこういう茄子だって、料理本に書いてあったりしますよね。それを頭に叩き込んだって全然だめだと思うんです。茄子が目の前に並んでいても、それらは全部同じ“ただの茄子”とはならない。一つひとつ違うから、よく見て、触って。それから、匂いを嗅いで、味をみて、感じることです」
そうして、見ているものの向こう側を感じようとすることを、高山さんは「自分を手放す」と言う。
「自分を透明にして、ゼロにする。自我のようなものから離れて、そのものに身を委ねる。そうすると、見えてくるものがあるんです」
時として人は、物事を自分の見たいように見る、感じたいように感じるということがあるように思う。でも、目の前にあるものを本当に感じたいと願う時には、自分の考えや先入観、自我さえも差し挟むことなく、感じて、まっすぐに捉える。その先に見えてくるものがあるのだなと、改めて高山さんの言う“見ているものの向こう側を感じる”という言葉の意味を味わった。
同時に、誰もが“感じる”ことはできるはずなのに、自分の感覚よりも本に書いてあることを手がかりにしてしまうのはなぜだろうという疑問が湧く。そのことを高山さんに尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「体で感じて捉えたものは、自分の “記憶”となります。その記憶を信じることができるか、できないかということかもしれません。信じることができないから、本に書かれていることや、ニュースや人の言葉ばかりが頭に入ってくるんじゃないでしょうか」
じーっと見る。触る。匂いを嗅ぐ。味をみる。自分を透明にして、身を委ねる。
そうやって高山さんが、 見ているものの向こう側を感じることは、「一体になりたい」という思いとも、繋がっているという。
「ある編集者の方に、『食べるように本を読みますね』って言われたことがあるんです。その言葉を聞いて『本当だ、言葉を食べるように入れている』って思いました。本も、映画も、歌でもなんでも。何かを本当に好きになったときは、体に入れる感覚がある。武田百合子さんの文章が大好きで、『富士日記』は、何回も、何回も読みました。読むと『この文になりたい』って思うんです。文ですよ。おかしいんだけど、好きで、好きで、仕方なくなると、そのものになりたくなる。一体になりたいんです。
母に聞くと、子どものころは大好きな絵本があると、紙を本当に食べてたみたい。『ちびくろサンボ』の話が大好きで、体ごとその世界に入りたい、記憶に留めたいって思ってたんですね。だから、じーっと見るんだけど、それでは間に合わなくて、紙を口に入れてしまう。食べないと“留まらない”、そんな感じがあったんでしょうね」
母との別離から考えた、
死と、記憶のこと
そこからお話は、昨年の夏に亡くなった、大好きなお母さまのお話になっていった。
「亡くなる前、姉と交代しながら母の病室を訪れていたんですが、行くとずーっと母のことを見てました、ずーっと。おもしろいなんていうと、すごく変なんだけど、どうやって人はこの世から離れていくのか、それを見ているのは、おもしろいことでした。
90歳ですから、自分の体を使い切って、だんだん世間的なことから離れていく。毎日見ていた大好きな朝ドラも見なくなって、聖書も読まなくなって。人は、最後は食べることと排泄だけになっていくんだな、そういうことも母を見ていてわかりました。食べられなくなると、流動食を食べようとして、それも食べなくなると、アイスクリームになって、水になってーー。そうすると、体がどんどん透明になっていく。食べ物を食べているときは、体に生々しさがあるんだけど、だんだん透けるようになって、目もきらきらとしてきて、赤ちゃんみたいになっていくんです」
それまで、人が死ぬということはどういうことなのか、わからなかったと高山さん。でも、お母さまとの時間は、死を「自分のこと」としてくれたという。
「息をひきとったとき、母はとってもかっこいい顔をしていました。看護婦さんが体をきれいに拭いてくれて、お化粧をしてくれて。実家に連れて帰って布団に寝かせてからも、何度も触りに行きました。本当は横で一緒に過ごしたかったんだけど、クーラーがガンガンに効いているから、寒くていられないんです。それでも、時折触りに行くと、だんだん体は固くなっていく。でもね、燃やすまでの3日間、耳たぶだけはずっと柔らかかった。
体って、母の魂が入っていたものだから、体も母だと思うんだろうか? それとも魂が抜けたら母じゃないって思うのかな?ってそういうことがわからなかったんだけど。亡くなってしばらくは、まだ母だなって思いました。動かないし、びくともしないし、顔もだんだん変わってきているんだけれど、血は通ってなくても細胞は生きている。そういうことが触るとわかる。でも、ある時から、もう母じゃないって思ったんです。体が入れ物のように感じて。それで、放っておくと腐っていくんだから、燃やしてお別れをするのは、当然だなって思いました。もちろん泣きます。けれど、それは悲しい涙じゃない。納得をしてお別れをするという感じがありました」
お母さまと過ごした最後の日々のことは、高山さんの当時の日記『日々ごはん』にも記されている。それらを読んだ時、お母さまへの目線の率直さ、包み隠さない描写に驚いた。そう高山さんに伝えると、高山さんは即座にこう言った。
「残酷なんだと思います。でも“じーっと見る”“感じる”ってそういうことだと思う。見逃さず、観察する。それはさっきの大好きな本の文を、“自分の体に入れたい”と感じることと同じことだと思うんです。母の目つきとか、ふとした時の表情とか、現実とそうでないことの間で混乱する様子とか、全部覚えています。そして、その記憶は私の血肉になっている。そんな感じがするんです」
わからなかった「死」に対する、気持ちは少し変わったりしましたか? そう質問すると、高山さんは今もちゃんとわかっているわけではないけれどと言いながら、こう話してくれた。
「本当にいなくなるんだなって。それは、想像していたよりも、“もっといなかった”です。よく亡くなっても、まだここにいると言ったりしますよね? でも私は、今もここにいるとは思っていない。母は、完全にこの世からいなくなったってことがわかりました。でも、だから私は記憶に向かって、毎日話しかけてるんです。よぉく残っている、記憶に向けて」
高山さんの話を伺っていると、まるで高山さんは、そとの世界と体で“交信”しているような人だと感じた。体を受信機のようにして、感じ、取り入れ、体を介して発信する。料理も、言葉も、そうした“体の記憶”から生まれているようだ。
神戸に引っ越して来なければ、絵本『それから それから』はできなかったと、高山さんはいう。そして、神戸に引っ越してきたことで、使ってもいいと感じる言葉の語彙が増えたとも話してくれた。それは、もしかしたら新しい街で、たくさんの新しい記憶を蓄えているからだろうか。
絵本は、高山さんの部屋の窓の景色とそっくり同じ神戸の街の絵とともに、「わたしは ここに」「おはよう」という言葉で結ばれている。
「ここ」にきた「わたし」は、これからどんな1日を始め、何を生み出していくのだろう。高山さんと、絵本の言葉とを重ね合わせて、そんなことを思った。
“本当のところ”から出てきたものは、人を、自分を、揺り動かす。詩人・岩崎航さんの、生活から立ち上る詩
分かちがたく
重なっている心と体
現代に生きる私たちは、心と体が繋がっていることを頭で知ってはいるが、つい分けて考えてしまう。たとえ心が体を通して声を発していたとしても、気付かなかったり、頭で考えることを優先させて、見て見ぬふりをしてしまうことも多い。でも、岩崎航さんは違う。
「心と体が重なり合っていることは、ダイレクトに、かなり“露骨に”感じます。
これまで、体調はさまざまに変化しましたが、今は病気を抱えて生きるなりの健康、生活ができる最低限の穏やかさがあります。でも、すぐには解決できないことを思い悩んだり、心の中で悶々と考えることがあると、体の具合が悪くなってきます。頭痛がすることもありますし、胃に直接、経管を用いて栄養を送るのですが、そうした水分を入れようとした時に入れづらくなったり、吐き気の症状が現れることもあります」
心の声はダイレクトに体に作用するため、体を整えようとするときは心にも働きかける。
「体調が悪くなると普段の暮らしができませんから、自分に合う薬などで対処します。でも、解決することのない、離れようにも離れられない悩みについて一人で考えていると、体調を戻すことができず、自分自身がまるで回転しながら落ちていくような気がするんです。そういうとき、私は人と話をします。話したからといって、悩みが解決するわけではないですが、話すことで、問題を抱えながらでも生きていくことができると思える。人と関わることにより、病気や障害に飲み込まれずに、自分の人生を生きることができるのです」
岩崎さんは、著書『日付の大きいカレンダー』のなかで、“病”と“病魔”とは、まったく別もので、闘病というのは“病”と闘うことではなく“病魔”と闘っていくことだと語っている。そして、自分にとっての闘病とは、“自分のいのち、そして自分の人生を生ききることを妨げようとする何ものかと闘い続けていくこと”だという。
その闘病において、側にいて話を聞いてくれる人の存在が、大きな力になっている。
しかし、はじめからそのように感じていたわけではなく、10代後半から20代半ばの頃は、引きこもりに近い状態で孤立した時期を過ごしていた。何日もの間、話をするのはほぼ家族だけという状態が続いたこともあったという。
「家族以外からの介護も受けようと考えました。訪問介護であったり在宅医療であったり、人と関わっていくよう、自分で仕向けていったんです。将来、両親も年齢を重ねていくことを考えると、家族しか介護ができないのでは、いずれ立ち行かなくなるという思いもありました。それに、いろんな人と関わって、いろんな経験をして生きていくのが人生だと思ったのです。人と関わることで、前向きになり、自分の暮らしを生きていける。生活が立ち上がっていくと感じます。
久しぶりに人の手を借りて外に行くと、街の外気感というのか、空気や光など外の世界からすごく強いものを身に受けます。そういうことを体感すると、みんなはこういう中で生きているんだなと感じる。これは、一人ではなかなか感じることができません。人と関わったことによって得られる実感だと思うのです」
関わりの海
そこで生きるのが
全てなのだと思えてきたら
なんだか人に
会いたくなった
詩は“生きていく”という方向に
歩むための、闘う力
岩崎さんは、20代前半、“気が狂いそうなほどの”辛い時期を過ごした。
「4年もの間、僕は激しい吐き気の症状に襲われ、病気に飲み込まれるようでした。あまりの苦しさに、生活の一切が覆い尽くされ、何かをしようとする気力が吸い取られてしまい、がんばれと言われても、その一歩手前で、動くことができませんでした」
吐き気の症状の要因は、今考えれば、自分の先行きへの強い不安、思うように外に出られない不自由さ、深まっていく孤立感などからくるストレスによるものだったのではないかと、岩崎さんは振り返る。なぜ、その症状が落ち着いたのか、具体的な理由はわからないというが、何もかも難しいと感じてしまうようなときは、ただうずくまって嵐がすぎるのを待つしかないというのが、岩崎さんの実体験からくる言葉だ。その嵐が過ぎた後、岩崎さんは詩を書き始めた。詩がことさら好きだったとか、得意だったためではない。一日のすべてをベッドの上で暮らすなかで、自分にできることとして浮かんだのが詩の創作だった。
そして25歳からはじめた詩は、今、岩崎さん自身を支えている。
「私が詩を書くのは、穏やかに暮らしたい、生きたいという、誰しも感じることの延長線上にあることです。誰かに言われたからやっているのでも、ましてや“修行”でもありません。
暴風雨のように激しく吹き荒み、ひっくり返るような状況を、工夫や努力、外部からのケアによってなんとか穏やかなものにしていく。そして、そこでの実感や日々の生活を詩に書き上げることができたなら、それが私の生きる寄す処(よすが)となります。そして、“生きていく”という方向に歩むための、闘う力になるのです」
自分にも
やれることがある
その光は
離さずに
いたいと思う
“本当のところ”から出てきたものは
人を、自分を、揺り動かす
岩崎さんの詩からは、自らを奮い立たせるような力強さや、エネルギーを感じる。そう伝えると、岩崎さんからこんな言葉が返ってきた。
「詩を書くとき、明るくて前向きな、わかりやすい表現を使うこともできると思います。でも、本当に苦しいとき、絞り出すように出てくる表現をそのまま目の前にぽんと置く。それがたとえ、何の救いもなさそうなものであっても、心と体で感じた“本当のところ”から出てきたものは人を揺り動かすと思うのです。同様のことを、私は画家の香月泰男さんの『シベリア・シリーズ』という作品に感じたことがありました。彼のその作品は、一見すると真っ黒で、ただ絶望や苦しみを目の前に置いたというもので、言葉にならない、言葉では整理しきれない表現でした。でも、それは彼の奥底から出てきたものだから、私の心を揺り動かし、支える力になった。私がそう感じたように、私の詩もまた、そんなふうに誰かに受け取ってもらえたのなら、それがまた私の力になります。そういう詩を書いていきたいです」
また、岩崎さん自身も、過去の自らの詩に力をもらう。
「自分の詩を読む。その詩は、私が書いた本人ではあるけれど、送り出した瞬間に私の手を離れていきます。そして、何年か後、苦しみがあるときに読み返すと、状況は違っていても自分を励ましてくれるんです」
それは、きっと岩崎さんが、ごまかしたり、諦観したりせず、そのままの自分を見つめ、“本当のところ”から出てきた言葉を綴っているからだろう。
「困難な局面に対峙する経験が、世の中に向けて何かを書こうという気持ちに繋がりました。もし私が書くことをしていなかったら、今のような心境ではいられなかったと思います。言葉になりきらなくても、とにかく言葉に出す、伝える。そうすることで、心が暗澹としたところから整う。それは整理されるとか、スッキリするという類のものではありません。ただ、何か内向きであったものが、一歩外に向かって歩みだすエネルギーになっているのです。
“生存”するだけなら、それに必要な最低限のものがあるでしょう。しかし、そこに生活というものがあってはじめて、生きている手応えが湧いてくる。私は、その手応えから詩を書いています」
どんな
微細な光をも
捉える
眼(まなこ)を養うための
くらやみ
あなたがそこにいる。
そのことが誰かを支えている
授かった大切な命を、最後まで生き抜く。
そのなかで間断なく起こってくる悩みと闘いながら生き続けていく。
生きることは本来、うれしいことだ、たのしいことだ、こころ温かくつながっていくことだと、そう信じている。
闘い続けるのは、まさに「今」を人間らしく生きるためだ。
生き抜くという旗印は、一人一人が持っている。
僕は、僕のこの旗をなびかせていく。
エッセイ『生き抜くという旗印』の一節だ。
「生き抜くという旗印は、一人一人が持っている」。そう語る岩崎さんは、病や障害を持って生きる一人として、近年の恐ろしい事件や差別的な発言に対抗する言葉も、今、伝えるべきもののひとつに加わってきたという。
そして、昔から日本にある「人に迷惑をかけない」ことを美徳とする考えが、行き過ぎてしまうことに危機感を募らせる。
「たとえば事故や大病などによって、今までできてきたことができなくなったり、これまで通りに生活や仕事ができなくなったときに、“人に迷惑を掛ける人間になってしまった”というふうに考え、人間としての価値が下がったような気持ちになってしまうことは、誰にでも起こりえます」
私自身もそういう思考に陥ることがあると、岩崎さんは語る。しかし、そこから踏みとどまりたいという。
「病気や障害があるかどうかにかかわらず、人は、誰もが、何らかの形で、人に助けてもらって生きていかなくてはならない。そして、その人がそこにいるだけで、誰かの生活が立ち上がるということがあります。関係性が生まれるんです。何かができるから価値があるわけではなく、そこに存在している、ただそれだけで人に影響を与えているし、そのことによって誰かを支えているのです。
ですから、病気があるかないかに関わらず、自分で自分を否定したり、人から自分を否定されたりすることはあってはならないことだと思っています」
誰もがある
いのちの奥底の
燠火(おきび)は吹き消せない
消えたと思うのは
こころの 錯覚
岩崎さんは、外に向かって窓を開け、人と関わり、心に滞りそうになる思いを詩という形で外に放つ。お話を伺って、彼の詩から受ける力強さは、暗闇に身を置いているように感じるときも、その暗さから目を背けず、なんとか光のある方に体を向け、踏み出そうとする心の動きに触れるからではないかと思った。
この世の中に、岩崎さんの詩があること。その詩に出合えたこと。そのことに喜びと心強さを感じながら、お話を終えた。
※本記事中の岩崎さんの五行歌は著書『点滴ポール 生き抜くという旗印』(ナナロク社、2013年)より引用しています。
心と体で見えないものを「さわって、探る」想像力を。医師・稲葉俊郎さんインタビュー
「違和感」からはじまった医の探求の旅
稲葉さんは循環器系を専門とする医師として、「からだ」だけでなく、「こころ」や「いのち」をめぐる思考を続けてきた人だ。医療とは本来、病と闘うだけのものではない。しかし、ともすれば目に見える症状を治すことのみが、いま私たちの「健康」を考える基準になっていないだろうか。稲葉さんはそこで、「そもそも健康とはどういうことか」に立ち戻った結果、必然「こころ」や「いのち」が思考のキーワードに加わった。そのきっかけとなった出来事はあったのだろうか。
「常に大切にしてきたのは〈違和感〉ですね。たとえば、医者を目指して医学部で授業を受けていたときから『これは自分がなりたいと思う医者のイメージとは全く違うことをやっているのでは』と思うことが、少なからずありました。私は自然やいのちというのは本来すごく多様で、広く深いものだと思っています。しかし医大ではその一部だけを取り出して学ぶことで、完結しているように思えたのです。
たとえば食の問題ひとつとっても、東洋医学にも食に深く関わる領域があり、マクロビ、玄米、断食などもからだやこころと奥深い関係があります。でもそこは学校で質問しても明確な答えはもらえず、または自分たちの尺度で『エビデンスがないよね』と片付けられてしまう。しかし私は本来、医者ならば自分で調べ、考えた上で『あなたにはこの選択が向いているはず』と相手に伝えたいと思ったのです」
そこで稲葉さんは、医師国家試験に合格し、現代医療の場で働き始めてからも、様々な領域を学び続ける。西洋医学を礎としながら、東洋医学や民間療法、代替医療などにも目を向けてきた。それは、与えられた資格とはまた違う、自分が目指す医者としての「資格」を問い続ける日々でもあったようだ。「でも、それを本気でやったら一体どれほどの時間がかかるのか……と不安にはなりませんでしたか」と聞くと、稲葉さんは微笑みながらこう答える。
「私の場合、そこは不安より〈もっと知りたい気持ち〉が勝ってしまう感じです。将来のためだけでなく、やっぱり、新しいことを知った時の感動や、そうした発見を通じて自分が更新されていく感じが好きなのでしょうね。そして、それらは結果的に、だんだんとつながってもいく。私は『医療と芸術はどちらも、人間が〈全体性〉を取り戻すための営みである』と考えます。それぞれが歩んできた人生のプロセスにおいて、一見すると関係や意味がないものも、ライフサイクルを通じて何らかの形で統合されていく。全体性とは、そうしたことも含むお話です。そして、自分自身でこの星座を読み解き、人生のなかで解釈していくのはとても面白い作業ですよ」
自分の中の、
こころとからだの星座を読み解く
自分の中でもまだ見えていない、あるいはばらばらなものを「星座」として読み解く。そこでは「科学か芸術か」を超えて、人間の想像力が活かされるというのが稲葉さんの考えなのだろう。
「見えないものを補い、自分の中で統合していくのは、やはり人間に与えられたイマジネーションという能力でしょう。私は多くの物事について、正面からさわって手を延ばしていくと、裏側とつながっていると思える感覚があるんです。そうして『さわって、探る』想像力も使いながら、全体性をつかんでいく。たとえば、病院勤務と同時に続けてきた訪問医療などでもそうですが、表面上はとにかく怒っている人がいて、でも色々探っていくと、裏では深く悲しんでいたことがわかる。または、ある人がなぜ不整脈や過呼吸を起こしたのか謎だったのが、実はとても理にかなった〈からだ側の理由〉があったケースもしばしば見られます。その意味では、言葉だけを信用してはいません。
野山で植物の葉の付き方などをじっくり見ると、そこに真理の表現を感じることができます。光の当たる方向や水のとり方、土のありかたなど、複雑な関係性の中で最適化がなされている。さらに周囲では皆がある意味平等に、各々の場所で最大限の生き方をしていて、かつ全体として調和している。同じように、からだのさまざまな反応には、何かしら理由があるものです。そしてこのことは、私が〈いのち〉に抱くある種の信頼感につながっています」
ただ、医療の場を訪れる人の多くが心身の困りごとの解決を求めるのに対し、芸術を求める人々は、体調管理や治療のためというより、表現にふれる体験自体を愛する人々も多いのではないか。こう考えると、芸術と医療はやはり違うような気もするが、稲葉さんの中ではどうつながってくるのだろう。
「そこがまさに、私が学生時代に感じた〈違和感〉の先にあったものだと思っています。現代医学は、いわば〈病気学〉であり、病気の治療についての研究や勉強をひたすら行ってきました。でも私はずっと、『人間が健康である』とは本来どういうことかを学び、活かしたかったのだと思います。『病気がなくなったから健康になる』ではなく『健康になったから病気がなくなる、または気にならなくなる』ということもあるのではないか。
これは、ただ現象をひっくり返しただけのようで、方向性は全く違います。病気を治すことだけを第一に考えると、症状は消えたのに体調がすぐれない、というような人たちに応える術がない。でも私はそこにも応えることが大切だと思うし、だからこそ『健康になるとは、調和とはどういうことか』を考えたいのです。もしかしたら、病気と健康が両立し得る領域さえあるかもしれません。こう考えると、芸術がただ困っているから求めるものではないのと同様、医療にも病と闘うだけでなく、本来の健康や調和を求めて人々が集う場が必要だと思います」
稲葉さんはこうした考えを、著書『からだとこころの健康学』(NHK出版、2019年)に綴っている。とてもわかりやすく読める本だが、実は20年ほど考えて続けていたことが、最近ようやく自分の言葉になったと話してくれた。論旨明快、頭脳明晰な印象の稲葉さんでもそこまで時間がかかるのかと意外に感じる一方、私たちもそれぐらい、じっくりと考えるべき/考えていいテーマなのだとも思わせられる。
「いのち」というフィロソフィーを
共有する場を
こうしたお話は、稲葉さんが今回「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2020」の芸術監督を務めることともつながっている。医療従事者が芸術監督というのは、近年各地で盛んな芸術祭の中でも異例の人事だが、契機はやはり、医療と芸術をつなぐ場から生まれた。
「きっかけは、香川の丸亀市猪熊弦一郎現代美術館を通じてのご縁です。猪熊さんは作家としての晩年、『美術館は心の病院だ』と仰ってあの美術館を設立しました。私はそのことに感動し、それを知った同館がシンポジウムへの登壇に誘ってくださったのです。シンポジウムでは、猪熊さんの言葉同様に、実際の病院も新しい可能性が交わり得るはずだというお話をして、そこで中山ダイスケさんと出会ったんです。しばらくして、山形ビエンナーレのお話をいただきました。私もかねてこうした芸術祭ができないものかと思っていたので、渡りに船というか、ぜひやらせてくださいとなりました」
しかしその後、まさに医療も芸術も含めた社会全体を襲った新型コロナ禍によって、同ビエンナーレも重要な判断を迫られることになった。従来のように各地からの訪問者を山形に迎えるのではなく、初のオンライン開催を決断することになったのだ。
「大変な調整と決断でしたが、私はとても嬉しかったんですね。今回は見送ろう、という選択肢もあり得た中で、実現するための方法を皆さんが共に考えてくださったからです。これから先、私たちがどう進んでいくか、その後ろ姿を次の世代に見せたいという意見もありました。この人たちと一緒なら新しいことができると、いま改めて思っています。
完全オンライン制でも失われない価値が、ここにはあると信じています。一例を挙げれば、私自身がずっと感動させられてきた、詩人の岩崎航さん(1976年生まれ。進行性筋ジストロフィーを抱え、経管栄養と人工呼吸器を使う暮らしの中で詩を創作している)の参加。彼はご自身の人格を賭けて表現に挑んでいるような人で、しかしこれまで芸術祭という場に登場する機会はありませんでした。それが今回、映像を通じて彼に参加していただけた。このことだけでも、皆さんの心が動くような全く新しい〈通路〉がつくれるのではと思っています」
心が動くといえば、心臓の鼓動で演奏するパフォーマンスなどで知られる山川冬樹のような、自分自身が表現媒体であるような作家たちの名前が並ぶのも印象的だ。美術、音楽、パフォーマンス、食、レクチャーなど多様なオンラインプログラムが用意されているが、参加アーティストを決めるうえで大切にした観点は「ジャンル分けしにくい人」だという。
「いずれも『どういうことをしている人?』と聞かれたら、『その人というジャンル』としか言えない表現者たちです。アーティストの全身全霊の行為から取り出した表現を、ある種の果実として〈作品〉と呼ぶことはできる。でも本来、そうした果実をもぎってアートと呼ぶよりも、彼らの人生やその軌跡自体が創造物であり、〈その人〉という大木、あるいはその根や土までも含めたものをこそ、アートだと考えたいのです。今回はそういう作家たちと準備をしてきたので、ぜひ体験して頂けたら嬉しいです。
私はこの芸術祭で、医療と芸術が交わる深い部分について、改めて読み解き直そうとしています。出発点にして目指すところでもあるのは、コマーシャリズムや権威とも異なる形で、一人ひとりに固有の健康を回復する、未来の養生所になること。〈いのち〉に対して開かれ、〈いのち〉というフィロソフィーを共有する場をつくりたいという想いでした。もともと私にとっての芸術がそういうものでしたし、芸術“祭”をやるならばなおさらです。このテーマを中心に、いわば曼荼羅のように全体性が描ければいいなと思っています」
最も身近で特殊な
「あたま」との付き合い方
ところで、「こころ」「からだ」「いのち」の関係を考えるとき、私たちは自分の「あたま」も意識せざるを得ない。たとえばコロナ禍以降、私たちは毎日のように「今日は陽性者が何人だった」などの「目に見える」情報を気にし、危険や安心を可視化することに躍起になっている。そこには利点もあるけれど、見落としていることはないだろうか。一方で稲葉さんからは、目に見えないものも含め「全体」をとらえようという思いが感じられた。簡単ではないかもしれないが、大切なことではと思う。
「そこに関連して言うと、私たちの〈あたま〉からの声が主に『こうすべきだ、こうせねばならない』という命令形でプログラムされているとすれば、〈こころ〉の声は命令形ではなく『こうしたい、これが好き、楽しい』というものではないでしょうか。そして、人間の〈あたま〉は重要な部分であると同時に、かなりの異物だと私は思います。私たちの〈からだ〉の営みは、神経のパルスのやりとりから内臓の働きまで、99%以上が無意識の領域で行われていると言える。全てを意識で制御していては〈あたま〉が保ちませんから、見方を変えると、これはからだ側からの思いやりかもしれません。
ですから、私たちが〈あたま〉由来の言葉に従いがちなのはある程度仕方ないとして、自分の〈からだ〉や〈こころ〉への思いやりでバランスを保てると良いでしょうね。これは、自分自身に支配されない感覚にもつながると思います。世阿弥の言う『離見の見』(演者が自らの身体を離れた客観的な目線をもち、あらゆる方向から自身の演技を見る意識のこと)ではありませんが、自分という存在がこの世界にどう位置付けられているか、をきちんと把握することも大切でしょう」
稲葉さんは著書『いのちは のちの いのちへ』(アノニマ・スタジオ刊、2020年)の中で、これからの個と社会を考えるうえで、「中動態」という言葉にふれている。日常感覚で言うと、「能動態(〜する)」の対概念は「受動態(〜される)」になるけれど、古代ギリシアにおいてはそこに「中動態」という考え方があったという。
「〈中動態〉とは、自分の行いが自分自身に及ぶものを指します。たとえば『他者を思いやる』のは能動態で、『思いやられる』は受動態ですが、もともとは中動態としての『自分の中での思いやり』『自分への思いやり』もある。これは〈感動〉や〈謝罪〉などにおいても同じことが言えて、人それぞれ自分のなかで愛や思いやりが循環して、いわば土や養分から何かが生まれていく。そう考えれば、これは究極のエコシステムだとも言える。そういうことをもう少し考えようというのも、私の提案したいところです」
最後はちょっと難しい話になってしまいましたね、と笑った後、稲葉さんはこう付け加えてくれた。
「でも私は、こうしたことすべてを楽しんでいます。基本的に、生命の欲求というのは『楽しくやろう』だと思うからです。なぜそう思うかと言えば、子どもたちを見ているとそうとしか思えないから。たとえば家族で出かけたとき、トラブルで電車が止まると、大人は皆ぶつぶつぶつ文句を言い出しますよね。だけど子どもたちは、そんな大人たちの股をくぐり抜けて走りまわり、遊園地のように楽しんでいる。そして、いま私がやっていることすべても、挑戦であると同時に発見があり、かつて自分が違和感を覚えながら『本当はこうあれたら』と願ったものに近づいてきている感じがするのです」
サーカスが社会を変えていく。 “信頼関係”が挑戦を生む、「ソーシャルサーカス」とは?
社会のしくみからはじかれた人を
支えた“サーカス的”文化
ご挨拶をして、まずは写真撮影をお願いした私たちに、金井さんはいいですよと応じてくださり、「何かしましょうか?」と側にあったクラブと呼ばれるジャグリング用の道具を数本手にしたと思ったら、それらを次々と宙に放つ。よく見知った仲間だとでもいうように軽やかにクラブを扱う身のこなしは、目に心地よく、ずっと見ていたくなる。
金井さんは、日本人で初めてフランス国立サーカス大学(CNAC)へ留学し、その後長くフランスでサーカスアーティスト、ディレクターとして活躍。帰国した後、2014年に初開催されたヨコハマ・パラトリエンナーレをきっかけに、NPO法人スローレーベルとともにサーカスの技をベースにしたパフォーミングアーツのプロジェクトやワークショップを開始し、それを「ソーシャルサーカス」として発展させてきた。
「ソーシャルサーカスというのは、簡単に言うと、サーカスによる社会貢献活動のことで、80年代後半から90年代初め、ブラジルで始まったと言われています。
サーカスについて少しお話をすると、主に家族で経営されてきた昔ながらの『伝統サーカス』に対して、『現代サーカス』は、“サーカスは芸術”という立場からいろいろなアーティストが関わってつくってきたんです。特にヨーロッパと南米で歴史があります。
サーカスは、テントを立てるスペースがある程度必要なこともあって、地方の町や村で大衆の楽しみのひとつとして根付いて、だんだん都会へと浸透していきました。また現代サーカスの多くが、子どものためのサーカス学校などを開催し、日本でいう児童館や学童保育のように放課後の子どもたちの居場所、遊び場として運営しています。
そうした地域とのつながりのなかで、サーカスが出合ったのが、紛争や貧困に苦しむ人や移民、自信を失った女性たちだったんです。そして、サーカスの練習や習得のプロセスは、人々のさまざまな力を育て、結果的に問題の解決につながるのではないか、そう考えたアーティストたちによって、自然発生的に社会問題にアプローチするサーカスが生まれていきました」
スローレーベルのパンフレットには、“ソーシャルサーカスとは、サーカス技術の練習や習得を通じて、協調性・問題解決能力・自尊心・コミュニケーション力を総合的に育むプロジェクトのこと”と書かれている。
「なぜサーカスはそうした人々に受け入れられたのか?」、「なぜ練習や習得のプロセスが、人々の力を育むことになるのか?」、浮かんでくるさまざまな疑問を投げかけると、金井さんは、「そうですよね」とにっこり笑いながら、サーカスの持つ文化や背景が関係すると教えてくれた。
「サーカスは、もともと遊びから始まっているのが大きいですね。今日は一輪車、明日はジャグリング、トランポリンと、自分が好きなこと、やりたいことをやればいい、おもちゃ箱みたいなものです。言葉が違っても、文化的な文脈を知らなくても、誰もが自分のペースで楽しむことができる。また、何かができるようになると、次はもっとできるんじゃないかと、挑戦したいことが増え、可能性が広がっていくのもサーカスの特徴ですね」
また、サーカスは家族的だとも言われていると、金井さん。
「協力し合ったり、人と息を合わせたりしないとできないのが、サーカスです。もともと転々と旅をしながら行われてきたものですし、みんなで力を出し合わなくては、テントを立てることもできない。技の中には危ないものもあり、人にサポートをしてもらいながら習得するものや、パートナーに命を預けるようなものもたくさんある。信頼関係なしには成立しないんです。ですから、血はつながらずとも、家族的でアットホームなつながりのなかでつくりだされてきたという背景があります」
さらに、ヒエラルキーをつくらないことが、“サーカス的”なコミュニケーションを生むという。
「演出家や振付師といった“先生”のような存在を置くことは少なく、反対に、経験のあるアーティストでなくても、『君ができるなら、ぜひやってよ』と、すぐに人を受け入れる土壌があります。それを表してか、最近では、一団や仲間を意味する“カンパニー”という言葉の代わりに、人々が集団を形づくりながらも、個々の独自性や特異性を尊重するという意味合いのある“コレクティフ”という言葉で表現することも増えてきました。そこに、ヒエラルキーはなく、個々に自由な精神をもった人々の集まりというような意味が込められているように思います。
リーダーがいない分、話し合いにすごく時間がかかるのですが、ああでもない、こうでもないと言いながら、誰かを排除することなくみんなで一緒につくりあげていく。それは、とても民主主義的な文化で、そうしたサーカス同士は世界中でつながり合っています。もちろん、競技的な側面をもった団体や、◯◯な人だけの集まりという団体も存在しますが、それは“サーカス的”ではないように感じますね。そもそもサーカスというのは、オープンでソーシャルな感覚がベースにあるんです」
そうしたサーカスの持つおもちゃ箱のような楽しさや可能性の広がり、信頼関係、オープンでソーシャルなコミュニケーションが、社会のしくみからはじかれてしまった貧困に苦しむ人や移民、抑圧されてきた女性たちに、一体感や自信、表現の場を与え、徐々に彼・彼女らを支え、勇気づけた。そう話す金井さんの言葉を聞いて、ようやくサーカスと社会問題が、私の中でつながり始めた。
その後、社会問題にアプローチするサーカスは、南米やアジアなど各地で成果をあらわしていく。そして、1995年に世界的なエンターテインメント集団「シルク・ドゥ・ソレイユ」の社会支援事業としてメソッドが開発され、「ソーシャルサーカス」と名付けられて、世界中に広がっていったという。
道具を使った遊びがもたらす
関係性の変化
そんな世界中にあるソーシャルサーカスの中でも、障がいのある人々と一緒にサーカスを行う日本のスローレーベルは、異彩を放つ存在だという。
「貧困に苦しむ人や移民とのソーシャルサーカスは世界各地にありますが、障がいのある人と一緒に行っているという例はほとんど聞いたことがなく、珍しい取り組みだと思います。
実は、障がいのある人々とワークショップを始めた当初は、ソーシャルサーカスの存在は知らず、行っていたのも皿回しやジャグリング、ダンスなど、サーカスの中でも遊びの要素が多いものでした」
そもそも障がいと一口に言っても、さまざまな障がいがあり、決して一括りにすることはできず、「どのように進めるのがいいか、僕の中にも恐怖心があった」と、金井さんは振り返る。
しかし、ワークショップを重ねるなかで、皿回しやジャグリングなど、道具を使った遊びは、コミュニケーションをつないでいくのではないかと、手応えを感じるようになった。
面と向かって人とコミュニケーションを取ることが苦手でも、好みの道具を見つけて取り組めば、一人で夢中になることができ、そうして楽しんでいる者同士は、やがて道具や技を介してゆるりとコミュニケーションを取り始める。だんだんとスキルをあげていく人、周りが驚くほどひとつのことに集中する人は、その中で尊敬を集め、自信をつけていく。障がいがあっても、なくても、そのことに変わりはない。金井さんはそういう様子を何度も目の当たりにした。そして、それは金井さん自身の固定観念も壊していったという。
同時に、スローレーベルは、障がいのある人が安全に会場に来て、イベントやワークショップに参加できるよう、環境やコミュニケーションを支える看護師の資格を持った「アクセスコーディネーター」やダンサーとして運動療法にも携わる「アカンパニスト」らをスタッフに加えた。そして、パフォーマンスを振り付けするダンサーや演出するアーティストたちとともにチームを編成。障がいのある人とともにどう取り組んでいくのがいいか、少しずつ模索していった。
安心して挑戦できる。
信頼関係のある場所
そんななか、スローレーベルが出合ったのが、ソーシャルサーカスという概念だった。「自分たちがこれまで進めてきたことはこれだ」と、日本初のソーシャルサーカスを運営する団体として名乗りをあげる。
「サーカスには、ハラハラを楽しむという要素が含まれています。それまでスローレーベルでは、サーカスの遊びの部分しかしていませんでしたが、各国で行われているソーシャルサーカスは地域の人とスリルのある“攻めた技”もやっている。僕たちも、みんなとやればできそうだと思ったんです」
そして、金井さんはツムちゃんという女性の話をしてくれた。
「『イニシエーション』という、高い所から後ろ向きに倒れるようにジャンプし、下にいる人がキャッチするという技があります。後ろ向きですから、下に誰もいなかったらどうしようって想像してしまうと怖い。下にいる人に対して信頼していないとジャンプできないんです。そこで、まずは僕たちがやっているのを見せて、参加者に『誰かやってみる?』と聞いてみました。そうすると、怖くて絶対に無理という人と、やってみようかなという人が出てくる。やってみようと上にあがっても、怖くて、ジャンプまで5分、10分とかかったり、やっぱり今日はやめておこうと降りてくる人もいたりします。
そんな参加者の中にツムちゃんがいました。ツムちゃんはダウン症の女の子。ダウン症の人は傾向として、高い所を怖がることが多いんです。『やってみる?』と聞くと、ツムちゃんは目も合わせず、絶対にやりたくないという感じでした。
でもある時、ツムちゃんに『ソレイユ』という別の技の声掛け役をお願いしたんです。ソレイユは、大きな円になるよう並んだ人たちが、中央に小さな輪っかがついた放射線状に伸びるロープを持ち、声掛け役の指示に従って、その輪っかをボールの乗った棒に通すという技。みんなで力を合わせ、ボールを落とすことなく輪を棒に通すことができると達成感があります。ツムちゃんはこの役をするようになって、すごく自信がつきました。ワークショップなどでソレイユをするたびに、声掛け役を買って出るようになったんです。
そんなある日、公演で先程の『イニシエーション』を、チャイニーズポールと呼ばれる長い棒を使ってやることになり、練習が始まりました。人の肩の上に乗り、ポールに掴まって演技をし、最後はポールを離して後ろ向きにジャンプし、下で支えてもらいます。高い所が苦手なツムちゃんは、やらないだろうと思ったのですが、『やってみる?』と聞くと、今度は『やる』って言うんです。
人の肩の上にあがり真っ直ぐに立ったものの、足がガクガクして怖そうでした。でも、ぶつぶつと呪文のように何かつぶやいている。『ソレイユ、ソレイユ、ソレイユ、ソレイユ……』って言ってるんです。私にはソレイユという技ができた、だからこの技だってできるはずだっていう気持ちだったんですね。そのまま後ろ向きにジャンプして、見事に技を成功させました」
自分で自分を力付けることができた「ソレイユ」をお守りのように唱えて、技を成功させたツムちゃん。少しずつ挑戦を重ね、自信をつけ、またそれが次の挑戦につながっていく。
「みんなのサポートがある、この信頼関係の中でなら、いろんなことに挑戦できる。そういう場であることは、とても大切です」と金井さんは言い、こう続ける。
「社会にも僕自身にも、『障がいのある人にこれはできないんじゃないか』という思い込みがある。何か、障がいのある人は守らなくてはいけない存在なんじゃないかと思ったり、これは挑戦させられないって勝手に限界を決めてしまっていたりします。でも、実は人には限界などなく、あったとしても、必ず抜け道や別の可能性が見つかるのではないか。勝手に決めつけて守ろうとしたり、周りが限界をつくる必要などないのではと、気付かされます」
それは、障がいのある人たちだけでなく、健常者といわれる人にとっても同じことで何も変わりはない、と金井さん。
「障がいのある人の中にもひょうきんで社交的な人もいるし、健常者の中にもコミュニケーションが得意でない人もいる。当然のことですが、健常者にも得手不得手があり、問題を抱えている人もいます。自分も含め、みんな各々にとっての壁があるということなのだと思います。
外からは、僕たちは障がいのある人をサポートするためにいると見えるようですが、実はそうではなくて。いろいろな人がいる多様な集まりのなかで、こんな風にコミュニケーションできることがとてもおもしろい。たとえそれが言葉のコミュニケーションでなかったとしても、いろいろな人がいて、だからつくり出せるものがあることが楽しいんです」
2019年、スローレーベルは「スローサーカスプロジェクト」を発足。日本初のソーシャルサーカスカンパニーとして、ダンサーやサーカスアーティスト、ジャグラー、障がいのある人、ない人、30名を超える団員が一体となってプロジェクトを動かしている。
新型コロナウイルスの影響もあり、2020年5月に予定されていた初公演は延期となったが、新しい発表の場のための準備は進む。
「僕たちのサーカスは、とてつもない高さから飛び降りるというような、世界レベルのアクロバットを披露できるわけではありません。プロジェクトが目指すのは、多様な人がひとつの世界でつながる楽しさ、おもしろさを感じてもらうこと。そして、みんながそれぞれの壁に向かって挑戦をし、限界を超える。そこに生まれる感動を観客のみなさんと共有できるのではないかと思っています」
「この信頼関係のなかでなら、いろんなことに挑戦できる」。金井さんが口にしたこの言葉がとても印象的だった。
サーカスの話を、そのまま、まるっと地球に置き換えることができたら、私たちはどれだけの限界の壁を超えることができるだろうと、今この時、想像せずにはいられない。さまざまな人たちが混ざり合って暮らすなかで、サーカス的な文化、サーカス的なコミュニケーションは、私たちに多くのことを教えてくれる。
違いよりも、同じ価値観に目を向ける。東京の真ん中にあるイスラムの礼拝堂から小さな種を蒔く。
偏見は、“知らない”から生まれ、
放っておくと差別になる
私がはじめて東京ジャーミイを訪れたのは、2014年11月のこと。ISILなどと呼ばれる過激派組織が毎日ニュースで取り上げられているような時期だった。
イスラムの人にとって、意図しない形で「イスラム」という言葉がメディアを通じて連呼される状況のなか、東京ジャーミイの案内をしてくれた下山茂さんのことがとても印象に残った。
日本人のイスラム教徒として、人々が疑問に感じていることを丁寧に汲み取り、正しく伝わるようにと、注意深く言葉を選びながら話す姿に「本当のイスラムを知ってほしい」という思いが溢れていると感じたのだ。
あれから約5年。久々に東京ジャーミイの見学会を訪れ、驚いたのは見学者たちの数だった。当時は30〜40人ほどだったが、この日はエントランスから溢れるほどの人が見学会の開始を待っている。「多い時には100人ほどの参加者があります」と下山さんは語る。
ジャーミイとは、アラビア語で多くの人が集まる場所の意で、集団礼拝ができる礼拝堂(モスク)のこと。なかでも東京ジャーミイは、日本最大の礼拝堂で、金曜礼拝には多くのイスラム教徒がここを訪れる。
また、その美しさも東京ジャーミイがよく知られている理由だ。トルコから建材を運び、現地の職人さんも加わって建てられたオスマン・トルコ様式の建物。初めてここを訪れる人の多くが異国情緒溢れる建築や装飾の美しさに声をあげ、カメラを向ける。
「ひとりでも多くの日本の人々にここを訪れてほしいと思っています。撮影をしたり、その美しさを発信したりしてくれることも歓迎です。メディアやSNSなどでこの場所を知って、見学に来てくださった方の多くが、私の話を熱心に聴いてくださいますから。
どんなきっかけであっても、イスラムという大きな文明に目を向けてもらえたらと思うのです」
下山さんがこのように話すのには、ある思いがある。
もともと出版や編集などの仕事をし、イスラムに関する出版物にも携わっていた下山さんが、東京ジャーミイの広報として働くきっかけとなったのは、2001年のアメリカ同時多発テロだった。
「世界にとっても、イスラム教徒の私にとっても大変な事件でした。イスラム教に大きなレッテルを貼られて、逆風の時代が来てしまうと思いました」
同じように考えた当時の東京ジャーミイのトルコ人イマーム(代表)に誘われる形で、下山さんは、2010年から広報担当として働くことになった。
その後も、世界各地で起こったテロ、そして日本人拘束事件。ジャーミイには、大きな事件のたびに新聞・雑誌、テレビなど、多くのメディアが取材にやってきたが、下山さんは、ほぼすべてに応じた。
「なかには『ネガティブな事件だから取材を受けないほうがいいのでは?』といった意見もありました。しかし私は、できるだけ話をしたかった。
そもそも、日本ではイスラム教のことがあまり知られていません。ですから、テレビや新聞の向こう側にいる多くの日本人に、イスラム教とはどういう宗教なのか伝えなくてはと思いました。
誤解や偏見は、知らないこと、無知から生まれます。そして、偏見は放っておくと、差別になってしまうのです」
転んだり、衝突しながら
前に進んでいく
「日本では、欧米のようにイスラムフォビアと呼ばれる憎悪や宗教的偏見は広まりませんでしたが、テレビなどによって、怖い、テロといったイメージがしっかりと日本人の中に入っていきました」
そうした間違ったイメージではなく、正しいイスラムについて、とくに地域や近隣の人に知ってもらいたいという、下山さん。
東京ジャーミイでは、断食あけの最初の食事「イフタール」や、トルコ人シェフによるトルコ料理の食事会や講習会など、文化や料理を切り口にしたイベントに近隣の人を招いてきた。また、清掃活動など、近隣の人と顔を合わせる時には、積極的に声をかけるよう努めてきたと言う。
「イスラム教やイスラム文明について知ってほしいという思いはもちろんあります。でも近所に住んでいる皆さんの関心はもっと日常的なことです。
ですから、まずは皆さんのお顔を覚え、すれ違ったらこちらから挨拶をするようにしています。そして、毎日『いい天気ですね』『お元気ですか』といった日常の言葉を交わす。
そこから、ようやく近所の方が、東京ジャーミイにはこういう人がいるんだなとか、食事会に行ってみようかなと、感じてくださると思うのです」
しかし、せっかく積み重ねても、あっという間にゼロに戻ってしまうこともある。
「たとえば、礼拝に来て、近くの住宅街に路上駐車をしてしまい、近所の方に注意を受けた人がいました。その時、すぐに謝って移動させたらよかったのですが、ちょっとした口論になって、警察がやってきてしまったのです。
ジャーミイとしては礼拝には公共交通機関を使ってきてくださいねとお話していますが、ルールを守らないような出来事が起こると、積み重ねてきたものはすぐに元に戻ってしまう。やはりそこは、人と人との関係が重要なんです」
