ある視点

何が起きるかわからないけど、この場にいる人に委ねてみたい。

ここ徳島県・神山町は、
多様な人がすまい・訪ねる、山あいの美しいまち。

この町に移り住んできた、
還ってきた女性たちの目に、
日々の仕事や暮らしを通じて映っているものは?

彼女たちが出会う、人・景色・言葉を辿りながら、
冒険と日常のはじまりを、かみやまの娘たちと一緒に。

写真・生津勝隆
文・杉本恭子
イラスト・山口洋佑

vol.42 何が起きるかわからないけど、この場にいる人に委ねてみたい。

高田友美さん(「神山つなぐ公社」すまいづくり担当)

2016年秋にスタートした連載「かみやまの娘たち」も残すところあと3回。繰り返しインタビューしてきた、「神山つなぐ公社」の立ち上げメンバーの3人と、それぞれの5年間を振り返りながら閉じていきたいと思います。まずは、9月の終わりに5回目のインタビューをした高田友美さんから。

早朝6時半、神山町に新しくつくられた「大埜地の集合住宅」*につくと、あかるい日差しにたくましく伸びた木や草の緑がきらきら光っていて。先に着いていた高田さんが、「やっほー!」と元気に手を振ってくれました。

5年前、ここにはまだ神山中学校の寮「青雲寮」の建物がありました。青雲寮が取り壊された後、敷地内で再利用するためのガラが山になり、住宅が建ちはじめて。わたしは、来るたびに育ちゆく大埜地の風景を、変化するこのまちの姿に重ねていたように思います。

高田さんと鮎喰川のほとりに腰掛けて、前回のインタビューのあとに起きたこと、そしてこの5年間の変化について、ゆっくり聞かせていただきました。

*「大埜地の集合住宅」は、入居者が暮らす「大埜地住宅」と鮎喰川沿いの広場と文化施設からなる「鮎喰川コモン」で構成されています。以下、「大埜地の集合住宅」全体を指すときは「集合住宅」、住宅部分は「大埜地住宅」と表記します。

(2019年11月撮影)

入居者とともに育ちゆく、
大埜地の集合住宅

ーー前回のインタビューは、2019年5月。大埜地住宅には、第1期工事で竣工した「家族・夫婦棟」に4世帯が住みはじめてまだ間もなくて。入居した人たちの様子や、第3期の入居者募集に向けた取り組みについて話してもらいました。

高田:そっか、まだ第2期の入居者が住みはじめる前だったんだ。うわ、すっごい昔!あれが1年3カ月前なんだ、すごい進化だねえ。大埜地住宅には、すでに51人が暮らしていて、半分くらい(22人*)が子どもたち。しかも、そのうち3人は今年生まれた赤ちゃんなの。ちょっとしたベビーブームって感じだなぁ。
*2020年9月時点

最近は小学生の男の子が増えて、お兄ちゃんたちに連れられた小さい子どもたちが遊んでいる姿が見えるようになってきて。大人が遠巻きに見守るなか、子どもだけでウワーッて遊んでいるのね。「大埜地の集合住宅」を計画したときに「こうなればいいな」とイメージしていたことが、本当に実現しているなと思います。

ーー入居者の人たちは、少しずつコミュニティになってきている?

高田:毎月、入居者ミーティングをしているんだけど、最初は場所がなかったから、町内の公民館や農村環境改善センターにわざわざ集まっていて。でも、第2期に単身者3人で暮らすシェア棟ができたから、そこの広いリビングダイニングで車座になってミーティングさせてもらうようになったんです。

同じ敷地内なら歩いて来られるし、子どもたちも参加しやすくなってすごくよかったなあと思っていて。みんなの顔を見ながら気楽に話せる雰囲気があったし、最後のほうに雑談的にふっと出てくる「最近こんなことが気になってるけど、みんなどう?」とか、「これがやりたかったんだ」みたいな発言がぽろぽろこぼれてくる時間を大事にしていて。

第3期の入居で人が増えたから、今はまた外の場所を借りて机と椅子に座って「進行役と参加者の皆さん」って感じになっているんだけど。「鮎喰川コモン」ができたらまた敷地内でミーティングができるし、違う座り方もできるだろうなと楽しみです。

