COLUMN
かみやまの娘たち

 

ここ徳島県・神山町は、多様な人が
すまい・訪ねる、山あいの美しいまち。

この町に移り住んできた、還ってきた女性たちの目に、
日々の仕事や暮らしを通じて映っているものは?

彼女たちが出会う人・景色・言葉を辿りながら、
冒険と日常のはじまりを、かみやまの娘たちと一緒に。

写真・生津勝隆 文・杉本恭子 イラスト・山口洋佑
 

vol.29 「興味の先へ、少し高いハードルを超える」〈徳島県・神山町〉

INTERVIEW 「神山つなぐ公社」つたえる担当/藤本 彩さん

今回ご登場いただくのは、神山に家族4人で引っ越してきた藤本彩さん。現在は、神山町がつくる賃貸住宅「大埜地の集合住宅」で暮らし、神山つなぐ公社の「つたえる担当」の仕事をしています。

 

昨年11月、暮らしはじめて間もないご自宅にお邪魔してインタビュー。藤本さんが神山に来るまでに歩んできた人生のこと、大埜地の集合住宅の住み心地についても聞かせていただきました。藤本家の暮らしの真新しい雰囲気と一緒に、藤本さんの物語を届けたいと思います。

遠くからくる人たちに
憧れて話しかけていた

藤本さんは広島県広島市生まれ。子供のころは「知らないまちから来た人や転校生に憧れを抱いていたそうです。「知らないまちへの憧れは、子どものころに読んでいた本の影響ですか?」と聞いてみると、『霧の向こうのふしぎな町』の名前が挙がりました。

 

柏葉和子さんによる不朽の名作ファンタジー。小学校6年生の女の子が、霧の森を抜けてふしぎなまちに旅する物語です。

藤本家から、第二期工事中だった集合住宅サイトを見る(現在は竣工しています)。

「自分の知らない世界を知っている人に出会うと、いつも好奇心を持って話しかけていました。日本だけじゃなくて、海外から来る人たちにも同じように。たとえば、広島平和記念公園は、海外からたくさんの人が訪れる場所。そこで「どこから来たの?」という英語のフレーズだけを覚えて話しかけるんです。

 

遠くから来る人に憧れと、まだ知らない世界を見たいという願望を、ずっとどこかに持っていたのだと思います。でも、両親も祖父母も広島の人ですし、うちは転勤族でもなくて。

 

生まれ育ったまちは大好きだけれど、自分はいつか旅立つのだろうなと漠然と思いながら、広島を離れたのは25歳のとき。そう、わりと遅かったんですよ」。

「信号が青だったから」と
毎日ドアをノックした

中学生の頃にはすでに「デザイナーになりたい」と道を決めていた藤本さん。高校生になると、自分で描いた絵や写真をMacに取り込んでデザインして、ポストカードやポスターを制作。商店街など路上で販売もしていたそう。なかなか、行動的です。

 

自分が信じた道が見えたら思い切ったことをしてしまう。どうやら、藤本さんにはそんな力があるようです。

「高校生のとき、路上にポストカードやポスターを並べていたら、意外といろんな世代の人が声をかけてくれて。しだいに、雑貨店での販売や、名刺やロゴなどデザインの依頼をいただくようになりました。そうやって届いていくことに、なんだかすごく手応えがあって。

 

まだ、自分が何者かわからない頃に『こういうことがしたい』と表現をしてみた。すると、それを誰かが見つけてくれてつながった。その体験が、私には大きな事件みたいなところがありましたね。

 

選択肢はいろいろあると思いつつ、『やりたいことに近い仕事はなんだろう?』と考えた結果、やっぱりデザイナーかなと思ったんです。

 

高校卒業後は、デザインの専門学校に進学。できれば、尊敬できるデザイナーの元で働いてから独立したいと考えていました。すると、ある講演会で『この人だ!』と思える方に出会えて。それからは、その人が働く広告代理店にデザイン案をもって通いました。毎日、『信号が青だったので来ました!』って押しかけたんですよ。行ってもいいと思える理由を見つけては(笑)。

 

インターンからアルバイトになり、最初はおつかい。クライアントに届け物をするところから始まって、デザインの現場に入り浸る日々でした。就職後、デザイナーになってからは、行政や企業の広報誌や、あらゆる業種の広告制作やデザインを手がけました。

 

でも、仕事をしていくなかで、直接顔の見えない人たちのために何かを形にすることへの課題感がずっとあったんです。もちろん、クライアントの顔は見えるんですけど、私が伝えたいのはその先にいる人たちなのに、と思っていて。

 