そして、「異文化共生、異文化理解というのは、並大抵のことではありません」と、よく通るしっかりとした声で下山さんは続ける。
「移民の多い欧米諸国や、多様な民族でひとつの国家を形成するマレーシアのような国は、試行錯誤をしながら、いばらの道を歩んでいるといってもいい。
でも、日本はこれまでそういうことをしてこなかった。モノカルチャー(単一的文化)の中に、欧米の価値観ばかりを取り入れてきた日本で、異文化を理解し、受け入れることは簡単なことではありません。
ですから、私たちは異文化交流なんて大きな看板を背負うのではなく、井戸端会議のような小さなものを積み重ね、人間と人間として感じることを大切にしています。
異なる部分を頭で理解しようとするよりも、人として共通の価値観に目を向けること、互いの素晴らしいところを知っていくことです。
異文化理解、異文化共生というのは、そうしたことを重ねて、転んだり、衝突したりしながら、進んでいくものではないでしょうか」
僕を構成するレイヤーのひとつに、
イスラム教があるだけ
話を伺っていると、一人の男性が下山さんに握手を求めてきた。
「いつも顔を合わせる友人ということでなくても、モスクを訪れる人はお互いに挨拶をし、声を掛け合います。モスクは礼拝の場であると同時に、集会所であり、シェルターのような役割を果たしているんです」
下山さんはそう言うと、「では、ちょっと中を歩いてみましょう」と、ジャーミイ内を案内してくれた。
その時、下山さんに紹介してもらった一人に、ジャーミイでアルバイトをするエルトゥルール・ユヌスさんがいた。ユヌスさんは、神奈川県内の学校に通う大学生で、トルコ人の父と日本人の母のもと岡山県で生まれ育つ。
「両親ともにイスラム教徒で、僕自身も生まれたときからイスラム教徒として、日本で生活をしてきました。
といっても、人と違う暮らしをしてきたわけではなく、僕を構成するレイヤーのひとつに、イスラム教というのがあるのだと思っています」とユヌスさん。
しかし時には、異なる反応が返ってくることもあると言う。
「例えば、飲み会などで、僕のことを知らない人に『今から、トルコ人のハーフで、イスラム教徒が来るよ』って紹介されていたりすると、その場にいる人は僕が来る前から構えていたりするんですよ。実際に顔を合わせて話をしたら、ルーツが違うだけで、日本人としてみんなと同じような人生を歩んできてるってわかってもらえるのですが」
構えず、いじってもらうくらいでいいんですと、ユヌスさんは笑う。
そして、子どもの頃の思い出を話してくれた。
「中学に入学した頃、僕は太っていました。それで、中学1年生のある日、クラスメートの一人に『お前、豚を食べられないのに、豚みたいだな』ってからかわれたんです。
僕はブチ切れました。大喧嘩です。仲裁に来た先生も戸惑ってしまってどう止めたらいいのかわからない。その時、側で見ていた友達や先生の顔を見て、やっちゃったなって思いました。
僕がこういうことで怒ったら、今後一切、僕のイスラムの部分に関して、誰も触れてこないだろうって。それは本意ではないんですよね。だから、今でもイスラムは、僕のアイデンティティの一つであるだけで、特別なこととして捉えてほしくないし、ことさら違うところを伝えて壁をつくりたくないと思っています」
ただ、これから就職活動をするにあたり、考えてしまうこともあると言う。
「イスラム教徒であると伝えることが、就職活動にマイナスに働いてしまったらいやだなぁという思いがあります。使いづらいなぁと思われたくはないんです」
そんなふうに考えてしまわなくてもいいように、社会が変わることも大切ですね、そう伝えると、その言葉に頷きつつ、こんなふうに教えてくれた。
「僕個人としては、イスラム教徒であることを強調するよりも、イスラム教徒だけれど日本社会に馴染んでやってきたことを伝えたい。僕にとっては、それが生きやすいんです。
同じイスラム教徒であっても、人によって、もしかしたら男女によっても違う考えがあるかもしれません。どういう考えであっても、自分が生きやすいと思う選択肢を選べる社会であればいいなと思います」
「イスラム教徒の日本人」が
「隣の席に座っている」時代に
「これまで、日本人にとって“イスラム教徒を知っている”=“イスラム教徒の外国人を知っている”ということだったと思います。でも、これからは “イスラム教徒の日本人が隣の席に座っている”という時代になっていきます」と、語るユヌスさん。今後増えていく後輩たち対して、自分の世代には役割があると考えている。
「僕は岡山で育ったので、学校には日本人の友達がたくさんいたけれど、モスクに行くと孤独でした。地域によっても違いがあるのですが、僕の通うモスクでは、同世代のイスラム教徒は、親の仕事の都合などで外国から来ていて、いずれ母国に帰ってしまうという子たちが多かったんです」
そういう環境にあって、イスラム教徒であり続けるには、家族のサポートが不可欠だったとユヌスさんは言う。
「日本のイスラム教徒は、トルコでイスラム教徒であるよりもずっとたくさんのことを突きつけられます。
トルコの街では、何も考えずに買い物をしても、豚肉を使った食品やアルコールなど、イスラムで禁止されているものを手にすることはありませんし、礼拝をするのに説明は要りません。
でも日本では、食事や1日5回の礼拝の時間ごとに意志をもった選択を迫られます。それはとても大変なことで、僕はよく母にそうした葛藤を聞いてもらい、救われました。でも中には、両親に厳格なイスラム教徒として過ごすことを求められ、結果的にイスラム教徒であることをやめてしまう子どもたちもいました」
ハラールレストランが増えるなど、近年環境は急速に変わっている。だから時が解決することもあるとは思いますがと前置きしつつ、ユヌスさんは続ける。
「日本に住むイスラム教徒としての過ごし方や考え方を一緒に考える、コミュニティのようなものが必要だと思っています。それが、日本人のイスラム教徒が日本社会で共生し、馴染んでいく第一歩になるのではないかと思うのです。
当時の僕のような中高生たちは、僕の世代以上に増えています。彼らが落ち着いて居心地よく生活するために、先輩として動いていきたいです」
世界中の価値観を発見し、
考える機会を
ユヌスさんとお話した後も、下山さんはジャーミイの中を歩きながら、いろいろな人に声をかける。近所に住むイスラム教徒の家族、ビジネスで日本を訪れるたび立ち寄るという男性、ジャーミイに隣接するハラールフードショップに買物に来た親子、カフェでお茶をする近隣のご家族など、さまざまな人がいる。ここが、礼拝の場であり、同時に集会所やシェルターの役割を果たしているという言葉を実感する。
「最近は、授業の一環で東京ジャーミイを訪れる高校生も増えています。これから社会に出ていくという高校生が、世界の見方や捉え方、欧米だけではない世界中の価値観を発見し、考える機会があるというのは、大変重要なことです」
そして、時代はようやく動き出し始めたのかもしれないと、下山さん。
「人間と人間は、誰でも違いを越えて信頼し、付き合っていくことができます。日本にあるモスクは100カ所を越えました。こうした時代にあって、イスラム教徒である私たちは、これからも社会に対し内向きであってはいけません。
また日本人も異文化に特別なレッテルを貼ることなく、人と人との信頼を大切にし、異なることへの理解を進めていかなくてはならない。今という時代に、ようやく、そのための種が蒔かれたのかもしれないと感じています。
そして今後、高校生の頃から異なる文化を学んだ若者や、日本に住むイスラム教徒の子どもたちなどによって、さらに異文化を理解し合う土壌が育ってくれればと思っています」
下山さんやユヌスさんのお話は、“異文化理解”“異文化共生”と一括りにしていては見えてこない、彼らだから語ることができる、確かな温度を持った言葉だった。
国や地域、肌の色に対するステレオタイプなイメージや先入観を、知らず知らずのうちに頭に植え付けてしまっていることがある。でも、個と個として出会い、ともに過ごした経験は、イメージや先入観よりもずっと強い感覚を伴って心とからだに残るのだと改めて感じた。
ニュースや他の誰かの経験から“知る”だけでなく、自ら挨拶をし、話をし、時間をともにする。蒔かれた種は、そこからようやく芽を出すのだろう。
取材・文:小谷実知世
こたにみちよ/ライター・編集者。京都市生まれ。大阪、東京を経て、現在は神奈川県・逗子市在住。インタビューをするなかで、話す人のおなかの中にある思いが溢れてくる、その瞬間に出会うのが一番のよろこび。写真家・田所瑞穂さんとのユニット、khorlo(コルロ)において、『ヨミモノコルロ』を発行中。
「個性豊かな南国食材と向き合う、沖縄の小さな料理店」【後編】
生活の中心に、
食材との対話がある。
今でこそ、“ライフスタイル”の流行もひと段落して、かつての食卓には馴染みの薄かった木の器も特段珍しいものではなくなった。けれど、関根さんが、木工作家の藤本健さんから「うちのアトリエスペースで、食と器とで何か表現ができないか」と持ちかけられたのは、今から7年ほど前のこと。当時の沖縄は、やちむん(沖縄固有の焼き物)と琉球ガラスの食器文化が根強くあり、木の器自体、見かける機会も少なかった。
「それに、沖縄は湿度もあって、木の器は扱いづらいのでは?という先入観を持つ人も多かったのだと思います。そんな状況もあって、藤本さんには木の器がもっと気軽に使えるものなんだというのを知ってもらえる場にできたら、という思いもあったんです。もちろん、私も藤本さんの器は大好きだったし、アトリエの場所も環境も素晴らしくて、二つ返事で決まって進んでいきました」
現在の店の客席のあるスペースが、工房だった部分。もともとの建物同様に、藤本さんがセルフビルドで増改築してくれた。そして、関根さんが趣味で集めていた古い家具のパーツをあちこちにあしらい、調度品は二人でアイディアを出し合う。そうして完成した空間で提供される、木の器に盛られた料理。そこには、関根さんが沖縄で過ごしてきた日々が詰まっていた。
今では、<胃袋>中心に生活がまわっている関根さんが、何より大切にしているのが、食材との出合いだ。「オン・オフが一切ないんです」と言い切るほど、個性的な沖縄の食材を前に、どう料理しようかと考えることが楽しくて仕方がないのだという。
「沖縄の食材は、同じ野菜でもそれぞれ味に違う個性があって、均一じゃないんです。ものすごく渋味や苦味が強いものに当たったりすることが普通にあって。ここ数年で、東京に呼んでいただいて料理をする機会が増えたことで、そのことをより実感するようになりました。東京は、普通のスーパーでも、野菜の見た目がきれいに揃っていて、何を食べてもおいしいんですよね。そう思うと、沖縄はハズレが間々ある(笑)。そんな沖縄の食材と接しているうちに、どんなものに当たっても丸ごと受け入れて、その個性をどう生かそうかと考えることが当たり前になった。今となっては、その試行錯誤が料理の一番の楽しみになりました」
店の休みの日には、遠く離れたやんばる(沖縄本島の北部一帯を指す呼称)まで足を伸ばし、生産者を訪ね歩く。季節の移り変わりによって少しずつ味わいが変化していく野菜や果実を、その場で直にかじると料理のイメージが次々に湧いてくる。
「畑に行くと、ひとつの食材でも、1年を通じていろんな味わいがあることがわかるんです。知っているつもりの野菜でも、芽吹いた時期のほうがおいしかったり、実よりも一般的には食べられていない花のほうがおいしかったり。そうしたことを、自分の舌で体験したくて。それを知れば、もっといろんな絵が描けると思うので」
関根さんにとって、畑を訪ねるのは単なる仕入れではなく、インプットのための大事な時間なのだ。その畑訪問に同行させてもらうことにした。
沖縄という環境の中で、思いを共にする友人たち
やんばるの畑へと向かう道すがら、「寄りたいところがある」と、友人の渡慶次弘幸さん・愛さんが夫婦で営む木工と漆の工房〈木漆工とけし〉を訪ねた。「ここでいつも、スモークで使う木屑をもらっているんです」と関根さん。製材屋からの仕入れだけでなく、事情があって伐採された木や、台風で倒れた木など、沖縄の身近な木材を使って日常の漆器を作る渡慶次さんの工房からでる木屑は、関根さんが目下研究中という肉の燻製に欠かせないのだそう。
「渡慶次さんが扱う木材は、みんな沖縄の木だから、この香りを移せたらいいなと思って。最近、アウトドア用のドラム缶で毎日のように肉を燻製しているんですけど、沖縄の木は香りがやさしいぶん、移りづらいんですよね。でも、塩と木屑だけでどれくらい香りが出せるか、あちこち部位を変えたりしながら実験するのは楽しい。いろいろ試してみて、肉の脂に吸わせたときに一番いい味になったのが、ハマセンダンの木でした。ほんとうにいい香りがするんですよ」と関根さん。
「木工としても、沖縄の木は決して扱いやすい木とは言えないんですよ。でも、その木の特有の個性とも言えるクセをうまく生かすというのが、面白さでもあります」。この渡慶次さんの考え方も、作るものは違えど、関根さんの食材への思いと通じるところがあった。
次に訪ねたのは、自らも農家でありながら、同じ地域の農家さんたちと飲食店・消費者とをつなぐ「やんばる畑人プロジェクト」の代表を務めている芳野幸雄さんの畑だ。芳野さんもまた、<胃袋>のよき理解者のひとり。自身も料理好きで、ゆくゆくは「すべて自家栽培のカレー屋」をオープンするべくスパイスの栽培も実験しているのだそう。沖縄らしい食材から、珍しいスパイスやハーブまで、広い畑におよそ100種類もの作物が、強い日差しを受けてたくましく育っている。
植物園のような芳野さんの畑をめぐりながら、関根さんは目に留まった食材を躊躇なく口にしていく。「ん……? これは渋すぎる」というものもあれば、口にした瞬間、目を輝かせるものもある。この日は、島とうがらしの花に、その場で絞ったうこんの果汁、そして何種類ものハーブを収穫させてもらった。
そしてもうひとり、「午後の15時に約束している農家さんがいるんです」と、芳野さんの畑から数分の距離にある、川本恵子さんの畑を訪ねた。川本さんも「やんばる畑人プロジェクト」のメンバーのひとり。「沖縄で皆の100年先を行く生産者と慕われている方なんです」と関根さん。
15時と約束していたのは、川本さんが栽培している球根植物・ジンジャーリリーの花が、午後の数時間しか花を咲かせないからだ。畑に通してもらうと、まさにユリの姿をした真っ白の花を一斉に咲かせていた。関根さんに続いて口にしてみると、いわゆる生姜の味ではない。すっきりと甘い芳香が口いっぱいに広がった。
花の咲く時間が限られているため、関根さんは、お酒を持参してその場でスピリッツにしたり、持ち帰って砂糖菓子にしたり。その日のうちに魚と合わせて料理することもあるのだそう。そしてもう一つの関根さんの目当ては、研究熱心な川本さんが手塩にかけて育てている、日本名でミズレモンと呼ばれる熱帯フルーツだ。市場に出回ることがほとんどないと言われるそれは、半分に切るとパッションフルーツと見た目は同じ。けれども、パッションフルーツのように尖った酸味はなく、味わったことのない爽やかで奥行きのある甘酸っぱさ。ものすごくおいしい。
「こんなにおいしいミズレモンは、私も食べたことがなかったですよ」。関根さんがそう言うと、川本さんは「太陽の力を信じているの。光合成で太陽をさんさんと浴びると、自ら糖分を増やしてくれるから。よく『パッションフルーツは、落ちたのを拾えばいい』と言うけれども、ちゃんと手をかけてやったら、それに応えてちゃんとおいしく育ってくれるんよ」と言って、なんともいい笑みを浮かべた。
川本さんが、大阪からこの名護へと移住し、新規就農したのは11年前のことだ。「果樹農家としては、まだまだよ」と彼女は言うが、珍種で栽培農家の少ないこのミズレモンも、皆が利益の伴う形で栽培できるようにと、日照時間と糖分の関係や面積に対する収穫量など、質のいいミズレモンに育つ栽培方法について細かくデータを取っている。川本さんもまた、それが楽しいのだという。
「大阪にいた頃には、想像すらしなかった喜びですよね。作物を通じて、老若男女どんな人とでもつながることができる。おいしいものが食べられて、余ったら他の人にも喜んでもらって。もう幸せなことだなと思います」
自然に抗わず、喜びに変える。
次の日、関根さんとは十年来の友人で、宜野湾に天然酵母パンの店〈宗像堂〉を営む宗像誉支夫さん・みかさん夫妻のもとへと向かった。翌々週に控えている食のイベントで出す料理の試作をするためだ。二人は厨房に入って手際よく下ごしらえを始め、バットの上に大きく広げたパン生地の上に、石窯で焼いた宗像さん自作のハムに、野菜やカレーリーフなどを載せていく。その上からパン生地を被せ、石窯でじっくり時間をかけて焼き上げるのだそう。
「沖縄の食材から学んだことと言えば、料理と時間の関係かもしれないですね。そのまま食べると味が強すぎる食材も、じっくりと時間をかけて焼いてみると、違う味が引き出せることもあるんです」(関根さん)
そうして焼き上がるのを待つ間も、関根さんと宗像さんは、「これとこれを合わせたら良さそう」などと、愉しげに料理のアイデアを投げかけ合っている。レストランとパン屋とは、業態は違えども、食に対して同じ価値観を共有できる宗像さんは、かけがえのない存在だ。
「宗像夫妻が大好きなんです。みかさんは、沖縄の太陽のような女性で、誉支夫さんはやっぱり、同じ食に向き合っているぶん、これまでにも自ら体験して得てきた言葉をたくさんくれました。誉支夫さんは、どんなときもブレることがないんです。あるとき『どうして、いつもそんなにフラットでいられるんですか?』と聞いたら、『常に抗えないものが目の前にあるからかな』と言ったんです。そのときは、どういうことなのか理解できていなかったけど、最近になって少し理解できたような気がします。料理で言えば、食材に対して強引にテクニックを押し付けるよりも、受け入れた上で良さを引き出すということなんじゃないかと」(関根さん)
「自分のパン作り自体が、抗えないものだらけなんですよ。気候、天候、気圧、すべてが日々刻々と変化していく。発酵には欠かせない菌自体、思い通りにはいかないものだし、薪も枯れ具合によって燃え方が違う。何ひとつとしてコントロールできるものはないんだと受け入れて、その中でベストを尽くして潔い仕事をするしかない。それはもう、人生観のようでもあって。変化しつづける環境の中で、どう生きるかということにも通じているんじゃないかなと思います」(宗像さん)
「個性豊かな南国食材と向き合う、沖縄の小さな料理店」【前編】
まわりの環境や景色、食材が
自ずと作りたい料理へ導いてくれた
「料理 胃袋」。
一度聞いたら忘れない。印象的なその名前をはじめて耳にしたのは、もう3〜4年ほど前になるのかもしれない。その響きだけで、どんな場所にあって、どんな人が料理をしているのだろうと、自然と想像がふくらんでくる。おいしいらしい、沖縄にあるらしい、女性がひとりで営んでいるらしい、あんまり予約が取れないらしい――そうした噂以上に、この名をつけた女性はどんな人なのだろうと、その人となりに興味を抱いた。
頭の片隅にそうした思いを持ちながら数年が経ち、ようやく〈胃袋〉を訪ねる機会を得た。那覇から沖縄本島の南端、南城市へと車を走らせる。琉球王国最高の聖地とされる斎場御嶽にもほど近い、太平洋を臨む高台に〈胃袋〉はあった。
鬱蒼と南国植物のしげるアプローチを抜けると現われるエントランスには、“胃袋”を象った表札がかかっている。中へ入ると、ひんやりとした漆喰の壁に落ち着いた照明、キッチン側の壁一面の大きな窓が、その向こうの庭の植物たちをスクリーンのように映し出している。周囲の環境自体、観光地である那覇の喧騒からは遠く離れた森閑とした場所なのだが、さらにこの空間が沖縄でも何処でもないような、不思議な錯覚を起こさせた。
〈胃袋〉で出される料理に、沖縄の食材がふんだんに使われていることは話に聞いて知っていたが、それが和食か洋食か、どんな料理なのかは訪れるまでわからなかった。けれど、実際に食したあとの今となっても、ひと口に表現するのはとても難しい。なぜなら、関根さん自身が一つひとつの食材に対して、和食なり洋食なりの手法を当てはめようとはしていないからだ。
「しばらく料理から離れていた時期を経て、やっぱり料理へ戻りたい、店をやろうと心に決めてはいたのですが、どんな店にするのか、どんな料理を出すのかは、まったく決めていなかったんです。でも、この場所でやらせていただけることになって、外の緑があまりにきれいなので壁一面を窓にして。そうしたら、自ずと作りたい料理が浮かんできました」
この空間で食すこの料理が、関根さんの人となりを物語っている。そう思うと、彼女がなぜ沖縄に暮らすようになったのか、なぜ料理という道を選んだのか、興味は一層ふくらんだ。
しつけの厳しかった子ども時代
海の向こうを旅し続けた20代
関根さんが生まれ育ったのは、東京都の福生市。福生といえば在日米軍横田基地のある町であり、ある意味、沖縄の町にも似たムードを幼少期から味わってきたとも言える。しつけの厳しい家庭に育ち、3歳から中学3年生まではコンクールを目指す本格的なバレエスクールに通っていたため、食事もきちんと管理され、菓子パンにスナック菓子のおいしさを知ったのは、高校生に入ってから。成人するまでは門限も厳しく、グレる暇もなかった。そんな子ども時代の反動からか、若い頃の興味の先は、とにかく大きく開かれた海の向こうの世界。20代は、旅費をためてはアジアを旅してきたが、30歳を目前に、ふと「自分が生まれた日本のことを、まったく知らずにきてしまった」と気づく。そこでまず行ってみようと思い立ったのが、歴史も文化も自分の知る日本とは異なる土地、沖縄だった。当時は、地方の観光事業と関わりのある会社に勤めていたが、退職を機に、沖縄の八重山地方をひとりで旅することにした。
「写真を撮るのが好きで、当時流行っていたポラロイドカメラを2台抱えての撮影旅行のような旅でした。防波堤で出会った戦争体験者のおじいさん、一見するとガラの悪い不良のようで、話してみるとものすごく純粋で屈託のない中学生たち。
行く先々で出会う人は皆、逞しくて、人懐っこくて、やさしい。旅の前に、沖縄のことを知っておきたいと思って読んだ本に記されていた悲しすぎる歴史、苦しい出来事を乗り越え続けてきた背景とは裏腹に、沖縄の人たちの温かい心根に触れて、どうして沖縄の人たちはこんなにやさしく、たくましいんだろうと。それがどうしても知りたくなって、住んでみようと思ったんです」
ちょうど仕事を辞めたばかりで身軽だった、ということもあったのかもしれない。けれど、だからと言って初めて訪れた縁もゆかりもない旅先で移住を決めるというのは、勇気のいることだったはずだ。
「あんまり考えてなかったんでしょうね。深く考えていたら、きっと動けていなかった。もともと場所自体に執着しないほうなんです。どんなふうに生きていても必ず変化は訪れるのだから、その時々の流れに沿って自分の身を置けばいいと、いつもどこかで思っているようなところがあって……。でも今となっては、沖縄には特別な思いがあります」
自然に即した沖縄での生活
〈胃袋〉の原風景
当時の沖縄では、ウチナンチュ(沖縄の人)の保証人がいないとアパートが借りられないという事情があり、東京でバイトをしながら保証人になってくれる人を探し、1年後にようやく移住することができた。はじめの住まいは、現在の〈胃袋〉のある地域の隣町にあたる大里村。同じ南城市にある沖縄では名の知れた喫茶店、〈浜辺の茶屋〉と〈山の茶屋 楽水〉でウエイトレスのバイトをしながらの生活が始まった。
「その名前の通り、海辺にある喫茶店でした。面接のとき、オーナーから『ここで暮らすのに時計はいらないよ』と言われたんです。月の満ち欠けと潮の満ち引きで時間がわかる。そんな生活が始まりました。当初、金銭的には決して裕福とは言えなかったんですけど、でもものすごく豊かだったんですよ。
沖縄という土地柄もあって、隣近所やバイト先のまわりなんかに農家さんがいっぱいいるんです。だから、黙っていても方々から野菜がいただけました。ただし、食べきれないくらい、一種類の野菜を大きなビニール袋にどっさり詰め込んで渡してくれるんです(笑)。これを毎日いかに違うふうに料理にして食べるか、というのを試行錯誤するんですけど、それが意外にもすごく楽しかった。ひとつの野菜を、工夫次第でこれだけ違うものに変化させることができるんだと。
それで、野菜をいただいたお礼に何かを買ってお返しする経済力がなかったので、もらった野菜で作ったスープだったり、練り込んだパンだったりをお返しするようになったんです。それをみんな喜んでくれて、また違う野菜をわけてくれるんですよね。当時のそうした記憶が、今の胃袋の原風景なんだな……と、今になって思います」
それまで、特に飲食店の調理場でバイトをしたような経験もなかった。単に生きていく術としての日々の料理が、“楽しい行為”へと変換する。先入観を持たずに、目の前に現れたひとつの食材と対峙するという、現在の彼女の料理への姿勢も、この体験が起点となっていたのだ。
変わらない味の先に
変化を受け入れ続ける料理があった。
その後、家族の事情から一度東京へと戻ることになり、その一年後、やっぱり沖縄に戻りたいという思いが募って、再び拠点を沖縄へと移した。そして、友人の誘いで沖縄不在の間に新しくできたというカフェ〈モフモナ〉を訪れたとき、スタッフ募集の張り紙を見つけたことが、次の転機をもたらした。
「オーナーが、いろんなミュージシャンと繋がりのある面白い人で、ライブイベントもよくやっていたのと、カフェというのもあって、面接に来るのは20代の女の子ばかりでした。あとから聞くと、40人くらいの応募があって、私が最年長だったそうで。当時、私は35歳で、オーナーカップルよりも全然年上だったんですよ。年上のスタッフなんて、扱いづらいじゃないですか。でも、なぜか面白がってくれたみたいで、私ひとり採用されたんです」
そうして新しく得たカフェでの仕事は、はじめての厨房担当。現在とは対極的ともいえる、毎日同じメニューを提供するというものだった。
「ミートソースにオムライス。毎日同じ味を提供することの難しさを、そこで初めて知りました。その頃の自分にとっては禅の修行のようでしたけど、『あそこへ行けば、あの味がある』ことの大切さや、みんなに愛される味というのがどういうものなのかも学ぶことができたと思います」
その後、独立して共同経営者とともに宜野湾でカフェを開いたのちに、建物の老朽化により閉店。それを機に料理から離れ、新しくオープンする衣食住にまつわるギャラリーショップ〈Shoka:〉に立ち上げから加わることになった。料理から離れてみようと思ったのは、すぐにやりたいことが内側に湧いてこなかったことと、違う角度から食を見てみたいという思いがあった。
そこから数年。ようやく「料理がしたい」という思いがふつふつと湧いてきた。けれど、まだどんな店にするのかまでは定まっていない。そんな矢先、カフェをしていた頃によく店に来てくれていたという木工作家・藤本健さんのアトリエを店として使わせてもらえるという話が持ち上がった。その1年後の2014年、〈胃袋〉は誕生した。
異国の地・日本で自信をなくした女性たちと、“目を合わす”料理の力。
“混ざって暮らす”とは
どういうことか?
多様性、ダイバーシティという言葉がひとり歩きするなかで、本当の意味で、多様に生きるとはどういうことだろうと考えた。いろんな背景を持った人がひとつの場所に住んでいれば、働いていれば、それは“混ざって” 暮らしていると言えるのだろうか?
そんなことを考えていた時、ある大学のシンポジウムでこんな考え方に出会った。それは、ダイバーシティ・マネージメントについての研究(谷口真美氏、中村豊氏など)をもとにしたもので、社会が異なるものを受け入れるプロセスは「拒否」→「無視・同化」→「承認」→「違いを活かす」という流れを経るという考え方だった。
違いを受け入れるプロセス
「拒否」は、異なる背景を持つ人に対する『わからない』という感情からくるもので、抵抗の形として表れる。次のプロセス「無視・同化」は、その言葉通り、一緒の場にいるけれど『自分たちには関係がない』というように無視をする状態、さらに『私たちのようにしていなさい』と、同じであることを求める状態のことをいう。次の「承認」は、違いに対し『なるほど、そういうことか』と違いを認め、違いに価値を置くこと。そして、ようやく「違いを活かす」、互いに幸せである状態となるという。
この考えをもとに、つまり同じ場にいても「拒否」したり、「無視・同化」の状態、「なんかいろんな人がいるけど、自分には関係ない」とか「常に私たちと同じように行動してね」という関わり方では、“混ざっている”とは言えないのではないかと考えた。「互いの違いを認める」、さらには「それらを活かし合う社会」という段階になっていてこそ、“混ざって”暮らす社会なのではないかと。
でも実際にそんな社会は実現しているのだろうか? そんなことを考えるなかで知ったのが、SALAを運営する黒田尚子さんのことだった。
アジアの“お母さんたち”が
日替わりで料理を提供するお店
神戸のJR元町駅から歩いて3分ほど。神戸元町商店街と関西最大の中華街・南京町との間の路地に、神戸アジアン食堂バル SALAはある。2016年にオープンしたアジア料理を出すレストランだ。このお店がほかと違うのは、アジア出身の女性たちが日替わりでキッチンを任されているということ。
黒田さんを訪ねたこの日は、タイ出身のアサリさんがキッチンで、同じくタイ出身でまだ働き始めて1カ月というセンさんがホールで忙しそうにしていた。11時半の開店後すぐなのに、店内はすでに満席だ。注文したのは、日替わりメニュー「緑なすと豚肉と野菜をホーラパー(タイのバジル)とタイの味噌で炒めたもの」と、タイの鶏料理「カオマンガイ」。どちらもタイのスパイスや調味料が香る本格的な一品だった。
ここできびきびと働く女性たちは、もともと料理人や飲食店経験者だったわけではない。黒田さんが親しみを込めて“お母さん”と呼ぶ彼女たちは、タイや台湾、フィリピン、中国などから、結婚や夫の仕事の関係などさまざまなきっかけで日本にやってきた。しかし、言葉の通じない日本で社会に溶け込むことができなかったお母さんたち。そんな彼女たちの働く場として、黒田さんは神戸アジアン食堂バル SALAを立ち上げた。
実際に自分の目で見て、確かめて。
「そんな社会に住みたくない」
「アサリさんなどお母さんに出会ったのは10年前のことで、私が大学生のときです。当時設立されたばかりの、社会起業学科という学科に通っていました」
SALAのお昼の営業が終わった後、まずはお母さんたちとの出会いを聞くと、黒田さんからこんな答えが返ってきた。お店がオープンして3年というが、出会ったのは10年前とはどういうことだろう。その頃のお話から伺っていく。
「絵を描くことや、何かをつくることが好きで、学生時代は、当時学校になかった剣道部を立ち上げたり、一から何かを始めるのが好きでした。ですから “起業”という言葉に惹かれて入学を決めました。でも、そこが社会問題の解決を目指した起業家を育てる“社会起業”学科だとは気づかずに入ってしまったんです(笑)」
なんと痛恨の勘違い。社会起業学科出身という言葉を聞いて、なるほどと頷いた矢先のまさかのエピソードに、黒田さんと一緒に苦笑いする。しかし、その勘違いが、黒田さんをある出会いに導くことになった。
「日々、学ぶのは社会問題。社会にはこんな問題があって、こんなNGOがあって、こんな仕組みがあって……と。でも、いくら授業でそれを聞いても、私は、ぜんぜんピンと来なかったんです。困っている人に会ったわけでもなければ、支えている人の話を直接聞いたわけでもない。何かよくわからなくて……」
そこで黒田さんは、まずは出かけてみようと考えた。ホームレスの問題を調べるために日雇労働者が多く暮らす街に行き、障がいのある人のことを知るために施設を訪問するなど、実際に自分の目で見て、確かめることから始めた。
「そのなかの一つに外国出身の女性たちの生活相談を受けていたNGOがあり、そこで何人かの女性たちに出会いました」
彼女たちから聞く言葉に、黒田さんは衝撃を受ける。
ある女性は、ご主人の仕事の関係で20年近く日本に住んでいるにも関わらず、一人で出かけることができるのは、徒歩10分圏内にあるスーパーだけ。多くの時間、家に引きこもっていたという。
また、別の女性のご主人は日本人で、子どもたちも日本で育ち、みるみる日本語が上達していく。そのなかで日本の社会と関わりの少ない自分だけが取り残されるような、自分自身が小さくなったような感覚を味わい、すっかり自信をなくしていたという。
「10年前の当時、彼女たちの話は“社会問題”としては扱われないような“小さな”問題でした。彼女たちのような人たちがこの街で暮らしていることを誰も知らない。誰も彼女たちと“目が合わない”。“目が合う機会がない”んだと思いました。そして、それではあまりに生きづらい社会だと思ったんです」
何か自分にできないかと考えた黒田さんは、すぐにそのためのヒントを見つけることになる。
「お話を聞いたその日、彼女たちはお弁当を持ってきていたんです。あなたも食べてと差し出されて、いただいたお弁当が本当においしくて。私はそれまで本場のアジア料理を食べたことがなかったので、初めてのおいしさにびっくりしていたら、縮こまり、恥ずかしそうにぽつりぽつりとしか言葉を発しなかった彼女たちが、めちゃくちゃがんばって日本語で料理の説明をしてくれたんです」
料理のこととなると途端にいきいきとし始めたお母さんたち。どんな料理があるのかという話から、だんだんと自国のことについても話しだしたお母さんたちを見て、黒田さんは「これってすごいことだ!」と感じたと言う。
「お母さんたちは、自分たちの料理を特別だとか、自慢だとか、そんなふうには思っていませんでした。でも私は、こんなにおいしい料理をつくれるなんてすごいって思ったし、こんなふうにいきいき話す人たちが、たまたま異国に来たというだけで、自信をなくして、いろんなことができなくなってしまう。そんなの嫌だと思いました。誰かが手助けをしたら、環境さえあれば、力を発揮できるはずなのに、自分も含めて誰も気が付かず見過ごされてしまっている、そんな社会にいたくないって思ったんです」
そうして黒田さんは、お母さんたちと一緒に屋台イベントを開くことを思い立つ。1日だけ場所を借り切って、お母さんたちのさまざまな料理をみんなに食べてもらおうと考えたのだ。
「たとえば、台湾出身の游(ゆう)さんには、焼きビーフンを30食つくってくれるようお願いしました。家族以外の人にビーフンを焼いたことがない彼女は、本当に自信がないという表情で、しぶしぶ30食つくることを引き受けてくれました」
黒田さんたち学生チームはチラシをつくり、お母さんたちをサポート。初めてのイベント開催にどんな準備が必要か手探りだったと言いますが、彼女たちの心配をよそに、蓋を開けてみたらイベントは大成功!用意していた料理は午後2時くらいにはすっかりなくなっていた。
「イベントが成功したのがすごくうれしくて、やったーって喜び合いました。不安そうだった游さんも、焼きビーフンがあっという間に完売したことが、本当にうれしかったようで、イベント前とは全く違ういきいきとした表情になっていて。
このイベントによってお母さんたちも、学生も、一緒に自信をもらうことができたんです。参加してくれたのは、弱い立場にあると言われている人たちでした。でも、あの場では違った。力を合わせてイベントを成功させ、お互いに自信をつけることができたんです」
“お互いに”この言葉に力を込めた黒田さん。学生たちがイベントをやってあげて、それでお母さんたちが自信をつけたのではなく、力を合わせて成功させたことで学生たちも一緒に自信をつけることができた。
「誰もがこんな風に自信を持って生きることができ、互いの価値を認めあえたら、日本全体、社会全体がもっともっと良い世界になるんじゃないか。こんな小さなイベントでこれができるなら、さらに広げていけば、いつか社会を変えることができるのではないか」
このイベントを期に、この思いがむくむくと大きくなっていった。
「ボランティアを商売にするな」
その後もイベントを重ね、大学を卒業後は、お母さんたちが料理を担当する飲食店を開きたいと考えるようになった黒田さん。一方で、もやもやした感情も抱えていたという。
「学生がこうした活動をしているとすごく褒められるんですよ。若いのに社会貢献活動なんてえらいねぇって。でも、それでは違うなぁと思っていて。『学生が人のためにがんばってる、だから料理を食べてあげよう』そう考えてくださる方には、自ずと私達の思いは伝わっていきます。でも、社会貢献活動として関心の高い人にだけに届くのではいずれ行き詰まる。それでは、社会を変えことはできないと思いました」
また、ビジネスマンだったお父様とも口論が続いたという。
「『ボランティアを商売にするな』というのが父の言い分でした。私自身も、このままお店をオープンしてもすぐに潰してしまうのではないかという不安があり、卒業も間際になっていろいろ迷いましたね」
そして、黒田さんは就職しようと決める。それは、お店を繁盛店にするための決断だった。
「本当に社会を変えるためには、まずはめちゃくちゃ流行るお店にして、ビジネスとして成立させなくてはならないと思ったんです。そうすることで、今まで“目が合わなかった”人が、社会貢献とか以前に、おいしいお店、人気のお店として認識してくださる。お母さんたちがつくった料理をたくさんの人に食べていただくことができ、お母さんが自分自身の手でお給料を得ることもできる。お店の背景をお伝えするのはその後でいいと思いました」
そのために圧倒的に足りないのは集客力だと考えた黒田さんは、大手広告会社に就職。飲食店の広告営業担当になり、経営の問題解決などを手伝うなかで、自身でも飲食業に関する知識を得ていくと同時に開業資金も貯え、3年後に念願の『神戸アジアン食堂バルSALA』をオープンする。
「おいしい」と言ってもらってお金を得る
それが“ここでやっていく”自信になる
SALAのこだわりは、現地と同じ調味料を用いた本格的なアジア料理を提供すること。ランチタイムとディナータイムでキッチンスタッフを交代し、日替わりでアジア各地の味を楽しんでもらうことができる。店の外観や内装にもこだわった。店の中にいると前の小道を通る人が「なんのお店だろう」という表情で、覗き込んでいく。
「料理を食べて『おいしいですね、中に何が入ってるんですか?』と聞いてもらったり、壁の小物や絵を見て、『かわいいですね』とか、『どこの国のもの?』って、話しかけてもらえたら、ヨシって感じで、その国のことやこのお店の背景を話せます。そのためにもいろいろと飾っているんです。お客様の関心事が先にあって、そこから私たちのお話ができるほうが自然に耳を傾けていただきやすいし、結果的に思いが届きやすいと思うんです」
黒田さんの思いを世の中に伝える方法は、ほかにもあったかもしれない。でも、「おいしい」という誰もがうれしくなる感覚を媒体にして思いを伝えることは、「結局、何よりも早く、多くの人に伝わるのではないか」と黒田さんは言う。
でも、実際の経営は思ったよりもずっと大変だったと黒田さん。今では毎日たくさんの人が訪れるSALAだが、この3年の間には、何度も閉店の危機があったという。そんななか、どうしてがんばってこれたんですか?と伺うと、黒田さんはさらりと、でもきっぱりとした口調で言う。
「このお店がなくなってしまったら、お母さんたちの働く場所がなくなってしまう。だから絶対に潰すわけにはいかないんです。自分の国の料理を食べてもらい、お客様においしいですと言ってもらえる。働く場所ができて、自分自身でお金を得ることができる。それが、お母さんたちがここで(日本で)やっていく自信につながっています。そういう様子を見ていたらこちらも元気をもらうんです。毎日お店に来るとがんばろうと思える。お客様に気づいてもらうため、また来ていただくために、何ができるかばかり考えてやってきました」
そんな話をしていると、台湾出身の游(ゆう)さんがお店にやってきた。メリケンパークで行われているイベントに買い物に行く途中だという。私たちが黒田さんに話を聞きに来たと知ると、「こんどの土日のイベント、もしよかったら来て。お店でいつも出しているビーフンとはぜんぜん違った味のをつくるから。そっちも絶対においしいよー。来てねー」そう言って、帰っていった。
30食つくるにも自信がなかったなんて想像がつかないほど、明るく朗らかな游さん。
「最初の一歩を踏み出すお手伝いをするだけで、その人がもともと持っていた大きなパワーを発揮するというのを私は何度も見てきました。ちょっとしたお手伝いで、人はぐっと変わることがあります」
という黒田さんの言葉に深く頷いた。
自分とは違っていたとしても
まずは“理解”すること
そうはいっても、異なる文化背景を持った人と一緒にやっていくとき、困ったことや意見が食い違うことなどはないのだろうか? そう伺うと、お店での例を教えてくれた。
「お客様の残されたお料理を持ち帰るスタッフがいたんですね。それは日本の飲食店ではダメなんだって話をしました。でもただダメと伝えるだけでは、何故かわからないし、反発がある。だから、そういうときは、あなたの国ではどんなふうなの?って彼らの暮らしや、文化を聞くようにしています。そのうえで、でもね、日本ではこういう理由でダメなんだよと。そうすると、なぜ彼女が持ち帰ろうとしたのか、その背景を理解できるし、彼女も日本の考え方に耳を傾ける。大切なのはそうしたコミュニケーションだと思います」
食べ物や宗教など大事にしたいことが、みんなそれぞれにある。だから、さまざまな文化や価値観の人が集まった時、ただ仲良くなるというのは難しいと黒田さん。でもだからこそ、相手が大切にしているものやことを、自分とは違っていて共感はできなかったとしても、まずは“理解”することだという。
黒田さんの言葉や、働いているお母さんたちの様子に触れて、社会が異なるものを受け入れるプロセス「拒否」「無視・同化」「承認」「違いを活かし協働する」を思い出した。黒田さんは、まさに、「互いの違いを認める」「それらを活かし合う」を体現する場をつくっているのではないかと思ったのだ。
同時に、意識的に「拒否」したり「無視」するつもりはなくても、結果的にヘルプを求める人と“目が合う機会がない”まま暮らしていたり、「自分とは関係ないかな」と、そうした人について想像することができず、素通りしてしまうことがあるのではないかと考えた。
黒田さんは、そんな “目が合わなかった”人同士がお互いを活かしあう場をつくっている。
お母さんたちはここで自信と笑顔を取り戻し、SALAを訪れる人たちは、料理のおいしさを通して異なる文化の豊かさに触れ、お母さんのような存在に気づくことができるのだ。
最後に黒田さんはこんな話をしてくれた。
「最近、私自身で取り組んでいることもあるんですよ。新しいデザートの開発です。3年間、お母さんたちの料理をどんなふうにおいしく提供するかを考えてきました。それはもちろんこれからも続くのですが、この間お店の前のワゴンにイラストを描いていて、あぁ私こういうの大好きだったって思い出して。今度は私の番かなぁって思っています。3年経ちましたから、また新しい取り組みをスタートさせていきたいです」
お店に伺ったのは、お昼ごろだったのに、いつの間にか外は暗くなっていた。店の前で明るく手を振って見送ってくださる黒田さんから温かいものを感じた。黒田さんは、自分のやり方で、お母さんたちの、そして自分自身のエネルギーを生み出している。
身の回りをくるりと見渡してみること。それだけで目が合う誰かがいるかもしれない。もし目が合う誰かがいたら。そのとき、ほんの少しでも、お手伝いすることが私にもできるだろうか? そんなことを感じながらお店をあとにした。
取材・文:小谷実知世
こたにみちよ/ライター・編集者。京都市生まれ。大阪、東京を経て、現在は神奈川県・逗子市在住。インタビューをするなかで、話す人のおなかの中にある思いが溢れてくる、その瞬間に出会うのが一番のよろこび。写真家・田所瑞穂さんとのユニット、khorlo(コルロ)において、『ヨミモノコルロ』を発行中。
複雑な色で成り立つ社会のなかで。 想像しながら、生きていく。
私たちが今立っている場所は
多様性、ダイバーシティという言葉が街に溢れ、最近は、インクルージョン(包括・包含)という言葉も聞かれるようになった。
日本に住む外国人は、2019年度の総務省の人口動態調査によると、約266万人と過去最多を更新(ちなみに名古屋市の人口は約230万人)。東京都では20歳代の10人に1人が外国人だという。2019年4月には改正出入国管理法が施行され、外国人の数はさらに増えていくことが予想される。
また、me too運動の盛り上がりにより、さまざまな女性の声に焦点があたり、性的指向やジェンダー・アイデンティティを表す言葉として生まれたLGBTという言葉は、さらに多様な人々を表現するため、LGBTQIA+と、文字を増やしている。
こうした時代の流れは、とてつもなく早くて、明日にもまた、新しい言葉が生まれるかもしれない。私たちは今、そういう社会を生きている。
どんどん生まれてくる言葉や、数字や現象が表すのは、私たちが関わる人や社会が “複雑”になってきている、ということではないかと思う。あるいは、そのことに目を向けはじめた、ということかもしれない。これまで一色だと感じていた家族が、町内が、会社が、街が、もっとさまざまな色合いで成り立っているということに。それには、時代の潮流やSNSの普及も後押ししているだろう。
そうして私たちは今、「誰もが自分らしく生きるには?」「みんなが混ざって暮らすには?」を考える、出発点に立っているのではないだろうか。
ここからの道のりは、ワクワクするようなエネルギーを含みながらも、同時に戸惑いや面倒に感じることも生じさせるだろう。なぜなら、異なる文化や考え、思いを持つ同士が、ともに歩むことになるからだ。
そんな時、手がかりとなるのは、想像する力、想像できるだけの交わりや情報ではないかと思う。
だから、この道のりの先を行き、「誰もが自分らしく生きる」「混ざって暮らす」ことに向き合い、場をつくる人たちから、想像する力や想像できるだけの情報を得るための知恵や術を教えてもらいたいと思う。
戸惑いがあっても、時間がかかっても。
想像しながら、生きていく。
それはきっと、これからを生きるうえで、とても大切な力になると思うのだ。
取材・文:小谷実知世
こたにみちよ/ライター・編集者。京都市生まれ。大阪、東京を経て、現在は神奈川県・逗子市在住。インタビューをするなかで、話す人のおなかの中にある思いが溢れてくる、その瞬間に出会うのが一番のよろこび。写真家・田所瑞穂さんとのユニット、khorlo(コルロ)において、『ヨミモノコルロ』を発行中。
誰もが自分のルーツに自信を持てるように。外国人とまちの人との接点を生み出す。
雲南に恩返しをするため、
Iターンを決意した
雲南市の中心部・木次町(きすきちょう)の日登(ひのぼり)地区。十数段ほどの石段を登った先に佇む古民家が「うんなんグローカルセンター」の事務所兼「多文化カフェSoban」です。カフェは気まぐれ営業ですが、定期的に多文化に触れ交流できるイベントを開き、雲南で暮らす人々が気軽に立ち寄れるようにしています。
李さん・芝さんは国際結婚。李さんはソウルで生まれ育ち、移民女性をサポートする団体で働いていました。芝さんは横須賀出身で、2002年に日本語教師として韓国へ。ふたりは韓国で出会って結婚し、2012年、李さんが雲南市の国際交流員に採用されたのを機にこのまちへやってきました。
国際交流員とは、地域の国際化を進める地方公共団体が招聘する人材で、任期は最長5年。イベントの企画などを通してまちの人々にあたたかく受け入れられた李さんは、「雲南に恩返しがしたい」と思うようになり、そのまま雲南に残り、芝さんと市民団体を立ち上げました。
「雲南には、外国出身者が生活の情報を得たり地域の人たちと関係を築いたりできる場所がありませんでした。自分は国際交流員という立場だったのでさまざまなサポートが得られましたが、日本語が読めない、日本の制度がわからない、頼れる人がいないという外国人はたくさん困りごとがあるはず。彼らをサポートして、雲南がすごくいいまちだということを知ってもらえたらと思ったんです」(李さん)
2018年6月、ふたりは市民団体を発展させて「うんなんグローカルセンター」を設立。雲南市から多文化共生事業を受託し、さまざまな形で外国人市民の暮らしを支えています。
外国人が自分らしく活躍できたら、
地域に豊かさが広がる
では、雲南に住んでいる外国人って、どんな人たちなのでしょう?