大埜地の集合住宅の敷地内、鮎喰川に面して建てられた「鮎喰川コモン」。子育て、子どもたちの放課後、読書を軸に、多様な人のかかわりが生まれることが期待されている。

運用がはじまった鮎喰川コモン。訪れる人たちがみな「この場にいることが心地よい」と口を揃える。日が暮れるとコモンのあたたかな光にホッとする(写真提供:西村佳哲さん)。

子どもたちにも人気で、すでに放課後の待ち合わせスポットに。日々のなかで開かれる小さな企画にゆるやかに人が集ってくる(写真提供:高田友美さん)

そうそう。今年の5月くらいのミーティングで「大埜地住宅のために必要な係をつくりませんか?」と提案したら、緑の手入れをする係とイベント係ができたんですよ。あとね、入居者さん側の申し出で、毎回手を上げた人が議事進行をしてくれるようになって。ちょっとずつ、ここに暮らしている人たちが自分たちで何かしようとする動きがはじまっているなぁと思います。

あ、そろそろ通学時間だね。7時半くらいになるとみんなで集団登校していくんだよ。この時間帯によく草取りに来ていて。夏休みの終わり、6時半くらいにみんながわらわらと家から出てきて「今週は、毎朝ラジオ体操をやるんです」って言っててね。じゃあ、一緒にやっていこうかなーって、勢いあまって私も一緒にラジオ体操しちゃってたんだよね。

みんなの「こうなるといいな」を
集めて動き出す「鮎喰川コモン」

ーーそして、11月にはついに「鮎喰川コモン」がオープンしますね。運営スタッフも決まったと聞きました。

高田:そうそう。「鮎喰川コモン」のスタッフには、本当にいろんな個性のある人が集まっていて。地元の出身でUターンしてきて仕事を探していたという女性2人の存在も頼もしいし、移住してきたばかりで、「自分の活動をはじめる前にまちのことを知りたい」と参加してくれた人や移住して長く暮らしている男性もいる。

「大埜地住宅」に住んでいるお母さんもひとり、スタッフになってくれてね。そこのお宅はお子さんが3人いるのもあるけれど、気がつくと子どもたちが集まる家になっていて。いい感じの人だなあと思っていたんだよね。

ーー入居者さんが暮らしはじめたことで、「鮎喰川コモン」を利用する側の人の顔も見えてきて、少しずつ運営イメージが具体的になってきたのでは?

高田:そうなの。全員には聞けていないけど「鮎喰川コモン」でやってみたいことがある人がけっこういるみたい。お子さんの手が離れたお母さんは、「鮎喰川コモンでなら、他の入居者のお子さんを見てあげられそう」と言ってくれて、うれしかったな。

本人たちに、聞いてみないとわかんないことがあるなあと思う。もちろん、私が知らないだけで不満もいろいろあるだろうけど。みんなの「こうなるといいな」みたいなものが集まって、ちょっとずつ動いていく。誰かが動いているのを見て、自分も動きたくなるんだと思います。

ーー誰かの思いや行動が、熱として伝わっていくみたいに。

高田:うん。自分の楽しいことが誰かの楽しいことになって、誰かのやってみたいことを手伝いたくなって、ぐるぐる回っている感じになればいいな。

「どん底」に入ったこともあったけど、
今は
「これでよかった」と進んでいきたい

ーー3年くらい前は、高田さんは「鮎喰川コモン」の担当でいろんな準備を進めようとしていて。その後、「大埜地の集合住宅」の工期が変更されて、「鮎喰川コモン」のオープンが2年遅れるという経緯がありました。

高田:あのとき「鮎喰川コモン」ができていたら、どういう状況だったのかな?というのは思いつつ。でも、なんだろう? 「もし、こうだったら?」は、もうわかんないなぁと思っていて。結果的に、入居がはじまって2年経ってしまってからのオープンだからこそ、入居者さんやまちの人たちとの関わりもつくれたし、今だからこそできることもあるなと思います。設計も、2階建てから平屋建てに変更になった分、目が行き届きやすくもなったと思う。

