ある視点
vol.03 家は、住む人たちと共に生きて、ふるさとの風景になる。
赤尾苑香さんは一級建築士。10年間勤めた設計事務所を辞め、独立して間もなく、「神山つなぐ公社(以下、つなぐ公社)」にスカウトを受けました。迷ったすえ、いったん事務所を休業。今は、つなぐ公社の「すまいづくり担当」として、民家の改修や集合住宅プロジェクトのマネジメント役を担っています。
生まれてこのかたずっと神山で暮らしてきた赤尾さんですが、つなぐ公社で働くようになり、たくさんの「初めての神山」を経験しています。ほかのまちから来た3人とはまた違う意味で、だけど、同じくらいのスケール感で。「自分の生まれ育ったまちで、まちづくりの仕事をする」ということは、もしかすると、自分の足元に横たわっている未知の世界の扉を開くような体験でもあるようです。
今回は、赤尾さんがつなぐ公社に来て、神山と出会い直すなかで感じていることについて聞かせていただきました。
見晴らしのよい赤尾さんの家を訪ねて
赤尾さんが、インタビューの場所に選んだのはご自宅のお仕事部屋。見晴らしのよい山あいに建つ、赤尾家の表庭からは、鮎喰川とその向こう側にある広野小学校が見えています。
きっと、この陽当たりのいい縁側に座って、あるいは晴れた日に洗濯ものを干しながら、赤尾さんのおばあさんやお母さんは、校庭で遊ぶ子どもたちの姿のなかに、わが娘を探したんだろうな……。思わず、そんな想像もふくらみます。
赤尾さんが子どもの頃の赤尾家は三世代7人家族だったそう。築92年の大きな母屋のとなりには、「はなれ」と呼ばれる現代風の家がありました。
「ごはんやお風呂、テレビを見たりするのは母屋でした。じいちゃん、ばあちゃんは母屋で寝て、子ども世帯は「はなれ」の2階で川の字になって寝て。ちょっと夜更かしをしてテレビを見るとか、そんなことをしていました」
今、この家で暮らしているのは、赤尾さんとお母さんのふたり。11年前にお父さん、お祖父さんが相次いで亡くなり、弟さんは神戸で就職。3年前にお祖母さんが亡くなり、一昨年には妹さんも嫁いでいきました。
そして昨年、赤尾さんはここで「その建築設計工房」を立ち上げました。広い家でお母さんとふたり暮らしになったことも、自宅で開業する理由のひとつだったのでしょうか?
「いや、それは特になくて。どこでもできる仕事ですし、何も考えることなく自宅でしよう、と。お仕事がちゃんと入ってくるのか、全然見通しもなく、どうなるかわからんままの見切り発車で独立をしたので」
いったい、「見切り発車」ってどういうことだったのでしょう? 少しさかのぼって、独立までのお話を聞かせていただきましょう。
“自分を変える環境”として選んだ独立への道
赤尾さんは高校卒業後、
そろそろ独立を意識してもいい頃でしたが、赤尾さんは「そんなん、独立や全然できる気がせん」と思っていたそう。「ひとりで現場を見ていける自信もないし、独立して稼げなかったらどうしよう?」という不安が大きかったからです。
ところが、ちょうどその頃、プライベートでの出来事をきっかけに、「周囲の人たちにどう見られているか」が気になりはじめた赤尾さん。「今のままではダメだ。こんな自分を変えたい」と強く思うようになりました。どんなところを「ダメだ」と感じていたのでしょう。
「人から頼まれると、何でも断れなかったんです。自分の意志がないというか。自分がどうしたいかという気持ちの前に、『はい、わかりました』とか言いよったんです。そしたら、人から『赤尾さん、やっぱりことわらんなあ』って言われて。ああ、そういう風に見えとんやなあ、『そんなん、人として全然ダメダメ!』と思ったんです」
「自分で考えて自分で決めて、自分で判断して責任を持つ」環境に身を置けば、“ダメなところ”を変えられるんじゃないか、いや変えたい!——そうなると不安は消えて、「あかんかったらそのとき考えよう」とふっきれてしまいました
2015年春、赤尾さんは自宅の、縁側のあるひと部屋を事務所にして「その建築設計工房」を設立。半年を過ぎたころには「なんとかやっていける」手応えも感じられるように。
「あのとき独立していたから、つなぐ公社に来ている今がある。ほんとに、縁とかタイミングってあるなあとつくづく思いました。偶然かもしれんけど、必然なんかもしれんと思いますし」