「現在、雲南には18カ国222人の外国籍の人たちが住んでいます。多いのは中国人、フィリピン人、ベトナム人。そのうち半分は技能実習生、残り半分が私たちのように国際結婚した人たちですね」(芝さん)
技能実習生は縫製工場や酪農場などで働いていて、市内のあっちにひとり、こっちにふたりと点在しています。自家用車もなく、仕事も土日休みとは限らないので、地域との接点を持ちづらいのだそう。
「地域のお祭りがあっても自分たちが参加していいものかわからない、地域の人も気になっているけどなんて声をかけていいのかわからない。お互いに迷っているんですね。でも、一度接点ができると、“外国人と日本人”ではなく、“誰々さんと誰々さん”の関係になって、声をかけ合うようになるんです。雲南の人は仲良くなってしまえばすごく親切ですから」(李さん)
うんなんグローカルセンターでは、技能実習生を受け入れている事業所に外国人向けの防災訓練を提案したり、島根県が行う日本語学習プログラムを提案したりしながら、事業所と実習生、さらに地域の人との関係性をつないでいます。
また、国際結婚の場合、見た目の違いから配偶者や子どもが奇異な目で見られることがあります。そこで、うんなんグローカルセンターに集う外国出身者8人で多文化チームを組み、市内の小中学校で「多文化教室がやってきた!」という出張授業を行っています。チームのメンバーや保護者が自分の国の文化を紹介したり、給食にその国の料理を取り入れてもらったりしながら、多文化共生の大切さを伝えるという内容です。
「生徒たちからも好評で、アンケートに『外国人が怖い、英語は嫌い』と書いていた子が、『みんな同じ人なんだとわかった。これから街中ですれ違ったら挨拶しようと思う』『いろんな国のことばを覚えたい』と変化するんです。実際、積極的に挨拶してくれていますね。外国にルーツを持つ生徒も、お友達が自分の国に関する授業や料理を喜んでくれると、自分のルーツに自信を持つことができるんですよ」(芝さん)
「楽しい」や「おいしい」を起点に、クラスメイトや同じまちで暮らす外国人の背景への興味や親しみが生まれていく。自然な形で“違う”ことは悪いことでなく、むしろ楽しいことという意識が育ちそうです。
学校以外でも、外国人同士がつながる場、地域の人もU・Iターン者も外国人も関係なく一緒に楽しめる場など、多様な交流の機会をつくっています。
その一例として、多文化チームのメンバーのひとりで、タイ人のダルニーさんに母国の伝統芸能であるタイ舞踊を踊ってもらう・教えてもらう会を開いたことも。普段は介護施設で働いているダルニーさんですが、実はプロのタイ舞踊家。そのしなやかで美しい踊りには喝采が上がり、小学生の息子さんが「タイの楽器をやりたい」と言いはじめたそう。
「母国以外の国に行くとどうしても職業選択の幅が狭くなるから、母国では専門的な職業に就いていた人、すごいスキルを持った人が埋もれていたりするんです。そういう人が自分の特技を発揮できる機会をつくれば、地域に豊かさが広がるでしょう。ダルニーさんも、まちの人が喜ぶ姿を見て『本当に嬉しいことだ』と話していました」(李さん)
子どもが授業についていけず
人知れず悩む状況を無くしたい
言葉のサポートも大事な仕事のひとつです。うんなんグローカルセンターでは、日本語が苦手な外国人に向けて、病院や市役所への同行・通訳、訪問型日本語教室へのマッチングのお手伝いなど、幅広い支援を行っています。後者は日本語学習を希望する人の元にボランティア講師を派遣するという島根県の事業で、運転免許を持っていない人や技能実習生はとても助かっているそうです。
子どもに対しては、教育委員会が幼稚園・小学校と連携し、就学前に外国にルーツのある子を把握。保護者と意思疎通を図りながら、必要に応じてうんなんグローカルセンターが日本語指導員を派遣しています。こうすることで、「小学校の授業についていけない」「友達と意思疎通ができない」という状況を未然に防いでいるのです。
「家庭で日本語を使っていないと、小学3、4年生になってから語彙力に大きな差が現れます。そうなってから追いつくのはとても大変。外国籍の生徒には先生も気をつけてくれますが、日本で生まれ育っているけれど親が日本語を苦手としている生徒は見落とされがちです。ある程度のコミュニケーションはできるし、生徒もわかっているふりをしてしまうから。担任の先生だけで対応するのは限界があるので、日本語指導支援員がサポートするんです。
また、保護者にも日本の教育システムや習慣を伝え、学校で配布される資料を読むお手伝いなどをしています。家族の都合優先で1カ月学校を休ませたり、遠足などのときにお弁当をつくってこなかったり、ということが往々にしてあるんです。文化や考え方が違うだけなので保護者に悪気はないのですが、困るのは子どもです。多方面からのアプローチが必要ですね」(芝さん)
私たちの挑戦を、
行政や地域の人たちが後押ししてくれる
それにしても、雲南にIターンをして数年のふたりが、こんなにも幅広く手厚い支援の数々を担っていることに驚きました。そう伝えると、李さん・芝さんは「行政や地域の人たちの力添えがあったおかげです」と口を揃えました。
「就学前支援については、最初私たちが3カ月ほど幼稚園にボランティアとして入り、日本語指導をしたんです。小学校入学前に着実に日本語力を積み上げることができたので、その効果と必要性を幼稚園と小学校から教育委員会に伝えてもらいました。市職員のみなさんも、外国にルーツのある子どもたちがそれまで見えない困難を抱えていたことを知って、『雲南は子どもにやさしいまちを目指しているのに、いまのままじゃだめだ』と、翌年には就学前支援を市の事業にしてくれました。本当に、心ある方々ばかりなんですよ。小学校では、ひとりの生徒のために教育委員会の方や先生など何人もの大人が集まって、『どうしたらこの生徒が健やかに学べるか』を真剣に考えてくれるんです。こんなまち、なかなかないと思います」(芝さん)
ほかにも、この特集内で紹介してきた地域自主組織が技能実習生と交流会を開いたり、中高生が認定NPOカタリバや教育委員会のサポートを得ながら、多文化共生をテーマにした学習をしたりと、雲南市では多くの人が「外国にルーツのある人たちも幸せに暮らせるまちにしよう」という意識を持って動いています。
「私たちがこうして活動できているのも、コミュニティナースの矢田明子さんをはじめ、さまざまな方がチャレンジの渦をつくり、あるべき姿を示してくださったからです。だから私たちは、その背中を追いかけることができました」(芝さん)
挑戦する人がいて、それを力強く応援する人たちがいる。雲南でチャレンジの連鎖が起きる一番の理由なのかもしれません。
今回、うんなんグローカルセンターの取り組みを知って、こんな場所がどのまちにもあったらいいのに、と思いました。同じような困りごとを抱えている外国人や外国にルーツのある子どもたちは、全国にたくさんいるはずです。何よりも、開催されているイベントがどれもとても楽しそう。日本人同士でも、考え方や趣味嗜好、大事にしていることは人それぞれ異なるもの。お互いの違いを受け入れ、楽しむ文化が浸透したら、誰にとっても暮らしやすいまちになるのではないでしょうか。
※この記事は、一般財団法人澄和によるジャーナリスト支援プログラムの採択を受けて取材しました。
さまざまな人が混ざり合い、助け合うまちを目指して。耕作放棄地を再生した茶畑で障害者が働く「尺の内農園」
高齢者も障害者も、地域の中で暮らせるように
あおぞら福祉会は、1990年から雲南で活動する社会福祉法人です。子どもたちが地域の田畑や里山で泥んこになって遊び育つ保育園や学童クラブ、高齢者が自分の力を活かして暮らすためのグループホームにデイサービス、障害者向けの生活介護事業所などを幅広く経営しています。
「保育園を始めたのは母親で、高齢者向けのサービスは僕が東京から雲南に帰ってきて立ち上げました。昔は認知症になったお年寄りは『人様に迷惑をかけるといけん』と家の中に閉じ込められていて、障害者は山奥の施設に集められ、地域の人と関わらずに暮らしていたそうです。
でも、1994年に認知症になった方々がお互いに助け合いながら自分らしく暮らすグループホームが出雲にできて、その取り組みに感銘を受けたんです。雲南でも取り入れようと地域の家庭をまわって声をかけたら、最初はご家族の方に『迷惑になるから』と遠慮されました。それでも、『それが僕らの仕事なので大丈夫です』と説得して、1998年に認知症の方に向けたデイサービスを始めました」(森山さん)
養老孟司と宮崎駿の対談を収録した『虫眼とアニ眼』という本に、宮崎駿が“理想のまち”として描いたスケッチがあります。緑いっぱいのまちなかを子どもたちが走り回り、お年寄りも元気なうちはまちのために働く。ホスピスは保育園に隣接していて、園児が病室に遊びにやって来る。子どもは子ども、高齢者は高齢者、病人は病人と分けず、さまざまな人が混ざり合い、力を合わせて助け合いながら生きるまち。森山さんは、こんな風景を雲南につくりたいのだといいます。
「そのスケッチには描かれてなかったけど、障害者も同じように地域の人と一緒に働いて暮らせたらもっといいですよね。地元の人たちからの要望もあって、2012年に障害者の生活介護事業所と相談支援事業所を開設しました。
さらに就労支援事業所もつくりたいな、と思っていたときに舞い込んできたのがぶどうの話です。雲南に工場を持つある大手メーカーの会長が、『寄付をするから、障害者が働くぶどう園とワイナリーをつくれないか』と雲南市に提案してくださったんです。雲南のまちづくりを熱心に応援してくださる方で、ほかの地域で社会福祉法人がワイナリーを経営して成功しているのを見て参考にされたようです。よく大企業が障害者福祉を支援する取り組みをしているけど、一過性のものも多いと聞きます。そういうものじゃなくて、障害者が自立して暮らしていける仕組み、ちゃんと稼げる仕組みをつくりたいとずっと考えていたそうです」(森山さん)
よそ者の提案を
柔軟に受け入れる懐の深さ
この提案を受け、雲南市が最初に立てた計画は、1.5ヘクタールのぶどう園を造成し、ワイナリーを建てるというものでした。その話を耳にして「待った」をかけたのが、たまたま雲南を訪れていた健一自然農園の伊川健一さんです。19歳のときから20年近く奈良でお茶を自然栽培し、農福連携にも取り組んできた伊川さんは、この計画にいくつか疑問点を感じたといいます。
「まず、豊かな山を1.5ヘクタール分も削るというのがもったいないですよね。雲南市内には耕作放棄地がたくさんあるから、そっちを再生・活用することを考えたほうが自然です。それに、そんな広さのぶどう園を管理することが障害者の方々にとって良い就労になるかわからない。醸造所をつくるにはさまざまな機材も必要です。数年経ってぶどうが実ったけれどワインに合わなかった……なんてことになったら目も当てられません。せっかくの想いを無駄にしないよう、本当に障害者の方々のためになって、経営的にも見通せる計画にすべきだと感じました」(伊川さん)
伊川さんの意見を聞いた雲南市政策企画部の佐藤部長が発したのは、「じゃあ君、新しい計画案を練ってみてくれないか」という言葉でした。
「過去に別の地域で、同じようにほんまに大切だと思うことを言って行政を出入り禁止にされたことが何回かあったんですよ。『言ってることは正しいけど受け入れられない』って。でも佐藤部長は、初めて会ったよそ者の口出しを真剣に聞いてくれて、計画案を提出したら、すぐに市長さんや副市長さんに話をつないでくれました。雲南市は柔軟で懐が深いまちだって聞いていたけど、日本の雛形になるような取り組みができる地域やなと直感しました」(伊川さん)
そこで、伊川さんが描いた案は次のような内容でした。
「ぶどう園は最小限の面積で始めて、醸造は雲南市内にある奥出雲葡萄園にお願いする。ここは良質なワインをつくっているすばらしいワイナリーですが、ぶどうが足りてないんです。ぶどうの供給量が増えれば、奥出雲葡萄園の売り上げにも貢献できる。
そうやってまずは『いいぶどうをつくったら奥出雲葡萄園が買い取ってくれる』というスキームをつくって、地域の人たちにも耕作放棄地を開墾してぶどうを植えてもらう。障害者の方々が管理や収穫の手伝いをすれば、地域の人との関わりも日常的なものになりますよね。1.5ヘクタールのぶどう園に自分たちだけで閉じこもるよりずっといい。でも、ぶどうが実るまでには数年かかるし、冬場は暇になります。その間の仕事や収入源として、お茶をつくる。僕が奈良でつくっている三年晩茶の製法なら初期投資も少なくて済むし、冬場に作業するからちょうどいいと思いました」(伊川さん)
昼夜の寒暖差が激しい雲南は、もともとおいしいお茶のできる産地でした。しかし、現在では専業農家は激減し、市内のあちこちに耕作放棄された茶畑が残されていました。数年放置されると残留農薬が無くなるため、自然栽培のお茶として育てることができます。伊川さんは、これを活用しない手はないと考えたのです。
「僕自身、奈良で培ってきた茶園づくりのモデルを、ほかの地域に移植できないかと考えていたんです。でも、新しいことを始める人に協力的じゃないまちでやってもうまくいきません。雲南なら、あおぞら福祉会が育んできた関係性もあるし、いいお茶ができたら行政のみなさんは絶対にバックアップしてくださる。『ここなら絶対うまくいく』と確信を抱きました」(伊川さん)
伊川さんが初めて雲南に来たのが2017年の8月。その後すぐに計画案がまとまってぶどう園の造成や茶工場の建設が進み、翌年の2018年12月には「尺の内農園」が開園となりました。
「すごいスピードですよね(笑)。最初にぶどうの話が出たときは、作業の一部をお手伝いできたらいいな、という程度だったんです。でも、伊川くんの構想を聞いて、『それなら一緒にやりたい』と運営主体になる決心をして。あれよあれよという間に、いまの形になりました」(森山さん)
季節ごとのお茶会やお茶摘みで、
地域の人との“関わりしろ”をつくる
尺の内農園の面積は、ぶどう園が2500平米、茶畑が3000平米。茶畑では、あおぞら福祉会の職員と障害を持つ人たちが協力して収穫し、茶工場で焙煎しています。また、雲南市加茂町の砂子原茶業組合が管理する既存茶園の茶葉を収穫させてもらい、和紅茶に加工することもしています。
「森山さんが、『利用者の月ごとの仕事を表にしたら、ちょこちょこと手が空く時期がある』と言うんですね。それで、合間合間につくれる和紅茶もやりましょうと提案しました。試しに茶葉を摘んで紅茶を淹れてみたら薫り高くまろやかで、『これは勝負できる』と思いました」(伊川さん)
尺の内農園の取り組みは始まったばかりで、まだ “障害者が自立して暮らせる仕組み”が実現したわけではありません。けれど、ふたりは口を揃えて「将来的に可能性はある」と語ります。
「自然栽培の三年晩茶と和紅茶は普通の緑茶より収益性が高いし、安定して売れるようになれば地域の人を雇うこともできます。人手が増えれば茶畑は増やせるし、観光農園化できる。雲南のように幸せなコミュニケーションが広がっている農福連携の事例はまだあまりないので、視察の受け入れをしたり、ほかの自治体にノウハウを伝えたりもできるでしょう。いろいろな形で仕事をつくっていけば、実現できると思っています」(伊川さん)
一方、地域の人との交流は少しずつ進んでいます。植樹祭では子どもたちがぶどうの木を植え、茶葉の刈り取りの時期は長年お茶栽培に取り組んできた地域のお年寄りたちが協力してくれたそう。今後は季節ごとに地域の人を招いてお茶会を開いたり、お茶摘みやぶどうの収穫を手伝ったりしてもらうことも計画しています。
子どもも大人も障害者も一緒になって働き、笑い合う。森山さんたちが思い描いた風景が日常のものとなる日は、そう遠くないかもしれません。
※この記事は、一般財団法人澄和によるジャーナリスト支援プログラムの採択を受けて取材しました。
地域を生きた教材として、子どもが学び成長していく。雲南から始まる新しい教育のかたち
「公教育の魅力化」と「不登校支援」
ふたつの事業で雲南の教育現場を変える
まずは簡単に、背景の説明を。雲南市は中山間地域にある人口4万人弱のまちで、高齢化率は36.5%。日本の25年先を行く課題先進地と言われています。苦境に際し雲南市が見出した活路は、住民のチャレンジを応援し、課題“解決”先進地となることでした。
そこで、まちの将来を担う子どもたちにオリジナルで質の高い教育を提供し、地域の課題を解決できる人材を育てようと、カタリバが誘致されました。カタリバは、学校に多様な出会いと学びの機会を届け、社会に10代の居場所と出番をつくる活動を行う認定NPO法人。全国各地でユニークな教育プログラムを展開しています。
2015年、カタリバと教育委員会は教育支援センター「おんせんキャンパス」を開設し、「公教育の魅力化」と「不登校支援」というふたつの事業を始めました。鈴木さんは教育魅力化コーディネーターとして市内の高校に出入りし、池田さんは市内の不登校児童生徒のサポートを行っています。
それまで雲南とは関わりがなかったというふたり。なぜ雲南に来て、こうした事業に携わることを決めたのでしょうか。
「僕は大学時代にカタリバでインターンをしていて、4年生のときに東日本大震災の支援で宮城県の女川に行きました。職場体験プログラムのコーディネートを担当したのですが、女川は甚大な被害を受けた地域なので、職場なんてないんですよ。でも、地域の人たちは『復興していく様子を子どもたちに見せたい』と話していて。
僕自身は東京で生まれ育って、まちに対する思い入れはそれほどありませんでした。女川に来て、子どもが育っていくまちのこと、教育のことに思いを持っている大人がたくさんいることを知って、『いつかこういう人たちと仕事がしたいな』と思いました。それがいまの仕事の原体験になっています。
大学卒業後は一般企業に就職したのですが、3年経った頃にカタリバで働いていた友人から『雲南に拠点をつくるからやらないか』と誘われ、転職・移住しました」(鈴木さん)
「僕は元々、新潟で中学校の教員をしていました。担当している生徒の中にも不登校の子がいて、いつも『教師として何ができるだろう、そもそも自分との関わりだけで本当にいいんだろうか』と自問自答していました。学校がすべてじゃないし、もっと多様な学びの場があってもいいんじゃないかと。
一方、僕自身忙しさから体調を崩してしまって。休養中に、学校外で教育に携わっている方々に出会い、『こういう人たちと学校が協働できればいいのに』と強く思ったんです。それがきっかけでカタリバに転職し、岩手県の大槌町で放課後の学習支援をしていました。程なくして雲南で不登校支援事業を立ち上げると聞き、迷わず雲南に移住することにしました。自分が一番取り組んでいきたいテーマだったから」(池田さん)
地域の中に自分の“出番”を見つける
鈴木さんは雲南市内の高校で週に1〜2回行われる「総合的な探究の時間」を担当しています。これは生徒が自ら課題を発見し、解決に向けて探究することを促す授業です。
通常の授業や部活動の指導だけでも忙しく、常に時間に追われている教員には、子どもを地域とつなげるようなことまで手が回りません。そこで、鈴木さんがこの授業を受け持ち、子どもの興味に合わせてさまざなジャンルの人や物事を紹介しているのです。
探究の時間は、まず地域の大人を80人ほど学校に呼び、「トークフォークダンス」を行うことから始まります。フォークダンスのように大人と生徒が輪になり、1対1で数分間対話することを繰り返します。生徒は自分がいま何に興味・関心があるのかを話し、大人はそれに耳を傾け、質問やアドバイスをします。こうしたワークを通して生徒は自分自身を掘り下げ、探究の時間で取り組むテーマを決めます。
探究は4人1組のチームで行いますが、授業時間内に終わらないこともしばしば。そこで週に1度、希望するチームが課外活動を行う「放課後チャレンジラボ」を開催。この中で地域の人を呼んでディスカッションをしたり、まちに出て調査したりします。
「雲南の人たちはとても協力的で、農林業に関心のあるチームが森林バイオマス事業に取り組む『グリーンパワーうんなん』の現場に行ったときは、おじさんたちがノリノリで準備してくれていました。間伐体験など普段できないような体験をさせてもらい、なぜ雲南で林業が栄えたのか、歴史を遡って教えてくれて。生徒たちは『何もないと思ってたけど、すげえじゃん雲南!』と、地元の価値を見直していました。
医療福祉をテーマとするチームは、雲南で訪問看護を行う『コミケア』が開く健康サロンに参加させてもらったんですが、おじいちゃんおばあちゃんは『孫が来た』と大喜び。看護師を目指していたある生徒は、『地域の中で医療に携わることもできるし、いまの自分でも役に立てることはあるんだ』と気づいてハッとしていました。そうやって地域の中に自分の“出番”を見つけるんです」(鈴木さん)
雲南市には、ふるさと納税を使って中高生のプロジェクトを支援する『雲南スペシャルチャレンジ』という制度があります。この制度に応募するチームも現れ、実際に多文化共生について活動するチームの生徒は韓国へ研修に行きました。
「韓国の先進事例を見てきた生徒は、『雲南も多文化共生に取り組んでいるけど、道路標識や公共機関のサインなどハード面はまだ全然追いついていないし、外国人が地域に参画できる仕組みが必要だよね』と話していました。これから市に具体的な提案していくそうです。
生徒が学校の外に出て学びや気づきを得て、それをまた学校の中に持ち帰って探究していく。それも世界と比較しながら。ダイナミックでおもしろい教育の循環が生まれていると思います」(鈴木さん)
こうした取り組みによって、市が行ったアンケート調査で「ふるさとが好き」と答える高校3年生の割合が、3年間で67%から92%へと増加。また、中学生の市内高校進学率が2年で60%から68%に上向きました。
「これまで、意識の高い子ほど市外の高校へ進学する傾向があったんです。でも、高校の魅力化に取り組んだことで、好奇心旺盛で物事に積極的に取り組む子たちが地元の高校を選ぶようになった。これは大きな希望だと捉えています。
市内には大学がないので、高校卒業のタイミングで市外に出て行く子は依然として多いですが、卒業生に高校の授業に関わってもらうこともしていて。『雲南はおもしろいから関わっていきたい』と、イベントや休みの度に帰って来てくれています。ゆくゆくは彼らの中から、未来の雲南の担い手が生まれるかもしれません」(鈴木さん)
不登校の時期を通して、
子どもが自分を見つめ直す
一方、池田さんは、カタリバの拠点であるおんせんキャンパスを中心に、不登校の子どもたちをサポートしています。ここでは対話形式の授業を行うほか、家から出られない子どもに対しての家庭訪問や、学校には行けるけれど教室に入れない子どもに学校の保健室や相談室を使って勉強を教えています。
池田さんらが行う不登校児のサポートの特徴は、地域・行政・学校と密に連携を取っていること。農作業やものづくり、地域行事への参加など、多様な体験活動を実施しています。学習や体験活動の様子は毎日レポートで学校と共有。再登校の際に、スムーズにバトンタッチできるようにしているのです。
「不登校の子どもはもちろん、そのご家族のサポートも大切にしています。子どもが学校に行かなくなると、保護者の方も地域の行事やママ友の集まりに参加しにくくなり、家族全体が孤立していく傾向があるんです。それを防ぐために、定期的に保護者の勉強会や懇親会を開催し、横のつながりをつくれるようにしています」(池田さん)
目指すのは、子どもたち一人ひとりが「自分にとってのベスト」を叶え、自立すること。再び学校へ行くことを目標にする子もいれば、中学の間は自分のペースで学び、高校からの復帰を目標にする子もいます。なお、これまで7割以上の子どもが再登校を叶えたといいます。
「中学で学校に行けなくなったけれど、地元の高校に進学し、そこからは皆勤賞になった子もいます。成績もトップで、『人に教えるのが好きだから教員になりたい、でも一度は地元の企業で社会人経験を積んでみよう』と、自分で調べて自分で考え、進路を決めていました。
その子はおんせんキャンパスに通い始めてから、それまで漠然と興味のあったことに次々と挑戦していったんですよ。卓球にハマってラケットを買ったり、家で生き物を育てたり。この時期に『自分で考えてやってみる』という体験をしたことが、自分の意志で進路を考えて決めることにつながったのかもしれません。
印象的だったのは、保護者の方が『この子にこんな一面があったんだ』と話していたこと。不登校になる前は、本人が何かに興味を示しても、『どうせすぐやめるでしょ』と受け流していたそうです。現代は親も子も忙しく、時間の制約もありますからね。それが、不登校になってある意味でゆとりが生まれた。『子どもの興味や成長に気づけて本当によかった』とおっしゃっていたことを覚えています」(池田さん)
不登校になったことで、自分を見つめ直す時間が生まれ、家族との関係性も変わった——。これまで不登校に対して、私自身漠然とネガティブなイメージを抱いていましたが、考え方次第では子どもにとってすごくいい時間になるのかもしれない、と思いました。
既存の教育が悪いわけではありませんが、決められた内容を、決められた順番で、決められたスピードで教えられることで、本来好きだったことや自分から物事に取り組んでいく意欲を見失ってしまう子もいるのでしょう。自分の興味・関心に合わせ、自分のペースで学びを得ていく時間を必要としている子が、実はたくさんいるのかもしれません。
「別の子は、おんせんキャンパスに通いながら音楽を始めて、地域に師匠と呼べる人を見つけ、ライブで演奏するまでになりました。同年代ではなくて、大人と一緒に演奏しているんです。高校を辞めそうになっていた時期もありましたが、『将来音楽関係の仕事に就きたいから』と専門学校を目指し始めました。好きなことが見つかったこと、さまざまな形で音楽に携わる大人と出会えたことが大きかったんじゃないかな。
子どものうちはさまざまなサポートが受けられるけど、大人になったら自分の力でやっていかないといけない。そのときに、地域の中にいろんなつながりがあれば、セーフティネットになるかもしれません。おんせんキャンパスのプログラムでも、できるだけたくさんの出会いをつくってあげたいと思っています」(池田さん)
地域の課題が子どもたちの生きた教材となり、物事を解決していく力を育む。子どものチャレンジを地域の大人たちが全力で応援することで、まちに愛着を持つ次の世代が育っていく。
ふたりのお話を聞き、雲南ではいま、健やかな循環が生まれようとしているんだな、と感じました。でも、これは雲南に限定される話ではないはずです。地域の子どもたちが育っていく手助けがしたいと思っている大人は、全国にたくさんいるはず。
雲南で起こっている新しい教育のかたちが、ほかの地域にも広がっていくかもしれません。
※この記事は、一般財団法人澄和によるジャーナリスト支援プログラムの採択を受けて取材しました。
暮らしに寄り添い、まちの人々と元気をつくる「コミュニティナース 」
看護師がまちの中にいて、
病気になる前に相談することができたら
コミュニティナースの元になっているのは、医療従事者が地域の中で病気・障害を抱える人やその家族の暮らしを支える「コミュニティナーシング(地域看護)」という概念です。矢田さんは看護学生時代にこの言葉を知り、強く興味を引かれたといいます。
「当時読んでいた本に、コミュニティナーシングに近いものとして、1960〜1980年代の日本では行政保健師が地域に駐在し、住民の相談に乗っていたと紹介されていました。でも、財政難などから次第に人員削減され、所定の場所や専門機関に常駐するようになり、1997年に駐在制度は廃止されたそうです。そっかぁ、でもまちの中にいた方がいいじゃんね、とさらに調べていくと、海外ではいまでも集落単位でコミュニティナーシングを実践しているところがたくさんあったんです。
目の前に広がる景色、いわゆる病院でしか健康相談ができないという現状は、政策や制度によって形づくられているけれど、もしかしたら自分で変えることだってできるのかもしれない。それなら、自分たちが暮らすまちに合った形で、まちの人と一緒になってやってみようと思いました」
そもそも矢田さんが看護師を目指すようになったのは、働き盛りだった父をがんで亡くしたことがきっかけでした。看護師がまちの中にいて、普段から地域の人たちの健康や暮らしの相談に乗ることができれば、父のように病気の発見が手遅れになる人を減らせるんじゃないか。そう考えた矢田さんは看護学生仲間を集め、子育て中のお母さんを対象とした健康イベントをカフェで開きました。すると、参加者の一人が検診を受け、乳がんを早期に発見できたといいます。
「このとき気づいたのは、人が健康に関心を持って行動に移す動機となるのは、楽しさやうれしさ、何よりも看護師をはじめとした健康の専門家との関係性なんだということ。お母さんたちは『おしゃれなカフェに集まれて楽しい』という動機で参加していたし、仲良くなった私たちがそんなに気にかけてくれるなら、と検診に行ってくれたんです。そういう関係性をつくることがすごく大事なんだなと思いました」
こうした実践を繰り返す中で、矢田さんは雲南市の人材育成事業「幸雲南塾(こううんなんじゅく)」に誘われ、1期生として参加します。これがきっかけとなって、幸雲南塾の卒業生をサポートする中間支援組織「NPO法人おっちラボ」の立ち上げを行い、代表理事にも就任。矢田さんの積極的な活動と雲南市のサポートにより、市内では多様な予防医療活動が広がっていきました。取り組みは話題を呼び、矢田さんの元には「自分もコミュニティナースになりたい」「うちのまちにもコミュニティナースを取り入れたい」という相談が殺到するように。
それらの声に応えるため、2017年春、矢田さんはコミュニティナースを育成する講座の運営や、受け入れ地域・団体へのアドバイザリー業務を行う会社として「Community Nurse Company」を設立しました。講座の受講生はこれまでに160人を超え、全国に実践者が広がっています。
雲南でも地域おこし協力隊に似た独自の活動として、鍋山(なべやま)地区に配属された女性看護師が高齢者への声かけや健康情報の発信を行ったり、「おっちラボ」のスタッフになった男性看護師が軽スポーツや対話のイベントを開いたりと、コミュニティナースが地域に溶け込んで活動する光景が日常のものとなっています。
住民を巻き込んだ
「地域おせっかい会議」
2019年8月には、雲南市木次地区にCommunity Nurse Companyの拠点が誕生しました。地元をよく知る住民に管理人になってもらい、誰もが気軽に立ち寄れる場所として地域に開放しています。
「毎日いろんな人が来てくれますね。車いすの人やデイサービスに通っている人も来ますが、赤ちゃんの子守りなどできることがあればしてもらっています。“してあげる側・してもらう側”と役割が固定された関係ではなくて、お互いに関わりあうほうがいいな、と思って」
楽しく集える場で信頼関係を築き、日常的に健康相談に乗り、病気の早期発見につなげる。そうした数値化しやすい成果も大事にしていますが、矢田さんたちが本当に大事にしているのは、「まちの人たちと日々の“うれしい”や“楽しい”を一緒につくって元気になる」という、目に見えにくい部分だといいます。
「事務所の近くに昔ながらの商店があるのですが、人口減少や少子高齢化でお客さんが減って、店主のおじさんは意気消沈していたんです。でも、コミュニティナースやその周辺の若い子たちが商店街に来るようになると、おじさんが数年ぶりに新商品を入荷したんですよ!『若い子はプリン好きだろ?』って、抹茶プリンを。いまの若い子はプリンよりタピオカでは……と思いましたが(笑)、これってすごいことだなと感動しました。
新しい関係性が生まれたことで、おじさんが意欲を取り戻し、まちの景色が少しだけ変わった。私たちが大事にしたいのはこういうことだなと改めて思いました。何が私たちにとっての成功か?を常に確かめ合いながら進んでいけるといいなと思っています」
こうした流れを加速させるため、最近では理髪店の店主や郵便局員など看護師の資格を持たないまちの人も一緒になって活動する「地域おせっかい会議」も始めました。月に1度会議を開き、「最近髪を切りに来たおばあちゃんが元気なさそうだ」「じゃあ配達のついでに声をかけてみよう」と、みんなでおせっかいを焼くのだといいます。
「一人暮らしのお年寄りに顕著ですが、孤独、不安、退屈といった感情の取り扱いに困っている方はたくさんいるな、と感じています。そういう方を見逃さないために、看護師以外の方々にも協力していただこうというプロジェクトです。
看護師の資格を持っていなくても、コミュニティナースに近いおせっかいな意識、周りの人がどうすれば元気に暮らせるかをいつも考えている人は地域の中にいます。その方々が自分の役割を自覚し、仕事の立ち位置を絡めて積極的におせっかいを焼いていけば、もっと影響力が大きくなるし、まちの景色はもっと変わっていくはず。もしかしたら、おせっかいを焼かれて元気になった人が、今度はおせっかいを焼く人になるかもしれません。
これが実現したら、離れて暮らしているお子さんやお孫さんも安心できると思います。まだ始まったばかりだけど、『地元におせっかい会議があってよかった』『お父さんもおせっかい会議に行きなよ』と言ってもらえる存在になることが目標ですね」
中山間地域の在宅医療モデルとして
注目される「コミケア」とは?
コミュニティナースから発展した活動のひとつに、雲南市三刀屋(みとや)地区に拠点を構える「訪問看護ステーション コミケア」(運営:株式会社Community Care)があります。
訪問看護とは、主治医の指示を受けた看護師が患者の自宅を訪問し、健康状態の確認やアドバイス、点滴や注射、介護やリハビリといったケアを提供すること。「定期的な診療や医療処置が必要だけど、1人での通院は難しい」という方も、訪問看護を受けられれば入院せずに自宅で暮らすことができます。
しかし、コミケア開設前の2014年時点で、雲南市における人口1万人あたりの訪問看護師数は1.9人。当時の全国平均3.2人を大きく下回る数でした。
そもそも、意欲の高い若手医療人材は最先端の医療に触れる機会を求めて都会へ行ってしまうため、地方の医療機関は慢性的に人手不足の状態に陥っています。通院・入院患者を看るのが精一杯で、訪問看護まで手が回りません。また、雲南のような中山間地域では家と家の距離が離れていて、訪問看護サービスを提供するのは非効率的という側面も。このため、訪問看護を受けたくても受けられない人がたくさんいる状態でした。
「住み慣れた家で、家族や友人のそばで暮らしたいというささやかな願いが、環境によって実現できないのはおかしい」
そう考えたU・Iターンの若手女性看護師3人は、雲南市や新しいヘルスケア事業を展開する「ケアプロ」からの創業支援のサポートを受け、2015年に「Community Care」 を立ち上げました。立ち上げメンバーのひとり、古津三紗子さんは東京の病院で働いていたときに訪問看護の勉強会に出席し、感銘を受けたと話します。
「白血病の方が入院する病棟で働いていたのですが、患者さんが植物状態になっても人工呼吸器や心電図モニターをつけて頑張り続ける医療のあり方に違和感を抱いていました。何年も続けていると医療費は高額になり、ご家族も疲弊していきます。最期の瞬間まで頑張ることは本当にいいことなのか、わからなくなってしまって……。
勉強会で学んだのは、人は生きる力だけではなく、自然に、安らかに亡くなる力も持っているということ。たとえば末期患者の方は、少しずつお小水が出なくなり、体内に尿の成分が溜まっていきます。そこには、痛みを和らげ、幸せな気持ちになる効果が含まれているんです。人の体ってすごいですよね。
病院は病気を治す場所だからそうした力を活かすことができないけど、訪問看護はその人らしく生きることを支援するサービスなので、自然な形で亡くなるための看取りケアを行うことができる。それを知って、訪問看護の道へ進むことにしました」
コミケアは設立後半年で黒字化し、当初3人だったスタッフは現在11人に増員。雲南市内でいかに訪問看護の需要が多かったかということを物語っています。
「訪問看護では1回につき1時間ほどかけてじっくりと患者さんやご家族と向き合います。一人ひとりの暮らしや人生に寄り添うことは、分刻みで動かなければいけない病院勤務ではできなかったことでした。患者さんも、病院では環境の変化に落ち着かず、不安やイライラに苛まれている方が多かったけれど、ご自宅では慣れ親しんだものや好きなものに囲まれてリラックスしていらっしゃる方が多くて。表情が全然違いますね。
強く印象に残っているのは、すい臓がんで亡くなった60代の男性のこと。最初は『家族に迷惑がかかるから病状が進んだら入院する』と遠慮されていたんですが、毎日訪問看護に入らせていただいているうちに、『やっぱり自宅で暮らしたい』と本音を言ってくださって。遠方に住んでいたお姉さんご夫婦が一緒に過ごしてくれました。好きな音楽や外食を楽しみ、前日まで歩いていて、ご本人らしい最期を迎えられたと思います。お姉さんも『弟のお世話ができてよかった』『自分もこういう最期を迎えたい』と、生まれ育った雲南に戻ってこられました」
こうした訪問看護サービスを提供する一方、古津さんたちはコミュニティナースとして月に1度住民向けの健康サロンを開き、予防医療に取り組んでいます。高齢者を中心に、毎回20〜30人ほどの参加者があるそう。
「最初は私たちが健康に関する情報をお伝えしていましたが、住民のみなさんから『自分たちの特技や関心があることを披露したい』という声が挙がったんです。そこで、若い頃に日本舞踊をされていた方に披露していただいたところ、手拍子いっぱいの明るい場になり、立ち見が出るほどでした。少しずつ、住民のみなさんの好きなことを活かす場へと変わってきていますね。病気を治し、訪問看護を卒業された方を地域とつなぐ場所にもなっています」
2018年に雲南市が行った調査では、患者が入院などをする代わりにコミケアの訪問看護サービスを受けることにより、2年間で社会保障費が2億円ほど削減されたと試算されました。また、実施している集いの場の参加者は、非参加者に比べて要介護になる比率が約半分だったとする結果も出ています。コミケアやコミュニティナースは、まちの景色を着実に変えています。
自分が健やかに暮らすことを願い、行動してくれる看護師がそばにいること。まちの中に安心できる居場所やコミュニティがあること。人生の最期の瞬間まで、住み慣れた家で自分らしく生きられること。そして、住民がこうした暮らしを送ることで社会保障費が削減され、まちが持続可能になること。
コミュニティナースの活動は、人口減少・少子高齢化に直面する全国の地方に向けて、進むべき道を示してくれているように感じます。
※この記事は、一般財団法人澄和によるジャーナリスト支援プログラムの採択を受けて取材しました。
矢田明子さん(Community Nurse Company 株式会社 代表取締役)
やた・あきこ/1980年島根県出雲市生まれ。26歳のときに父の死を経験し、看護師を目指して27歳で大学へ入学。在学中よりコミュニティナースとしての活動を始める。2013年に「NPO法人おっちラボ」を創設。2015年に「株式会社Community Care」の設立と経営に参画。2017年3月に「Community Nurse Company株式会社」を設立。
古津三紗子さん(株式会社Community Care 在宅医療部門/コミュニティケア部門看護師)
こづ・みさこ/1985年島根県松江市生まれ。名古屋大学卒業後、東京の病院で7年間勤務。幸雲南塾5期を卒業し、2015年に同期と「株式会社Community Care」を設立。
住民が考え、動き、変わっていく。雲南で起きている“チャレンジの連鎖”とは。
新しい“自治”のかたちをつくる
東京から雲南までは羽田空港から飛行機で1時間半。出雲縁結び空港からレンタカーを借りて、まず向かったのは雲南市役所。チャレンジできるまちの下地をつくってきた中心人物、佐藤満さんに話を聞きました。
まちが変わるきっかけとなったのは2004年。6町村が合併し、雲南市として生まれ変わるにあたり、各エリアの住民・議員・行政職員が顔を付き合わせて、まちのあり方について真剣に議論したといいます。
「住民から寄せられた声は、大きく分けるとふたつ。“これまでは気軽に村長室に行けたけど、まちが大きくなったら声が届かなくなるんじゃないか”“このまま少子高齢化が進んだら地域が立ち行かなくなるんじゃないか”というものでした。その不安を解消するために、雲南市内30の地域で、住民が地域づくりに参加できる組織『地域自主組織』が生まれたんです」
「地域自主組織」とは、従来の自治体を小規模にした、地域ごとの多世代型チームのようなもの。1組織あたりの世帯数は平均400世帯。世帯主だけが会合に出席する1戸1票制ではなく、女性、子ども、若者、お年寄りといった幅広い世代や立場の人が関わることのできる1人1票制を採用しているのが特徴です。
地域自主組織という仕組みができたことで、住民はさまざまな取り組みを始めました。一例を挙げると、商店が無くなった地域でマーケットを開き、無料送迎や配達サービスを提供したり、幼稚園の放課後に預かり保育を始めたり、独居高齢者への声かけ・見守りを行ったり……。
その後、各地域自主組織で集まってお互いの取り組みを紹介する場が設けられるようになり、防災や教育などテーマごとに関連する人が集まって議論をする「円卓会議」へと進化しました。
「たとえば防災では、『災害が起きてから行政の手が入るまでは時間がかかる。職員だけでは手も足りないだろう。十分な備蓄をして災害時の体制をつくろう』『崖の上に住んでいる高齢者や言葉のわからない外国人と日頃からコミュニケーションを取っておこう』と、地域住民が自ら考えて動いていくわけ。めちゃくちゃすごいと思わん? もちろんそこには市の防災担当職員や多文化共生職員も出席して、政策に落とし込んでいくんです。
これからの地方自治はこうあるべきだと思いますよ。市民が自分たちに必要なことは何かを考えて、行政が政策化する。議会は、それがちゃんと市民の意見を反映したものになっているか、非効率的なものになっていないかをチェックする。もう、机にかじりついて政策を形にする時代じゃないんじゃないかな」
「1人じゃない。失敗してもいい」
まちとして若者を支えるために
ただ、地域自主組織を担うのは主に60〜70代。次の世代が育たなければ、まちの未来はありません。そこで、雲南市は2011年から「幸雲南塾(こううんなんじゅく)」を始めました。地域課題や自分の興味関心をもとに活動してみたいという若者の学びやチャレンジをサポートする次世代育成事業です。
2013年には幸雲南塾の卒業生が中間支援組織「NPO法人おっちラボ」を立ち上げ、幸雲南塾の運営から、卒業生も含めてチャレンジがしやすいまちにするための生態系を耕すような動きを継続的に行うようになりました。
さらに、雲南市ではより若い世代の中高生や大学生の挑戦を促す取り組みも。東京に本拠地を構えて全国でキャリア教育を行う「NPO法人カタリバ」を誘致し、不登校児童・生徒の自立支援と、教育魅力化の一環として中高生が地域に入っていく授業プログラムを実施。近隣の大学生にも学びのフィールドを提供しています。
子どもや若者のチャレンジを応援するため、雲南市は2018年に「雲南スペシャルチャレンジ(スペチャレ)」という制度を新設しました。国内外の研修や留学に行きたい学生、起業創業したい若者に対し、ふるさと納税や企業寄附によって資金を提供する制度です。ふるさと納税が子どもや若者の挑戦の予算になるとは!
「行政は税金も制度も自分たちのものと勘違いしがちだけど、本来は市民のもの。ふるさと納税だって市民のお金なんだから、市民がやりたいことを実現するために使うのが当たり前でしょう。チャレンジする子どもや若者に、『ひとりじゃないよ、みんな応援しているよ、失敗していいよ』って伝えたいんですよ。口だけじゃなくてね。
例えば、中1の子が貧困と福祉を学びたいってカンボジアに行って『カンボジアは貧しいけど、人の豊かさは日本よりもあると思った』なんて言ったり、進学を諦めていた高校生がインターンをして『今の自分が社会に出ても何もできない、力をつけるためにやっぱり学びたい』と帰ってきたこともあった。そうしたら、『そういう子だったら、ぜひうちに来てほしい』と入学金や授業料を免除してくれる大学が現れた。どっちもすごいよな」
雲南市では、地域自主組織を主体とした60代以上のチャレンジを「大人チャレンジ」、幸雲南塾に代表される社会人のチャレンジを「若者チャレンジ」と名付けています。更にいま、ここに「企業チャレンジ」を加え、「日本一チャレンジが生まれるまち」を目指す「雲南ソーシャルチャレンジバレー構想」が進んでいます。
こうしたチャレンジを促す風土を確たるものにするため、雲南市は2018年4月に「チャレンジ推進条例」を制定しました。
「市長も議員も職員もいつか変わる。そのときに時計の針が元に戻ってしまわないための条例です。『第3条、市民は、チャレンジに取り組む権利を有します。第4条、市長は、雲南市におけるチャレンジの取組を理解し、必要な支援に努めなければなりません』。方針の違う人がトップに立っても、これがあれば市民は『条例に書いてあるじゃないですか』と言える。通してくれた議会もすごいよな。感謝しているんです」
来春で定年を迎える佐藤さん。市役所職員として、ご自身もたくさんのチャレンジと失敗を繰り返してきました。
「雲南には、木次乳業の佐藤忠吉さんという、有機農法の草分け的存在のおじいちゃんがいるんですよ。戦後の食糧増産時代、農薬や肥料をたくさん撒いて生産性と効率を上げようという時代に、『食は人の命と体を守るものだから』と有機酪農に取り組み、日本で初めてパスチャライズ牛乳の開発に成功したすごい人。
立ち上げたプロジェクトがうまくいかず悩んでいたとき、忠吉さんのところに行ったら相談もしてないのに『失敗のない人生は失敗だ』と言ってくれてね。市役所ってのは減点主義で、成功しても褒められなくて、失敗すると責められるわけ。忠吉さんの言葉で『失敗を恐れて挑戦しないよりも失敗したほうがいい』と心が軽くなったな。
次にプロジェクトを始めたときに忠吉さんからかけられたのは、『人前でションベンするような恥かけ、それを10年続ければ本物だ』って言葉。俺も単純だから、『なんだ、10年やればこのプロジェクトも本物になるのか』と奮い立ってね。
90%以上進んでいたプロジェクトが土壇場で潰されて、5年後にほかのまちで成功しているのを見たりとか、悔しい思いはいっぱいしましたよ。いまはその分、頑張っている若者を見ると『守ってやらないとな』と感じるね」
佐藤さんはインタビュー中、何度も「すごいと思わん?」「おもしろいと思わん?」と言っていました。それはすべて、地域の人や若手職員、市長や議員、警察に学校、教育委員会と、ほかの人の姿勢に向けられたもの。チャレンジする人やそれを応援する雲南の人々を、心から誇りに思っていることが伝わってきました。
まちに関わる入り口はたくさんあっていい
こうした雲南の動きを、現地で暮らす若い世代はどう見ているのでしょうか。NPO法人おっちラボを訪問し、スタッフの平井佑佳さん、村上尚実さんに話を聞くことにしました。そもそもふたりは、なぜおっちラボのスタッフに?
