ある視点
vol.34 流れに身をまかせて、ゲストハウスを開きました。
「バングラデシュで活動していたときのように、山と川のあるまちで地域のお母さんとわいわい言いながら、仕事をして暮らしたい」
川野歩美さんは、青年海外協力隊としてバングラデシュで活動したのち、2016年春に神山町の地域おこし協力隊になった人です。神山の人たちに“もじゃ”のニックネームで親しまれる3年間の任期を終え、2019年4月にゲストハウス「moja house」をオープンしました。
今回のインタビューでは、moja houseのオープンにこぎつけるまでの紆余曲折、あるいは彼女(以下、もじゃ)が身をまかせてきた“流れ”について、聞かせていただきました。
陽当たりよし、景色よし、
交通よしな物件を探して
前回のインタビュー記事で、「里山の暮らしの担い手不足を、旅の力で解決できないかな」と話していたもじゃ。「ゲストハウスもいいかもと考えているんです」と言ってはいたけれど、当時はまだ具体的な構想はなく、あくまでアイデアのひとつ、という印象でした。
あれから3年、いつからゲストハウスをつくることを本気で考えはじめたのでしょうか。
「あのとき、どのくらい本気だったんでしょうね? けっこう本気だったのかなぁ……(笑)。実際に物件が見つかるまでは、具体的に自分がやっているイメージができなかったし、『本当にできるのかな?』というのはあったと思います。
物件探しはご縁だと思っていたし、本当に流れに身をまかせる感じで。あまり本気で探してもいなかったんです。ただ、地域おこし協力隊の宿舎は任期を終えたら出ないといけないし、自分の住む家を見つけないと神山にいられない。2017年末くらいからかな、車でまちを移動するときに『あれは空き家かな?』と意識するようにはなりました。
陽当たりがよくて、景色がよくて、宿をするなら公共交通機関から近いほうがいい。でも、神山にはそういう条件に合う家がなかなかなくて。あるとき友だちと飲んでいて、ぽろっと『こんな条件の家で宿をやりたいんだよね』って話したら、しばらくして『こんな物件があるけど、興味ある?』って、今のmoja houseの物件を紹介してくれたんです。
見学に行ったら、陽当たりも景色もいいし、徳島駅から運行しているバス停からも歩ける立地にある。『わー、めっちゃいい! 住みたいなあ』と思ったけど、ゲストハウスとしての間取りのイメージがすぐにはわかなくて。少し時間をもらってイメージを膨らませたり、宿として開業できるかどうかを確認したりしてから決めました。
ってことは、けっこうやりたかったんですね、宿が。
そうですね、宿をすることを前提に家を探していました(笑)」
宿をつくるプロセスで、
仲間をつくっていった
「もじゃ」は、バングラデシュで話されているベンガル語で「おいしい、たのしい」という意味の言葉。moja houseは「たのしい家、おいしい家」ということになります。とてもいい名前!
でも、もじゃ本人は「私のニックネームをそのまま使うのはひねりがない」とけっこう悩み、たくさんの他の候補を考えていたそう。かなり迷走したのち、結局moja houseにしたと言います。
2018年4月、この家に引っ越したもじゃは、ゲストハウス開業に向けた手続きを進めながら、床や壁の改修に着手ーーというと、すごく着実と準備をしていたようですが、そこは「流れに身をまかせる」もじゃのこと。なかなかの珍道中(?)だったようです。
「絶対にひとりではやっていけないだろうから、つくっていく段階からいろんな人に関わってもらって、“自分の宿”みたいに思ってくれる仲間をいっぱい集めたいと思っていました。
moja houseのリビングはもともと畳の部屋だったのですが、床下を見てもらったらけっこうシロアリにやられてしまっていたので、神山つなぐ公社の赤尾さんに相談。基礎の修理は神山の大工さんにお願いし、神山杉の床材を用意してもらいました。