「15分むこうの“神山”」を知らなかった
つなぐ公社に来るまで、赤尾さんは「15分ほどむこうの神山で何が起きているのか、ほとんど知らなかった」と言います。暮らしている「広野」は、神山町のなかで最も徳島市に近いエリア。トンネルを抜けて「神領*」に行くよりも、山を下りて市内に出るほうがごく自然なことだったからです。
* NPO法人グリーンバレー、神山町役場、神山温泉があり、新しいお店が増えているエリア。
「周りの人から言われるんですよ、『神山はまた新しいことしとるんやって?』『神山、新しいお店ができたよねえ』とか。でも、何も知らないから『さあー?』としか言えない。自分のまちのことなのに、全然答えられない自分がどんどん恥ずかしくなっていました。『神山で仕事をするなら、いつかは、建築士としてまちに関わっていきたい。関わっていく必要があるよなあ』と思っていたところに、まさかこんな急に」
つなぐ公社から連絡があったのは、独立してまだ1年経たないとき。「つなぐ公社に入って、住まいに関わるプロジェクトの先頭に立って進めるか」「建築士として、民家の改修設計などの仕事を受注するか」。提示されたふたつの関わり方のうち、赤尾さんが惹かれたのは前者でした。
「そうはいっても『その建築設計工房』を休業してまで、
「独立してからも、所長の手伝いはしていました。私がつなぐ公社に入ったら手伝う人がいなくなってしまうのに、『何を悩んでるの?』ぐらいの勢いで、『絶対それはやるべきだろう』と言ってくれて。『考えれば考えるほど、マイナスになることしか出てこんけん、こういうときは一切を置いて、やってみたらいいよ』『うらやましい、自分もそういうことできたらよかっただろうな』って所長は言いましたね」
石原さんの言葉は、揺れていた赤尾さんの背中を押す温かい手になりました。
「何となく、今までの10年のつきあいで、所長だったらそう言うだろうなと思っていて、きっと背中を押してほしくて相談したんですね。さらに、心が軽くなるような言葉まで言ってもらってホッとしたというか。もう迷うことないかなって」
こうして、赤尾さんは「すまいづくり担当」としてつなぐ公社に参加することになったのです。
人が家を必要なのと同じくらい、家も人を必要としている
「すまいづくり担当」の仕事は、住宅に関するプロジェクトのマネジメント。今までのように、自ら図面を引いて設計をするわけではありません。
「やっぱり、みなさんが設計しているのを見ているとうずうずします。でも、建築士として大きなプロジェクトに関わらせてもらっているので。この3年間はすごい、きっと大きいことに、自分にとってもなるだろうなと。自分で事務所をやっていたらわからなかったこと、学べなかったことを学べると思っています。あわよくば、3年目の終わりギリギリの頃に民家を一棟、改修させてもらえんかなあ」
でも今は、建築士として設計をしていたときには関われない大きなプロジェクトに参加し、ほかの建築士さんたちの仕事に学ぶチャンスがあります。3年後、もし赤尾さんが民家改修を手がけることになったら、今感じている「うずうず」を解消するような仕事になるにちがいありません。
赤尾さんが現地調査を行った、「民家改修プロジェクト」の対象となる家を映像で見せてもらいました。外から見ると丈夫そうな立派な家が、実は屋根や床が崩れ落ちていることもあるのには本当に驚きました。それにひきかえ、赤尾さんの家はなんだか生き生きしていて、とても“元気そう”に見ます。
「定期的に風通しなどの管理をしていれば、床が落ちたり、梁が落ちたりするのは防げます。でもね、家って、誰かが住まわないとなると、それだけで死んで行ってしまうんだろうと思います。誰かが暮らしているだけで、家も一緒に生きているように感じます。やっぱり、ちゃんと人が生きとるから家も安心して建っとるというか。家って、家やけど、なんかこういのちがあるな。これも、ひとつの存在だし、ほんとにいのちあるものやなと思うんです」
人が家を必要とするのと同じくらい、家もまたそこに住まう人を必要とします。家と人の関係を相互的なものとして見ていくなかで、赤尾さんは改めて「家をつくるってどういうこと?」という大きな問いを持ちはじめています。
「家をつくる」ってどういうことなんだろう?