「やっぱりどこかにずっと、『地域に育まれた』という感覚があって。私、高校に5年通っているんですよ。いじめなどの明確な理由があったわけではないのですが、気持ちが向かず、行ったり行かなかったりで。
そんな自分を責める気持ちがあったんですが、雲南の里山風景を眺めている間は後ろめたさを忘れることができました。山々の間に転々と家があって、おじいちゃんおばあちゃんが畑を耕していて。その人たちの存在があるからこの景色があるんだと思うと、それがすごく尊いものに思えて。大きくなってそういう暮らしを次の世代につなぐ助けができたら、どれほど幸せだろう、と感じました。
高校を卒業すると、みんな市外に出ていきます。確かに、楽しいことは外にあるんです。ここで待っていても楽しいことは降ってこないし、誰かが困りごとを解決してくれるわけじゃない。でも、そういうのを外に求めていたら、いつまでも探しまわる人生になってしまうんじゃないか、という気がして。小さくても自分の手で楽しいことをつくりだしたり、困りごとに対して何かできるようになれたらいいなと思って、おっちラボに入りました」(平井さん)
「私は親が雲南出身で、子どもの頃から長期休みには雲南市内にある祖父母の家に来ていたんです。大学在学中に東日本大震災があって東北に通うようになったんですが、ああいう大きな出来事に直面した人たちと過ごしていると、否が応でもこれからどうやって生きるかを考えるんですよね。私の答えは、『雲南で祖母と暮らしていきたい』というものでした。
ただ、仕事が忙しく職場も出雲だったから、雲南でいろんな動きが起こっていることは知っていたけどずっと参加できずにいたんです。
元々まちづくりに関心があり、ニュースを見ながら『もっとこうなったらいいのにな、でも言うだけじゃ世界は変わらないよね』と思って大学で行政学を学んでいました。それが社会人になって、言うだけの人間になっていた。このままじゃ嫌だなと思って転職したんです」(村上さん)
ふたりの仕事内容は、幸雲南塾の企画運営とコーディネート。これまで幸雲南塾は個人でエントリーする方式でしたが、今年はまちの課題にチームで取り組む形を取っています。
「そのうちのひとつにコミュニティ財団を設立するプロジェクトがあり、私はその伴走をしています。行政が税金を使って取り組むほどに認知されていなくて、スペチャレから資金提供してもらうのはハードルが高い。そんな小さなまちの課題に気づいた住民の方々が、出資を募り小さくチャレンジできる、そしてそれを住民同士で応援しあって実現を目指すのがコミュニティ財団です。
相続する家族がいなくて、自分の遺産がどうなるかを気にかけている高齢者もいると聞きます。ただ国に納められるのは虚しい、お世話になったご近所さんのために、地域の未来のために使ってもらえるならうれしい、という方の受け皿となれたら」(村上さん)
「チャレンジにやさしいまちと言っても、やっぱり活躍している人を良く思わない人もいます。もしかするとそれは、自分も地域に関わりたいのにできていなくて、それができている人を見ると、自分が否定されているように感じるからなのかもしれません。私も、最初は幸雲南塾のことを『一部の人が盛り上がってキラキラしている』と遠巻きに見ていたから。
行動に移せないのは、時間がなかったり、いきなり起業・創業というとハードルが高かったり、仲間づくりに慣れていなかったりするためです。だから、そういう人が参加できる仕組みをつくることが重要なんじゃないかな。
本当はみんな、誰かの役に立ちたい、喜んでもらいたい、という気持ちを持っているはず。それを形にするための入り口を、『自分たちの手で暮らしをつくっていけるんだ』という実感を持てる機会を、いろいろな形でつくりたいと思っています」(平井さん)
地域自主組織に、幸雲南塾に、スペチャレに、コミュニティ財団……。最初に聞いたときは、「雲南にはチャレンジを促す仕組みが色々あってちょっとややこしいなぁ」と混乱してしまいました。でもそれは、実践する中で見えてきた課題に柔軟に対応してきたからこそなのかもしれません。
どんなに画期的な仕組みや制度も、ひとつですべての課題を包括することはできないし、時代の変化と共に古びていきます。でも、「いま何が必要か」と考えて実行していく姿勢さえあれば、チャレンジの連鎖は形を変えて続いていくはず。
帰り道、雲南の山々を眺めながら車を走らせていたら、ふとドイツの詩人、カール・ブッセの詩が頭をよぎりました。
“山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ
ああ我ひとと 尋めゆきて
涙さしぐみ かへりきぬ
山のあなたになほ遠く 「幸」住むとひとのいふ“
「山の向こうに理想郷があると聞いて探しに行ったけど、見つからず泣きながら帰ってきた。でも、その更に向こうに理想郷があるとみんな言うんだ」という内容です。
雲南の人たちの姿勢は、この真逆。どこかにある“幸い”を探すのではなく、自分たちの手で、“幸い”をつくりだそうとしているのですから。
※この記事は、一般財団法人澄和によるジャーナリスト支援プログラムの採択を受けて取材しました。
佐藤満さん(雲南市 政策企画部 部長)
雲南生まれ雲南育ち。チャレンジできるまちのベースをつくってきた立役者。
平井佑佳さん(NPO法人おっちラボ スタッフ)
雲南生まれ雲南育ち。島根県庁で嘱託職員として働いた後、幸雲南塾4期に参加。2015年におっちラボのスタッフに。
村上尚実さん(NPO法人おっちラボ スタッフ)
松江生まれ神戸育ち。島根大学を卒業し、出雲市の社会福祉法人で3年半働いた後におっちラボへ合流。
出会えば、動く。 この町を拠点に音楽文化を育むために。
どうしてもここで、
ギターを作りたい
〈VINCENT〉は、ギター&アザーズをかかげているブランドです。ギターを起点に音楽文化を根付かせていきたいし、ギターを弾くライフスタイルを取り巻く様々なものごとに関わっていきたいと思っていて。
名前の由来は、ひとことで言うと“色々縁のある名前”で(笑)。長崎に暮らしていた高校時代に、初めてしっかり話した外国人の名前がVINCENTさんだったり、70年代のミュージシャン、ドン・マクリーンの好きな曲名が「VINCENT」だったり、屋号に悩んでいた時に妻と行ったラーメン屋さんで偶然その曲流れてきたり……長くなるのでやめておきます(笑)。縁があって、VINCENTという名前を屋号にしました。
子どもの頃から、ものづくりが好きでした。工作が好きで、本棚を作ったり。バンドブームの時に音楽を好きになり、高校三年生の時に初めてヤイリギターを買って、漠然とこれを作る人になりたいと思い始めて。でも、通っていた高校が進学校だったので、大学に行かずに職人を目指すことに対して両親に反対されました。きっと遊びの延長に見えたんでしょうね。
でも、どうしてもギターが作りたいという気持ちを諦められず、反対を押し切り説得して長崎から東京の専門学校に行かせてもらって。就職先を具体的に考える頃は、はっきりと「ヤイリギターに入りたい」と思っていましたね。
当時、ギター工房は日本に5ヶ所ほどあったのですが、その中でもヤイリは一番手作業の行程が多い工房で。もう自分にとっては、ヤイリ以外選択肢はなかった。でも一向に求人は出ないし、待っててもダメだと思い、直接ヤイリに電話して聞いたのですが、採用の予定はしばらくないと言われて。それでも諦められなかったので、当時の先代の社長に手紙を書き、1ヶ月後くらいに面接の連絡をもらって岐阜まで行きました。面接と言っても、社長と話すだけで(笑)。長崎出身の事やヤイリに入ることしか考えていない思いをそのまま話して採用してもらえたことは、うれしかった。
何もわからずに入社し、最初は寮生活。常にどこかの部屋からギターの音が聴こえてくるような環境でした。入社して1年はギター製作をやらせてもらえなかったので、小刀など道具作りを最初に教わって。その後、当時ミニギターを専門で作る部署があって、そこに所属してギター作りを学びました。最初は全然仕事ができなかったので、終わってから、ベテランの職人さんの仕事を見に行ったりして。みんなすごく熱を持ってやっていました。
ヤイリには、日本各地からリペアをするギターが届くのですが、著名なアーティストのものもたくさんあって。それをじっと眺めてました(笑)。90年代の終わり頃、多くのミュージシャンが長い全国ツアーに出ていたので、ツアーから戻ってくるギターも色々修理が必要で、パーツやジャックを交換したり。そのギターを見ながら、プロのミュージシャンがステージで使う楽器のメンテナンスに携わりたいと思うようになりました。僕がよく見に来るし質問したりするので、数年後、当時アーティストのギターのリペア担当をしていた松尾浩さんという先輩に「この仕事に興味ある?」って声をかけてもらって。
松尾さんは61歳になるヤイリの現役の職人。ヤイリギターは、もともと木琴やカスタネットなどを作る<矢入楽器製作所>だったので、松尾さんより上の世代の方々は、ほとんど元家具職人でした。先代が1965年に社名を<ヤイリギター>として、アコースティックギターの製造に力を入れて、シフトしていくと同時に、70年代のフォークブームが訪れて。それに影響されて、ギター職人を目指した第一号の世代が、松尾さんたち。僕も職人として育ててもらいながら、たくさん影響を受けました。ライブにも連れて行ってもらいましたね。「ミュージシャン、は弾いてる楽器の生の音ではなく、モニターから聞こえる音を聞いているので、その違いを聞かせてもらいに、ステージに行かせてもらえ!」とか(笑)。
僕は、ギター自体も好きだけど、幅広いジャンルの音楽が好きで聞いていたので。意外と職人さんだとそういうタイプは少ないんです。アーティスト担当になると音楽的な話を分かち合えないとできない仕事なので、その辺りも大事にしていました。当時、BIGINさんが自分たちでギターを持って、電車で来てくれてました。メンテナンスも人に任せるのではなく、自分で理解していたいというか。探究心がある人は、ここまで来てくれるんだなと思いましたね。
時代の変化と
自分自身の変化
2000年前後はCDがすごく売れていたし、音楽業界も楽器業界も潤っていました。それが少しずつ低迷して行って、レコード会社や音楽事務所も続けられないところも増えてきて……僕もそれまで担当していたミュージシャンのギターについては、会社同士でやりとりできていたのですが、直接ミュージシャンと連絡を取ることが増えたり。時代が変わっていきました。ミュージシャンが独立して自分たちでフリーに近いスタイルでやるのなら、僕らもそれに合わせて変化していかないと対応できなくなるなと思って。今回、夏目さんが頼ってくれたことに対して動けたように、フットワークは軽くいたかったんです。
それと、ヤイリだけに限ったことではないのですが、ここ10年くらいで日本のメーカーのギターを使うミュージシャンが減ったことに対して、少しでもこの状況を変えていくために自分にできることは何かと長いあいだ考えていました。でも、ヤイリを辞めて独立したからといって自分ひとりに何ができるんだろうって。
ずっとモヤモヤ考えていた時、尊敬していた先代が亡くなり、どこか自分の中で踏ん切りがつきました。ヤイリギターと関わりながら独立して自分で動きたい、と。僕は売り方やアーティストとの関わり方を自分なりに新しくしたかったので、自分ではギターを作るのを辞めて、製造はヤイリにお願いし、それを売っていこうと思って。素晴らしいギターを作る、確固たるヤイリの技術をもっと活かしていく企画を自分がしたい、と。
音楽を通じて
地域をつないでいく
美濃加茂市に住んで13年になるのですが、ヤイリにいた10年は、日々工房と家の往復で町との関わりはほぼありませんでした。美濃太田駅から歩いてすぐの場所に「ワンダーランド」という本屋があって。僕は、ここの店主の渡辺修さんの事が大好きで。
2016年12月に亡くなってしまい、今は看板だけが残っています。初めて行ったのは、6年ほど前で、ヤイリの先輩の松尾さんに誘ってもらってライブを観に行きました。最初は、ちょっと近寄りづらいお店だなと思っていたのですが(笑)、行ってみたらおもしろい本や古いレコードがたくさんあるし、世代も職種もバラバラな人が集まってみんな楽しそうにしていて。その時は、ちょうどライブもやっていて。楽しそうな輪の中に、「美濃加茂の町をもっと良くしたい、おもしろくしたい」って話題があったり。ワンダーランドで、いろんな人と出会って話して、町に居場所ができたような気がします。僕にとってずっと大事な場所です。
VINCENTを始めてから、町との関わりが増えましたね。大きなきっかけとしては、毎年美濃加茂市が企画運営していた音楽イベントをリニューアルする時に声をかけてもらったことです。美濃加茂市は、かつて“姫街道”と呼ばれていた通りがあったり、それにちなんだ女性を主役にしたイベントもあって。町としても、女性の起業家をサポートしたり、“女性が輝けるまち”として様々な取り組みをしているので、音楽イベントも女性ミュージシャンをメインに呼ぶものにしよう、と。正直、それまでは町の政策も全然知らなくて(笑)。イベント企画を通じて、町の人や町のことを知っていきました。それでスタートしたのが「minokamo HIME ROCK」です。ちょうどその頃、共通の知り合いを通じて出会った高田良三さんや仲間を募ってはじめました。高田さんは隣の可児市の工務店勤務で、ものすごく音楽が好きな人。高田さんとの出会いも大きいですね。
高田:小川さんとは初めて会った時から、同世代だし好きなミュージシャンの話でめちゃくちゃ盛り上がって。僕は東京生まれ東京育ちなのですが、子育て環境と仕事の関係で、2010年に妻の実家がある可児市に移住してきました。僕もずっと音楽が好きで、この町で音楽イベントをやりたいなと思っていたんです。
小川:最初は、隣町の可児市で音楽イベントやっている人がいるんだ!ってうれしくて。このあたりの地域だと、自分たちでことを起こさないと、なかなかライブもみれないから。会って話してみたら、僕と同じように移住してきて地元の方ではなかった。お互い、客観的にこの地域を見てるので、そのあたりの感覚も少し似ているんです。
実際に町でやってみて、ブッキングや集客の難しさも改めて感じました。でも、都市ではなくこの地域だからできることに挑戦したいし、有名無名に関わらず、新しい音楽との出会いの場にしたい。そして長く続けていくイベントにしたい。この町で、ライブを観る、音楽を聴くという文化を作っていきたくて。まず、この町に暮らす人が「行きたい!」って思ってもらえるものにしたいんです。
高田:誰が出演するかは大事ですが、「minokamo HIME ROCK」に来れば良い音楽が聴けるぞ、というものにしていきたい。岐阜県内の各地で良い音楽イベントがたくさんあるので、この町を拠点にしながら、周辺のイベントに行ったり一緒に何か企画したり、繋がりを持てたらうれしいです。
小川さんと出会ってから、小さくても自分たちのスペースを持ちたいと思うようになりました。月に数回でも自分たちが好きで伝えたいミュージシャンを呼んでライブをやる、いつもの場所ができたら良いなって。VINCENTのギターも飾って。都市ではなく地域だからこそ、こうしていい大人になっても好きなことで遊べるのはかなって思っています(笑)。
小川:そうですね(笑)、あと、高田さんが僕と同じく美濃加茂市在住だったら、作るものも違ったと思うんです。隣町ではあるけれど、大きな木曽川を挟んでいるので心理的に、文化的にも距離があるように感じることもある。だからこそ、それぞれの町に暮らしながら、お互いに行き来して話し合ってイベントや場を作っていきたい。そういう地域同志のつながりも意識しながらやっていきたいと思っているんです。
「農村に入ったら、演説ではなく演劇を」演劇を通じて広がる、佐久市の健康意識。
8つの病院、5つの職種で
結成された「劇場型糖尿病教室」
“農村に入ったら、演説ではなく演劇をやれ”
これは戦後の佐久で“農民とともに”の精神で地域医療の土壌を作った、若月俊一医師が傾倒したという宮沢賢治の教えである。文学青年だった若月医師は、佐久病院(現在の佐久総合病院)に赴任した昭和20年(1945年)には、早くも病院で劇団部を結成。『白衣の人々』という脚本を作り、町の演劇大会で上演している。 以来、無医村の地域に出向いては、出張診療とともに住民に向けて演劇を行い、病気を早期発見することや予防の重要性を伝えようとした。
なぜ演説ではなく演劇だったのか。情報を受け取る立場になってみれば想像がつくだろう。たとえばとっつきにくい医療の話や、自分には必要ないと思い込んでいるような予防の話を一方的に聞かされても頭に入りにくいものだが、登場するキャラクターに共感したり、ところどころで笑えたりするような芝居仕立てになっていたら、同じ内容でも興味や印象は大きく変わってくるはずだ。
こうした活動のおかげか、現在の佐久にも演劇は根づいていて医療従事者や地域の代表である保健補導員が、自ら脚本を作ったり演じたりすることで住民に健康や予防の知識を広めている 。
佐久市立国保浅間総合病院 地域医療部長 糖尿病センター長 仲元司先生率いる「トーシンズ」もそのひとつ。佐久市を含む東信(とうしん)地方にちなんだネーミングなのだが、発足したのは2012年。東信地区の糖尿病医療に関わるスタッフの研究会に、東京・多摩地区を中心に活動する糖尿病劇場の「たまちゃんず」を招待したのがきっかけだ。
「糖尿病劇場は登録商標にもなっているくらいで、糖尿病分野ではそれなりに知られた活動なのですが、その内容は基本的に医療従事者向けです。
たとえばマシンガントークの栄養士が登場して、あれこれ説明するものの、患者さんが置いてけぼりを食っている状況を劇にして、普段の療養指導を見直してみる、というような」
その研究会では シナリオを作る研修を行い、医療従事者ではなく患者や一般市民を対象に、難しい医学用語や体のしくみをわかりやすく解説する啓発劇を考えた。それを発展させ、「劇場型糖尿病教室」と銘打って松本市で上演したのが、記念すべきトーシンズの初舞台『もろこしはご飯の後で』だった。
「テレビドラマをもじったタイトルなんですけどね(笑) 。この地域の人たちは、ご飯をしっかり食べたあとにとうもろこしを食べるような習慣があるんです。だけどそれって炭水化物の重ね食いだよね、と知ってほしくて生まれたアイデアです」
オリジナルのミステリードラマと同様、謎解きのスタイルで炭水化物過剰摂取のトリックが明かされていくユニークな展開。発足時のメンバーは、研究会の運営スタッフがベースになっていて、そのときの謳い文句が“8つの病院、5つの職種”。つまり東信地域の8つの病院で働く、医師、看護師、保健師、薬剤師、臨床検査技師などさまざまな職種の人たちで構成されていたのだ。以来、その都度メンバーは変わりながらも7年間で22回、計12本のオリジナルシナリオで上演。なかなか人気の劇団といえるだろう。
劇の内容は基本的に糖尿病にまつわることで、上演する場も糖尿病関連のイベントがメインなのだが、生活習慣病といわれる病気だけあって、テーマは身近で幅広い。 『大きな魚の目に涙~あなたの足は健康ですか?』『野沢菜一家~アルブミン物語』『糖尿病は歯が命!』『下げ過ぎに気をつけて血糖値』『運動すればいくら食べてもいいの?』などなど、過去作のユーモアに富んだタイトルからもその多彩さが伝わってくる。
「たとえば『野沢菜一家~アルブミン物語』のアルブミンっていう言葉は、一般的にはあまり知られていないですよね。糖尿病の初期段階で尿から出るタンパク質なのですが、アルブミンが検出された時点でしっかり治療をしましょうってことをアピールするための劇なんです」
あえてタイトルに聞き慣れない言葉を入れ、劇中でも『先生がこないだ言ってた、アルなんとか……、アルコール? アルミニウム?』『お父さん、それってアルブミンじゃないの?』などと登場人物にあえて間違えさせることで、見た人が覚えやすいように工夫 しているのだ。
病気や予防にまつわる誤った認識を
劇に盛り込んで気付きを与える
トーシンズの23回目の舞台となったのが、11月9日に開催された「2019年東信地区 世界糖尿病デー」というイベント。2019年現在、世界の糖尿病人口は4億6300万人に上り、2017年から3800万人も増えているらしい。世界糖尿病デーに定められている11月14日は、インスリンを発見した人物の誕生日で、この日の前後に全世界で糖尿病啓発キャンペーンが繰り広げられているのだ。
夜の本番を控えて、昼間のうちに会場の一室にメンバーが集まって稽古が行われたのだが、全員揃っての練習はその日が初めて。勤務先も仕事の内容も異なるうえに、ただでさえ忙しい人たちばかり。全員が集まるだけでもひと苦労なのだ。
今回上演されるのは、『貯筋でのばす健康寿命』という新作劇。主な登場人物は、若かりしときはラガーマンだったものの、年齢とともにすっかり筋力が衰え、最近は不用意に転んだり、むせたりしてしまう70代の“筋肉なしぞう”とその妻の“筋肉あり子”、ムキムキの筋肉が自慢の“マッスルまさる”など。マッスルまさるとともに日頃の食生活を振り返ってみると、なしぞうは朝はごはんとみそ汁と漬けもの、昼はそばとサラダなど炭水化物が多めで、タンパク質が不足していることが判明する。
「劇のなかではいつも、ドジなことをやったり、間違った知識を持っているような人が出てくるんですけど、これらは医療従事者が遭遇しがちな“あるある”で、 患者さんが実際に言っていることやっていることを、さり気なくシナリオに取り入れています。決して笑いものにしているわけではなく、ちょっとした思い違いを発見するきっかけにしてほしいんですよね」
このやり方は間違っている、と頭ごなしに否定されるのは、相手が医師とはいえ、あまりいい気分がしない人もいるだろうし、日々の習慣を変えるのはそう簡単なことではない。しかし「いくらなんでもこんなことは言わないだろう」というようなデフォルメされたキャラクターや、大げさな演技が笑いを誘い、客観的に間違いに気付くことができるのだ。
劇は通常3幕に分かれていて、1幕は5分程度。幕間では、劇で登場した医学用語や健康知識を医師がスライドなどを使って解説。劇、解説、劇、解説、劇……とテンポよく展開し、今回の場合は最後にクイズ形式で復習する時間も設けられ、大人も子どもも楽しみながら学ぶことのできる構成になっていた。
「劇が終わったら客席のほうへ行き、『今の主人公の行動はどう感じました?』『いろんな果物が出てきましたけど、何がお好きですか?』などと聞いたりして、受け身にならないよう双方向性を意識しています。ただ劇を見るだけでなく、楽しみながら考えてほしいのです」
演劇に慣れ親しんだ地域だから
期待できる効果も大きい
病院や職種のいわゆる横のつながりから成るトーシンズだけでも、特筆すべき活動といえるが、これとは別に佐久をはじめとする東信地域では各病院内で劇団を結成したり、保健補導員などが地域で演劇をすることも珍しくない。たとえば仲先生は、トーシンズのほかに浅間総合病院の糖尿病センターでも「モトジーズ」という自身の名前を冠した劇団を作って、啓発に努めている。
「モトジーズのような各病院の劇団は病院主催のイベントや、病院祭という病院と地域をつなぐお祭りなどで主に活動しています。トーシンズのメンバーが揃わないようなときは、モトジーズから助っ人を引っ張ってきたりもするんです。モトジーズもトーシンズも劇団員になる人は、基本的に僕のスカウトですね(笑)。普段仕事で接していて、舞台度胸がありそうな人を誘っています」
そんなわけで世代もそれなりに幅広いのだが、練習風景を見ていると、発足時からのメンバーである臨床検査技師や薬剤師のアドリブから新たなシーンが追加されたり、最年少の栄養士と医師が一緒にセリフ合わせをしていたりして、通常の業務とは異なる関係性がそこには存在している。トーシンズは近隣の市町村や、ときには県外で出張公演をすることもあり、かつて自分たちが教えを受けたように、その地域の医療従事者に向けてシナリオ作成の研修なども行っている。
「長野県大町市の病院では研修がきっかけで劇団が誕生したそうです。自分たちの撒いた種がちゃんと芽を出してくれると、やっぱり嬉しいですね」
若月先生がその昔、演劇という手段を用いて健康指導をしたことを、仲先生はトーシンズ結成後に知ったそう。結成に直接的な影響は受けていないものの、そもそも演劇に慣れ親しんできた地域でトーシンズが生まれたことに、不思議な縁を感じている。
「浅間総合病院の初代院長の吉澤國雄先生は、若月先生とほぼ同世代なのですが、約60年前に糖尿病専門の外来を始めた方で、それが今は僕が所属する糖尿病センターになっています。若月先生にしろ、吉澤先生にしろ、伝統を受け継ぐかたちで我々がいるという意識はとても大事。先達が作ってくれた環境があるからこそ、僕たちがこうして活動できるんですよね」
普段は白衣を着ている医師が、被り物をして観客を笑わせたり、所属先も職種も年齢も異なる医療従事者たちが、和気あいあいとひとつの芝居を作り上げたり。作る人も見る人も楽しめる演劇は、健康知識を広めるだけではないさまざまな効用を持っていた。
【特集:「自分の健康は、自分で守る」まち】
●農村医療が生まれたまちでつながる、「地域医療」のバトン。“医療の充実”がもたらすものとは?▶︎▶︎
●「予防は治療にまさる」。住民と育む、佐久市の“健康教養”▶︎▶︎
「予防は治療にまさる」 住民と育む、佐久市の“健康教養”
自分たちで正しい知識を学ぶ。
予防意識を浸透させる、保健補導員
住民の健康教養、つまり健康に関するリテラシーを育むうえで、伝統的に大きな役割を担ってきたのが、長野県の「保健補導員制度」だ。劣悪な衛生環境下で結核や赤痢などの伝染病が蔓延し、乳幼児の死亡率が高かった昭和20(1945)年に誕生。高甫村(現須坂市)の保健婦の孤軍奮闘する姿を見ていた地域の主婦たちが、少しでも手伝いをしようと自主的に呼びかけて、活動を始めたのがきっかけとなっている。
その日を生き延びることに心を砕いていた時代に、自分たちの健康を守るには、まず学習して正しい知識を身につけることが重要だと気づき、自主的学習の場として保健活動をスタートさせたことは、特筆に値するだろう。
時代とともにアップデートしながらこの制度は現代にも受け継がれていて、長野県内ほぼ全市町村の各地域で、住民1、2名が保健補導員となり、研修等で学んだ知識を地域や家庭に還元している。
中山道の宿場町として栄えた、蓼科山の裾野に広がる佐久市望月エリア。10月のある日曜日の朝、女性たちが公民館に集まって年に一度の大掃除に勤しんでいた。掃除終了後、この地区の保健補導員・高橋達子さんの企画によって開催されたのが、地区自主活動と呼ばれる健康意識を広めるための会合だ。集まったのは仕事を持つ50~60代の女性が中心で、お茶とお菓子を囲みながら和やかな雰囲気で会はスタートした。
望月地区を担当する保健師の波間春代さんが、全員の血圧測定と健康相談を行い、その後「フレイル」をテーマにした簡単な講義が行われた。ほとんどの人は初めて聞く言葉のようだが、フレイルは虚弱を意味し、加齢により心身の活力が低下した状態のこと。
健康な状態と要介護状態の狭間を指し、厚生労働省が介護予防につなげるためにも、重点的に力を入れつつある対策だ。言ってみれば流行を先取りしたキーワードなのだが、そんな言葉が山深い地域の公民館の一室で熱心に語られていること自体が、まずもって興味深い。
「今日参加されているみなさんは、まだまだ若く、高齢者を支える側といえます。予防というのは、目の前に迫っていることに対しては残念ながら間に合わないほうが多いです。10年後、20年後を見据えてやるべきなので、将来的に押さえておきたい知識としてこのテーマを選びました」
講義では、筋肉量を自分で測ることのできるテストも紹介。ふくらはぎの最も太い部分を両手の親指と人差し指で囲んでチェックするのだが、誰でも簡単にできるうえ、第三者に伝えやすいというのもポイントだ。
「保健補導員さんは、保健師と地域をつないでくれる存在でもあります。保健補導員さんがいないと、私たちは地域で啓発活動をすることができないですし、些細なことですが今日のような活動の積み重ねで、健康意識が浸透していくのです」
健康について学んだ人が
地域に増えていくことの意味
2019年の佐久市の保健補導員の数は、698名。うち女性は675名で、平均年齢は約60歳だ。
「昭和46年に長野県全域で開始した保健補導員制度は、死亡率がとても高かった脳卒中を減らすことが大きな目的でした。減塩などの栄養指導が中心だったため、その流れで今も保健補導員は主婦の方が大部分を占めています。地域との結びつきが比較的強い女性のほうが、学んだことを家族や地域の人たちに伝えやすいんですよね」
保健補導員の任期は2年間。食事、運動、病気、介護など幅広いテーマで開催される研修や学習会に、平均して月1回程度参加する。波間さんいわく「短大に入学したつもりで2年間、健康について勉強する」のだ。
世代的に外に働きに出ている人も多いし、子どもや孫の世話、家族の介護など家庭の事情で学習時間を捻出するのが難しい人も、実際のところ少なくないだろう。それでも任期が終了する頃には、健康に関するさまざまな知識が身につき、地域とのつながりも密になり、さらにはほかの地域の同期の保健補導員との交流も生まれ、経験してよかったと満足する人が多いそう。
「私は30年以上この地域の担当をしていて、今日参加している方たちの親御さんが保健補導員だった時代からお世話になっているんです。2年間の経験を次の人に引き継いで、学んだ人が地域にどんどん増えていくことが、保健補導員の真髄なんですよね」
ひとりでは意見しづらいことを
地域の女性の声にする
保健補導員は行政主体の制度だが、40年以上続いている「佐久しあわせ教室」は、住民が自主的に行っている稀有な取り組みだ。主宰するのは、佐久市臼田の佐々木都さん。
老舗旅館「清集館」の女将である都さんは、91歳になる今も旅館の顔として入口横の受付に座り、訪れる人たちとにこやかに話をしたり、書き物をしたりなど忙しい日々を送っている。
お会いして年齢をうかがうと、その快活さに驚かずにはいられず、しあわせ教室でともに活動している駒村重子さん、井出好栄さんとの和気あいあいとしたおしゃべりを聞いていると、こちらまで自然と元気になってくる。
「しあわせ教室は女性の自立を目指しているのですが、最初は毎月1回楽しくおしゃべりすることを目的に始めたんです。教室を始めた頃は特に、どこの家庭の男性も日々いろんな会合があって、『行ってくるよ』のひとことで外へ出かけられるような時代だったでしょう?
一方で女性は、お姑さんに子どもの世話をお願いしたり、食事のしたくを済ませたりなど、いろいろ都合をつけないと気軽に外出もできやしない。毎月開催する日にちを決めてしまえば、多少なりとも女性が出てきやすくなると思ったのです」
教室のテーマは毎回変わり、豆の煮方やパウンドケーキの作り方など料理を習うときもあれば、手芸、書道、体操などをするときも。参加者自身が講師になって得意なことを教えたり、つてで講師を呼ぶこともある。今まで特に好評だったというのが、親の葬式をテーマにした回。
「みなさんにとって気がかりなテーマだったようで、60人くらい集まりました。戒名の値段はどうしてそんなに高いのか、和尚さんに率直に聞いたりして、ひとりだと質問しにくいようなことも、大勢だと気軽に話し合えるんです」
暮らしのなかでなんとなく疑問や不安を感じているけれども、ひとりでは声を上げづらいようなことを、“地域の女性の声”にすることも、しあわせ教室の大きな役割といえる。生活にまつわる関心事がテーマになることが比較的多いのだが、参加者の年齢が上がるのに合わせて、2006年から教室の一環として始まったのが、「ドクターとおしゃべりタイム」だ。
会場となる近所の喫茶店にゲストとして医師を招き、診察室での限られた時間では聞けないような素朴な疑問を投げかけたり、意見交換を行っている。
これまで、近くにある佐久総合病院の医師や市内の開業医などをゲストに招き、「笑って老いよう」「ケアからはじまる不思議な力/ケアする側とされる側」「平均寿命と健康寿命」「ペインクリニックについて」「難聴など老いとの向き合い方」などをテーマに開催してきた。さまざまな医師を呼ぶことができるのは、女将である都さんの顔の広さのおかげでもある。
「その昔、佐久総合病院はサケ総合病院って言われていたほど。はしご酒をしたお医者さんたちが、大抵最後にうちに飲みにいらっしゃってたから、向こうの様子はうんと知ってるの(笑)」
都さんは、佐久の地域医療の功労者である若月俊一先生とも交流があった。当時、若月先生が目指した地域や病院内での「医療の民主化」を進めるうえで、お酒の力を上手に利用してコミュニケーションを深めることは欠かせなかったようだ。それはさておき、お酒はなくてもドクターとおしゃべりタイムで医師と住民がざっくばらんに話をすると、診察室のなかだけでは育むのに時間がかかる信頼関係が、無理なく生まれるという。
友達みたいな感覚で
医師と住民が気軽に語り合う場
「この会に最初に来てくださった先生が、勤務時間内だとそれなりの謝礼が発生するけれども、勤務時間外だったら自分の意志で自由に来られるから、と言ってくださったんです」
それだけでなく、招かれた医師も参加者と同様にコーヒー代を含む参加費を支払うのが習慣になっている。ゲストとはいえ、ここでは医師と住民はあくまでも対等。参加者に学びが多いように、医師にとっても住民の胸の内を聞ける貴重な機会になっているのだ。
「おしゃべりのあとに特技の歌やギターを披露してくださる先生もいて、みなさん楽しみにきてくださるんです」
顔なじみになった医師とは、病院内だけでなく、スーパーなどで偶然顔を合わせたときも気軽に言葉を交わすし、最近見かけない人がいれば、元気かどうか様子を気づかってもくれる。都さんは、そんな医師との関係を繰り返しこう表現する。
「友達とか仲間なんて言ったら失礼ですし、尊敬もしていますけど……、本当に友達みたいな感覚なんです」
医師と住民が友達感覚で気軽に語り合えるこうした場は、まさに若月先生が目指した医療の民主化を体現しているのではないだろうか。
「地域貢献みたいな大それた思いでやっているわけじゃないの。ただできることをやってきただけなのよね、私たちは」
▼保健補導員制度とは?
昭和20年(1945年)に現在の須坂市で誕生。昭和46年(1971年)には、地域住民の健康増進に寄与するため長野県国保地域医療推進協議会が設置され、当時、長野県が日本一の脳卒中多発県だったため、保健婦、保健補導員等によって原因を探る調査を行う。この取組が県下の市町村を巻き込み、保健補導員等の組織化が促進され、現在はほぼ全市町村で組織されている。
保健補導員について:www.city.saku.nagano.jp/kenko/kenkozoshin/kenshin/about.html
波間春代さん(佐久市役所 健康づくり推進課)
保健予防、健康増進、検診推進などの役割を担う、佐久市役所の健康づくり推進課に務め、30年以上、望月地区を担当する保健師。
佐々木都さん(「佐久しあわせ教室」主宰)
佐久市臼田生まれ。老舗旅館「清集館」の女将。地域や女性のための活動を長年続けるほか、随筆集、短編集を多数出版するなど、文筆家としても知られている。著書に『88歳・佐々木都という生き方』など。元気の秘訣は、コイ(佐久名物の鯉料理を食べ、恋をしてドキドキすること)!
【特集:「自分の健康は、自分で守る」まち】
●農村医療が生まれたまちでつながる、「地域医療」のバトン。“医療の充実”がもたらすものとは?▶︎▶︎
●「農村に入ったら、演説ではなく演劇を」 演劇を通じて広がる、佐久市の健康意識。▶︎▶︎
大きなものを手放し、沖縄へ。 暮らし中心の日々が、つくりたいと思える雑誌へと導いてくれた。
会社を辞めたとたん、大きく物語が動き出した
会いたい人に会いたい、知らないことが知りたい。新卒で入社以来、その変わらない思いのもと走り続け、没頭してきた雑誌編集という仕事。仕事と生活の境目なく生きられるのは、側から見れば幸せなことでもあるが、没頭しすぎて“生活すること”自体をおざなりにしてしまうこともしばしばだった。
「ずっと月刊誌の編集を続けていたのですが、年を重ねるごとに、
そう話す川口美保さんの現在の拠点は沖縄・首里。4年前、ご主人とともにオープンした雑誌と同名のお店「CONTE」を営みながら、首里の町に暮らしている。川口さんは福岡出身、ご主人は神奈川出身と、2人とも沖縄にゆかりがあるわけではなかった。けれど、川口さんが会社を辞めて旅行で訪れた沖縄で、すでに移住して飲食店で働いていたご主人と出会い、川口さんの一目惚れで1年後に結婚。沖縄へと移住。それだけで、すでに“物語”だ。
「大きなものを手放すと、新しい何かが入ってくるというのは、本当なんだなと思いました。実は、会社を辞めて最初の誕生日に、東京にいたくなくて友人と沖縄へ旅行に来たんです。それで、浜比嘉島という沖縄をつくった神様が子育てをしたと言われる子宝の島があると聞いて、その島に泊まることにしたんです。ちょうど旧正月のあとで、御嶽のある洞窟が特別に入れるようになっていたので、そこでもう、本気でお参りしました。家族が欲しい、子どもが産みたいと思っていたから。そしたら、その次の日に今の旦那さんと出会いました」
沖縄に暮らすことを選んだ理由
夫婦で暮らし始める場所としてお互いの地元という選択肢もあったが、それは選ばなかった。沖縄に決めたのは、以前から沖縄を取材でたびたび訪れることがあり、惹かれていたからだという。
「30代の半ばくらいから、『このままずっと東京に住み続けるのかな』と、疑問に思うようになっていたんです。もちろん、いずれ実家のある福岡に帰ることも考えてはいました。それと同時に、沖縄もいいなと思うようになっていたんですけど、じゃあ仕事はどうするの?という思いと堂々巡りしていました。なぜ沖縄に惹かれていたかといえば、『うたの日コンサート』の取材がきっかけかもしれない。
私は、もともと音楽が好きで『SWITCH』編集部に入ったので、よく音楽の記事を担当させてもらっていたんです。それでBEGINの取材の一環で、
『うたの日』って、うたをお祝いする日なんですが、
私は2004年、
そうして暮らし始めた沖縄の地。沖縄ほどの観光地なら、積極的に活動すればガイドブックなどの編集仕事はあるはずだが、川口さんはそれよりもまず、時間をかけて土地に慣れること優先した。
「東京の日々が忙しかったから、人生の夏休みと思ってはじめの1年はゆっくり過ごそうと思いました。ちょうど東京で始まったばかりだった書籍の仕事をこっちに持ってきて、それを少しずつやりながら。ずっと求めていたのはこれだったと実感するくらい、暮らしが中心の新しい生活はたのしかったですね。
たまたま、近くの『富久屋』という古くから伝わる首里の家庭料理を出すお店でアルバイトを募集していて、週に2〜3回働かせてもらえることになって。そこに来る常連の方々やお店のオーナー夫婦が、沖縄の風習について、食について、いろんなことを教えてくれるんです。それに若い子たちには、年配の人たちを敬う心が自然と身についているんですよね。今のお年寄りたちが、戦後の大変な時代を乗り越えてくれたから自分たちがある、ということをよく理解している。実際に暮らしてみて、そのことをより実感しました」
その土地に、根を張るということ
移住して1年ほどが経ち、首里での生活にもだいぶ慣れてきたころ、ご主人とこれからのことについて話すようになった。その対話の中から、2人で営むお店「CONTE」の輪郭が浮かび上がってくる。
「彼はその頃、宜野湾のカフェで働いていたんですけど、それまではずっと自分の店を持っていた人でした。お店を経営するノウハウを持っているなら、もう一回自分の店を持つのはどう? と持ちかけてみたら、『それなら一緒にやろう』ということになって。私は飲食の仕事はまったく未経験だったから、料理を手伝うよりも自分の得意分野として、音楽のライブや写真展、トークショーなど、こっちで知り合った人と何かができたり、東京からも人が呼べるようなスペースができたらいいなと思った。
それで、物件を探し始めて1年ほど経ったある日、たまたま首里を散歩していたら今の場所が『貸し』になっていたんです。急にトントンと決まって、内装も友人の大工さんにお願いしながら、
『CONTE』のオープンは、2015年9月末。はじめから、夜は自分たちのための時間にしようと、営業は昼のみと決めていた。ご主人が手掛ける料理は、沖縄の季節の食材を使ってつくられ、沖縄の陶芸家の器にもこだわり、川口さんが不定期に企画するイベントは、沖縄の内外から多彩なゲストを招き、新たなつながりを生み出していく。こうして『CONTE』が動き始めたことで、それまでにない気づきを得ることもできた。
「いざお店をはじめてみると、何かよみがえる感覚がありました。店という箱の中で、何と何を掛け合わせたら面白いか、それをどうお客さんに楽しんでもらうか。立体か平面かという違いだけで、編集の仕事と同じなんだと気づきました。それに、彼を通じて食の生産者との目にみえるつながりを知ることができたのもよかった。お店を始めるまでは、どこかまだ旅行者の気分だったところがありましたけど、地元のお客さんがきてくれるようになって、知り合いも少しずつ増えて、『庭で採れたから』とお裾分けをいただくようになったり。ありがたいつながりが増えてきて、ようやく少し土地に根づき始めたという実感が持てるようになりました。
雑誌をつくっているときは、読者とつながるという実感を得たことがあまりなかったけど、店という媒体は直につながることができる。農家さんが大事に育てた野菜をおいしく料理して、それを食べてくれる人がいて、お金をいただいて、またそのお金で野菜を買わせてもらう。そうして、小さい円で経済が循環することが、こんなに満たされた豊かなことだというのを初めて知ったんです」
従来の雑誌づくりの根本を問い直す
お店をはじめて3年という月日は、川口さんにとって『CONTE MAGAZINE』を立ち上げるに十分な糧となった。このタイミングになったのは、長く出版業界の第一線で仕事をしてきたからこそ、「なぜつくるのか」が腑に落ちるのを待っていたからではないだろうか。
「ずっとどこかで雑誌をやりたいという思いを持ち続けていました。でも、沖縄という土地だからこそ、簡単にはできないという思いもありました。私が触れてきた沖縄の人たちは、みんな故郷を大切に、誇りに思っている尊敬すべき人たちだったから。それが、5年経ってようやく輪郭を帯びてきたんです。
『CONTE』という店の名前は、夫が付けたのですが、フランス語では「ショートストーリー」という意味があります。つまり「物語」。東京の大きな世界から、沖縄の小さな循環へと居場所が変わったことで見えてきたのは、今起きているうまくいかないことの多くは想像力の欠如なんじゃないかということでした。つながりを手放してしまったことが、いろんな問題を引き起こしているんだとしたら、それをまた再び手繰り寄せて物語を語り継いでいくには、沖縄という場所でつくることに意味があると思えたんです」
雑誌や書籍などの出版活動は、これだけ通信環境が多様化して二拠点生活者が増えてもなお、東京で制作されるものが圧倒的に多い。観光地ならガイドブックであったり、地域おこしなどに紐づく媒体は、地方から発信するものがずいぶん増えたが、土地性によるものがほとんど。
けれど、『CONTE MAGAZINE』は、沖縄発信を謳っていない。ただ沖縄という土地から世界を眺め、紡がれていく雑誌。本来、東京でなければつくれない雑誌などないのだと気づかせてくれる。
しかし、コンセプトが定まり記事にしたいことは山のようにあっても、いざ立ち上げるとなるとなかなか進まない。そこで、ある編集者に一緒につくってほしいと相談を持ちかけた。
「一人きりだと、相談したり『あれどうなった?』って言ってくれる相手もいないので、どんどん毎日がすぎてしまって。沖縄のゆっくりしたペースがすっかり染みついていたのかもしれない。これはもう、誰かパートナーを探すしかないと思って、もともと『ロッキング・オン・ジャパン』や『H』
心強いパートナーを得て、誌面づくりは一気に具体化し始めた。『CONTE MAGAZINE』は、いわゆる一般的な全国流通に乗せる雑誌ではなく、手売りベースの自費出版だ。ネックなのは、一番お金のかかる印刷費。川口さんたちが、その資金の調達方法として選んだのは、広告をとるのではなくクラウドファウンディングだった。
「クラウドファウンディングに挑戦したのは初めてだったんですけど、やってよかったと思いました。つくりたい本があって、それに対して応援してくれる人たちに、いい本をつくることでお返しする。すごくシンプルでわかりやすいシステムだなと思いました。でも、目標額に達成していざつくり始めると、これがまたなかなか進まない(笑)。普通、雑誌はある程度ページ数が決まっていて、そこに記事を当てはめていくんですけど、
伝えたいことが、過不足なく伝えられる。それは、つくり手にとっては理想的なあり方だ。こうして従来の編集方法に捉われず、模索しながらの紙面づくりも、ようやく完成。創刊号は、雑誌名でもある「物語」が特集。どんな一冊になっているのだろうか。
「特集をどうしようかと考えていたころ、心理学者の河合隼雄先生の本を読んでいたんです。その本の中で、先生は『物語とは、何かをつなぐ役割を果たしていくものだ』と、何度も書いていた。じゃあ、河合先生が亡くなられた今、それを語ってくれる人は誰だろうと思ったとき、循環器内科の稲葉俊郎先生が思い浮かんで、東京まで話を伺いに行きました。また、
ほかにも、写真家・
CONTE(コント)
住所:沖縄県那覇市首里赤田町1-17
電話:098-943-6239
MAIL:conteokinawa@gmail.com
営業:11:00〜17:00(L.O.16:00)
定休:月曜
HP:http://conte.okinawa/
農村医療が生まれたまちでつながる、「地域医療」のバトン。“医療の充実”がもたらすものとは?
患者さんの人生を
もう一度一緒に辿る「在宅医療」
群馬県との県境にある、人口10万人弱の長野県佐久市。浅間山連峰、秩父山地、八ヶ岳連峰に周囲をぐるりと囲まれている。東京駅から長野新幹線で1時間半弱と都心へのアクセスもいいが、周辺の軽井沢や蓼科、諏訪などと比べると、観光面の知名度はそれほど高くない。しかしながら佐久市は、医療従事者も一目置く、健康長寿のまちなのだ。
戦後間もない頃、この辺りは農業従事者が多く、「医者にかかるのは一生に一度」と言われるほど、住民にとって病院は縁遠い場所だった。そんななか、健康診断のもととなった出張診療を全国に先駆けて行い、自分たちで健康を守り、病気を予防することの重要性を説いてきたのが、佐久総合病院の医師、若月俊一先生だった。
住民にとって医療が身近になるために尽力し、地域に根ざした医療を目指した若月先生の活動は現在に引き継がれ、佐久市は今なお在宅医療体制が充実している。実際、自宅や施設など住み慣れた空間で診療を受け、最期を迎える在宅医療を選択する割合が、全国で圧倒的に高いのだ。
「在宅医療は、若月先生が唱えた“医療の民主化”の精神が色濃く受け継がれているかもしれません」と話すのは、現在佐久総合病院で、自宅や施設を訪問する診療を長年続けている、地域ケア科医長の北澤彰浩先生だ。2006年、96歳で亡くなった若月先生の最後の主治医でもある。
最初に訪問診療に同行させてもらったのは、在宅酸素療法を受けている高橋さん(84歳)のご自宅。酸素ボンベを携帯して通院する負担が徐々に大きくなってきたため、在宅医療に切り替えて3回目の診療になる。病院の診察室で医師と向かい合う時間は、大なり小なり緊張を強いられるものだが、リビングのソファに座っている高橋さんはリラックスしているように見える。
「我々医師や看護師が、在宅医療で大きな目的にしているのは、患者さんが希望する場所で、なるべく希望に沿ったかたちで生活をしてもらうこと。ですから今までその方が、どういったことを大事に生きてきたのか理解することが、より大切になってきます」
その点、自宅というプライベートな空間から見えてくる人となりは、たくさんある。たとえば飾られている家族写真から、患者と家族の関係が浮かび上がってくるし、趣味の道具が部屋の隅に置かれているかもしれない。賞状などからは、誇りにしていることがうかがえる。
「元気なときにどんなことを考え、社会的にどんな役割を担い、どんなことをしてきた人なのか、その方の人生を一緒にもう一度辿らせてもらう。その過程は残りの時間をどうやって生きたいかという思いに少なからず影響していますし、在宅医療のほうが圧倒的に見えやすいですね」
もう1件訪問したのは、介護保険施設に入居する志摩さん(99歳)。施設に入居したのは3年ほど前で、北澤先生が外来で長らく担当していたのだが、家族の負担や体力の低下などを考慮して、今年から在宅医療に切り替えた。
訪問してから、志摩さんは北澤先生の手を力強く握り続けていた。医師と患者の距離は想像していたよりもずっと近い。北澤先生は志摩さんのような超高齢者や、認知症の初期段階の方に対して、もしものときにどんな治療やケアを受けたいか、あらかじめ本人の意思を確認している。
「アドバンス・ケア・プランニングというのですが、患者さんに伝わりづらいので、僕は“心づもり”という言葉を使っています。最期をどこで過ごしたいか、万が一口からご飯を食べられなくなったときにどうしたいか、などをお聞きして、本人の希望に沿った処置ができるよう情報を共有しています。
外来に見える方にもそういった話をするのですが、自分の意思をご家族にきちんと伝えていない人が意外と多い。そういった場合は、次の診察のときに同席してもらって、お話するようにしています」
最期まで楽しく生きられる
佐久市の事例が、世界へ
ベッドの高さやトイレまでの動線をどうするか、なるべく自分の足で歩きたい方、家族の介助を最小限にしたいと思っている方、独居の方、自室にあまり人を入れたがらない方にはどのような環境が必要か……。
在宅医療を始める際は、医師、看護師、介護福祉士、ケアマネジャーなど、患者と関わるさまざまな職種の人が集まって、本人の意思を尊重したプランを立てるケア会議が行われる。佐久総合病院で伝統的に行われてきたこのやり取りは、効率化が求められている医療現場の時流に逆行する細やかさといえる。
「若月先生は、将来的に認知症が増えることも見越していたようで、認知症を治す薬をどうこうするのではなく、認知症になっても住みやすい地域にしていかなければいけないとおっしゃっていたのです」
「介護老人保健施設」を国が初めて導入する際、7つのモデルをつくったのだが、そのうちのひとつが佐久総合病院だった。大多数の医師は、病院にお年寄りを看る場所を設置することに猛反対。ところが若月先生は、入院していた人がいきなり自宅に戻って社会復帰するのは大変だから、その間を経由する場所として介護老人保健施設の必要性を主張。
現代の日本でなくてはならない施設になっていることを考えると、いかに先見の明があったかを思い知らされる。こうした精神を受け継いでいる北澤先生が、佐久にやってきた経緯も興味深い。
「僕はもともと発展途上国の医療に興味があって、スリランカ、インド、ネパール、パキスタンなどを転々としていました。人が生きていくためには食べ物が必要で、農村地帯がしっかりしていないといけない。農業従事者の健康をないがしろにしたら人間はアウトだと、そのとき気づいたのです。そして日本で農村医療に力を入れている地域に行きたいと思い、佐久に辿り着きました。
今の日本は全世界に先駆けた超高齢社会で、世界中が注目している場所といえます。なかでも長野県は高齢化率が高く、お年寄りが元気で楽しく最期まで生きられる地域を僕たちがつくることができたら、世界中が見習うことができると思うのです。国際保健や国際協力につながることを、佐久でやらせてもらっていると実感しているんです」
看護師として、母親として。
医療が、身近なことの豊かさ
10年前にUターン移住をした野村真由美さんは、もうひとつの基幹病院である佐久市立国保浅間総合病院 地域包括ケア病棟の看護師として働いている。高校卒業後、神奈川県の大学の看護学部に入学。その大学病院で働きながら、ふたりの子どもを育ててきた。会った途端にこちらが心を開いてしまうような、 迷いのない目を輝かす明るい女性だ。
「Uターンをする一番のきっかけは、子育ての環境でした。自分が田舎で生まれ育ったので、自然のなかで泥だらけで遊べるような子育てをしたかったんです。でも現実は共働きだったので子どもを預けるだけでも大変で、延長保育を繰り返しては、お迎えのときに子どもがしがみついてくるような状態でした。
そんなとき、子どもを見に来てくれていた親に『お前の子どもは笑ってないぞ』と言われたんです。私自身がいっぱいいっぱいで、きっといつも作り笑顔だったんでしょうね。そのひとことで我に返った感じでした」
そして1歳と2歳だった子どもを連れて、実家のある佐久へ。夫も移住を考えたものの、今の仕事を続けたいというお互いの思いを尊重してそのまま残ることに。
神奈川と佐久で別々の生活が始まった。野村さんは半年ほど子育てに専念してから、浅間総合病院で働き始めた。現在彼女が所属する地域包括ケア病棟は、自宅や施設でスムーズに生活できるようリハビリなどをする、退院の準備期間になる場所。患者さんの多くは高齢者だ。
「佐久は90代、100代の方が珍しくないんです。患者さん同士の会話を聞いていると、80代の方が『まだまだこれからだ』と100代の方に言われていたりして(笑)。畑仕事をするために一生懸命リハビリをして、退院していく姿を見ていると、生きがいのある方は本当にお元気だなと思います」
若月先生が地域医療の功労者であることは知っていたものの、現在の佐久が健康長寿の街であることや、そのための医療が手厚いことは戻ってくるまで知らなかった。
「以前子どもが夜中にインフルエンザを発症して、小児科の医療相談ができる佐久医療センターに電話をしたんです。応対してくれた看護師さんが丁寧に話を聞いてくださって、ものすごく安心できました。看護師の私でさえそう感じたのだから、一般の方はちょっとした助言やひとことが本当にありがたいと思います」
都会で夫婦それぞれ仕事に情熱を捧げ、自分のペースで暮らす時間も充実していたが、子どもが生まれるとそのバランスは否が応でも変わってくる。野村さんはそれでもしばらく踏ん張っていたが、佐久に帰ってきてこんなにもリラックスして子育てができるものなのかと、目から鱗が落ちたようだ。
「都会にいたときは子どものことを一番に考えるあまり、自分の楽しみなんて考える余裕もなかったし、考えたこともなかったです。だけど今は仕事の合間に山登りをしたり、マラソンをしたりして、好きなこともいっぱいやっています。子どもたちも自由に育ちすぎちゃったくらいです」
そうやって笑う姿は本当に楽しそうだ。自分の五感が育まれた場所で子育てをして、仕事にも励み、そしてここには人生を楽しむ先輩たちがたくさんいる。ロールモデルが多いことは何よりも心強いし、そのことが佐久の人々の元気の源になっているはずだ。
<佐久総合病院>
佐久地域最大の総合病院。昭和19年に20床の病院として開院。翌年3月に赴任した外科医・若月俊一先生は「農民とともに」の精神で、農家を回って診療を行ったり、演劇を通して予防意識を浸透させたり、日本で初めて病院給食を実施。毎年5月の2日間にわたって開催される病院祭も、開かれた病院を目指すべく若月先生が昭和22年に始めた。近年は、国内外から多数の研修生を受け入れている。
住所:長野県佐久市臼田197番地
電話番号:0267-82-3131
www.sakuhp.or.jp
<佐久市立国保浅間総合病院>
昭和34年に開院し、現在は地域の中核病院として機能。初代院長・吉澤國雄先生は、糖尿病を生涯の専門とし、患者と共に医療はどうあるべきかを考え、現在は一般的となったインスリン自己注射を日本で初めて導入するきっかけを作った。さらに糖尿病の集団検診や県内初の専門病棟の開設など、早期発見と治療を精力的に行い、その精神は平成29年に開設された糖尿病センターに受け継がれている。
住所:長野県佐久市岩村田1862−1
電話番号:0267-67-2295
www.asamaghp.jp
北澤彰浩 先生(佐久総合病院 地域ケア科医長)
1965年、京都府生まれ。滋賀医科大学医学部医学科卒業。発展途上国の医療に興味を持ち、スリランカを中心に1年間ボランティア活動を行った。そこで、人が生きていくためには、農業従事者の健康が大切であることに気づき、佐久総合病院へ。現在は、地域ケア科医長として、患者さんの人生に寄り添った訪問診療を行う日々。影響を受けた書籍は『次郎物語』『人間の運命』、映画は『ゴッドファーザー』『スライディング・ドア』。好きな食べ物は、煮た大根。
野村真由美さん(佐久市立国保浅間総合病院 看護師)
1973年、長野県佐久市生まれ。北里大学看護学部卒業後、北里大学病院にて17年勤務。2010年に佐久市にUターンして、佐久市立国保浅間総合病院に。現在は、地域包括ケア病棟にて働いている。趣味は、ピアノ、読書など。昨年から、雪合戦チーム(本気のスポーツ雪合戦)に入るなど、仕事以外でも自分の時間を楽しむ日々。影響を受けた本は、高校の1学年先輩だったという新海誠監督の書籍『君の名は。』『言の葉の庭』など。
【特集:「自分の健康は、自分で守る」まち】
●「予防は治療にまさる」。住民と育む、佐久市の“健康教養”▶︎▶︎
●「農村に入ったら、演説ではなく演劇を」演劇を通じて広がる、佐久市の健康意識。▶︎▶︎
強さと弱さを知っているからこそ 子どもたちを守ることができる。
プロ格闘家として活動するなか、
震災をきっかけに保育士の道へ
一朗さんが、鶴岡で好きな場所のひとつだという湿地帯へと連れて行ってもらった。取材時には青々とした田んぼと緑が生い茂る山並みが広がり、木陰では気持ちのいい風が通り抜けていく。休みの日には小学1年生と年長のお子さんを連れて、ザリガニを取りに遊びに来るのだという。
「この景色も流れる空気も好きな場所ですね。見晴らしもいいし、危ない場所ではないので、子どもたちの心配をしなくても自由に遊ばせることができるんです。僕はここでじっくり集中できるし、マインドフルネスにもいいんですよ。子どもがいるとなかなかそういう時間って取れないので」
優しい物腰の一朗さんだが、Tシャツからのぞく太い腕やしっかりとした体つきから元格闘家の雰囲気が見え隠れしていた。東京都出身で、高校を卒業後は格闘家になりたくて横浜にある道場に住み込みで入門。「パンクラス」という団体に所属し、1年後にはプロデビューした。10 年ほど活躍し、2011年の最後の試合をもって引退。団体でチャンピオンの座にまで登りつめた一朗さんだったが、プロの格闘家を引退し、保育士へと転向しようと思ったのはなぜなのだろう。
「プロ格闘家といえども、生活は苦しくて。格闘技のインストラクターの仕事も並行していました。団体でチャンピオンになったんですが待遇が変わらなかった。対戦相手もさらに強くなるし、もっと練習に専念しないといけないはずなのに、急に自分を信じられなくなったというか、この道で続けていっていいのかな?と迷いがすごく大きくなって、がんばれなくなってしまったんです。それまでは夢中でやってこれたけれど、力が出なくて、勝てなくなりました。それでもしばらく続けていたのですが、震災があって、完全に折れてしまいました。生活も苦しいままだし、チャンピオンになったものの自分のことを誰も知らないし、ボランティアに行く心の余裕もないし。僕は何をやっているんだろう?って。それでも、“僕はこの道でやっていくんだ”と信じることができていれば続けられたと思うけれど、その強さは僕にはなかった。別の道を探すしかないと思いました。28歳の時でした」
震災を経て、これからの生き方や働き方について、このままでいいんだろうかと立ち止まって考えた人もいるかもしれない。住まいや人間関係などを見直し、自分が何を大切にしているのかに気づいて、今までとは違う方向へと舵を切った人もいる。一朗さんもまさに悩みに悩み、自分に何ができるだろうと考えた。
「震災で亡くなった多くの人の“死”を思うと、とてもこわくて。これからどんな仕事をしようかと考えた時、死に意味を持たせられる納棺師の仕事か、次の未来を作る子どもたちの生活に関わる仕事かで悩みました。どっちも大事だなと思って。自分にできるのはどちらだろうと考えた時、これからを生きる人と関わっていく保育士という仕事を選びました」
家族との時間を第一に。
無理のない働き方を探して転職
保育士になるための受験資格がなかったため、奨学金を借りて専門学校へ行き、夜はアルバイトをしながら保育士と幼稚園教諭の資格を取った。在学中には子どもも生まれた。
卒業後は、神奈川にある児童自立支援施設で働き始める。家庭で問題があったり、非行や生活上の問題を抱えた子どもらの暮らしを支えていくことを目的とした施設で、居場所がない子どもたちにとって最後の砦のような、とても重要な場所だった。一朗さんはそこで2年間働く。
「下の子は養子なのですが、その子を迎えるタイミングで転職することにしました。妻1人で子ども2人を見るのは大変だろうと思って。児童自立支援施設は夜勤の仕事だったので、割のいい仕事だったけど続けるのは難しいかなと。家庭や子育てを第一に考えた時、自分の子どもとの時間を削って、他の子どものために仕事をするのは、ものすごく苦しくなるだろうなと思ったんです」
転職後は、保育園で働き始める。時間固定の派遣の保育士だったため、時給制でフルタイムだが決まった時間にきちんと帰ることができた。多くの保育士は拘束時間が長く、子どもがいる人にとっては難しい働き方のため、どうしても離職率が高くなってしまう。看護師の妻も病院勤務から訪問看護に変わり、残業や夜勤をなくした。一朗さん夫婦は、まず第一に子どものことを考え、その働き方を選んだ。それは家庭にとっても、仕事を長く続けていくためにも必要な選択だった。
保育の現場で働くことへの
不安と怖さと
保育園で働き始めてすぐ、一朗さんは保育士という仕事が自分には向いていない、と悩むことになる。
「子ども一人ひとりと遊んだり、一人ひとりの個性やキャラクターを深く知りながら、それと同時に全体を見渡して安全性を見るのが保育士の仕事です。けれど、そのバランスが本当に難しくて。実習の時からずっと、自分の見ている子どもになんかあったらどうしよう?という恐怖心がずっとあります。子どものように肩書きも何も気にしない、ありのままの人間を相手にできる仕事って他にないと思うんです。それと同時にすごくこわいという思いが今もずっとあって。
たとえば、今日みたいにとても暑い日は水分補給しているかどうか様子をよく見てないといけないし、自分の子どもを見るのと同じ感覚なんです。僕としては、楽しさや喜びよりも、苦しみや悩みのほうが大きい仕事ですね」
動き回る子どもたちにくまなく目を凝らし、体も心も全方位に集中する。ただ子どもたちと遊ぶだけでなく、安全かどうか常に見守る。改めて保育士という仕事がどれだけ大変なものか、気づかされた。
「意識してやっているうちはまだ本物じゃないというか。格闘技と同じで無意識に動けるようになってはじめて、そこから先にいけるんじゃないかと思っていて。そこに達するまで、どれくらいかかるんだろう(笑)。
訓練である程度身につくものもあると思います。けれど、格闘技と同じで、そこに到達するのが早い人もいれば、ゆっくり時間をかけていく人もいて。僕は後者だなという実感がありますね。一つひとつ、時間をかけて積み上げていくしかないのかなと覚悟しています」
今までの保育の経験と
「やまのこ」の大きな違いとは?
