ある視点
vol.44 一人ひとりの人生が「神山」というまちをつくっている。(最終回)
2016年秋にスタートした「かみやまの娘たち」。
ついに迎える最終回は、赤尾苑香さんとの6回目のインタビューで締めくくりたいと思います。
赤尾さんは、神山つなぐ公社(以下、公社)の立ち上げメンバーとしてすまいづくりを担当。今は、ご自身で立ち上げたあといったん閉じていた「その建築設計工房」に戻られています。
前回のインタビューから約1年後になる2020年3月。赤尾さんから「お茶しませんか?」とメールをもらって会うと、「公社を離れることを直接伝えたくて」と話してくれました。そして同年6月末に退職された翌日、赤尾さんが子どもの頃に遊んでいたという川のほとりで、どんな気持ちで次へ進んでいこうと決めたのかを聞かせてもらいました。
それからさらに半年が過ぎた11月終わり、わたしたちはまた同じ場所で会い、川を渡る橋の橋脚に並んで腰掛けました。水の音に包まれるなか、時おり橋を渡る車の音が頭の上から降ってくる。遅い午後にしのびよる夕闇の気配が、わたしたちのインタビューを閉じていくのにふさわしく感じられました。
本当にやりきったのだから
「次に行くしかない」
ーー2016年春、独立して立ち上げた「その建築設計工房」をいったん閉じて公社に参画。すごい熱量ですまいづくりの仕事に取り組んできたので、「辞める」というのは大きな決断だったと思います。退職した翌日にここで話したとき、「本当に今なんだと思った」と言っていましたね。
赤尾:そうですね。「3年間は一緒にやりましょう」と声をかけていただいて入ったので、公社での仕事に全力を尽くしながらも、「今やっていることは、工房に戻ったときにどうまちに生かせるだろう?」と考えながらきていました。
公社にいたときは、自治体としてのまちやその動きに一番近いところで建築以外の範囲も含めて扱っていたので、町民の人に接する機会も多かったし、その仕事のなかでしか見えない景色にたくさん出会えました。悩んだり苦しんだりしたこともたくさんあったけど、在職中は何度も「本当にこの仕事は楽しいな」と思ってきて。
去ることに対する寂しさがあったとしても、自分としては本当にやりきったから「次に行くしかない、行こう」と思いました。
ーー「続けていても、もう前と同じくらいには熱くなれない」と言っていたのも印象的でした。
赤尾:公社に入るときには、町の集合住宅づくりと民家改修というプロジェクトがすでに決まっていました。そこに対して、明確に建築士としての自分の役割があったんですね。
それに、神山は自分の生まれ育ったまちだから、他の人が来てその仕事をしていることを知ったら、たぶん悔しいだろうなとも思って。だから、立ち上げたばかりの工房をいったん畳んでも、公社に参画しようと覚悟を決めました。
その役割が終わろうとしたときに、次の動きに対しては覚悟を決められなかった。6月というのは時期としては中途半端だったけど、「じゃあ来年の3月まで」としたら、目の前の仕事はちゃんとやるにしても、どこかで時間が過ぎるのを待つ感覚になりそうで。
自分の人生を考えたときに、たった一年でも時間をどう使うのかはすごく大事なことだし、「やっぱり今区切りをつけよう」と思ったんです。
この5年間には自分を肯定していく
時間の流れがあった
ーーその建築設計工房に戻って仕事をする日々がはじまって、今の気持ちは?
赤尾:あのね、楽しいですよ。ほんとに「楽しい」のひとことに尽きるんですけど(笑)。改修も新築もあるし、計画もしていて。いろんなご家族と打ち合わせをして一緒に家を直したり建てたりしながら、ひと家族ひと家族の人生の大事なときをともにしている喜びがある。住みはじめた後のご家族にも関わらせてもらっています。
ーーすでに忙しそう!独立した5年前と今では、仕事に対する自信は違いますか?