一軒の家は、「家を建てたい」という施主の思いに、建築士、大工さん、内装を手がける人など、数えきれない人たちの手が重ねあわされて建ち上がります。そして、あたらしい家は、やがてそこに暮らす人たちの「ふるさと」になっていきます。
「たとえば、私には子どもの頃のここでの暮らし、『はなれ』で家族5人が川の字で寝ていたときの記憶が今もすごい残っているんですね。自分が設計させてもらった家や、これからみんなで作っていこうとしている、神山町の新しい集合住宅も、誰かの暮らしに、生活になって、やがてはその人の記憶になり、ふるさとになって、まちの風景としても残っていくのはすごいなあと思って」
住む人の暮らしぶりに合わせて、家もまた変化していきます。たとえば、「子どもが生まれたから部屋をひとつ増やそう」と増改築することもあるし、住む人が替わったら雰囲気がガラリと変わるということもあります。
「うちは本当に昔の家で、廊下もなくて、間仕切りは襖や障子、音は聴こえる、プライバシーもありません。お風呂は一回外に出てから入るから冬は寒いし、土間の台所は段差があるからばあちゃんには不便だし、母からしたら家事導線も悪い。それでも、どんなに不便な家であっても、家族のつながりがあれば、そこに住む家族は幸せやと思うんですよ。じゃあ、建築士としての自分が『家をつくる』ことで何かできるとしたら、そこに住む人たちの関係が深まる暮らしづくりの“手伝い”だろうと思っています」
家事がしやすくなればお母さんはもっと笑顔になるだろうし、段差をなくせばおばあちゃんは楽に動けるだろう。「家づくり」を通して、赤尾さんがイメージしているのは、住む人たち一人ひとりの笑顔なのです。
神山を好きなのは「大好きな家族がいるから」
インタビューの時間のなかで、赤尾さんは何度か「ここ(神山)が好き」という言葉を口にしていました。赤尾さんは、ここ神山のどんなところが好きなんですか?
「私、すごく家族が好きで、その家族がいるのが神山だからここが好きってことだと思います。たまたま、家族と一緒に暮らしていたのが神山で。もちろん、この神山という土地も好きなんですけど、やっぱりここで家族と暮らした記憶、小さい頃の友だちとの思い出があるから「ここ」なんです。ここが好きではあるけれど、神山で何が起きているのか知ろうともせずに、ただ“暮らしているだけ”でした。それが今は、神山でどんなことが起きているのか、どんな人がいるのかを、情報だけでなく、身を以て経験させてもらっている感じですね」
神山で何が起きているのかを知り、また新しい動きをつくる側に立つようになった赤尾さんは、「神山ってすごいね」という評価を受け入れやすくなったのでしょうか。
「いやー……難しいですね。先日、民家改修プロジェクトを一緒にやっている、神山出身の大工さんたちと益子(栃木県)と藤野(神奈川県)に視察に行ったら、どちらでも『世界の神山、すごいねえ』って言われたんです。でも、私たちにはその感覚はよくわからないんですね。『へえ、そんなに外から見たらすごいんか、神山は』みたいな。昔からの“暮らしているまち”という感覚と、今どっぷり関わっている“神山”とのギャップがたぶん埋められていないんでしょうね」
赤尾さんには、つなぐ公社の仕事を通じて「昔の父を知っている人」に会うこと、そしてお世話になった学校の先生たちに再会できることも大きな喜びです。
誰かが言う「世界の神山」と、赤尾さんの「昔から知っている神山」は、ずーっとすれ違ったままかもしれません。でも、ふたつの「神山」は重なり合わなければいけないということはなくて。
ただ、赤尾さんが「昔から知っている神山」との関係を通して「あたらしい神山の動き」を伝えるとき、足元からじわじわと神山を未来へと動かしていくような、確かさがあるように思うのです。
次にお話を伺うとき、赤尾さんからはじまる神山はどうなっているでしょうか。このお話のつづきはまた半年後に。
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杉本恭子
すぎもと・きょうこ/ライター。大阪府出身、東京経由、
京都在住。お坊さん、職人さん、研究者など。 人の話をありのままに聴くことから、 そこにあるテーマを深めるインタビューに取り組む。 本連載は神山つなぐ公社にご相談をいただいてスタート。 神山でのパートナー、フォトグラファー・ 生津勝隆さんとの合い言葉は「行き当たりバッチリ」。
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