2018年4月、妻の実家である鶴岡に引っ越してきた。鶴岡に残っている妻の両親のことがずっと気になっていた一朗さん夫婦は、後悔する前に行こうと2人で決めた。終のすみかと決めるわけではなく、一度行ってみようと気軽な気持ちで。
「鶴岡に向かう電車のなかで求人募集をみていました。鶴岡に着いた日に面接をして、とある保育園で働くことがすぐに決まりました。そこで1年間働いてみたんですが、仕事の労力に給与が見合わず経済的に厳しいことがわかり、このままだと保育の仕事は続けられないと思うようになりました。それでほかの仕事を探し始めた時、『やまのこ』の求人をみつけて。今までの保育の現場とは違うなと感じて応募しました」
「やまのこ」に一番魅力を感じたのは、「より良くしていこうということに、すごく柔軟な感じがしたこと」だった。
「これという型に合わせて進めるんじゃなくて、いいと思ったらみんなで相談しながら、やってみるという柔軟で自由な姿勢がすごいなと思ったんです。個人ならまだしも、組織の多くが変化を嫌うものだと思うし、そもそも変わることが難しい。だから、純粋にいいものを追求するために、どうすればいいのかを考え続けるのってすごく難しいことだと思っていて。それを『やまのこ』は組織でやっているんです。相手は子どもですし、一時的に保護者とは接するけれど、自分の正しさを信じ過ぎてしまって、視野が狭くなりやすい気がしていて。けれど、『やまのこ』はそうならないように、常に変化を受け入れていく、そんな印象を受けてすごく魅力的だなと思いました」
面接は、園のスタッフと会社の代表と2回行われた。“人を選ぶ”、その手順そのものも大事にしているんだなと、印象に残ったそうだ。
「ちゃんと一人ひとりを見てくれているんだなと思いました。スタッフの方との面接はいろんな質問をされましたね。『子どもの未来はどうなると思いますか?』なんて、今までじっくり考えたこともないようなことを聞かれて。後になってああ言えばよかったなと思って、深く考えたり、自分自身のことを問う時間でもあって、とても疲れたんですけどすごく面白くて。それがいまもずっと続いている感じですね」
面接を経て、「ここでがんばりたい」と思ったという一朗さん。「やまのこ」に入ってからは、常に考え、動き続け、それが、「本当に生きることにつながっている」という。
「どんなことも、どういう意味づけをするかだと思うんです。一つひとつ、これは何のためにやるのか、というのをちゃんと考えて、振り返る。思考停止にならずに考え続ける。それが『やまのこ』の魅力だと思います。園庭に手作りの竹の遊具があるんですけど、業者に作ってもらえば、年齢に合わせた安全なものができるかもしれませんが、危ないからなくすのではなく、どうしたら安全に遊べるかを考えるんです。
保育者同士でも、やり方を互いに吸収したり、影響し合う毎日で、常にリングの上みたいな気持ちで、気合いを入れてやっています。毎日すごい緊張感で不安もあるし、気を抜けませんが、だからこそ自分が鍛えられて強くなっていく感じがしていて。熟練された保育者さんのように無意識で体が動いたり、目線が動いたりするようになれたらと思って日々精進ですね。互いの価値観を尊重する、許し合うってすごく難しいこと。それを『やまのこ』ではやろうとしているし、そうあり続けていくためにみんなが努力しているんだと思います」
一朗さんはそう話しながら、時々困った顔をしていた。保育の大変さ、「やまのこ」で保育者として働く難しさを身にしみて感じているからこそ、簡単に「楽しい」とは言えないのだろう。けれど、そんな毎日もひっくるめて挑戦し続ける毎日を生きること。その日々はきっと充実し、楽しいことでもあるだろう。弱さを認めて、怖さを知っているからこそ、強くなれるんじゃないか。一朗さんを見ていると、そんなふうに思えた。
子どもたちと過ごす 「やまのこ」での日々を通して 自分の心も体も変化し続けていく。
東京から釧路へ
保育の現場から離れてみたかった
莉穂さんの生まれは、新潟県新潟市。進学を機に東京へ。保育系の短大を卒業して、東京で保育士として3年間働いた。転職し、東京を一度離れてみようと思っていた時、釧路にUターンするというWebデザイナーの友人が「一緒に来てみない?」と声をかけてくれたことで、釧路へ移住を決めた。今から3年前、23歳の時のことだった。
「都内の保育園で3年間、働いていました。保育士とか教育現場の人たちは専門的な人が多いこともあって、外とのつながりが少ないなと感じていたんです。だから、保育士として働きながら、ひとりで旅行に行ったり、もっと外の人たちと出会うことを始めてみたら、知らない世界がたくさんあるんだなと気がついて。一度、保育士を辞めて違う外の世界を見てみたくなったんです。そんな時にちょうど釧路へ来ない?と誘われて。半年間の期間限定だったので、ふらりと行ってみようと思いました」
東京と釧路を行き来しながらウェブデザイナーとして働く友人が釧路にゲストハウスを作ることになり、働いてくれる人を探していた。以前からウェブデザインに興味があった莉穂さんにとって、願ってもない誘いだった。釧路ではゲストハウスで働きながら、地域の方たちと関わる仕事も担当。地域の人の輪に入り、盆踊りを手伝ったり神輿を担いだり、地元の新潟でもしたことがない経験をすることができた。
地域に根ざした人たちとのつながりはもちろん、ゲストハウスを訪ねてくれる海外の方や日本中から来る旅人たちと出会える毎日はとても刺激的。保育園で働いていた時に欲していた“外の世界”がそこにはあった。多様な人との出会いを通して、知らない世界に触れたいという莉穂さんの願いが叶ったのだ。しかし半年後、ゲストハウスは冬季休業を迎え、釧路を離れることになる。
「知り合いが誰もいないところに移住する気はなくて。東京に戻るのもなんだか違う気がするし、実家も違う。どこにしようかと考えていた時、よく旅行で訪れていて、友人も多い京都へ行こうと決めました。西日本は知らない土地も多く、興味があったんです」
自分らしく子どもと関わりたい
そんな場所を探していた
京都では、友人の家に住まわせてもらいながら「D&DEPARTMENT KYOTO」のカフェスタッフとして働くことになった。ゲストハウスで働いていた時のように、いろいろなところからお客さんが遊びに来る京都という土地柄もあり、出会いも多く、忙しいながらもとても充実した日々だったという。
10ヶ月間ほど京都で働いた頃、偶然SNSで「やまのこ」の保育者(やまのこでは保育士として働くスタッフを資格名ではない名前で呼びたいという思いから「保育者」と呼んでいる)募集の記事と出会い、その記事に出ていた一枚の写真が莉穂さんの心を掴んだ。かえるを手に載せた保育者とその様子を真剣に見つめる子どもたち。その表情に保育者と子どもたちがどう過ごしているのか、その様子が垣間見え、一目惚れしたのだそうだ。
「こんな瞬間を作り出せる保育園ってすごく素敵だなと思って。私もこの瞬間に立ち会いたいなと思いました。保育者の仕事を辞めてからも、いつか子どもに関わる場所で働きたいという思いをずっと抱えていたんです。偶然記事を読んで、ここでだったら、自分らしく子どもと関わることができるかもしれない。そう思って応募しました。保育者として働いているスタッフたちも自分の生活を大切にしていることが書かれていて、ていねいに日々を営んでいるのがすごく素敵だなと思ったんです。前に働いていた園では身を削って働き、やりがいだけで生きていたけれど、それだけじゃ続かないというのはずっと感じていて。自分自身の生活を見直したいという思いもあったし、『やまのこ』ならば自分の体も心も変えれるかもしれない。そんな期待もありました」
「やまのこ」では、「やまのこ」に関心のある人たちと地域を限定せず広く出会いたいという思いから、随時オンライン説明会を実施している。そこでは、複数人で園長の遠藤綾さんとオンライン上で話をしたり、質問をすることができる。その後、書類選考を経て、鶴岡で行われる面接へと進む。莉穂さんの時は、海外からオンライン説明会に参加した方もいたという。2018年8月、面接のために夏真っ盛りの鶴岡へ来た莉穂さんは、青々とどこまでも広がる田んぼに心を奪われた。
「遠くに地平線が見える庄内平野を見て、あぁ、最高だなと思ったんです。当時は京都駅の近くに住んでいたので、人が多い環境で。広い土地に行きたくなってたんですかね(笑)。新潟出身なので、お米がおいしいところってやっぱりいいなって改めて思いました」
自分の意見を話すことで
自分自身と向き合うことができる
無事、「やまのこ」へ入社し、久しぶりに保育者として働き始めた莉穂さんだったが、スタッフ自ら考えて行動し、さまざまな意見が飛び交う「やまのこ」の現場で、なかなか自分の考えを言葉にすることができず、とまどいも多かったという
「年に4回、1泊2日でやまのこスタッフたちが集まって、その時々のテーマをもってとことん話し合う合宿があり、入社する前に参加させてもらうことができたんです。けれど、話の展開が早すぎて全然付いていけなくて。ひとつの議題でもいろんな意見が出てくるんですが、それについて意見を出すことがとても難しかった。『どう思う?』って話を振ってくださるんですけど、頭の中を整理して、自分の考えにまとめて言葉にするのにすごく時間がかかってしまう。もともと人前で自分の意見を言うことがとても苦手だったのもあって、全然スピードについていけなくて」
けれど莉穂さんは、できないことをできないままにせず、「どうして自分は話をするのが苦手なんだろう?」と自身に問いかけた。自分が話したことを相手がどう受け止めるのかをあれこれ考えてしまうから話せなくなるのだと気がついた。「やまのこ」のスタッフは、保育経験の有無に関わらず働いているので、どんな意見でも、どんな言葉でも大事にし、決して否定することなく、受け止めてくれる。話をさえぎることなく、終わるまで待っていてくれる。そんな環境の中で、莉穂さんはだんだんと自分の意見を臆せず話せるようになった。躊躇せず言ってもいいのだと思えること、どんな意見でも真剣に耳を傾けてくれる場を「やまのこ」全体で作ってくれていたからだ。
「『やまのこ』で働いて、まだ一年しか経っていないんですが、日々、挑戦しているというか、冒険している感じです。入社してから3〜4回、合宿を重ねてきましたが、今ではその流れについていけている気がしています。ちょっと成長してるのかな(笑)。本当に毎日めまぐるしくて、もちろんいっぱいいっぱいの時もあるんですけど、自分の気持ちや体も変化し続けているというか。この一年、頭の中や心の中を必死にかき出して、自分自身と向き合い続けているような感じですね」
自分の暮らしを作っていく
鶴岡での新鮮な毎日
「やまのこ」から徒歩でいける場所に、小さな畑付きの一軒家を借り始めた莉穂さんは、「やまのこ」で栄養士として働く後藤緑さんと一緒にシェアをしている。互いに一人暮らしだった2人は、前回紹介した朋子さん&歩さんのように共同生活を楽しむ暮らしに憧れていたそうだ。自宅に帰ってきてからも、今日あったことや子どもたちの話をする時間が楽しいと2人は口をそろえる。
「園では、子どもたちの発達や年齢に合わせて、どういう保育をしていったらいいのかを常に考えているのですが、先ばかりを見ていると、今、発しているメッセージを取り逃してしまうこともあって。子どもたちの視点をもっと拾えるようになりたいから、全神経を集中している感じなんです。毎日毎日、変化が起きているすごい現場にいるんだなと改めて感じています。緑さんは緑さんの持ち場でどうしていったらいいかと考えているし、それをみんなが持ち寄ってより良くなっていく。立ち止まらず、常に動き続けているのが『やまのこ』なんだと思います」
「大人であるということ忘れたいんですよね」と話してくれた莉穂さん。もうその頃には決して戻れないけれど、そういう思いで子どもたちとともに時間を過ごしている。子どもたちにはどんな世界が見えているんだろうと想像する莉穂さんのやさしい視線は「やまのこ」へと通う何気ない日々の中にも表れていた。
「車を持っていないので、歩いて『やまのこ』に通っているんです。帰り道、夏は夕日がすごくきれいで、歩きながら空一面、どんどん色が変わっていくのが見えて。田んぼの横には雑草が生い茂っているんですけど、ひとつ草が枯れたら今度は違う雑草が生えてきて、季節がどんどん変わっているんだなっていうのを毎日感じながら歩いています。都会では見落としてしまう小さな変化に触れられることもここで暮らす喜びかもしれません。東京で保育士をしていたときは、バッタ一匹を必死で探していたのが、いまではあちこちでぴょんぴょん飛んでるし、トンボもたくさん飛んでいる。本当に豊かな環境で過ごせているんだなと実感して、のびのびと自分らしく生きていられる気がします」
「やまのこ」で働きながら、自分たちの手で生活を作っている真っ最中の莉穂さん。迷いながらも冒険し続ける保育の仕事とひと続きになった鶴岡での日々を、存分に楽しんでいる様子がひしひしと伝わってきた。
距離をエネルギーに変える。東京と鶴岡、離れて暮らす、2つの家族が選んだ別居と同居。
結婚は一緒に生活を作っていく
アートプロジェクト
朋子さんが「やまのこ保育園」に参画したのは、2018年6月のこと。もともと、大学院でアートについて学び、卒業後は仙台にある文化財団に就職。2013年、東京藝術大学の社会連携事業として東京都美術館とタッグを組み、アートコミュニケーション事業の立ち上げから5年間働いた。その間に2人の子どもにも恵まれた。ちょうどその頃、児童養護施設の子どもたちと美術館で一緒に鑑賞するワークショップを企画。そこで初めて社会的養護が必要な子どもたち、社会の力で育てられている子どもたちに出会った。
「ちょうど、自分も子育てが始まったタイミングで、人ごととは思えなくて。そこから里親にも興味を持って、資料をもらって調べてみると、保育士の資格があったらもっと子どもの理解が進むかなと思って、第2子を産んだ後に保育士の資格を取りました。育休中には児童養護施設の子どもたちと美術館で鑑賞プログラムを行う市民団体の運営にも関わっていました」
そんな時、2017年9月「やまのこ保育園」ができた時、共通の知り合いを通じて、やまのこと母体の会社「Spiber」の挑戦と取り組みの話を聞いた。
「その時は、『やまのこ』の存在も知らないし、Spiberってどんな会社? 鶴岡ってどこにあるの?って感じでした。でも、実際に調べたり『やまのこ』を見て、 Spiberという企業にも魅了されて。社会のために何ができるかということを保育を通して考えることはとても挑戦的だと惹かれ、作り手として参加したいと思いました。けれど、子どもたちもいるし、夫は仕事の関係で東京を離れられないし。2ヶ月間ものすごく悩みました」
結婚したのは2011年、仙台で働いていた頃だった。夫の大地さんは当時、名古屋勤務。遠距離だった彼から「2カ所に分かれたまま、結婚するのはどうだろう?」と提案された。
「これはアートプロジェクトだなと思いました。生活も結婚もプロジェクトとしてやってみようかと、離れたまま結婚したんです。“距離”をポジティブに、自分たちのエネルギーに転換していこうと。生活そのものをかたちから一緒に作っていく。そんなパートナーに出会えたなと思いました」
仙台と名古屋の遠距離結婚を経て、2013年は東京で同居をスタート。けれど、建築設計の仕事をしている夫の大地さんは中国に赴任したり、その後も出張や激務が多かったという。そんな中、想定を超えた大きな変化を伴う鶴岡への転職の話に朋子さんはとまどった。
やりたい仕事と家族のこと。
家族が“2つ”になるという選択
「夫と何度も話し合いました。夫は今、会社を辞める時期ではないから、行かない。でも、私が挑戦したいと思える魅力が『やまのこ』にあるのなら、思考と一致する場で挑戦できるのはいいことだからやってみたら?と応援してくれて。でもその当時は、不安しかなかった。
応援すると言うけれど、自分は行かないのに?とも思ったし、子どもと過ごす貴重な時間がなくなることで彼が父親として成長していく機会を奪ってしまうんじゃないか、いつか東京に戻ってきた時に子どもたちがなじめなくなっちゃうんじゃないか……いろんな推論のはしごを登る感じで、何ひとつポジティブに考えられなくて。初めてカウンセリングも受けました。不安で不安で怖かったんです。現実問題、ひとりで子ども2人を育てられるのか?とも考えました。東京にいる時もパツパツな生活だったんです。ふたつの保育園に送迎してフルタイムで働いて。仕事はすごく楽しいけれど、核家族でほぼワンオペ育児で。家事代行を入れたり消費型で解決したり。
考え続けていくうちに、どうせ髪振り乱してがんばるなら“冒険してる”って思えるほうがいいなと思って。実際に家族4人で鶴岡に来てみたあと、行くことを決めました。決めたら最後、それを正解にしていくしかない。選択ってそういうことだと思うので」
2人は結婚する時「FISH PROJECT」と名づけた冊子を作り、親戚に配ったという。
その中に、大地さんが書いたこんな文章があった。
「距離があること。その隔たりを超えて価値あるものへと転換し、そして創造的な行為への契機とすること。それがこのFISH PROJECTのテーマでした」と。
このことをすっかり忘れていたという朋子さん。鶴岡に行くと決めた後にこれを読み、「やられた」と思ったそう。「もとから私たち、こうだったんですよね」と朋子さんは笑った。
離れ離れになった家族が、
もうひとつの家族と同居
朋子さんと子どもたちが暮らす2LDKのマンションは「やまのこ」から歩いてすぐの場所にある。目の前にはスーパーもあり、生活するのはとても便利だろう。
「鶴岡の冬は、雪が降るのでとても厳しくて。母子で暮らすには『やまのこ』からの近さとか自分たちのキャパシティを考えてここにしました。引っ越してきて3ヶ月、3人で暮らして、その後、大野家が引っ越して来て一緒に暮らすことになりました」
朋子さんと夫の大地さん、大野歩さんと夫の達也さんの4人は高校が同じ。そして、大地さんと歩さんは親友だった。家も近所で、子育てを始めたのも同じ時期だったこともあり、頻繁に互いの家族と過ごす関係だった。朋子さんが鶴岡へ母子だけで移住することを歩さんへ伝えると、「じゃ、私たちも行こうかな」と歩さんも鶴岡に来ることに。すごく悩んだ朋子さんと対照的なほどあっさりと歩さんは決めた。
「知らない土地だし、朋子さん1人だと絶対大変だろうと思ったんです。その時、私はまだ育休中で、娘は保育園が全然決まらなくて。このまま決まらなかったら、仕事を辞めなきゃいけない状態でした。どうしようかなと思っていた時に朋子さんから鶴岡に行くという話を聞いて。夫も出張が多くてほとんど家にいなかったこともあって、最初は『暇だから数ヶ月くらい朋子さんの家に行って家事をしようかな』と、軽い感じでした。夫に話をしたら、今は東京にいることにこだわる必要はないし、いいんじゃない?って」
歩さんは大学で写真を専攻し、卒業後は出版社やカメラの修理会社などずっと写真に関係した仕事をしてきた。写真を撮ることは好きだったが、写真を撮ることを仕事にするのは半ばあきらめていたという。そんな歩さんが、朋子さんと一緒に「やまのこ」で働くことになった理由は、あきらめていた「写真を撮る」ことがきっかけだった。
「子どもたちの日々を記録したいから、写真を撮る人がいるというのは園にとって必要だという話を園長の綾さんからしてくださって。保育園ならずっと同じ対象を撮り続けられるし、追いかけていける。それは私が写真を撮る上ですごく理想的な環境だなと思ったんです。自分のやりたいこともできるし、東京では保育園に入れなかったけれど、のびのびといられる『やまのこ』に子どもを入れることもできる。いいことしかないと思って、すぐに保育士試験に申し込んで、4月の試験を受け、9月に鶴岡に引っ越しました」
家族のかたちはいろいろ。
移住して、7人家族になった
朋子さんは歩さんが来る前まで、子どもを部屋に残してゴミ出しに行くようなちょっとした時も緊張していたという。歩さんと一緒に暮らすようになってからは「ようやく肩の力が抜けました」と話す。
1歳と3歳(当時)の子どもたちとの3人暮らしは大変で、持続可能ではなかった。大野家と合流したことで、やっと持続可能な暮らしの兆しを感じられた。そう思った。けれど、一緒に住んで3〜4ヶ月くらい経った頃、互いにギャップを感じるようになっていた。
「私は鶴岡での暮らしを、歩さんと彼女の子を入れて平日は5人家族だと思ってたんですよね。夫たちが週末ここへ来ると7人家族みたいな、“ひとつの”拡大家族だと思っていたんです。拡大家族といっても、2つの家族があって同居しているんですが、私は我が子のように大野家の子を思っていたんですね。なかば責任を感じていた。もともと里親にも興味があったから自分の子じゃない子を育てるということは学びだなとも思っていて。けれど、歩さんは自分がケアすべきはまず自分の子で、自分の家族は2人であると考えていた。それはどっちが正解とかではなくて、感覚そのものが違っていたんだとわかったんです」
「朋子さんと大地くんが思っていた家族の捉え方と、私と夫が思っている家族の捉え方がもともと違っていて、それがいつしかギャップになっていました。朋子さんたちは家族みんなでプロジェクトを作っていく、そのパートナーが家族であるという考え方だと思うんですけど、私たちはひとつの家の中に別々の個がいるっていう感覚なんです。共にいるけれど、各々が好きなことをするのを許してくれるのが家族という認識でした。朋子さんは朋子さん、私は私でいても、それでも共に暮らせるのが家族であるという思いだったんです。朋子さんが私と娘に対して、そんなに気を負わなくてもいいんだよって話したら、朋子さんも少し気持ちが楽になったんじゃないかな」
2つの家族が、2つのまま同居しつつ、互いにケアしケアされるというかたちに変えてみたのだ。
仕事は今、リモートワークやフリーランスというかたちで流動的になりつつあるし、住まいも二拠点居住や移住という選択肢がある。けれど、家族というある種固定された関係性が、こんなにも流動的になるのだと驚く。
毎朝、朝食の時は鶴岡と東京をネットでつなぎ、ビデオ通話で顔を見て会話しながら、家族7人でごはんを食べる。会えない時間をマイナスのままにしておきたくないと朋子さんは考えている。会えないからこそ、会える時間が愛おしい。大人4人で子ども3人を育てていける安心が育まれていく。
「離れて住まうことは正直なところマイナスかもしれません。でもおもしろくはしていけるし、マイナスだからこそ挑戦しがいがある。実の親以外にも親しい大人がいて、場所が2つあって、子どもたちにとっても東京と鶴岡で暮らすということはマルチカルチャーというか、彼らのアイデンティティ形成において多様であるということがおもしろい時代がくるんじゃないかなと思うんです。
こういう家族のかたちを持続可能な暮らしの探求として、周りに協力をいただきながら、チャレンジしていっています」
家族の新しいかたちを模索する朋子さんのそばには大地さんや大野家がいて、「やまのこ」のスタッフもいる。そうやって助け合える関係性や、常に考えて作り続ける態度があれば、家族のかたちが変化していっても、大丈夫。仲間・家族・パートナーと一緒に生活を作っていくプロジェクトは、これからもずっとずっと続いていくのだ。
あなたはどう思う? 私はどう思う?日々の「問い」から生まれる保育のかたち
「いまを幸福に生きる人」
「地球に生きているという感受性を持った人」
を育むために
夏の暑さをもろともせず、裸足で走り回る子どもたち。その傍らでは、絵を描いたり、段ボールなどの廃材を使って工作したり、さまざまな楽器を奏でたり。はたまた、園庭へと飛び出した子どもたちは自分たちで育てたきゅうりをもいではそのままかじりついていた。このクラスは3〜5歳の「あけび」組で、年齢に関わらずみんなが一緒に遊ぶ。子どもたちは「今、何がしたいか」を自ら選択し、その主体性にまかせながら、思い思いに過ごす時間を保育者たちは静かに見守る。
ここ「やまのこ保育園」では、子どもたちの“生きる力”を引き出す、自由でユニークな運営を行なっている。互いに学び合う異年齢保育、配膳や洗濯、遊びに至るまで子どもの主体性を大切にした運営、小さな地球をイメージしてデザインされた園庭など、「やまのこ」での生活を通して、人が生きていくための本当に必要な力を育もうとしています。そんな新しい保育園が生まれた背景には、園長の遠藤綾さん(以下、綾さん)の強い思いがあった。
2017年9月、Spiber株式会社が手がける企業主導型保育事業として、「やまのこ保育園」は誕生した。Spiberは、原料を石油のような化石資源に依存せず独自の発酵プロセスで構造タンパク質素材を開発し、世界的にも注目を集めるスタートアップ企業だ。
山形県鶴岡市の「鶴岡サイエンスパーク」内にある会社から徒歩数分の場所に、0〜5歳児の「やまのこ保育園」と、0〜2歳児の「やまのこ保育園home」の2つの園を設立。
2016年9月にSpiberに入社した綾さんは、入社してすぐ保育事業の担当者に。その頃は、まだ自分たちで運営するかどうかまでは決まっていなかったが、「会社は社会のためにある」という企業理念を持つSpiberとして、どういう保育を作っていくかという話し合いから始まり、まずは“保育目標を言葉にする”ことからスタートした。
「Spiberに入って私が最初に関わったプロジェクトが、これから社会はどうなっていくのか、人口や食料がどうなっていくのかを、いろいろなデータから調べることでした。この世界が30年後、50年後に、人口分布も大きく変わっていくなかで、どういう未来にどう生きるのか、という新たな人間像を考えなくてはいけなくなって。次の時代にどんな能力が必要か考えることをベースに、世界各国が保育や教育の指針を新たに作り直しているのが今の世界の現状だと思うんです。
今、保育の現場は世界中で大きな転換期を迎えていて。幼児教育の役割とは何か、0歳〜6歳時までの年齢の間に何を身につけているべきなのか、そういうことを考え合せながら、かつSpiberの理念をタペストリーのように織り込んでいくようなイメージで考えた末に出てきたのが、いまの保育目標なんです」(綾さん)
保育目標とは、“どういう人間像を目指すのか”を、すべての保育園が掲げるもの。綾さんは、子どもたちが大人になった時、つまり20〜30年後にどういう人間になっているか?という未来の人間像はどうあるべきなのか考えた。
それが「いまを幸福に生きる人」と「地球に生きているという感受性を持った人」という2つの言葉だった。Spiberの理念と、いまの時代のキーワードから導き出されたこの2つが「やまのこ」の柱になっている。
保育目標ができたことで、目指すべき人間像が明確になり、そこから枝葉となる、実際の現場をどのように作っていくのか、また保育者にはどういった人材が必要なのか、選ぶべき家具や食器、など施設に必要なあらゆるものが具体的に決まっていった。
一番難航したのが人材、つまり「やまのこ」の保育目標に共感し、働いてくれる保育者を集めることだったという。もともと子ども関連の仕事に従事していた綾さんは全国の知り合いを通じて人材探しに奔走。なんとか最初の8人のメンバーが集まった。保育士経験がある2名、看護師が1名、調理の担当者が2名、事務の担当者と綾さん、そして園庭を『小さな地球』と捉え、そこに小さな生態系をつくり、循環が生まれるような場所を作りたいと、パーマカルチャーを学んだガーデンティーチャーもチームに加わった。
そして、子どもの数が増えるにつれ、徐々にメンバーも増え、もう一人の園長となる長尾朋子さん(以下、朋子さん)との出会いもあった。東京で2人の幼い子どもと夫とともに暮らしていた朋子さんは、2ヶ月間悩みに悩み、11月にやまのこ保育園を訪れ、12月に鶴岡に移住することに決める。雪深い冬のことだった。
常に変化していくことしか
本当のことはない
「自分の役割は、入社した時と1年経った今ではフェーズが変わってきていて。ふたつの園になる前は、リーダーに綾さんがいて、もうひとつの園の開設準備に奔走していればよかった立場から、それぞれに園長が必要だということで、私が園長に。でも、保育という業界については、いままでは利用者側だったので、『園長ってなんだ?』というのが実感としてわからなくて。ようやく3ヶ月経った頃、ものすごい重みと、もしかしたら日々の現場で“問い”を発し続け、チームで場を作り続けられる状態にしていくことが、私なりのリーダーとしての役割なのかもしれない、と。
自分の役割ってなんだろう?ということを問いながら、この1年ずっと学んでいた気がします。学ばなければ、見つけられないという感じがあって」(朋子さん)
「朋子さんが入ってくれたことで、それまで自分ひとりで抱えていたことを話せるようになったのが大きかった。考え方も、経験してきたアートの分野など素地になっているものが近いので、やりとりもスムースで、一人で走るよりも数倍速い感じなんです。いろいろな人が加わってくださることで、どんどん変化していく。それを感じやすい人数が今の人数なんでしょうね。新しい人が入ってきてくれることは『やまのこ』にとってもすごく大事なこと」(綾さん)
現在、スタッフは掃除などのサポートスタッフを含めて、二園合わせて28名にも増えた。さまざまなバックボーンを持ち合わせたバラエティに富んだメンバーが集まっていて、中には保育を専門の仕事にしたことのない人もいる。だからこそ今までの知見や経験が生きてくるし、意見の食い違いが生まれても「あなたはどう思う?」と互いの価値観に耳を傾け、対話しながら、その時々でよりよい選択をしていく。それは保育者同士だけでなく、多様性のかたまりのような子どもと接する日々の保育の現場はもちろん、保護者と接する時も同じこと。そんな“問い”だらけの毎日を、悩み、迷いながらも保育者たちは楽しんでいるように見えた。
「変化し続けられるということは、学び続けられる人だと思うんです。いろいろな世界情勢を見るなかで、『変わるということしか本当のことはない』と思っていて。
Spiberも学びながら変化していく会社ですし、学び続けるということは、これからの時代を生きていく時に必須だと思う。この現場で学び続けるって何かと考えると、相互に影響し合う関係から気づきを得るということ。それは、大人も子どもも同じで、互いに入れ子構造になっているんです。子どもたちと私たち大人の間では、常に関係性が生まれている。何かの関係が生まれたところに、一方通行っていうことはありえないんですよね。子どもに関わっているつもりでも、同時に子どもに関わられていて、常に相互に影響し合っている。影響を与え合いながらその関係性のつながりが集まって大きな球体のような、生命体のようなものになっていく、それがチームや組織のあるべき姿のイメージなんです」(綾さん)
「“学び続けることこそ、変化し続けること”を体現している綾さんがすぐそばにいてくれる。だから私だけじゃなくて、保育者たちみんなが“問い”を持ち学び続けようとする状態が、『やまのこ』にはあると思います。学ぶことを習慣にしようという意識があるというか。等身大なんですけど、ちょっとずつ広げたり、何か新しいことを得たり、個々人がそうありながら、同時に『やまのこ』も肥やされていく。自分の状態のアップデートとこの場のアップデートがつながっているんだということを綾さんから学びました。
綾さん自身がそれを体現しているから、どこかに行って持って帰ってきたことをすぐに共有したり、『やまのこではどうしたらいいかな?』と対話する時間も楽しい。対話から生まれるアイデアを起点に動き出す姿は、メンバーみんなに影響を与えていると思います」(朋子さん)
「やまのこ」では保育者たちが集まり、年に4回合宿を行う。そこで、日常の業務の中ではなかなかできない深い話し合いの時間をたっぷり取り、自分の考えていることや持っていた“問い”を掘り起こし、対話の中で自ら刷新していく。お互いが持っている“問い”を投げかけ合うことで対話が生まれ、そこから学びが生まれる。1人ひとりが学び続けられる人になるために、相互作用が起きやすい仕組みを「やまのこ」では意識している。たとえば、フラットになんでも話し合えるよう、互いにファーストネームで呼び合うこともそう。“園長”ではなく“綾さん”と呼ぶことで役割を外し、個人として向き合いやすくする。そうした一つずつのことを大切に積み重ねてきた。「やまのこ」が大事にしているのは、個性を尊重し、互いに影響しあえる、人間性で働ける場であり、そこに垣根はない。
「『今を幸福に生きる人』というならば、子どもそれぞれの価値観だったり、大切にしていることだったり、大切にしているペースだったり、それらを保証することが大切で。でもそれは子どもだけに保証するのではなくて、大人もそういう状態でないと嘘になってしまうし、何もクリエイションできなくなってしまう。『やまのこ』では子どもだけでなく、そこで働く大人たちも『今を幸福に生きる』と心から思える状況を大事にしたいと思っているんです」(朋子さん)
保育の場はクリエイティブな場。
生き物のように新陳代謝していく
「そもそも保育の現場って本来はめちゃくちゃクリエイティブな場なんです。まったく正解がないですから。すごくクリエイティブな場所なのに、そういう評価がされていなくて、なぜだろう?と思っていたんです。
保育というのは、クリエイティブな暮らしであり、先端的なことができる場所だと思っていて。小学校、中学校も本来はクリエイティブな場であるし、教育の場というのは、そういう場であるべきですよね。一番理想的なのは、子どもたちが毎年変わるたびに、この場自体も変わっていくこと。環境を変えることは子どもにも大人にも自動的にとても大きな変化をもたらしますし、子どもたちの個性や傾向性に沿って、場が進化していくようなサイクルをつくっていけたらと思っています。まだそこまでは全然できていないんですけど、ちょっとずつ近づいていけたら、と思っていて。だから私や朋子さんだっていつ変わってもいいというか、ここからいなくなってもいいという感覚はあるんですよ。本当に創造的な場所っていうのは、人に拠るではなく、その場所自体が持っている力が既にあるはずなんです。クリエイティビティってそういうことじゃないかな。
本当に目指すべきは、どんな活動をしているかではなくて、ここそのものが生きている場所になること。常にクリエイティブな発想ができるように仕組みやシステムを整えることで、誰が入っても出て行っても「やまのこらしさ」が保てる場所になる。
実は、ここにおばあちゃんになるまでいようと覚悟を決めて園長になったんです。命を預かる仕事ですし、それくらい覚悟しないとできないと思ったんですよね。でも、この場所がどんどん耕されていくことによって、そういうイメージもどんどん手放されてきています」(綾さん)
「とはいっても、綾さんの影響は大きいので、いなくなると困るんですけど(笑)。クリエイティブな場になるためには、いまここにある人とか物とか環境とか制度とか、そういったものをすべて素材と捉え、それらの新たな使い方とか組み合わせを考えながらひとつずつ編み出してクリエイションしていく。そういう発想を持てる土壌を作ることは、人同士のコミュニケーションだけでなくて、植物を育てたり、土と対話したり、泥だらけになって遊んだり、子どもも大人も一緒にこの場の様々な素材と対話する経験をかさねることで生み出していくものだと思うんです。
実は今、馬を“先生”として『やまのこ』に迎え入れようと動き始めているんです。これからの未来を見据えて、人中心の世界という枠を超えていくためには、大きくて強くて、わからない存在とコミュニケーションしていくことによって、得られる力があるんじゃないかと思っていて。だから『やまのこ』での日々はとても大きな仕事だと思うし、一年後の変化も楽しみで。これからも一つひとつ未来につなげていくことを大事にしたい」(朋子さん)
保育園ができたことで、
今年10月13日には2回目となるオープンデイを開催し、地域の人たちにも「やまのこ」の取り組みを見てもらう機会を設けたいと考えている。「やまのこ」内の変化を「保育園の話・子どもの話」に留めることなく、「大人も含む人間の話・社会の話」として提示して、地域や社会をも巻き込んだ変化にしていく。
そうした地域や社会とのつながりは、まさにSpiberの理念「会社は社会のためにある」を体現するものであり、子どもは社会のなかの一員として育っていくはずだ。そうしてまた、互いに影響を与えあいながら、「やまのこ」も街の風景も変わっていく。地域や社会とひと続きになった暮らしの実践の場こそが「やまのこ」なのだ。
ふたりの暮らしと仕事を聞く。 陶芸家・小野哲平さん 布作家・早川ユミさん
農業を守ることは、人間の尊厳を
継続するひとつの方法かもしれない
今回、ふたりが神山を訪れたのは、フードハブ・プロジェクト(以下、フードハブ)の真鍋太一さんとのご縁から。これまで、真鍋さんがふたりの家を訪ねることはありましたが、ふたりが神山に来るのは初めてです。まずは、神山とフードハブについての感想から伺いました。
哲平:フードハブという会社が目指していることを聞いて、農業を守ることは人間の尊厳を継続していくためのひとつの方法で、大事なことなんじゃないかと思いましたね。そのなかに、自分の仕事と何か共通すること、共感できることがあるから、たぶん僕はここに来たんだろうと思います。
ユミ: 前に「かまパン」の彼(笹川大輔さん)がうちに遊びに来てくれたとき、「不特定多数人のためのパンよりも、一人ひとりの体に合うパンをつくることが目標です」って、まるで作家みたいなことを言っていたの。しかも、彼のパンはすごくおいしくて、「会社でつくらされている感じじゃない」と思いました。
フードハブは会社だから、そのなかに食堂やパン屋さんがあって、誰かの指示のもとに分業して仕事をしていると思っていたの。でも、実際に来てみたら全然そうじゃない。「会社なのに」というと変かもしれないけど、笹川くんだけじゃなくて、みんなが自主的に働いている。そのことに驚きました。
哲平:彼の仕事の意思みたいなものを聞いた時に、個が見えてとても感動したんです。今まで、真鍋くんに対して何か共感できるところがあると感じてきて、神山に来て会う方たちにも感じている。たぶん、そういうことなんじゃないかな。
人間らしく生きるための経済、
壊れたシステムを修復する芸術。
フードハブは、「地産地食」を軸として神山の農業と食文化を次の世代につないでいくことを目的につくられた農業の会社。地域に貢献する「社会的農業」を目指して、小さな食の循環システムをつくり、また農業を通して地域の景観を守ることも大切に考えています。
「社会的農業」というあり方に、ふたりはそれぞれに思うところがあったよう。神山での夕食会でもお話されていましたが、もう少し詳しく聞かせていただきました。
ユミ:今の世の中の経済はお金を増やすために、お金だけがぐるぐる回っているでしょう。たとえ小さくても、自分たちの目に見えるかたちで、人間らしく生きるための経済をつくりたい。そう思って、畑で野菜を育てたり、自分たちの食べるものをつくってきました。フードハブは会社でありながら、自主的に、自分たちで何かをつくれる場になっているのが面白いです。
ーー人間が中心にある小さな経済においては、自主的であることが大事だと考えていますか?
ユミ:そう。それぞれの人が自分でやりたいと思ってやる必要があると思っています。そろそろみんな、資本主義以降の経済について考えていると思うんだけど、フードハブはひとつのヒントになりそうだなと思いました。
ーーユミさんは暮らしと社会の関わりを言葉にしながら考えておられますよね。哲平さんは、ご自身の作品づくりと社会との関わりについてはどう考えていますか?
哲平:僕も、資本主義経済ということに感じているところはあるけど、言葉にして伝えようとはしていないと思う。それよりも、心の深いところが壊れてしまった人間がつくっているから、社会のシステムが壊れるんじゃないかということを考えます。その部分を修復できるのは、やっぱり芸術の力もあると思うので、そことつながっていきたいですね。
ーーどうして、人間の心の深いところは壊れてしまっているのでしょう。
哲平:欲望と、欲望と引き換えに大切なものを手放したんじゃないですか。うーん……なんで壊れたんでしょうね? 自分自身も、壊れているように見える大人に理由もわからずに管理されようとしたから、すごく不自由を感じて必死で抜け出そうとしたんだと思います。
もしも10代の頃に、土を中心とした表現と出会わなかったら、僕もどんどん精神が壊れてしまったと思う。出会えたからそこを修復できて、人として生きられているんじゃないかと思っています。
命のいれものみたいな服、
小さな仏さまのような陶器。
「まちのシューレ963」に展示されていたふたりの作品を見たとき、「あ、哲平さんとユミさんがたくさんいる」という印象を受けました。
ユミさんのつくった洋服をそっと広げてみると、大事そうなところに宝貝や十字架のような印が縫いつけられていて。着る人を守ろうとする意思のようなものを感じました。
ふたりには、作品を受け取る人に対する思い、あるいは願いのようなものがあるのでしょうか?
ユミ:命のいれものみたいな感じがあるよ。なるべく体が大きく包まれるようなものにしたいから、布をたっぷり使ったりしてね。私の衣服は、いわゆる洋裁というものではないんですね。山岳民族の衣服みたいに、すごく簡単な作り方だけどすごく理にかなっている衣服のシステムを取り入れたりしています。
哲平:僕には宗教心はまったくないし、仏教徒でもないんですけど。アジアを旅しているときに仏像を見たり、骨董品屋や路上で売っている小さい仏さまを見たりすると、やっぱりなにか感じるものがあるんですよね。自分がつくるものは、ある側面ではそういうものでありたいと思う。
今の社会に欠けているものをつくって形を戻すというか、欠けているものを加えたい。今の人の心に欠けているもの、欠けているピースをつくっているという感じがあります。
ーーこの2日間、哲平さんの作品に何度も触れて、見て、やっと自分のためにお茶碗をひとつ選びました。触れることで思い出したい、取り戻したいという感じがあって、暮らしのなかに置きたかったんですね。「本当は、世界ってこうじゃないの?」というものに触れていたいという感じに近いかもしれません。
ユミ:うん。長い間入院された人が、哲平の器を入れた「旅茶碗」を病院に持っていったんだって。病院では、「割れやすい陶器を使わないで」と言われていたんだけど、袋からこっそり茶碗を取り出して使っていたそうです。「すごく力をもらったよ」と言ってくださってうれしかった。
原初的な気持ち、自然を感じられるのはきっと哲平の器だからだよ。そういう風に、何か触れていたくなるような、力が感じられるといいなあと思って、ものをつくっているんだよね。
近くに見ているものは違う
遠くに見ているものは同じ
「まちのシューレ963」のトークイベントで、参加者から「それぞれの暮らしの考え方で食い違いがあり、方向性が違った場合はどうしていますか?」という質問がありました。
ユミさんはさらりと「違ったら違う方法でやりますね」と答えていたけれど、哲平さんは「喧嘩するときは今でもひどい。わずかな、お互いの作るものに対する信頼があるから…」と答えられていて。その言葉が、ずっと心の底に沈んでいました。
とてもデリケートな関係性のお話。聞いていいのかどうか迷ったのですが、思い切ってふたりの懐に飛び込んでみることにしました。
ーーあの、昨夜のトークイベントで「一緒に暮らしていて、ひどい喧嘩もしてきました」とお話されたとき、「わずかな、お互いのつくるものに対する信頼」や「一抹の尊敬しあえる部分がお互いのなかにある」と哲平さんがおっしゃっていて。
哲平:一抹の、な。紙一重ですよ、ほんと。
ーーその「信頼」や「尊敬」ってどんなところで感じていますか?
哲平:……なんだろう? ユミがつくったものから感じるものですかね。色がどうとか、組み合わせがどうとかいう話ではなくて。
ユミ:あれもそうだよね。何年か前に、奈良国立博物館でそれぞれバラバラにすごくたくさんの仏像を見たとき。最後の最後に「どれが一番よかった?って聞いたら……。
哲平:同じものがよかった。巨大なものから小さなものまで、何百という仏さまを見たのに、お互いに同じ小さな誕生仏を「これがいいね」と思ったっていう。まあ、そういうことでしょう。
ユミ:だからね、近くに見ているものは違うかもしれないけど、とおーくに見ている、目指しているものは一緒なの。よかったよねぇ(笑)。
ーーお互いのどこがいいということではなく、お互いの作品から感じるものだったり、一緒に見たものであったり、少し離れたところを信頼しあっているということがとても興味深いです。
哲平:その、少し離れた部分を信じてものをつくっているから、そういう見方をするというか、ね。
ユミ:私は、哲平のつくった器に毎日触れて、使うことからも共感をしています。ご飯のたびになるべく美しく盛り付けて、何十年もずっと使うところもすごく大事なんだと思う。
器って使うとどんどんよくなるんだよね。使ったり洗ったりしながら触れて全体を感じていくことも、器の面白さじゃないかと思います。
感情、あるいは感動の蓄積、
あるいは感動の大きなふくろ。
ユミさんの話を聞いていた哲平さんが、「それ(器)は俺なのか?」と口を挟みました。「いやいや、そんな美しい話にしちゃいけない。世界には、ちゃんとしたことをやっぱり伝えないといけない」と。
ふたたび潜りこんで考えはじめた哲平さんが語る、「ふたりが紙一重のところで、薄く共感できているのはどこなのか」。居住まいを正して続きを聞かせていただきました。
ーー今、私のなかには、おふたりが小さな誕生仏を遠くに見つめながら、並んで歩いているイメージがあります。
哲平:いや、そうだと思う、そうだと思います。
ーーはじめて出会って惹かれあったときは、きっとお互いに向き合っていたと思います。歩んでいくなかで同じ方向を一緒に見るようになったということですか?
