ある視点
vol.16 旅先のまちに、料理とピアノで「あるがまま」の空間を。
川本真理さんと出会ったのは、神山に大雪が降った1月11日。
夜ごはんを食べに行った「かま屋」で、同じテーブルを囲みました。
静かな人だけど話し好き、はかなげに見えて芯が強い。
アンビバレントな印象が記憶に残りました。
次は2月12日、ふたたび大雪が降る日に「あわカフェ」でばったり再会。「明日は神山を離れる」と聞いて、いつか川本さんに会いに行ってインタビューしたいな……と思っていたら、神山つなぐ公社の西村さんからのメールが滑り込んできたのです。
「杉本さん、今回、川本さんのインタビューもしてみたくない?」
ええ、してみたいですとも。
背中を押されて走りだすように川本さんを追いかけました。
ピアノと料理はとても似ている
川本真理さんは料理人。2018年1月から1ヶ月間滞在し、神山町の農業の会社 フード・ハブ・プロジェクトの新しい企画「シェフ・イン・レジデンス」プログラムに参加していました。私が彼女に出会ったのは、偶然にもその始まりと終わりの頃。
ピアノも弾けて、神山に来る前は3年間イタリアで暮らしていた——
彼女について、事前に知っていたのはそのくらい。ひとめぼれして追いかけたのはいいけど、声をかけてから言葉につまる。そんな感じにも似て、とつとつとインタビューは始まりました。
川本さん、ピアノはいつから始めたんですか?
「ピアノは4歳から17歳まで、町のピアノ教室で習っていました。大学でジャズ系のサークルに入って独学でジャズを学び、卒業後はジャンベの入江規夫とヴィオラのトビウオリアキの3人で「ebisu」というバンドを組んでライブ活動をしていました。
入江さんは奄美大島の島唄も歌っていて。音を聞きながら古い民謡にピアノをつけるうちに、自分でも作曲ができるようになっていきました。3人がそれぞれに引っ越して拠点がバラバラになったのを機に私もソロ活動を始めました。
料理の仕事をするようになると、どんどんピアノを弾きたい欲求が強くなってきて。料理と音楽。手段は違うけれど、その土地や季節を表現して、みなさんに感じてもらうということでは、自分のなかでは同じなのかなと思っているんですね。
私は、星つきのレストランを狙うとか、ものすごくキレイな料理で高みを目指すのではなくて、土地のもので自然を感じて、顔が見える関係のなかで気持ちが伝わる料理をしたいんです。ピアノ弾きとしても、大きなホールでコンサートをすることは目指していなくて。自然からイメージを得て作曲をして、旅やつながりのなかで演奏を続けてきました」。
嘘をついて大人になるより
ドロップアウトしよう
ピアノのことを聞いていると料理の話になり、料理について聞いているといつの間にか音楽に戻っている。本人が言うとおり、川本さんのなかでは料理をすることと、音楽を奏でることの根っこは同じところにあるようです。今度は、お料理のほうから、その根っこをたどらせてもらいましょう。
「大学に入るときは、『将来コミュニティカフェをやってみたい』という夢を持っていたんです。
もっとさかのぼると、高校生の頃は、フリースクールのスタッフになりたいと思っていた。うちの両親は社会派で、私も社会問題に興味を持ちながら育ちました。受験勉強より大事な勉強をもっとしたい、クラスのなかだけじゃなくいろんな人と知り合いたい。本当に生きる力になるような勉強を子どもに与えたいという気持ちがすごくあって。
だったら、自分にウソをついて高校に通うよりドロップアウトしてみよう。
そう思って、高校を2年で中退してしまったんですね。
中退後は、自分で探した東京のフリースクールに1年間通いました。そこでは普通の授業もあったけれど、ハンセン病についてみんなで学んで裁判を傍聴しに行ったり。土曜日には、みんなで有機農業をしたりピザ釜をつくったりと、面白い授業がたくさんありました。
いろんな人にも出会いました。帰国子女や不登校の人、いじめられた人やちょっと病を抱えている人、元気が良すぎてはみ出して少年院に一度入った人。性同一性障害で制服着るのがつらくて中退した人、ゲイやレズビアンの人もいました。普通の高校だと言い出せないことも、『ありのままでいていい』という場所では言えるんですよね。
単純に料理がすごく好きということもあったんですけど、コミュニティカフェなら、フリースクールで感じたような雰囲気をつくっていけるのかなと思っていました」。
「誰かを幸せにしなければ」ではなく
「自分が幸せで人にも喜ばれる」ことを