赤尾:独立する前は、「仕事は入ってくるのか」「現場を見ていけるか」という不安があったんですけど、今は全然なくて(笑)。なんかやっぱり、一歩踏み出したことで自分にできることが増えたなあって思う。
「やったことないしできないかも」という不安のハードルを超えてみたら、同じことに対する心持ちがこんなにも違うのかと思います。面白いですよね、自分のなかの変化としても。
ーー最初のインタビューで「自分を変えたい」と言っていて。公社で仕事をすることについても、「こんなすごい人たちと一緒に働くなんて」と言っていましたね。
赤尾:言ってましたねー。たしかにプレッシャーというか、気負いがある時期もあった。同時に、「自分としてできることがある」というか、「自分だからできことがある」という気持ちと行ったり来たりしながらでしたね。公社で仕事をしていた軸のなかに、自分自身がすごく自分を肯定していく時間の流れがあった。それがだんだん、今の……なんだろうな。今に、つながってきている……かな。うつろい?
ーーあれ。なんか、今ちょっとはしょった気がする(笑)。「うつろい」?
赤尾:あはは!「今の変化につながってる」って言おうとして、変化じゃないなぁと思って。たしかに変わりたかったけど、「自分は変わった」っていうのもおかしいなとしゃべりながら思って。仕事の軸と並行して流れていた、「変わりたいな」と思っていた自分から、「自分いいな」と言える今への変遷が、自分のなかの手応えとして実感あります。
変わったのは「自分」ではなく
「自分に対する評価」だと思う
ーーなんだろう? わたしから見る赤尾さんは変わったようには見えなくて。変わったのは赤尾さん自身じゃなくて、赤尾さんの自分に対する受け入れ方、捉え方みたいなところかなと思うんです。
赤尾:そうだ、そうです!私自身が変わったんじゃない。私の、私自身に対する見方が変わった、それですね。
ーーなんで、その見方が変わっていったんでしょうね。
赤尾:かずちゃん(市脇和江さん、かみやまの娘たち vol.41に登場)の存在はすごく大きくて。公社に入ってすぐの頃に知り合ってからずっと仲良くしていて。仕事のことも人生のこともほんとにいろんな話をしてきて、今は一緒に暮らしています。
私が自分を認められていなかったときも、かずちゃんは遠くからずっと見守ってくれていて。「そんちゃん、生きてるだけでオッケーなんよ。それだけでそんちゃんはカンペキー」って言ってくれたけど、最初は意味がわからなかったんです。
でも、かずちゃんとしゃべっているなかで、また自分自身との対話するなかで、「嫌い」と思って見ていた自分のことを、「生きているだけでカンペキ」と思って見るようになったんだろうなって。
ーー以前は、「生きてるだけでカンペキ」とは思えていなかった?
赤尾:とにかく自分が嫌いだったから、「変わりたい、変わりたい」と思っていて。でも、今となっては、実はそもそも変わらなくてよかったんだと思うんです。
公社で仕事をするなかでも、確かに「自分オッケー」と思えたときもあったんですよね。民家改修を一緒にした大工さんや工務チームとのやりとりのなかの自分や、高校生と一緒に「どんぐりプロジェクト」をしていた自分とか。でもやっぱり、ずっと誰かと比べては自分にダメ出ししていたんです。
「自分だから出せるものがある」と感じたり、「熱量のある自分は意外と好きかも」と思えたときもあったけど、けっこう最後まで「もっとできるはず!もっとやらなきゃ!」と自分を痛めつけていました。ガラッと変わったのは本当にここ最近なんです。
ーー周りの人は、赤尾さんが「自分を嫌い」と思っていたことに気づいていなかったかもしれない。
赤尾:外からは、あんまり見えんのやと思います。最近ようやくそうだったことを言えるようになって、母にも話したら「そんなふうに思っていたようには見えんかったよ」と驚いていました。
人が変わっても、社会が変わっても、
まちは続いていく
ーー移住して来た人が多い公社のメンバーのなかで、赤尾さんは数少ない神山出身者。「公社の人」と「まちの人」というふたつの視点で、まちを見ていたんじゃないかと思います。今の赤尾さんは、どんなふうにまちを見ているのかを聞いてみたいです。
赤尾:そうですね。神山町役場と協働して創生戦略を進めていく公社という組織の一員として、まちを考えていくことに関わってきて。同時に、暮らしている一人ひとりがまちをつくっているという、両方を合わせた視点で見させてもらっていました。