哲平:それは、やっぱりやりたいことを思いきりやってきて、それぞれに自分の思いが重なってかたちになって。自由になってきて、仕事もできるようになってきて。何かお互いのなかに強いものができてきたからじゃないですか。少しは重なっているけれど、違う部分も大きくなってきているというか。
ユミ:長い間、一緒に旅をして同じようなものを見てきて。旅の中での蓄積が自分たちのつくることにもなってきたと思う。たとえば、同じ誕生仏をいいと思うのも、「この色はあそこで見たよね」というようなことを、たくさん蓄積してきたうえでのことだと思うんだよね。
哲平:旅をしたり、制作をしながら、同じ経験をして近いことを感じてきたという感じはあるので。お互いに持っている、感じてきたものを蓄積したレイヤーは、とてもよく似ていると僕は思いたくて。
それがとても似ているから、近い方向のものを体から出せるんじゃないかなと思う。一番大事なところにしまっている、感情の蓄積みたいなもの。感動の蓄積かもしれない。
ユミ:感動して、そこから何か自分の表現につなげていくときには、そんなに共有する部分はないかもしれない。でも、大きな感動のふくろはわりと似ていると思います。
哲平:最近ものすごく感動したのは何か?というと、たぶん同じものが出てくるんですよ。いまだに、ものすごい感動の共有ができるというのはありますね。
ーー同じ地層を持っている地面がつくられてきて、それぞれの植物というか、違う色の花が咲いているような感じがしました。
哲平:そんなきれいな話にしちゃいけませんよ。ドロドロした、きたなーい、きたなーい地面ですよ。
ユミ:わはははは!
哲平:子どもがまだ小さいときなんかは、「どちらが時間を使うか」を常に争っていて、もう欲と欲のぶつかり合い。そうやって、ずっとやってきましたから。良い意味でも、良い意味じゃなくても。
自分との関わりでつくる「趣味」
社会との関わりでつくる「芸術」
ともに作家でありながら、親として夫婦としてともに在ることは、たしかにきれいごとではなかったのかもしれません。自分の表現に真剣であろうとするほどに、そのしんどさもまた重かったのではないだろうか、と。
でも、人生のなかの嵐のような時期は過ぎつつあるよう。歳を重ねたおふたりが表現と制作にどんな風に向き合っておられるのかを尋ねました。
ユミ:縫い物といっても指先ではなくて、体でつくることだから、体は大事にしているし、哲平にも大事にしてほしい。歳をとることでわかることっていっぱいあるので、歳をとることはすごくいいことだと思うんだよね。
ーーそういえば、近年の哲平さんの作品には軽さがあると評する人もいるようですけど。
哲平:ある時点から、器をつくっているときに、相手に寄り添う気持ちがあったほうがいいんじゃないかと思いはじめてから、つくるものは少し変わってきたように思います。
ユミ:たしかに、すごく重いのとか、唇が切れそうなものはなくなったね。
哲平:若い頃はとても攻撃的で、自分を研いで研いで研ぎ澄ませて、それを瞬間的に爆発させるみたいな感情を持って器の仕事をしていました。僕の師匠がそういう感じだったし、とてもかっこよく見えたんです。
でも、それは師匠であって。自分はどういう気持ちをつくればいいのかずっと悩んで。自分がこの仕事を選んだのは、自分のなかの衝動的な暴力性との精神のバランスをとるためだったと思うんです。振り返ると、このまま衝動をだらだら出し続けていても誰にも何も伝わらないと感じるようになったからじゃないかな。
だから今、いろんな怖い事件を起こしてしまった彼らも、どこかで何かが、誰かが救える瞬間があったはずだと僕は信じたい。そういうことが、芸術によってできれば。僕は、自分が救われたからそれができるはずだと信じたいですね。
ーー「誰かに寄り添いたい」というとき、「誰か」のイメージはあるのですか?
哲平:病んだ社会でしょう。個人は見えないから、闇ですね。その闇に向かって石を投げたい。すると、ときどき闇のなかで石を拾ってきて、見せに来てくれる若い人がいたりする。そういう子が現れると、間違っていないかなと思います。
僕は芸術活動を社会運動だと思っていますよ。自分との関わりでつくっていたらそれは趣味にすぎない。外に出して、社会とどう関わるかということが起きてはじめて芸術だと思っているので。芸術ってそういうことじゃない? 人の、それぞれの感情、心のなかに何かが起きる。社会は人間の感情でできているからね。
最後に、「おふたりが暮らしのなかで共有されているものは?」と聞いてみると、「味覚。食べるもの。何をおいしいと感動できるかでしょう。大事なことは」と哲平さんは即答し、ユミさんも「うん」とうなずきました。
「毎日、ユミがつくるごはんがおいしいですよ」
「おいしいものを毎日食べるって大事。暮らしの一番最初かもしれない」
ふたりが一緒に過ごしてきた人生のなかに、旅をしたり作品をつくったり暮らしと格闘する日々があり、その一日ごとに「おいしいね」という瞬間が一枚ずつ織り込まれている。そのすべてが、ふたりのつくる作品のなかに宿っていて。
いま、ふたたび哲平さんの器を両手に持って、ユミさんが縫うやわらかい布を思い出してみると、この世界には信じるに足るものがあるのだと心強くなるのです。この感覚を、一人でも多くの人に伝えたいという気持ちで、この記事を書き終えたいと思います。
年齢や性別の重圧から開放されて。デンマーク・人生の学校「フォルケホイスコーレ」から持ち帰ったもの。【後半】
「そこから新しく生きていけるのではないか」
時折吹く冷たい風に身を震わせながらも、きらきらと陽光を受ける木々の淡緑に春を感じるある日、パン屋&カフェ「Boulangerie Yamashita」のオーナー・山下雄作さんと、WEBディレクターの阿部果織さんにお会いした。ふたりの共通点は、フォルケホイスコーレ留学経験者であることと、東京で働いた経験を経て、神奈川県二宮(にのみや)に移住してきたことだ。
さらに、お話を伺ううちに、フォルケホイスコーレを経験したふたりらしい似た視点が見えてきた。まずは、いつごろ、なぜフォルケホイスコーレへの留学を決めたのか、お話いただいた。
「ぼくの場合は、中高一貫の全寮制の学校を卒業後、ひかれたレールをそのまま進みたくないと思って、フォルケホイスコーレに行こうと決めました。
そのまま同じ学校の大学部に進学することもできたんですが、静かにひねくれていたので、ちょっと違う生き方をしたいという思いがあったんだと思います」
高校2年生のとき、在校していた学校と交流のあったフォルケホイスコーレの学生たちがやってきた。その時、見せてくれたデンマーク体操と呼ばれる体操やフォークダンスが印象的で、「この人達の文化に触れたい」と思い、体操を学ぶことができるフォルケホイスコーレに行った山下さん。体操で身を立てるために留学したというわけではない。「デンマークで人や何かに出会うことで、そこから“新しく生きていけるのではないか”、という思いが漠然とあったんです」と語る。
当時、山下さんは19歳。1年間をフォルケホイスコーレで過ごす。
一方、阿部さんがフォルケホイスコーレに留学したのは、29歳の頃だ。
「当時、東京のウェブサイトの制作会社で、ウェブデザイナーとして勤めていました。でも、学生の頃からいつか留学をして、視野を広げたいと思っていたことと、北欧デザインに関心があったことに加えて、30歳というワーキングホリデービザの取得期限年齢に差し掛かることに後押しされて、フォルケホイスコーレ留学を決めたんです」
1年前から会社には辞めますと宣言。ウェブデザイナーとしての経験は浅かったけれど、今行かないと一生行けない気がすると、デンマークに旅立った。
阿部さんが選んだのは「国際コース」。「天気がいいと森に行ったり、カヌーをしたり。もちろん、英語やデンマーク語の授業の勉強はしましたが、ほかにどんな勉強をしたの?と聞かれると、外によく出かけたなぁという印象が強くて」と、当時を振り返る。
そんなふたりの言葉を聞いて、ノーフュンスホイスコーレの教員、モモヨ・ヤーンセンさんの言葉を思い出す。
「デンマークのフォルケホイスコーレに関する法律に、一つの科目で総時間の半分以上を占めてはいけないと定められています。そのため、学校ごとに独自のコース、科目が用意されていますが、どのフォルケホイスコーレであっても学生は必ずメインの科目に加えて、さまざまなサブ科目を選択し、組み合わせていくことになります」
フォルケホイスコーレは専門学校になってはいけない、専門分野を極めたいという目的があるのならフォルケホイスコーレ以外の学校を選択したほうがいいと言われるのはそのためだ。反対に、さまざまな分野から好きなことを見つけたい、ゆったりと学べる環境に身を置きながら、自分に向き合う時間がほしいと考えるなら、フォルケホイスコーレはぴったりの学校だろう。
山下さんも阿部さんも、フォルケホイスコーレで何か特別な専門知識を習得したという意識はなさそうだ。しかし、じわじわと、でもしっかりとフォルケホイスコーレでの時間が彼らに影響を与えたことは、ふたりが当時について語る表情から伝わってくる。
「何に安らぎを感じるのか、
感覚として理解した」
デンマークが初海外だった山下さん。フォルケホイスコーレでは、言葉の壁に苦労した。
「僕は英語が本当にしゃべれなくて、ずっときゅうっとなって過ごしてたんです。だから、どんな授業だったとか、先生がどうだったとか、あまり語れることがありません。でも、ルームメイトだったデンマーク人の友人とはわかり合うことができた。その後の20年以上、親友です」
二人部屋のルームメイト。卒業後、20年をすぎても親友だと言える関係にどうやってなったのですか? そう伺うと、「それはもう単純にー」と、山下さんは言う。
「一年間、ベッドをL字に並べた狭い部屋で一緒に過ごしたんです。暑い日はパンツ一丁でね。僕は英語が話せなかった分、デンマーク語が少し話せるようになって、彼はそんな僕の言うことをいつも察して、理解しようとしてくれたんです」
山下さんは何でもないように言うけれど、周りの人とうまくコミュニケーションをとることが難しい環境のなか、初めて触れる言語を用いて、なんとか相手に言葉を伝えたい、受け取りたいと互いに耳を傾けあった時間は、温かく、かけがえのないものだっただろう。そのことは、山下さんの「お互いどういう状況であっても受け入れられる、そういう信頼感がずっと続いています」という言葉からもよくわかる。
また、山下さんにとって、フォルケホイスコーレを経験した1年は、生涯の親友と出会った年だっただけでなく、価値観を変えるきっかけにもなった。
「デンマーク人がとても大切にしている感覚で、よく使われる『ヒュッゲ(Hygge)』という言葉があります。他のどの言語にも翻訳が難しいと言われるデンマーク語特有の言い回しなのですが、平たく言うと、安らぎを感じること、ほっと一息つくことというような意味があります。僕はデンマークで、自分にとってのヒュッゲ、僕は何に安らぎを感じるのかを、感覚として理解しました。
デンマークの船の中で見た静かで美しい自然の景色や、シンプルで心地良い部屋など、きれいなものに触れているとき、僕は幸せなんだ。そういうものに触れていたい。これが自分にとってのヒュッゲだと思いました」
デンマークの人たちの「物欲を満たしても豊かさは得られない」「自分にとってのヒュッゲを見つけることができたら、それを中心に生きていく」という考え方に共感した山下さん。物を売る、買う、それだけでまわる社会や、消費に導くばかりの情報には豊かさなどなく、心の安らぎこそ大切だと考えるようになる。そして、この価値観は、その後の山下さんの選択に大きな影響を与えることになった。
focus on yourself
「自分に焦点を当てる」ということ。
英語を使いたい。留学をしたい。視野を広げたい。阿部さんは、いつも心の片隅でそういう思いを抱えていた。「世界は広いのに、日本だけにいるのはもったいない」という気持ちがあったのだ。また、アパレル企業を経て、ウェブデザイナーという業界で働いてきた阿部さんは、常々日本のプロダクトは、本当に美しく、質が高いと考えていた。だから、今知られている一部だけでなく、世界に通用する日本の素晴らしいものを世界に発信できる人になれないだろうかという漠然とした思いも同時にあった。だからこそ、語学や、海外の人との出会いで視野を広げることができれば、日本のことを知ってもらう可能性を広げる手伝いができるのではないかと思ったのだ。
でも、「言語を学びたい」その思いだけなら語学留学も選択できただろうし、視野を広げるのなら、旅に出るのでもよかったかもしれない。なぜデンマーク、なぜフォルケホイスコーレだったのか? その疑問に対し、阿部さんはそうですよねぇと微笑む。
「一つは、デンマーク政府の助成金によって比較的安価に留学できるということがありました。それに、一定の期間、いろいろな国の人と暮らしながら学べることも魅力でした。デンマークの国民性を反映していると言われる学校で暮らすことで、興味のあった北欧の文化を身近に知ることができるかなと思ったんです。また、言葉を学ぶという目的を掲げて単身で学校に入るよりも、いろいろな国の人との共同生活の中から互いを知って、言葉を学ぶのはいいなぁと思いました」
その思いの通り、フォルケホイスコーレの雰囲気には、すぐに馴染むことができたと言う。
「言いたいことの意味をただ伝えることはできても、細かな感情まで言葉で伝えるのは簡単ではありません。そんななか一生懸命聞いてくれる仲間がいたこと、そういう雰囲気が学校内にあったことはとても救いになりました。語学留学などで、学校にポンと一人入るのとは違う安心感があったと思います」
また同時に、日本人としての自分に気付かされたり、自分のなかのネガティブな感情に立ち止まる経験にもなった。
「フォルケホイスコーレのようにいろいろな人が集まっている環境は、デンマーク国内でもそう多くはありません。そのなかで互いの文化を知り合えることはとてもおもしろい経験でした。
驚いたのは、みんな自国のことを語ることができるということ。あなたの国ではどう?って聞かれるんですが、私はうまく日本のことを説明できなかった。日本のことを知らないって思いました。
それに、自分の意見をしっかりと主張できる人たちも多いなか、言葉のせいで積極的に一歩踏み込めないことがあり、もどかしく思いました。悔しかったです。大人になってあんなに悔しい、もっとがんばりたいって思える経験は貴重なことかもしれません」
フォルケホイスコーレが定める「focus on yourself(自分に焦点を当てる)」「live together(共に生きる)」の精神そのままに、阿部さんは人と関係し合うなかから、これまで知らなかった自分に出会ったということだろう。そして、その体験はもっと学びたい、もっと知らない世界に飛び出していろいろな経験をしたいという思いにつながっていった。
「年齢や性別にとらわれない社会は、
こんなにラクなんだと」
今では、デンマークに「帰りたい」という思いに駆られるという阿部さん。
そもそも最初にいい国だなぁと思ったのは、初めてデンマークに降り立った日、コペンハーゲンにあるチボリ公園という昔ながらの遊園地に立ち寄ったときのこと。
「夜、ダンスをする場所で、年配のご夫婦や子どもたちなど、いろんな世代の人達が、幸せそうに踊っているのを見た時、来てよかったなぁって思ったんです」
世代を問わず、皆が混ざりあって幸せな時間をゆったりすごす姿に、どこか温かい気持ちになったと、阿部さん。それはもしかしたら、阿部さんが初めて、デンマークの人たちのヒュッゲな時間に立ち会ったということなのかもしれないなと思う。
幸せかどうかを人生の選択の基準とし、人に干渉せず、自分のヒュッゲを大切にするデンマークの人々。その後も、デンマークでそうした文化に触れるたびに、ラクだなぁと息のしやすさを感じてきた。
「女性的な視点で言うと、デンマークの人は、何歳だからどうとか、結婚しなくてはいけないとか、子どもはどうするのかなど、年齢や性別などの枠に当てはめて人を見ることがありません。日本では30代に入るとそういう質問もされますし、知らず知らずのうちに見えない重圧のようなものを感じてしまいます。それまでは、そういうものなんだろうと、あまり意識していなかったですが、デンマークに行って、それが全然ないことはこんなにラクなんだなぁと気づきました」
また、年配の女性がいきいきと学ぶ姿にも感銘を受けた。
「何歳でも、いつでも、学べる環境は素晴らしいと思いました。フォルケホイスコーレで、楽しそうに学ぶ女性たちを見て、こういう時間を知っているのと知らないのでは、人生の豊かさにずいぶん違いがあるのではないかと思ったんです」
幸せな国デンマークを覗く窓口
フォルケホイスコーレ
フォルケホイスコーレを卒業した後、ふたりは、日本でも「デンマークに触れていたい」と考えた。山下さんは、東京にあるデンマークの家具メーカーへ就職。
阿部さんは、留学前住んでいた東京に戻りたいとは思わなくなり、長野にある北欧家具や雑貨を扱う会社に勤め始めた。しかし、その後さらにふたりに転機が訪れる。
「東京でデンマーク家具に囲まれて、13年ほど経った頃、ある人が僕に『今がいいとは本当は思ってないでしょ。自分に嘘をついて、嘘の鎧をかぶって東京で生きている。それを続けることはできるけれど、それでいいの?』って言ったんです」
デンマークから帰って来て東京生活をするなか、心のどこかで「そうじゃない」と思っていたところを突かれたという感じがした。会社を辞め、1年間その後の人生を迷った後、家族とともに神奈川県二宮に引っ越し。3年の修業ののち、パン屋を開いた。
「そんなふうに話してますけど、今もワーカーホリックですからね」
そう笑う山下さん。仕事ではなく、暮らすことや家族と過ごすことを人生の中心に置くデンマークの人のようには、「なかなかー。」と言いながらも、自らのヒュッゲに従って、お店の音楽や家具などには、本当に美しいと感じるものを選び、家族で過ごすデンマークのクリスマスに想いを馳せて、クリスマスを消費するようなセールはしないと決めていたりする。また、ついついワーカーホリックになってしまうのも、「パンは日々の暮らしに寄り添うものであってほしい」と、連休などもお店を開けてしまうからだ。
山下さんの今の暮らしには、確かにデンマークでの経験が息づいている。
長野で家具メーカーに勤め、会社のウェブサイトの運営などを担当していた阿部さんは、その後ウェブデザイナーとして独立。4年ほど長野に住んだ後、二宮への移住を決める。フォルケホイスコーレから帰って以降、コンビニエンスストアを使わなくなり、食べるものも、欲しいものもとてもシンプルになった。フリーランスのウェブデザイナーであればどこに住んでも働くことができる。都会から適度に離れ、海も山も近いこの土地に住もうと決めた。
「でも、実はデンマークに移住することになりそうです。二宮が最後の引っ越しって思っていたんですけれど」
そうにっこりと笑う阿部さん。デンマーク時代からお世話になる知人の紹介で、デンマークの会社に勤めることになったのだ。「帰りたい」その思いが通じたかのように、デンマークで働くという新しい世界にこれから飛び込んでいくことになる。
「生きる目的って幸せだと思うんです。いつも『世界一幸福な国ランキング』の上位に名前があがるデンマークを覗く窓口として、フォルケホイスコーレという場所はいいですよね」
山下さんがそう語るように、おふたりにとってフォルケホイスコーレは、自分らしい人生の幸せを考える窓口となってくれた。
日本では、大人が仕事をしないで、今のことを見直そうとすると「ニート」と呼ばれてしまったり、「ぶらぶらしている」と言われたりする。積極的に立ち止まったり、能動的に迷うときの選択肢があまりないのだ。けれど、少し社会のペースから外れ、自分のペースで自らの暮らしや将来、幸せについて考える時間を持つという考え方やしくみが根付いたら、日本はどんなふうに変わるだろう。
おふたりのお話をうかがいながら、そんなことを想像した。
人生のための学校、デンマークの「フォルケホイスコーレ」って、どんな学校?【前半】
定義するよりも、体感する場所。
「フォルケホイスコーレって知っていますか? デンマークには、大学に行く前に自分の本当に好きなものってなんだろうって考えたり、社会人になってから改めて自分を見つめる時間をすごせる学校があるんです」。「雛形」編集部からこう聞いたとき、むくむくと好奇心が湧き上がってきた。
日本では中学・高校を卒業した後、さらに学びたいと考えるなら、入学試験を受けて専門学校・大学などの学校へと進んでいくのが一般的だ。迷ったり寄り道したりせずに、求められる人材へと成長し、一直線に新卒で就職できれば順風満帆だ、と言われたりする。
また、社会人になってから改めて学校に通うのは、専門性のある何かを学びたい人であることが多い。そう思っていたからなのか、フォルケホイスコーレについて聞いたとき、「それってどういう学校?」と強く関心を持った。
そこには、学生の頃、社会のしくみのなかで、私なりにベターな道を選んだつもりだったけれど、今なら違う選択をするかもしれないなぁという思いが、ひっそりと、でもずっと心の中にあったからかもしれない。
そこで、まずは日本とフォルケホイスコーレをつなぐ一般社団法人IFASに所属する矢野拓洋さんにお会いした。
そして、デンマーク独自の教育機関であるフォルケホイスコーレの特徴は、試験や成績がないこと。17歳半以上であれば入学できること。全寮制で、3カ月〜1年ほどの期間、さまざまな学生や先生と寝食をともにしながら学ぶこと。デンマーク国内にある約70校の学校ごとに、政治学、芸術、スポーツ、社会福祉、哲学など、特徴的なコース・科目があり、公教育から独立した私立の学校ながらデンマーク政府が学費の約7割を助成していること、などを教えてもらった。
「英語の授業があり、他国からの学生を受け入れているフォルケホイスコーレの場合、在校生の年齢も、国籍もバラバラで多様。入学理由もさまざまです。高校卒業後に何を専門的に学ぶのかを決める前に、豊富なコース・教科の中からいくつかチャレンジし、本当に学びたいことを見極めたい。社会人として働いた後、少し立ち止まって自分自身と向き合い、改めてどう生きるかを考えたいなど、いろいろな思いを持った人が、一緒に暮らしながら学びます」
だからこそ、フォルケホイスコーレってどんな学校ですか?と聞くと、経験した人ごとに異なる言葉が返ってくる。「定義するより体験する場所」なのだ。しかし、あえていうならと矢野さんは前置きしてから、
ドライなのに温かい。
デンマークで生まれた学校
もともとイギリスで建築を学び、デンマークの建築事務所に勤めていた矢野さんは、デンマークの人々と仕事をするうちに、彼らの生き方やコミュニケーションの仕方などに興味を持つようになった。そこでデンマークの人々の考え方について調べるうちに、デンマーク独自の教育機関であるフォルケホイスコーレへの関心を深めていったと言う。
「デンマークの人って、ドライなのに温かいんです。国民の幸福度が高いことで知られているように、常に自分が幸せかどうかという基準で物事を選択します。なのに決して個人主義にはならない。ひとりでいくつものコミュニティに属し、自分は社会の一員であるという感覚を持っています。
『デンマーク国民は500万人ほどだけど、ひとりで3つも4つもの団体に属しているから、2,000万人、3,000万人の国民がいるのと同じ』というジョークがあるくらいです。個々に自立した考えを持ちながらも、人と共にいて、自分の持っているものをシェアしたり、シェアされたりが自然にできる。人と一緒に何かをやることで人は
矢野さんは、現在はデンマーク建築などの研究を進めながら、同時にIFASのメンバーとして、30校以上のフォルケホイスコーレに足を運び、フォルケホイスコーレの理解を深める活動を行っている。
フォルケホイスコーレが生まれたのは1844年のこと。長い歴史があり、これまでもたくさん日本からの留学生を受け入れてきた。「でも、最近になって注目度はこれまで以上に高まっていると思います。問い合わせもとても増えているんです」と矢野さん。そこで、日本にもフォルケホイスコーレの考え方を取り入れることができないかとイベントを企画。
2019年3月の神奈川県・北鎌倉。円覚寺の門をくぐり、梅の香りが漂う庭を抜けたところにあるお寺の建物の一角で、矢野さんらが企画したイベント「鎌倉ホイスコーレプロジェクト」に参加するメンバーが集まった。
対話による授業。
情報は生きた言葉によって命を持つ
「鎌倉ホイスコーレプロジェクト」に参加したひとりに、デンマークで暮らし、ノーフュンスホイスコーレで福祉研修担当の教員を務めているモモヨ・ヤーンセンさんがいた。どんなふうに授業を進めているんですか? そう訊ねるとモモヨさんは、思いが溢れるかのように、少し早口に教えてくれた。彼女のエネルギーのこもった言葉から、フォルケホイスコーレとはどのように学ぶ場なのかが少しずつ見えてきた。
「大切にしているのは、『対話による授業』です。トピックスに対して、常に互いの意見を交換していきます。日本の学校に慣れていると、正解を求めてしまいそうですが、重要なのは正解ではなくプロセス。フォルケホイスコーレでは、テキストや本にあるのは『死んだ言葉』、対話によって出てきたものこそ『生きた言葉』と考え、みんなで授業をつくっていきます」
学びの定義としているのは「情報から知識へ」。本や雑誌、インターネットには情報が溢れているけれど、それらは量が多すぎて、ときに混乱や不安を招いてしまう。情報を意味のあるものにするために、知識に変える手伝いをしています、とモモヨさんは続ける。
「『情報』は、対話=生きた言葉によって初めて命を持ちます。自分はどう思うのか? なぜそう思うのか? 一人ひとりが自分自身に問いかけ、その思いを共有し、同時に他の人の思いを聞いて、さらに考える。対話を媒体にすることで、情報を知識に変え、学びを深めていくのです」
教員は、専門性を生かして授業を進めていくけれど、テキストを読み、学生がその箇所を覚えるというような授業をすることはない。
「あるとき、福祉の現場で長年勤めてきた60代の女性が入学してきたときがあったんです。その時は、彼女に豊富な知識や経験をシェアしてもらうことが、みんなにとって大きな学びにつながりました」。フォルケホイスコーレの教員は、その場にいる学生たちと、リアルタイムに授業をつくるファシリテーターのような役割を果たしていく。
体験する民主主義
対話による授業では、「今こんなことを言うのは、場違いじゃないか?」「うまくまとめて話せないといけないのでは?」などと、空気を読む必要はない。すべての人に自分の思いや意見を発する権利があり、そこにいる人はその言葉を受け止める。
「少数派だろうが多数派だろうが、言葉や背景が違おうが何も分けることなく、その場に一緒にいる人の中に自分の言葉を素材として投げ入れ、他の人の言葉を受け取る。それは“体験する民主主義”とも言えるもので、フォルケホイスコーレの軸となる考え方です」
自分が感じたことを安心してその場で発し、それらが評価や批判されることなく、他者に受け入れられていく。そうした温かい時間が積み重なる経験は、学びを深めると同時に、その時間をともにすごす人との関係も深めていくのだろう。
自分で学ぶだけでなく、人と考えを語り合う意義と楽しさを知った学生たちは、授業が終わっても、さまざまな話をする。フォルケホイスコーレが、全寮制であることのメリットはここにもある。暮らしの場もまた、学びの場となっていく。
ただ、少し心配なのは、長い時間をともにすることで、人と人の摩擦も生まれやすいのではないかということだ。旅をしようと思うほど親しくなった友達だったのに、四六時中一緒にいることで、細かな違いが気にかかり、イライラしたりするのはよくあること。世代も、育ってきた背景もまったく異なる人と生活するなら、なおさらだ。
その問いかけにモモヨさんは言う。
「イラッとしたときこそ、チャンスなんです。『あれ? 何で私は今イラッとしたんだろう』と考えてみる。すると、それは鏡のように自分自身の考え方や、これまで育ってきた文化などを映し出し、考えるきっかけになります。生活のリズムが違う、考えが違うと思ったとき、自分の感情が反応したときこそ、通り過ぎないで立ち止まって気づける力を身につけたいのです」
できるだけ摩擦を起こさないためにと考えると、相手の性格や文化を努めて理解しようと自分に言い聞かせてしまいがちだ。もしくは、関わらないことで摩擦を起こさないようにしようと考えることだってあるだろう。しかし、そうではなく摩擦をチャンスと捉えて、自分の感情に焦点をあてることから始める。自分自身を知ることで、見えてくるものがあるということなのだろう。
「ふと庭を見ると、エストニアから来た大学院生と、ダウン症の障害をもったデンマークの学生と、日本人の学生が肩を組み合って庭で語り合っている姿を目にしたりします。うちの学校ではごく当たり前の風景。だけど、知らない人が見たら『共通点は?』と感じてしまいそうな彼らが、親しく語り合ったり、笑い合ったりするシーンに居合わせたとき、『あぁ、この学校ってなんていいところなんだろう』ってしみじみ思いますね」
フォルケホイスコーレを日本にも
矢野さんは、日本にデンマーク公認のフォルケホイスコーレをつくるための方法
周りからどう見られるかとか、社会が求めているかではなく、“自分自身の内側に焦点をあてて考えること”。同じ考えや背景の人だけでなく多様な“他者と生きること”。忖度したり、多数決ではない本当の意味での“民主主義的なあり方”でものごとを進めること。フォルケホイスコーレで定められている、そうした学びは、今の日本に必要ではないか。その価値観を持ち込むことができたら、日本ももっと幸せな国になるのではないかと、矢野さんは思っている。
「そんな話をすると、日本の教育はだめだから、優れたデンマークの教育を取り入れようって聞こえてしまうかもしれないけれど、ぜんぜんそんなことはないんです。日本の教育現場、
新しいものを取り入れるときに、既存のものを否定する必要はない。加算的な議論が大切だと矢野さん。
「フォルケホイスコーレがデンマークに生まれて170年以上。デンマークの文化や、社会のしくみとぴったりとくっついた教育システムなので、ただ学校を持ってきただけでは機能しないだろうと思っています。だから、ゆっくりかもしれないし、まだまだ議論が必要です。でも、今ある日本のいいところに、フォルケホイスコーレの考え方が加わったら、それは最強だと思うんです」
「10年目、私の巣づくり」 vol.3:るみさんと松尾さん 〈大分県・別府市〉
若い世代の感性やアイデアと
ともに働くよろこび
山田るみさん(以下、るみ):わあっ!美味しそう!!
宮川園さん(以下、園):るみさん、お昼食べてきた? 食べる?
るみ:さっき食べて来ちゃったの〜残念。でもとうもろこし美味しそうだな、いただこうかな。
園:どうぞどうぞ(笑)、こちら山田別荘の女将のるみさんです。
るみ:はい、影の女将です(笑)。20年ほど前に父が亡くなって、当時女将だった母が「もう引退するわぁ」となり、私が引き継ぎました。27歳の時で、仕事について右も左も分からず、さらに出産して半年後だったので、もうひっちゃかめっちゃかだったな(笑)。ただ、小さな頃からずっと母の仕事を近くで見てきたので、その記憶を頼りにして必死で働いているうちに5、6年過ぎていきましたね。
当時、宿の大広間では、宴会や接待が多くあったのですが、どうも私には向いていないなあと思いながら働いていて。それよりも、海外から来たお客様が、この宿の建築や、日本の家としての佇まいにすごく良い反応を示してくださっている。そこをこの宿の個性として強めて、もっとたくさん海外からお客様を迎えたいと思い始めました。
改めて山田別荘の歴史を遡ったり、ロゴやホームページを作り直したりしながら、インバウンド対応に力を入れていきました。
私は、若い世代の子と働くことが好きなんですよね。もちろん、若ければ良いってことではないけれど、私たちの世代にはない、彼女たちの感性とかアイデアを尊敬しているんです。
母が女将の時代は、常にベテランの中居さんがいて、完璧に仕事をまわしていました。私は何もしなくてよかったくらい(笑)。私の代になって、もっと外国のお客様に宿に来てほしいと考えた時、迎えるスタッフの体制についても変えていきたいなと。別府には、『立命館アジア太平洋大学』があり、留学生がとても多い街なので、海外から来た学生さんに宿で働いてもらえたらいいなと思ったんです。外国のお客様の対応も一緒に考えてもらいながら。
今、スタッフに、ナビンちゃんというカンボジア出身の子がいるのですが、学生の頃から卒業後も働いてくれています。ナビンは、日本が好きで、別府が好きで、とにかくよく働いてくれる頑張り屋さん。みんなに可愛がられていますね。「ナビンがいたら百人力!」って(笑)。
“ここだからいいんだ”と
教えてくれる存在
るみ:「BASARA HOUSE」は、もともと空き家だった物件でした。実際に借りることが決まって、具体的にコンセプトを考え出した時、園ちゃんが前のお店を辞めることを耳にして。
園:まだ、るみさんに直接伝えていなかった時だよね。
るみ:そう、共通の知り合いから聞いて。彼女も園ちゃんが別府に根ざして、地域でいろいろな仕事を作り出してくれていることを知っている人で。私が動き出していることも知ってくれていたから、タイミング良くつなげてくれた。そこからぐっと始まっていったね。
園:るみさんは山田別荘の女将であるとともに、「BEPPU PROJECT」の企画に入っていたり、芸術祭の「混浴温泉世界」では、“踊る女将”として舞台にも立っていて。「混浴温泉世界」は、私も初年度の2009年から携わっているので、るみさんのことが昔から知っているけれど、今とはイメージがまったく違う(笑)。
るみ:そうだね、私は変わった。女将になってからは、この宿を一生懸命守っていかなければと必死で、周りを見る余裕もなくて……“素の自分”っていうものがなかったかもしれないな。
「混浴温泉世界」では、山田別荘を会場のひとつとして貸していました。最初は現代アートというものが何かまったく分からなかったけど、実際に見て、体感するうちに理解できてきて、面白くなっていったんです。そして、踊り出したら、自分が変わった(笑)。
ほかの会場も、それまで町の中で封印されていた建物や、地元では誰も使おうとしていなかった場所に外から人が訪れて、私たちに「ここが面白いよ!」って新しい価値を伝えてくれたんです。
ずっとここに暮らしている私たちにとっては身近すぎて、反対に気づかなかったり、入り込めなかったりするから。外から来てくれる人は、入って、発見して、開拓してくれる。
当時、園ちゃんも浜脇に暮らして、自分からコミュニティに入っていってたよね。私にはない、想像力、冒険心や好奇心をもって、この町を見てた。
園ちゃんは、都会に暮らしたうえで、この町の良さを発見して、「ここだからいいんだ」と教えてくれたんですよね。田舎育ちの私は、どうしても都会に憧れちゃうんだけど(笑)。そうそう、松尾(常巳)さんのことだって、私の周りのみんな誰も知らなかったんだから!
友だちとして、作家として
出会った22歳と94歳
園:たまたま私は近所に住んでたからね(笑)。松尾さんとは、町内旅行に行くバスで隣の席だったの。60代〜90代の中に、当時22歳の私がひとり(笑)。途中、車酔いしちゃって。前の席に移動したら、足の悪いおばあちゃんと、90代の松尾さんと、私が、偶然並びの席になって。要介護組だよね(笑)。
その旅で、大きな瀧をみんなで見たんだけど、松尾さんはその後ささっとバスに戻って、鉛筆と紙を出して川柳書いてたの。「なんだこの人、すごい!」って、まずびっくりして。松尾さんが持参してバスで食べてたお弁当も、スーパーの半額シールが貼ってある鯖寿司で、「生もの大丈夫か!?」とか……もう、とにかく気になって、気になって(笑)。
その出会いをきっかけに、松尾さんの絵と川柳の展示をお手伝いすることになって、ちゃんと知り合った感じかな。松尾さんは当時94歳。そこから一緒に遊ぶようになって、植物を交換したり、私の家のドアノブに肉まんがかかってたこともあった(笑)。すごく優しいんだよね。
園:松尾さん、こんにちは。何しとったの?
松尾常巳(以下、松尾):寝とったよ。
園:おはよう!
松尾:はい、おはようございます。
園:もう自転車乗らないんでしょ?
松尾:先生が乗るなゆうからなあ。まだボケとらんのに。
園:松尾さん、前は自転車で移動していたけど、危ないからドクターストップかかって。でも、認知症もないし、もともと戦争の時に耳を悪くしてるから、耳が遠いくらいで。ある時、耳の穴に100円玉つめて出かけてたから「じいちゃん、100円耳につめてどこ行くのー?」って聞いたら、「豆乳!」って(笑)、ね?
園:昔、一緒に旅行に行ったの憶えてる?
松尾:え? 旅行に行ったか??
園:あははは、町内旅行だよ。
松尾:ああ町内旅行、あの頃はよう行ったな。
園:3、4回行ったね。松尾さんが96歳の時かなあ。バスをチャーターして、佐賀にイカ食べに行って。呼子町の瀧が綺麗だったね。楽しかったね。
松尾:ああ、楽しかったね。
園:紙屋温泉でやった展覧会も良かったね。息子さんが松尾さんの川柳に合わせて、イメージの写真をつけて。松尾さんの川柳もすごいんだよな。
松尾:16歳の頃から俳句やっとって。ある時、満州の奉天で会ったおじさんが川柳やっとって。「俳句やってるけど調子がおかしい」って話したら、「俳句なんてやらないで川柳やったらいい」って言われて。それからだね。もう数はわからんくらい書いてるね。毎日書くから、数えきれん。なにかを感じた時にすぐ書く。
園:今も、紙屋温泉の脱衣所にあるよ。パッと読んですぐに頭に入ってきて、すごく面白いの。例えば…“現代アートは、許可を得た、落書きか”とか。
松尾:ふふふ。
園:救急車に乗った時についての句もあったよね?
松尾:忘れたな。
園:“あと3分、もうちょっとだけ、寝れる”みたいな!(笑)
互いに描くイメージで
つながるふたり
園:看板の文字のお仕事をお願いする時は、いつも松尾さんの家に行って、これを描いてほしいですって伝えに行きます。
松尾:うん、来よるな。
園:いつも突然行くの(笑)。前のお店をやめた時も松尾さんが「また新しいの描くからね」って言ってくれて。いつもいつも、ありがとうございます。
松尾:いえいえ。
園:私からは、あるイメージみせてあとは自由に描いてもらっています。このロゴは三角定規で作ってましたね。BASARAの真ん中にある“A”が、別府タワーになっていて。自分では、まあまあかなって言ってたね(笑)。
松尾:ふふふ。1日くらいかけて描いたかな。
園:みんなに羨ましがられるよ。園ちゃんばっかり描いてもらって!って(笑)。どうして私に描いてくれるの?
松尾:どうしてだろうねえ。
園:金色の文字は、オープニングの時にみんなで描いたね。あれ、ゴジラみたいでいいよね。ペンキでバサバサっと描いた、あの質感が好き。あえてこういう質感にしたのに、みんな失敗してないかって心配してた(笑)。あれでよかったのに、松尾さんも恥ずかしがってあまり言わないから、息子さん(元美術教師)が上から書き直したりして。松尾さん怒ってね(笑)。
松尾:うん。
園:「BASARA HOUSE」はどう?
松尾:うん、いい場所だよ。
園:これから、たくさんの人が集う場所になるよ。
松尾:そうだね。
「10年目、私の巣づくり」 vol.2:みせづくりはまちづくり 〈大分県・別府市〉
新しい仲間たちと
育つ家をつくり続ける
山田別荘の隣に10年以上空き家になっていた物件があって。それを女将のるみさんが借りることになったの。元クリーニング屋さんだったんだそうなんだけど、2階建ての建物で、104坪もあって。私も何度もあの物件の前を通っていたけど、こんなに奥行きのある物件だなんて気がつかなかった。
ここを、新たにどんな場にしたいかと考えた時、山田別荘の“別荘”として、2階の部屋を宿泊できるようにして、アーティストたちがここに滞在しながら、作家活動して、作品を残して行ってもらう場にできたらって。小説、写真、音楽、書、木工、和紙…どんな作品でもいいんだけど、人が来て何かが生まれるたびに、ここも一緒に育っていくような場にしたいとルミさんに話したら、すごくいいねって言ってくれて。
そこに、別府でさまざまなプロジェクトを手がける清川進也さんが、前から私と仕事をしたいと思ってくれていたそうで、入っていただくことになりました。
清川さんは福岡県出身で、仕事の拠点は東京だけど、これからも別府で仕事を続けていきたいから別府にオフィスを構えて仕事を作って、町に還元したいと話してくれて。
そこから、るみさん、清川さん、私の3人体制で動き出した。 育つ家、作り続ける家を作っていこうって。
「BASARA HOUSE」の“バサラ”は、清川さんの出身地、福岡県の飯塚の方言で、“かぶく”っていう意味があるんだって。より良くなるとか、超いい!を、バサラいい!っていうんだって。すごくいい意味だし、カオスな別府の町にもぴったりだなって思って(笑)。
まず、この建物をリノベーションすることから始まりました。るみさんとは「この築80年の建物自体にコンセプトがあるから、無理やり新しくせず土台を残しながらリノベーションして行こう、そうしていくうちにまた新しいアイデアに出会うかも」って話をしていて。
大工さんにもそう伝えて、古くなったベニヤ材を剥がしていったら、褪せたピンクとブルーの壁が出てきて……元遊郭だったことが分かったの!鳥肌たったよ。今思うと、大工さんも下見の時から、なぜかこのベニヤを剥ぐのを楽しみにしてて(笑)。2週間くらいかけて工事したんだけど、もう出てくる出てくる(笑)! 床板を剥いだらタイルが出てきたり、2階もピンクの壁の部屋があって、ああこれは遊郭だったねって確信した。建物のもとの姿が見えるにつれて、どんどん空間が生き生きしてきて。
古材を使うってことは、バラバラな寸法のものを新しい家に合わせて使うから、すごく手間だし、新しい建材を使うほうが良いと言われることもある。
でも私は、現れてきたものをなるべく活かしたかったから、タイルもキッチンのカウンターの下に置いてもらったりしたの。
大工さんたちは、古材は錆びた釘もひとつ残らずとっておいてた。「こういう古材も建具ももう2度と作れないもの、作れないから宝物なんだよ」って。
私自身、そういうことを大学で学んできたから、「もう完璧です!」って(笑)。そうやって価値を分かってもらえる人たちにここを作ってもらえることが、すごくうれしかったなあ。彼らだからできた仕事だと思う。レスキューした建材も愛情をもって使ってくれたし、空間とコミュニケーションをとりながら、もとの建物を活かして細かく作り込んでくれた。
生きてる素材を使うと、建物は生きる。コンクリートや鉄はいずれ朽ちて使えなくなるけど、木はずっと呼吸を続けて生きているから。
私のまちづくりは
私たちのみせづくり
1階のカフェのメニューは、季節によって変えていく予定だよ。私がいろんな土地へ出かけることも多いから、タイに行ったらタイ料理、フランスに行ったらフランス料理とか、その国で食べたものの影響からメニュ—が作れたらおもしろそう。イベントやパーティーもやっていけたらなと思ってる。
知り合いの農家さんの固定種野菜を料理に使っていて。私の周りに農家さんが多いから、手助けになる場にもしたいから。販売もしているんだけど、ここに来て、野菜を置いていってもらえれば、すぐできることだからね。
私の中で、まちづくりは“おみせづくり”だと思うから、店を作り続けているのかな。私たちがやっていることを見た周りの人が「おもしろそう!」と思って、また新しいお店ができたり、それがいろんな町に分散されていったらいいなって。
土地や、建物の価値もあるけれど、そこを育てる人がいるから、人は集まるんだと思う。それがここの、私たちの価値なんだって思っています。
「10年目、私の巣づくり」 vol.1:私のままで暮らすために、 離れた町〈大分県・別府市〉
変わりゆく町で
暮らし続ける違和感
3年前一緒に歩いた浜脇の町は、再開発ですごく変わっちゃったよ。元遊郭の建物はほとんどなくなったし、私が住んでいた建物も壊されちゃって。でも、暮らしてる人は変わらないから、人間だけが濃いまま残っている感じで(笑)。そうやって変化していく環境に、私の中で違和感が生まれて、少しずつ「ここはちょっときついなあ」と思い始めたことが町を離れるきっかけだった。でも別府では暮らしていたいから、別なエリアに引っ越したんです。
ここは、留学生や、繁華街で働いている人も多く住んでいて。道ですれ違ったらご近所さんだって認識はあるけど、気にしない感じ。近所の温泉に入ってる時、世間話の流れで「引っ越してきたんです〜」と言うと「そうなのね〜」って感じで。もし浜脇だったら、どこから来て今どこに住んでいて、その周りに住んでいる人がどうだ…ってどこまでも身内話が続いたと思う(笑)。暮らしてる人同士のコミュニティが濃いことは、浜脇が好きな理由だったんだけど。
最初は、初めての一人暮らしだったし、ひとりで寝るのが怖くてずっと窓の方みて寝る、みたいなところから始まって(笑)。
私は、生まれてから3歳まで熊本県の天草で育って、両親がお店をやっていたから、商店街の人たちにすごくかわいがってもらったの。それ以降は東京のマンションで育ったから、天草の時の楽しい記憶が残っていて。当時のようなコミュニティが残る浜脇で暮らすうちに、ここだったら知らない土地でもひとりで生きていけるって思った。近所のお母さんたちが、エプロンして私のことを見守ってくれている感じで(笑)。ありがたいことだったんだけど、だんだんと監視されているような気持ちになったのも正直なところ。
東京から移住してきた人として、雑誌とかテレビに私を取り上げてもらうことが増えてからは特にそうかな。引っ越しを決めた時も、「あんなにお世話してあげたのに!」って言われたりして(笑)。
距離が近くなりすぎることも、危険を孕むことなんだと知った。好きで手伝っていたことでも、「こんなにやってあげたのに!」と思ってしまう関係性にもなりかねないから。“ただより高いものはない”ってことを学ぶ感じ?(笑)。
東京で過ごした大学時代も、地方から出てきた友だちから、「地元のコミュニティが煩わしくて上京して来た」とか、夏休みに帰省すると「近所のおばちゃんにあれこれ聞かれてうざい〜」とか、そういう話を聞いても共感できなかったんだよね。でも今ならあの感じが分かるかも…って、すっごく遅いんだけど(笑)。
地域で暮らす魅力だけでなく、ネガティブな部分も体感したことで、「私はここで、私の巣作りをするんだ」って決めたの。近所のおじいちゃんおばあちゃんにそう話したら、「あら、園も大人になったのねえ」って。30手前にしてやっと大人かあって思いつつね。
私が生きているのは、
10年の月日からつらなる“今”
22歳から別府に住んでるから、もうずいぶん経ちました。恋人も変わったよ(笑)。私自身、この町で暮らすことに慣れたっていうのもあるけど、周りの人に頼りすぎることをやめなくちゃと思ったのもある。最初は、家族も友だちもいない土地だったから、初めて会った人にも自分の話をたくさんして、相手の話も聞いて友だちになって。自分を守る術として、いろんな人と親しくなることが癖みたいになっていった。知らない土地で生きていく防衛本能のように。よく、まちづくりの基本の考えで“よそ者、若者、ばか者”ってあるけど、なぜか私自身がそれに忠実になっていたっていう(笑)。
今思うと……そうすることで私の“良いこちゃん像”のようなものができちゃったのかも。地域の濃いコミュニティに入って、おじいちゃん・おばあちゃんの中にいる“マドンナ園さん”みたいな。それはないやろ〜?(笑)。
若者がいなくなった町に私が移住して来た環境がそうさせたんだけど、どこか美化されてるような像がどんどん一人歩きして、小さな町に刷り込まれていった。この土地で生活していく時間が長くなるとともに、自分で自分を守れるようになって来たのかもしれない。もう自分を守るために誰かを頼る時期ではないな、と。
別府に移住してからいくつかお店を立ち上げ運営してきて、4店舗目になりました。やっと今、自分でお店作りを考えられるようになってきたかな。毎回同じやり方でもダメだから。
働きながらこれまで経験してきたこと、特に前職では、新しくお店作りをすることから始めて、すごく勉強になった。私にとって大きな試練でもあったし、しんどい時は、「もう別府に住む意味がないかも」って思うこともあったけど、「園ちゃんいるー?」ってわざわざ来てくれるお客さんがいたから続けてこれた。私がここに10年住んできたからこそ、お店に来てくれる人がいるってことを信じてやってきた。
別府に暮らし始めた頃、『別府龍宮』という個展で布に写真を印刷して空間を作ったの。そういう創作もすごく楽しかったんだけど、同じ時期に、料理をすることにすごく憧れていて。それが表現できるアトリエとして「スタジオ・ノクード」を作ったから、そこからはどんどん料理に向かっていったんだよね。それまでの作品では、写真や布で空間をコラージュしてきたけど、今は食卓の上の食材でコラージュする。それは季節や時間に沿って変化しながらずっと作り続けられるもので。そう感じてからずっと、たべものに関することが楽しいんです。食卓を囲むこと、おもてなしをするってことが自分にとってすごく好きなことだし大切。それが出来る人のこともすごくかっこいいと思うからね。
5年後どうしたい?って聞かれてもよく分からなくて。
私は今の私を生きているだけだしなあって思ってるから。
私が“たべもの建築家”として、別府でやっていることを、東京で広告とかクリエイティブに関わる人が興味を持ってくれることも増えて。きっと私なりに新しいやり方を実践しているからだと思うんだけど、コンタクトをくれる人の中には、東京で“消費消耗の仕事”をやっている人もいて。そういう人と連絡をとっていると、「この感じでいくと消費されるな、私」って、そういうのすぐ分かる(笑)。
私は、この町で暮らしながら自分がやりたいことをゆっくりやってきたんだよね。
ノクードでは、自分の中で実験をたくさんして、その後は、日常の食作りに関わるためにお店作りを経験して。今、関わっている「バサラハウス」は、山田別荘の女将のルミさん、作曲家でプロデューサーの清川進也さんと私の3人でスタートしたプロジェクト。“育つ家”をコンセプトに場づくりを始めたよ。私はカフェスペースも担当していて、ごはんも作ってます。日常の食でありながら、オートクチュールのような食卓にできたらと思っているけど……やっぱり日々の消耗は激しくて(笑)。でも、その中でいつも新しいアイデアとか自分がどうしたら楽しくいられるか考えています。
パンづくりもお店づくりも、大切なのは愛を配れるかどうか。「ブーランジェリーヤマシタ」 【インタビューby東京R不動産】
地に足をつけて生きるために。
33歳から、パン職人の道へ
ーー神奈川県二宮町。訪れる人をなごませるような、ゆったりとした空気が流れている小さなこの町に、地元の人が足繁く通う小さなベーカリー「ブーランジェリーヤマシタ」はある。2、3人が入るといっぱいになる店内には、焼き立てのパンが所狭しと並び、店の外に行列ができることもしばしば。駅から決して近くはなく、少々閑散とした場所なのに、幅広い年齢層の人が入れ替わり立ち替わりやって来るのは、やはりパンがおいしいからなのか、それとも森のパン屋さんのような雰囲気に引き寄せられるのか。まずは山下さんがどんな思いでこのお店をつくったのか、話を聞くことから始まった。
千葉さん:ニューニュータウンでは、商店街でお店をやりたい人に集まってもらおうと思っているんですけど、今日は山下さんみたいに地域の人に愛されるお店をやりながら、そこで暮らすことの実感とか、暮らしと仕事の距離感をどんなふうに考えていらっしゃるのか、お聞きしたいと思っています。お店を始めるにあたって、二宮を選んだのはどうしてなのでしょう?
