ある視点
vol.06 なんだろう? このまちの、前しか見ていないエネルギーは。
「かみやまの娘たち」の軸となる、神山つなぐ公社(以下、つなぐ公社)の4人の女性たちのうち、最後にご登場いただくのは「ひとづくり担当」森山円香さんです。
前回、高田友美さんのインタビューは、過去から現在へと「神山に来るまでの道のり」を年代順に追いかけていきました。今回は、それとは逆に、「今、神山で何を?」を聴くことからはじめて、時間をさかのぼって他の土地をめぐり、また神山に戻ってくるラウンド・トリップのようなインタビューになりました。
ではさっそく、森山さんがつなぐ公社でしているお仕事のお話から伺いましょう。
「ひとづくり担当」って?
神山町の創生戦略「まちを将来世代のつなぐプロジェクト(以下、つなプロ)」を見ると、「ひとづくり」はこんなふうに位置づけられています(図参照)。
人々が「このまちで暮らしていこう」と思うに至るには、たくさんの要素が絡まり合っています。神山では「いい住居があり、よい学校と教育があり、いきいきと働けて、富や資源の流出が少なく、安全性があり、関係が豊かで開かれて」いる状況づくりに向けて、各領域で具体的なプロジェクトが動き始めています。
森山さんの仕事は「ひとづくり担当」。「神山町の教育機関や組織の連携を進め、地域の教育資源を可視化し、魅力化する」ことがミッションです。
「最初は、保育所、小学校、中学校、高校が管轄の壁を超えて、地域全体で一貫した教育像をつくっていけたらと思ったんです。でも、教育って、それぞれが受けてきた教育も違うし、みんなが何かしら一家言持っているんですよね。だから、話しやすいことでもある反面、合意が難しい。言葉のやり取りだけで「神山の理想の教育とは」をつくろうとしても、それぞれの思いが空中戦になってしまうと思うんです。
それぞれの教育観は違ってしかるべきで、私は『みんなで神山の教育をつくっていけたらいいね、いこうね!』という流れが一番大事だと思っていて。『先生みんなでごはん』を企画したのは、保育所から高校まで、実際に子どもたちに関わっている先生たち同士がお互いの顔を認識し、地域にいる人たちと知り合うことからはじめたいと考えたんです。
当日は、昨年実施したKMS(Kamiyama Makers School)と、神領小学校,広野小学校、城西高校神山分校の連携授業の取り組みについて、KMSと担当した先生方から発表してもらいました。ほかの学校でどのような授業をしたかは知らなかったそうなので、それをお互いの共有知にしてもらえたらと思って。その後、楽しくごはんを食べる、みたいな感じで。
最初は『定員30名としたけど、集まるかな?』と思ったんですけど、フタを開けたら42名。第一回目は、すごく盛り上がりました」
先生たちの交流から
新しい授業もスタート
神山町の学校は、小学校2校と中学校1校、高校は県立城西高校神山分校ひとつ。ここで新しい動きをつくるなら、一人ひとりの先生のことを知ることから始めよう。あらかじめ“設計図”を書いて形をつくっていくようなやり方より、まずは触れてみて、その手応えから形をさぐっていく“粘土造形”のようなやり方のほうがいい。
「先生みんなでごはん」を企画したメンバーのなかには、そんな気持ちがありました。そして「先生みんなでごはん」で得た感触を手がかりに、森山さんたちは先生たちにそれとなくヒアリング。次の動きを手探りしているときに、神領小学校の校長先生からある相談をもちかけられます。
神領小学校では、春に新しく異動してきた先生たちに、まちを知ってもらうために町内を巡る研修を実施していました。しかし、毎年のことだけにコースが固定化してしまうし、準備も大変なので「提案をもらえたらうれしいんだけど」と。
「ぜひ! 連れていきたいところ、いっぱいあります!」。
森山さんたちはさっそく研修のお試しとして『先生みんなでツアー』を企画。やはり、保小中高の先生方を対象に、まちの農業と林業を知ることをテーマにして2つのツアーを組みました。