もっと言うと、仕事そのものが関西や関東の都市圏から流れてきている。すべてではないけれど、どこからか降りてきた仕事を、届けようとする相手の顔が見えないながらにやりつづけることにも、すごく違和感を感じていたんです」。

地方都市から見ていた
中央を確かめに東京へ

デザイナーとして仕事をする一方で、藤本さんは服飾デザイナー・革職人の直紀さん(その後、結婚されました)と、ものづくりユニット「KULUSUKA(クルスカ)」を結成。直紀さんは作品をつくり、藤本さんはものづくりを伝えたり届けたりするようになります。

 

それは、顔の見えない関係性で仕事をすることに違和感を感じていた藤本さんにとって、手応えの感じられる活動でした。

直紀さんの仕事場。ミシンと革と布がひとつの生態系をつくっていました。

「広島で暮らしているとき、職場の先輩たちが都会のことを“中央”って言っていたんです。でも、いったい“中央”ってなんだろう?という気持ちもあって。直紀さんも、『大量生産品からオーダーメイドへ』を志向し、対面でオーダーを受けて直接届けることをはじめたものの、実際に大量生産・大量消費の現場に立ったわけではないことに違和感を持っていました。

 

クルスカの活動を通して、自分たちがつくったものが顔の見える誰かに届く実感があり、それはすごくうれしかったんですよ。ものづくりを通じたコミュニケーションに惹かれていたのだと思います。

 

ところが同時に、私たちは井の中の蛙になっていないかと恐ろしくなったんです。わかっていないこと、知らないことに対してジャッジしはじめていないだろうかって。そこで、“中央”や“大量生産・大量消費”を自分たちの目で確かめるために二人で上京することにしたんです。

 

私は、レコード会社のデザイン室でクラシック音楽や洋楽の担当になり、直紀さんは革のベルトや財布、バッグをつくるメーカーに就職をしました。大量生産の現場に入ってみて思ったのは、大量生産や消費行動の良し悪しではなくて、それをどう捉えるかということでした。何かをつくることは仕事や雇用を生み出していて、人や社会に影響を与えている。そのうえで、何をつくり・つくらないか。『私たちは適量生産がいいよね』という考えに至りました」。

やってみない?と言われた
仕事についていく

東京で2年暮らしたのち、子どもを授かったことを機にふたりは鎌倉に引っ越しました。自然が少なく、人と情報量が多い東京に少し疲れていたふたりには、鎌倉は「ちょうどよい」まち。その後、8年間を暮らすことになりました。

 

当初は、ふたりとも鎌倉から東京の会社に通勤していましたが、震災をきっかけに仕事と住まいを近づけることを考えはじめます。

「長男の誕生日は、3月11日。東日本大震災が起きた日は、ちょうど一歳の誕生日だったのに、ふたりとも家に帰れなかったんです。私の両親がいてくれたからなんとかなったけど、これから先どうなるかわからない。住まいのある鎌倉の近くでできる仕事をしていこうと話し合いました。

 

私は、鎌倉の会社に転職。広報室でWebメディアの立ち上げなど初めての仕事を経験するなかで、ライターとしてインタビューをして記事を書くこと、編集の仕事にも身を投じていって。会社が東京に移転するタイミングで退社し、フリーランスになりました。

 

なんだろう。自分のなかに、誰かのためにばかり働いてきたという気持ちがあって。誰かの何かを伝えることをしたいと思っていたけれど、そこに没頭するあまり自分や家族にとっての幸せや健やかさをどこかに置いて来てしまった感じがずっとあったんですね。フリーランスになってからは、自分や家族のペースにあわせた働き方、暮らし方をするようになりました。

 

仕事のほうは、ひとつの仕事が世の中に出たときに、それを見てくれた人が『これもできるんじゃない?』と声をかけてくれて。自分が手にしているものがどんどん変わっていく感じがありました。

 

たとえば、ラジオ局のパーソナリティ。湘南や鎌倉に住んでいるつくり手を招いて『どうしてものづくりをはじめたの?』『何をつくっているの?』とインタビューする番組を担当していました。その後、またお話を聞きに行ってライターとして記事を書いて。

 

自分で『こうなりたい』と動いたというよりは、『やってみない?』と言われたことに、『できるかどうかわからないな』と思いながらついていく。そしてまた新しい何かに出会うという感じでした」。

小さな約束を果たすために
神山へ。

藤本さんの話には「え?ちょっと待ってそれはどういうことですか?」と聞きたくなることが多くて。まだまだ聞きたい気持ちはありますが、そろそろ本題であるところの、「なぜ、神山に来たんですか?」に話題を移したいと思います。

 

藤本さんが初めて神山を訪れたのは、2016年2月に開かれた『神山はいま、3DAYSミーティング 2/26-2/28(以下、3DAYS)』のとき。神山つなぐ公社の立ち上げ時に、スタッフの募集も兼ねて行われたプログラムでした。