山下さん:もともと僕は茅ヶ崎に長く住んでいて、青山や銀座に店舗があるデンマークの家具メーカーに勤めていたんです。要は、湘南で都会的な感覚を持って暮らしながら東京で働くっていうことを、かっこつけてやっていたんですね(笑)。でも33歳くらいのとき、あることをきっかけに仕事を辞めることになり、これからどう生きていくべきか1年ぐらい悩んでいたんです。
そのときすでに結婚していて、子どもがふたりいたけれども、ろくに仕事もできず、貯金がどんどん減っていくわけです。お金はないけど、子どもが毎日ごはんを食べる姿を見ていたら、日常の食に関わるような仕事なら、もっと人のためになれるのかなと思って。それと今までは、デザインされたできあがったものを売ってきたけど、自分でものをつくりたいという欲求がずっとあったんです。食に関わること、自分の手でものをつくること、そして今までのように浮足立った感じではなく、地に足をつけて生きていかなければと考えたとき、パン職人という仕事が腑に落ちたんですよね。……といっても、パンをつくったこともなかったし、特にパン好きなわけでもないんですけど。
澤口さん:そうなんですか!?(笑)
山下さん:だからイメージ先行です(笑)。一方で暮らしをどうしようかと考えたとき、人を消費に導くような都会的な情報に自分はかなり蝕まれていたので、そういった情報が届かない場所に行かなきゃダメだと思ったんです。単純に地図を広げて、僕と妻の両方の実家がある神奈川県内で緑の多い場所を探しました。それで二宮に来てみたんですけど、吾妻山の菜の花がちょうどきれいな時期で、なんだこの天国みたいな場所は! と感動してしまって(笑)。町なかに大きな商業施設や広告看板もほとんどないし、歩いて行ける場所に海や山があるのが気に入って、ここで暮らし始めたんです。
ーー並行して、知識も技術もゼロの状態から平塚のベーカリーで修行をスタート。1年ほど経って二宮町内で引っ越しをした矢先に、現在、工房兼店舗にしている物件と巡り合う。
山下さん:引っ越した一軒家のすぐ裏なのですが、ジョギング初日に偶然見つけました。後々聞いたら、大家さんが30年ほど前に妹さんのためにつくった美容院で、完成して早々に妹さんは嫁いでしまったらしく、誰かに貸すこともなくそのまま放置された状態でした。前の仕事柄、空間をイメージする力があったとは思うのですが、改装したら絶対にいい感じになると確信できたので、不動産屋さんを通して大家さんにコンタクトを取りました。
澤口さん:その頃にはもう、ご自分でお店をやろうと決めていたんですか?
山下さん:3年修行をしたら独立するつもりだったので、駅近じゃなくて、周りにお店なんかもあまりないほうがいいっていうくらいのイメージはしていました。
千葉さん:駅近じゃないほうがいいと思ったのはなぜですか?
山下さん:落ち着いてやりたかったんです。都会の利便性から離れたくて二宮を選んだわけだし、広くなくていいから、家族が暮らせるだけのパンを焼いて、それを買ってくれる人がいて、生活が静かに回っていくのが理想でした。
お店もパンも人も、
シンプルでありたい
千葉さん:お店を始めるにあたって、地域の人とのつながりなどはすでにあったのでしょうか?
山下さん:特になかったですね。修行時代は生活することで精いっぱいで、お金が使えないから飲みにも行けないし、二宮には今みたいに知り合いもほとんどいませんでした。
澤口さん:宣伝などは特にしなかったのでしょうか?
山下さん:最低限の情報は発信しなければと思っていたし、お店をつくっていく過程も紹介したかったので、オープンする半年前にFacebookでお店のページを開設しました。オープン時点で、400人くらいの方が「いいね!」をつけてくれていたのですが、初日は行列ができて1時間で完売しちゃったんです。
千葉さん:華々しいスタートですね。でもその人たちは何が刺さったんでしょう。味はまだ、当然知らないわけですよね。
山下さん:考えられるとしたら、修行期間の最後の数カ月、夜な夜な僕がここで工事をしていたので、通る人はその作業を見て、気になっていたのだと思います。
澤口さん:ここは一体何になるんだろうって?
山下さん:そうそう。ブーランジェリーヤマシタっていう屋号とパンの写真、Facebookページのアドレスだけを載せたA4の紙をペタッと貼って、工事をしていたんです。オープンしたのは2014年春ですが、SNSに助けられたところはたしかにあると思います。情報発信ツールがFacebookだけなのは、いまだに変わらないんですけどね。
千葉さん:オープン前にFacebookに載せていたのは、工事の様子だけだったんですか?
山下さん:パンの写真も載せましたけど、本当に下手くそで……。結局2年10カ月の修行期間を経て独立したんですけど、そんな短期間でお店を出す人ってまずいないんです。最後の2カ月くらいは、あれこれ技を盗むのに必死でした(笑)。
千葉さん:すごいですね(笑)。それでもやれる自信があったのですか?
山下さん:それまでの仕事や生活をバッサリと切り捨てて、崖っぷちの人生だったので、逆に何も怖くなかったんですよね。バゲット1個つくることができて、それを買ってくれる人がいて、暮らせるならそれでいいと思っていました。
澤口さん:パンの種類はだんだん増えてきた感じですか?
山下さん:大して増えていないです。新作といえるような新作は、2年くらい前なので(笑)。
千葉さん:でも何かをつくろうとするときって、切り捨てるものも当然出てきますよね。そのとき基準にしていることはありますか?
山下さん:お店、パン、人もそうですけど、シンプルがいいっていうのはありますね。うちのパンはいろいろあるように見えるんですけど、生地に焦点を当てると、大きく分けて2種類程度なんです。東京のパン屋さんなんかは少しずつ配合を変えたりして、いろんな生地をつくっていますけど、僕はそこに興味がなくてシンプルにやりたいんです。
千葉さん:シンプルにすることでできた余白や時間は、何に向けるのでしょう?
山下さん:開店時からずっと必死で、余裕はいまだにまったくないです。とはいえ経験を積むと、自分やスタッフも慣れてきてゆとりが生まれるので、1種類増やしてみようかということになり、そうやって少しずつ増やしながら、今ようやく30数種類になりました。
作家も一緒になって
場所の価値を高めてもらう
ーーオープンして2年後には、店舗の奥にカフェスペースを増設。こちらは大家さんが倉庫として使っていた空間を利用している。
千葉さん:それまではパンを買って帰るだけだったのが、カフェで時間を過ごしてもらえるようになることで、お客さんとの接点が変わりますよね。
山下さん:食っていうのは味覚で感じるだけではなく、空間や触れるもの、接する人などトータルで感じるものだと思うので、たとえば音楽や家具などここでお客さんが触れるものは、僕が知っている本当にいいものを使いたかったんです。そうすることによって、ここに来てよかったなという実感を持って帰ってほしい。それができるようになったのは、大きな変化かもしれませんね。
澤口さん:空間をつくるとか、食と空間の関わりを考えることは、結果的に前のお仕事とつながっていますよね。
山下さん:そうなんです。自分は一回捨てたつもりだったけど、いざこういう場所をつくってみて、前職の感覚を生かせたので、人生に無駄なことはないんだなっていう実感が今はあります。
ーーギャラリースペースにもなっている壁面や棚には、さまざまな作家の作品を随時展示。また「パン屋の食堂で演奏会」と銘打った音楽イベントを不定期に行っていて、幅広いジャンルの音楽をこの空間で楽しむことができる。
澤口さん:ギャラリー機能を持たせたり、ライブを開催しているのも、ここに来てよかったという実感を持ってほしいからなのでしょうか?
山下さん:それもありますね。あと僕自身、以前はキュレーターになりたいと思っていて、アートや建築を積極的に見ていた時期があるんです。結果的にその道は諦めたんですけど、ここなら好きな作家さんを呼んで、作品を紹介できると思って。展示作品は基本的に販売もしていて、マージンを取らず、売り上げの100%を作家さんに渡しています。
千葉さん:それはすごいですね。
山下さん:その代わり、作家さんには「この場所の価値を一緒に高めてください」とお願いしていて、それを理解してくれる方とだけやっています。だから言ってみれば、作家さんにも「本気を出してください」と覚悟を求めているんですよね。
作家さんは展示をすると、売り上げの3割から4割を引かれるのが、この業界の“常識”らしいんです。身を削って制作している作家さんから、なぜそんなに引かれてしまうのか疑問だし、実際、作家さんもそれですごく苦しそうだったりして。当たり前だから仕方ないと諦めてしまうのはおかしいと思って。
買い手のほうがつくり手よりも立場が上であるような関係性を、この場所で変えたかったし、売り上げを100%渡すことによって、自分のつくっているものはもっと価値があるのだという意識を作家さんに持ってほしいなと思っています。
パン屋で展示をしたりライブをしたり、はたから見るとビジネスを広げているように見えるかもしれないけれども、うちはパンで成り立っているので、そこからはまったく利益を得ていません。これも突き詰めれば、お客さんの喜びのためにやっていることなんですよね。
ーー「ブーランジェリー ヤマシタ」のスタッフは、フォトグラファーやミュージシャンなど、いわゆる二足のわらじの人もいて、個性的な面々が揃っている。山下さんいわく「この場所をもっと面白くしてくれる人がいいと思っていたら、たまたまこうなった」そうだが、そこにもやはりこだわりがあるようだ。
山下さん:スタッフに求めていることは、ひとことで言ってしまうと、愛を配れる人。言葉にするとくさいから、あまり言わないようにしているんですけど(笑)。
澤口さん:パン職人は直感的に選んだ職業だったけれども、そうやって本質的なことを素直に言えるのは、この仕事が合っていたっていうことなんでしょうね。
山下さん:パンっていうのはいいですよね。思いを持ちながら手でつくったものが、そのまま人の口に入って、生きる糧になるところが。オープン当初、自分なりのパンをどうやったらつくることができるか、悩んだ時期があったんです。そしたらデンマークの友だちが、「庭で有機栽培しているりんごを日本に持っていくから、それで酵母を起こしなよ」と言ってくれて。その酵母を5年間ずっと継いでいて、毎日生地を仕込むときに添加しているんです。友人の思いを5年間ずっとつなぎ続けて、すべてのパンにそれを配ることができているのが、僕のパンづくりの満足といえるかもしれません。
澤口さん:まさに愛を配っているんですね。
山下さん:でも、いつ何が起こるかわからないので、ひょっとしたら急に辞めることもあるかもしれません。震災のような不可抗力もありますし。だから悔いなく生きたいんです。将来のために取っておこうとか、計画的に進めようって考えはまったくなく、明日死んでも後悔しないように、そのとき自分がお店という場所で表現できることを全力でやろうといつも思っています。
千葉さん:素晴らしいですね。ありがとうございました。
「生活という仕事をしよう」 自ら耕し育てた植物で施術する ヘアサロン「ぽかぽか」 【滋賀県長浜市】
子どもが生まれたことがきっかけで、
生活と仕事の価値観がズレ始めた。
滋賀県長浜市、琵琶湖の北側に位置する鍛冶屋町。JR長浜駅から30分ほど、傍らに田園風景が続く草野川に沿って車を走らせていると、川向こうに瓦屋根の連なる古い町並みが見えてきた。その地名の通り室町時代以降、鍛冶が盛んであった地域。戦国時代には槍を、そののちには農具作りを行い、全盛期には100軒以上の鍛冶屋があったのだという。今も虫籠窓(むしこまど)や土蔵など、その名残をとどめる趣のある民家がちらほらとある中で、藤岡さん一家が営むヘアサロン「pocapoca」は、少し(いい意味で)違和感のある佇まいだったので、すぐにそれだとわかった。
川のほとりの一軒家。門を入ってすぐ右側がサロン、奥の左側が住居で、庭はそう広くはないけれど、小さな植物園のようにあらゆる種類のハーブが育っている。挨拶すると早々に、「今、新しい畑を開墾中なんです」と、建二さんがここから車で5分ほどの場所へと案内してくれた。
建二さんが「pocapoca」をオープンさせたのは、2011年のこと。そして、一昨年からは自分たちが実践してきたノウハウを伝えていくための「TSUKI ACADEMY」を開校。サロンで使用するシャンプーやリンスの材料となる植物も自分たちの手で作りたいと、自宅の庭から栽培を始め、この畑へと拡張して本格的に取り組み始めたところだ。
今でこそ、土と太陽が似合う二人だが、もともとはともに美容師で、同じ東京にあるサロンで働いていたのだそう。その後、建二さんはサロンワークを離れ、ヘアメイクとして雑誌や広告での仕事をメインに活動をするようになったが、いわゆるパーマやカラーリングの一般的な薬剤を使った仕事に対して、特に疑問を持ったこともなかったという。
「サロンで働いていたときは、休憩室にあったビールの空き缶にパーマ液が入っていたのに気づかずに誤飲してしまったことがあって。それでも大したことないと思っているくらい無頓着だったんです。彼女(香里さん)もスパンコールのキラキラした服を着ていたし、全然オーガニックじゃなかった(笑)。
でも、結婚して子どもが生まれてから、いろんなことに気づき始めたんです。最初の子どもを自然分娩で産んだんですけど、そのときにケアしてくれた助産師さんが、インドの伝統医学・アーユルヴェーダのセラピストで、自然の植物を使ったお手当などの知恵をたくさん教えてくれました。彼女はそこからアーユルヴェーダや自然療法を勉強するようになって。
僕はその時点ではあまりピンと来ていなかったんですが、少なからず影響は受けていて、子どもの予防接種や食べものの添加物のこと、今まで疑いもしなかったことが実は体にとって良くないことだと知って、身の回りのいろんなことが気になるようになりました。それで、一つずつ確かめていくうちに、自分の仕事はどうなんだ?ってところに行き着いたんです」
どうしていいかわからないけど、
とにかくどこかに移住しよう。
一つひとつ紐解くうちに、都会での暮らしに違和感を感じるようになり、郊外へと引っ越し、休みがある度に子どもたちを連れて家族でキャンプや山へと出かけるようになった。自然に触れることが純粋に楽しいという感覚を味わうほど、今の生き方・暮らし方との間に乖離が生まれていく。
「ヘアメイクの仕事はファッションが中心だったので、シーズンごとにブランドの服をいかに売るかというイメージビジュアルを作るんですよね。仕事も暮らしの一部なんだけど、この仕事と自分が興味を持ち始めていたこととが繋がらなくなってきたんです。だからと言って、どうすればいいのかもわからず、とにかく場所を変えようと。イタリアの下にあるマルタ共和国に家族で移住しました」
それまでの仕事のキャリアもあっさりと手放し、家族がいることを理由に保守的になることもない。そして移住先は、日本の田舎ならまだしも、ガイドブックもほとんどないような海のはるか向こうの国だ。この5歳と1歳の子どもたちを連れた家族の一大航海は、その先の目標がはっきり定まらないままに出発することになった。
「マルタ共和国は、温暖で治安もいい。住むにはすごくいいところだったんですが、ビザがうまくいかなくて帰国せざるを得なくなりました。せっかくだから、いろんな国を旅しながら戻ろうということになって。タイを訪れたときは、テントを張りながら村を転々としていたんですけど、村の人たちの生活の光景を見たときに、“これだ”と思ったんです。
子どもたちが大人に混じって仕事をしている姿。仕事自体も生活の延長上にあって繋がっているように映りました。マルタ共和国にいた頃から、日本に戻っても仕事はしない、と思っていたんです。生活という仕事をしようと。日本でも昔の人たちは、単にお金を稼ぐための仕事というのはほとんどなくて、生活に直結したことが仕事だったわけで……。なので、必要なものがあれば自分たちで作って、それが仕事になればいいと漠然と思っていたので、タイの村々の光景が大きなヒントをくれました」
そうして帰国したときには、「仕事も家もお金もない」ところからの再スタート。香里さんの地元・和歌山県にも滞在しながら場所探しをしたけれど見つからず、最終的に建二さんの地元・滋賀県に戻り、曽祖父がよろづ屋として商いしていた土地を使わせてもらうことになった。そうして、近くの大工さんに手ほどきを受けながら、ようやくくっきりと思い描くことができた理想の店舗兼住居を自らの手で建築していった。
すべての植物に薬効あり。
アーユルヴェーダを学ぶ
化学薬品を使わずに始めたサロンワーク。必然的にパーマやカラーリングはできないため、初めはカットのみだった。けれど、お客さんの中には、「やっぱりカラーリングしたい」という声があり、どうにかそれに応えたいと探してみると、ヘナという植物でカラーリングできることがわかった。
「これならできるかもしれないと思ってヘナを使い始めたんですけど、ヘナについて調べるとアーユルヴェーダという言葉が頻繁に出てくるんですよ。これからもこの植物を使い続けるつもりで、ずっと関わっていくものだからと思って、神奈川県にあるトラディショナル・アーユルヴェーダ・ジャパンというスクールに、毎週夜行バスで通うようになりました。そしたら、通っているうちに体がどんどん整っていくんですよ。知識として吸収するのと、体が感覚として受け取るのが同時に進んでいきました。
そんなときに、インドでパンチャカルマセラピスト(アーユルヴェーダの中でも重要とされる浄化療法)の資格が取れると聞いて、試験を受けに行きました。実際に向こうのドクターからパンチャカルマの治療を受けながら学んだことで、すべての植物に薬効があって自分たちの体を整えてくれることを知りました。植物から抽出したオイルを体に刷り込むと、植物が体に浸透していき、浄化の作用を促していくという一連のことを、体感として得ることができたんです。体が生まれ変わるような感覚でした」
そこから、アーユルヴェーダの知識をもとに、ヘナだけでなくさまざまな植物を用いて、抽出液やエッセンシャルオイル、クレイシャンプーを作るように。アーユルヴェーダの代表的な植物だけでなく、日本の植物でもアレンジしながら工夫と実験を繰り返していった。現在、開墾途中の畑も併せて80種ほどの植物を育てており、滋賀の気候では栽培が難しいヘナは、縁あって奄美諸島にある与論島の農家さんが試験的に栽培を始めてくれていて、再来年の本格始動を目指しているそうだ。
私たちも、一人ひとりに合わせてハーブを調合するトリートメント「ツキハーブリンス」を施術してもらうことになった。まず、施術の前に名前の明かされていない3つの香りを嗅いで、一番ピンとくるものを選ぶ。
「アーユルヴェーダには、ヴァータ、ピッタ、カパという3つの性質によって体質が分けられているんですが、その人の体質を知るのはドクターであってもとても難しいとされています。ここでは体質診断はしませんが、嗅覚は昔の記憶とつながっているので、感覚的に選んだものは、過去と現在の状態、どちらにもフォーカスしてくれるという考えのもと、その人の施術に使う植物を決めています。この香りは、だいたい1カ月に1回、同じ系統の中で植物を組み替えるんですけど、やっぱりヴァータを選ぶ人は、香りが変わってもだいたいヴァータを選ぶんですよね」と、建二さん。
そうして、選ばれた香りに紐づく植物を、頭皮の状態や髪質に合わせて調合し、トリートメントを行っていく。庭で摘んできたばかりのハーブの香りが部屋中を満たして、頭だけでなく全身がほぐれていくような気持ちよさだ。
施術が終わると、学校から帰った子どもたちがサロンの本棚の脇で本を読んでいた。「もっと小さいときは、裸でこの中を走り回ってました。仕事しながら夫婦喧嘩することもあります(笑)」。
こうして施術を受けながら藤岡家の暮らしが透けて見えるというのは、日本ではタブー視されるきらいがあるけれど、あらゆることが不透明な今の世の中にこそ、とても信頼のできることのように思えてくる。子どもたちだって、働くお父さんお母さんの姿を直に見ながら成長していくことができるのだ。
自然に即したサロンワーク、
その先に思い描くこと
今年で2年目となる「TSUKI ACADEMY」は、環境や体に負担をかける薬剤を使わない方法が学べる、美容師のための学校。1年をかけて、植物の育て方や抽出法、カラーリング(髪の草木染め)、身体のこと、食のこと、心のこと、月との関係など、サロンワークだけでなく、自然とのつながりを通して新しい美容の方法を学んでいく。
「今年の生徒さんは16名。みんなこうした知識がない状態で来るんです。なので、初めは一つひとつの学びが点でしかないんですが、一緒に植物を育てたりしていくうちに点が線につながっていく。1年目は、ニーズがあるかどうかも考えていなくて、何の前情報もなかったんですけど、定員8名がすぐに埋まりました。美容室で使う薬剤に疑問を持っても、それらを使わない方法があることを知らず、美容師をやめるべきか悩んでいたと。お客さんは薬剤と言っても、月に1〜2回のことなのでそこまで大きな負担にはならないんですけど、美容師は毎日のことだから女性は特に体に影響が出てきてしまうんですよね」
建二さんがインドで経験したことと同じように、「TSUKI ACADEMY」の生徒たちも、働きながら日々体が整っていくのを体感していく。カリキュラムが終了したのちに、同じ考えのもと新しいサロンを開いた生徒もいるのだそう。マルタ共和国へと経つときには目標が曖昧だった航海は、進むうちにくっきりと輪郭を帯びるようになった。
「遠い先の話かもしれませんが、美容業界が変わると、世の中はどう変わっていくだろう? と思っているところもあるんです。自分の地元で作り始めた小さな輪をコツコツと地道に広げていった先に、どんな世界が見えるだろう。理想を思い描きながら、こういう道もあるってことを伝えていけたらと思っています」
土地に根ざして生まれる 人と人の、新たな関係。 【石川県小松市・滝ケ原町】
その土地の、その季節にあるもので
今しかできないメニューを作る
「TAKIGAHARA FARM」がある滝ケ原町は、金沢市内から車で1時間。そのほどよい距離感もアクセスしやすい理由のひとつかもしれない。「TAKIGAHARA CAFE」のスタッフとして働く棚田麻友美さんと田中由香里さんは、どちらも金沢市内在住でここまで車で通っている。
スタッフがみな都市部で働いていた経験を持つからか、カフェに遊びに来る人も、都市から地元に帰ってきても都会的な感覚を持ちながら、小松でどうしていこうかと考えている人たちが多いという。
現在、産休中の由岐中みうるさんに代わって店長として働くのは棚田麻友美さんだ。麻友美さんは、2年前、東京から金沢に移住。実は麻友美さんのパートナーも「TAKIGAHARA CAFE」の姉妹店となる、安宅ビューテラスの「安宅カフェ」で働いている。東京では二人とも表参道のカフェでバリスタの仕事をしており、「いつか自分たちのお店を出したい」という夢を持ちながら、彼の実家のある金沢に引っ越してきた。
「金沢の人は家族を大切にするからか、東京に出てもいずれ戻ってくる人が多い気がします。私も金沢へ移住することに抵抗はありませんでした。もともと東京は最終地点ではなかったから、海外に住んでみたかったし、金沢もよさそうだなと思ったんです」
二人は金沢でもコーヒーに関する仕事をしたいと考えていたが、昔ながらの喫茶店が多い環境の中でやることは、自分たちのイメージとは違っていた。そのため、どこかのお店で働くという選択肢はなかったという。そこで金沢市内をいろいろ見て回っていた時に、「TAKIAGAHARA FARM」のスタッフのみうるさんと出会った。
「私たちは表参道で働いていたので、青山のファーマーズマーケットのことはよく知っていたんです。〈TAKIGAHARA CAFE〉ができる前でしたが、〈TAKIGAHARA FARM〉の話を聞いておもしろそうだなと思って、畑のお手伝いに行ったのが最初でした。カフェのオープン日に遊びに来た時も、東京の人や滝ケ原の人たちとたくさん出会うことができて。
金沢にいると金沢の人とだけしか関係性が築けなかったけど、ここなら“東京”ともつながることができた。だったら、金沢のものを東京に持って行けたり、東京のものを金沢に持って来られるんじゃないかと、すごく興味を持ち始めたんです。そんな時、パートナーに安宅にオープンするカフェで働いてくれないかという話をもらって、トントン拍子で話が進みました」
パートナーは安宅カフェで、麻友美さんは「TAKIGAHARA CAFE」で働く。二人で海と山、それぞれの場所にあるカフェで働きながら、夢に向かって経験を重ねていく中で、二人がやりたいお店のイメージも徐々に変わってきた。
「今までは、やりたいことがあって、そのために素材を仕入れて、作りたいものを作るという考えでしたが、ここのカフェは、その季節に収穫した、その土地のものでメニューを作るということを徹底しているんです。
調味料も既製品を使わないし、あるもので作る。そのやり方がすごくおもしろくて。私たちも金沢や小松にある地のものでやっていきたいという気持ちに変わりました。
滝ケ原町の人が育てた野菜をもらってメニューを作っているので、大根をいただいたらスープにしたりサラダにしたり。足りないものは農協で買ったりもしますけど、直接知り合った農家さんに声をかけたり。この食材で何ができるかな?ってメニューを考えるんです。
今後、彼と二人でやるカフェもなるべくそうしたい。今は互いのお店のやり方を経験しながら、自分たちなら何ができるのかを模索中ですね」
滝ケ原に住む地元のおじさんたちは、週末ともなればカフェにお酒を飲みに遊びに来てくれるが、メニューに酒のつまみはなかった。
以前、イベントでおでんや筑前煮といったメニューを出したら、「ここには食べたことのないものを食いに来とるんや」と言われたいう。そこで安宅のカフェの地元の漁師さんから仕入れた貝でアヒージョを作って出してみると「食べたことない味!」とすごく喜んでくれた。
地元の人たちにとって、このカフェは新しい溜まり場かつ出会いの場でありながら、いままで食べたことのない料理が食べられる貴重な場所。自分たちが育てた食材が見たこともない新しいメニューとなって、提供されていることを喜んでくれている。
滝ケ原の人たちは東京などの都市部で暮らした経験を持つ方が多いからか、新しいものや見たことのないものにも寛容で、関心を持ってくれるそうだ。そうした環境でスタッフたちも「何を作ろうか?」と日々メニュー作りを楽しみながら奮闘しているという。それは既存のメニューを作ることよりも経験と知識が必要で、クリエイティブなことを求められるに違いない。けれど、期待に応えられるように料理をすることは、大変ながらも「とても楽しい」と麻友美さんは言う。
「小松でお店を始めるのもいいなと思っています。何と言っても食材が豊富でおいしいですし。この場所で働くようになって、お店の場所は街中である必要はないのかなとも思うようになりました。小松をみんなで盛り上げていこうという働きもあるし、みんなで一緒にやっていこうって声をかけてくれる仲間も多いですし。ある程度完成されている金沢とは違って、小松はまだまだおもしろいことができる余地があると思うんです」
この場所に暮らすことで
自然と郷土愛が生まれてきた
もう一人、カフェスタッフの田中由香里さんは、もともと都内でスタイリストとして活躍。結婚後、2年前に実家のある白山市に戻ってきた。友人の紹介で「TAKIGAHARA CAFE」の存在を教えてもらって通うようになった。スタッフのみうるさんの産休に伴い、カフェのスタッフとして働くように。今は週に4日カフェで働き、週に3日スタイリストの仕事をしている。
「実は、こっちに戻ってくる気はありませんでした。でも待機児童の問題などがあり、子育て環境をもっと良くしたくて、地元で子育てをしたいと思うようになったんです。今までは金沢の友だちとの交流だけでしたし、街に子どもを連れて遊びに行くような環境がなかったけれど、この〈TAKIGAHARA CAFE〉に連れてきてみたら、自分以外の誰かが自然と子どもの面倒を見てくれたり、とても居心地がいい場所だなって。ここがあって本当に助けられています。
金沢の友だちにも遊びにおいでよ、と誘っていますね。ここに集まるのは東京から来た人たちも多くて、感覚や気が合うし、何かに合わせるのではなく、自分がおもしろいと思えることを共有できるのも魅力だなと思います。私は、もともと人と出会うことが好きだったから、ここにいればいろいろな人と会えるのもうれしいですね」
スタッフ最年長の内木洋一さん。地域おこし協力隊として滝ケ原に来た。19歳の頃からカメラマンとして活動し、働きすぎ遊びすぎで体を壊してしまう。24歳で上京してからは企業に勤め、転職を繰り返しながらサラリーマンとして“右肩上がりの時代”を経験した。結婚後は、病気や事故、離婚といったさまざまな経験を経て、ずっと走り続けてきた内木さん。
一度ゆっくり休憩してこれから何をやるか考えてみようと考えている時、料理家・野村友里さんが作った映画『eatrip』を観て、「生きることは食べること」という当たり前のことに改めて気づかされたという。
それから料理に傾倒し、漢方にも興味を持つようになり、漢方のショップをオープン。いずれ薬草園を作りたいと思っていた時、滝ケ原を訪れ、ここに住もうと決めた。
「〈TAKIGAHARA FARM〉ができた後、2016年7月に滝ヶ原にやってきました。土地がたくさんあって、ここで薬草を育てられたら最高だなと思いましたね。今まで自分の中だけで考えていたことが、ここに来て鮮明になったというか。
ここに暮らしているだけで五感が磨かれるんです。普段見る景色は自然だけ。情報が少ないからこそ、シンプルに物事を考えられるし、見通すことができる。生活にお金もかからないし、けれどやるべきことはいろいろあるので、複数の生業が自然とここでは生まれるんです」
「ここは、何もないけど何でもある、そんな場所なんです。ここに人が来て住むことで、外からここに価値を持ち込んで化学変化が起きて、新たな文化が生まれていく。ここで、いただき物で暮らしていると、自然と郷土愛が生まれてきました。だんだんとこの土地に生きている人たちが愛しくなってきた。滝ケ原は僕にとって自己実現の場でもありますが、いずれは地域に還元していきたいと強く思うようになりましたね」
ここで暮らしながら、新しい仕事を作る。そのためのスイッチがここには用意されている。さまざまな経験をしてきた内木さんが、自分らしくいられる場所が、ここ滝ケ原だったのだろう。
この土地だからこその
出会いを生み出す
時折、カフェで開催されるイベントには東京からいろいろな人が訪れる。小さな町に集まるユニークな面々に会いに、遠くからも人が遊びに来る。お客さんに金沢の人が多いのも、金沢という都市の規模感や観光地という立地だからこそ、滝ケ原という小さな町ならではの密な関係性が新鮮に映るのかもしれない。
カフェに遊びに来ていた漆作家の中岡庸子さんは、東京都内のアパレルで働いていたが、縁あって小松市山代へ移住。2018年の11月から滝ケ原にほど近い限界集落で、80歳のおばあちゃんと2人だけで暮らしているという。海外に住んでいたこともある彼女は、ここに来て、“ローカルはグローバル”なのだということを確信したそうだ。
「ここに来るようになって、いろいろな人の様々な暮らしを見ることができて、いずれ海外に行きたいという自分の気持ちが、ただの夢じゃないと思えたんです。伝統工芸の世界へ入って石川県に移住してからというもの、東京的な感覚をなくさなきゃいけないと思っていたんですよね。でも、この場所で国内外のアーティストたちと出会うようになって、自分で勝手に思っていた“ローカルはグローバル”という思いは間違ってなかったんだということに気づけた。この場所があることは、私の心の支えになっています」(中岡さん)
スタッフも時々体のメンテナンスをお願いしているというロミロミセラピストの森俊祐さんは「TAKIGAHARA FARM」ができた頃、1泊2日のファーム体験をきっかけに遊びに来て以来、ここを訪れている。
金沢出身で横浜、富山でプロサッカー選手として活躍した後、9年前に引退し、地元・金沢へ戻って来た。ロミロミのセラピストへと転身し、金沢を拠点にしながた各地のイベントなどに出張して施術をしている。
「ここができてから仲間がとても増えました。感性が豊かでおもしろい人たちが多いから刺激になりますね。静かな里山にここが初めてできた時は、まったくこうなるなんてイメージができなかった。スタッフのみんなの東京での経験が活かされてできたことじゃないかと思いますね。東京の人がやっているというだけで僕らは行ってみたいと興味が湧くし、そんな場所ができてうれしい」(森さん)
ここがそうした社交場のような、サロンのような場所になったのは、プロジェクトリーダーの小川諒さんの存在が大きい。内木さんによれば、小川さんは「コミュニケーションの達人」だと言う。
「誰にとっても気持ちよくあれる人。素敵な香りや喜ぶ会話、居心地のいい音楽、そういう空間を作ることができる人なので、ここを訪れた誰もが気分良く滞在できる。彼は人が集まる場所を作れる人なんです」(内木さん)
現在、ファーム、カフェ、宿、ホステルと続々と新しいプロジェクトが進んでいる滝ケ原だが、小川さんはここに“楽しい未来”を作りたいと考えている。
「この規模の里山は日本中どこにでもあると思うけれど、地元の人との距離、ここを訪れる人たちや、自分がやりたいことのかたちは場所によって違うはず。
僕はここで農家になりたいわけではなくて、これからも国内外問わず新しい人たちをここ滝ケ原に引っ張ってきたいし、同じ思いを持つ仲間を見つけたいんです。そうしたコミュニティを広げることも大事だし、便利さとか効率の陰で消えかかっている大切なものをちゃんと受け継いでいくことも大事だと思っています。
それが滝ケ原にはまだ残っている。手間暇かけて作られたもの素晴らしさとか、本質的なことを見ようとしている人たちが確かに増えていて。暮らしそのものを根本から見直して、本当に必要なものってなんだろうということを考えながら、僕自身の生活自体もブラッシュアップしてきたい。もっと畑もやりたいし、近しい人が作ったものを消費したい。それな可能性に溢れたエリアが、ここ滝ケ原なんです」
人生100年時代。まだまだこれから先は長い。どうやって生きていくのか。小川さんたちが日々の暮らしの中で考えながら未来を作っていこうとしている、その実践の場が滝ケ原にあるのだ。
10年以上続けてきたから今がある。「古民家カフェこぐま」山中明子さん【インタビュー:東京R不動産】
さびれてしまった商店街に
飛び込んだ理由
ーー墨田区向島にある「鳩の街通り商店街」は、90年もの歴史を持つ古い商店街。東京大空襲をまぬがれたため道幅は戦前の狭いまま残され 、下町の商店街らしいアットホームな雰囲気が漂っている。しかしながら駅から決して近くはなく、シャッターを下ろしたままの店舗もちらほらとあり、かつてのにぎわいが消えてしまった場所特有の寂しさも。
この商店街のなかほどに山中明子さんが夫の正哉さんとともに「古民家カフェ こぐま」をオープンしたのは、2006年11月のこと。今では地元の人はもちろん、東京スカイツリー観光や向島散策に訪れた人が利用する人気のカフェなのだが、山中さんいわく、オープン当初は今よりも寂しい感じの商店街だったそう。
千葉さん:「ニューニュータウン」では、一度さびれてしまった商店街で、空き物件などをうまく活用していきたいと思っているので、今日は先輩としていろいろお話をお聞きしたいと思っています。そもそもこの場所でカフェをやろうと思ったきっかけってなんだったんですか?
山中さん:以前は三鷹周辺に住んでいたのですが、アート関連のプロジェクトで向島に通っていた時期があったんです。というのも、もともとは夫とふたりで劇団をやっていまして、実際に街歩きをしながらリサーチして、その街や場所からイメージしたお芝居をつくり、リノベされた物件やオルタナティブなスペースで上演するようなことをやっていたんです。そんななかで向島が面白いと聞いて、3年くらいそういった活動をしていたのですが、ここに住んで何かしらやってみたいという思いが強くなって。なんとなく物件を探していたら、ここを見つけて引っ越してきたという感じです。
澤口さん:演劇を通していろんな街を見てきたなかでも、ここでカフェをやろうと思った決め手はなんだったのでしょう?
山中さん:カフェのような拠点を持ちつつ、演劇の活動もしたい と考えていたのですが、もし出会った物件がまったく違えば、まったく違うカフェになっていたと思うので、こればかりは物件との出会いなのでしょうね。たまたまここが空くタイミングだったので、何かしら引き寄せられた気がしないでもなかったです。
ーー「こぐま」を営むのは、昭和2年に建てられ、もともとは五軒長屋のひとつだったという古民家。昭和50年代までは薬局として使われていて、その後30年くらい空き家の時期があり、山中さんたちが入る前は2年ほど古道具屋だった。入り口上部のガラス窓には「化粧品 クスリ」の文字が今も残り、壁の薬棚もそのまま利用するかたちで、現在は陶芸作品を展示している。
千葉さん:この商店街ではもともと商売をされていた方がお店を辞めて、店舗として貸し出すようなことは一般的なのでしょうか?
山中さん:商売を辞めると大抵は住宅に建て替えるので、1階部分だけを店舗として貸し出す例はかなり少ないと思います。ここはたまたま大家さんが別のところに住んでいたので、1階を店舗、2階を住居として借りることができたんです。
商売でいいとこ取りはできない
ーー地縁がほとんどないところに飛び込んで、カフェをオープンした山中さん。商店街や地元の人たちの当初の反応は意外と“冷静”だったようだ。
山中さん:古い物件をリノベーションしたカフェやバーなどは過去にもあったらしいのですが、私たちが来たときにはすでに辞めていたこともあって、この店もたぶん続かないだろうというのが、大方の予想だったようです。だけど思いのほか続いていたので(笑)、1年くらい経ったある日、当時、鳩の街通り商店街振興組合の理事長をされていた松橋一暁さんが、私たちのところにやってきたんです。松橋さんは、私たちが来る前から空き店舗の活性化事業をしたいとずっと思っていたそうなのですが、その頃の理事さんにはなかなかその思いが伝わりにくかったみたいで。
そんななか、ぽんとこの商店街に入ってきた私たちに、相談に乗ってくれないかと。今の状況をご覧になった方からは、はじめから商店街活性化を目的に私たちが入ってきたのだと誤解されがちなのですが、実際はまったく逆で、自分たちの都合で勝手にここにやってきてカフェを開き、商店街とのつながりが生まれて活性化事業が始まったという経緯なんです。
千葉さん:その辺りが、まさにお聞きしたいと思っていた部分なんです。というのも、今おっしゃっていた松橋さんの思っている商店街の活性化と、僕らが商店街で面白いことをやりたいという思いは、また違っているような気がして。厳しい言い方かもしれませんが、すでにさびれてしまった商店街が最盛期のような状態に戻るのは難しい と思っているんですね。だからこそ、活性化を狙わずに商店街に入ってきた山中さんが、地域の人と築いてきた関係性にヒントがあるような気がするんです。
山中さん:松橋さんと出会って、最初のプロジェクトになったのが、うちから徒歩2分くらいのところにある鈴木荘という空きアパートなんです。かつては1階部分に焼肉屋さんやスナックなどが入っていたのですが、商店街で全7室丸ごと借りて、商売をしたい若手オーナーに個々の部屋を貸すことはできないかと、まず相談されたんですね。
ただ、イメージはあっても具体的な取っ掛かりはまるでなかったようで、ご自分の商売一筋でこられたような方にとって、空き家物件をリノベして人を呼ぶようなことは、遠い世界で行われていることなのだとそのとき感じました。だけど私としてはわりとイメージしやすく、何かお手伝いできるのではないかと思えたので、街の人や近隣の有志の方とミーティングをして、鈴木荘をどうしたらいいか具体的に考える期間を3カ月くらい設けたんです。
ーー話し合いの結果、各部屋をチャレンジショップにして、オーナーを公募することに。告知が新聞に取り上げられたこともあって、100人以上が内覧会に訪れ、商店街には久々に賑わいが戻ってきた。しかしながら複数の店舗が入居して、いざスタートしてみると、入居者側と、商店街や地元の人たちとの間の意識の違いが浮き彫りになってしまう。
山中さん:街が募集したのだから、商売どうこうよりも、街を賑やかにする手伝いをしたいという思いで入居された方もなかには当然いたわけです。その方たちは、なんとなくその場にいて、いろんな人と会話をしているうちにプロジェクトが生まれて、商店街が賑わえばいいというイメージだったようで……。
澤口さん:自分の商売を頑張りたいというより、ゆるい感じでつながっていけばいいと。
山中さん:でも地元の人としては、何をしている場所なのかよくわからないから行きづらいというのが正直な反応だったようで、結果的にその方たちと齟齬が生まれて、商店街を去ってしまうことが何件かあったんです。私としても一連のその出来事は、大きな教訓になりました。
というのも、そのときは私もまだ演劇に半分くらい足を突っ込んでいて、両方の気持ちがわかると思っていたからです。だけど自分たちのカフェに1カ月、2カ月もお客さんが来なかったら、家賃も払えないし、仕入れもできないから、単純にここにいられなくなるわけです。演劇の活動も、カフェの経営も、さらにはここに住むことさえできなくなるかもしれない状況で何を思ったかというと、経済的な拠点をここにしようと決めた以上は、まずは商売をきちんとやらなければいけないということでした。
澤口さん:生業として成立させないとここにはいられない、ということですね。
山中さん:カフェが成功せず、ここを去ることになってしまったら、
千葉さん:そのことがわかって、お店としても何かが変わったから、今があるということなのでしょうか?
山中さん:そうですね。その後、アート的な拠点であろうという思いから抜け出して、カフェとしてみなさんがくつろげる場にしようという努力を10年以上やり続けて、今があるのだと思います。
地元の人が望むことと
自分たちができることのマッチング
ーーオープン当初はギャラリーカフェ的なイメージもあったため、壁面スペースを貸し出して、2週間ごとに展示物を入れ替えていた。しかしながら週末などは特に展示目的に来た人で混み合い、カフェ利用をしたい人が入れなくなる状況に陥ってしまったそう。いいとこ取りはできないことがわかり、カフェとしての機能を充実させようと決めてからは、メニュー自体も変えていった。
山中さん:最初の頃は中国茶を出して、お茶請けをちょこっと出すようなお店だったんです。ケーキも焼けないし、何もつくれなかったのも大きいのですが(笑)。だけど今考えると、オープンのお祝いに来てくださった商店街の方々は、明らかに失望されていましたね。そのうちランチできる場所があったらいいよねとか、コーヒーだけじゃなく手作りの甘いものを食べられたらいいよねという声が聞こえてくるようになり、フードの勉強をしながらメニューを充実させていきました。
「焼きオムライス」と「あんみつ玉」は、墨田区が始めた「すみだモダン ブランド認証」という事業の飲食店メニュー部門で認証をいただいた人気のメニューです。メニューだけでなく、お店のあり方に関しても、ひとつひとつ試してはお客様の反応を見て、修正して……ということの繰り返しですね。
千葉さん:本当に少しずつ変えていった感じなんですね。「ニューニュータウン」プロジェクトでは、住んでいる人が日々使えるようなお店をやりたい人に参加してほしいと思っているので、「こぐま」さんの店づくりのアプローチは、すごく共感できます。僕らは不動産屋なので、ステキなお店をつくることによって、その街に住みたい人を増やすことも狙ってもいるのですが、住んでいる人がお店に来るようになるまでには、それなりに時間がかかったのでしょうか?
山中さん:とてもかかりました。こういった古民家をカフェにすること自体、当時の墨田区ではまだ少なかったので、近隣の方も珍しがってくれるんですけど、普段づかいしてくださるかというと、それはまた別の問題で、若干距離があったと思うんです。
オープン当時はカフェブームだったので、まずカフェファンのお客様がいらっしゃって、2012年に東京スカイツリーができてからは全国から観光でいらっしゃった方も来るようになりました。その頃はテレビの取材も多かったので、番組を見て地元の方がようやく来てくださるようになり、だんだん常連さんが増えてきたのですが、そうなるまでには10年以上かかったと思います。
澤口さん:つい最近なんですね。たとえば地元の人にもっと使ってほしいのに、外からの人が席を専有していたりして、理想とする客層と違うジレンマはなかったのでしょうか?
山中さん:東日本大震災が起きたとき、観光客が一斉にいなくなってなかなか戻ってこなかったのですが、そのとき地元のお客様の大切さをしみじみ感じました。もちろん以前から地元の方にもっと活用していただきたいと思っていたのですが、やはりこの層があってこその、観光の方なのだとそのとき実感しました。今はスカイツリーができたばかりの頃に比べると観光の方が減ったので、自然と理想的なバランスになってきたところはあります。
千葉さん:新しい土地でこれからお店を始める人に、アドバイスをするならどんなことですか?
山中さん:小さいお店をやりたい方は、たぶんそれぞれに思いがあるので、一概にこうしたらいいというのは言えないのですが……。お店を始めた当初はまだ演劇の活動も並行していたので、自分たちの得意な分野のつてを頼ってお客さんを呼べば、なんとかなると思っていました。だけど実際にやってみたらそれは本当に狭い考え方で、お店が成り立つかどうかは別問題であることを痛感しました。やっぱり地元の方が望むかたちと、自分たちができることをマッチングさせることが、生き延びるコツなのかなと経験から感じています。
千葉さん:住む場所も仕事場も同じ場所だと、周りの人との関係がとても大事になってくると思うのですが、山中さんたちがこの街に住み始めて大きく変わったと感じることはありますか?