「『食と農業を知る』ツアーは、町役場から出向して『フードハブ・プロジェクト』を担当している白桃薫さんに協力を依頼。農業従事者が高齢化し、耕作放棄地や鳥獣害被害が増えている神山の現状に対して『フードハブ・プロジェクト』が農業の担い手を育成しようとしていること、その取り組みを話してもらいました。その後は、田んぼや食堂の建設予定地、有機栽培農家さんの畑にご案内。『フードハブ・テストキッチン』でごはんを食べて、農業と食育について語り合う時間を持ちました。
『木と人に出会う』をテーマにした林業編は、つなぐ公社『すまい担当』の赤尾苑香さんに協力してもらい、改修中の民家の現場や集合住宅の建設予定地を見学。『カフェ・オニヴァ』でお茶を飲みながら、曲げわっぱ作りに挑戦している神山出身の近藤奈緒さんや『神山しずくプロジェクト』の廣瀬圭治さんにお話を伺い、杉材を加工している金泉製材所も訪ねました。
先生方のリアクションは本当に素敵で。知らなかったことを知ると、すぐに『これを子どもたちにどう還元していこう?』と考えてくださっていて。きっと、こうして先生方が学ぶ背中を見て、子どもたちも学ぶんだろうなと思いましたね。
『先生みんなでごはん』の後、神領小学校と城西高校神山分校の連携授業も生まれました。小学校5、6年生と、高校の造園土木科、生活科の生徒たちが、森林組合のサポートのもとで木を伐って製材。乾燥させたものを、今度はKMSの人に手伝ってもらって、レーザーカッターで小学生の卒業証書を作るという長期のプロジェクトです。
神山の先生方は、子どもたちに何ができるかを日々考えているから、他の人がネタを持っていることに気づいたら「一緒にやりませんか?」という感じで、すぐにつながっていくんですよね。ほんとにすごいと思います」
海士町で学んだ、
まちづくりと教育のこと
『先生みんなでごはん』『先生みんなでツアー』の記録映像を、様々な報告会で見てもらうなかで、森山さんは「まちの人が先生たちとふたたび出会う」という成果にも気がつきました。学校や先生は、自分や子どもが学校を卒業すると少し遠い存在になり、学校で起きていることも耳に入りにくくなります。
「でも、保育所も、小学校も、中学校も、高校も全部つながっていて、『このまちにはいい先生たちがいる』ことが見えてくると、安心して『この先もここに暮らしていこう』と思えるんじゃないかな」と森山さん。こんな風に、まちづくりと教育をむすびつけて考える視点は、いつ身につけたものなのでしょう?
「教育を教育だけで考えないということは、学生時代に半年間過ごした、島根県・隠岐諸島の海士町で肌で学んだように思います。教育は、人ひとりひとりが豊かに生きていくことを可能にしていくと同時に、社会と自然とが回っていくためのひとつの機能、潤滑油というか。子どもたちが大人たちの姿を見ながら育ち、文化や自然をどう守って次につなげていくのかを考えるうえで、教育は外せないものだと思っています。
海士町を知ったのは、ソニーの人事部から海士町に移住して高校魅力化に取り組んでいた、岩本悠さんがきっかけです。あるとき、海士町の高校生たちが『観光甲子園』で優勝した観光プランを実施するために、島外の中高生の参加者を募集していることを悠さんのブログ『悠学日記』で知って。悠さんに『大学生なんですけど、いいですか?』と連絡したら、『スタッフやる?』と言われたので、『はい!馬車馬のように働きます!』って(笑)。
一週間の滞在でしたが、すごい良かったんですよねえ。高校生たちはプロジェクトを成功させようと必死で、それを大人たちが裏で駆け回って支えている感じが。高校生たちが町のことや自分のことを再発見しながら日々ぐわぁっと変わっていくようすも見えて、何かが生まれていく感じがいいなぁ、このまち、この島いいなぁ!っていうのを持ち帰って。
半年後、海士町で知り合った人が福岡に出張してきたときに再会して、教職課程をとるなかで悩んでいたことを相談したんです。『じゃあ、島に来て現場見たらいいよ』と言われたので、また『行きます!』って言って。翌日大学の学生課に『休学したいんですけど』と言いに行きました。猪突猛進なんです。今だとおもったら『はい!』って行く(笑)。