ーー工期の延長や設計変更も大変な決断だっただろうなと思います。

高田:うん、みんなにとって大変だったけど、今は「これでよかった」という方に全力で進んで行きたいと思っているし、そうなっているかなと思う。「鮎喰川コモン」のオープンを2年延期すると決まったときは、私はいったんどん底に入ったけど。

ーーそうだったね。インタビューでも、その気持ちを聞かせていただきました。

高田:もう、何をしていいかわかんなくなって。本当にスランプというか。いや私、よくあそこから戻ってきたなあと思う。あの頃、行き詰まってしまったのは、周りの人たちが、良かれと思って「もっとこうしたらいいんじゃない?」と言ってくれることの一つひとつに頭を持って行かれていたからだと思う。

本当は、自分が「こんなことやっていたらいいかな」と思いかけていたかもしれない、まだまだ地中に埋まっている感じのものが見えなくなる。土が大きくかぶさっちゃう感じがあって余計に動けなくなっちゃって、結局「鮎喰川コモン」の企画開発の担当を手放すことになってしまった。

今は、誰かに意見を聞くタイミングや受け止め方も、自分で調整できるようになってきたからか、のびのびさせてもらっています。入居者の人たちとも少しずつ話を交わす機会が増えていて、何が起きるかわからないけど、この人たちに任せてみようと思えるようになった。

ーー誰の声に耳を傾けて進んでいけばいいのか、高田さんのなかではっきりしたということかな。「鮎喰川コモン」についても、自分で何もかも決めるのではなく「この人たち、この場に任せてみよう」というのがあるのかな?

高田:それも、入居者さんたちとのミーティングを重ねてきているからというのもあるのかもしれない。

私の「専門」はわからなくても、
気になることを追いかけたい

ーーなんだか今の高田さんはさわやかだなぁと思います。今までずっと「神山に来るまでの経験や専門をあまり活かせてないな」って言っていたけれど、そのあたりについてはどう思っていますか?

高田:そうそう。私はなんの専門なんだろうなって日々思いながら、結局わかんなくて。新卒からずっと住まいづくりには関わっているけど、設計のことは中途半端にしかわからないし。コミュニティビルディングの専門家かというと、そればかりしているわけでもない。「私はなんだろうね?」と思いながらも、この分野のことがすごく気になる。気がついたら、神山つなぐ公社でもすまいづくり担当になっているし。

ーー「私は住まいづくりが気になる人なのね」という風に諦めがついた?

高田:あー、確かに住まいづくりは気になるね。ただ、「住まいづくりのなかで、どの部分が気になるのかな?」っていう問いは相変わらずあるんだけど。でもなんか、住まいづくり自体をやりたいというよりは、人が住む場所を選ぶときの「こうなったらいいのにな」という思いをかたちにするお手伝いができたらいいと思っているのかな。

だから、「大埜地の集合住宅」に「鮎喰川コモン」があることにワクワクしたし。移り住むことを検討する人たちのための「すみはじめ住宅」も、住みながらいろんな可能性を探していってもらうのが面白いなと思っています。


あと、たぶん必要とされていないんだけど、「雑草好き」をもっとちゃんと極めてみようかなと思い、仕事以外でもここ数カ月いろいろ試みていて。こういうまちで暮らしていると、草はあちこちに生い茂っているからね。今ここから、どれだけやるかもわかんないけど。

ーー草には飽きないものがある?

高田:メインの仕事にしちゃうとしんどいのかもしれないけど。いわゆる種苗ではなく、雑草管理という分野もたぶん世の中にはあるんです。友だちには、「日本雑草学会にやっていることを論文に書いて投稿したらどうですか?」って言われて。草を極めるのもいいかなと思ったりはしました。

たとえば「まちの雑草部」とかできるんじゃないかと思って。雑草は管理しないといけないものだと思うとすごく大変だけど、草取りをしながら七十二候に合わせて写真を撮ったり、名前を調べたりしていると面白いのね。ひたすら野草を食したり、雑草だけで生け花をしたり、遊びがいはいろいろあるなと思います。

友廣裕一さん(一般社団法人つむぎや)たちが主催した連続オンライン講座「地域とつながる仕事」に参加したときに、高田さんがマイプロジェクトの一環として作成した「雑草を楽しむ四十八手」の図。たしかに雑草でかなり遊べそう!