当たり前のことですけど、人も、まちの状況も、この社会も変わっていくけれど、まちをつくるということはずっと続いていくと思うんですね。もちろん、地方創生という国の動きのなかではあるけれど、この5年間は神山町が「こうなっていこう」という意志を掲げて大きく動いている、その瞬間だったんだなぁと思う。
でも、ずっと前も、これから先にも、その時々に生きる人たちが「本当に必要なことは何か」を考えてやっていく。きっとそういう瞬間はこれまでもあったし、これからもあると思う。ずっとまちが続いていくなかでの「今、ここ」に私もいるんだなぁという感じがしているんです。
一人ひとりの暮らしや大なり小なりの活動、その人の人生を豊かにしていくことが、ちゃんとこのまちに還っていくんだと感じられたと思っていて。
ーー「まちづくり」としてやっていることだけが、まちをつくっているわけではなくて。
赤尾:そう、公社に入った頃の私がそうだったけど、「まちに貢献しよう」と考えてすることじゃなくても。
公社にいたとき、「なんの仕事をしているの?」と聞かれて、「まちづくり」と答えることに、だんだん違和感をもつようになりました。世の中に発信される施策としての「まちづくり」も大事だけど、同時に世の中には現れてこない大事なこともたくさん起こっている。それに気づけたのは、公社で仕事するなかで、町のいろんな人にお会いできたからだと思います。
公社という立場を離れて、これからの私は、神山町で人生を生きていく、このまちをつくっていくひとりであるという意識が持てたというか。
ーー自分自身の人生の営みが、このまちをつくっていくという確かな感覚があるんですね。
赤尾:はい。その人が本当に楽しみながら神山町で人生を送っていたら、それがこのまちの輝きや魅力になるなぁとすごく思う。今度は、そっちの方からまちを見ていけるのもいいなぁと思っています。
ーーなんか、ちょっと泣きそうです。「人生を楽しく生きていたら、それがこのまちの輝きや魅力になる」という話は、「生きてるだけでカンペキ」というかずちゃんの言葉にも通じる気がする。何をしていなくても、その人が自分の人生を生きることがそのまま、まちのひかりになるというか。
赤尾:私は20歳のときに父を亡くしたんですね。それまでは、ふつうに家族がいて、学校に行って生きていることがあたりまえだった。でも、父を亡くしてから、「なぜ生まれてきて、死んでいくのか」「人生ってなんだろう?」とすごく考えました。それが、ずっと自分のなかの大きなテーマになってきたんです。
誰にとっても、生きている時間には限りがあるからこそ、「人生をどう生きていくのか」ということはすごく大事だと感じてきた。そのことと、「まちの一人ひとりの人生がこのまちをつくっていく」という話は、私のなかではすごく近いところにあるなと思います。
数字で見る成果より、
それぞれが望む暮らしができていたら
ーー公社にいたときは、たとえば神山町の創生戦略が示していた「5年後に人口が何人くらいであればいい」という数値的な目標も、ある程度は意識されていたと思います。その数字に縛られると、まちに移り住んでくる人を「この人は定住しそうかどうか」という目で見てしまう可能性もあったかもしれない。でも赤尾さんは、「一人ひとりの人生がまちをつくる」と思うようになった。
赤尾:もちろん、大埜地の集合住宅の全戸に入居があって、すみはじめ住宅にも住む人がいて、空き家相談が増えて移住する人が増えたら、「ああ、人口が増えてよかったな。数字も達成できたな」という気持ちはありますよ。
でも、私がうれしいのは、人の数が増えたことじゃなくて、その人が望んでいた暮らしをできる場所があったこと。住みたい場所があり、友だちができて、学校にも行って、その人が望む人生を展開していけることに「よかった」と思うんです。
ーーたぶん、神山が「こういうまちでありたい」という意志を示すことで、「神山で暮らしたい」という人が移り住んで、望む人生を展開できる可能性を広げているんじゃないかと思うんです。
赤尾:そうですね。やっぱり「こういうまちでありたい」というのがボヤボヤしていたら、結果もやっぱりボヤボヤすると思います。神山町は、すごくはっきりとした意志を発信してきたからこそ、それに反応してこのまちに可能性を感じて来る人たちがいてくれた。
ただ、神山の何に反応して来てくれるのかは人それぞれに違うと思うんですね。なんて言うんだろうな?役場や公社がやっていることを全然知らずに、「いいな」と思って来ている人もいるでしょうし。それも含め、やっぱり、一人ひとりが構成しているこのまちを、いいと思って来てくれている。そういうすべてで成り立っているんだろうと思います。
ーー赤尾さん自身が「まちを構成するひとり」になった今、関わり方も変わってきていますか?