大学でコミュニティカフェの研究をしたのち、東京のビーガンカフェに就職。2年後に、玄米と地元のオーガニックな食材を使った料理を出す鎌倉のオーガニックレストランに移り、川本さんはそのお店で5年半働いたそうです。
鎌倉では、昔ながらの乾物屋さん、酒屋さん、レンバイ市場(鎌倉市農協連即売所)など地元との関わりも深まりました。「料理をしていると市場のおばちゃんの顔が浮かぶのがすごくうれしかった」と言います。
「鎌倉のお店を辞めた後、ひとりで2ヶ月間アジアを旅しました。料理や音楽で子どもたちのために何かできないかなと思って、障害のある子どもの施設やHIV孤児の家などを巡りました。
なんとなく私、いつも『何かのために何かをしなければ』という思いにすごくがんじがらめになっていたんですね。『誰かを幸せにしなければいけない』ではなくて、『自分が本当に幸せでやりたいことをしたら人にも喜ばれる』という逆の発想を旅でいただいて。
料理もしたいし、ピアノも弾きたい。じゃあ、イタリア料理が好きだからイタリアに行ってみよう。もともとスローフード運動に興味がありましたし、子どもたちのための食育のプログラムも体験してみたくて。2年以上は滞在しようと思いました。
イタリア語は「ciao(こんにちは)」と「grazie(ありがとう)」くらいしか知らなかったので、最初の4ヶ月はフィレンツェの語学学校へ。働きはじめたときは、『塩を取って』と言われてもわからなくて。胸ぐらをつかまれて泣きそうになったこともありました。
でも、言葉が話せなくても料理って見ればわかるし、同じようにやればわかる。逆に、話せなくてもこんなに自分の姿勢や考えは伝わるんだなと思いました。3ヶ月くらいで信頼関係ができて、最終的にはパスタ場や火元を任せてもらいました。「ここはあなたの場所だよ」と言ってもらえたのがすごくうれしかった。
面白いことに、イタリアではトリノやフィレンツェのような大きな駅にはピアノが置いてあって、誰でも弾いていいんですよ。ピアノが弾きたくてうずうずすると駅で弾いていました。CD並べておくとけっこう売れたりもして。
言葉ができないことをバカにされて悔しいこともあったけれど、ピアノを弾くとすごく対等に見てもらえるのもうれしかった。日本人は『プロなの?アマチュアなの?』と定義しようとするけれど、イタリア人は子どもみたいに自分の感性で聴いて、『うん、すばらしい』ってCDを買ってくれるんです。ピアノのあるバールでちょっとした演奏会をして、『来週うちでパーティするから来ない?』って誘ってもらい、料理を一品持って行ったことも。
音楽を通じてこんなに人と知り合えるんだなっていうことも大きな発見でした」。
「自分の土地の料理が一番!」と
みんなが思っているイタリアで
2015年から2年半、川本さんはイタリア各地の4軒のレストランで働きました。最初は、ブーツのかたちをしたイタリア半島のかかとにあたるプーリア州で7ヶ月。ふたたびトスカーナ州に戻り4ヶ月働いて、今度はフランス・スイスと国境を接するピエモンテ州で1年間。最後はアドリア海沿岸のマルケ州で3ヶ月。いずれも、土地の食材と伝統料理を大切にするお店です。
なかでも、川本さんが「一番自分をかたちづくっている」と感じているのは、ピエモンテ州のレストラン。土地の食材や風土にあう伝統食を見直し農業を保護する「スローフード運動」が始まったブラの近く、ヴェルドゥーノという町にあります。
「同じ国でも、土地ごとに料理は全然違っていました。たとえば、プーリア州はイタリア最大のオリーブオイル産地なので、料理もスイーツも全部オリーブオイルでつくります。とても貧しい地域なので、お肉が前菜から出て来ることはないしバターも使わない。パスタには粉チーズの代わりにパン粉を炒ったものをかけたりします。
ところが、北部のピエモンテ州に行くと、オリーブの木が育たないのでバターをたくさん使う。卵もお肉もたっぷり使って料理をします。
土地ごとの特色があるのは、地産地消を大切にしてきたからだと思います。
みんな、自分たちの土地が一番だと思っていて。どんないなかでも自分たちの文化にすごく誇りを持っています。それは、食糧自給率が高く、食材の質が高くておいしいからです。
プーリアやトスカーナの料理は「cucina povera」、直訳すると「貧乏料理」と言います。昔は貧しくてお肉やバター、チーズもなかった。でも、野菜だけのパスタに炒ったパン粉をかけて食べるのが、ものすごくおいしかったりする。