山中さん:先ほどお話した鈴木荘は、その後いろんな課題をクリアして、成功事例になっていると思います。その後、鈴木荘以外でも空き店舗の活性化を行いましたし、今はイベントなどで商店街を盛り上げようと、鈴木荘を中心に若手オーナーの会合を月1で設けています。松橋さんのご尽力のおかげで、ここ数年で理事会が一気に若返ったんです。
旧来のお店さんたちとの関係も大事にしつつ、今後もいろんなことを企画していきたいと思っています。たとえばハロウィンをもじった「ハトウィン」というイベントを、ここ5年ほどやっているのですが、続けているとじわじわと周知されて、近隣のマンションの方などが家族連れで来てくださったりするんです。イベントがきっかけで「鳩の街通り商店街」を初めて知る方もいるので、お金をかけて大々的にやるよりは、みんなの気持ちを汲み取りながら、細く長く続けられることのほうが、この商店街には似合っているのかなと思ったりもします。
澤口さん:ありがとうございました。
都市と里山が交わる場所。 小さな町で、人を迎える。 【石川県小松市・滝ケ原町】
約35年ぶりの新しい住民として
里山に暮らし始める
地方に移り住むには人それぞれに様々な理由があるけれど、「TAKIGAHARA FARM」のプロジェクトリーダー・小川諒さんが石川県小松市滝ケ原町に辿り着いたのは運命だったのか、それとも必然だったのか、そこには不思議な巡り合わせがあったとしか思えない。
今から3年前の2016年のこと。小川さんは東京の大学に在学中、ITの会社でインターン生として働いたものの、休学して千葉県富津市へと移住。卒業後もそこでコミュニティスペースを運営していた。そして仕事を辞めたのを機に、念願だったアメリカ・メキシコ周遊の旅へと出かけることに。
日本に帰って来てから何をするか、どこに住むかもまったく白紙で旅に出た。充実した旅から帰ってきてすぐ、滝ケ原へ遊びに行かないかと誘ってくれたのが、流石創造集団の黒崎輝男さんだった。黒崎さんは、東京・青山の国連大学前で開催されている「ファーマーズマーケット」などを運営。すでに小松市とも様々なプロジェクトを手がけており、滝ケ原の里山の美しさに惚れ込んでいたのだ。
「友達が黒崎さんのところで働いていて、帰国して2日後に黒崎さんに会うことになったんです。初対面だったけど、すぐに仲良くなって。面接だと思ってなかったから普通に楽しく話をして。『暇だったら一緒に小松に行こうよ』って誘われて何度かついて行くうちに、『ここに住んでいいよ』って(笑)。家もないし、お金もないし、仕事もなかったけど、ここなら新しい生活の拠点を作れそうだなと。それもいいかなって」
そんな縁で滝ケ原町に辿り着いた小川さん。先のことを何も決めずに旅をしていた頃から、「東京ではなく、地方で何か活動したい」という思いだけはあった。その思い通り、滝ケ原でゼロから自分で暮らしを作っていくことになったわけだ。
長年使われずに残っていた古民家に住みながら、見よう見まねで畑を耕し始めた。先生は隣の畑のおばあちゃん。滝ケ原の住民は自家消費としての野菜や米を収穫し、兼業農家として暮らしきた歴史があり、ほとんどの家のすぐ近くに畑がある。
「1年目はかぼちゃの苗を植えて、隣の畑のおばあちゃんにいろいろ教えてもらいながら育ててみたら、採れすぎるくらい育ちました。秋にはネギを植えて冬になってお鍋にして食べた時、あまりのおいしさにすごく感動したんです。自分で作った野菜ってこんなにおいしいんだ! 農的な暮らしってこういうことなのかなって。
おいしいネギを作る人なんてごまんといるわけですよ。でも自分で作ったものを食べるというのはそれとは次元が違う。自分で手間暇かけて愛情注いだものを自分の体に入れて、それを噛み砕いて消化して、それをエネルギーにして生きる。そのことそのものが僕の中では革命だったんです。
でも、自分で作ったものを自分で食べるなんて、この町では当たり前のこと。今まで自分がしてきた消費と違って、種や苗を買うことは生産のための消費です。それをどれだけ増やせるかということが、これからのお金の使い方だと思っていて。一次産業は生きていく上でのベースラインだから、これからもずっと続いていく欠かせない営みで。お金の価値は下がるかもしれないけど、お米の価値は下がらない。米本位の世の中をこれから作っていきたいし、農のある暮らしをもっとやってみたい。そういう思いが生まれてきました」
そこで小川さんは、移住してすぐに、滝ケ原の住民が作った野菜の余剰分を買い取り、青山のファーマーズマーケットに出店するという企画を、小松市と一緒にスタート。実際に町の人から野菜を譲ってもらうことことで関係性もより密になり、次第に町の中に溶け込んでいった。
「約35年ぶりの新しい住民だったので、町の人にはもっとびっくりされるかなと思っていたんです。でもみなさん快く受け入れてくれた。応援してくれる方々がちゃんといるのは本当にありがたいし、心強い。おじいちゃん、おばあちゃんぐらいの世代の方が多いから孫みたい可愛がってくれるんです」
滝ケ原町の人から見た
「TAKIGAHARA FARM」の存在
2017年5月には、念願の「TAKIGAHARA CAFE」をオープン。大阪から遊びに来てくれた由岐中みうるさんも滝ケ原を気に入って住み始め、店長として務めたあと、現在は育児休暇中だ。
海外からのゲストたちが、日本の里山暮らしを体験してみたいと、わざわざここを訪れてボランティアとしてお手伝いをしながら長期滞在したり、2018年夏に米蔵を改装した民泊施設にもゲストが訪れている。
小川さんが、滝ヶ原にやって来たことで、この小さな町に国内外からやってくる人たちが急激に増えたわけだが、町の人々の暮らしは変わったのだろうか?
「町の人は、カフェがオープンしたらすぐに遊びに来てくれました。コーヒー好きな人が多いからお茶しに。近所のおばあちゃんは〈TAKIGAHARA CAFE〉の“CAFE”って単語が読めなかったぐらいだったけど、遊びに来てくれましたね。ここができたことで町の人も『自分の行動が変われば自分の世界が変わる』ということに気づいてもらえたのかなって。自らカフェに足を踏み入れることもそうだし、そこにはきっと新しい出会いもある。そこから僕らが主催するイベントでごはんを出すようになったおじちゃんもいるんですよ」
進む高齢化と過疎化で町の存続が危ぶまれる中、どうにかしなければと滝ケ原の人々も考えていただろう。そんな時、こうして若い人たちが訪れる場所ができたことに、町の人はとても喜んでいるように感じた。
町で唯一の専業農家を営む川端淳一さんは椎茸農家。小川さんが滝ケ原に移住してからも様々な場面で手助けしてくれた良き応援者だ。カフェにも肉厚な椎茸を提供してくれている。
「〈TAKIGAHARA FARM〉ができた時からイベントやらでなんでも協力してるんや。ここのカフェで使っている食材はだいたい町の人が、自分のとこで余ってるものを持ってきよる。自分は椎茸作っとるし、ここで使って欲しいがために来てみたら、使ってくれるだけでなく東京のシェフやいろいろな人を紹介してもらえてすごく助かってる。自分としては東京のファーマーズマーケットで売ってくれる以上に、東京からこっちに人が来てくれることで、ここにいながらいろいろなつながりができるし、その方がものすごい魅力だと思う」(川端さん)
もう一人、東京のロシア料理店でシェフとして働き、今は実家の滝ケ原町に住む下坂順毅さんもここができたことを本当に喜んでいる様子だった。
「ここに来てからというもの、いい出会いがたくさんありました。イベントがあるたびに東京から様々な人が来てくれるので毎回とっても楽しみなんです。ここにいれば人が来てくれますから、外に出なくても良くなりましたね。外国の方は滅多に来なかったんですけど、今は本当にたくさんの人が来てくれる。アメリカのポートランドやイスラエルからも人が来たり、国際色豊かでね。他の町の人からは『滝ケ原の奥に東京がある』って言われたんですよ(笑)」(下坂さん)
「TAKIGAHARA CAFE」がある建物は、誰も住んでいなかった一軒家だった。ここ数年は町内から人が出ていくばかりで、誰かがここに住み、カフェまでオープンするなんて誰も思ってもいなかった。空き家がそのまま朽ち果てていくのを待つだけだと思っていた町の人はさぞ驚いたことだろう。カフェの隣の民家もこれから改装し、来年にはホステルがオープン予定。宿泊者もさらに増え、賑わいを見せることだろう。小さな町に起きた大きな変化を、町の人たちは柔軟に受け入れてくれている。
この場所ができたことで
集まって来た人々
2018年12月15日にカフェで開催されたイベントは、少し早いクリスマスパーティ。年内最後のイベントとあって、町の人はもちろん、このイベントに合わせて東京や名古屋から帰省したという人や金沢から遊びに来た人など、多種多様な人たちが集まった。わざわざこの場所を目指してやってくる人たちに、距離はもはや関係なさそうだ。
広瀬治佳さんは名古屋から遊びに来た大学4年生。実家は小松市だが進学のため名古屋に暮らす。このカフェの存在は母親が教えてくれた。2019年からは宿泊施設に就職が決まっているが、このカフェでの働き方に興味を持って来たと話す。
「私はいつか地元の人と都市部の人が交わる場を作りたいなとずっと思っていたんです。たまたまここを知って来てみたら、私のやりたいことに近いなと思って。オーストラリアに留学していた頃、ファームステイをしていたんですが、そこは各国から来た外国人と農家さんが交わる場所で、お酒を飲みながらいろいろな話をして、自分の知らないことを知ることができたんです。そういう場所があるってすごくいいなと思って、将来自分でも作ってみたいなと。そういう場所で働いてみたいなって」(広瀬さん)
「TAKIGAHARA CAFE」や「TAKIGAHARA HOUSE」などの改装を手がけた建築家の野尻順滋さんと、ジュエリー作家のさやかさん。野尻さんは、イベントが開催されると小松市内から遊びに来てくれる。にぎやかで温かな空間を見渡しながら、楽しそうにみんなと話していた。
小松市が地元のさやかさんは、東京・表参道のCOMMUNE 2ndの「TOBACCO STAND」で働きながら、ジュエリー作家としても活躍。この日は、イベントに出店する作家として、また、イベントの準備段階からみんなをサポートするスタッフとしても参加。拠点は東京だけど、小川さんたちと一緒に遊んだり、イベントを企画したりと欠かせない存在。実際に、「TAKIGAHARA FARM」ができてから実家に帰ってくる回数が増えたという。
こうした都市から地域へと拠点を移して暮らす若者たちにとって、同じ感性の人々が集まれる場所があることはとても貴重なことだ。地元に帰った時には、ここに行けば誰かに会える、そんな安心できる場所にもなる。町の人にとっては外の人と出会える場所にもなる。人が集まれば、自然とゆるやかなつながりが生まれていく。小川さんがやっていることは、“ただ居心地のいい場所を作るだけ”と、とてもシンプルだ。彼が「地域おこし」という言葉を好まないのは、このプロジェクトは、地域おこしのためではないから、だ。
「〈TAKIGAHARA FARM〉は、僕らのこれからのライフスタイルを根本から見つめ直そうというプロジェクトなんです。それが結果的に地域のためになるのかもしれない。カフェができてコーヒーを飲める場所ができたり、いろんな出会いがあったり。それが地域活性に“なっていた”というのが自然なことであって、それはあくまでも僕らにとって目的ではなく結果なんです。そこはいつも意識しています。
僕らは未来のためにやっている。もちろん、この町の未来にとっても、日本だけでなく世界にとっても、次の世代にとっても。いま日本の各地域が様々な問題を抱えている中で、この町だけが盛り上がればいいということではないですから」
カフェは誰でも来られる場所で常にオープンな場だからこそ、様々な人が多目的に訪れることができる。家族みんなで遊びに来たり、おばちゃんグループがお茶をしに来たり、同窓会などの集まりにも使ってくれる。小川さんが妻のしょうこさんと出会ったのも、このカフェだった。2019年1月に待望の第一子も誕生した。滝ケ原にはスタッフを含め、いきなり5人もの人口増となり、今では町民たちも大喜びだ。
「まさか滝ケ原に来て結婚するとは。海外を気ままに周っていた時はからこんな人生、想像していなかった。いや想像以上ですね(笑)」
流れに身を任せているようだが、常に自分の思いで動いて来た小川さん。時には黒崎さんのように導いてくれる人もいるし、祖父母のような世代の町の人が温かく見守ってくれている。地域に暮らす若者たちが小川さんを慕い、様々な人が集まってくる。だからこそ、小川さんはもっと自由に、さらに思いのまま、この滝ケ原という町で暮らせているのではないだろうか。
「このエリアをもっとおもしろく循環させて変化させていく」ことが、いまの小川さんの役割だ。「住む人が少しずつ増えて人口が減っていかないように。170人をキープしていきたい」と小川さん。彼一人の生き方が、町を少しずつ変え、きっとこれからも変えていくのだろう。
“都市をたたむ”って、なんだろう? 都市計画家・饗庭伸さん【インタビュー:東京R不動産】
都市に生まれた隙間で始まる、
新たなまちづくり
人口減少や過疎といった問題は、地方だけで起こっていることではない。総務省の人口動態調査によると、2018年1月1日時点で日本の総人口は9年連続で減少している。東京一極集中が加速してはいるものの、いまや東京圏でさえも「さびれた街」が生まれつつあるのだ。
首都大学東京の都市環境科学研究科 都市政策科学域で都市計画・まちづくりを専門とする饗庭伸(あいば・しん)教授は、『都市をたたむ』という著書で、人口減少社会における新しい観点でのまちづくりを提案している。
『都市をたたむ』とは?
世界的に見ても都市への人口集中が進んでいる日本は、総人口の実に9割以上が都市に住んでいる。一方で、世界に類を見ない人口減少時代に突入している日本の都市空間は、どのように変化していくのか。饗庭さんがここで使っている「都市をたたむ」という言葉は、「shut down=店をたたむ」ではなく「fold up=紙をたたむ、風呂敷をたたむ」を意味するそう。つまり一度規模を小さくしたとしても、状況によってまた「開く」こともできるというニュアンスが込められている。
同じ都市内でも、住み心地のいい空間には必然的に人口が集中するし、反対に不便なエリアでは過疎が発生する。そんな現象がすでに起き始めているなか、これからの都市計画はどうあるべきなのか。都市が本来持っている役割や機能を改めて捉え直しながら、人口減少に伴う都市空間の変化のしかた、時代に沿った都市計画のあり方、また饗庭さんが実際に関わった都市計画やまちづくりの事例などを紹介している。
使われなくなった建物がある街に賑わいをつくろうという、東京R不動産の新プロジェクト「ニューニュータウン」は、この本が大きなヒントになっているそうで、千葉敬介さんは本書を読んで感じたことをこう説明する。
千葉さん:都市の衰退や縮退というテーマは、わりと暗いムードで語られることが多いのですが、この本にはポジティブな印象を受けました。でも何度か読み返してみると、そこまでポジティブに書いているわけではない。それなのにポジティブな印象を受けるのは、漠然とした不安の理由をクリアにして、どう対処すればいいのかが的確に語られているからなんですよね。饗庭さんは主に地方都市を想定して書かれたのかもしれませんが、東京にも当てはまることがたくさんあると感じました。
――東京でもこれから起こりうる現象として、千葉さんたちが本書のなかで注目したのが、都市の「スポンジ化」。人口減少によって都市が縮小する、というと、都市のサイズが単純に小さくなることをイメージしがちだが、実際のところ、大きさ自体はほとんど変化しない。その代わり、商店街や住宅地などに空き家がランダムに増えていくことをスポンジ化と呼んでいるのだが、その部分にこそまちづくりの新たな可能性を見出したようだ。
千葉さん:今の東京で住むところを選ぶときは、愛着を持てるかどうかより、自分の収入や都心からの距離、家賃に対する広さなどが優先されがちですが、スポンジ化が起こったら必ずしもそうではなくなる気がするんです。
今まではスポンジの穴がないか、空いてもすぐ埋まる状態でしたが、ある程度の空きが出てくると、自由度が生まれて、イレギュラーな価値が生まれる余地が発生しやすくなると思っています。例えば、場所はイマイチだけど仲間どうしで近くに住んだら楽しそうだとか、好きなお店の周りに、その店のファンの人たちが住み始めるとか。他にも海外の事例だと、空き地が公園や畑になったり、空き家が観光の核になったりしています。(参考記事:「エリアイノベーション海外編」)
東京R不動産は単体の物件を扱うときも、スペックではなく、居心地や愛着に価値を転換するようなことをやってきていますが、都市に隙間が生まれることによって、それと同じことが街に対してできるんじゃないかなと思ったんです。
――「ニューニュータウン」は、これまで不動産の仲介をベースにしてきた東京R不動産が、街そのものをつくってしまおうというプロジェクト。といってもゼロからつくるのではなく、すでにある街に飛び込んで、新しく住む人も、すでに住んでいる人も愛着が持てるような場所にしていくことを目指している。
実施場所として、スポンジ化が起きつつあるエリアを想定しているわけだが、より具体的にいうと駅からやや離れていて、シャッターが目立つようになった商店街を探しているそう。その一角を東京R不動産が丸ごと借り上げ、お店などをやってみたいという人に貸して、同時発生的に複数のお店をオープンさせることで、商店街を再びにぎやかにするだけでなく、街に新たな価値を付加したいと考えている。プロジェクトの概要を聞いた饗庭さんは、自身の経験と照らし合わせてこんなふうにコメントした。
饗庭さん:人口が減少し始め、ダイナミックに都市を変える必要がなくなった今の時代 、都市計画はそれぞれ違う方向を向いている100人を説得するのではなく、一人ひとりを相手に進めていくのが最短といえるかもしれません。私自身も学生の頃はそれこそ、ニューがひとつの“ニュータウン”をつくってみたいと思っていましたが、そういう時代はすでに終わっていたので、ひとつの空き家を使ってどういう都市をつくっていけるかを考えるところからのスタートでした。
空き家を再生して、地域の拠点をつくる
スポンジ化によってあいた穴、つまり空き家を再生することで、周辺はどんなふうに変わっていくのか。ニューニュータウンの参考になるのが、2010年に饗庭さんが国立市谷保で実施した空き家活用プロジェクト「やぼろじ」だ。
饗庭さん:都心から30分ほどの住宅地にある、昭和30年頃に建てられた300坪程度の大きな空き家でした。それこそ立派なマンションを建てられるくらいの土地なのですが、江戸時代から続く名家ということもあり、売却などは考えていないようでした。またオーナーさんはそこから2時間ほど離れたところに住んでいて、5年後に定年退職を控えていたので、いずれ戻ってくることも選択肢にあったようです。最初にオーナーさんに連絡をしてみたときは、当然といえば当然ですが、すごく怪しまれました(笑)。
澤口さん:私たちも今、街を歩いてよさそうな空き家を見つけたら、持ち主を探して、直接コンタクトを取ったりしているので、怪しまれる感じは想像がつきます(笑)。その際、こちらがやろうとしていることや目的などを説明して、理解してもらうのが意外と難しくて、いつも苦戦しているのですが、饗庭さんはどんなふうに自分たちの思いを伝えたのですか?
饗庭さん:知り合いづてだったこともあり、ファーストコンタクトでとりあえず会ってもらえることにはなったのですが、空き家を貸してほしいと切り出すまでは、それこそ異性に告白するみたいにタイミングを計りかねて(笑)。
下手な言い方をしたら二度とチャンスはないと思ったので、最後の最後に「この家の再生についてご提案したいので、半年くらい時間をください」とお願いしました。要するに「お友だちから始めましょう」みたいに、断られない方向に持っていった感じですね。
それから必要なときに鍵を開けてもらえるようになったのは、大きかったです。空き家はやっぱり中を見ないとわからないですし、漠然とカフェをやりたいとか、独立したいと思っている人も、中を見ると具体的にイメージが湧くので、いろんな人を巻き込みやすくなるんですよね。地域の拠点として空き家をどんなふうに使えるかを考えるワークショップを数回開催して、3、4カ月で構想が見えてきました。契約期間を5年にしたのも、うまくいったポイントだと思います。オーナーさんが5年後に戻ってくるかもしれないという理由もありましたが、期間をある程度区切って提案すると、先方も判断しやすくなると思います。
結果的にこの空き家は、シェアオフィス、コミュニティレストラン、工房等、複数の用途が混在する空間となり、当初目指していた地域の拠点として、地元の人だけでなく、遠方から訪れる人でもにぎわう場所となった。
“ステキなお店”が地元の人に受け入れられるために
これまでやってきたように商店街の物件を単体で仲介するのではなく、一角をプロデュースするニューニュータウンは、「お店の生存率を上げる」ことも狙いとしている。
千葉さん:ある街にすてきなパン屋ができたとします。5年頑張って認知されて、街にもにぎわいが生まれて隣にカフェができたりすると、そのパン屋の生存率はおそらく上がりますよね。だけどパン屋の隣にカフェができるかどうかは、言ってみれば運次第。カフェができなかったら、10年後にパン屋がなくなっている可能性も十分にあると思うんです。ニューニュータウンは、僕らが大家としてテナントを選べる立場になることで、たとえば通りに向かい合わせで5軒のお店を一気にオープンさせるようなこともできるわけです。それによって、街の顔と呼べるような空間をつくることができるし、お店を開く人にとってもギャンブル性が多少薄まりますよね。
饗庭さん:商店街の場合はアーケードがあったりすると、フリーダムな雰囲気が生まれやすくなりますよね。真ん中が車道になっている商店街だと、道路にイスがはみ出ているだけで怒られたりしますけど、アーケードがあるようなところは、向かい合わせの店舗が了解のうえで、真ん中の空間もうまく使えそうな気がします。
千葉さん:たしかにそうですね。似たような考えで、たとえばみんなのリビングとか、みんなのキッチンみたいな、通常であれば家の中にある機能を街に持ち出して、住んでいる人の拠点になるような空間をつくれたらいいなとは思っています。
澤口さん:長年同じ場所でお店をやってきた商店街の人たちも、高齢や跡継ぎ不在、売上不振などで店をたたむことになっても、そこを建売の住宅にするのはできれば避けたいし、周りでまだ頑張っているお店に対して申し訳ない気持ちもあったりするみたいなんです。なので、しかたなく閉じてしまったような場所を、私たちが別のかたちでまた開くことが、今住んでいる人たちにとっても喜ばしいことになればいいなとは思います。
千葉さん:街に対する帰属意識じゃないですけど、自分で選んでこの街に住んでいると思ってほしいし、すでに住んでいる人ともきちんと関係を築くことが大事だと思っていて、そのための仕組みについても議論しているところです。たとえば、僕らと一緒に街を盛り上げる活動をしてくれたら、家賃が安くなるようなシステムがあってもいいのかなとか。それも僕らが大家になるからできることだったりするので、新しく住む人とすでに住んでいる人が交われるような環境を作っていきたいですね。
饗庭さん:センスのいいお店を作って街の価値を上げるのはいいことだと思いますが、地域の人との接触面を作ることが結局大事になってきますよね。
澤口さん:空き家再生をやられたとき、その辺りの難しさは感じましたか?
饗庭さん:先ほど話した谷保のときは、オーナーさんが地元の村長一族だったので、その歴史をお話ししてもらうようなワークショップを開催しました。相手のことや土地の歴史を聞く姿勢は大事ですし、そういう場を設けると意外と盛り上がると思いますよ。
あと私の知り合いで、社会学の先生の話なのですが、東日本大震災後、学生を連れて仮設住宅でボランティアをしたそうなんです。最初のうちは「何かお手伝いできることはないですか?」などと尋ねて、お願いされたことをやっていたのですが、だんだん相手が恐縮し始めて「もう大丈夫だから」とやんわり断られるようになったらしくて。それで途中から「おばあさんの得意な料理を教えてください」などと反対にお願いするような言い方に変えてみたら、喜んで教えてくれるようになったそうです。
澤口さん:双方向な関係になったんですね。相手にあえてお願いをしてみるっていうのは、いいかもしれないですね。
饗庭さん:もちろん、無理のないお願いというのが前提ですが。オーナーさんの年齢層は70代、80代くらいがやはり多いと思うのですが、私たちからするとその世代の方々の人生は、たとえ場所を移動していなくても冒険の連続なんですよね。そういった方々のお話を聞くのはとても興味深い経験だと思いますし、聞いていくうちにその方の得意なこともわかってきますからね。話のなかから、これというキーになるようなことが見つかると、プロジェクトがドライブすると思いますよ。
千葉さん:関係を築くためにも、地域の人たちの特技を知りたいとはずっと思っていて、どうやったらそれを引き出せるのか、まさにみんなで考えていたところなんです。
澤口さん:とてもいいヒントになりました。ありがとうございます。
手仕事を通して、もっと自由になる。|【お母さんだから、できることvol.4】
藤野で見つけた
新しい暮らし
旧藤野町にある「日連(ひづれ)」と呼ばれる通りの一角に、「餃子」「担々麺」と書かれた旗の揺れるお店があります。ここは藤野で人気の中華料理店〈大和家〉。地元の有機野菜や平飼い卵などこだわりの食材を使って作られる創作中華を求めてやってくるお客さんでいつも賑わっています。
その〈大和家〉の2階に〈暮らしの手仕事 —くらして―〉というお店があります。工芸品に手紡ぎの糸や布、オーガニックコットンの洋服などが並び、店主の大和まゆみさんによる手仕事教室も行われています。〈大和家〉を営む大和伸さんと、〈くらして〉を営む大和まゆみさんはご夫妻。1階と2階、ふたつのお店をそれぞれで切り盛りされているのです。
私がまゆみさんと出会ったのは、まゆみさんの手仕事教室でした。娘の小学校ではダンスの授業で絹のワンピースを着ることになっていて、裁縫のまったくできない私は四苦八苦。そんな人に向けた講習会があることを知り、藁にもすがる気持ちで〈くらして〉を訪れました。
手取り足取り教えてもらった長時間の制作の間に、まゆみさんとたくさん話をしました。子どもから大人まで幅広い人たちに手仕事を教えていること、手紬した糸はまゆみさんが畑で種から作った綿からできていること、羊を飼い羊毛も紡いでいること。そんな暮らしをしていることに驚き、憧れのような気持ちが生まれました。
「身につけるものを自分の手で作りたい」というまゆみさん。元々、都心で家を持ち、お店も経営されていたところからすべてをリセットし、藤野にやってきたという、その決断から藤野での新しい暮らしと、いまの生き方をみつけるまでのお話を聞きました。
家も仕事もない状態から
藤野へ移住
現在、高校生と中学生、2人のお母さんであるまゆみさん。もともとは婦人服のパタンナーとしてアパレル会社に勤めていました。出産後も働きたい気持ちはあったものの子育てと両立することは難しく、仕事を辞める選択をしたそうです。子育てを始めてみると、子どもに着せたいと思う洋服がなかなかありませんでした。そんな時、友人の紹介で海外のインポートブランドのかわいい子ども服に出会います。それをきっかけに、いまから17年前にはまだほとんどなかったネットショップを立ち上げ、子ども服の販売を始めました。自分のペースで運営していたネットショップに転機が訪れたのは、上のお子さんが幼稚園の入学を迎える時でした。
「幼稚園って上履き袋とか替えの洋服を入れる袋とか、いろいろなグッズを作らなくちゃいけなくて。仕事柄、作ることは簡単にできたんです。そしたら、ほかのお母さんたちに『うちのも作って欲しい』と頼まれるようになって。でもお母さん自身が作れるようになったらそれが一番いいなと思ったから、簡単に手作りできるキットを作ってみたんです。布は切ってあって、こことここを縫うだけと説明もつけて簡単に。生地はお母さんたちが好みそうなリネンのちょっとおしゃれなものにして。このキットをネットショップで販売してみたところ注文が殺到したんです。今はいろんなところでこうしたキットも売っているけれど、当時はなかったから」
そうしてお母さんたちが気軽に手作りできる入園準備グッズのキット制作とネット販売を行いながら、2人のお子さんの母親として過ごすうち、その後の人生に大きな影響を与える出会いが訪れます。
「上の子は都心にありながら自然に触れる環境の幼稚園に通っていました。大きな園庭でいろいろな動物を飼っていたり、親も味噌や納豆を作ったり、暮らしについて考える機会も多くて。まだ未就園児だった下の子を遊ばせる場所を探していた時、シュタイナー幼稚園の未就園児向けのクラスを知って通うようになりました。そこで自然療養の料理教室をされている方と出会い、食べ物について考えるきっかけをもらったんです」
そこから、自然の力を活かして作られた食材と伝統的な製法の調味料を使った食事を心掛けるようになったというまゆみさん。当時すでに東京で中華店を営んでいた夫の伸さんも、家庭での食事が変わったことで体調が変化していき、自然とお店で出す料理も無農薬野菜を使った無添加のものへと変わっていったそうです。そんな時、シュタイナーの一貫教育を行う私立のシュタイナー学園が神奈川県の藤野という町にあると聞き、学園のオープンデーに家族で行ってみることになりました。
「上の子が年中さんの時だったかな。興味本位でどんな学校か見に行ってみよう、くらいの軽い気持ちだったんです。そしたら夫がすごく気に入って。帰り道で『子どもをシュタイナー学園に通わせよう。藤野に越してこよう!』って。でも東京に家も買っていて、小学校も公園もすぐ隣という恵まれた環境だったし、夫のお店ももちろん東京。藤野に越しても、夫とバラバラの生活になるんだったら、どんなによい環境だったとしてもそれじゃ意味ないんじゃない?って。私は家族が一緒なら、東京でも藤野でもどっちでもいいと思っていたので『お店をやめるなら藤野に越してもいいよ』って言ったんです」
すると、伸さんは軌道にのっていたお店を突然閉め、家も売って、藤野に引っ越すことを決めました。ところがいざ移住してみると、思うようにはいかないこともありました。
「夫は藤野でお店をまたやるつもりだったんじゃないかな。でも来てみたら店舗物件がないんです。不動産屋さんに『ここは外食する文化がないから無理だよ』って言われて驚いて。結局、物件は見つからず、夫は友人の紹介でゴルフ場のレストランのシェフをすることになったんです。自宅からは遠くて朝4時に家を出て夜10時に帰ってくるような生活。子どもたちは楽しそうに学園へ通っていたけれど、家族として望んでいたのとは違う生活が数年続きました」
震災をきっかけに、
種をまき始める
そんな生活を変えるきっかけとなったのは東日本大震災だったといいます。上のお子さんは小学校2年生、下のお子さんが年長の時でした。震災直後でもゴルフ場の予約が入っては仕事に向かう伸さんを見て、まゆみさんの中で何かが切り替わったそうです。
「このままじゃいけない!と思ったんです。その後すぐに夫は仕事を辞めました。二人ともいろいろなことを見つめ直さなくてはいけないと感じていたんですよね、きっと」
まゆみさんはネットショップを続けつつ、震災後さまざまな情報が交錯する中、不安で心が揺れる日々が続いたといいます。そんな時、手紡ぎの布を作っている友人から綿の種をもらいました。以前、その人の作った布で体を洗ううちに湿疹が治ったことがあったそうで、綿の種を手渡され「藤野で綿を育てなさい」と言われて、始めてみることにしたのだそうです。
「それまで綿を育てるなんて考えたこともなかったんですが、今年種をまかないと来年はもう発芽しないというので、種を継がなくちゃと思って植えてみたんです。畑仕事なんてしたこともなかったんだけど、必死で育てて秋にふわふわのコットンボールができた時、これは神様の贈り物だと感じました」
収穫したコットンボールを黙々と糸紡ぎをしているうちに、不安だった気持ちが次第に整っていき、心の中に軸が生まれていくように感じたといいます。そうして自分と向き合う時間の中で〈くらして〉を立ち上げようという気持ちが生まれていきました。
「ネットショップのキット制作と販売は、必要としている人の助けになるかもと思って始めたことだったけれど、だんだんお金を稼ぐための手段になってしまったことがしんどくなってきていたんです。布ってどうやってできているんだろうなんて考えたこともなかったけれど、土からできていた。それを実感した時、とにかく種をまいて収穫をして、糸を紡いで、自分で一から作ることを始めてみようと思ったんです」
手仕事は昔から
ずっとあった営み
そんなことを思ううちに、藤野で物件が出たという話が舞い込んできました。飲食店ができる物件で、2階にはまゆみさんがやりたかった手仕事や物販もできそうなスペースもありました。けれど、10年以上使われていなかったボロボロの物件だったため、相当手を入れないといけない状況でした。そこで、伸さんを応援してくれる仲間を募ることを思いつき、親しい人たちに話したところ地域ファンディングとして出資者が集まりました。
「藤野に来て7、8年が経って、人と人との繋がりができていると感じていました。お店ができたら食券と交換というかたちで出資してくれる人を募ってみたら、すごくたくさんの人が協力してくれて。それで無事に〈大和家〉をオープンすることができました。2階にはそのお金は使えないので、自分たちで最低限の改装だけしてお店を始めました」
地元の野菜や卵も、人との繋がりの中で、より顔の見える信頼できる材料を選べるようになった伸さんの創作中華は、外食文化がないといわれた藤野でたちまち人気店となりました。そして2階の〈くらして〉では、時代の中で作り手がいなくなってしまいつつある工芸品や、手紡ぎや手織り、草木染めされた衣類の販売と、手仕事の教室を始めました。そこからさらに、地域の繋がりで羊を譲ってもらえるという話が舞い込み、庭の竹林を切り開いて飼うことにもなりました。
手仕事教室では、春から秋はコットンボールの種まきから収穫、羊の毛狩り体験があり、冬には下着からワンピース、ブラウス、パンツまで計6着をすべて手縫いで作ります。自分の着る物を自分で作っていたまゆみさんが、一から丁寧に教えてくれるので、最初はとても完成できないと思っていた人でもみんな6着すべてを縫い上げるといいます。
「自分や家族のためにする手仕事を提案したいんです。手仕事ってみんなハードルが高い、技術がないとできないって思うかもしれませんが、実は昔から母親やおばあちゃんたち、誰もがやってきたこと。売り物みたいに美しく整っていなくてもいい。縫い目が揃ってなかったり、いびつだったりしていたとしても一目一目が愛しい、そんな自由なものだと思うんです」
「最後まで縫い上げられた」というひとつの経験から変わっていくこともあるんじゃないかとまゆみさんは言います。
「私自身、不安だった時に手仕事を通して自分の軸が作られていくのを感じました。最近は〈くらして〉に若い人がやってきていろいろな悩みを話していったりすることもあるんですよ。ここに来てから『仕事辞めちゃいました』なんて人も(笑)。しっかり働かないと、貯蓄しておかないと、と何でも周りと比べて不安になりがちな世の中に感じますが、そんなふうに不安にとらわれなくても意外と生きていけるんだって思うことって大切なんじゃないかと思います。
母になって、子どもの成長とともに私の働き方もその都度変わっていきました。子どもに着せたい服、子どもに持たせたいバッグから始まって、子どもが手を離れてきたら今度は自分自身が着たいものへ。子どもが小さいうちは家でできることをしていたけれど、今は人を招いてワークショップをしています。その時その時の自分と向き合って、その時にしたいことをすることが、いつの間にか未来につながっていた。自分で何かを作れたという一つひとつの経験って、その人の生きていく自信になっていくんじゃないかな。そして手仕事にはそんな力があるんじゃないかな、と思っているんです」
・・・・
《取材のおわりに》
自分の暮らしにもっと向き合いたい
「作ることって、生きていく自信につながると思うんです」というまゆみさんの言葉が強く印象に残りました。
バーバラ・クーニーという人が書いた『にぐるまひいて』という絵本があります。19世紀始めのアメリカの農村で暮らすある家族の一年が書かれた絵本で、畑を耕し、羊の毛を刈り、糸を紡ぎ、布を織って、一年かけて作ったものを市場に売りに行き、そのお金で必要最低限のものを揃えて、また一年間暮らしていく。自然に寄り添い、その恵みをいただいて、自分たちの暮らしを自分たちで作りながら生きていく。
私も娘もこの絵本が大好きで繰り返し読んでいるのですが、読むたびにうらやましくてたまらない気持ちになっていたのです。まゆみさんに出会った時も同じような思いが湧き上がりました。必要なものも、欲しいものもお金を通して手に入れる、そんな暮らしは便利だけれど、お金がないと生きていける気がしなくなって、いつも漠然とした不安がある。まゆみさんのように、暮らしを自分の手で築いて生きていけたら、この漠然とした不安もなくなっていくんじゃないだろうか、と。
作ることは長い間、人にとって生きていく根源にあることでした。そしてその根源に触れていない今の暮らしの中では、人は不安に駆られてお金に寄りかかりすぎてしまう。少なくとも、私はそう感じていたんだと思います。でも実感のともなう暮らしはあらゆる大変さとともにあり、そう簡単にできることではありません。でも、綿は育てられなくてもたとえば子どものお弁当包みを作ることから始めてみる。どんなものであっても形ある何かを作れたということはきっと、また何かを作れるかも、という自信につながっていくんだと思えました。わたしも暮らしを自分で築いていくことを始めたい。
その小さな始まりとして苦手だと思っていた手仕事を何か始めてみよう、そう感じたまゆみさんのお話でした。
自生する木のように生きる人。<鳥取県・江府町>
すっぽり収まった、
“昔話”のような生活
徳岡さんの家の前に着き、車を降りると、道路を沢蟹が横切った。さっきの鬼といいこの沢蟹といい、川だけではなく時間をも遡ってしまったような感覚になる。
出迎えてくれた徳岡さんは、傘もささず、パーカーのフードを被っただけで顔はよくわからなかった。急な坂道をすたすたと歩く徳岡さんの背中はすぐに見えなくなり、「こちらです」という声だけに導かれ、玄関を横切り家の裏へまわる。するとそこには七輪で何かを焼いている徳岡さんがいた。その何かをよく見てみると、それは砂鉄のようなものがびっしりとこびりついた鉄瓶だった。
「薪だから煤で何もかも真っ黒になっちゃうんです。だから触ったらだめですよ」
徳岡さんはそう忠告すると、他の鍋も見せてくれたのだが、どの鍋も全てが煤で覆われていた。そう、この家にはガスが通っていないのだ。彼女は三度の食事を屋外に置かれたこの七輪に、そこら辺で拾った木をくべて作っているという。
やはり知らないうちに昔話の時代に遡ってしまったのだ、と自分の生活とのギャップを埋めるために、そう言い聞かせながら家の中へお邪魔する。そこで初めてちゃんと見つめた徳岡さんは、いたって普通の「徳ちゃん」とでも呼びたくなる、爽やかな女性だった。
徳ちゃんはその後も自家焙煎のコーヒーを自分で縫ったフィルターで淹れてくれたり、自分で育てたとうもろこしで絶品ポップコーンを作ってくれたりと、見ず知らずの僕たちを快く迎え入れてくれた。次々と現れる「自分で作ったものたち」を前に僕は改めて、今の自分の生活がどれだけ「誰かの作った既製品」に囲まれた生活なのかと思い知らされる。
彼女はその後もせわしなく動き、最近住み着いたという二匹の猫が机の上を駆け回るのを叱りながら、そこら辺の石垣に生えているお茶の葉を発酵させて作ったという紅茶を淹れてくれる。ようやく家の中が落ち着いたところで、僕はやはり「何でこんな暮らしを?」という疑問からインタビューを始めた。
「よく聞かれるんですけど、思い出してみても本当にわからないんです。小さい頃から遊ぶといったら、その辺の草花をすりつぶして汁を取ったり、そんな遊びばっかりしてたので、その延長なのかなと思ったりもするんですけど。でも、この家があったからかな」
徳ちゃんが2歳の時、この家にひとりで暮らしていた母方の祖母が、徳ちゃんたちの住む米子市へ降りてきた。それから26年間空き家になっていたこの家に、京都の大学から戻ってきた彼女は、10年前から住み始めたのだという。
「ここは、いつか私が来るために、何代にも渡っていろんな準備をしてくれてたのかなっていうくらい、ぴったり収まってるんです。意気込んで、『田舎暮らしするぞー!』みたいなのじゃなく、当たり前にここだろうというところに、すぽっと入ってる状態なんですよね」
彼女の話を聞いていると、窓の外で何かが動いた気がした。それは雨で濡れた森の緑を背景に立ち昇る、白い煙だった。外の七輪はまだ薪を燃やし続けている。そして、僕は今まで一度も身近に煙のある生活をしたことがないのに気づく。それは僕だけではなく、現代のほとんどの人がそうだろう。
「やっぱり私は都会の暮らしができないんだと思うんですよ、性質として。だって都会だと、柿とか食べて種をぺってできないし」
煙から目を移し、壁に貼られた星野道夫が撮影した北極熊のポスターを見る。もしかしたら彼女がこの暮らしをする理由は、北極熊に「何で北極で暮らすの?」と聞くのと同じで、理由を聞かれても答えられないくらい、自然と適正な場所に収まっている結果なのかもしれないと思う。
私たちが生まれた意味を
問いかける“呪い”
「中学生の頃に、絵を描きながら自給自足の生活をしたいって思ったんですけど、それが何でだったかはわからなくて。たぶんどこかで、きっかけになるようなものを見て、そこから何かを受け取ったからだと思うんです。私はその何かを『呪い』と呼んでるんです。でも、何を見てこうなったのかは、自分でもわからない。米子の美術館で見た、よく分からない絵とか、そういうものが心に残ってたからなのかもしれないし」
そう言って、彼女は奥の部屋から自身の絵を持ってきてくれた。そして包んである紙を取ると、そこには黒い粘菌のようなものがびっしりと這っていた。
「自然を見てたらわかるけど、汚いものもきれいなものも、どっちもあって美しいってことだと思うんです。全部混ぜこぜで一緒にして、それを美しいってできないかなって思って絵を描いてます。
自然がすごく好きだったので、高校の時は環境保護に役立つような研究をする大学に行きたいなと思って、理系を専攻してたんです。でも途中で、環境を良くするって、技術じゃなくて“人の心”だろうなって思ったんです。人の心に働きかけるには、絵を描く方が有効だな、その方が役に立つなって思ったんです」
今、目の前にある彼女の絵と、彼女の言う「有効」や「役に立つ」という言葉がうまく結びつかない。もしかしたら彼女の言う「役に立つ」とは、普段僕が「便利」や「助かる」という意味で使っている「役に立つ」とは、まるで違う意味なのかもしれない。などと考えていると、話は突然、大きく飛躍する。
「『人間ってどういう存在だろう?』というのが、私がずーっと知りたいことで、気になってたんです。動物や植物や虫を見てたら、私たち人間って本当に変わってるなって思うんですよね。こうやって出会って、話して、意識を持って、何かを思い出したりもして。『私たちって何だろう?』っていう本当に根源的な問いですけど、それをずっと考えてるんです」
もう一度、彼女の絵をよく見てみる。するとそこに描かれていたのは、線ではなく小さな丸の集合だった。墨で描かれたとても小さな泡のような丸が無数に連なり、何か大きな全体を形作っている。
その絵を眺めていると、また「何で?」という問いが浮かんでくる。何で彼女はこういう絵を描いているのだろうかと。描かれた絵を前にして、僕は絵ではなく彼女のことを考えてしまう。
「私の絵を見て、『私たちって何だろう?』ってことを突き詰める人が増えていけばいいなと思ってて。それが、人間の存在する意味や、世界の存在する意味に貢献することなのかもしれないなって思ってます。全然何の食い扶持にもならない話だし、そんなこと考えずに生きて死んでいくことなんてすごく簡単だと思うんです。でも、そこに突っ込んでいくことが、私たちが何のために生まれたかってことにつながるような気がして」
彼女が言うように、「そんなことを考えないで生きて死んでいくことなんてすごく簡単」なのかもしれない。でも僕はこの絵を見ながら、「何で彼女はこの絵を描いたのだろう?」と考えていた。それは、「人間とはどういう存在なのか」という、とても大きな問いにつながる道の、最初の入り口に立つことになるのではないだろうか。そんな巨大で漠然とした難問に立ち向かうための具体的な入り口として、絵画は、そして芸術は存在する時がある。そして、誰かがその入り口に立った時、彼女は自分の絵が「役立った」と思うのではないだろうか。
「私は、気づかないうちに誰かからもらった、こんなヘンテコな生活に流れ込んでいったきっかけの『呪い』を、今度は誰かにかけたいなって思って、それで絵を描いてるんです」
彼女の絵を眺め、あれこれと巡らせていたその考えのひとつひとつこそ、彼女が言う「呪い」という言葉の具体的な形のことなのだと、ようやく腑に落ちた。
自分の人生を乗りこなすことは、
本来、誰もができる
「本当はもっと雑草が茫々で、鬱蒼としてたんですけど、この取材があるからってお母さんが刈っちゃったんです」
家の周りや、畑に向かう道中のきれいに刈られたあぜ道を通るたび、徳ちゃんはまるでそれがよくないことのように何度もつぶやいた。あまりにも残念そうに言うのが可笑しく、彼女はよっぽど自然のありのままの状態が好きなんだなと思う。そうして案内された田畑には、黒米や緑米といった聞きなれない作物が実っていた。彼女はここで収穫した作物をファーマーズマーケットで販売して、生計を立てている。
「この山の家で、制作しながら自給自足の暮らしがしたくって、その生活を維持するためにとりあえず農業で収入を得ようと思ったんです。でも一時期は夏場なんか1日12時間とか農作業をしてて、今思うとアホなんじゃないのって思うんですけど。だんだん“働き者の農家さん”みたいな感じになってきて。でもそれは違うなって。私は農家になりたかったわけじゃないんだから、10年目で引退しようって決めて、ちゃんと絵を描こうって思ったんです。本当にやるべきことを試さなきゃいけないなって」
そんなに農作業に時間を取られて絵が描けないのなら、わざわざ手間がかかり、収穫の少ない自然農法をなぜ選んだのだろうか。僕は話を聞きながら、そう思わざるをえなかった。すると徳ちゃんは、この2年間おこなっている菜食について話し始めた。
「今、実験的に菜食してるんです。これも『人間ってどういう生き物だろう?』ってことなんですけど。それを自分なりのやり方で、私なりにいろいろやってみてるところなんです。ただ、今の所は良い効果より悪い方に行ってるかな。少食も、実験的に減らしているんですけど、でもそれで痩せたらいけないんだけど、痩せてるからどういうふうにしたらいいかなって」
そう言って、彼女は素直にうまくいっていないことを告白する。しかしその後に「現時点では」と続けるのだ。もしかしたら彼女にとって、今の暮らし方も、自然農法も、そして菜食もすべてが現時点での実験であり、彼女が求めているのは失敗も含め、そこからしか得ることのできない経験と実感なのではないだろうか。
「自分の心や身体を、自分のものとして乗りこなして生きるって、本当はみんなできるんじゃないかって思うんです。何かに流されたり、惑わされたりしないで、自分自身を生きていく。私はそれが本当にできるかを、一個一個確認したいんです。そうじゃないと腑に落ちないから。
絵を描くって、そうやって試行錯誤して、見たものや経験したことを自分の中で熟成させて、発酵させて絵にするわけなので。それが力を持つかどうかって、私がどういう人になれるかにかかってるんですよね」
「自分自身を生きる」とは、自分に正直に生きるということだと、
「でも、昔はもっともがいてました。あれも違うこれも違う、全部違うみたいに。もっと素直に生きたらよかったなって思います。だから今は、何も言わずに探求するしかないと思ってやってますね」
彼女に畑を見せてもらった時、最も印象深かったのは、自然農のその方法よりも、稲の間に生える星のような雑草を教えてくれた姿だった。
その時の彼女は「自然って何?世界って何?」と問うのではなく、そこに生える雑草の美しさにただ素直に感動していた。
その姿を見ながら、彼女がうまく答えられなかった、
祖父母が残した古い家にひとりで暮らす彼女を「孤独」と思う人もいるだろうか、それともそうではなく「自立」と言った方が適切だろうか。裏庭にある大きな木の前に立つ彼女を見ながらいろいろ思いを巡らせていると、ふと「自生」という言葉が浮かんだ。
何にも依らずに生きることができる人がいるのか、今の僕にはわからない。ただ、今の彼女はそれすらも試そうとしているように思える。彼女のその姿を見ていると、人の生き方や生活とは、誰かに憧れたり、誰かの真似をする必要などなく、僕は僕、あなたはあなた、その人だけのものということを強く感じさせられる。そして、その僕とあなたを分ける距離は、決して寂しい距離ではない。
僕は彼女のような暮らしを実践することはとてもできないと思う。僕と彼女の生き方は違う。でも、この山の中にそうやって暮らす人がいるということを知るだけで、勇気がわく。この山に自生するその木のような姿を、僕はこれから何度も思い出すと思う。そうすることで、自分は自分の場所で強く根を張ろうと思えてくるのだ。
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私の、ケツダン
「決断」というと、ちょっと重い。何かを決める理由なんて、きっとひとつではないから。流れる日常の中で、ふとした気付きが連なって、もしかすると自分でも自覚していない体験が重なり合って、人は動くのかもしれない。常套句ではない、正直で小さな頷きたち。鳥取県西部に暮らす9名のそんな「ケツダン」を集めました。 >>その他の記事はこちらから。
【平田オリザさん、兵庫県豊岡市・移住計画】負ける気がしない。豊岡が世界と戦える理由。(後半)
>>【前半】平田オリザさんインタビュー:「演劇」はまちの在り方を変えていく。
演劇界トップクラスの劇団ごと移住
その先に見えること
豊岡は非常にリベラルでオープンなまちです。僕の仕事からすると、まちの規模が適正で、教育にしても手応えを感じやすい。そういう意味で、まず個人的な仕事のやりがいを求めて、豊岡に移ってくるというのがありますね。
また、豊岡は地方とはいえ、劇団員が食べていくための職もあります。劇団をメインにしながらも、城崎の旅館で働いたり、農業をしたり、他の仕事をしながらも食べていくことができる環境です。いま、城崎の旅館のみなさんとも、劇団との両立を配慮していただける雇用形態について協議をしています。うちの劇団員たちは、接客はうまいので、城崎の旅館で働きながら演劇をする劇団員も出てくるんじゃないかと思っています。
今回は、僕だけでなく、僕が主宰する劇団「青年団」ごと引っ越すので、まずは、劇団員が20人ほど移住する予定で、家族を入れると4、50人になります。それで成功すれば、もっと移住してくると思います。
市民劇みたいなもののお手伝いできると思いますが、具体的に劇団が地域に貢献できる事例をあげると、例えば城崎温泉から車で40分ほどの場所にある、出石(いずし)という地域があります。そこの課題は、観光客の滞留時間が極端に短いこと。名物である出石そばを食べたら、すぐ城崎温泉に行ってしまうことです。
そこで、出石にある近畿最古の芝居小屋「永楽館」を活用して、うちの劇団員に講談ができる人がいるので、講談をしようという話が出ています。そういう事例が増えると、お客さんが滞留して消費が生まれることにも貢献できるのではないかと考えています。
ローカル線徒歩圏内に
誕生する小劇場
「青年団」の事務所を移転しようと予定している場所は、豊岡市日高町にある豊岡市商工会館です。JR山陰本線の「江原(えばら)」駅も近く、利便性も良いので、案内されてすぐに決めましたね。事務所としてだけでなく、小劇場としても活用できる。
実は、ほかにも駅から徒歩5分圏内に複数の小劇場をつくりたいと思っています。近くに立派な旧酒蔵と米蔵があるので、そこを改装できればと考えています。
お酒の醸造技術って当時とても貴重ですごいものだったんです。今でいう、化学の知識がないとできなかった。だから醸造業というのは、知的な産業だったんですね。しかも、おそらく但馬杜氏というのは、日本一の杜氏の集団じゃないですかね。
冬の農閑期は、杜氏として出稼ぎに行くので、最先端の上方の情報を見て帰ってくるんです。それが、但馬の文化を支えてきているんです。
先日、この地域の長老の方々と飲む機会がありました。以前はグンゼの工場があって、駅のこっち側とあっち側に多くの商店があったようです。その方々は、当時の賑わいを知って