高田さんはこの5年間で、
どんな風に変化したの?

ーー神山に移り住んで5年目になりましたが、まちの変化をどう見ていますか?

高田:まち全体の動きは、この5年間でますます加速したり、さらに面白い人が増えたりしていると思う。特に、神山に戻ってきて「まちに関わりたい」と言ってくれる地元の人の顔が見えてきたのは大きいなとは思うかな。

なんだろう?よく、メディアで言われる「神山はすごい」みたいな意味じゃなくて、スーパーヒーローばかりがいるわけではないすごさ、というか面白さ、味わい深さ……だめだ、言葉がわからないけど。普通に暮らしている人たちの、一人ひとりの思いの組み合わせが今の状況をつくっていると思うんだよね。

ーーわたし自身、4年あまり神山に通い続けるなかで、みんなから影響を受けてきたし、それによって自分が暮らす京都の見方も変わってきたなと思います。高田さんは、自分自身に変化を感じるところはありますか?

高田:なんだろうなぁ、なんだろうなぁ? ないわけないよね……。今、振り返ってみて、こんなに役場の近くで仕事をしたのは人生ではじめてだなと思ったんだけど、私の変化じゃないな。えっと、わかんないなぁ。生津さん(カメラマン)に聞いてみようかな。セカンドオピニオンで……。

ーー今はわからないなら、無理に言葉にしなくていいよ。

高田:またひらめくかな? あまり考えたことなかったな、自分の変化について。私のなかでは、「鮎喰川コモン」にまつわるスランプからやっと抜け出した今だなと思っていて。これからも、また沈むことはあると思うけど、停滞するときは停滞してもいいんじゃないかなと思っています。自分なりの浮上のしかたもちょっとわかってきたしね。

このインタビューから2カ月後、神山を訪れたときに「『かみやまの娘たち』で5回もインタビューを受けてどうだった?」と高田さんに聞いてみました。

「インタビューをされるというよりは、杉本さんに話を聞いてもらうという感じだったかな。けっこう毎回無防備だったし、あまり記事としてアウトプットされることを意識していなかった気がする。そのとき聞かれて出てきたものを、うまく形にできなくても渡してみるという感じだったかな。スランプだったときなんてふつうは話したくないんだけど……。あのとき聞いてもらって、思い切って記事として外に出してみたのは良かったかなと思っています」

そう言ってもらえて、私の側にはほっとした気持ちがありました。

高田さんは、その言葉の通りとても無防備な状態で、私にいろんな話をしてくれました。「インタビューでうまく話せないかもしれないから」と、前日にごはんを食べながら高田さんの気持ちの棚卸しをしたり。インタビュー以外の時間も含めて、一番多く声を聞いた人だったと思います。

「なんだろうなあ?」「〜が気になるんだよね」

こうして書いていると、今も高田さんの口ぐせが耳の奥から聞こえる気がする。これからも、「気になる」を見つけて歩く道すがら、誰かに会ったら「やっほー!」と呼びかけてちょっと早口でおしゃべりをして、またピンと姿勢を正して歩いていくんだろうな。ともちゃんありがとう。そう遠くない日にまた会いましょう。



高田さんのこれまで

▼第5回目(2017.02.15)
ここなら、経験してきたことをすべて生かせると思えた。


▼第11回目(2017.09.08)
私の仕事は、コミュニティに命を吹き込むこと。


▼第21回目(2018.10.12)
切り拓く人たちのなかで立ち止まる。


▼第30回目(2019.10.07)
神山の人たちの“地元愛”をつなげたい。

かみやまの娘たち
杉本恭子

すぎもと・きょうこ/ライター。大阪府出身、東京経由、京都在住。お坊さん、職人さん、研究者など。人の話をありのままに聴くことから、そこにあるテーマを深めるインタビューに取り組む。本連載は神山つなぐ公社にご相談をいただいてスタート。神山でのパートナー、フォトグラファー・生津勝隆さんとの合い言葉は「行き当たりバッチリ」。

(更新日:2020.12.22)

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