海士町には、2010年10月から2011年3月までいました。海士町教育委員会でお手伝いをしたり、島の公営塾で高校生の勉強をサポートしたり……。海士町では本当にいろんなものをもらったんですよ。今もまだ全然うまく言えないけど……それこそ『少子高齢化』とか、『限界集落』とか、言葉の知識として知っていたものが、一次情報っていうのかな。それを目で見たことは大きかったと思います。
高齢化問題も、産業の衰退も、いろんな要素が複雑に絡んで動いている。そのなかで、教育はどういうことができるのかを考えていきたいと思ったんです」
地方にこそ、情熱のある教師がほしい
海士町で、森山さんが出会ったのは「いい大学を出て大手企業に入るエリートコースからドロップアウトして、(当時は)有名でもない海士町で、自分の課題意識で動くかっこいい大人たち」。「私もこういうふうに生きたい」と思いはじめた森山さんは、ふたたび自分の課題意識に向き合うことになります。
「そもそも私が海士町に行ったのは、大教室で200人ぐらいの学生に一方的に講義して終るような、大学の教職課程の授業に疑問を感じたことがきっかけでした。こんな授業で単位とって、社会を知らない社会科の先生になっていいのかなって。また、自分自身が毎年100人以上もの教育実習生を受け入れるような大学附属の中高一貫校に通っていたこともあって、それも2〜3週間程度の実習で、ペーパーティーチャーが量産されるのってどうなんだろう、と。
海士町では、島の高校に落ちる可能性のある子たちを公営塾で預かって、受験までの2ヶ月間学習支援もしました。学校の先生も保護者もさじを投げていたけど、『やればできる!』って体育会系のノリの精神論で(笑)。そしたら、最初は『どうせ無理だし』って諦めていた子も、だんだん自ら残って勉強するようになったりして、最終的に全員合格したんです。周りが期待しないことで、子どもたちの可能性の芽を摘み取ってしまうことがあるんだな、と思いました。
海士町にいる間に『いよいよ私はこれからどうするんだ?』って考えて、いろいろ調べるうちに、まさに日本の教職課程の問題に切り込み、地域や家庭の環境による教育格差をなくすことにも取り組もうとする『Teach For Japan(以下、TFJ)』に出会いました。
『TFJ』は、多様な経験を持ち教育への情熱と成長意欲を兼ね備えた人材を独自に採用し、学校現場に教師として派遣し、2年間に渡って様々な支援を行う『フェローシッププログラム』などを実施し、学校の内側から課題解決を行おうとするNPO法人。まさに私の課題意識の組み合わさったことをしているので、『これだ!きたっ!』と思いました。
すぐに、代表の松田悠介さんに会うために東京に行って、『これは地方でこそやるべきことだと思うんです』みたいなことを言ったんです、生意気にも(笑)。そしたら、『じゃあお前がやれよ』と言われたので、『やります!やっていいんですか!』って九州事業部の立ち上げをやることになりました。
『TFJ』には、学生として1年、そのまま就職して合計4年関わりました。厳しい環境にいる子どもたちの学習支援や居場所作りの企画・運営を行いながら、本事業である教員のフェローシッププログラムの準備を進めていて。やっと、福岡でも本事業を展開できることが決定するところまで辿り着いたとき、立ち上げの初期から手伝ってくれていた人に九州代表をバトンタッチしました。団体も草創期から次のフェーズに入るなら、ビジネス経験のある人に発展させてもらうべきだと思ったし、いいタイミングだと思ったんです」
「留学か、神山か?」 という選択
いろんな人に教えられながら、『TFJ』の九州事業部をがむしゃらに立ち上げてやってきた森山さんは、次のステップを考えるなかで、「ずっと自己流でやってきたから、ここで一度私は教育を見直してみよう」と、留学を決意し、『TFJ』を退職します。