2016年当時は計画段階だった大埜地の集合住宅。そこに今、藤本さんが暮らしているなんて!人生わからないものですね。

「きっかけは、神山つなぐ公社の理事でもある、西村佳哲さんの『インタビューのワークショップ』に参加したことですね。2015年冬のことです。

 

ワークショップが終わった後みんなで食事をしたときに、『神山に会いにいきますね』と声をかけたら、西村さんが『うん、待ってる』と言って、ハイタッチして別れたんですよ。本当に小さな約束だけど、3DAYSの話があったとき『行くって約束したから、この機会に行ってもいい?』と直紀さんに話して参加しました。

 

3DAYSに参加したときは、スタッフを募集しているということは意識していなくて。滞在中に出会った風景や、神山で生きている人たちの姿に、ただただ惹かれていました。そこで配布されたアンケートに『参加できてとてもよかった。今すぐ移り住むことはできないけど、いつか一緒に神山で』など、自分の思いのたけは書いて帰りました。

 

あの、やっぱり小さな約束が気になるタイプで(笑)。鎌倉の友人たちとの間には、『今度一緒に仕事をしよう』とか、『○○の会をやろう』とかいろんな約束があったから、全部果たすまでは動けそうにないなと思ったんです。ただ、神山の動きはずっと気になっていたからメディアなどを通して見ていました」。

集合住宅で暮らすことに
ひとつの夢を抱いて

翌2017年初夏、藤本さんは家族旅行で神山を再訪。その後も友人を訪ねて、神山に通うように。第二子の出産を経て、西村さんから「神山に来てみる?」とオファーを受けました。「一緒に働けたらいいな」と思ってはいたものの、産後まもないこともありすぐには答えが出せなかったそうです。

 

ふたりが神山で暮らすことを検討するなかで、決め手のひとつとなったのが大埜地の集合住宅への応募でした。

「集合住宅に、私たちはひとつの夢を抱いたんですよ。当時はまだ建設途中で完成図はイラストしかなかったけれど、その資料を大事に何度も読んで。『こういう住環境ができるんだ!』と思い描くうちに、いつの間にかどうしても住みたい家になっていました。

 

中学校の寄宿舎の跡地に、大切につくられていく過程。神山に100年も200年も住み継がれる家をつくり、子どもたちが育ち合える環境にするとか、そういうところにまんまとやられてしまったわけです(笑)。仮に仕事が決まらなくても、入居が決まったら神山に引っ越そうと。それほど、プロジェクトに可能性を感じたのだと思います。

 

暮らしてみると本当に気持ちがいいですよ。夏の間も涼しいですし、冬は日中の温かい空気を取り込んで棟内を循環させている仕組みがあるので暖かい。『工事中で落ち着かないでしょう』って聞かれるのですが、朝一番に息子が現場の人たちに『おはようございます!』って挨拶して出て行くのもすごくいいなと見守っていました。

 

この集合住宅がつくられていく過程に参加できたことがとても良かった。いましか見れない景色があります。それに、自分で建てたわけじゃないのに、私たちにぴったり合っている。いろんなところがフラットで、すごくいい状態の余白があるところも気に入っています。自分たちで考えながら生活をはじめられるから。

 

 

小さな子どもを二人連れて家族での引っ越しは、きっとすごく大変だったと思います。移り住んでから、家族の暮らしの土台をつくっていくことも。でも、藤本さんはその大変さを一切口にしませんでした。

 

藤本さんのことをずっとそばで見てきた直紀さんは、「興味があって、今の自分にできる仕事より、ちょっとハードルを越えないといけない仕事を選びとっている感じがする」と言います。

 

仕事だけでなく、人生そのものに対して「興味があって、ハードルを越える」ことを、藤本さんは繰り返しているのかなと思います。そのプロセスで学んだり、新たな経験をすることを心から楽しみながら。周囲の人たちもまた、藤本さんがどこに向かっていくのか、応援しながら楽しく見守っているのかも?

 

次のインタビューでは、「つたえる担当」としての藤本さんのお仕事について、聞かせていただきたいと思います。続きはまた半年後に。

 

 

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かみやまの娘たち
杉本恭子

すぎもと・きょうこ/ライター。大阪府出身、東京経由、京都在住。お坊さん、職人さん、研究者など。人の話をありのままに聴くことから、そこにあるテーマを深めるインタビューに取り組む。本連載は神山つなぐ公社にご相談をいただいてスタート。神山でのパートナー、フォトグラファー・生津勝隆さんとの合い言葉は「行き当たりバッチリ」。

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