もし、ミラノや東京のように何でもそろうなら、この料理は生まれていません。そして、その貧乏料理といわれるメニューを、観光地の有名レストランもわざわざつくります。貧乏なことが逆にチャンスやひらめき、智恵を生んでいるのは本当にすごいなと思います。
私は、日本の土地のもので背伸びをしないイタリア料理を作っていきたいです。イタリアの食材でイタリア料理をコピーしようとすると、フード・マイレージ(食糧の輸送距離)がかかってしまうし地域にもお金が落ちません。そうじゃなくて、同じ土地で採れたもので料理するほうが理に適っているし、季節感もあり相性も良かったりするんですよね」。
まちにひとつ灯りがともれば
そこに人は集まってくる
ヴェルドゥーノのレストランで、川本さんは食を通じた地域との関わりにも触れました。シェフについて、幼稚園や小学校で食育の授業に行ったり、料理教室やケータリングもするフットワークの軽さ。「こんな取り組み、日本でもやれたらいいな」と思うなかで、注目していたのが「Nomadic Kitchen」。
神山町のフードハブ・プロジェクトを知ったのも「Nomadic Kitchen」のInstagramからだったそう。帰国後、神山町を訪ねたときにシェフ・イン・レジデンスの計画を知り、1月中旬から滞在することになったのでした。
フードハブ・プロジェクトは、神山町役場と、モノサスが(メディアをつくる会社)連携しているので、すごく表現が上手だなと思います。シェフ・イン・レジデンスのメインテーマは『小さな食糧政策』。滞在中にメニューや加工品を考えて『作品』として残すというプログラムでした。
イタリアでは畑付きのレストランで働いていたので、新鮮な野菜から得られる高揚感から『こういう料理をしたい』と思い浮かびました。神山に来て、フードハブ・プロジェクトの農業チームがつくる野菜に、イタリアの感覚をもう一度思い出させてもらえました。
神山は里芋がすごくおいしいんです。地元のおじさんたちによると「里芋は土地に合うけど、ジャガイモはあまりおいしくない」って。なので、シェフ・イン・レジデンスとして開いた晩餐会では、じゃがいもではなく里芋でニョッキをつくりました。
神山の「かま屋」のように、まちのなかに面白い人が集まってくる一軒のお店やプロジェクトがあれば、私みたいな旅人を受け入れてくれる空気が広がっていく。そういう感じがステキだなと思います。長野のルヴァンさん、私が毎年演奏をしにいく『空想の森映画祭』を開催している北海道・新得町にある共働学舎……こういう場所やお店をもっとこれから知りたいなと思います。
この1ヶ月間、神山の自然のなかで料理をして、野菜を通して季節が感じられたことがすごく良かったと思います。スタッフ一人ひとりと話して知り合い、関係性をつくる時間も持てたので、これからもつながっていけそうです。
春や夏に来たらどういうことができるだろうと考えるとワクワクしますね。夏は、食育係の人と相談をして小学校でパスタづくりの授業をするかもしれません」。
「自分のお店を開かないのですか?」と聞くと、「昔、カフェのような人になりたいって言ってたんです」と川本さん。「カフェのような人ってどんな人ですか」と聞きなおすと、「その人があるがままでいられるってことなのかな」と答え、少し考えてからまた言葉を継ぎました。
「自分に対してもなんですけど『YES』って言ってあげたい。そういう空間をつくりたいなといつも思っています」。
人も土地も、料理も、音楽も——自然のままに、あるがままにつくられているものが、やっぱり一番「本当のもの」なのだと思います。「本当のもの」は誇ることができるし、人に勇気を与えることもできる。神山町で始まったばかりのフードハブ・プロジェクトも、いつかこのまちの誇りになっていくのだろうな。
また、偶然にも神山のどこかで、川本さんに会えたらいいなと思います。
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杉本恭子
すぎもと・きょうこ/ライター。大阪府出身、東京経由、
京都在住。お坊さん、職人さん、研究者など。 人の話をありのままに聴くことから、 そこにあるテーマを深めるインタビューに取り組む。 本連載は神山つなぐ公社にご相談をいただいてスタート。 神山でのパートナー、フォトグラファー・ 生津勝隆さんとの合い言葉は「行き当たりバッチリ」。
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