「教育って、それ単体でサービス商品化したり、経済価値をはかろうとすると格差が広がったりねじれはじめてしまいます。もっと広い視野に立ちながら、アイデアをかたちにする力、公益性の高い事業に生みだしていく力をつけたいと考えて、ビジネスとデザインを掛け合わせるプログラムのある、イギリスのデザインスクールに留学しようと考えました。
その準備として、非常勤でふたつの仕事をすることにしました。ひとつは、英語のトレーニング兼ねて国際交流系の組織で。もうひとつは地域のプロジェクトデザインをする『リージョンワークス合同会社』でコンサルという立場からのビジネスを勉強しようと考えたんです。
すると、リージョンワークス代表の後藤太一さんから渡された本が、『神山プロジェクト(篠原匡著、日経BP社)』。入社して2日後には神山に出張していました。
当時の神山は、『つなプロ』策定のためにワーキンググループが結集していた頃でした。月一回ぐらいのペースで出張するたびに、熱量がすごかったのを覚えています。『なんだろう、この前しか向いていない感じのエネルギーは!』ってすごい感動しました。町役場の人たち、まちの住民、Iターン、Uターンといろんな立場の人がまぜこぜになって、こんなにいいエネルギーが生まれるんだ!って。
そして、『つなプロを実現するには、地域公社をつくるのがいいんじゃないか』という議論をしているときに、西村佳哲さん(現・つなぐ公社理事)が町長や役場の方もいる場でぽろっと、『スタッフに、たとえば森山さんとか』みたいな、ぶっこんだことを言ったんです。私、確か神山2回目だったんですけど(笑)。後藤さんも『それは、本人の意思次第ですから』なんて言ってて。
単純にうれしかったけど、『留学に行くって決めて今があるのに、どうしよう?』と、この時ばかりはさすがにしばらく悩みました。
でも、留学の先にやりたいと考えていたのは、歴史と文化と自然が感じられる場所で、自分の目と手の届く範囲の人の暮らしをより良くするような仕事で。それが突然目の前に現れて、熱量がある素敵な場所がここにある。しかも、つなぐ公社のメンバーはみんな、各分野に秀でた人たちです。『留学じゃなくても、ここで歩きながら学べることじゃない?』と思って、神山に決めました」
「神山に来た頃は、いろんなところに顔を出して話を聞きながら自分の仕事をこねこねすることから始まりました。今は、手のなかに少しずつ形ができてきた感じがあって。またどんどん変わるんでしょうけど。ほんと、楽しくやっています」
森山さんが神山に来て、もうすぐ2回目の春がやってきます。今年からは高校の魅力化や国際交流など、新たなプロジェクトも始まる予定があるそうです。次にインタビューをするときには、まだ今は予想していないような新しいプロジェクトのお話も聞かせていただけるかもしれません。
それでは続きはまた、半年後に。
-
杉本恭子
すぎもと・きょうこ/ライター。大阪府出身、東京経由、
京都在住。お坊さん、職人さん、研究者など。 人の話をありのままに聴くことから、 そこにあるテーマを深めるインタビューに取り組む。 本連載は神山つなぐ公社にご相談をいただいてスタート。 神山でのパートナー、フォトグラファー・ 生津勝隆さんとの合い言葉は「行き当たりバッチリ」。
バックナンバー
-
vol.01
-
vol.02
-
vol.03
-
vol.04
-
vol.05
-
vol.06
-
vol.07
-
vol.08
-
vol.09
-
vol.10
-
vol.11
-
vol.12
-
vol.13
-
vol.14
-
vol.15
-
vol.16
-
vol.17
-
vol.18
-
vol.19
-
vol.20
-
vol.21
-
vol.22
-
vol.23
-
vol.24
-
vol.25
-
vol.26
-
vol.27
-
vol.28
-
vol.29
-
vol.30
-
vol.31
-
vol.32
-
vol.33
-
vol.34
-
vol.35
-
vol.36
-
vol.37
-
vol.38
-
vol.39
-
vol.40
-
vol.41
-
vol.42
-
vol.43
-
vol.44