床張りは『全国床張り協会』の方たちにお願いして、“床貼り合宿”をしました。全国各地から集まってきた床張りに興味ある人が10人くらい来てくれて、みんなで作業して夜は雑魚寝で休んで。すごく楽しかったですよ。全国床貼り協会の方が、基礎から床の構造まで教えてくれるのですごい勉強にもなりました。
壁塗りもワークショップ形式で塗りました。実は、床張り合宿の前に、大工さんが初心者でも塗れる漆喰を用意してくれたのですが、重たい腰が全然上がらなくて冬になっちゃったんです。そしたら、青年海外協力隊の同期だった愛媛の友だちが『もう有給休暇とっちゃったから、この日にやるよ! 』ってお尻を叩いてくれて。
壁塗りは養生が8割っていう知識だけはあったから、養生テープやビニール、新聞紙を用意したんですけど、『それ、全然ちがうよ』って言われて。遅れてくる人に『ごめん、ホームセンターで「マスカー」っていう養生資材を買ってきて! 』ってあわててお願いしました。ほんとに2日で終わるのかな? って感じだったんですけど、なんとか塗り終えられてホッとしました。
周りにしっかりした人がいるから、なんとかなったものの……。そのときはさすがに、ほんとに、行き当たりばったりもいいところだなって思いました。あ、でもみんなのお昼ごはんには2日ともカレーを用意して、そこはバッチリでしたよ」
アフロとファンファーレで迎えた、
moja houseのオープニング
床を張り、壁を塗り、オープンに向けた最後のハードルは、県から宿としての許可を得ること。検討の末、仲間たちと米づくりをしてきたことから、農家としての認定を受けて「農家民宿」としてやっていく決心をしました。
2019年4月のオープンに向けて、なんとかギリギリで諸手続きを終えたもじゃ。切羽づまって開業準備に専念していたのかと思いきや、2月にはネパール旅行に出かけるなど、なかなかどうして自由な人なのです。
「いやあの、『宿をはじめたら二度と海外に行けなくなるかもしれなーい! 』と思って。全然、そんなことはないのに! (注:実際、2020年2月、冬季休業したもじゃはオーストラリアに旅立ちました)。いろんな手続きもギリギリだったのに、オリジナルグッズをつくるのが楽しくて夢中になってしまったり。結局、目指していた4月1日のオープニングは間に合わなくなっちゃって。
オープン前の3月末、まずは地元の人たち向けにお披露目会を開きました。もともと、住人しか出入りしない集落だから、知らない人が歩いていると不安にさせてしまうかもしれないし、ご近所さんの理解は大事だと思ったんです。プロジェクターで床張りや壁塗りのようすを映して、この家にゆかりある方にお菓子をつくっていただいて。けっこうたくさんの方が来てくれました。
オープン日は、4月19日の『地図の日』を選びました。調べると、『地図の日は伊能忠敬が最初の一歩を踏み出した日』って書いてあって。伊能忠敬は私と同じ千葉出身だし……って、全然こだわりはないんですけどね!
オープニングは、ブラインドを開けてファンファーレを演奏して、アフロのカツラをかぶってテープカットしました。夜は、ゆるっと飲み会みたいな感じで、いろんな人が来てくれました」
地元の人がふらっと飲みに来て
旅人と交流して楽しんでいく宿
このインタビューをしたのは、moja houseのオープンからちょうど半年が過ぎた頃。「この半年、どんな感じだったの? 」と聞くと、「いや、まだ流れに身をまかせている感じはあるんですけど、おもしろいですね」と、もじゃ。
突然、まちの人からの電話で「台湾のお遍路さんなんやけど、今日いけるでー? (泊められる? )」と言われてあわてたり、青年海外協力隊時代の友人たちが泊まりにきてくれて、思わぬうれしい再会もあったそうです。
もじゃは今、moja houseをどんな場所にしたいと思っているんですか?