赤尾:役場や公社が開催する「町民町内バスツアー」や高校生の「しごと体験」も、今は「ひとりのまちの大人として」受け入れてお話させてもらっていますね。これまでは企画側にいたけど、今はそうやってまちの人や子どもたちと会えるのがすごくうれしいことだなと思っています。
ーーひとりのまちの大人として。赤尾さんの人生が大きく変わるときに、大切なお話を聞かせていただいていたんだなと改めて思いました。本当にありがとうございました。
◆
一人ひとりの人生がまちをつくっていくーー5年前にはじめて神山に来た当時なら、わたしはこの言葉を実感をもって受け取れなかったかもしれないな、と思います。でも、神山のみんなに出会って、たくさんの話を聞いて、いろんな場をともにしてきて、今は「本当にそうだ」と心から思います。
「かみやまの娘たち」のなかでも、赤尾さんとのインタビューは6回と最も多かったのですが、このインタビューをどんなふうに感じていたんですか?
「私は、自分の感じていること、考えていることを言葉にするのが得意じゃないんですよね。でも、しゃべったら意外と出てくる。『私、めっちゃしゃべってるわー』って思っていました(笑)」
そうそう。はじめてインタビューをしたとき、「うわ、この人が話してるのは、今はじめて言語化したほやほやの言葉で、湯気があがってるみたい!」と思いました。そういうところも変わっていないですね。
「あのとき言っていたように、私は他人がどうしたいかを読み取って、期待に応えることを得意としてきたから、自分が何か感じているか、考えているかということには向き合ってこなかったんですね。それを声に出して、言葉にする作業をさせてもらったし、杉本さんとの対話を通じて『自分がどう感じてきたのか』を追いかけていけた。
スタッフ同士ではできない話を、ちょっと距離を置いて話ができる。息が抜けるし、ずっと緊張感のなかにいなくてすむ。そういう時間を定期的にもってもらえたのはありがたかったと思います」
わたしにとっても、3カ月ごとに神山に通ってみんなの話を聞くことは、いつしか人生の一部になっていました。これから、この5年間を振り返りながら、一冊の本を書いてみなさんに届ける予定です。どんな本になるのか、楽しみにしていてください。
すべての取材をともにしてくれた、行き当たりばっちりなパートナー・フォトグラファーの生津勝隆さんに、伝えきれない敬意と感謝を。
本連載を読んでくださったみなさん、インタビューに応じてくれた“かみやまの娘”のみなさん、岩丸お父さんはじめお世話になった神山のみなさん、掲載をサポートしてくれた『雛形』編集部のみなさん、神山つなぐ公社の杼谷学さん、わたしを神山に呼んでくれた西村佳哲さん、本当にありがとうございました。
赤尾さんのこれまで
▼第1回目(2016.12.15)
「家は、住む人たちと共に生きて、ふるさとの風景になる。」
▼第2回目(2017.06.19)
「鮎が川に帰るには? あたらしい集合住宅づくりの話」
▼第3回目(2018.02.08)
「町に住む5464人に宛てた“手書きのおたより”」
▼第4回目(2018.07.23)
「神山の暮らしに寄り添う「まちの建築士」でありたい。」
▼第5回目(2019.06.14)
「自分を問うことが、自分を信じることにつながった。」
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杉本恭子
すぎもと・きょうこ/ライター。大阪府出身、東京経由、
京都在住。お坊さん、職人さん、研究者など。 人の話をありのままに聴くことから、 そこにあるテーマを深めるインタビューに取り組む。 本連載は神山つなぐ公社にご相談をいただいてスタート。 神山でのパートナー、フォトグラファー・ 生津勝隆さんとの合い言葉は「行き当たりバッチリ」。
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