「理想は、地元の人たちがふらっと飲みに来て、旅人と交流して楽しんで帰っていく宿。泊まるとなるとハードルが高いから、地元の人にはイベントだけでも来てくれたらいいなと思っています。
なんでゲストハウスだったんだろう? 神山には、ゲストハウスが少ないからっていうこともあるかもしれないけど……。自分が旅行するときは、ガイドブックに乗っている場所をたどるより、地元の“第一村人”みたいな人におすすめを聞いて歩いた場所や、人との交流が一番印象に残っていて。私はそういう旅が好きなんです。
神山に来た人が『moja houseはどこですか?』って地元の人に聞いて、いろいろ交流することがあればうれしいし、地元の人にもぷらっと来て交流してくれたらいいですね。
思ってもみなかった人と出会う交差地点、というか。ふつうに暮らしていたら交わらない人たちと偶然出会う場所が生まれていったらうれしいです。
このあいだ、精進料理教室を開いたときに、『遅くなりました! 』って両手に野菜をぶら下げて来た参加者の方がいたんです。近所のおばあちゃんとお話ししていたら、『あそこで料理するんやろ』って家の冷蔵庫まで野菜を取りに行って持たせてくれたんですって。たぶん、目指しているのはそういうことだと思います」
「私には、“帰る”という選択肢がなかった」
この連載「かみやまの娘たち」で、神山の女性たちにインタビューを重ねるなかで感じるのは、みんなが心のどこかで「ずっと、神山に暮らし続けるかどうか」という問いを持っているということ。
でも、もじゃにはその“問い”がそもそも存在しなかったし、迷いもなかったような気がしていて。念のため(?)、そのあたりのことも聞いてみることにしました。
「なんででしょうね、『千葉に帰ろう』と思ったことは本当になくて。まちの人からは『千葉に帰るという考え方もあるでえなぁ』と言われたこともあったけど、『そういえば、そんな選択肢もあったか。新しい考えを聞いた!』みたいな感じでした。
でも、千葉に帰ってしたいことも別にないし、ピンとこなくて。もう、来るときから、これからずっと神山にいるよって思ってましたから。
青年海外協力隊のときは、2年の任期を終えたら絶対に帰国しなければいけなくて。それを前提に活動をする限界を感じていたんです。バングラデシュで協力隊仲間に『日本の地域で仕事をしたい』と話していたときに、神山町を紹介してもらったんですけど。あのときから”ずっといる”という前提で活動できる場所を探していたのかもしれないです。
地元に入っていって、お茶を飲みながらお母さんたちと話をしてっていう……、それって、“活動”じゃないですね。『そういう暮らしがしたい』が近いかな? バングラデシュの村で、『まあ、とりあえずお茶』ってお茶飲んで、仕事をして帰ってくる、みたいな。生活と仕事の境目がない感じで暮らしたかったのかもしれません。
moja houseがある小野という集落には農村舞台『小野さくら野舞台』があるんです。そこで行われる春の定期公演のお手伝いが、私が地域おこし協力隊になって初めての仕事でした。ひたすら、バラ寿司とそば米汁に入れる大根を切る、みたいな。あれから、まちのいろんな人たちと知り合っていって。
覚えやすいから、みなさん『もじゃ』って呼んでくれます。本名だと思われて『どんな字書くん? 』って聞かれたこともある(笑)。小野の集落では『歩美ちゃん』って呼ばれていますね。
地域おこし協力隊を卒業してからも、まちの人たちとの関係は全然変わっていなくて。この前も、全然違う集落からお祭りのお手伝いを頼まれました。もう、協力隊じゃないんだけど、まあいっか! と思って。それはそれでうれしいことだし、これからもお手伝いに行こうと思っています」
◆
最後に「ところで、今やりたいことは? 」と聞くと、「いっぱいあるんですよ! 」と目をきらきらさせるもじゃ。「まずは、石窯をつくりたいんです」と教えてくれました。その後、神山のみんなと一緒にアースオーブンをつくっているようです。
「いずれはここにタンドール窯をつくりたい! 」
そうそう。moja houseに泊まると、もじゃ特製・バングラデュ仕込みのカレーをいただけます。「毎日味が違う、安定の安定のしなさ!」と、くったくなく言うもじゃのカレー、本当においしいですよ。
きっとこれから、moja houseは、神山のまちの人たちと神山を訪ねてくる人たちが混ざり合い、まちの新しい生態系を生み出していく、波打ち際のような場になっていくんじゃないかと思います。そして、もじゃ自身もまるで旅人みたいに、一日として同じ日はないことを楽しんでいるんだろうな。
もしも初めて神山に行くなら、ぜひmoja houseへ!
百聞は一見にしかず、もじゃとmoja houseと神山を味わっていただけたらと思います。
神山の“美味しい”・“楽しい”を体験する宿「moja house」
川野さんのこれまで
▼第一回目(2017.05.15)
「バングラデシュから神山へ。もじゃさんが選んだ地域の暮らし」
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杉本恭子
すぎもと・きょうこ/ライター。大阪府出身、東京経由、
京都在住。お坊さん、職人さん、研究者など。 人の話をありのままに聴くことから、 そこにあるテーマを深めるインタビューに取り組む。 本連載は神山つなぐ公社にご相談をいただいてスタート。 神山でのパートナー、フォトグラファー・ 生津勝隆さんとの合い言葉は「行き当たりバッチリ」。
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